「日本の幽霊」(岩波新書、諏訪春雄)を読んだ。こちらは幽霊についての「学問的な研究」だ。序文には「最近の他界や異界に対する関心の高まりを上すべりに終わらせないため、日本人の精神生活の上に大きな位置を占めてきた幽霊の研究は真剣に取り組まなければならない課題である」。さすがに岩波だ。格調が高い。このような真面目さが日本の文化を支えているのである。感謝。
本書では幽霊と妖怪を明確に区別している。これも序文だが「幽霊は人が人の形状をそなえて出現するものであり、死者のおもむく他界に居住し、祖霊信仰が生み出したという三点で妖怪とは区別される。妖怪は人以外のものが人以外の形状で出現し、異界に所属し、自然神への信仰の産物であるからである」。
本書は中世から近世・近代にかけての幽霊史といったところ。また中国の幽霊との関係についても記述しているが、ちょっと面白いところだけを取り上げる。
「お化け(妖怪)は出現する場所が決まっているのに対し、幽霊はどこにでも現れる。お化けは相手を選ばず誰にでも現れるのに対し、幽霊の現れる相手は決まっていた」(16p)。当然ながら例外は多い。
「妖怪は信仰性を失って人間に悪意を持つようになったカミである」(21p)。つまり妖怪とはアニミズムの変形である。
「幽霊には足がないだけではなく、腰から下もなかった(太平百物語)。しかし出現する時に下駄の足音をさせる亡霊もいる(怪談牡丹灯篭)。幽霊は人間の魂にかたちの与えられたものであるから刃も空を切るものと思われるが、切られて赤い血を流す幽霊もいる(伽卑子)。亡霊にも嗅覚があり、生臭物ことに魚の臭いを嫌った(雨月物語)。亡霊も喉が渇いて水を求める(諸国百物語)」(184p)。切られて血を流す幽霊とは..。
「幽霊も趣味の持ち主がいて、笛を吹いたり(諸国百物語)、相撲を取ったり(諸国百物語)、また腰元と生前に遊んだ双六を打つために現れる奥方の亡霊(諸国百物語)もいる」(186p)。
「幽霊には信じやすい性格のものが多く、そのために、死ぬ瞬間につかれた嘘を亡霊となっても見破ることができず(水木辰之助餞振舞)、現世の人の方便の言葉も容易に信じる(桑名屋徳蔵入船物語)。気丈な人間の前からはすぐに姿を消すが、気の弱い人間に対しては執念深くつきまとう(好色芝紀島物語)」 (187p)。
「死ぬ瞬間の執念がそのまま死後の幽霊の最大の関心事とるため、その執念を晴らすと幽霊は成仏する」(187p)。これはまさに幽霊の定義だと思う。