スケッチのモティーフを求めて田舎の村々を歩き回る。クルマも少ないし、人通りも殆どない。僕にとってモティーフは至るところにある。それでも、モティーフがお城や教会なら何ら問題はないが、個人の住宅となると少しは躊躇する。

 立派な住宅は絵にならない。むしろ崩れかかった、廃墟寸前といった建物に絵心を掻き立てられる。そんなところには決まって老人などが住んでいたりする。大きな煙突から煙がたち昇り、煙と同時に煮込み料理の食欲をそそる良い匂いが漂ってきたりもする。そして中から話し声やテレビの音声が漏れてくる、といったところだ。

 

 

アルト・アレンテージョ地方、クラトでスケッチをしているところ。昼食後なので腹が出ているのが気になる。

 

 以前は八つ切りの大きなスケッチブックに描いていたが、最近はごく小さくサムホールサイズだ。そんなスケッチブックを広げて手早く、メモ程度に留めている。色も使わない。鉛筆だけだ。

 人通りが少ないと言っても、たまには人が通る。無関心の人も居れば、立ち止まって見ていく人もいる。殆どの人は何も言わないで立ち去ってくれるが、たまには何やかやと話しかけてくる人もいる。「ラランジャ(オレンジ)を持って行かんかね。」などと言ってくれる人もいる。今、畑で摘んできたばかりの帰りといった人だ。

 古い趣のある建物を描いていると案の定一言があったりする。いかにも不服そうだ。「何故この家を描いている。こっちのほうが良いじゃないか。」といったものだ。なるほどその人が示した建物はリメイクしたばかりで立派だ。リメイクする以前も立派だったに違いない。その村では昔からの有力者の家だったのだろう。アーチ型の大きな窓が付いていて天井も高い。住むには良いのかも知れないが僕の絵のモティーフにはならない。「これが終ったらそちらも描くつもりです。」などと言って交わすと、不服顔ながらも納得して行ってしまう。

 

 最近はスケッチ以外でもあちこちと歩き回る。野の花を求めて、キノコを求めての探索だ。

 田舎道の沿道を歩いたり、野原や森を探索する。そしてデジカメに収める。野の花とキノコのブログを作る楽しみでやっている。

 最初は軽い気持ちで始めたが、やればやるほど夢中になってしまっている。奥が深くて、嵌ると面白い。

 野の花などは既に320種類に達している。まだまだ見つかっていない花もあるだろうし、未だ同定できないで待機している花も数多くある。そしてありふれた花から希少な花に移ってきているからか、同定も難しいが、新たな花が見つかった時の喜びも大きい。

 なかには肉眼では見えない様な極小の花などもある。以前からのありふれた花に埋もれる様にして地味な花が地面近くに咲いていたりする。そういった花を野原や沿道を這うようにして観察する。誰もいない時はそれでも構わないが、時たまクルマが通ったりする。クルマからこちらを見ている視線を感じる。運転をしながら「あいつは何をしているのだ。」などと思われているに違いない。

 

 キノコ観察ならなお更だ。人の居ない森の奥深くなら気にはしないが、キノコというものはクルマが通るすぐ側の沿道に多く発生していたりする。キノコは狩猟の時期と重なるので、撃たれては痛い思いをするので、目立つように赤いウインドブレーカーを上に羽織るようにしている。

 そしてキノコはやはりナメクジの目線になって撮影したい。撮影するには、少しは環境の整備もする。邪魔な茨をハサミで切ったり、落ち葉をピンセットで除けたり、砂を刷毛で払い除けたりといったことだ。その為の七つ道具も持参している。日本製の蚊取り線香もぶら下げている。キノコを横から下から眺めて、這いつくばって作業していると、たまたまアウディか何かの高級車が走ったりする。

 赤いウインドブレーカーを着ているから人目を引く。そして冷ややかな視線を感じる。聞いてくれれば「キノコの写真を撮っています。」と胸を張って言えるものだが、そうはいかない。

 

 

キノコ(ミヤマイロガワリ)撮影の下準備、刷毛で砂を払い除け中

 

