長官が打ち合わせのために先生たちのところへ行ってしまうと、朱里はクラスメートたちから足を踏まれる地味ないじめを受けた。バスの中で長官に守られたことは、朱里には決して幸運なことではない――クラスメートたちのいじめ魂に火をつけるようなものだった。

「やめて」泣きそうな顔で朱里が言うと、「『やめて』だって」と口真似をして、クラスメートたちの笑いを誘っていた。

宇宙旅行が普通になり、宇宙時代といわれる現代でも、残念ながらいじめはなくなっていない。人間の精神だけは、科学で進歩させることができなかったらしい。

出港は午前十一時。三十分前の十時半に搭乗を知らせるアナウンスが流れ、朱里は地味ないじめから救われた。先生たちに誘導され、生徒たちはタラップへつづく搭乗口に向かって歩き出した。

男子生徒たちが、歩きながら発着場のほうを眺めて話している。

「どのスペースシップに乗るんだ?」
「あの大型宇宙客船だってさ」
「あれか! すげぇーな」

スペースシップが成田を出港するまで約三十分――地球から千六百光年以上の宇宙の旅――M42オリオン大星雲へ向かう。






成田国際空港に隣接して建設された成田スペースポートは、宇宙旅行へ旅立つための宇宙客船の港である。

宇宙旅行といっても、地球以外の惑星へ行って休暇を楽しむようなものではなく、居住施設や娯楽施設を完備したスペースシップに乗って、いろんな星や星雲付近を数日間遊覧して帰ってくるといったものであった。

結局、スペースシップ内で時を過ごすだけなので、宇宙旅行は海外旅行よりも人気がない――バカンスシーズン以外の乗船率は五割以下である。それでも、宇宙旅行を主催している航空会社は『できるビジネスマンは宇宙で商談を成立させる』とか『アーティストの想像力は宇宙で加速する』などのキャッチフレーズで、観光客以外のターゲットを確保し、充分な黒字を出していた。その他に、シーズンオフの空席を学校の修学旅行や科学授業に利用してもらうため、通常料金の三分の一の価格で提供し、利益を得ていた。

出発ロビーに先生たちと生徒たちは集合し、宇宙客船に搭乗する時間を待っていた。スペースシップの発着場側が全面ガラス張りなので、多くの生徒は宇宙客船を眺めながら、自分たちの宇宙旅行体験の自慢話などで盛り上がっていた。

朱里も宇宙旅行は初めてではなかった。小学校三年生のときに、おじいちゃんとおばあちゃんの三人で、月の周りをゆっくり廻って二泊過ごすというツアーに行ったことがある。その宇宙旅行のとき、おばあちゃんがひどい宇宙酔いになり、心配した朱里は、ほとんどキャビンから出ずに看病していたので、月を眺めて楽しむ余裕などなかった。

でも、おじいちゃんとおばあちゃんには、その宇宙旅行は無駄ではないと思っている。朱里の優しさを心底知ることができたからである。その月旅行以来、朱里は地球を離れたことがない――今回が二度目であった。

生徒たちが集まっている場所へ、ジーンズに革ジャンなどを着た十二人の男の団体が通りがかった。そのうちの一人、クルーカットの短髪に、鋭い目つきに鼻筋が通った端整な顔立ちで、長身の筋肉質な三十代後半ぐらいの男が、長官のところに近づいてきて話しかけた。

「宇宙科学庁長官ですね」

男は笑顔で長官と軽く握手をした。長官は少し困った様子でたずねた。

「たいへん失礼ですが、どこかでお会いしましたか?」
「いや、すみません。申し遅れました。私は、海兵隊の特殊部隊に所属していました者です。初めまして」
「軍人さんですか」
「元軍人です。今は小さな警備会社を経営しています。彼らは私の会社の社員です」

彼は十一人の方を指さした。

「スペースポートの警備でこちらに?」長官が訊くと、「いいえ、違います。今日から社員旅行でM42へ行くんです。野郎どもだけっていうのもなんですけど、社員サービスも大切です。社員がいなければ、会社は成り立ちませんから」と男は答えた。

「社員旅行ですか。それはいいですね。私たちもM42へ行くんです」長官が言うと、「修学旅行ですか?」と男が生徒たちを眺めて訊いた。

「いえ、今回は科学授業です」
「どっちにしても、大変でしょう」
「そんなことはない。学生たちと過ごす宇宙の旅も楽しいですよ」

宇宙への修学旅行や科学授業の同行は、宇宙科学庁長官の大切な仕事の一つになっていた――よほどの理由がないかぎり、必ず同行しなければならない。

長官はさらに訊いた。

「ところで、海兵隊の特殊部隊に所属していたんですか?」
「ええ、対テロ特殊部隊です」
「対テロ特殊部隊……。エリートの中のエリートじゃないですか」
「いや、大げさですよ」
「海兵隊の対テロ特殊部隊といったら、士官学校を首席で卒業するくらいの成績と体力がなければ入れない」
「大したことはないです」
「もしかすると、あの方たちも?」

