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 オオシマザクラ

  
  花見が嫌いだ。桜よりも人の頭を見に行くような花見が嫌いだ。美しい花を見に行くはずが、その下で繰り広げられる花見客の酔態と大騒ぎがつきものになっているのがかなわない。桜は静かに見たいし、見る桜にも注文がある。桜種としてクローンであるソメイヨシノが好きになれない。
 日本人は万葉の時代から桜をめでてきた。といっても、万葉集の中に詠われている花は多くは梅の花であって、桜を詠んだ歌は少ない。桜が日本人に親しまれるようになったのは、平安貴族が自邸の庭に植えるようになってからだという。
 業平や紀友則や西行が詠った桜は、ソメイヨシノではなく、野生の山桜だろう。
   「吉野山こずえの花をみし日よりこころは身にも添わずなりにき」
 西行がこう詠った山桜は見てみたいとずっと思っていても、必ず花見シーズンにはおびただしい数の観光客が吉野山に押し寄せるわけだから、見に行く機会は死ぬまでやってこないのかもしれない。 
   「願わくは花の下にて春死なんその如月のもち月のころ」
 小林秀雄が『西行』に書いて有名になったこの歌をよめば、西行にそうまで思わせた山桜は見てみたいと思う。
 しかし、日本人がめでてきた桜って、現実の花見の桜というよりは、和歌や俳句に詠まれてきた桜なのかもしれないと思うことがある。日本人ほど、この花に自分の心を仮託し、その思いを短詩型文学に表現してきた民族もいない。だから、日本人が愛してきた桜は、心の中にある観念上の桜なのかも知れない。

 芭蕉の句ではないが、桜は実際さまざまなことを思い出させる。わが師匠とも言うべき作家の遠藤周作も、花には縁もなさそうに見えて、晩年にはよく、一茶の「死支度をいたせいたせと桜かな」という句を好んで引いていた。
 小林秀雄はいわずと知れた桜好きで、とりわけ、八重桜の「普賢象」を愛していた。思い出すのは小林秀雄邸での花見だ。邸というのにはちょっと地味な建屋だが、庭は何百坪もある立派なものだ。山の上の公園だった敷地だからやや傾斜があるが、とにかく広い。山間いからは材木座の海もわずかに見える。若いころに何度か先生の雪ノ下のお宅に伺ったが、残念ながらいずれも桜の季節ではなかった。
 何年くらい前になるか、先生が鎌倉の別の家に移転した後もそのままだった山の上の家もいよいよ取り壊すことになって、最後に花見をしようという話が持ち上がった。先生の死後、その家の所有者だった画商の吉井長三氏から私も呼んでもらった。メンバーは、先生のお嬢さんの白洲明子さん、その娘で宝石デザイナーの白洲千代子ちゃん、新潮社の先輩の池田雅延さん、コラムニストの井尻千男さん、写真家の海田悠さんというなじみの面々だった。
 天気もよく、先生の愛した桜の前で仕出し弁当を食べ、先生の思い出話に花をさかせた。庭の桜は普賢象一本だが、なんという贅沢な花見だろう。普賢象は見上げるような大きな木だった。先生は、桜前線の北上を追いかけて旅したくらいの桜好きだ。その先生が最後に行き着いたのが、この桜だという。しかし、自分には、ぼってりと花をつけるこの桜のよさがわからなかった。桜見の修行が足りないのだろうと思った。
 
 さまざまなことを思いだしながら会社のそばを歩いていたら、四谷保健センターの前に植えられた桜に目がとまった。立ち姿が、楚々とした美人の桜である。名前を見たら、オオシマザクラだった。なぜか葉桜になっているので、調べてみたら、先に葉が出て、そのあと花が咲くという。明るいグりーンとほとんど白といっていい花弁の取り合わせがなんとも美しい。ソメイヨシノを交配して作り出したときの片親だという。山桜に近いのだろう。桜餅を包んでいる桜の葉はすべてこのオオシマザクラだということも初めて知った。自分にとっては、桜の見方が変わりそうな発見だった。