 「あの東洋人は赤い服を着て、腰にいっぱい何やらぶら下げて、顔を地面にこすり付け、鼻には汗をかいて、よだれまで垂らしている様だ。いったい何をしているのだろう。ポルトガルでも近頃は変質的な輩が出没する。物騒な世の中になったものだ。」などときっと思われているに違いない。いやはや。VIT

 

 

毒キノコながら「幸せのシンボル」(ベニテングタケ)の撮影中(写真撮影はいずれもMUZ) 

©2014  MUZVIT

 

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 先日、ポルトガルテレビの映画で邦題『ジョー・ブラックをよろしく』を観た。実はこの映画を観るのも3回目。

 映画『ジョー・ブラックをよろしく』も1934年の『明日なき抱擁』の焼き直しらしいが、1998年のハリウッド映画。舞台はニューヨークで、あのツインタワーがチラッと写ったりする古い映画。

 

Meet Joe Black

 

 内容は、横断歩道で立ち止まった為にクルマにはねられて死んだ若者の身体にのりうつった死神が、死期真近に迫った大富豪の社長を迎えに人間界に降り立ち、死の期限までの間に人間界を見学する。といった内容で、どうってことはないファンタジー・ラブストーリー?なのだが、登場人物を実に魅力的に描いている。

 若者の身体にのりうつった死神ジョー・ブラックはブラッド・ピット。大富豪の社長をアンソニー・ホプキンス。死神、ブラッド・ピットの相手役、社長の愛娘、次女(女医)はあまり馴染みがない女優だが、クレア・フォーラニというイギリス出身の女優。この3者をそれぞれ実に魅力的に描いていて、それがこの映画の見所といえば見所。

 死の期限は社長の65歳の誕生日で、その誕生パーティーが終った時。それまでの間、死神は社長の友人として屋敷内をうろうろ歩き回ったり、重役会議に列席して他の重役から怪訝な顔をされたり、とかする訳だけれどもものおじもせず、ブラッド・ピットが未だ若いこともあるが、まるで何も知らない少年の如く振舞う。実際、人間界のことは何も知らない天上界から来た死神なのだ。

 死神なのに、それでも次女に恋をする。お互いに惹かれあっていく。人生経験豊富なアンソニー・ホプキンス演じる社長は次女に「燃える様な恋のない人生なんてつまらない。そんなのは人生じゃない」とか何とか語る。もうここまで成功すれば会社なんてどうでもよい。愛に勝るものはないといった姿勢。先立たれた妻を愛し、2人の愛娘を愛している家族愛の富豪社長。これが素敵に描かれている。(あのハンニバルとの格差は凄い、同一俳優とはとても思えない。)

 死神ブラッド・ピットも恋してしまった次女をあの世に一緒に連れて行きたい、と思うのだが、そうもいかない。

 誕生パーティーが終った最後に予定通りアンソニー・ホプキンスをあの世に連れて行く訳だけれど、死神の筈の自分だけ舞い戻って来て次女と抱擁、といったところで幕。といった実にあほらしい内容。と言いたいところだが、舞い戻ってきたのは死神ではなく交通事故にあった、元の青年。死神は青年の身体は必要でなくなったため、元の青年に身体を返したのだ。愛が勝った、ということなのか。とにかくあほらしい幕切れには違いない。

 

 なんでこんな映画のことを書いているのかと言うと、ピーナッツ・バターのことについて書きたいからだ。

 死神ブラッド・ピットが大きなお屋敷内を散策する訳だけれど、台所に行き会う、女中達と執事がびっくりした様子でブラッド・ピットを見る。社長の友人だと知らされているから、良いわけだけれど、執事が瓶を手にしている。ブラッド・ピットは「それは何ですか?」と尋ねる。執事は「ピーナッツ・バターですよ。味見してみます?」「は~い」。ピーナッツ・バターを大きなスプーンで掬って手渡す。ブラッド・ピットはまるで子供が飴を舐めるように美味しそうにスプーンを舐める。執事は「もう一つ如何ですか?」「お願いしま~す」。別のスプーンに掬って手渡す。

