浅利さんと右が若い頃の私
浅利慶太さんのお別れ会が4日前にあった。私はその日、行けなかったが、故人とのたくさんの思い出だけは残った。
初めて観た浅利演出は、ジロドゥの「オンディーヌ」だった。まだ私は学生時代で、日生劇場の舞台の鮮烈な記憶が今でも甦る。水の精・オンディーヌは加賀まりこ、ハンスは北大路欣也。靄のかかったような幻想の舞台美術が美しく印象深かった。その後、すぐに、ジャン・アヌイの「ひばり」も観た。四季はフランス現代演劇で出発した、新劇の劇団としてはユニークな存在だった。
浅利さんは同門の先輩である。同じ恩師・白井浩司先生を通じて、お付き合いが始まったのは私が新潮社に入ってからだった。私は白井先生を囲む会の世話役をしていたが、浅利さんは忙しいのによくこの会に出席してくれた(一枚目の写真。浅利さんの右が若き私)。白井先生は劇団四季の顧問もされていたが、浅利さんにとっては、劇団四季設立にあたっての恩人でもある。何しろ四季創立の頃、浅利さんや浅利さんの大学の2年先輩で中心役者の日下武史さんたちは食べるものにも困る経済状態だったから、経済的にも先生から助けてもらったと言っていた。
四季はその後ミュージカル劇団として大きくなっていったが、浅利さんはストレートプレイにずっとこだわっていた。山崎正和の「地底の鳥」
やサルトルの戯曲、晩年に手掛けた三島由紀夫の「鹿鳴館」にその思いが見て取れる。
ある時、私は新潮社で、雑誌編集部から移籍して新しい出版の開発を担当することになった。まず初めに、新潮文庫の近代名作を有名な役者たちを使って朗読させるCDシリーズを作ることになった。浅利さんに連絡すると、すぐ会おうという。帝国ホテルで会った浅利さんは、「これからいろいろ一緒に出来るなあ」と私の転部を喜んでくれて、次々と仕事のアイデアを出してくれた。
数日後、あざみ野の稽古場に行くと四季のメンバーを紹介してくれた。私は朗読の名手で先輩でもある日下武史さん(上の写真)を役者として買っていたから、次々に朗読をお願いして仕事がはじまった。役者らしからぬ日下さんの人柄にほれ込み、その後もずっと親しくお付き合いしたが、盟友浅利慶太の死に一年先んじて、昨年、スペインで客死してしまった。最後に観た「鹿鳴館」の力演が忘れられない。
浅利慶太という人は毀誉褒貶相半ばする人である。新劇人にはない政治的な行動、例えば、中曽根元首相と親しく付き合ったり、財界人
に近づいたりもした。劇団の中では独裁者的な力を持つと言われた。3人の妻は、いずれも四季の女優さんである。
しかし、私が知る浅利さんはおおよそ遊びを知らない仕事一途の人、芝居しか頭にない人だった。演劇での成功以外にはなんの野心もない人である。
劇団経営は昔から儲からない商売である。彼の政治的行動も、難しい劇団経営を立ち行かせ、四季を財政的に独り立ちさせたいとの強い思いからだったと思う。
最近はあまりお会いすることもなかったが、毎年いただく年賀状には、演劇青年そのままの熱い思いがいつもいつも綴られていた。浅利慶太という人は見事に芝居人生を貫いた人だったと思う。


