円空破れ笠、北海道 渡道の背景、 | 美術家 村岡信明 

美術家 村岡信明 

漂漂として 漠として  遠い異国で過ごす 孤独な時の流れ
これを 私は旅漂と呼んでいる

円空れ笠197、エピローグ、6

北海道 渡道の背景

~~~~ アイヌ カムイとシルクロード、 ~~~~

 

 日本山岳修験の戒律に遊行(ゆぎょう)がある。遊行とは一定の地域の村里を回り加持祈祷(かじきとう)を行いながら、途中その地域の一山に登拝してもとの起点に戻る“回国一山登拝”の循環行動である。

修験者は遊行の回数が増えるほど遊行地を遠くの地方に延ばしていき、最後は「渡り島遊行」と云われ、佐渡ヶ島に渡って遊行は終わるのが慣習であった。ゆえに修験者が「佐渡ヶ島遊行」の時にはかなりの年齢になっている。

しかし円空は遊行の数も少なく、佐渡ヶ島にも行かず、円空35才でいきなり

蝦夷地に渡ったのは何故か? たんなる遊行では解けない謎である。 

私は滞道後半一年間の空白の背景 (詳しくは円空破れ笠、60)に、アイヌ文様・彫刻の基底にある“カムイとの一体性”を求めて行った。と考察している。

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日本山岳修験の戒律に作仏戒(さぶつかい)がある。これは彫像を彫り上げるのが目的ではなく、彫る行為そのものが行(ぎょう)なのである。さらに戒律には“残さず”がある。円空像は発見されているだけで五千余体ある。これは破戒である。これも円空の謎に含まれている。

しかしこれは謎ではない、沙門を知る者には常識である。あらゆる戒律の拘束を拒否しているのが沙門である。円空は自らを沙門と呼んでいた。

円空の彫刻観は大衆のなかに生きる聖仏師(ひじりぶっし)の思想があった。

密教の特性は、異教徒の神と信仰の良さを取り入れて、より広い大衆性を裾野にすることにある。これと円空を短絡はしないが、円空はアイヌの信仰トーテミズムに強い関心を持っていたので、何時か蝦夷地に渡る目的を持っていた。その渡道の動機をはやめたのは尼僧アイヌ―ラとの出会であった。

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尼僧アイヌ―ラの背景には、仏教の十字路と呼ばれるブハラ、サマルカンドを通ってシルクロード運ばれてきた中央アジア二千年に埋もれた民族の興亡、厖大な歴史が浮きあがる。

日本の古代・中世から近代にかけてシルクロードから流れてきたのは、奈良正倉院 御物にまつわる歴史だけでない。渤海ルートなどいくつかのルートで日本に渡って来た知られざる多彩な歴史がある。

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私はシルクロードを旅したとき、サマルカンド砂漠の古都、サマルカンド王廟のカタコンベ(地下墓地)に降りて行き、中央アジアの覇者ティムールが眠る黒曜石の棺の横に座り、無数のオアシスと砂漠に記されたシルクロードの血塗られた歴史のさざめきを聞いていた。

                 

20171226、(火)、村 岡 信 明