長官は十一人の方を向いてたずねた。

「実はそうなんです。対テロ特殊部隊の後輩たちをヘッドハンティングして、会社を作ったんです」

彼は誇らしげに仲間たちを見た。

「エリート集団ですか。少数精鋭の警備会社ですね」
「ありがとうございます」
「もし、私が大統領になったら、君たちに警備を頼みたいものだ」
「ははっ、いつでも呼んでください。では、失礼します」

彼はそう言って、仲間たちのところへ戻っていった。そこに、スペースポートの職員がやってきて、彼と話しをする声が聞こえてきた。

「荷物は大丈夫だろうな?」
「任せてください。完璧です」

とスペースポートの職員が答えていた。








一号車には校長が同乗し、四組の四号車には、宇宙科学庁長官が同乗した。長官は、校庭からバスに乗るまでの短い時間に、鋭い観察力でクラスから孤立している朱里に気が付いた。彼が朱里の隣に坐ったので、四組の生徒たちは朱里をいじめる楽しみを奪われた。朱里はバス内での安全を保証されたが、窓の外の景色を不安な表情で眺めていた。

「君の名前は?」長官が訊ねる。
「朱里です。高橋朱里です」か細い声で答えると、長官は目元を細めて前歯を少しだけ覗かせた。

「朱里さん、宇宙は好きかな?」
「はい。星が沢山あって、大好きです」

朱里の表情が少し明るくなったのを見て、長官は嬉しくなった。

「それは良かった。これからすごい数の星を見ることが出来るからね」
「はい」
「朱里さんは、将来の夢とか、やりたい職業とか、あるのかな?」
「私……私、得意なことがないんです。学年で、成績がびりなんです」

前の座席から女子生徒たちの嘲笑う声が聞こえてくる。

長官が朱里に優しい口調で言った。

「焦ることはない、ゆっくり探せばいい」
「でも、私、バカだから……」

朱里の言葉を聞いて、周りの座席の生徒たちが爆笑した。

「自分より劣る人と比べて、自分は頭がいいと思っている本物のバカよりずっとましだよ。そういう人間には未来がない。だから、朱里さんは絶対に大丈夫」

長官は、朱里にではなく、明らかに周りの生徒たちに語っていた。バス内に一瞬緊迫した沈黙が流れたが、それを破ったのは男子生徒の、「成田空港だ」のひと言だった。朱里が車窓から外を見ると、ちょうど成田空港を横切っていくところであった。

「お、もう着いたか」そう言って、長官が子供のような笑顔を見せた。

生徒を乗せた四台のバスは、空港を通りすぎ、隣にある『成田スペースポート』にすべり込んでいった。






朱里達の学年は全四組で、ひと組三十名前後、男女は半々ぐらいである。今回の行事には生徒のほかに、各組の担任と副担任、校長先生、それと宇宙科学庁長官が同行する。正門の前の大通りには、すでにバスが四台並び、出発の時間を待っていた。

遊びの学校行事ではないので、生徒たちは全員学生服を着用し、先生たちはビジネススーツを着込んでいる。

生徒たちは先生の指示に従い、校庭に出て組ごとに整列していた。四組の朱里は、女子の列の一番後ろに並んでいる。前から身長順に並んでいるにもかかわらず、それ程大きくもない朱里が最後尾にされているのは、クラスメートたちが彼女の近くを嫌がるからであった。

四組の生徒は二十九名で、男子十四名の女子十五名――つまり、男女二列に並ぶと女子が一人分はみ出る――朱里の前に並ぶ女子だけが、我慢すればいいというわけだ。

「もっと離れなさいよ!」

朱里の前に並んでいる、すらりと背の高いモデルのような身体つきの女子が振り向いて言った。怯えるように朱里は少し下がった。

「もっとだよ」と言って、彼女は地面に置いてあった朱里のバッグを蹴っ飛ばした。

すると、彼女の隣に並んでいる、のっぽで太った男子が言った。

「あーあ! 朱里菌がくっついたぞ。これでお前もバカになるな」
「あんたにうつしちゃおっと」

彼女が男子の足に、朱里のバッグを蹴った方の足を近づけた。

「やめろよ、バカになるだろ」
「なんてね。こいつに直接触ったわけじゃないから大丈夫よ」
「本当か? バッグだって、朱里菌が染みついてると思うぜ」

二人が笑うと、会話を聞いていた周りの連中もバカにして笑った。バッグを取りに後ろのほうへ行った朱里は、その場にぽつんと立ちすくみ、列へ戻ることも出来ず、自分の足元を見つめていた。そこへ、四組の担任で、ずんぐりとした三十二歳の男性教師がやってきて、苛立つように言った。

