1995年1月17日
阪神淡路大震災から、なんと23年が経ちました
当時私は豪州のGold Coastというところに住んでいて
レストランのウエイトレスをしていました。
地震発生の情報は
「関西壊滅」
「空港閉鎖」
そして
「日本は沈没したらしい…!」
というとんでもないデマとともに耳に入り
日本への国際電話はパンク状態で繋がらなかったため
職場へ届けてもらった新聞記事のFAXで詳細を知ったのではなかっただろうか…
そう、23年前はまだアナログの時代だったのです。
今のようにインターネットもなく
スマホもなく
情報を得るには大変な労力が必要な時代で
海外にいながら、家族の無事を確認するのは今ほど容易ではなかったのです。
私は実家が静岡なので問題ないのですが
友人や周囲の人間は関西人が多く
しかし関西方面の国際電話はしばらく不通で繋がらないため
静岡の実家を経由して、友人の実家へ安否の連絡を取り
母から国際電話でこちらへ安否を知らせてもらう、そんなことをしていた気がします。
同じ職場に働いていた日本人の女の子は兵庫出身で
「確かな情報もないのに帰国してどうするの!」
と引き留めた私たちの静止を振り切って
「空港は大混乱」と言われていた状況の中、帰国しました…
両親とも身内とも連絡が取れず
このまま自分だけ海外にいられないと、帰国しました。
兵庫県に住んでいた友人と、帰国したら再会する約束をしていましたが
連絡が取れなくなってしまいました。
彼のいた職場は震災で跡形もなくなくなっており
その後の行き先はわからず
結局、安否を確認できないままとなりました。
短大時代に同じ下宿に住んでいた淡路出身の同級生は
一体、無事だったのだろうかと…
毎年、この日が来る度に思い出す。
携帯電話も
メールもなかったあの時代
まさに「一期一会」
10代後半、旅人だった私にとっては
一度別れたら
二度は会えるかわからない
そんな時代だった。
この日が来ると
彼らの無事をいつも願う。
ネットやスマホの普及に伴い
人と人とのご縁も希薄になっている気がする。
SNSのおかげで
「もう二度と会えない人」なんて
滅多にいないのではないだろうか?
旅先で出会う人、出会う人と
ノートに連絡先を交換し
いずれ結婚したり引っ越ししたりした時のためにと
実家の連絡先までをも教え合い
手紙でやり取りをした時代…
人との絆をもっと大切にしていたであろう
あの頃の原点に還ろうと
毎年、心に誓う。
23年前から連絡が取れなくなった友人たちが
今日も無事で
同じ空を見上げていますように。