モーツァルトがフリーメーソンによって暗殺されたとの説は有名だ。理由は「魔笛」でフリーメーソンの儀式を暴露しようとしたためという。

デカルト (1596-1650)も暗殺されたとの説があるという。この説を主張しているのは、「デカルト暗殺」(大修館書店,4469212490)。このような題名の本を見つけると、つい嬉しくなってしまうのは、私の本能に由来するものだ。

まずは死亡までの簡単な経緯。

1649年2月27日、スウェーデン女王クリスティーナから招聘状が届いた。これを断ったところ、さらに二通の招聘状が届き、4月初めスウェーデン提督クラスディウス・フレミングが訪れた。女王よりデカルトを同行する命令を受けていたとのこと。提督であるからかなり偉い。同行は断ったものの、遅れて1649年9月1日にストックホルムに旅立った。

ここでデカルトが何故ストックホルム行きを渋ったのが疑問。「なぜデカルトは躊躇したのだろうか。ストックホルム宮殿へ招聘されることは、彼の存在が世界的に認められることばかりではなく、経済的に何の心配もない生活を意味していた」(22p)。時代は科学者が生活するには、まだパトロンを必要していた頃。

なお、女王にデカルトを売り込んだのは、デカルトの知人でストックホルム駐在のフランスの大使シャニュ。デカルトの宿泊先もストックホルムのフランス大使館である。

しかし何度も招聘状を出して呼び寄せたにしては、デカルトは冷遇されたとのこと。その理由としてデカルトが女王の前で失言をしたということを示唆している。女王と取り巻きの文献学者の前で彼らを批判してしまったという。

ただし岩波の「デカルト」では、逆に「女王はたびたびデカルトと語り、政治の方針についてすら腹蔵なく話し合ったという」(52p)と記されている。後者の文は、ありきたりの表現であるという意味で真実味が感じられない。が、本当のところは分からない。

年が明けて1650年2月2日、デカルトは病気になり寝込んでしまった。その時、女王の筆頭侍医は出張中で不在。5日目になって女王のオランダ人侍医、ヨハン・ヴァン・ヴレンが派遣された。しかし治療の甲斐もなく2月11日の朝早く、デカルトは死亡した。

死因は肺炎とのこと。しかし直後に宮廷とストックホルムの町にデカルトが毒殺されたという噂が広がったとのことである。ただ「デカルト」には毒殺の噂のことは一切書いていない。

デカルトは、とりあえずストックホルムに埋葬され、その後フランスに戻り、何度も埋葬され直され、しかも途中で頭骸骨がなくなったり、再発見されたりして話が面白いのだが、それは後のことで、デカルトが毒殺されたのかどうかということとは関係がない。

医師のヴレンはデカルトが死亡した日、オランダに住んでいる知人の医師ヴィレム・ピースにデカルトの病気と死について手紙を送っている。

実はこのピースは、「デカルト暗殺」の著者アイケ・ピースの祖先であって、著者は、この手紙を発見し、その内容に疑問を持ち「デカルトは暗殺された」と主張しているのである。ちなみにドイツではテレビ番組まで制作され、かなりの評判を取ったようだ。

しかしその手紙に「デカルトは暗殺された」と書いてあるわけではない。

簡単に著者の主張をまとめると、肺炎ならば「肺炎で死亡した」と一言書けば済むものを、詳しく病状とその経過を説明する中で、医者同士ならば分かり合えるけれども、素人には単に経過を説明しているとしか思えないような表現で、デカルトが暗殺されたことを示唆していると言うのである。

なぜこのように回りくどい手紙を書いたかというと、この手紙は女王の検閲を受けたから、ということである。

少しばかり著者の解釈に付き合ってみる。

「病気の最初の二日間、デカルトは深い眠りに陥りました。従ってリュウマチにかかったと人々は思ったのでした。この状態にあるとき、彼は食べ物も飲み物も薬も摂りませんでした」(88p)という文章に対して、次のようにコメントしている。「..(省略)..長い睡眠状態は最初の砒素の投与と一緒に、強力な薬物が投与されたことを意味している。睡眠薬によって、砒素は比較的長い間、身体にその作用を十分に及ぼすことができる。..(省略)..リュウマチは..(省略)..激しい四肢の痛みを伴って発病してくる。..(省略)..砒素中毒の典型的な症状には四肢の痛み及び筋肉痛が含まれている」(96-97p)。

ここの部分は少々分かり難いが、著者の言いたいことは、デカルトは眠っていた/眠らされていたのだから、痛みを訴えることはありえない。しかし「リュウマチと思われた」と記述することにより、同じような痛みを伴う砒素中毒であることを示唆しようとしたということなのだ。

「八日目。しゃっくり、黒い唾液の噴出、落ち着きのない呼吸、視線は定まらず、すべて死の前兆である」(89p)に対しては、次のコメント。「これらすべての症状は肺炎には当てはまらないが、砒素中毒には正確に対応するものだ」(102p)。

「病人は、胃の内容物を吐いて体から敵を追い出すために、タバコを混ぜたワインを所望しました」(89p)。これに対しては「いまやデカルトは自分の症状について中毒の犠牲者となったと絶対的に確信を持つようになった。だからこそ、敵、つまり毒物を体から抜き取るために嘔吐剤を所望した」(103p)。

紹介は以上だが、読者は、この説を本当だと思われるだろうか。