ヘーゲルと神秘主義とはほとんどありえそうもないような取り合わせだが、まあ聞いていただきたい。私の学生時代の知人の一人は、高校の時は水泳部にいて、とても頑丈そうな体と四角い顔つきをしてはいたが、神経はなかなか繊細で、喫茶店で一日中ヘーゲルを読んでいるというような人物でもあった。

「現代哲学の祖」と言われるヘーゲルについて、私は正面から論じる能力と意図はない。同時代のゲーテは、その全貌を掴むことは、凡人には及ばないけれども、しかしたとえ一部分だけを取りだしてみても、本人のレベルに応じて、十分に味わうことができる。しかしヘーゲルに安易に噛みつこうとすると、歯が折れてしまいそうな気がする。ヘーゲルはゲーテに手紙を出したそうだけれども、ゲーテはどうも彼を敬遠していたようである。しかしゲーテは「あの若いドクターは難しい哲学の話ばかりする」(「孤独の研究」(PHP研究所)59p)と、からかったりしているが、ショーペンハウアーとは仲が良かったようだ。

まずヘーゲルの思想で注目されるのは、物事を全体的に捉えるということだ。全体とそれを構成する部分という区分で考えると、部分同士は、それぞれ自立的に別個に動きながらも、相互に関係・影響しあいながら、全体的に見ると、統制の取れた動きをしている。いわば全体が個別の部分に優先する有機体のようなものであるとヘーゲルは考えた。

思想を、「物事を捉えるのに全体を優先するか、部分を優先するか」という観点から見てみると、ごく大まかに見て西洋思想は部分を優先すると言える。東洋思想は全体を優先すると言える。(しかしヨーロッパ中世は、全体から捉えるという思想のように思える)。その意味でヘーゲルは特異に立場にある。

またヘーゲルは、物事というものは必然的に、自らの内的な原動力によって発展・展開するものだと考えた。これもどちらかというと、東洋思想に見られる特徴である。浅学の私が言うのも恥ずかしいが、弁証法の法則というのは、言わば「物事は変化する」という法則のことだ。もちろん弁証法はヘーゲルの専売特許ではないが、ハンバーガーと言えばマクドナルドみたいなもので、弁証法と言えば、やはりヘーゲルである。

弁証法の法則、「否定の否定」、「対立物の相互浸透」、「量から質への転換」というのは、表現は洗練されていないけれども、要約すると物事は必然的に変化するといっているようだ。一方易経は「変化の書」だし、仏教では「諸行無常」と言う。類似性は明らかだろう。やはり東洋思想との類似性がある。

難解なヘーゲルをこのように簡単に書いてしまうと、専門家からはクレームがくるだろうが、それは許していただきたい。このような思想のもとにヘーゲルは、全世界・全歴史を絶対精神の自己展開として捉えた。すべてのものは絶対精神から派生したものであり、絶対精神に回帰していく。その全過程が人類や宇宙の歴史である。

これは言ってみれば途方もない考えであるが、明らかに汎神論的である。逆に、このような発想、すなわち一つの根源的なものがあり、すべてがその根源から展開されるという発想は、神秘主義の中に、むしろよく見られるものである。(関係ないが、宇宙論のビッグバンとも類似性があるような気がする)。

最初に言ったようにヘーゲルに関わるつもりはないのだが、ヘーゲルについて私が興味があるのは、「彼がいかなる理由・過程で、このような思想に到達したのか」ということだ。

今回、このような観点からヘーゲルの解説書をいくつか眺めてみたが、ヒントになるようなものはなかった。誰か教えていただきたい。伝記を読んでみても、そのような神秘的な雰囲気はまったく漂ってこない。(注、伝記では、神秘的・オカルト的な話題を意識的、無意識的に外してしまうという傾向はは強いが....)。「良く言えば朴訥実直であり、悪く言えば鈍重で不器用だった」(「ヘーゲル」(中公新書)10p)。(また同書によれば「恋愛に成功したためしがない」そうだ)。

観念論と唯物論という語法が定着しているが、これは考えてみれば変である。「観念論と実在論」「唯物論と唯心論」が正しい。また唯物論という時、我々が普通にイメージするものは認識論的な唯物論である。すなわち「我々の感覚の奥には、直接的には捉えられないが、物理的な実体がある」という考えを基本的な立脚点とする思想である。

しかしヘーゲルのように世界が絶対精神の自己展開と考えると、人間を含めてすべての事物の本質は絶対精神であり、また絶対精神に回帰する指向性を必然的に内包していると言える。

これは神秘主義者が人間の本質は神であり、すべての人間は意識はしなくとも、またジグザグのコースを歩もうとも、本質的に神への指向性を内包していると主張するのに相当する。(「神」という言葉が嫌いならば、真理だとか善といってもよい)。

要はヘーゲルの観念論では、すべての事物の存在根拠は、上述の意味で絶対精神にある。それに対する唯物論というのは、事物の存在根拠が、(絶対精神のような抽象的、形而上的なものにではなく、)それ自身に存在するという意味である。これは存在論的な意味での唯物論である。