ぼくは丸い。ふわふわとして、空間を漂っていた。その空間は風もなく重力もない。寒くも温かくもなく、そんな何処かを、ぼくは目的もなく、ただ浮かんだり流されたりしていた。

ぼくには自身の軽さや丸さがすべてで、世界というものがわからないし、興味もない。

苦しみも悲しみもない。ただ、ぼくの中心の奥深いところに、静かな気持ちだけがあるだけだ。




そんな丸いだけのぼくだったが、いったいどういう経緯か、気がつくと捕獲され、渋谷のショップで売られていた。

でもそれが悲しいのではない。ああそうか、と気づくまで、時間がかかったということだ。

それまで、ぼくには名前がなかった。しかし店頭に並べられたぼくたちには、「ポンポン」という商品名がつけられていた。丸くて軽いからポンポン。つまり、そういうことらしい。




ぼくたちはそれまで、お互いのことをまるで知らなかった。ただ丸く、漂う状態に充足して、他者には興味がなかったのである。

まあしかし、興味は今も大してない。ぼくは、複数になるとぼくたちでもあるという事実を知ったに過ぎない。そして、商品名「ポンポン」でもあるという事実を。

けどそれが、何だというのか。ぼくはけっきょく、丸いだけのぼくである。




そのショップには、お洒落な少女たちが通う。ぼくたちポンポンを見て、指でいじくり、「やわらかぁい」などと嬌声をあげる。なかには「かわいい」と言ったり、「癒される」なんて言う者までいる。イヤサレルって何だろう。

少女たちはひとしきりぼくらを触って、もっとも指にフィットしたものを買っていく。

ちなみに、ぼくたちの値段は五百円だった。高いのか安いのか。そんな評価が何になるのか、ぼくにはさっぱりわからない。




ある日、ぼくは一人の少女に気に入られ、買い取られて行った。

それから少女はいつもぼくをそばに置き、時間があると触るのだった。

朝起きて撫で、登校前に頬ずりする。帰宅して宿題するときも、テレビを見る時間も、眠る前も、思い出すとぼくを触った。そして、うっとりした表情で「気持ちいい」なんて言う。

ぼくにはどうでもよかった。少女に買われ、愛玩されるようになったからって、ぼくは変わらない。ぼくなのだ。




いつからか、少女はぼくに向かって独り言を呟くようになった。親のこと、学校のこと、友達や彼氏のことなど。

話してから、「馬鹿だなァ、あたし。こんなボールに愚痴言っても仕方ないのに」と反省する。それから溜息をついたり、涙を流すことさえあった。

けれど、ぼくには関心がない。突然激高した彼女が、ぼくを壁に叩きつけたときも、ただバウンドして転がっただけだ。

しばらくすると、「ごめんね。ごめんなさい」と泣きじゃくり、ぼくを拾い、抱きしめたりする。

少女なんて、つくづく多感な生物である。




親は無理解、学校はイヤ、友達は意地悪で、彼氏は冷たい、というのが彼女の言い分だった。

しかしまあ、どうしてこんなに他人のことが気になるのか。

誰かの感情でいちいち揺らいでたら、愛玩されたり投げ捨てられたりするぼくはどうすればいいのか。くたびれちゃうよ。




けっきょく冷たい男とは別れ、新しい彼氏ができると、少女はぼくのことなど、どうでもよくなったみたいだ。

捨てられたぼくは、近所の子供たちにもらわれ、野球ボールとして再利用された。

泥がついてガサガサになり、頬ずりされることももはやない。

ある日、ホームランを打たれたぼくは遠くに飛ばされ、マンションの外壁にバウンドして、深い溝にボチャンと落ちた。そのままどんぶらこ、どんぶらこと流され、暗渠に吸い込まれていった。





彼は慎重派だ。常日頃から、自分のポジションを把握して動くようにしている。

だから彼は、例えば仕事帰りの酒の付き合いもほどほどにこなす。但し車で通勤した日にはアルコールを控え、それでも上司の誘いとあらばビールを一杯やって、帰りのタクシーの用意も欠かさない。そのお陰かどうか、彼の職場における対人関係は穏やかで、自分の仕事を日々すいすいと片付けている。

