私は度々、日本のサッカーは偏った思想を持ちすぎていると言っている。
サッカーにおけるすべての事象には優劣はそこまでなく、やはり全てが合わさってサッカーなのだ。
例えばドリブルチームだったり、コーンドリブルやコーディネーションのドリブルを長い時間やった方が良いというブログを見かけるが、本当にその事について永遠書いているのだ。
いつ見ても、タイトルが変わっても書いている。
同じような事を言い方を変えて再度主張するのだ。
そういった意見があるのは分かるし、独自の考えが皆あるのも分かる。
だが、ネタが無くなってくるのかやはり最後は自分の思想とは違うブログの反論をしているのだ。
これがなんとも子供っぽくて笑ってしまう。
そりゃ一つのものを永遠と主張していたらネタは尽きてしまう。
彼らにとってはドリブルが全てなのだ。
色々な国を見て、ドリブルのコーディネーショントレーニングをやっている動画を見つけるとやっぱり!!と嬉々としてブログに書いてしまう。
が、しかし書いてる内容は以前にも書いたものを言い方を変えて擦っているだけなのだ。
ただ、彼らは変わる事はない。死ぬまでドリブルがサッカーだと言うのだ。
病室で寝たきりになって、恐らく最後の言葉は「ドリブル…」なのだ。
というのは言い過ぎてしまった。失礼失礼
本題にはいるが、ゾーンという言葉をご存知だろうか?
スポーツを本気でやった事をある方なら分かると思うが、過集中状態の事を指す。
みなさんはこのゾーンに入った事があるだろうか?
私は4回ほど経験がある。
この過集中状態だが、その状態になると疲れを一切感じなくなる。ボールの軌道が見える。光の線のようなものが現れその通りにするとゴールが決まる。ストライクが取れる。サービスエースが取れる。
ざっくりこのような感じだろうか。
メンタルトレーニングと言っても様々あるが、調べるとやはり奥が深いのだ。
私なりに、持論を述べたいと思う。
まずみなさんに試してほしい事がある。
それは、何も考えずに1点を見つめてほしい。
これをできれば3分はやってみてほしい。
どうだろうか?何も考えずにできただろうか?
仕事の事や家族のこと、気になる事を思い浮かんでこないだろうか?
思い浮かんだと言う方。
それが自我だ。
自我と聞くと自分自身のように感じるが、実は自分ではない。
実は自分の中にはもう1人の自分がいる。
そいつは自我(じが)だ。
この自我はあらゆる手を使って自分に語りかけてくる。
その物事を考えさせようとするのだ。
実は人間は絶えず物事を考えさせられている。
これを仏教では悪魔と呼び、これこそが苦しみや不安、ストレスになる。
そして物事を考えている状態の場合、ゾーンは訪れない。
つまり「考えながらやれ!」は実は
ゾーンとは真逆なのだ。
自我は際限なく自分に考えさせる。
ずっと考えることによって人間はスタミナが減っていくのだ。
守田選手が「考えすぎてパンク」と言ったのも、考えすぎてスタミナが減り、体自体が動けなくなっていたのだ。
みなさんは慣れない仕事をやって体が疲れた経験はあるだろう。
それは身体を動かした事による疲労ではなく、考えすぎた事による疲労だ。
例えばランニングハイもゾーンの一種なのだ。
ランニングは一定のペースで走る事が多くそのリズムを繰り返す事によってゾーンに入っていく。
よくテニス選手がルーティーンを使用するが、それも一定のリズムにする事でゾーン状態にしていくのだ。
もちろんそれはゾーンに入った方が高いパフォーマンスが見込めるからだ。
この過集中の状態はやはり南米の選手や欧州の選手に多く見られる。
よく、なんで90分もこんなにスプリントできるんだ。と言われるが、それもゾーン状態に入っていればできるのだ。
日本ではメンタルと言うと辛い事をやらなくてはいけないかのように語られるが、実際は全然違う。
自分の自我をコントロールして、何も考えない状態にするのだ。
そのために、幼少期から戦術をセットでトレーニングして考えずに戦術が実行できるようにしなくてはいけないのだ。
戦術を幼い頃からやっていると、相手の陣形はお見通しだ。
頭で「3トップできてるから〜」とか「中を絞められてるから〜」と一々考えなくて良いのだ。
そうでなくても盤面は常に変わり続けるからだ。
シャビは考えてプレーしないのだ。
これはゾーンに入るにはマストの技術になる。
これを幼少期から欧州は訓練している。
いや、自動的に訓練されるのだ。
基本的なセオリーというものが欧州のサッカーにはある。
日本は無秩序なのだ。だから一回一回の試合が常にカオスになってしまう。
そのカオスもセオリーありきでなければいけないのだ。
過集中に入るとスペースが光って見えたり、仲間を見なくてもボールの音でパスがくるタイミングが分かったりするだろう。
こういったトレーニングも、是非取り入れれる人は取り入れてほしい。