円空破れ笠、円空の実像、 | 美術家 村岡信明 

美術家 村岡信明 

漂漂として 漠として  遠い異国で過ごす 孤独な時の流れ
これを 私は旅漂と呼んでいる

円空れ笠、195、エピローグ、4

円空の実像

~~~~ 江州 伊吹山 平等岩僧内、修験者円空。~~~~

 

人間の実存とは、そこに存在することである。実像とは何であろうか、すでにこの世に存在しない人間の偽らざる姿である。これから語るのは、ひとりの人間として生きた円空の実像である。

極貧の母子家庭は毎日が食べるために生きていた。円空が人の世を意識したのは“乞食親子”の現実であった。さらに運命は非情である。洪水の濁流に母がのみこまれて死んだ。ひとり残された子供はどうして生きていけばいいのか、惨めな現実は絶望が未来であった。

幼少の頃、円空は“宗哲”と呼ばれていた。教育を受ける機会もない宗哲は耳学、視学(見て覚える)でおおくの事を覚えていった。その合間に木切れを拾って、見よう 見まねで彫像を彫りつづけていた。

Ψ

円空について白山修験者と書かれているが、円空は白山で修業はしていない。白山で禅定(ぜんじょう~宗教的教養)は断片的に受けていたが、修験道に入ったのは、伊吹山・平等岩の修業からであり、円空二十三歳であった。円空が修験者彫り(鉈彫り)を覚えたのは伊吹山修験に伝承される鉈彫りであった。

洞爺湖に祀られている円空観音像の背面墨蹟に“江州伊吹山平等岩僧内”と書き、自らを伊吹山修験者と呼んでいた。

円空が天台密教僧と呼ばれているが、円空は私度僧であり天台僧ではない。後日、荒子観音寺住職から「天台円頓菩薩戒師資相承血脈」を受けている。が、それは貞亮元年1684円空五十三歳である。しかし円空はそれからも実践のなかで沙門でありつづけ、最後は土中入定でこの世を去った。

須藤隆仙著「青函文化史」に次のような一文がある。

『宗哲は尾張の寺で金胎両部の密法を受けたとされるが、天台密教の様だ。彼の宗派意識は今日の宗派仏教のようなものではなく、通仏教の意識だった』

Ψ 

私は円空の空白を訊ねて各地を歩いて思ったのは、今は便利になっているが、それでも辺鄙な土地、険しい山道であった。円空が通った350年前を思うと常人では行けない場所であった。そして寝る場所は無人の小屋か洞窟の中であり、ほとんどは草衣をまとった野宿であった。

円空の実像を知るほどに、円空の意志の強さ、体力の強靭さは恐ろしいほど稀有な修験者であった。大衆のなかに生きた円空を心情的には高僧・上人を感じさせるが、鋼のような強さで運命に挑み、聖仏師に生きた円空を感傷的に見てはならない。円空に対する最高の敬意は“沙門円空”である

                 

20171221、(木)、村 岡 信 明