家庭では、共働きの妻が不満をぶつけない程度に良き夫を演じている。幼稚園に通う一人娘の、年中行事の全てには顔を出せないものの、可愛い盛りの子供の世話を怠けもしない。

さらには仕事と家族サービスの合間を縫い、彼は趣味の時間を持つようにもしている。娘が寝て、妻がテレビのドラマに夢中になる頃、自室でゆっくりインターネットを楽しむのが彼の日課だ。妻は夫の趣味に対し、パソコンに慣れてくれると年賀状を作成するにも楽だと言って喜び、干渉をするようすはない。元来体を動かすことを好む性質で、インドア志向の夫の遊びごとに関心がないらしかった。


彼はチャットで知り合った女と浮気を始めている。

二人が出会って早五ヶ月。その女とは最初から、何故だか妙に馬が合い、暇さえあれば四方山話から互いの人生論まで重ねあった。口火を切ったのは、美味しいランチの店を尋ねた女のほうであったかも知れない。もっとも彼自身、そろそろ俺も浮気のひとつくらい経験していい年頃だと意識していなくもなかった。


彼は自負している。

「遊びは遊び。相手も同意の上であり、自分は感傷に浸るほど下手な男ではない」


先月の初め、彼は自室のパソコンから情事を締め出し、代わりに携帯電話のアドレスと番号を交換した。初めておち合う約束の前に、彼は人違いをしないよう念のためと言って写メールを要求した。女いわく三十手前の、分別ざかりの年頃で、適度に絵文字をあしらいつつ「バツイチなの」と打ち明ける文章が、妻と違ってソフトな印象で、実際聞きわけも良い。ディスプレイごしに本人の姿を眺めてみると、想像したより地味ではあったにせよ、チャットでの明るい印象や高い地声とマッチしていると思った。だから早速会ってみると、男から見て可愛く感じる肉付きの小柄な体に、ぽってりとした唇や、目じりの下がった奥二重が安心感を与えてくれる。

以来携帯には時おり、取引先を装った女から連絡が入るようになった。しかし彼は、遊び相手の元へ浮き足立って向かうまねをしない。彼は大人なので安全運転を好む。交差点の信号が青から黄に変わった時にも、後続車両の流れを止めない程度に直進しないことにしている。反面、簡単なジンクスは気にするから、逐一信号に引っかからずデートの場所に着いた夜には、自分の運の良さを自信とともに噛みしめるのだ。


彼女は、今度ばかりは最後まで事を進める決心をした。

情が濃いのかだらしがないのか、彼女の恋愛感情の、終始開いたひだに心地いい異性にだけ尽くし、散々な目にあっても涙を流したぶんだけ燃え上がる。障害があればある程、独占欲にかられる癖があった。毎日腹が減るように寂しさが募ってならず、喉が渇くように、好きになった男を抱きしめてしまいたい衝動にかられる。しかし失敗を重ね、急かせば相手が逃げてしまうのだとはわかった。何度目かの恋に破れた後、チャットに新たな出会いを求め、実年齢よりも少しさばをよんで登録した。そして自分好みのパートナーに出会ったのだ。彼女の新しい相手は、引け腰のわりに無難な口説き文句が上手いサラリーマンである。既婚者だ。帰りの時間を気にするくせ体を欲しがる男の素振りが、彼女には不器用な愛らしさに映ってならない。だから車中でのキスと、服を着たままペッティングをするだけに押し留めた。彼女は念じている。こんな男の妻には私がふさわしいと。これまでの経験を反芻し、彼女は出会いをゆっくりと育みながら成就させる覚悟を誓った。人に悪く言われようがどうでもいい。自分と自分の愛する男のためを思えばこそと考えて、既に腹を括っている。こめかみを震わせる程の激情を前歯で噛み殺している。


