ミゲール・デ・セルバンテス(1547-1616)、ドン・キホーテの作者。百科事典なども調べたが、子供の頃の経歴ははっきりせず、最大公約数的な記述は、貧しい外科医の息子で、各地を転々とし、正規の教育はほとんど受けなかったとみられるというもの。22才の時イタリアに渡って兵士となった。と言ってもイタリアの兵士になったわけではなく、当時ナポリなどはスペインの領土。

そして1571年、あのレパントの海戦に参加、左腕を負傷して、その自由を失った。1575年に退役し、帰国途中にバルバリア海賊に捕らえられアルジェに拘束された。レパントの海戦はトルコの没落を決定付けたことになっているのだが、それでもまだ(トルコを後ろ盾にしていたと言われる)バルバリア海賊は活躍していたわけだ。

バルバリア海賊の一つの特徴は、船員や乗客を捕虜とし、身代金をせしめたり、奴隷として売り飛ばしたりすることだ。セルバンテスはドン・ジョンというオランダの総督の推薦状をもっていたせいで、多額の身代金がかけられた。

最初はギリシャ人背教徒のもとで鎖に繋がれていたが、50人の捕虜を指揮して脱走し、数ヶ月間洞窟に隠れていた。しかし迎えの船がちょうど到着した時、発見され計画は挫折。拷問を受けたが、すべての責任を自分で負い、共謀者を巻き添えにしなかったと言う。

この件で彼は当地の総督ハッサンに買い取られた。ここでも彼は何度も脱走を試み、しかしいずれも失敗した。彼はなかなかくじけない人間だったようだ。後に生まれるドン・キホーテは彼の遺伝子を受け継いだに違いない。

そしてハッサンの次の任地コンスタンチノープルに送られようとした時、身代金が支払われ釈放された。この間五年間。

なお当時スペインでは海賊に捕らわれた人々の身代金のために、教会などが一般の人々から寄付を募っていたと言う。セルバンテスの身代金は、このようにして集められた。

帰国してからは、文筆活動はしたようだが成功せず、まずは無敵艦隊の食糧徴発人となった。しかし1588年、無敵艦隊がイギリスに大敗北にしたことにより、この職を失った。

次には税金徴収吏など小役人として勤務した。この間、個人的なあるいは職業上のいざこざから何度か投獄もされている。また 1605年には、自分の家の前で起こった彼には何の関係もない殺傷事件で逮捕もされている。生活も苦しかったようだ。

彼は文学的才能もあり、また立派な人間でもあったようだが、どうもあまり運は良くなかったようだ。そしてドン・キホーテで成功をおさめるのは1604年。ずいぶんと年を取ってからだ。

「年配の田舎紳士である主人公は、騎士道物語を読みふけったあまり、正気を失って、....自分も遍歴の騎士となって諸国を旅してまわり、本で読んだことを現実の生で体験してみようと決意する」。ドン・キホーテの物語は、没落していく母国スペインと自分自身の高揚と挫折を描いたものだとのこと。


なお、ドン・キホーテ(前編)は1604年の出版直後から評判を取ったが、1615年の後編出版の前年、ドン・キホーテ後編の贋作が現れた。贋作とはいいながら、なかなかの出来栄えであったようで、これにはセルバンテスもかなり悩まされたようだ。この事件については、「贋作ドン・キホーテ」(中公新書)に詳しい。