朱里が高橋家に養子に来たのは、三歳の時であった。朱里の実の両親は、手作りのぬいぐるみ屋を小さな店でやっていたのだが、母親は命と引きかえに朱里を産んで、二十四歳の若さでこの世を去った。妻が亡くなったあと、父親は男手一つで朱里を育てながら、店を細々とやっていたが、彼の作ったぬいぐるみは不細工で、妻が作ったぬいぐるみのように可愛くなかったが、一部のファンには絶大な支持を得ていた。

そんなある日、大手玩具チェーン店の社長が、今のの時代に完全な手作りのぬいぐるみとは珍しい、と言ってやってきた。うちの玩具店に、ぜひ商品を置かせてくれと頼んできた時、彼は断ろうとしたが、沢山作れなくてもいいならという条件で、玩具店にぬいぐるみを納品することにした。その大手玩具チェーン店の社長が、後に朱里の養父となる人物であった。

彼の作るぬいぐるみは一つとして同じ物がなく、納品される数が少なかったお陰か、レアな商品となり絶大な人気となった。自宅兼店のほうも大忙しになり、慢性的な品不足に嬉しい悲鳴をあげていた。

しかし、そんな日々は長くつづかなかった。彼は病に倒れ、二十七歳で娘の成長を見とどけずに妻のあとを追った。孤児になった三歳の朱里は、親戚などの引き取り手もなく、施設に入る予定だったが、高橋夫妻が彼女を養子にすることにした。

子供が出来なかったその夫妻は、今まで子育てをしたことがなかったせいか、朱里を引き取るのはたいへんな勇気が必要だった。しかし、幼い彼女の無邪気な笑顔を見て、どうしても引き取りたくなったのである。

朱里を養子にした当時、夫婦の年齢は六十一歳と五十六歳になっていた。だからか、朱里には養父母の関係でありながら、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ばせることにした。

夫妻にとって、朱里は生きがいそのものになった。彼は朱里を養女に迎えた翌年、会社を売ってリタイアし、朱里と過ごす時間を大切にした。

朱里もこの夫妻が大好きになった。白髪の似合うおじいちゃんは、とても姿勢がよくて楽しい人柄。薄茶色に染めた髪を短くまとめたおばあちゃんは、植物を愛する温かい人柄。そんな二人の背中を見て育った朱里は、とても優しい子になった。けれど、学校の成績だけはどうにもならなかった。

バカで運動音痴――いじめられないほうが奇跡である。

そんな朱里に、おばあちゃんは、「みんなと同じことが出来なくてもいいから、自分の出来ることをやりなさい」と励ました。得意なことなど何一つなかった朱里には、あまり意味のない言葉だったが、その言葉でだいぶ気分が楽になった。

朱里が小学校一年生のとき、高橋夫妻は彼女がいじめられていることを知った。しかし、必死で隠そうとする彼女のために、気づかないふりをすることに決めたのであった。それでもおじいちゃんは、最悪な事態、自殺を避けるため、生きることや人生についてなど、朱里に話して聞かせた。そんなおじいちゃんが亡くなったのは、六十九歳のときである。朱里は十一歳になっていた。

自宅の病床で、おじいちゃんが臨終に言った言葉は、「朱里ちゃん、どんなに辛いことがあっても、最後の最後まで、人生を諦めてはいけないよ」であった。それは、朱里が何度も聞かされた言葉の一つだった。

だけど、決していじめに慣れるということはない。死にたい、漠然とそう考えるようになったのは、朱里が中学一年生の頃からである。自分で命を終わらせる決断をすれば、これ以上惨めな人生を続けなくて済む。でも、おばあちゃんへの思いやりと、おじいちゃんが話してくれた言葉の数々が、彼女の生きるモチベーションを持続していた。

もし、朱里が知的障害者だったなら、勉強や運動が出来なくても救われる道はあったかもしれない。しかし、健常者の彼女に対して世間はあまりにも冷たかった。






英雄とは自分のできることをした人である――ロマン・ロラン――


頭が悪くて勉強できない、のろまで運動苦手な中学生のいじめられっ子、高橋朱里にとって最悪な朝がやってきた。

今日から学校の行事で、泊まりがけの授業へ七日間行かなければならない。行かない方法はいくらでもあるが、彼女は行かなければと思い込んでいる。たった一人の家族、おばあちゃんを心配させないために。

朱里は幼稚園のころからいじめられていたが、ずっと隠しつづけている。身体中に痣を作って帰ってきたり、持ち物をぼろぼろにされて帰ってきたりしても、「ライオンにおそわれた」とか、「ワニとケンカしちゃった」など、頭の悪さを証明するような嘘を平気で言って、いじめられていることを秘密にしてきた。

彼女が中学生になってからは、「体育の授業で……」とか、「友達と遊んでて……」などに変わり、ずいぶんと成長したが、おばあちゃんはいじめを知っていて気づかないふりをしていた。
――というのも、いじめられていることを心配すると、朱里は徹底的に否定するからであった。

自分に心配かけないようにと振る舞う朱里のことが、おばあちゃんは大好きだった。学校の成績はいつも学年でびり、得意な科目なんて一つもない、そんなことはどうでもよかった。





進学校になんて、入るんじゃなかった。

……というのを、進路希望調査と書かれた薄っぺらい紙を見て思う。前々から、予習が忙しかったり、宿題が多かったり、この高校に入学した事を激しく後悔していたが、今回はそれよりも厄介だ。卒業後の事なんて、まだ私は決めていない。

シャープペンシルをくるくると回してみたり、消しゴムやペンを机の上に立てて並べてみたり、爪で机を叩いてリズムを刻んでみたりしながら、考えあぐねてみるけれども、結局私はこの先、どうなりたいのかわからなかった。大学に入りたいのか、就職したいのかすら、ちっともわからなかった。

「じゃ、後ろの人、集めてきて」

担任の先生が、不機嫌な声でそう言うと、一番後ろの席の人達はぱらぱらと立ち上がり、自分の前の席の人達のプリントを回収して行った。あーやばい。書いていないの、私くらいじゃないの? 皆大学とかもう決めているとか反則だな、とか思いながら、一番後ろの席の男子が私のプリントも回収しようとやって来た。でも、私のプリントは白紙。後ろの席の子は、第三希望の大学の学部学科まで、びっちりと書いているというのに、私のプリントは貰ったままの綺麗な状態である。

「ごめん、まだ」
「あ、そう」

彼はそっけない返事をした後、さっさと私の前から立ち去り、担任にプリントを提出していた。が、自分の席に戻ろうとした時、担任にズボンを下げすぎだと注意されていた。担任は生徒指導の先生だ。独身の四十五歳で、かなりヒステリックな面がある。口うるさいし、いつも機嫌が悪い。だから、担任が生徒指導部の厳しい先生で、うちのクラスの担任になったと聞いた時、私は死ぬほどがっかりしたのを覚えている。

「未提出の人は、今日中には提出するようにして下さい。何か質問がある人は、放課後生徒指導室まで来なさい」

担任は眼鏡を指で上げながら、つんつんした声でそう言って、教室をさっさと立ち去って行った。ああ、どうしよう。生徒指導室なんて行きたくないしな……。と考えていても答えが出ない。

「何、智美。あんた、まだ提出してないの?」

絶望のあまり、机に伏していると、ギターケースを肩に掛けた由紀が、からかうように私に言ってきた。

「だって、大学とかわかんないじゃん。由紀、あんたは、どこの大学行くの?」
「え。わたし大学行かないし」
「え、じゃあ就職?」
「違うよ。デビューするの、今のバンドメンバーで」
「ぷ」
「ぷって言うな」

由紀があんまりに自信満々にそう言うから、思わず吹き出してしまった。ああ、いかんいかん。進路の事がさっぱりわからないんだから、真面目に話を聞いておかなくちゃ。

「智美もさ、ちゃんと夢を持った方が良いよ。じゃないと進路なんて見えて来ないもん。ま、わたしは夢に向かって邁進すべく、今から練習だけどね。じゃ」

夢、か。由紀は明るいし、真直ぐな人だ。夢も持っているし、その夢に向かって突き進んでいる。羨ましいものだ。夢があるっていうのは、本当に羨ましいし格好良い。格好良いと思うのは、由紀だからかもしれないけれど……、まあそれは余談である。

