さて、昨日書いた日枝神社山王祭のあとは、護国寺付近でランチ、そしてこちらへ。

久しぶりの鈴木信太郎記念館。

 

信太郎氏は中世や象徴派のフランス文学研究の第一人者。

一方、息子の道彦氏は、プルーストの「失われた時を求めて」全巻翻訳者として知られます。

吉川一義先生の全訳が完結する数年前までは、

読みやすいスタンダード訳として広く参照されていたように思います。

 

 

そんな鈴木一家が住んだ大塚の自宅は、

様々な逸話が盛り込まれたとても魅力的な空間になっています。

 

自宅の中でも一番見ごたえのある書斎は、戦争で周囲が焼け野原になるなか、

蔵書は1冊も失われずに持ちこたえました。

 

鍵になったのは鉄筋コンクリートという新しい素材に強い建築家を起用した点。

書斎は大塚泰氏、後から増築した書斎上の2階部分は粟谷鶉二氏という人物に注文しています。

 

 

 

下の写真右手にかすかに見えるステンドグラスは、ステンドグラスの第一人者

宇野澤辰雄氏の工房が手掛けたとみられています。

5枚のガラスそれぞれに異なる動物が描かれ、フランス語が上下に書かれています。

 

 

 

ガラス5枚を左から右へと読むとーーー

LE MONDE / EST FAIT / POUR ABOUTIR / A UN BEAU / LIVRE SM

「世界は一冊の美しき書に終る」SM(テファヌ・マラルメ=Stéphane Mallarmé)

とつながります。

 

信太郎氏はマラルメの研究にも心血を注ぎました。


このフランス語の和訳は、何通りも可能でしょう。

記念館では、「美しき書に終る」という訳を採用していますが、

世界は一冊の美しき書に帰着するようにできている、とか

世界は一冊の美しき書へと導かれる、などなど、Aboutirという動詞の

ニュアンスをどう加味するかでバリエーションも様々。

 

動物は左から、ワニ(この図柄だと、三越の意匠で見たようにイルカとされることが

多いと思いますが、ここではワニである、とのこと)、

ほかに、鳩、鹿、獅子、犬。

これらすべて、信太郎氏みずからのデザインです。

ノスタルジックな同じ色合いのガラスを通して光が書斎に入る瞬間は、

至福の時だったようです。

 

 

 

上述どおり、あとから2階を追加したというこの書斎、理由は結露でした。

ガスの暖炉の熱が強く、冬はぽたぽたと水滴が垂れてきて、本への悪影響が心配されました。

そこで、帝大卒の建築家・粟谷鶉二氏に依頼して、結露防止のためだけに2階を追加。

こちらはコンクリート造トラスアーチ。仕切りはなく、広い空間があるだけ。

大好きなゴルフの練習をしたり、子供たちがローラースケートをしたり、

特注の卓球台を入れたり、、そんな用途で使われました。

 

 

 

戦前の自宅模型。↓

信太郎氏の長男・成文氏が建築家だったおかげで、

この家の変遷などが詳細に図面で残されています。

(氏は、『建築計画』などを上梓しています。)

右側が書斎のある棟。既述どおり大塚泰氏設計。昭和3年完成。

書斎の上に2階部分を増築したのが昭和6年。粟谷鶉二氏が担当。

向かって左側には和風の住宅が接続されています。

 

 

 

現在の姿。右側が書庫。

左側の和風建築は戦争で灰と化したので、書庫2階同様、粟谷鶉二氏に設計を依頼し、

戦後すぐに建てられました。

さらにその左に和風建築があとからドッキングされ、計3種類の異なる時代の

建物から構成されています。

 

 

 

粟谷鶉二氏というのはドイツ系建築事務所出身なので、洋風建築が得意だった模様。

でも、こうして和風建築もできることが立証されています。

赤い輪の部分のように、ちょっとした出窓使いに、洋風スタイルを感じます。

 

 

 

粟谷鶉二という名前は鈴木氏の住宅でしか耳にしないなぁと思っていたら、

実は三鷹の山本有三記念館(もともと実業家の清田龍之助氏の自宅として建てられ、

その後、山本有三が購入)も、粟谷氏が建てたという話があるそう。

実際資料は残っていないものの、そういった粟谷氏の遺族の証言があるようです。

次の写真3枚目などはドイツ・ロマンチック街道沿いにみられる木組みの家っぽくて、

そうなると粟谷氏設計説もありえるように思います。

 

以下、山本有三記念館の写真を4枚ほど。

 

 

 

 

 

 

鈴木信太郎氏は、書庫が燃えないように、、という一心で様々な工夫をしました。

そのおかげで蔵書は生き残り、次男・道彦氏の縁で、いまでは獨協大学に

1万冊が寄贈。残り2千冊ほどがこの記念館にあります。

 

防火対策に血眼になった理由は:

留学中に購入し、日本に船便で送った稀覯本1000冊すべてが失われた経験からでした。

積み荷の木綿から引火し、船火事を起こしたせいです。

失意のどん底、、という形容以上のダメージを精神的に追い、

今では禁止用語と思われる、「発●寸前だった」という言い方で、

その時の信太郎氏の心情が今に伝えられています。