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第七章のタイトルは「新技術にふりまわされない - 促進剤としての技術」。この章では、「技術は、飛躍した企業において、飛躍の原動力として本質的な役割は果たしていない」ということ、しかし「飛躍を促進する効果がある」ということを主張している。

まず飛躍した企業が、技術的な面において、むしろ他社よりも優れているということを示唆している。そして飛躍した企業の中核となった技術を一覧表にしている。241P。

しかし、その技術は飛躍の原動力としては本質的な役割は果たしていないと言う。それはどうして確認できるのか。本書は、最初に述べたように、調査対象の飛躍した企業を株価の推移によって選んでいる。つまりある時期までは平凡か水準以下の企業であったものが、その時期以降、大幅に平均を上回る実績を上げた企業を取り上げている。そして飛躍が始まった時期が、問題となった技術の開発・採用時期よりも先行している。これが一つ。

もう一つは、経営者に対するインタビュー。「まったく意外なことに、われわれが偉大な企業への飛躍を導いた経営幹部を対象に行ったインタビューでは、全体の八十パーセントは、飛躍をもたらした上位五つの要因の中に技術を上げていない。さらに、技術を上げた場合にも、順位の中央地は第四位にすぎなかった」。

上記のとおりだが、しかし「促進剤として役割」については明確に述べられていないように感じる。だがこれは措いておく。

「本質的な役割を果たしていない」ということについては、私は賛成しているのだが、根拠の二番目、経営者が、どのようなスタンスで経営をしていたかということは、きわめて重要だが、「経営者が技術を重視していたか否か」ということと「飛躍の原動力になったか否か」ということは一応別であると指摘しておきたい。

(その実体がじつは、従来の理論や技術の焼き直しであったり、無内容なただの宣伝文句であったり、というありがちなことは措いておいて、)新しい経営理論やコンピュータ技術が登場したときに、それを採用しなければ、いかにも取り残されてしまうというようなことを吹聴する。そしてブームが過ぎ去れば、前に主張したことは、まったく記憶から忘れ去って、何かまた熱中できるような次のテーマを探す。このようなことが一貫して行われてきた。

私が同じ罠にかかっていないのかという確信はない。が、今まで私の文章を読んでこられたら、私がコンピュータの仕事をしていながら、ある意味でコンピュータをあまり信用していないということがお分かりだろう。このような私の性癖自体は正しいかどうかということではないのだが、「新技術に熱狂して、判断を間違える」と言った危険性からは私を救ってきたように思う。

もちろん理論や技術を軽視することも間違いだ。著者の概念を借りるならば、「三つの円」の交わる部分に当該の技術が入っているか否かが重要なのだ。

本書は、各章の先頭に、誰かの言葉を引用している。そして本章は、数学者・哲学者・歴史学者のバートランド・ラッセルの言葉。「ほとんどの人は考えるくらいなら死ぬほうがよいと思っている。そして、死んでいく人が多い」。注釈は付けないでおくが、気にかかる言葉だ。