タイトルは、もちろん1543年に出版されたコペルニクスの著書の名前であるが、ご覧になれば分かるように、これでは地動説ではなく天動説。

彼の地動説は、当時すでに知られており、その評判はバチカンにも届いていた。(ノストラダムスも学生時代に彼の地動説のことを知っていたらしい)。

しかし特に異端視されることはなかった。それでも彼は、自分の著書の出版には、あまり気乗りがしなかったようだ。またバチカンの枢機卿より著述を送ってくれるようにとの好意的な手紙にも答えていない。やはり、異端視されるのが恐かったのではないか。

コペルニクスが同書を出版することを決心したのは、新教派の数学者レティクスの勧めによるもの。レティクスは、2,3週間の滞在の予定を2年間に延長し、コペルニクスを説得した上で、自ら出版の準備を精力的に進めた。

しかし1542年10月にいたり、レティクスは未完成のまま残りの作業を、これまた新教派の神学者オジアンダーに押しつけて、コペルニクスのもとを去った。この著作の意義を理解してないオジアンダーは、勝手な序文をつけ、「天球の回転について」とまったく反対の書名で出版した。出来上がった著書は、臨終の床にあったコペルニクスに届けられたが、その本を彼が実際に見たかどうかは分かっていない。

それでレティクスが、突然コペルニクスのもとを立ち去った理由。一つには、宗教改革のルターやメラヒトンという人物に反対された、もう一つにはライプツィヒ大学へ就職が決まっていたため、さらに別の書籍(この書籍は私は信用していない)にはは彼がホモであることが発覚したためとなっている。ただし行った先は、どれもライプツィヒとなっているので、すべてが事実である可能性もある。

コペルニクスは、イタリアに留学して、神学や医学そして天文学を学んだ後、故国ポーランドのワーミア司教領(エルムンド管区)の筆頭行政官となり、一生その職にあった。その業務をこなし、天文観測を行いながら、地動説を検討し、貧しい人に医療を施し、さらに隣国のドイツ騎士団領より侵略を受けた時は、踏みとどまって戦闘を指揮したという。また当時、質の悪い貨幣が流通していたため、その改革も行った。非常に活動的で実際的な人物だったようだ。

最後に有名な言葉「コペルニクス的転回」。この言葉の破滅的な響きは、なかなか魅力的なのだけれども、これはカント。カントは、天動説から地動説のように、まさにコペルニクス的転回に値するものとして、自分の思想を位置づけて、この言葉を作ったのである。