吉原遊郭近隣在住時に、当地の風情満載の「たけくらべ」を執筆し、大当たりした樋口一葉。

とはいえ実はこの地に住んでいたのは1年弱。

雑貨店のような駄菓子屋を開いたものの、たちゆかなくなり、本郷の方に転居しています。

僅かな滞在のなかで、あれだけの風情を醸す作品をよく書けたものだなぁ、

一気呵成に書いた、、ぐらいの勢いで筆を滑らせたのだろうなぁ、

という印象です。

 

樋口一葉記念館では、短い吉原界隈滞在の足跡をいくつかの展示物から拾うことができます。

(再びその話は後回しにするとして=話をまとめきれない。)

 

そしてひょんなことから生誕地が内幸町と知り、記念館のあとに日比谷へ直行。

記念碑を見てきました。

 

 

 

貧しい一家という印象が強いので、内幸町で誕生とはちょっと意外。
とはいえ、「内幸町だなんてずいぶん都会に住んでいたんだなぁ、、」というのはあくまで

今の感覚であって、当時はどんな街だったのやら。


とりあえず以下の表記を見て、納得です。

生誕地は、東京府第二大区一小区内幸町一番屋敷(現千代田区内幸町1-5-2)にあった。東京府庁の構内長屋とされており、その地域内の一部であるこの地へ平成17年3月25日に建立した生誕記念碑を修繕し再度建立した。

 

生誕地が内幸町だと知った時の私の反応は:

「えっ、どこにあるの?これまでそんなの見たことないぞ!」

行ってみたところ、たしかに、この場所のそばはかすめても、この道は

なかなか通る機会がありません。

 

碑は、ちょっと見えづらいけど左下方に写っています。

 

 

 

何より驚いたのは、そのすぐそばにそびえている高層ビルの、なんとも

不可思議なたたずまい。

ぱっと見普通だけど、、、

 

 

 

壁面が一定間隔でくぼんでいて、鬼の面があしらわれているんです。

近代的な高層ビルに、レトロで泥臭い鬼の面のコンビネーションがなんとも違和感。

 

 

 

ビルの名は、日比谷ダイビル。

渡辺節が初代ビル(当時の名は大阪ビルジングなど)を手掛けたあと、

日建設計が改築したものと知りました。

渡辺の薫陶を受けた村野藤吾が八重洲ダイビルを設計したことは有名だけど、

日比谷の方は知らなかったなぁ。

 

お面の謎は、その後解けました。

改築に当たり、初代ビルに魔よけとしてつけられていたお面127体の一部を、

女神像と勇士像を残すことにしたのだと。

ビル壁面のみならず、敷地の仕切り壁のところにもお面が並びます。

 

 

 

お面はすべて形相が異なり、見ていて飽きません。

わりと丁寧に見ていたら、、

 

 

豚のお面まで見つけてしまった。

 

 

用途は不明だけど、こんなスペースも。

四面にあしらわれた動物もそれぞれ異なっています。

 

 

 

ちなみにお面製作者は、大国貞蔵という人らしいです。

私はこの名前、初耳。作品も所見です。

 

この青銅製の女神像も引き継がれたもの。↓

帰宅後ネットでチェックしたら、逆側に勇士像もあったらしいけど、

このときはこれしか見ていません。

 

 

上の銅像アップ(左)。さらに逆光ながら、ふくろうもいました。

 

 

 

樋口一葉生誕地探しから、つい建築の方に夢中になって目をぎらつかせていた私です。