教室に居る生徒達が、ざわめきを連れ去って行くように教室を出て行き、気がついたら教室には私以外誰も居なくなってしまった。にっちもさっちも行かず、孤独を感じた私は、渋々生徒指導室へ向かった。折り込んで、丈を短くしていたスカートを膝下の長さに戻し、肩に付く程の髪を一つに結んだ。ここの学校の生徒指導は、妙に厳しい。刑務所みたいな生活を強いられているから、私は高校生である実感が沸かないでいる。

「失礼します」

二回程ノックをした後、私はおそるおそる生徒指導室のドアを開けた。中はエアコンで十分に冷やされていて、背中にかいた汗が一気に冷えて、寒気がした。

「ああ、河西か」

キャスターつきの椅子に座った担任は、皆の進路希望調査のプリントを手にしながら、私の方に身体を向けた。私は担任とある程度の距離を空けて、プリントを渡した。白紙のプリントに、担任は眉を顰めた。

「進路、まだ決めてないんです」

私が控えめにそう言うと、担任は小さく舌打ちをした。私はぞくっとした。

「あのなあ、河西。それくらい、この高校に入った時点で決めておかなくちゃならないぞ。皆行きたい大学とか、就職先とか考えているんだ。何か、夢とかないのか?」

夢って言われても……。私は口を噤んだ。夢って、漠然としすぎていて、何かよくわからない。将来何になりたいとか、どんな仕事をしているとか、想像も出来ないのである。

「早めに決めとかなきゃ、手遅れになるぞ」

溜息を吐きながら、担任はプリントをまとめた。私はぼちぼち教室に戻り、荷物をまとめて教室を出た。

ああ、何で進学校なんて選んだんだろう。大学とか就職の事ばっかり考えて、それに向かってきつい勉強ばっかり強いられて。一度だけの高校生活で、どうしてきつい事ばっかりしているんだろう。そう考えると、本当に気分が滅入ってしまう。とぼとぼと階段を下りていると、三階の空き教室から、ぐだぐだな旋律の音楽が聞こえた。軽音部である。私はちょっと進路を変え、ちょっと教室を覗いてみた。奥ではショートヘアの美人な女の子がピアノを弾き、その横で切れ長の目がちょっぴりクールな男の子がドラムを叩き、センターでは以前由紀が言っていた、香菜とかいう、小動物みたいに可愛らしい女の子が、不安定な音程の歌を歌い、その横で由紀がギターをたどたどしく弾いている。どんなに旋律がめちゃくちゃでも、その光景は私にはない輝かしいものを感じた。由紀が輝いて見える。格好よく見える。夢……。夢って、こういう事を言うんだろうか。私は肩の荷が下りた心地がした。


翌日、私は朝早くに生徒指導室に向かった。担任は相変わらず不機嫌そうだったけれど、私は怖じる事無く足を進めた。朝早くに生徒指導室にやって来た事に驚いたのか、担任は呆気にとられたような表情を浮かべた。

「先生、私、夢、決めました」

私はまだまだ若いのである。自分の人生をどのように創造しようと自分の勝手である。この夢を実現させるための時間はたっぷりある。私はまだ少女なのだ。輝かしい日々は、まだ始まったばかり。






少女たちよ。 完
退学します、と担任に言うと、焦った様子で私の腕を引っ張った。が、私はもうこの学校に居る意味など皆無なのである。校長や理事長まで、私という天才を手放すのが惜しいらしく、必死で私をこの学校に留めようとあれこれ言葉を掛けてきたが、もう私の意志が変わることは無い。私は両親の同意も得ずに退学を決意し、口頭に出し、そして実行した。教科書などは教室に置いて帰り、学校側に処分を依頼した。ぺたんこの通学用の鞄をごみ箱に捨てて、数ヶ月という短い間通いつめた校舎にさよならする。突然の退学宣言に、生徒たちは皆酷く驚いていて、学年全体がざわついていた。学校を立ち去る途中、一人の男子生徒から告白を受けた。ずっと好きでした。その言葉に、私は好きじゃないから、と返してすぐに立ち去った。

さあ、妨げるものは何も無い。空はすっきりと晴れていて、青みが酷く濃かった。ああ、梅雨が明け、夏が到来したのだ。私はそう確信し、肌が焼けてしまうのでは、と不安を覚えた。

