ひとしきり騒いだあと、片頬を照らす光に気がついて、みなみは目線を車外へ向けた。

月がある。街灯さえうす暗く思えるほど、煌々と真上にちかいあたりで照っている。

無意識に手を窓にあてた。

指の合間からこぼれるように光がおちてくる。

「なにやってんの」

みなみが膝のうえに大事に置いた包みをうまく避けて、身を寄せてきた友美はやはり月をあおいだ。

「えっとねえ、なーんか、血管みえないなーって思ってさ」

ばかにされるのを承知で言うと、

「ミエナイねえ」

真面目に返されて困った。



記念日というものをはじめて考え出した人は偉いと思う。

カレンダーを指でくるくると囲うようにして、みなみは蛍光ペンでにぎやかに彩られた数字をみつめる。

それは以前遊びにきた陽菜が、家の主人に隠れてこっそり書き込んだものらしい。うかつにも三月が終わるまで気付かずにいて、みつけたときに吹き出した。

「19」の数字はほとんど隠れてしまっていて、とりどりの装飾が見知った筆跡で塗りたくられている。

微妙に配色のバランスが整っているので、絵心はある。

「バーズデイ、誕生日でしょ。クリスマスー、まめまきー、それにバレンタイン、と」

職業柄、祝日というものの恩恵にあまり浴していないせいもあって、記念日でもイベントごとのある日くらいしかすぐには思い浮かばない。

部屋には同意をもとめる相手はおらず、自分自身で確認するかのようにつぶやいた。

「やっぱ、記念日っていいよねえ」

振り返って机に置いてある卓上カレンダーを見る。

この花丸は、来年も再来年もずっと同じ日に打たれ続けるにちがいない。

すこし名残惜しく思いながら、三月のカードを抜き取り四月に変える。そこにもやはり八日に落書きがほどこされていて、「ここは関係なし!」と小さな字で書かれていた。

おいおい、とこころのなかで呟きながら、今日の日付をみる。

今日の日付には、なにもない。

みなみはおもむろに近くにあったペンをとって、数字のまわりを丸に耳をつけた猫の輪郭で囲う。


敦子のくれた包みの中味は、市販のチョコレートだった。








散歩の途中、行かせまいとするかのようにまとわりついてきた仔猫は、しっぽを真上に伸ばしてのどを鳴らしている。

餌でもねだっているのか、しきりに小さな頭をくるぶしの上あたりに押しつけてきた。

(だれかさん、みたいだよ)

屈託なく甘えてくる後輩メンバーを思い浮かべて、

(でも、ここまで可愛くはないな)

自分で打ち消した。

仔猫は摺りよってばかりではなく、いったん身体をはなしてはじっとこちらをうかがい、またしばらくしてから温もりのある冬毛をあててくる。

背をなでようとすると、気配におどろいてすこし後ずさりした。

その様子は、

(むかしのあっちゃんだ)

考えてみれば、彼女はたしかに猫に似ている。

甘えてくるかと思えば急に距離を置いてみたり、ただどうも、最近は自分の方が構われているかのような印象がある。

グループから出てひとりで活動するようになってから、敦子は以前とどこか変わった。

すこし目を猫から逸らすと、近くに友美の影がある。

「かわいいねえ」と言うと「うん、かわいいねえ」と影は答えた。

こいつは食べものをくれない、そう覚ったのか、それとも単に飽きたのか、仔猫は一声ささやくように鳴いてから近くの茂みの方へ去っていく。

はじめはその一匹を残していくことに申し訳ない気分になったが、となりの影がみなみを引き起こしつつ、猫の向かう先を指さした。

「家族、いるんじゃん」

暗くてわかりにくいものの、茂みの前に二匹ほどかの猫を待ってるらしい影がある。

すると、先刻までは自分たちが残していく側だったのが、今度は猫に取り残される格好になった。

「寂しくは、ないか」

車を呼んだと告げた友美にも聞こえないくらいの声で、みなみは言った。

朝から胸にわだかまっていた暗鬱な気分は、猫で薄れ、そのあとすぐかき払うように晴れた。

友美の言う「車」には見知った顔が乗っていて、みなみの考えていたよりもはるかにあどけない表情で迎えてくれる。

ただそれだけのことでお手軽にも浮かれてしまい、心無しか頭の痛みも和らいだ。


不意にもらったプレゼントにも驚いた。









『散歩いこ、さんぽ』
『キミひとりで行きな』

昔は、どちらかと言えば構うよりも構われる立場にいて、しつこく食い下がってはあしらわれることが楽しかった。

それも反論のしようがないほど理詰めで断わられ、ただ、それに従うのも嫌なので拗ねて駄々をこねて呆れられる。

『えー、いいじゃん。ちょこっと歩くだけだからさ』
『歩いて、どうすんの。疲れるだけじゃん』
『ええーっと、そうだ、太陽を見にいこう』

そうしてそんなおかしな理由を声高に告げると、その人は『しかたないなあ』と苦笑して渋々ながら腰をあげる。

その面倒くさそうで照れたような顔を見るのがうれしかった。

散歩は、二の次で。

みなみはまっすぐ友美を見た。収録後の疲れ切った身体でただ歩くだけなら人を誘う必要はない。

(なにか、話すことがあるんだ)

