自分の中の世界が変化する兆しで、
「今まで、気にもしてなかったこと、とか、スルーしてたことを、バンバン見せられる。読まされる」とか、
「どうにもならんのに、どうにかしようとしていたら、だめだわー。本人の責任にゆだねよう?」とか、
自分の中の主義で動いていた部分もありつつ、相手の主義、周りの主義があったときに、自分の主義をおいておいて、ってことってあったあった。
自分の主義というか、自分の行動原理の芯って、基本、変わらないんだよね。誰かの真似ーとか、誰かの影響というのが、あったりなかったりしても。ただ、「自分の主義に合うか合わないか」で、合わないなら、申し訳ないけどノーサンキューでいいんだよなあっと。
当人たちがそう望んでるならそれでいいじゃないかー。で、そこで「変わってほしい」「幸せに生きて欲しい」とかいうのもエゴだけど、それが、自分にとっての「何はともあれ、それぞれが幸せであってほしい」という願いが主義だったら、それでいいんだと思う。
逃げ道なかったのしんどかったから、逃げ道はあった方がいいよね。って思ってたけど、もしかしたら、逃げ道ではなく、自分がどう生きたいか、というので、明確になるかもしれない。
で、世界が広がるって「自分が持つ責任も広がる」というのってある。そこで、責任持とうとしなかったら、チャンスは前髪だけ、ってなるパターンが多かったりね。
学生時代は、自分の責任ではなく親御さんの責任にできてたのが、自分の責任になり、上司や会社の責任が加わりで、責任を取る範囲も増えてくる。その中で「ここは、こっちでとってあげるから」というのもあったりねー。
なかなか広がらない、伸びない時って
取らせてもらう責任や、自分がとる責任の範囲が変わらないままきてる。ってことある。出世しても「新人の時と責任を取りたい範囲は変わらない」というのは困るわけじゃない。
責任を取らなーいは、そもそも「責任を取って辞めるべき」とか、責任を負ったら責められるとか、負のイメージしかない人多いわけじゃない。その商品に対して自信がないから、販売会社とか有名な人がいってるからーと、責任取りたくないんでしょ?というのってあるある。
自分のやってることや、いう事に責任を持つ。
たぶん、これは、私自身の主義だけれども、世界広げるまで時間かかるのって「そこに責任もてるかどうか」とか、悩むことあるからなのよね。
やるなら、ちゃんと責任もってやりたい。みたいな。ただ、ま、それを集団でというと、それぞれ違ってくるし、主義と責任のぶつかりあいもあるだろうけれどね。
責任を取りたくない、持ちたくない人は、たぶん、これからも責任を取りたくない人たちの言葉が心地いいのは変わらないだろうし、
いい師匠さんについた結果、みるみる変わって、芯がしっかりした人になることもあるしねー。
ただ、まあ、責任を取るにしても、それをさばける体力って必要だから、気力体力がそこまでないなら、今、責任を要求される仕事とか世界に行く時期ではないって場合はあるだろなあ。
神楽自身は立ち止まってたのって、「責任をとれるかどうかわからん」で、熟孝しすぎてたってのもあるし、逆に、責任を考えずに、やりたいことやったろっと、ぽーんと飛び込んでやってみたってこともあるある。で、考えすぎてるってときって「自分にとって大事な事だから」なんだよね。
結婚とかでも、一番目ではなく二番目ってのって、大事すぎて責任取れない。二番目の方が責任持たなくていいから、楽みたいなのもあったりね。・・・なんぞそれっとおもうけどね。うん。
無責任の塊みたいな人もいるし、それもまた、悪いことでもなかったりするけどねー。自分がどういう風に世界を広げたいかってときに、自分の主義を確認してみるといいかもしれないねー。