今夜も彼は、不倫相手のもとへとハンドルを切った。車の込み合う時間の割には交差点の繋がりがスムーズだ。カーラジオから流れる英語のロックが何と言っているかはわからないが、アップテンポが気分を盛り上げ、「Are you gonna go my way」というフレーズがとてもいい。はてさてこれからどんな寝物語をはじめようか。学生時代の彼は女にもてたものであったが、今は余計なやっかみを避け、知識ぶった人間に見えない程度の話題を仕入れておく主義だ。流行のビジネス本や文芸の書評から得た話題、画像サイトやニュースが箸休めに流す面白情報などなど、とっておきのトークを頭で練りつつ、いつものスクランブル交差点に差し掛かる。明かりを消した部屋の中、くねる白い腹や、きっと黒々と密集しているであろう陰毛、そして苦しげに喘ぐ女の薄く開けた目元が浮かぶ。


かのシェイクスピアはこう書き残した。

――嫉妬とは、眦(まなじり)を緑の炎に燃え上がらせた怪獣である。

車が走り出す。無論彼はそんな話を知らない。




ファミレスの店長の舌打ちを三十回程聴きながら会計を済ませ、麻里子の提案で向田家にお邪魔することになった。

到着した場所にはタイムスリップでもしたかのようなみすぼらしい家屋が一軒。どうやらここが茉夏の家のようだ。

「分かりやす程にボンビーな家ですわ……」

一美がだらしなく口を開けたままそう呟く。
麻里子だけは不信な顔で見つめていた。

「では、遠慮なくお入りください」

茉夏に倣って玄関らしき場所で靴を脱ぐ。当たり前だが、靴を脱がずにお邪魔しようてした者が数人居たことは端折っておく。

「皆さん、お飲み物は我が家特製のオレンジジュースでいいですか?」
「いや、それさっきのファミレスのオレンジジュースでしょ? 別にいらないわよ」

先程の焼酎のボトルを寂しそうに床に置くと、茉夏は床の間からぬか漬けを取り出した。

「毎日混ぜとかないと腐っちゃいますから、ちょっと失礼します」
「人前でやることじゃなくない?」

なんか胡散臭い貧乏アピールに麻里子は考え込む。何か違うと。

「それにしても何も無いとこだね……。ラジカセぐらいしか置いてないよここ……」
「唯一ある雑誌がジャンプで、表紙が燃えるお兄さんですわ……」

珍しく李奈が溜息を吐いている。それくらい何もないということなのだろう。

「ラジカセの再生ボタン押したら、夏の日の1993流れて何か懐かしくなりましたわ……」
「あんた、本当に女子高生?」

まあ、最初から女子高生の年齢じゃないことくらい分かっては居たけどね。とは流石に口には出さなかった。いや、出せなかった。

「で、これから何をするんですか? わたしが三日三晩夜なべしかけて作った薬でブンシャカします?」
「何それ? 面白そう! ブンシャカしたい!」
「しなくていいから! 何よブンシャカって!」

暇を持て余してきた李奈達をこれ以上放っておくわけには行かないと考えた麻里子が、ある考えに行き着いた。

「よし、帰ろう!」

グッと握りこぶしを作った麻里子に誰もが冷たい眼差しを送った。

「意味が分からないことを言わないでくださいですわ! 貴女が言う通りにここまで来ましたのに、これじゃあ、何の解決にもなってないじゃないですの」
「だって、私の感が外れたみたいなんだもん。この子の貧乏キャラが作り物っぽかったから、確かめに来ただけだし」

正直面倒臭そうにそう言った麻里子に対し、茉夏が結構大き目の声で「ギクッ」と言った。

「茉夏さん? 何か言いませんでした?」

聴き逃さなかった春香が茉夏に怪訝な目を向ける。
てか、誰も聴き逃していなかったが、台詞の無い春香に任せて見ただけだ。

「いえ、ぎっくり腰が再発したかもぉ? って思いまして」
「それは大変ですわ! お姉様、茉夏さんを今すぐ整骨院か鍼灸院に連れて行かなければいけませんわ!」
「あんたんとこの副部長って使えないね……」
「折角台詞与えてもこの程度だなんて、初期のヒーロー部から出ているとは思えませんわ……」

誰もがここは茉夏を追求する場面だと思っていた中で、下手な言い訳にまんまと騙された春香に全員が呆れ返った。
そんな中、もう一人口を開いていないまりやが、麻里子の肩を叩く。

「そっか。あんたも居たね……。で、なに?」
「じゅりが今こっちに向かってるって」
「え? じゅり?」
「さっき、メールあったから、ここの住所教えといた」

まりやが、喋らなかったのは人数が多すぎるから面倒臭いとか、存在を忘れていたのではなく、先程からメールをしていたから何も話さなかっただけなのだ。

「そういやなんであの子居なくなったんだっけーー」
「猫大好きフリスキィィイック!!」

向田家の窓をぶち破って、朱里が麻里子の側頭部に綺麗なドロップキックをかました。

「悪い子は居ねがぁぁぁ!!」
「ちょ、あんた急に何よ!?」
「人のスマホをぶん投げといて、お洒落なイタリアンカフェで優雅にお茶漬け食べるなんて書き置き残すとか、イジメだぁぁぁっ!!」

濡れタオルをヌンチャクのように前に突き出す朱里は、いつもの怯えた仔犬のような顔とは違い、怒りに満ちている。ただ、薄っすらと目には涙が溜まっているようだった。

「誰もそんな場所でお茶漬け食べるとか言ってないし、それに行ったのはファミレスだしーーぐぶぇ!」

麻里子の弁明に聞く耳を持たないようで、朱里はたっぷりと水に濡らしたタオルを、麻里子の顔面に打ち付けた。

「そ、それ、シャレになってないって……」
「洒落たレストランで日替わり定食のホッケで昼間からビール飲んだだって? へぇ……」
「言ってない言ってない! そんなこと一文字も言ってーーあだぁっ!」

二発目の濡れタオルも顔面に打ち付けられる。
何時の間にか用意された水の入ったバケツにタオルを漬けて水分補給を始めた。

「じゅりがタオルに水を染み込ませ始めた!」
「まずいですね。いばらの鞭がグリンガムの鞭にまでレベルアップしてます」
「はぐれメタル並みの素早さで逃げないと、次の攻撃は会心の一撃確実だね」

残りのヒーロー部員三人がわざわざ実況に回るほど、朱里の怒りはバーサーカー状態だった。
麻里子、一世一代の大ピンチ!

「中村麻里子のハリセンが今ならひのきの棒か竹竿に見える……」
「れなっち、じゅりを止める薬はないの?」
「ある事にはあるんですけど、今の高橋さんに近づける勇気は持ち合わせていません。わたしの防御力なんて皮の腰巻程度ですから……」
「じゃあ、それボクにちょっと貸して!」

怪しげな錠剤を玲奈から奪い取った李奈が、麻里子に向かって投げ付けた。

「受け取れ! 悟飯!」
「え? ごはん? な、なに?」
「仙豆かポタラを投げたときの悟空の再現だとは誰も気付くまい」
「やぎさん解説ありがとう」

まりやが起きてるときは、完全に実況か解説キャラになってきていることに、今更ながら作者自身が気づき始めていた。

「ちょっと、意味が分からないんだけど……! これどうしたらいいの?」
「じゅりに飲ませれば第二形態に変身するんだって!」
「いや、だったら飲ませるわけないでしょ! ただでさえ恐いのに」
「それを飲ませれば、怒りが収まるはずです」
「早く言ってよ」
「大丈夫。仮面ライダーの変身を待つかのように、じゅりも空気を読んでまだ何もしてこないから。あと、姫部三人も何だかノリで夏フェスに一人で行ったら、周りがカップルとリア充ばかりでなんか場違いなとこに来ちゃった感出してくれてるし」