 

スプーンを舐めるブラピ

 

 ブラッド・ピットはそれを手にまた屋敷内の散策。そして屋内プールで泳いでいた次女と出会う。

 実は横断歩道ではねられる前にカフェで2人は出会っていて既にお互いに惹かれあっていた。次女はそのことを当然覚えているから驚く、カフェで出会った青年がカフェで別れた直後にクルマにはねられて死んだことは知らない。あの時も別れた後、後ろ髪を引かれる思いだったので、横断歩道で立ち止まってしまったのだ。「あなた、何故こんな所に居るの?」ブラッド・ピットは死神で、そのカフェでの人物とは別だから前に出会っていることは知らない、初めて会うことになる。ピーナッツ・バターを食べ終えたスプーンのやり場に戸惑うブラッド・ピット。次女は「私が預かるわ」そんな何でもない場面が何とも新鮮だ。

 

 インターネット社会と言うけれど、テレビの影響はまだまだ大きいらしい。『ためしてガッテン!』で例えばバナナを放映した翌日はスーパーからバナナが消える、と言うし、納豆が身体に良いとなれば、全国で品不足になるという。

 昔は映画女優のヘアスタイルが流行したり、と言った現象もあったらしいが、今では映画の影響はそれ程ないのかも知れないが、僕はこの映画を観て久しぶりにピーナッツ・バターを食べてみたいと思った。いや、この映画を観てピーナッツ・バターを食べてみたいと思った人は相当居るのではないのかな?などと思っている。

 僕は映画を3度観て、3度目の正直でようやく思った訳だけれど。この『ジョー・ブラックをよろしく』が映画館で上映された1998年頃、巷ではスプーンを舐めながら街を闊歩する姿が流行った、なんてことは少なくともなかったし、ピーナッツ・バターが全国的に品不足に陥ったという話も聞かない。

 そもそも、今、日本のスーパーにピーナッツ・バターは置いてあるのであろうか?あまり気にして見たこともない。だいたいアメリカ人の食べ物でヨーロッパででも売られているのであろうか?と思った。

 昔は日本でもピーナッツ・バターを今より食べていた様に思う。子供の頃、我家にもあった。でも味はどんなだったかを忘れてしまっている。

 ピーナッツ・バターは基本的にはピーナッツを練ったというだけのもので、バターが混ざっている訳でも何でもない。油脂分はピーナッツを練ることによって出るもの。

 ちなみにピーナッツはマメ科、ラッカセイ(Arachis)属で南アメリカ原産の1年草。学名はArachis hypogaea、葡名はAmendoim。

 僕はピーナッツが土の中に出来る物とはMUZから教えてもらうまで知らなかったし、今でもその姿を見たことがない。製品になった物しか知らない。殻つき落花生であったり、塩味バター・ピーナッツであったり、砂糖菓子にくるまれていたり、チョコレートに入っていたり、柿の種と混ぜられていたり。

 ピーナッツ・バターは先日、ポルトガルの安売りスーパー、リードゥル(LIDL)で見てみると入り口近くのジャムの並んでいるところに確かにあった。バター売り場ではなく、ジャム売り場なのだ。そしてピーナッツ・バターはバターのような容器ではなく、ジャムと同様ガラス瓶に入っている。リードゥル・ブランドであるが、早速、一瓶(500g入り)を買って帰った。

 

リードゥル(LIDL)ブランドのピーナッツ・バター、スペイン、ポルトガルバージョン。

 

 案外と美味しい。朝食のパンに塗って食べてみたが、ほんのりピーナッツの甘味があるものの砂糖的な甘味はない。昔の記憶ではもっと甘かった様な気がするが。

 これなら毎朝少しづつなら食べても良い。アメリカ人はセロリに塗って食べるそうだが、やってみると成程格別だ。料理に入れてもコクが出て良さそうだとも思って早速、お好み焼きに入れてみたがなかなかイケル。次はカレーにも入れてみるつもりだ。

