(釣り、したんだっけ)

あのとき使っていた鞄はもう引退して、押し入れの奥で眠っている。

件の番組企画にいちばん意気込んでいたのはみなみで、友美と敦子はその勢いにつねに引きずられていた。

結局そのみなみは魚を釣り逃し悔しい思いをしていたらしいが、帰り際、

「わたしさぁ、も一個、くやしいことがあるんだ」

むすっとした表情を向けた先には海がある。

「なに?」
「なにって、あっちゃん、ココ日本海だよ? もぉ、ぜったい夕陽見たかったのに、昨日魚釣りに必死で、見れなかったんだもん」
「夕陽、かぁ」

敦子もつられて西を向いた。細かな船がまばらに見えるその向こうに、水平線がゆるやかに引かれている。

「海に沈むんだよ」 

それはきっと目のさめるようにきれいな光景だろうと思った。

あれから何度か日本海をのぞむ機会はあったものの、海に沈む太陽というものを見た記憶がない。敦子の知り得るかぎり、みなみや友美も同じだろう。

思いめぐらしていると、ポケットでさきほどの包みがかさりと鳴った。それに気をとられて指と月から意識をはずすと、マネージャーがあわてたように携帯にむかって何か捲し立てている。

「わかった、わかったから、いまからそこ、行くから、目立たないようにしていなさい」

命令口調で通話を切った。携帯をたたむのももどかしいようで、眉間に皺をつくった彼女はどこかに寄るよう運転手に告げる。それをうけて、いつもの帰り道、まっすぐに抜ける交差点を車は左に曲がった。

それまで横手にみえていた月は後ろにそれて、目で追った敦子から逃げるようにどこかへ消えた。







空には半分欠けた月がかかっている。絹を布いたように広がる雲に、ときおり隠れながら浮かんでいる。無機質なコンクリートの壁の合間にあるためか、それは相応に安っぽく、さながら書き割りのようだった。

敦子はブラインドを閉じて窓から部屋の中へと視線をうつす。

そうして、机の上に見慣れないものがあることに気付いた。

「なんだろ」

帰り支度に忙しく、今の今まで目にもとまらなかった。

スタッフからだろうか、お世辞にもきれいとは言えない字で紙にお疲れさまと書いてある。その文字にかかるように置かれているのは、片手におさまりそうなほどの小さな包みで、姿と同じくやはり控えめにリボンが巻いてある。

主演の映画初日まで、もう日がない。

すこしでもスタッフからの期待に応えなければという気負いもある。それが周囲には妙な緊張感として伝わっていたのかもしれない。

また、年中公演を行っていた関係で慣れているとはいえ、一日中稽古に撮影と翻弄されればさすがに疲れも出る。それを気遣ってだれかが買い置いてくれたのだろう。

「はー、がんばんなくちゃねぇ」

敦子は一度、いただきますと手を合わせて感謝したあと、それを上着のポケットへ無造作に突っ込んだ。

送迎のワゴン車に乗り込んで、ドアを滑らせる。どんと閉まる音が寒々しく響き、あらためて自分の周囲に去年のような仲間のいないことを実感する。助手席に乗り込んだマネージャーが発車をうながすと、車は静かに動き出した。

右手には、先ほどよりはやや高くなった月がかわりなくぶらさがっていて、敦子は意味もなく光に手をかざした。金色に縁取られた指を目でなぞる。

いつかは、同じ手を太陽にかざしたことがある。


ずいぶん昔の話で、なぜか「僕らはみんな生きている」を合唱していた。

たしか、みなみと友美、そして敦子の三人で日本海側の県へ出かけたときのことだった。電車の窓からまぶしく陽が射し込んで、みなみが「血管、みえるかな」と変わったことを言いながらガラスに手をあてていた。

敦子がおもしろがって真似をすると、置き去りにされるのを怖がるように友美もそれにならった。







「……以上が、C3罹患者『渡辺麻友』の最後の行動データです。彼女の体内にあったモニタリングシステムが彼女を外側から撮影したことを鑑みるに、既にあれは彼女の体外から排出されて久しいものと考えていいでしょう。データを見ても、惨状を見ても、彼女の死は否定できません」

淡々と口にする内容に、自分自身が懐疑的だった。否、あたしは目の前の相手に嘘を吐いている、という自覚がある。渡辺麻友は新死んではいないのだ、と。きっと戻ってくるのだ、と。声を張り上げ口にしたい衝動に駆られているのは、間違いないのだ。