まりやの実況と解説の例えがわかりやすいような、分かりにくいような感じになってきたが、麻里子は玲奈に言われた通り、朱里の口の中を目掛けて錠剤を放り投げようとした。

だが、それも上手くは行かなかった。
アホの子ならともかく、常時口を開けっ放しの女子学生なんて居ないのだ。
しかも、今まで李奈達のやり取りを空気を読んで待っていたのだから。

「ねぇ、終わった? それじゃあ、最後の渾身の一撃を喰らえーーんぐ」
「あー、喋っちゃったね……」
「黙っておけばよかったんですけどね」
「バトル漫画とか、ヤンキー漫画も大体殴ったりする前に無駄口叩くから」

濡れタオルを振り上げる瞬間に口を開いた朱里に、麻里子が錠剤をすかさず放り込んだことで、朱里は我に返った。

「あれ? わたし、なんでこんなところに……?」
「た、助かった……」

人間、何が怒りの引き金になるか分からない。そんなことを学んだ麻里子達であった。

「じゃあ、帰ろうか」
「えと、わたくし達の相談は……?」
「疲れたからまた今度ね」

バイバイ。そう手を振りながらヒーロー部員は向田家を後にした。夕焼けが彼女達を真っ赤に染める。その後ろ姿は、正にヒーローのようであった。

「あ、爺や。みんな帰ったわ。すぐに迎えにきてちょうだい。ええ、バレないようにオート三輪でね」





つづく




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そういや生徒会でてきてない……

薬のおかげで朱里の性格を自由自在に!?

平常モードのまりやぎさんに戻しまーす!

次回
「未来からの刺客」

お楽しみに
彼女はいつも、赤い自転車に乗って、私の家の前を颯爽と駈けて行った。

自転車通学禁止のうちの学校で、自転車通学をするのは、特別家が遠くて、学校から自転車通学許可を貰っている生徒、あるいは、校則なんてクソクラエな不良グループくらいだった。不良グループは、通学途中で自転車を無作為に放置し、それから学校へ向かっていたので、近隣住民からは自転車が邪魔だという苦情もたくさん入っていて、学校側は対処に手間取っていた。

彼女はどちらにも属さない。家は学校まで徒歩二十分程度だから、自転車通学許可は降りないし、不良でもない。どちらかといえば大人しくて、少しパーマのかかった柔らかい髪が上品な、優等生である。それなのに、彼女が自転車通学しているのは、イメージにそぐわなくて、いつまでも違和感を抱えずには居られなかった。

「本来、私は優等生でも何でも無いのよ」

彼女は一度、そう言っていた。帰り道、部活が終わった後、偶然出会ったのである。

「私の演技力が、皆に錯覚を見せて居るのね」

彼女は嫌味無く、無邪気に笑ってそう言った。

演技だと彼女は言うけど、私からすれば彼女は十分優等生である。勉強は誰よりも出来るし、制服を着崩したりしないし、化粧もしない。誰にでも優しくて、正確な判断力も持っている。私は、彼女を優等生と思っていたし、そんな彼女に憧れても居た。勝手に自転車通学してしまうところも含めて、羨ましいと思っていた。

それからたまに、部活帰りに彼女に出会った。彼女は決まって制服姿で、私を屈託無い笑みで迎え入れてくれた。部活が終わったばかりで、髪の乱れた体操服姿の私が、今まで何していたのかと問うと、

「図書室で、本を読んでいたのよ」

と言ってから、その日読んだ本の内容を、ダイジェストで、しかしながら丁寧に、私に説明してくれるのだった。その彼女の声は、柔らかくて、春先の空気のように安堵を誘う。彼女はいつも、私を赤い自転車の後ろの席に乗せてくれた。彼女の背中から漂う、プチサンボンの香水の香りが、柔らかく私の鼻を擽った。

彼女は、そんな感じだから、男の子からも人気があった。

癒し系の顔とか、おっとりした性格とかが、受けが良かったのである。そんなところは、羨ましくもあったし、私は、最近気付いたのだが、彼女に言い寄る男の子達に、少なからず嫉妬していた。彼女を独占してしまいたいという、友情とも、恋愛感情とも取れない独占欲が、私の中に芽生えつつあった。


部活上がりが遅くなった、夏直前の蒸し暑い日の夕方であった。下校時間はとうに過ぎていて、私は部活終了後に、教室にお弁当箱を忘れたことに気付いた。お弁当箱は、うちには一つしかないので、取りに戻らないと、明日の昼食を作ってもらえなくなる。私は、友人に先に帰ってくれと言い残し、一人で夜の闇に飲み込まれた校舎内へと向かった。

校舎内には、すっかり人の気配が消え失せ、無音の世界が広がっていた。私は半ば引き返しそうになりながらも、非常口の緑色の明かりを頼りに、廊下を早足に進んで自分の教室を目指した。鍵はまだかかっておらず、すんなりと入れた。私はそそくさと自分の机の中からお弁当箱を取り出して、鞄の中に入れた。

昼間の校舎が醸し出す陽気な空気とは打って変わって、不気味な空気が漂っていた。私は暗闇が伸びる廊下を目の前に、生唾を飲んだ。小学生の頃見た、夜になると学校内の器材が様々な妖怪へと化し、迷い込んだ少年に襲い掛かる、といった内容の映画を、不意に思い出し、こんな時にそんなことを思い出す自分を責めつつも、殆んど逃げるようにして校舎を出ようとした。その時だった。

人の声がする。

私の聴覚が、過敏にそれを察知し、私の背中に嫌な汗が伝い落ちた。

廊下には、非常口の緑色の明かりしか伸びておらず、教室の明かりも全て消えている。

しかし、人の声がしたともなれば、自然と人の気配も感じてしまうのだった。

隣の教室。そこに人が居るのは、間違いないと確信した。恐怖心と好奇心が頭の中でぶつかり合いながらも、私の足は自然と、気配漂う教室へ向かっているということがわかった。怖い、怖い、見たくない、と強く思っているのに、それ以上に見てしまいたいという欲求が高まっていた。私は忍者にでもなったかのように、慎重な足取りでその教室へと近付き、前方のドアから、目だけを光らせて、中を覗いた。

暗闇の中に、二つの人影が混じりあっていた。柔らかいパーマのかかった髪が、教室の奥一面に広がる窓から差し込む月明かりに照らされて、はっきり映った。

息をすることさえ忘れてしまった。

自分の目を疑った。

今見たことは、全て幻覚だと思い込もうとした。

忍者としての自分の姿を忘れて、私は逃げ出すようにその場を立ち去った。恐怖心も、完全に消え去っていた。心臓がばくばく音を立て、校舎を出る頃には私は涙を流していた。不穏な空気が立ち込めた教室を、もう一度振り返って確かめようと思ったが、その勇気も起きなくて、私は校舎に背を向けたまま、必死で走って逃げた。

帰り道、まだ道端に止めてある赤い自転車を見付けて、私はほぼ確信した。同時に、絶望した。比奈子は図書室で勉強していると思い込むことは、不可能になった。私にもう、走る力は残っていなかった。空気の抜けた風船のように、私はくしゃくしゃになってしまっていた。それくらい私は、絶望したのだ。

次の日部活が終わってみると、何食わぬ顔をした彼女が、いつも通り、制服で、屈託無い笑みと一緒に、私を待っていた。

「一緒に帰ろう」

彼女は、いつもと何一つ変わらなかった。私は無言で、彼女の後ろを着いていった。彼女の後ろは、いつも通りプチサンボンの匂いがしたけれど、私はその中に不純な臭いが混じっているような気がして、吐きそうになった。

