先日、久々に漱石山房(東京・新宿区)を訪れたところ、

漱石の書斎再現コーナー(唯一写真撮影OK)に珍しくスタッフの方がいらっしゃいました。

書斎再現の苦労談などを教えて頂き、

いつもは、ふわっと見ておしまいにしているこの場所を改めてじっくり観察してみました。

 

 

まず、漱石の旧居・漱石山房のおさらい:

・1945年の山の手大空襲で焼失。
・ただ、遺品は現在の大田区・池上に疎開済みだった。

・おかげで焼失を免れ、それらは神奈川近代文学館に寄贈。


その後、漱石山房という名の博物館建設話が持ち上がり、書斎の再現が計画されます。

調度品などは神奈川近文に残っている現物をもとに複製を作成。

ところが、ひとつ大きな壁が立ちはだかります。

書斎のサイズが不明だったのです。

8畳だったのか、10畳だったのか?

 

 

 

新宿歴史博物館の展示の為に作られた漱石自宅の小型建築模型では、

書斎は8畳という想定で作られました。

しかしその後、10畳であったことが判明。

鍵になったのはーーー



 

 

安井曾太郎作「麓の町」という油絵でした。
以前撮影された自宅の写真にこの絵が写りこんでおり、

保管されていたこの絵画のサイズ(xx号)を確認し、そこから

部屋の広さを割り出したというわけです。

絵画が物差し替わり、、めでたし、めでたし。

 

今では書斎再現コーナーの後ろ側に、「麓の町」の絵の写真が

額に入れられて掛けられています。

 

書斎再現の際には、当時の壁紙も割り出すべく努力。

出入りの経師屋の証言をもとに、「銀杏鶴」の柄で再現されました。

(その後壁紙は変わったようで、没後の写真には違う柄の壁紙が写りこんでいる。)

 

 

 

書棚には蔵書が並んで壮観!

と思っていたら、東北大学に寄贈された旧蔵書の背表紙をコピーして

それをつけた「張りぼてのような本」が並んでいると知りました。

 

 

 

文机を改めて見ると、例の特注原稿用紙が置いてありました。

挿絵画家として活躍した橋口五葉がデザインした原稿用紙。

 

 

 

漱石はこの原稿用紙を、今も続く神楽坂の老舗文房具屋さん相馬屋に発注していました。

もともとマス目のある原稿用紙というのは神楽坂在住の尾崎紅葉がこの相馬屋に

助言して作らせたもの。

この店が、原稿用紙発祥の地と言われるゆえんです。

 

 

 

漱石山房の庭にある「道草庵」で撮影した、橋口五葉装丁の本。

 

 

 

 


書斎再現に話を戻して、扁額にある「移竹楽清陰」は漱石自筆。

もっとも掛けられたのは没後だった、という話。

 

 

こうした小物も忠実に再現されています。

 

 


板張りの床にペルシャ絨毯が敷かれ、白磁の火鉢が置かれていたようです。

 

 

 

これまで本博物館の展示解説などを読んでなんとなく感じたのは、

夏目漱石の長女と結婚したのが作家で門人の松岡譲だったことが大きかったのだろうな

ということ。

業績を尊重し、遺品を大切にしていた印象があります。

そうした敬意は、その娘・半藤末利子と一利夫婦に受け継がれたように思います。

 

相田みつをさんのところもそうですが、こうした業績を称える施設が実現できるのは、

それを残したいと切望する子孫/弟子(プラス資金源?)あってこそだなぁと。