急に肩の力をぬいて話に耳をかたむける素振りをみせたみなみに、怪訝な目を向けながら友美はつづけた。

「ちょこっとさ、公園歩くだけだからさ」
「さんぽ、なんだ」
「そうそう、さんぽさんぽ」
「……さんぽ」
「いく? たかみな」

控室からひとりふたりと挨拶をしては出ていく後輩たちを笑顔で送って、みなみはかけていた椅子の背もたれにぐっと体重をかける。

しばらく思案顔のままその格好でいたのだが、やがて勢いをつけて後ろへ寄った重心を前へともどした。

「しかたないなあ」

何年もまえに自分へ向けられたことばと、記憶にある表情を真似てはみたが、どこまで似せられたかはわからなかった。

その記憶さえいまでは鮮明とはいえない。あの日の自分は太陽を見ようと誘ったはずなのに一度も空を見なかった。

街路樹の影にかかったりはずれたりしながらぼんやり揺らぐ景色と、隣ではいはいと適度に話を流しつつ歩幅を合わせてくれる友人の横顔ばかりながめていた。

そのくせ自分の見上げなかった太陽の感想を、「きいろかったよ」だけで片付けてしまう相手に頬をふくらませていた。

友美と連れだって表へ出ると、みなみは首を反らして空を見た。

やけに目立つ月と街の灯りのせいで、ようやくぽつぽつと光の届く星すらここではかすんでいる。

みなみの知る数少ない星座は先月よりも低い位置にあり、まだ肌寒いものの、どうやら季節は変わりはじめているらしい。

月は絵でみるような黄色ではなく、ただ白かった。







その日は朝から頭が重く、右のこめかみあたりに、鉛でも埋め込んだかのような鈍い痛みがある。

(ねむい……)

この睡魔と頭痛は、敦子から借りた何本かの映画を立て続けに見たことに起因するのだろう。「いっしょに見よう」と言って泊まり込んだ峯岸みなみにははなから最後まで見ようという意志はなく、彼女はバックに流れるピアノを子守唄がわりに心地よい睡眠を貪ったらしい。

「裏切りものめ」

はっきりしない口調で愚痴を告げても、コンディション・グリーンの相手には効き目がない。結局ひとりごとをぶつぶつと念仏のように唱えながら、自己嫌悪におちいるのが関の山だった。

さらに、あきらめて本を手にとったはいいが、栞をはさみ忘れ読んでいたページを見失う。

「厄日」という単語が脳裡をかすめた。

ただ漢字表記がおぼつかないために、正確には「やくび」という、ひどく間の抜けたひらがなが頭のなかで転がっているだけである。

自然顔は仏頂面になる。

だから友美に呼ばれて振り向いたときには、相手が固まってしまうほど不機嫌な目つきになっていたらしい。

当然、散歩などという気分でもなかった。

表情からなにかしらのアクションを起こしてくることは予想済みだったため、「いこう」と相手が言い終わるのを待たずに、みなみは「いやだ」と言った。

気が変わったのは、しつこく誘う友美にうんざりして、現実から逃避するために意識を過去へと飛ばしたときだった。

自分でも驚いたことに、それはずいぶんと遠いところまで飛んだ。







「おまえ、ここに住んでるの? 趣味わるいねえ」

趣味のいいわるいの問題でもないだろうし、第一、猫に真面目に問いかけること自体、どこまで本気なのか量りかねる。しかしそれがみなみという人間の偽らざる姿で、友美にはそれがめずらしくもあり、うらやましくもあった。側までいくと、猫はみなみからはなれてこちらをうかがいにくる。よくみればまだ仔猫のようで、ふつう見かけるものとくらべて、ひとまわり小さい。

「かわいいねえ」
「うん、かわいいねえ」
「でも」

一拍おいて、みなみは言った。「わかれなくちゃだねえ」

わたし、飼ってあげられないからさ。

「心配ないって。もともと野生なんだし」
「だね。ひとりでも、さみしくないんだろな」

仔猫の首もとに手を添えながら、みなみの目はじっとそこから動かない。猫に近付こうとでもするかのように身体を縮めた彼女は、暗がりのせいかやけに小さく見えた。

なにかに自分の感情を仮託することで、その感情の飽和を避けようとする本能が人間にはある。だからもし猫にさみしさを感じるとしたら、それはみなみ自身の心の投影なのではないだろうか。ただ、さみしいかどうかを訊ねて、彼女が「はい、そうです」と素直にうなずくとも思えない。

だからそれは口にはせずに、友美は「いま、車、呼んだから」とだけ伝えた。

敦子のマネージャーの携帯番号を知っていたことは幸いだった。

さんざん愚痴を浴びせられながらも、久しぶりに敦子の姿を見てはしゃぐみなみの姿に、ほっとする。敦子が車を降りてからも彼女のうれしさは持続して、もらった包みを上から下から斜めから、ながめ回しては表情をくずしている。

「キミもちゃんと寝なくちゃだぞ」

夜の墓地で諭すようにみなみが告げた相手は、わりあい毛なみの整ったトラ縞の猫だった。