住宅地の隅に止めてある、赤い自転車に跨がる。私はいつも通り、後ろの席に座った。彼女の髪が、柔らかく香った。泣きそうになった。

蝉が鳴き始めていた。夕焼けが家々の隙間を赤く染め、その日差しを浴びながら、自転車は坂道を颯爽と下って行く。

「今まで、何していたの?」

殆んど義務的な質問だった。いつも訊いている筈なのに、今日は喉に声が引っ掛かって、変にどもったようになった。

「図書室で本読んでたの」
「嘘」

さっきのくぐもった声とは打って変わって、自分でも驚くくらい、はっきりと否定した。彼女は不思議そうに後ろをちらりと振り返った。

「どうして?」

彼女はわざとらしく訊いた。

「……私、昨日見たんだよ」

躊躇いがちにそう言うと、彼女は少しだけ身を固くしたが、すぐにほどいて、

「あー、昨日の、貴女だったんだあ」

と、へらへら笑いながら、焦る様子も、困る様子も無く、寧ろ納得したように言った。私は腹の底が熱くなるのがわかった。

「止めて」
「どうして」
「いいから止めて」

自分でもびっくりするくらい、乱暴な声でそう言うと、漸く自転車は止まった。私はひょいと席を外し、じっと彼女を睨み付けた。彼女はあっけらかんとした表情で、不思議そうに私を見つめている。

「相手は誰?」
「三年の先輩」

彼女は何も隠さなかった。日頃の挨拶のように当たり前にそう言うので、私の怒りは更に高まった。

「何であんなこと……」
「エッチなんて、将来誰でもするじゃない」

エッチ、と何の抵抗も無く言って退ける彼女に、私は言い様の無い羞恥心と、それを凌ぐまでに膨れ上がった怒りを覚えた。

「そんな子だなんて、思わなかった」

殆んど自棄になってそう言うと、今まで何を言ってもきょとんとしていた彼女の顔が、一気に曇った。私は恐怖を覚えた。昨日校舎で感じた恐怖ではない。底無しの闇に包まれた、初めて見せる比奈子の怒り。私は圧倒されながらも、負けじと睨み返した。しかし、彼女の表情には、確実に萎縮させられていた。足が震え、自らを情けなく思った。

「貴女は、私をわかってないわ」

呆れたように、しかし嫌になる程冷たい声で、彼女は言った。じっとりと汗をかくほど暑いのに、私はそう言われた瞬間、寒気を感じた。

「私は貴女の、理想の私じゃないの。前も言ったでしょ。優等生じゃないって。貴女は私を肯定しすぎてる。私だって悪いこともするし、エッチだってするわ。貴女の理想通りになんか、生きていられないもの」

私は、裏切られたようになって、気が付いたら涙が止まらなくなっていた。彼女は冷静だった。自分がひどく、愚かしく思えた。彼女は泣いていなかったけど、とてつもなく悲しんでいるということが、痛いくらいにわかった。謝らなきゃいけないと思ったけど、言葉に出来なかった。

「もう、いいわ」

最後に彼女はそう言い残して、赤い自転車をすいすい漕いで、ついには見えなくなってしまった。

夕陽が徐々に見えなくなって、群青色が空の殆どを埋め尽くしてしまう。私は、無感情に涙を流し続けた。そして同時に、彼女に言うべき言葉を、探し続けた。だけど、空っぽの頭には、適当な言葉がちっとも浮かばずに、どうでも良い言葉ばかりが、浮かんでは、砕けるようにして消えていった。


次の日、彼女は学校に来なかった。その次の日も、その次の次の日も、私の家の前を赤い自転車が駆けて行くことは無かった。元々彼女の担任だった先生に話を聞くと、親の都合で引っ越ししたという。

私はまだ、心中に思いを秘めている。私は最近、美化した彼女ではなく、実在する彼女の象を頭の中で描く。もし、再会出来たら。私は何と言うだろうか。言えなかった謝罪の言葉を、繕うように言うのだろうか。

いや、実際はそんなことは言えない。きっと彼女は、私との以前のやり取りを忘れてしまったかのように、屈託無く微笑んでくれるだろう。そして私は、謝罪の代わりにこう言うのだ。

「今まで何をしていたの?」






おわり