東京での敦子の舞台挨拶も終わりがけになったころ、峯岸、友美、みなみの三人が連れだって観に来てくれた。

幕が下りてから彼女たちの来訪を心待ちにしていると、まず峯岸が興奮しながら楽屋のドアを開け、つづいて友美がその勢いに気押されつつドアを閉めた。

「あれ? たかみなは?」

すかさず問うと、遅れてくると言う。

「そういえば、こないだ、あのさ、へんなチョコ、だれか作らなかった?」

コロッケみたいなの。

軽い前振りのつもりで敦子が切り出した途端、峯岸と友美の笑顔が引きつった。
お腹、大丈夫? 歌以上にきれいに声を合わせて尋ねられ、敦子は困惑する。

実のところ空腹にまかせて手を出したため、その形状や味に関しての感想がまったくと言っていいほどなかった。

とりあえずどんな味だったかと問われれば、ちょっと変わったチョコレートの味、としか答えられない。

ほかに感じたことは、なにかあったろうか。

「あー、いや、十六個もあったから、AKBのだれかが作ったんだろーなーって、思って、あの、勝手につまんでみたんだけど」
「……おいしかった?」
「いやー、なんかすごくお腹へってて、ええと、お腹が重くなってよかったよ」
「あ」
「あ?」

急に横手から声が届いたので首をめぐらすと、白と黄色を基調にしたブーケをにぎりしめて、みなみが立っている。

久しぶりに顔を見たうれしさに、その手が小刻みに震えていることには気付かなかった。

「あっちゃんのばかーっ!!」
「えええっ? なんでぇ?」

状況をのみ込めずに焦る敦子のとなりで、事情を把握しているためにさらに峯岸がおろおろとする。

「胃が重くなったって、せっかくあんときだれか食べてくれたってうれしかったのに、ひどいじゃん」
「それでなんであたしがばかになんの? って、あれたかみなが作ったの?」
「わたしが作ったの! 作ってみんなにさんざんばかにされて廊下置いといたの!」
「いや、たかみな、あっちゃんはよかったって」
「みぃちゃんは黙ってて」
「ハイ」

固まった峯岸がとなりへ視線を送ると、友美はあろうことか緊張感のない顔で笑っている。ため息を量産する間に、普段からテンポのちがうみなみと敦子は噛み合わない言い合いを続けている。

みなみは自身、理解していなさそうな単語を文法無視で並べ立て、敦子はさらにその理解に苦しみつつ彼女の真意がどこにあるのか探りかねている。

「もういいよ」

みなみが憮然と言い放った。

「よくないよ、たかみな訳わかんないって」
「もういいから、ちょっとさ、花瓶」

手を差し出された峯岸があわてて机上にあった花瓶を渡す。

「花、活けてくる」

それが、ひとまずの終止符だった。







猫のしっぽがうろうろしていると思ったら、プロモーションに使う衣装が移動の際になびいていただけらしい。

なんだと肩の力を抜いたときに、今度はすぐとなりからニャアニャアと鳴き声が響いてくる。

「猫だ」

あわてて振り向くと、優子と陽菜が向かい合ってどういう訳か鳴き真似を競っていた。

(………まぎらわしい)

はげしく脱力してから、どうしてこうも先日の猫が気にかかるのかを、みなみは自分なりに考えてみた。

朝から閉じ込められている撮影所は、メンバーには馴染みの場所で、わずかの隙に機材の搬入路をつたって外へと出る。

するとそれまで壁に反響してこもっていた音という音が消えて、一瞬の静寂がおとずれた。

やがて耳が慣れて、次第に屋内とはべつの喧噪がもどってくる。

スタジオの脇に、周囲をアスファルトに固められた地面に根を張り、すっかり葉を落とした桜が一本立っていて、みなみはそのわずかな木陰に腰を下ろした。

もうしばらくすれば一面白い花びらで埋まるだろう枝と枝の間から、午後の太陽が見える。

「そっか。あっちゃんと、会ってないんだ」

それがみなみの出した猫の結論だった。

去年の八月までは仕事で毎日顔を突き合わせていたのが、ただ「AKB48」でなくなったというそれだけで急に会う機会が少なくなった。

仕事にほとんどの時間を割かれているために、その仕事で絡む以外接点を見出せない。それぞれのスケジュールを考えれば、数少ないオフが重なるわけもなかった。

だから、久しぶりに話した敦子の声と表情が、その日見かけた猫と記憶のなかでつながってしまったのだろう。

チョコレートの記憶だけは、その後の苦い経験で消されてしまったのだけれど。

「おーい、がんばってるかい?」

だれに言うでもなくつぶやきながら、みなみは手のひらを空に向けた。







「あっちゃーん」
「あっちゃーん」
「久しぶりー」

ドラマが始まってしばらくのち、遥香と亜樹という小さな台風を引率して、優子が楽屋に顔をのぞかせた。

「おー、みんな元気かーい」

第一声で呑気に告げると「そりゃこっちのセリフだよ」と三人ともに突っ込まれる。

映画の感想や最近の仕事の話をつらつらと優子と語る間、彼女の連れ二人はもの言いたげな表情をたたえて立ったり座ったり、どうにも落ち着きがない。

もともとたいした話題を展開しているわけでもなかったので、いいかげん気になった敦子は遥香と亜樹へと向き直る。

「で、キミタチはなにさっきから騒いでんの?」
「あ、あのねっ!」

問いを投げかけられた途端、二人は堰を切ったように話し出したものの、双方がてんでばらばらに言葉を繰り出すために、なかなか要領を得ない。

とりあえず、敦子の耳で聞き取れる範囲の単語をあつめてみると、

『チョコ』
『作った』
『がんばった』
『食え』
『残すな』

組み立てるのに時間がかかったが、逐一確認しながらつないでいくと、それはこう要約される。

「つまり、あたしが忙しいから、会えない。そこで、二人が今日チョコを作って、持ってきた。がんばって作ったので、残さずタイラゲロ」

敦子の言葉が終わらないうち、亜樹が鞄から大きな袋を取り出して、どんと机にのせる。

(チョコにしては、重たい音だなあ)

