東京にある高橋家は三階建てで、中ぐらいの大きさの一軒家である。大手玩具チェーン店の元社長宅としては、それほど立派ではないが、生前のおじいちゃんが極端な贅沢を好まず、豪邸を建てなかったとのことだ。
一階には、台所や食堂、接客用の部屋などがあり、四分の一が道路に面した駐車場になっている。二階には、居間や浴室、おばあちゃんの部屋と寝室、書斎を改装したおじいちゃんの仏壇がある部屋などがある。三階には、物置状態の部屋が数室、おじいちゃんが好きだった玩具が飾ってある部屋、そして、朱里の部屋と寝室があった。
一階から三階までいたるところに、おばあちゃんの趣味である観葉植物の鉢植えが置いてあり、家中に草や花の香りを漂わせている。
六十七歳のおばあちゃんは働いていないが、サンセット・セキュリティーという民間の年金で、金銭面では問題なく生活が送れていた。おじいちゃんが残した莫大な財産は、彼女がボランティア団体にすべて寄付してしまったらしい。
おばあちゃんの朝は早く、日の出少し前に起きて、ジーンズとトレーナー、それにエプロンをかけたお気に入りの服装で、家中の鉢植えに水を与え、ちょうど太陽が昇るころ、玄関先にあるおもての小さな花壇へ水を与える――それから台所へ行き、朝食の準備に取りかかるのが毎日の日課だった。
朝よりも夜のほうが朱里は好きだった。特に寝るとき――このまま明日が来なければいいのに、眠ったまま目覚めなければいいのに、と毎晩思っていた。それでも朝は容赦なくやってくる。普段でさえ辛い朝――いつもなら、学校から帰ってくればいじめから解放される。だけど、今日からはじまる七日間は、どこにも逃げ場はない。小学校六年生のときに行った泊まりがけの林間学校は二日間だけだったが、辛くてみじめな二日間であった。
「一週間の我慢……」目覚めた朱里はベッドの中で呟き、布団から出て、洗面所へ向かった。
朱里は顔を洗ってから、大きめな鏡の中に映る自分の姿を眺めた。黒い髪は肩ぐらいまでの長さ、十四歳とは思えない幼い顔立ち、きゃしゃな体型――惨めな自分を見るたびに自信を失ってしまう。
しかし、その瞳は純粋な輝きを放ち、あどけない唇には艶があり、体型に合った乳房やくびれた腰はバランスがよく、のラインも美しい――自分ではまったく気づいていないが、朱里は驚くほど可愛かった。でも、学校での成績の悪さが、彼女の魅力を完全に覆い隠していた。
鏡の中の自分が、「どうして行くの? 行きたくない!」そう言っているような気がする。だけど、今回の学校行事へ早く行きたいと、おばあちゃんに嘘をついてきたので、いまさら行きたくないなんて言えなかった。でも、いまならまだ間に合う――朱里の気持ちは揺れ動いたが、休みたいと言ったら、きっとおばあちゃんは心配すると思い、彼女は一週間の辛抱を選択した。
いつものように、朱里はパジャマ姿で一階に降りてきた。
「朱里ちゃん、おはよう」おばあちゃんが挨拶すると、「おはよう! おばあちゃん」と朱里は返した。
「体調は大丈夫? 遠くへ行くんだから、もし具合が悪かったら先生に言って――」
「大丈夫、ぐっすり寝たし」
不眠症気味の朱里が、熟睡など出来るはずはなかった。
「そう、それならいいけど……」
おばあちゃんにはわからなかった。学校でいじめられていても、今回の行事には本当に行きたいのかもしれない。朱里を引き止めない理由はそこにあった。もし、「行かないでほしい」と言ったら、彼女は行きたくても、行くのをやめるだろう。だけど、行きたくなくても、いじめられていることを隠すために彼女は行くだろう。そんな朱里の性格を知っていたおばあちゃんは、彼女の判断にゆだねるほかなかった。
朝食のおかずはベーコンエッグとお豆腐の味噌汁、キュウリの浅漬け、ちょっとしたサラダであった。朱里はどんなに食欲がなくても、おばあちゃんが作った料理を必ず食べていた。
朝食をすませると、朱里は自分の部屋に戻り、チェック柄の短いスカートとブレザー風の上着の冬用学生服に着替え、身支度をし、旅行用バッグを持った。そして二階に立ち寄り、おじいちゃんの仏壇に線香をあげて合掌し、それから一階へ降りていった。
すると、小さなお弁当箱を持って、おばあちゃんが訊いてきた。
「朱里ちゃん、おむすびのお弁当を作ったけど、持って行く? ちょっとお腹が空いたときにと思って……」
おばあちゃんの小さな手で作った、小さなおむすび二つであった。
「うん、持って行く。ありがとう」
朱里は、おばあちゃんからお弁当箱を受け取り、バッグの中に入れた。
食事は学校で用意されているので、お弁当など持って行く必要はなかったが、せっかくおばあちゃんが作ってくれたおむすびを、朱里が断るはずはなかった。
玄関先まで、おばあちゃんは朱里を見送りに出てきた。表には秋の少し肌寒い風が、キンモクセイの甘い匂いとともに穏やかに吹いていた。
「おばあちゃん、行ってきます!」精一杯の笑顔で朱里が言った。
「行ってらっしゃい、朱里ちゃん」
おばあちゃんも笑顔で答えたが、なぜかもう二度と朱里に逢えないような不安に襲われた。
しばらく歩いて朱里が家の方を振り返ると、おばあちゃんはまだ玄関先に立って見送っていた。
「行ってきまーす!」朱里が手を振って、大声で言うと、「行ってらっしゃーい!」とおばあちゃんも手を振って、大きな声で言ってくれた。
朱里は自分にも聞こえないくらいの小さな声で、もう一度呟くように言った。
「行ってきます」