今日は亡夫の命日。

霧雨がちらつく中、昨日用意していた花束を持参してお墓参りに行った。


お墓には亡き夫はいないと今は思っている。


「千の風にのって」の歌

私のお墓の前で泣かないでください 

そこに私はいません 

眠ってなんかいません

にもあるように。


当初、喪中ハガキの中の「永眠しました」の言葉も、「安らかにお眠りください」と人に言われるのもすごく嫌だった。

「眠ってなんかいない!別な次元(天国、極楽)で楽しく生きているの!」と心の中で強く反発していた。


「今、なしてる?元気にしてる?

元気にさえしてくれていたら私はいいの」

と1人泣きながらよくつぶやいたものだ。


犬の散歩をしながら、車の運転をしながら、家の中でも毎日、あれこれ話しかけていた。


夫は我慢強い人だった。仕事が多忙で、病院になかなかいけず、具合がかなり悪くなってやっと病院にかかった。その時も風邪をこじらせた位の軽い気持ちだったと思う。


その病院で、抗原病と間質性肺炎とわかり、受け入れてもらえる病院がなかなか見つからなかった。やっと受け入れてもらえた大学病院ではいきなり余命2週間と言われていた。


私は動転し判断を間違えた。告知をしなかった。

クリスマスには治ると本人は思っていた。

必要もない治療をされ、医療ミスもあり、本人や家族の承諾なしに実験的な治療をされた。

私に知らせずに、医師が署名して施術し、後でそのことを追求するとその時の書類は見つからなかった。日本では無理だが、アメリカならまず勝訴できたと思う。日本ではよくある話である。


結局、命を縮めてしまった。大切なことを話す時間も失ってしまった。


告知しなかったことを、どれだけ自分を責め後悔したかわからない。2.3年は苦しんだ。


亡き夫が先生に言った言葉。

人工呼吸器をいれ麻酔から覚めたら、来週◯曜日、私は特別室でまたテレビを見ているんですよね?」

つまり、自分は生きていはれるんですよね?と。

どれだけ怖かっただろう。


そしてそのまま、意識が戻ることはなかった。

保険の関係か、入院して30日ぴったりであの世に旅立っていった。


命日になると、忘れていた過去の悲しみが思い出されてしまうのだろうか。

仏壇の前でお経を詠んでいたら、亡くなったばかりの頃の悲しい気持ちが蘇っていた。

愛犬ルーが日毎に弱っていく姿も重ねているかもしれない。

亡き夫に助けを求めていたりもする。


夫を亡くしてから数十冊もあるであろうアルバムも一度も開いたことがない。

亡くなったばかりの頃、夫の写真を見れなかった。見るのがつらかった。亡くなったことを認めたくなかったのかもしれない。

だからだろうか。その延長で?


アルバムも見ていない。

最近は仏壇にお経も線香もあげていない。

普段、忘れている。

命日さえ、薄情なことに忘れてしまいそうだった。


私は夫を愛していなかったのだろうか?

いや、そんなことはない!

愛していなければ、こんなにいつまでも悲しみの涙に溺れることはない。


ICUで、初めて告知した。どんな気持ちだったろう。


麻酔をかける前に私たちは愛を誓った。

来世はまた一緒になろうねと言ってそっと唇を合わせた。


その後、数日、ベッドで麻酔で眠るだけの夫にむかって、以前私が書いた夫との楽しかった結婚生活の詩を読んでいた。

聞いてくれているのではないかと願って。

それが私ができる精一杯のことだった。

正気を保つため、慰め、許し•••


今、

残りの人生を一緒に歩もうとしている人がいる。


私を愛してずっと大切にしてくれた夫に(空に)私は言った。

「彼ならいいでしょう?見ていてわかるでしょう?私を任せられるでしょう?」

と。


8年もたって、今更、こんなことを書いている。

私の中でなにかが変わろうとしている。