5月初旬、こんなものに参加しました:防衛省市ヶ谷台見学ツアー。
防衛省が行っている敷地内のガイドツアーで、
三島由紀夫が演説したバルコニーが移設された市ヶ谷記念館や防空壕などを見ることができます。
市ヶ谷の防衛省というと仕事で管理棟には何度か行ったことがあるけれど、歴史を深くとどめるこんなモニュメンタルな施設があったとは。
なにしろ敷地は広大。
以前も書いたとおり、こちらもともと徳川家の上屋敷があった場所。
市ヶ谷周辺は、それ以外にも大名や旗本の屋敷跡オンパレードで、町全体の都市整備をすることなく、屋敷跡にぎっしり民家を建てたり、防衛省のようにそのまま公的施設に利用したり。
結果、縦横の整然とした道路がなく、少し歩くと行き止まり。
どこへ行くにもコの字型に迂回させられます。
”徳川家の上屋敷”の土地利用の変遷をたどると(一部ガイドツアーの資料を参照):
・明暦2年 尾張藩2代藩主徳川公が将軍家綱より5万坪を拝領し上屋敷を築く
・明治7年 この地に陸軍士官学校が開校
・昭和12年 士官学校本科が座間(神奈川県)へ移転。代わりにこの地には大本営陸軍部、陸軍省、参謀本部などが置かれる
・昭和20年 米軍に接収され、翌年5月極東国際軍事裁判(東京裁判)がこの地で行われる
・昭和34年 米軍より返還
・昭和35年 陸上自衛隊東部方面総監部として使用
・昭和45年 三島事件の舞台となる
・平成12年 防衛庁が檜町(六本木)からこの地へ移転
・平成19年 防衛「省」へ昇格
さて、そんな市ヶ谷の防衛省。
三島由紀夫が事件を起こし、東京裁判が開かれた旧陸軍士官学校本部が市ヶ谷記念館として復元されています。
具体的には、旧建物の部材を最大限再利用し、主要部署のみを復元。
そのため、実際の建物よりも幅が大幅に狭くなっています。
市ヶ谷記念館。↓
もともとの建物はこんなにも大きいものだったようです。↓
幅だけでなく、建物の階数も減らされていますがファサード部分はほぼ再現。
ファサード部分の相違点は、
・現在は、国旗掲揚はなし。
・戦前は時計が3つ掛かっていた。
・戦前は帳面のプレートが菊だった。(戦後はこのように桜のプレートに)
戦後、実際にファサードに置かれていた時計と桜の現物は玄関に飾られています。
さて内部へ。
2F 旧陸軍大臣室は、三島由紀夫が人質を取った場所。
当時の扉が設置されています。
日本刀持参で立てこもった三島。
ドアには3か所、日本刀の跡が見られます。
もみ合いのうちについたもの。
日本刀の傷跡には矢印マーク付き。
この部屋の窓からバルコニーに降り立ち、
演説を行いました。
アーティスト森村泰昌さんが、パロディでその演説を再現し(むろん三島由紀夫風仮装姿で)、映像化した作品を残していましたっけ。
原美術館の森村泰昌展で見た、あの映像をつい思い出します。
記念館玄関口には、いかにも「どなたか」が揮毫したと思しきプレートが。
防衛省でなく「防衛庁」時代のものなので六本木に掛かっていたもの。
だれが書いたかチェック!
総理大臣時代の中曽根康弘氏の筆によるものでした。
2Fにはほかに、天皇専用の休憩室、旧便殿の間もあります。
冷房のない時代なので、厚い壁のなかを空洞にして、ダクト経由送風していたようです。
天皇が占有する場所なので人を内に招き入れる必要なく、したがって扉は外開きです。
このあとは、1Fの大講堂へ。
東条英機らがA級戦犯と判定された東京裁判の舞台となった場所で、当時をしのぶ資料が数々ありました。
全く知らなかった当時の様子。
こういうものがみられるとは予想外だったこともあり、インパクトがありました。