あらためて振り返ってみると、我々は直接目には見えないものや、直接確認できないものを、ずいぶんと信じていることが分かる。思いつくままに例を挙げていく。空気、電波、原子。行ったことのない外国、歴史上の人物、政治家の公約。神、真理、無意識などなど。

この中から無意識を取り上げてみる。「無意識」と言う言葉は、日常会話でも使用され、現代人のほとんどが、その存在を信じているものと思われる。

現代人の中で神の存在を本当に信じている人は、かなり少ないと思われるのだが、それに比べて無意識の存在をほとんどの人が受け入れていると言うのは、考えてみれば奇異に感じる。このような差異が何故生まれるかについては、理解できないでもないが、今回の話題ではない。

「無意識を見た」人は誰もいないはずだが、何故見たこともないものを考え出したかと言うと、私が言うまでもないのだが、無意識と言うものを仮定すると、いろいろなことをよく説明できるからだ。

我々の日常の行動や考え方、止められない癖、よく見る嫌な夢、精神的な病にかかった人の行動や考え方、ある種の芸術作品、犯罪、恋愛心理、夫婦喧嘩、....。

無意識と言う概念が科学に受け入れられたのは、考えてみれば奇妙なことであり、無意識にとっては好運なことだった。何故受け入れられたのかと言うと、無意識と言う概念が掴みどころがないがゆえに、訳の分からないものを「無意識のせい」にしてしまうことができる便利さがあるかもしれない。

ここで再度確認しておきたいのは、無意識の存在意義は、その存在を仮定すると、いろいろなものがよく説明できると言う実際的な事情にあるということだ。

無意識から、もう少し話を一般化する。科学に対して、どのような立場を取ろうとも、我々が外界を認識するのは、我々の感覚器官や測定装置によらなければならないことは、認めざるを得ない。これはいかなる場合でも事実である。

通常に言う唯物論では、上記のようにして得られた感覚や測定データとは独立して、その奥に物理的な実体を想定している。しかしその物理的な実体と言うものは、直接的には絶対に知覚できないものだ。直接知覚できるのは、繰り返して言うが、感覚や測定データである。

絶対に知覚できないものを想定する唯物論は、この意味で神秘主義・観念論である。(いやいや、彼らに厭味を言うために、この文章を書いているわけではない)。この唯物論の立場は、ごく普通の大多数の人々の考えでもあるが、しかし、このように考えない立場もある。だが今は、それらを並べて優劣を比較するのが目的ではない。

このようなことを念頭において、科学の理論ということを考えると、(奥にある実体ではなく)感覚や測定データの間の関係を記述するのが科学であるということになる。

もちろん、すべての現象を羅列的に説明するわけにはいかないので、何らかの説明原理のようなものを考えて、それでいろいろなことを説明しようとする。これが科学の原理や法則である。この原理や法則は、発展していくこと、すなわち絶対不変ではないことは当然である。

そして現象を説明できる限りにおいては、一つの現象に対して、複数の原理や法則が存在しても良い。どの原理・法則も、同等の資格、存在理由があることになる。(説明がエレガントであるか否かは問題にしないことにする)。

目に見える現象、あるいは測定装置で示された現象をA理論でも、B理論でも説明できた場合、どちらも正しいのである。例えばの話、天体の運動というものが、地動説でも天動説でも説明できたとすると、どちらも正しいのである。(実際には天動説は破綻したが)。

無意識の話でもお分かりのように、科学の原理・法則というのは、無意識と同じように、その存在を仮定すると、いろいろなものが上手に説明できるということで存在理由があるのであって、上記の唯物論的な意味での実体として存在しているわけではない。