「高橋、何やってんだ! 早く並べ」

朱里が列に戻ると、「おい、お前自分のクラスも分かんなくなったのか?」
生徒たちと一緒に、先生も朱里をバカにして笑った。

先生たちも、誰一人朱里の味方をしてくれない。その理由は、バカで運動音痴だからではなく、彼女の味方をすると、ほかの生徒たちから嫌われてしまうからである。生徒たちの人気者になることは、先生たちの大事な目標の一つなのだ。一人の生徒のために、ほかの生徒たちを敵に回すわけにはいかない。もちろん、朱里のことが可哀想だと思う先生もいるが、助けるわけにはいかないのである。年々ずる賢くなる生徒たちに、先生がいじめられてしまう恐れがあるからだ。

先程朱里のバッグを蹴飛ばした女子の前に並んでいる、髪を金髪に染めた色黒の女子が振り向いて言った。

「可哀想にね、あんた。朱里と同じ部屋じゃん」
「空いてる部屋に移るし。ねぇ、いいでしょう? 先生」

甘えるような声で彼女が言うと、「好きにしろ」と先生は面倒臭そうに言った。

「さすが先生! 話が分かるわね」
「それじゃあ、私たちの部屋に来れば?」そう誘われると、「そうね、考えとくわ」と答えた。

「そろそろ校長の長話が始まるから、静かにしてろ」

先生がそう言って、最前列に戻っていった。入れ替わりに、副担任が後ろに向かってくる。生徒たちは、二十六歳のやせ細った青白い顔の副担任と軽く挨拶を交わす。彼が一番後ろに来たとき、朱里も挨拶をしたが、完全に無視されてしまった。

副担任は、校則を守らない生徒たちや勉強をしない生徒たちにうるさいことは言わないタイプで人気がある。しかしそれは、生徒たちが将来どうなってもいいという態度にほかならない――生徒たちが大人になって苦労しようと、知ったことではないのだから。

しばらくすると、肥満気味で頭髪が心細い六十五歳の校長が、朝礼台にあがって話しをはじめた。

「みなさん、おはようございます。えー、今日から七日間の共同生活で、えー、友達との信頼関係を深め、えー、コミュニケーション能力と、えー、未知への好奇心をつちかってください。えー、この七日間の貴重な体験で、えー、君たちが、えー、心の広い人間に成長できると、えー、願っています……」

校長の長話はしばらく続き、やっと終わったと思ったら、スーツ姿がよく似合う紳士的な雰囲気の、宇宙科学庁長官の話がはじまった。彼は五十七歳で、白髪まじりの髪を短めに整えていて、穏やかそうな表情ではあるが、その目つきには何かしら力強いものを感じる。長官は、自分の自己紹介や宇宙の偉大さなどを手短に話した。

そして、組ごとにバスへ乗り込み、ようやく目的地を目指して出発していった。







東京にある高橋家は三階建てで、中ぐらいの大きさの一軒家である。大手玩具チェーン店の元社長宅としては、それほど立派ではないが、生前のおじいちゃんが極端な贅沢を好まず、豪邸を建てなかったとのことだ。

一階には、台所や食堂、接客用の部屋などがあり、四分の一が道路に面した駐車場になっている。二階には、居間や浴室、おばあちゃんの部屋と寝室、書斎を改装したおじいちゃんの仏壇がある部屋などがある。三階には、物置状態の部屋が数室、おじいちゃんが好きだった玩具が飾ってある部屋、そして、朱里の部屋と寝室があった。

一階から三階までいたるところに、おばあちゃんの趣味である観葉植物の鉢植えが置いてあり、家中に草や花の香りを漂わせている。

六十七歳のおばあちゃんは働いていないが、サンセット・セキュリティーという民間の年金で、金銭面では問題なく生活が送れていた。おじいちゃんが残した莫大な財産は、彼女がボランティア団体にすべて寄付してしまったらしい。

おばあちゃんの朝は早く、日の出少し前に起きて、ジーンズとトレーナー、それにエプロンをかけたお気に入りの服装で、家中の鉢植えに水を与え、ちょうど太陽が昇るころ、玄関先にあるおもての小さな花壇へ水を与える――それから台所へ行き、朝食の準備に取りかかるのが毎日の日課だった。