今日、私はスコットランドに旅立ってやろうと思う、いや思っているのではなく、決意しているのだ。私は家に帰って、退学した事を母に知らせ、酷く驚かせる予定だ。そして荷物をまとめて、母の反対を押し切って空港へ向かい、彼女の元へと向かうのである。きっと彼女は驚くだろうが、すぐに笑って私を迎え入れてくれるだろう。

彼女の居る場所こそ、全てが輝いて見える美しい場所なのである。そこに居れば、きっと周りの物全てが輝いて見えるはずだ。そのためには、私も彼女と同じ道を歩まねばならない。高校を中退し、空っぽになったような気分を、体の底から味わわねばならない。

夏場の太陽が、酷く眩しい。よくよく耳を澄ましてみれば、閑静な住宅街で、蝉が五月蝿く泣き喚いているではないか。






~Two person~ fin.
「学校を、辞めてしまってはいけないのかな」

母は私と彼女が接する事を酷く嫌悪していた。私が彼女の元に通いつめる事を、酷く恐れていた。だから彼女の住む家の場所に鉄道が通るため、彼女がスコットランドに拠点を移すまで、母は私を隔離しようとしていた。埼玉に行っては駄目よ。それではあなたが駄目になってしまうわ……。彼女と同じ顔をした母がそう言うのは、凄く馬鹿らしく思えた。なんたって世界でまともな判断を下せるのは、私と彼女だけなのだから。だけど家庭での母の権力は絶対的だから、今もこうしてこそこそと自分の部屋で、彼女と連絡を取らねばならない。

「駄目なわけではないけれども、高校に通わないと知識が足りなくて困っちゃうわよ」

彼女は乾いた笑い声を洩らしながら言った。受話器の向こうで、犬の吠える声が聞こえた。そういえば、彼女は以前、スコットランドは素晴らしく美しい国よ、と言っていたのを思い出した。受話器の向こうで犬が鳴く世界は、彼女が賛嘆するほど、美しい世界なのだろうか。

「でももう苦しいの。まともでない人間からの賞賛なんて、もう厭きてしまった」
「私だってそうだったわ。だから中退したんだけれども、それじゃ知らない事が多すぎた」
「どんな事?」

私は学校帰り、コンビニエンスストアで万引きしたコラーゲングミを口に放り込んだ。

「思いつかないけれども、何かがすっかり抜け落ちてしまった気がしたの」

彼女はううん、と唸った後、そう答えてまた薄く笑った。

電話を切った後は、コラーゲングミを無心に頬張った。これでは彼女の言う、華奢な女になれないなあ、と思うとベッドに寝転がって腹筋をしてカロリーを燃焼させた。コンビニのシールも、ビニール袋も、レシートも無い。この手さえあれば、お金なんて要らないと私は思う。何でも鞄の中に入れてしまえば、無駄なものを使わないで済む。万引きというものは、そんな合理的な方法である。そして、自己の解放感にも浸る事が出来る。一石二鳥とは、まさしくこの事であろう。私は暫く、万引きを止められないだろう。何か契機を迎えるまで。

最後のグミ一粒を口の中に放り込み、しっかりと咀嚼した。グレープフルーツ味のそれが、豊かな酸味を口の中に広げてから胃の中に落ちていく。肌を美しくしてくれるコラーゲンというエキスが、私の体内で融合する。なんとも美しい事だ。私はベッドに横になり、ゆっくりと目を閉じた。暗がりに満ちた視界に、ぼやぼやと美しい情景が浮かんでくる。青く澄み渡った空。白く伸びる雲。ヨーロピアンな外装の、上品な建物が両脇にずらりと並んでいる。真赤なバスが道路を通過する。笑いあう人々。黒いボディで、赤色に変わる信号。パン屋の匂い……。リアルに満ち溢れるスコットランドのイメージが私の中に蔓延した。その美しい景色の中でも際立って美しい人が、目の前で微笑んでいる。白いワンピースを風にはためかせて、黒い髪を揺らせてこっちを見て手を振っている。私が世界で一番愛している人。私は貴女に会うために、この世界に生まれてきたのかもしれない。彼女という人間は、別の生命の使命になるくらい、偉大な存在である。私は白いワンピースを着た彼女の元に駆け足で近寄り、挨拶代わりのキスを交わす。青い空が心地よい。通り過ぎる車がちっとも気にかからない。何て美しい国なのだろう……。