東京駅、日銀生みの親で建築の巨匠・辰野金吾の没後100年展が去年貨幣博物館、東京ステーションギャラリーなど3か所で開催されましたが、

貨幣博物館で日銀設計者・辰野金吾 没後100年展 感想

今年はその辰野の師匠で工部大学校教師だったジョサイア・コンドルの没後100年の年です。

(没年は1920年6月21日)。

 

 

弟子の方が1年早く亡くなったということですが、コンドルの生誕は1852年、辰野は1854年ということで師弟とはいえもともと2歳しか違わなかったわけです。

 

コンドルは建築の権威となるソーン賞を受賞したところを日本政府が目をつけお雇い外国人として招聘したので、来日時、生徒とそれほど年齢が変わらなかったのです。

 

そのコンドル、三菱一号館、鹿鳴館、岩崎邸など手広く手がけましたが、先日講演会でいまはなき鹿鳴館に関し、こんな裏話を聞きました:

 

 

●エピソード1:コンドル作鹿鳴館の廃材がこんなところに

 

東京地震で被害を受けたあと、改修後払い下げののち取り壊しが決定。

そのときに、一部の柱はなぜか陶芸家・板谷波山が手にしたそうです。

そしてそれを独特なベンチとしてリフォーム。

いま茨城県にある板谷波山の記念館にあるそうです。

 

 

 

●エピソード2:

 

先日書いた通り、東大本郷キャンパスには新海竹太郎作のジョサイア・コンドル立像がありますが、広い東大本郷にある14体の銅像の中で、立像はこれだけだそう。

 

イチョウに彩られた東大キャンパスのジョサイア・コンドル立像

 

 

 

理由はそれほど尊敬されていた証、というのと、さらに

足元の邪鬼を踏みつけているかたちなので、踏みつけるには立像でなければ、、という理由もあるそう。

 

 

ではなぜ邪鬼がいるのか?という件につき、こんな答えを聞きました。

コンドルは日本建築を研究し、免振構造の第一人者でもあった。

三菱一号館には杭を1万本打つなど対策をほどこしている。

そうした地震の邪鬼を制覇した意味がこの銅像に込められているのでは、、、

ということでした。


 

エピソード(というかニュース?)3:コンドル没後100年展

 

ちなみに去年は3つも展らかいが催された辰野金吾没後100年、

今年コンドルがらみはないの?というと、どこかでひとつ

計画されているようですよ。

 

まだ公開前なので具体的な話はなかったのですが。

 

 

 

すでに以前書いた気がしますが、コンドルが作った彫刻用台座も東大にあります。

いつか時間のある時にでも記します。

 

 

 

 

 

このコンドルも、他のお雇い外国人同様、辰野金吾が留学から帰ってくると、

辰野の下の地位に降格になってしまったといいます。

 

ナウマンゾウを研究したナウマン氏も日本政府からひどい扱いをされ、失意のうちに帰国したと聞きます。

画家・原田直次郎の兄(高官)や森鴎外らが冷酷な形で締め出したという話。

 

ひどい話です。

ナウマンさんは憤慨したものの、それでも関東大震災のときは日本を思い、蔵書を寄付したといいます。

ちゃんと日本は彼にお礼をしたのでしょうか?

 

そんなわけで、わたしは国立近代美術館所蔵の原田直次郎 作《騎龍観音》の絵を見るとこの話を思い出すせいで、この絵がどうしても好きになれません。