朝よりも夜のほうが朱里は好きだった。特に寝るとき――このまま明日が来なければいいのに、眠ったまま目覚めなければいいのに、と毎晩思っていた。それでも朝は容赦なくやってくる。普段でさえ辛い朝――いつもなら、学校から帰ってくればいじめから解放される。だけど、今日からはじまる七日間は、どこにも逃げ場はない。小学校六年生のときに行った泊まりがけの林間学校は二日間だけだったが、辛くてみじめな二日間であった。

「一週間の我慢……」目覚めた朱里はベッドの中で呟き、布団から出て、洗面所へ向かった。

朱里は顔を洗ってから、大きめな鏡の中に映る自分の姿を眺めた。黒い髪は肩ぐらいまでの長さ、十四歳とは思えない幼い顔立ち、きゃしゃな体型――惨めな自分を見るたびに自信を失ってしまう。

しかし、その瞳は純粋な輝きを放ち、あどけない唇には艶があり、体型に合った乳房やくびれた腰はバランスがよく、のラインも美しい――自分ではまったく気づいていないが、朱里は驚くほど可愛かった。でも、学校での成績の悪さが、彼女の魅力を完全に覆い隠していた。

鏡の中の自分が、「どうして行くの? 行きたくない!」そう言っているような気がする。だけど、今回の学校行事へ早く行きたいと、おばあちゃんに嘘をついてきたので、いまさら行きたくないなんて言えなかった。でも、いまならまだ間に合う――朱里の気持ちは揺れ動いたが、休みたいと言ったら、きっとおばあちゃんは心配すると思い、彼女は一週間の辛抱を選択した。

いつものように、朱里はパジャマ姿で一階に降りてきた。

「朱里ちゃん、おはよう」おばあちゃんが挨拶すると、「おはよう! おばあちゃん」と朱里は返した。

「体調は大丈夫? 遠くへ行くんだから、もし具合が悪かったら先生に言って――」
「大丈夫、ぐっすり寝たし」

不眠症気味の朱里が、熟睡など出来るはずはなかった。

「そう、それならいいけど……」 

おばあちゃんにはわからなかった。学校でいじめられていても、今回の行事には本当に行きたいのかもしれない。朱里を引き止めない理由はそこにあった。もし、「行かないでほしい」と言ったら、彼女は行きたくても、行くのをやめるだろう。だけど、行きたくなくても、いじめられていることを隠すために彼女は行くだろう。そんな朱里の性格を知っていたおばあちゃんは、彼女の判断にゆだねるほかなかった。

朝食のおかずはベーコンエッグとお豆腐の味噌汁、キュウリの浅漬け、ちょっとしたサラダであった。朱里はどんなに食欲がなくても、おばあちゃんが作った料理を必ず食べていた。

朝食をすませると、朱里は自分の部屋に戻り、チェック柄の短いスカートとブレザー風の上着の冬用学生服に着替え、身支度をし、旅行用バッグを持った。そして二階に立ち寄り、おじいちゃんの仏壇に線香をあげて合掌し、それから一階へ降りていった。

すると、小さなお弁当箱を持って、おばあちゃんが訊いてきた。

「朱里ちゃん、おむすびのお弁当を作ったけど、持って行く? ちょっとお腹が空いたときにと思って……」

おばあちゃんの小さな手で作った、小さなおむすび二つであった。

「うん、持って行く。ありがとう」

朱里は、おばあちゃんからお弁当箱を受け取り、バッグの中に入れた。

食事は学校で用意されているので、お弁当など持って行く必要はなかったが、せっかくおばあちゃんが作ってくれたおむすびを、朱里が断るはずはなかった。

玄関先まで、おばあちゃんは朱里を見送りに出てきた。表には秋の少し肌寒い風が、キンモクセイの甘い匂いとともに穏やかに吹いていた。

「おばあちゃん、行ってきます!」精一杯の笑顔で朱里が言った。

「行ってらっしゃい、朱里ちゃん」

おばあちゃんも笑顔で答えたが、なぜかもう二度と朱里に逢えないような不安に襲われた。

しばらく歩いて朱里が家の方を振り返ると、おばあちゃんはまだ玄関先に立って見送っていた。

「行ってきまーす!」朱里が手を振って、大声で言うと、「行ってらっしゃーい!」とおばあちゃんも手を振って、大きな声で言ってくれた。

朱里は自分にも聞こえないくらいの小さな声で、もう一度呟くように言った。

「行ってきます」