ナグハマディ写本 イエスの復活
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今回はイエスの復活について。「イエス・キリストは墓から蘇った。この宣言とともにキリスト教会は始まった。この宣言はキリスト教信仰の根底を成す要素と言えよう。..(省略)..他の宗教は生と死の循環を謳いあげる。ところがキリスト教は、歴史上のある特定の瞬間に、この生と死の循環が逆行し、死者が生き返ったと主張する!」(39p)。
しかも、このイエスは、幽霊などと異なり、触ることができたり、食べたりするのである。「触ってみなさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、私にはあるのだ」(ルカ福音書)。その後イエスは焼き魚を食べた。
このような主張は、言われてみれば確かに特異である。チベットやハイチでは、死者を生き返られる呪術が存在すると聞くが、(これら話を信用するにしても、)これらは死体を動き回らせる技術であって、死者が生前の意識を伴って復活するわけではない。世界中で最も信者の多い、影響力のある宗教が、このような途方もない主張を掲げているとは、改めて驚かされる。
一方グノーシス派は、イエスの復活をどのように見ているのか。「グノーシスキリスト教徒は、復活をさまざまに解釈している。ある人々によれば、復活の体験者は肉体を持って生き返ったイエスに会ったのではなくて、霊的次元でのキリストに会ったのだという」(41p)。「さまざまに解釈している」としているので、グノーシス派でも復活を文字どおりに受け取った人々が存在することを示唆しているけれども、明確には書いていない。このような「霊的次元での復活」の方が、ある意味では常識的であると言える。
ペイゲルスは新約聖書にも復活を文字どおりに解釈する必要はないような個所があることを指摘した上で、正統派は「なぜ復活を文字どおりに解釈すべきだと主張し、他のすべてを異端として退けたのであろうか」(43p)と問題を設定している。
さらに続けて「この教義を宗教的内容から見る限り、われわれはこの疑問に的確に答えることができない。しかし、これが実際にキリスト教運動にどのような影響を与えたかを検証してみると、我々は逆説的に、身体の復活の教疑義が重要な政治的機能も担っていたことが分かるのである。すなわちこの教義は、使徒ペテロの後継者として諸教会の指導権を自分たちだけで行使することを主張した若干の人々の権威を合法化することになったのである」(43p)と言っている。(しかしマルコとヨハネ福音書では、イエスの復活を最初に見たのはマグダラのマリアである)。
この文章だけではちょっと分かり難いが、イエスの肉体の復活に立ち会ったということが、権威の正当性の裏付けとなったということだ。しかも肉体の復活を目撃するというのは、以後の歴史において再現されるはずもないので、この機構は永久に有効となる。ペイゲルスは「その独創力に敬服するばかりである」(48p)としている。