先月の日経新聞「春秋」欄に、
吉田茂を父に持つ文学者・吉田健一のエピソードが載っていました:
作家の吉田健一は毎週木曜日の昼ごろ、神田神保町のビアホールに必ず顔を出していたという。窓ぎわの席でタンブラーを4杯、5杯と空け、帰りがけには熱い紅茶にウイスキーのダブルを注いで飲んだ。しかるのち、近くにあった大学で英文学の講義に臨むのである。・・
飲酒後に教壇に立つ、なんてSNS拡散社会の今ならご法度、といった話が続きます。
それこそ「ふてほど」(不適切にもほどがある)の世界になっちゃう、ということですね。
ちなみに”近くにあった大学”とは、中央大学のこと。
この記事には神田神保町のビアホールとあるだけで固有名詞は出ていませんが、
ああ、それなら知ってる。
一度だけですが、行ったことがあります。
お店のHPには吉田健一が来店していた時の様子も書かれています:
https://www.luncheon.jp/menu.html
そうしたプライドからなのか、お店の中は老舗感を出しつつも、
それだけにしがみついているわけではなく、ちゃんとした味を提供し、
好感度の高いお店です。
ゆえに昼時ともなると、千客万来。大繁盛。
(店の写真などは下の方に掲載)
この新聞記事に触発されて「吉田健一ふたたび」という本を読み始めたところ、
意外な事実が書かれていました。
なんでも吉田健一と喧嘩別れした三島由紀夫が、壮絶な死を遂げる直前、
吉田の自宅を訪ねていたということ。
本書では、三島が訪ねてきた時の様子を、健一氏の娘・暁子さんのいとこであるK氏の証言から
引き出しています。
K氏の証言:
「三島由紀夫はね、吉田健一と喧嘩別れした後、一度だけ訪ねてきた。ちょうど切腹した年の8月でした。ここに訪ねてきたんです。盾の会の制服を着てね。」
なぜK氏がそのことを知っていたかというと、K氏の母、つまり暁子さんの伯母さんが、たまたまその日、吉田邸を訪問していたから。そして、帰宅するなり息子のK氏にこう言います:
「三島さん、おかしいよ、おかしいよ」。
やはり三島といえども例の計画直前、平常心でいられたわけではなさそう。
明らかに様子がおかしかったらしいのです。
そこでふとある疑問が頭をよぎりました:
三島は、吉田邸を辞去したあと、後日足を踏み入れることになる陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地正門を眺めに行ったりしなかったのだろうか?
だって吉田健一邸から駐屯地の一番近い門までは徒歩でたった10分の距離。
事件の当日、三島は四谷門から入ったということなので、今の航空自衛隊の方の門(曙橋側)だと仮定しても、そこまで行くのに徒歩17分。
そんな近距離にいたら、帰り道、頭は駐屯地のことばかりだったのでは?
遠目からでも眺めて自ら鼓舞したりした可能性は?
吉田邸訪問直後の三島の足取りをぜひ知りたいものです。
なお、吉田健一邸は、既にほかの人に売却されています。
(ただし解体はされておらず。)
本書には、売却直前の邸宅を筆者が訪れるシーンが登場します。
神保町のランチョン:
アルコールはめったに口にしない私ですが、ランチビールをたのんでみました。
というのもこの店に珈琲はないのです。
ビールの香りを打ち消してしまうから、という理由で。
ビヤホールですからね。
でも、いきなり飲むと酔っぱらうので、ほぼ食後にちびちび始めたところ、
窓から差し込む日の光ですっかりぬるくなっていました~。
お肉とお魚のランチ。
味が良かったです。特に人参のドレッシングや、ハンバーグの下のマッシュポテトなど。
もっとも吉田健一は、ひたすらビールを飲み、おつまみのようなビーフパイを
シェフとともに考案したそうです。
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以下は、市ヶ谷防衛省見学の時の写真。
旧陸軍大臣室の三島由紀夫の刃の跡3か所;
三島が演説をふるったバルコニー。
アーティスト森村泰昌さんが三島由紀夫に扮して演説したパロディビデオがつい浮かんでしまう私です。
この建物自体は一から建て直したものです。
ただ、プラン(間取り)を圧縮して、使える部材をすべて使って再現しています。
防衛省って意外とはとバスツアーみたいなところがあって、
見学最後に売店でしばし休憩タイムを組み入れています。
いろいろ買ってねー、みたいな感じで。(暗にそんなことを言われる。売店内スタバで珈琲も飲める。)