「成る程、な。確かに、そのような形でモニタリングが不可能になった以上、彼女の生存を期待する要素は限りなく少なくなっているのは確かだ。だが、君は本当に彼女が死んだ、と思っているのかね?」
「あたしの口からは、何とも。最後の映像を見る限り、崩壊したのは間違いありませんし、何よりあたし自身が、後戻りできない域にあった彼女を見ているのはごまかしようの無い事実です。彼女を止められなかったのは、あたしの」

FM対策本部長、つまりはあたしの上司に当たる警部は、資料を指ではじきつつ、何かをためらうように言葉をつむぐ。

「確かに、常人では、いや、常人でなくとも、このデータは致命的である、と考える君は正しいよ。しかし、彼女の死に様がこれまでと比較すれば、余りに小奇麗すぎてならない。それが真の死である、と考えれば確かにそうなのだが、この風化が毒物排出の為に彼女自身の因子が生み出した新規プログラムだとしたら? 彼女が本当にC3のままだとて、我々は彼女の行方を探らねばなるまい、と考えている。とはいえ、現状では探すこともままなるまい。彼女の件については、担当監察官である君に一任するとしよう」

待っていてあげるのも愛だ、と笑う警部を前に、呆気にとられることしかできなかった。知られていた、というより、あたしの対応が露骨すぎたのだろうか。


ともかく。報告書の作成を終えてから、あたしは再び行かねばなるまい。彼女が消えた、あの場所で。あたしたちは再会すると、誓ったのだから。


→Φ←

結論から述べるならば、小嶋陽菜の願いはかなわなかった、というべきだろう。しかしながら、渡辺麻友が彼女に一言も残さずに去る、ということをする少女でないことは、この記録を垣間見た人間からすれば明らかなことであろう。


化学工場跡で彼女が見つけたのは、廃材で作られた小さな人形だった。方形を積み重ねただけの、酷く不器用なそれは、何の前触れもなく動き出し、地面に一言記して崩れ落ちた。


「必ず戻る」と。人形から離れていく粒子の束を眺め、抜け殻を抱きしめて。


小嶋陽菜は、声もなく泣き崩れた。


FM×D 記録データein over







FIN.
→Φ

「っ、ぁ……!」

振るった右足が、音を立てて崩れ落ちた。その有様、その衝撃に驚く間も許さず、胴を貫く第二撃。それらによって麻友は一度死に、再生を試みて、それが半ば以上不可である、と悟った。脳裏で音を立てて解析される体内の毒素量は、もう限界など超えている。

崩れ落ちた足先も、胴を離れた脇腹の肉も、こちらに戻ろうとしては自ら離れ、を繰り返す。恐らくは再構築した時点で、肉体の崩壊を招くと理解しているからだろう。

足りない肉は、欠損で補う。つまり、男の前に立ち上がるこの身、その左腕は姿を喪ってしまうということだ。


眼前には尚も吼える男の姿。牙の生えそろった口腔を見せ付け、再びに毒の散弾をバラ撒いて、こちらへと猛進する。牙を受けてアウト、毒液を受けすぎてもアウト。廃材を探す余裕もなく、かなり厳しい戦いであることは否めない。むしろ、陽菜の言う通りの負け戦だ。

「ぐ、ぅぁ、あァァァぁッ!」


左肩、脇腹、右頬。次々と掠めていく硫酸、硝酸、その他諸々が混在した毒を避けるべく、受けた箇所から肉が剥がれ落ちる。その欠損分、特に挙動を左右する部分のみを補い、他は切り捨てる。消耗戦を強いられる最中、再び爆風が身を払う。その一瞬が、その一瞬こそが、渡辺麻友絶命への第一歩。


体が跳ねる。激痛とか苦痛とか、そんな易い言葉は痛覚を「感じられる」間にあってこそ現実的なものである。細かい思考を削り取り、一切の余念もなく壊していくその毒は、最早殺すだとかそんな概念を置き去りにして、二度、三度と脈動する。だが、それでも。飽くことのないFM因子の特性は、この期に及んで一つの結論を弾き出す。それは、一度きりの好機。双方の死を以って終わらせる、最悪の自殺のカタチだ。

「ぃ、なば、……っと、も、だろ」

男の牙、その内部の血管を逆流するわたしの血。わたしの肉。同時に、動きを止めていた地面の肉塊が、驚くべきスピードでこちらへと動き出す。主の意図は、肉体すべてを引き寄せる。男の内部へ忍び込んだ血液は、内部から。跳ねる肉塊は、カタチを変えて外部から。掲げた不定形の右腕をして、それらは男の体を引き千切り。

