◆問題意識や試行錯誤の解説なしに、単純にぼけーっと美しいなと感じる絵は流行らないの?◆
●●を深く知るには、△△に向き合う必要がある、、、
たまにそんなふうに感じることがあります。
例えば:
「フランス語を知る(体得する)には、
フランス文化(ひいてはツール・ド・フランス)を知る必要がある」
そう思い立ってすぐ行動に移したあの日とか。
今回は
「現代アートを知るには、ゲルハルト・リヒターを見ておく必要があるんだな」
そう思って行ってきました。
東京国立近代美術館で開催中のゲルハルト・リヒター展。
きっかけは、社会人講座で以前選択した美術史の授業。
スペイン美術の専門家の先生が
現代美術の説明で力説していたのがリヒターだった、
という単純なコンテクストではありましたが。
これまで目にしたリヒター作品というと、
「モーターボート」という作品のほか、抽象画、常設展に出ることがある写真の連作ぐらい。
とはいえ彼の作品をあまり理解していたとはいいがたく。
事実この「モーターボート」↓などは完全にぼかした写真作品だと思い込んでいましたから。
まさか写真をもとにおこした絵画だったとは。
そんな感じで赴いたリヒター展。
様々なバリエーション、実験的試みがあり、美術館が用意したキーワード一覧で作風タイプを分けると:
フォト・ペインティングのほか、グレイ・ペインティング、ガラスと鏡、アブストラクト・ペインティング、頭蓋骨・花・風景、肖像画、オイル・オン・フォト、カラーチャートと公共空間、アラジン、ストリップ、ビルケナウ、ドローイング、フォト・エディション、、、といった具合。
この線をたどたどしい手書きにすれば山田正亮作品みたいだな~、
と思ったこちらは、上記カテゴリーの<ストリップ>に相当します。
ここでは、様々バリエーションがあるなかで、社会問題意識がひときわ強い<ビルケナウ>に絞って感じたことを。
<ビルケナウ>はアウシュビッツ・ビルケナウ収容所の惨状の隠し撮り写真イメージを塗りこめたもので、
会場構成は:
・実際の隠し撮り写真小判(ぼやけているけれど、閲覧要注意のような注意書きあり)
・写真のイメージを下地にしてその上から抽象絵画風に塗りこめられた絵画が4枚。
・その4枚の絵を写真で完全に複製したもの。
・グレーがかった鏡(それに映り込んだ作品 下↓)
歴史上の惨事そのものと、それによるどろどろした感情を作品にどうぶつけるか、、、
その答えが、塗りこめた抽象画であったと思われます。
とはいえ、ただ塗り込めるだけではそれで完結してしまう、
だからいくらでも複製できる写真というフォーマットにトランスファーしたものも用意し、
それをさらに間接的に映し出す鏡を用いた・・・
思いや教訓をそこで完結することで止めてはならない、そんな思いから、
素材を変えた見せ方を追加したのではないかと勝手に想像しました
塗りこめたペインティングは、サイド部分を見れば
明らかにキャンバスにはみ出た絵具がついています。
写真パネルのほうは本作そっくりだけど、分割パネルになっているうえ、
あくまで平面のみのコピーで薄いものでした。↓
作品の熱量は高いけれど、ふと
写真→絵具で塗り込め、、という作業だけ考えると、
森村泰昌さんの手法と類似性があります。
奇しくも今回常設展に一枚森村作品が出ています。
5月にすでに紹介しているこの絵。
きのこ雲を背景に、晩鐘のパロディと思しき人が手にするのは武器。
リヒター同様戦争と結びつく画題ではあるし、手法も同じですが
この作風に至る背景は全く異ります。
森村さんと個人的付き合いのある旧・原美術館の学芸員さんの話では、
森村さんは絵の力量が一流未満と自覚し、自身を写真に撮って、それと
絵画を組み合わせるというアイディアに至りました。
三島由紀夫のスピーチのパロディなど、社会性は見て取れますが、
風刺味のほうが効いています。
アイロニーが強い作品という意味では、常設展の村上隆作品もしかり。
この箱の裏にはー
びっしり米兵のフィギュアが貼られています。
敗戦国日本が一流の技術で、戦勝国米国の兵士フィギュア制作に励む、
そんな皮肉を冷ややかに表象した作品。
以前、都美の個展で注目された福田美蘭さんは、
商標登録への抵抗をかたちにしています。
使用料が発生するシステムに挑戦するかのように、
あの有名巨大ブランドのコピーすれすれ(文字の形はきわどいけど書かれた文字が微妙に変形)の作品です。
韓国と日本の国旗を持つ少女を描いた会田誠さんの「美しい旗」は、
昭和天皇が亡くなったあと時代の変化を感じ、描く動機になったと。
リヒター展、および常設展における現代作家の作品を見るにつけ、
ふと感じたこと:
いずれも問題意識が作品を支えているところがあり、
それを完全に取り払った作品が現代芸術の中に見出せないと感じました。
リヒター作品は多様であり、純粋な美の追求を感じさせるものもあるけれど、
それにしても素材など既存のものへの抵抗という反骨精神は少なからずあります。
作品に至る道程の説明を一切不要とせず、単に美しいなぁ、
とか呆けたまなざしで凝視するような作品は時代遅れなのか?と思わせるほど。
次から次に、「この作品はxxへの問題を提示・解決」みたいな説明がついた作品が並ぶ
2Fの現代アートコーナーやリヒター展をあるきまわっていると、
なにか反抗精神や思想を作品に込めないと美術じゃない、
そんなふうにも感じられ。
だけど、そうした思いは文章にしたためることもできるはず。
それに対し、ビジュアルで癒されたいと考えたとき、文章が紡ぐイメージでは限界があります。
それこそアートの出番なのでは?
時代に逆行し、リアリズム画家を擁護しているホキ美術館の思いが
なんとなく理解できる今日この頃です。
最後に、例のイサム・ノグチの「門」。
塗り替え時期は現時点で未定と聞きました。
青への塗り替えがいつ始まるかもわからないので、しかと見てきましたよ!