ナグハマディ写本 本当の神と創造主
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「この世には、悪と思えるものに満ちているが、もし全能の神が世界を創ったならば、悪の全くない世界を創ることもできたはずなのに、何故このようなことをしたのだろうか」というのは、キリスト教にとって難問なのだそうである。この質問に対しては「悪というものは、本質的には存在せず、悪と思えるものは、善の非存在である」と答えるのが、本当なのだそうだ。
グノーシス派は、この問題について、どのように考えたのだろうか。例によってグノーシスは、一枚岩ではないのだが、彼らは、本当の神と創造主を区別するのである。
「彼(創造主)は盲目であり..その力と無知と傲慢のゆえに、彼は言った『神は我なり、我の他に神なし』と。..(省略)..すると一つの声が絶対的力の領域である上界から聞こえてきた。『サマエルよお前は間違っている』。サマエルとは「盲目の神の意味」である」(75p)。
また、この創造主は「妬む神」でもある。「新約聖書の赦しと愛の神」と「旧約聖書の厳しく罰する神」の対照は、よく知られている。この旧約の神をナグハマディ文書の「真理の証言」は、次のように評している。アダムがリンゴのみを食べた後のこと。「『見よ、アダムは我々の一人のようになり、善悪を知るものとなった』。それから神は言った。『彼が命の木からとって食べ、永久に生きることがないように楽園から彼を追放しよう』。しかし、この神はいったい如何なる者であろうか。まず彼は、アダムが知識の木から食べるのを妬んだ。確かに彼は、自ら悪意のある妬む人であることを示したのである」(77p)。
グノーシス派は「正統派は、神を代理しているのではなく、実際には造物主を代理しているのである」との論理を用いている。グノーシスの一派、マルキオン派は、明示的に「創造主の他にもう一人の神が存在する」と言ったが、グノーシスの最大派閥ヴァレンティノス派は、この考えを一部の「深み」に達した者だけのものとした。
「この秘密の伝承が啓示することは、大多数のキリスト教徒がナイーヴに創造主、神、父として礼拝する対象が、実際には真の神のイメージにすぎないということである」(86p)。これが故に、正統派のエイレナイオスは、一般の信者がヴァレンティノス派と正統派を区別できないといって嘆いている。
そして、この論争はペイゲルスも指摘するように、単に教義上の問題ではなかった。「あなたは神を代表していると主張していますが、実際にはデーミウールゴス(創造主)だけを代表しているのでありまして、あなたはそれに盲目的に使え、服従しているのです。しかし私は、彼の権威の領域を越えている。こうしてその点では、あなたの領域を越えているのであります」(88p)。この文章が政治的であることは、容易に見て取れるだろう。
グノーシス派は、このように(正統派の)教会と位階性を批判するのだが、すると彼らは、どのように集会を組織するのだろうかとペイゲルスは提示している。「エイレナイオスが語るところによれば、彼らが会合するときは、すべてのメンバーはまずくじ引きに参加したという。明らかにあるくじを引いたものは、司祭の役を演ずるように指名され、他のものは司教として聖礼典を執行するように指名され、他のものは、礼拝のために聖書を朗読し」(93p)。エイレナイオスは正統派なので、この文は批判的な文脈で語られている。