大塚にある鈴木信太郎記念館の話の続きを。
これまでも2度ほど訪問したことがあったものの、
今回は初めてギャラリートークに参加。
この邸宅の特徴に、結構詳しくなりました。
現在書斎・書庫の建屋はこの通り。↓
戦時中に焼けて崩落した屋根や2階部分はほどなく改築されました。
1階の書庫は先述通り奇跡的に無傷。
その裏には驚くべき努力がありました。それはー
1)あらかじめ穴という穴を漆喰で塞いでおいた(炎が中に入って内部火災にならぬよう);
2)書庫につながる部分に設置した防火扉を閉めて逃げた;
3)防火扉の手前遠くは木の床で、燃えやすいため、扉の前後部分の木は、はずしてから逃げた;
4)書庫内の防火シャッターもすべて締めた;
5)火が収まっても自然発火の可能性があり、鎮火後1週間家が冷えるのを待ってから入室した。
そのおかげで、下の写真(昭和20年4月13日の城北大空襲後の邸宅)のとおり。
左側にあった和室の住居は焼失し、書斎は2階が燃え落ち骨組みが露わですが、
1階部分は無傷。中の蔵書はすべて無事だったという奇跡です。
この辺りは焼夷弾が直接降ったわけではありませんが、一面が火の海になったため、
一家は家のそばの高台に避難。
燃え盛る我が家をこのように眺めていたそうです。
それぞれ補足するとー
1)あらかじめ穴という穴を漆喰で塞いでおいた
鈴木信太郎氏は、実家が米問屋(+大地主)。
ゆえに蔵があり、ネズミ穴対策が身についていた。
ネズミ穴から火が中に入って内部火災というケースがある。
それを防ぐため、漆喰で穴は都度埋めていた。
防火管には砂袋詰め込み、空気穴にはセメントを詰め込み、
煙突も塞ぎ、下準備してたからこそ焼けずに残った。
対して東大図書館は、レンガ作り。でも隙間から火が侵入し、中から燃えたといわれる。
2)書庫につながる部分に設置した防火扉を閉めて逃げた
手前がホールで奥が書斎。↓
かなり頑丈そう。
とはいえよく見るとホール側の表面はボコボコに。
でこぼこの防火扉、ホール側。
火の勢いを物語ります。
3)防火扉の手前遠くは木の床で、燃えやすいため、扉の前後部分の木は、はずしてから逃げた
具体的に写真で見てみます。
普段防火扉の前にはパネルがあって見えづらいのですが、
トークの最中はパネルをどかして扉を見せて頂きました。
避難前に、着火の可能性を低くするため、防火扉の敷居の手前と奥の
板床を一部外したそうです。
今も、床板に切れ込みが入っていて、
板が外されたことがわかります。
4)書庫内の防火シャッターもすべて締めた
窓の外の防火シャッターをすべて締めて逃げました。
これもトークに際してデモンストレーションを見せて頂きました。
右側の布ベルトを引くとシャッターが閉まります。結構力が必要のよう。
(夫がデモで操作させてもらった。)
防火シャッターを設備に加えたのは、例の悲劇
(欧州で買って別便で送った本1000冊が船火事で燃えた)の教訓からです。
5)火が収まっても自然発火の可能性があり、鎮火後1週間家が冷えるのを待ってから入室した
鎮火後も家の中には入らず、庭の石の上で寝ること1週間。
丁度雨も降り、冷えたから開けてみよう、ということに。
ところが書庫の鉄扉が膨張していて、開かないという難問発生。
暗号数字も効き目なし。
2人の息子が扉の外側に穴を掘ることに。
コンクリートが薄いところがあり、
廊下の下1mほど掘ったところ廊下の下に抜けられた由。
真っ暗だったので、
窓のシャッターを開けたら窓の外に父信太郎氏が心配そうに成り行きを眺めていたそう。
書が無事だとわかった途端、満面の笑みをうかべたといいます。
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2階は普段立ち入り禁止ですが、
トークイベントということで、特別に今回入室できました。
子の骨組みを遺構として残しつつ、新たに2階部分を建設。
もともとは1階の結露対策で付けられた1つの大きなスペースでした。
改築後は、3部屋ほどに仕切って使用しています。
熱で骨組みは一部ひしゃげています。
手前の部分、反りかえっているのがわかるでしょうか。
変形も遺構としてそのまま活用中。
どうせ死ぬなら本と一緒に、とまで思い詰め、
防空壕を掘ることもしなかった信太郎氏。
若いころ、稀覯本喪失で精神的に大ダメージを負ったものの、
その経験が生きました。
本を守るために行った数々の対策のおかげで、今もこうして知の殿堂を
鑑賞することができるのです。
鈴木信太郎記念館訪問2024: