コロナで地元を巡る散歩が増えました。
去年あたりはどんどん行けるところまでまるで限界挑戦のように歩いていたけれど、最近は怠惰になって疲れを感じる前に適当な所で切り上げるのが常。
北沢川緑道散歩なら、折り返し地点は大体いつも、坂口安吾の記念柱のあたり。
この門柱、なんとなく折り返しに相応しいランドマークになっているし、このすぐ先は交通量の多い通り。信号を渡らねばならず、心理的にまあこのへんでいいか、、となるのがいつもここなんです。
以前記した通り、この門柱があるのは代沢小学校の校庭脇。
安吾がここで代用教員をしていたことがある、ということで記念の印に設置されているのです。
この門柱は安吾がかつて暮らした家にあったものだけど、当初の設置場所は大田区の蒲田近辺だそう。
そこからわざわざ移設したとのこと。
坂口安吾の碑というのは、出身地新潟を中心に結構いくつもあるようです。
数えてみたら8カ所も。
以下の表は新潟にある坂口安吾の資料展示館の廊下にあったもの。
代沢小学校の門柱記念碑も一番下に記されていました。
一番下の写真がそれです。
安吾の資料館には洒落た名前がついていて、「(安吾) 風の館」と呼ばれています。
旧新潟市長公舎を転用したものです。
館内に官舎竣工時の記事があったので日付けを確かめると大正11年10月28日。
当時の市長は柴埼雪次郎さんという方なんですね。
完成するまでの間、庭に建てられたバラックを住居としていた、と記事には書かれています。
(フリガナが振ってあるけど読みづらく、とりあえずそのように読めました。)
華美ではないけれど、親しみのある住み心地のよさそうな住まいです。
下の写真は廊下にあったものですが、展示室内は写真撮影禁止。
展示替えが時折ありますが、比較的プライベートの資料が多い印象です。
妻・三千代さんは17歳年下。
出会った当時、彼女は24歳、安吾41歳。
でも物怖じすることなく、一歩下がって歩くタイプというより当時としてはかなり「現代的な」女性という印象。
バーで出会ったということで、世慣れた人だったのでしょう。
資料を読むと、ずいぶん大人びていて、安吾との対等な関係性が随所に感じられます。
安吾の急死によりふたりの同居生活は10年程度ではあったけれど、三千代さんが「クラクラ日記」と名付けられた安吾と暮らした日々の日記を出版し、作家の素顔を知る手掛かりとなっています。
クラクラ・・・安吾死後、彼女が切り盛りしたバーの名前でした。