これは西欧中世でのいわゆる普遍論争と言われるもの。歴史的経緯があって、すこしブレがあるみたいなのだが、簡単に解説すると、「概念は事物に対して先在するのか否か」という問題である。


実在論

事物に先行して、概念が存在する。

多くの人間がいるが、それはどこかに人間という概念がある。その概念があるからこそ、個々の人間が存在すると考える。どこに存在するか、それは形而上のどこかの場所、神の頭の中とかそういうところである。

実在論の考えは、普通の現代人にとっては、まったく受け入れがたいものだが、ソフトウェアの世界では、オブジェクト指向というものが流行っていて、「クラスを元にオブジェクトを生成する」ということが行われる。実在論の「先在する概念」は、クラスに相当すると思えば理解できる。


唯名論

この名称は、ちょっと分かりにくいが、「名前はただそれだけのもの、単に名前である」というような意味合いだろう。

こちらは、「先行する概念などは存在せず、個々の事物のみが存在する」という考え方。


実在論では、「どの単位で、元になる概念があるのか?」ということが問題だろう。人間という概念があるのか?アジア人という概念があるのか?あるいは...。

唯名論では、例えば「個々の人間は確かにバラバラに存在しているが、人間としての統一性は、どのように確保されているのか?」ということが問題となるが、普通の解釈では、遺伝子によって、その統一性が確保されていると考えてよい。


現代人の常識では、唯名論である。実在論は現代からみれば突飛な考えではあるが、そもそも中世は思考の構造が異なる。


参考
これは自然科学において、「客観的な自然は存在するのか」という問題と似ている。簡単に言えば、我々が自然を認識するのは、感覚器官や測定装置からである。それ以外の方法では認識することができない。

ここにおいて「客観的な自然と言うものは存在せず、得られたデータのみが存在する」ということもできる。

これも突飛な考え方であるが、これに論理的に反論することは不可能である。注、この論理が正しいことを証明するのも不可能である。

「客観的な自然が存在する」というのが実在論に似ており、「データのみが存在する」というのが唯名論に似ているとも言える。