「は、はっ。まずいね、こりゃ」

再構築された肉体、その左腕が音を立てて崩れる。まるで壊れた蝋人形。

血を流さず音も立てず、白磁のようなそれはすぐさま粉微塵と消え去っていく。

当然のように、断裂面からさらに風化が加速。ぼろぼろと崩れていくその体で、一体何ができるだろうか。まだ、誰かが救えないだろうか。

そんなことばかりを考え、麻友は、最後の戦果一つを残し、消えた。


ただひとつだけ、極小のCCDカメラのみを残して。

後死 風速三メートルの死界







→Φ←

化学工場での爆炎は、常には有り得ぬものである。恐らくは化学物質による炎色反応なのだろうが、そのあまりの禍々しさに吐き気を催す者、消火作業に入れず呆然とするものが多く現れても不思議ではなかった。

更に恐ろしいのは、工場内で有無を言わさず殺されていく被害者たちだ。焼死、窒息死などまだかわいいもので、強酸、強アルカリの薬品に全身を侵され、その顔すらも熔け崩れた死体が山をなして転がっているのだ。それらを行った現況はといえば、爆炎吹き上げる只中を楽しげに歩き、溢れ出す薬物に嬉々として身を曝し、その爛れた肉体を更に膨れ上がらせ、ここぞとばかりに殺人を繰り返している。喚起の歌を口ずさみ、呼吸するように哄笑う、どうしようもない殺人者。その有様は、致命的殺人者の行き着く先、C5そのものであった。


その男の左手が、閃く。爛れた腕が脈打って、哀れな被害者目掛けて強酸が浴びせられる――筈、だった。


「その辺にしなさい。このクサレ外道。アンタのために世界があるなんて思い上がった人殺し、マトモな死に様をできるなんて考えていなでしょうね?」

軽々しい声に反し、そのC5、《薬禍遥災》を襲ったのは重々しい金属音。咄嗟に避けたそれは、壁面へと突き立つ。

鉄柱。無骨な形一つを以って男を貫かんとして、代わりにその手中の薬品を受け止めたそれは、数秒と保たず熔け崩れていく。

男が振り返った先に居たのは、二十を目前にした程度の少女、渡辺麻友の姿だった。だが、彼女の姿は先にも増して奇怪である。無形かした右腕、紅さを増した瞳、荒く篭った息遣い。それを見て、男に去来した感情が何であるかは考えるまでもない。明らかな、喜びだ。

同類が居る。今のはどのようにして行ったのか。不定形な右腕の正体は磁力を帯びているのか、或いは力業を行使するための変容なのか。識りたい、という好奇心。自らより劣るFMキャリアの登場による狩りの予感。ここで吼えずしてどうしろというのか。

悦んで、歓んデ、殺そうと男は確かに決意して、その思考を、再びの鉄塊に阻まれた。

「遅イ、よ。力に頼ってるだけのアンタに、わたしが殺せるわけないでしょう? ここ、使いなさいよ」

トントン、と頭部を指差す麻友の姿、頭部へと激突する鉄塊。距離をとったまま仁王立ちし、余裕の笑みを浮かべる彼女に、男が酷く腹を立てるのは必然であった。


「SHEEEEAAAAAAH!!」


吼える。汚れた瞳を思い切り拡げ、両手をこれでもかというほどに、激しく振り回す。再び皮膚を這い回る毒劇物の散弾を、麻友はあっさりかわして見せた。一度踏み込んでから、いつの間にか引き寄せていた廃材を、高速で振り回し、それらを打ち落としにかかる。

その動きの苛烈さは、一方的な虐殺などでは断じて研鑽し得ない、自ら死地へと飛び込んできたのをにおわせるものだった。

白煙を上げる廃材を、振りかぶって男へと投げつける。弾丸もかくやと言わんばかりのスピードで放たれたそれを男が打ち払うが早いか、麻友の左足刀蹴りが唸りを上げて男の頭部へと襲い掛かる。 


回転を増す速度、そこから放たれる縦横無尽の攻撃だけを見るならば、この戦闘は渡辺麻友の圧倒的優位とみてよかっただろう。

だが、相手は飽くまでC5である。肉体を守る術はひとつではなく、それが単なる防御ではないことは明らか。体表を巡る爛れた肌が強酸を帯びていても何ら不思議ではなく、それがこれまでの連撃を殆ど徹していないのもまた、明らかな事実だった。


そう、それは彼女の足とて同じことで――唸りを上げた左足は、踝から下が崩れ落ちた。