ナグハマディ写本 グノーシスに達した者

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「あるグノーシス主義者は復活を文字どおりに受け取る見解を『愚者の信仰』であると呼んだ。復活は彼らの主張しているところによると、過去における特異な出来事ではなくて、今日、キリストの存在を経験できることを象徴するものである。大事なことは、文字どおり目で見るということではなく、霊的に見ることである」(49p)。

グノーシス派にとっては、イエスないしキリストの存在は現在的なものであり、自らが、その境地に達すれば、すなわち真理を認識すれば、いつでも誰にでも可能なものである。そこにおいては、使徒であるとか司祭であるとか平信徒であるとかの区別はない。まさにここに「グノーシス(直接的認識)」と自らを名乗る所以がある。

もうお分かりだろうが、グノーシス派では、然るべき境地に達した者は、先輩だとか、後輩だとか、教会における地位がどうであるとかは関係ない。それはイエスといえども同じである。すなわちグノーシスに達した者は、イエスと同じになるのである。そこでペイゲルスは、例の「双子のトマス」の謎解きに挑んでいる。

「『トマス福音書』と『闘技者トマス』の題名は『あなたがた読者が、イエスの双子の兄弟である』ことを暗示しているのかもしれない。これらの文書を理解するようになる人は誰でも、トマスのようにイエスがその人の『双子』、霊的な『もう一つの自己』であることを発見するのである」(60p)。つまり双子のトマスとは、イエスと同じ境地に達したトマスの意味である。

さらに引用を続ける。「バブテスト派やフレンド派や、その他多くの教派のように、グノーシス主義者は、霊を得たものはすべて神と直接対話できると確信していたのである。ヴァレンティノスの教え子の一人、グノーシス派の教師ヘラクレオンは、『初めのうちは、人々は他の人の証言のゆえに信じる』がその後に『真理そのものによって信じるようになる』と述べている」(62p)。

このように人々が自分自身の体験によって自らを深めていくことを、ペイゲルスは次のように喩えている。「今日の芸術家の集まりと同様、グノーシス主義者は、独創的で創造的な創作力を、精神的に活動するようになるもののしるしとみなした。各人が画家や作家の弟子のように、教わったことを修正したり変形して、自分自身の知覚を表現することが期待されていた。教師の言葉をただ単に反復するものは、誰でも、未熟者とみなされたのである」(61p)。