苦笑いしながら、早速なかをのぞくと、オーソドックスな焦げ茶色のかたまりがごろごろと重なり合っている。一口サイズにしては、やや大きい。

比較的形の整っているひとつを取り出すと、敦子から「あれ?」という疑問の声が口をついて出た。

手にしたのはハート型で、その形には見覚えがある。

つい先日、敦子がクッキーをくりぬいたものと、まったく変わりがない。それはハートでもやや特殊な形で、わきの部分が通常よりもふくらんでいて、逆さにすれば桃にも見える。

同じ型抜きを買ったのだろうか。

不思議に思ってから、ふと一つの仮定が脳裡をよぎる。

「ねえ、これ、二人でつくったの?」
「そうだよ」

亜樹は自信満々に胸を張る。すると遥香が、

「あ、でもちょっと手伝ってもらったケド」

つぶやくように言った。

「そっか」

それを聞いて敦子は満足そうにうなずいた。

「大切に食べるね」

だれが彼女たちを手伝ったのかは、聞かなくてもわかった。







『AKBは、家族なんだよ』

そう言って拳をにぎっていたのはだれだったろう。

その人はそれから拳を広げ、暑い盛りの太陽にかざしていた。

『もー、やっぱりだまされたー』

などと急に不平の声をあげるから、

『なにー?』

と側へ寄る。

すると、手を真上へ向けた格好のまま『だって、真っ赤に流れるボクのチシオなんて、見えないんだもん』と口をすぼめる。敦子はそれが唱歌の歌詞のことだとすぐに分かったので、ささいなことにこだわって拗ねている彼女をおかしく思った。

おなじく空を見上げて、太陽と顔のあいだに手を差し入れた。

手はわずかに橙色に見えたけれど、透かすどころか光をきれいにさえぎって影をつくる。

てのひらを透かすという太陽は、いったいどれほどのまぶしさなのだろう。

考えながら、となりでまだ眉間にしわを寄せているその人をそっとのぞいた。

てのひらが透けることはたぶん未来永劫ないだろうと敦子は思う。それでも、目の前で一生懸命目を凝らしている彼女は、ことあるごとに手をかざし続けるにちがいない。

いつか、見えるといい。そう思った。

と、急に廊下の奥で、ざわめきが起こる。

なにかの収録が終わって、出演者が一斉にスタジオを出たのだろうか。

耳を澄ますと、波のように寄せる音のなかに聞き慣れた声がある。

敦子は、やがて廊下の角を曲がり姿をみせるだろう面々を思い浮かべながら、腕をのばし視線の先で指を広げた。

しばらくそうやってぼんやりとしていたが、ざわめきがすぐそこまで来たと覚ると、なぜかあわてて背を向ける。そのまま自分の楽屋へと逃げるように飛び込んで、ようやく息をついた。

彼女がいる。

それだけで信じられないほど動悸がはげしくなり、じっとしてはいられなかった。

あのまま手をかざし続けていれば、まぶしさに脈打つ自分の血さえ見えたかもしれない。

その胸の高鳴りは、敦子にはじめてステージに立ったときのことを思い出させた。

あれから何年経つのだろう。

指折り数えて、小指を残した片手の指がすべてうずくまる。

「あ」

その数は、年を日に差し換えれば映画初日までのカウントと同じだった。







「ハラヘッタヨ」

ぽつりつぶやいた声は自分でも驚くほど響いて、敦子はおもわず周囲を見回した。

目深にかぶったニット帽はセットをしていない髪を隠すためのもので、遅刻を恐れるあまり今日は朝食すらとっていない。

(やっぱりお菓子なんか作るんじゃなかった)

テレビ収録を済ませれば、本番間近で熱の入った稽古が待っている。

昨日のお礼にと作ったクッキーが敦子の抱える鞄に詰まっていて、今朝はその準備に追われたために局へ着くまで空腹に気付かなかった。

いつもは買い溜めてある駄菓子も見あたらない。

本番のまえに一応の食事が出るのだが、それも今から四時間もあとの話である。

(もたない、ぜったいお昼までもたない)

そんな敦子の目に、食べものらしきものが映った。

どうも奇妙な形で、いびつでふぞろいな揚げ物がバスケットに入れて置いてある。ご自由にお持ちください、ということなのだろう。

食べものにはちがいない。

敦子はなんのためらいもなく二つ、続けざま頬張って、

「………あまい」

お菓子、なのかな、と首をかしげた。

チョコを揚げるとは、大胆な発想をしている。妙に感心してから、いつもの癖でのこりの数を無意識に数えた。

「二、四、六の八の……十四コ」

口のなかでチョコ独特の苦味がすこし後を引いた。