 僕は子供の頃、歌手の「ザ・ピーナッツ」が好きであった。「恋のフーガ」や「情熱の花」などよく鼻歌で唄ったものだ。落花生の殻の中にはピーナッツ豆が二つずつ入っている。実に良い名前だと子供心に感心していた。でも時には殻の中に三つの時もあるし、四つの時もある。それとは別にピーナッツ豆は胚を挟んで必ず2つに別れる。袋の中にはまるままの完全な形のピーナッツもあれば、既に半分に分かれたピーナッツもある。僕はそんな2つに分かれたピーナッツを選んで、ピーナッツ・バターを掬って食べることを思いついた。何だかイジマシイ食べ方だが、それが又旨い。「ピーナッツ・バター・バター・ピーナッツ」と呼ぶことにしよう。略して「ピーバタバタピ」。

 ピーナッツ・バターを調べてみるとこれはカロリーが非常に高いらしい。

 アメリカ人が異常に太っているのはピーナッツ・バターのせいかも知れないなどと思い始めている。これは危険だ。妻(MUZ)には早速、摂食禁止令を出した。僕が1人で一瓶を空けざるを得ないことになる。若きブラッド・ピットに惑わされてはならない。『ピーナッツ・バターをよろしく』ではなく、『ジョー・ブラックをよろしく』はもう16年も前の映画。今ではブラピも中年太りだそうだ。VIT

 

 以下はピーナッツやサツマイモなどの研究をした、ジョージ・ワシントン・カーヴァー(GEORGE WASHINGTON CARVER)についての記述です。
本名:ジョージ・ワシントン・カーヴァー[1864~1943]
 1864年に奴隷制度下のミズーリ州ダイヤモンド・グローブの近くで生まれた。彼は40年以上、米国アラバマ州にあるタスキーギ大学で、サツマイモやピーナッツなどを研究する農学化学者だった。1860年頃生まれ、当時奴隷だった。南北戦争の後、黒人が自由になったので、働きながら勉学し、修士課程まで教育を受け、1896年にタスキーギ大学の農学研究の研究長になった。

 

ジョージ・ワシントン・カーヴァー[1864~1943]

 

黒人奴隷出身の植物学者  (ブログ「しっぽ ふりふり」より)

 

 アメリカのミズーリ州で南北戦争直前に奴隷の子として生まれ、やがてピーナッツや、サツマイモから化粧品・インク・コーヒーなどの生活必需・密着品を開発、その数300以上にものぼる製品を生み出した南部奴隷出身の偉大な黒人の植物学者、ジョージ・ワシントン・カーヴァー。(George Washington Carver, 1864-1943 米)

 カーヴァーは幼い頃からとても純粋な心の子供だったそうで、彼の、植物に対する特殊な才能が発揮され始めたのは10歳にも満たない時からだった・と言います。

 赤ん坊時の奴隷転売目的で誘拐された事件がたたり(その時、母親は行方不明のままとなっています)奴隷としての労働が出来る体力がつくまでは野原を散歩し、植物の観察を暇つぶしとしていました。

 時を経て、徐々に奴隷労働に従事する頃、自分専用の僅かな土地を与えられたカーヴァーはそこに庭園をつくり、好きな植物を植え、育て始めます。(ジョージ・ワシントン・カーヴァーという名も、実は後からとって付けた名前で奴隷である彼は“物品”扱いで育ち、名も無く、“雇い主カーヴァーの奴隷”と呼ばれていた。)

 いつも素晴しく生き生きとした彼の小さな庭の植物達を見て、やがて村人達が「自分の植物も元気にしてくれないか」と、カーヴァーの元へ様々な植物が持ち込まれるようになってゆきました。そして預けていた人々がカーヴァーから植物を受け取りに行くと皆、一様に病んでいた植物の回復ぶりに驚き、どうしてこんなことが出来るのか?と彼に尋ねたところ、カーヴァー少年は常時こう答えていたと言います。「お花は、みんなボクに話しかけてくれるんだ。森の小さな生き物も、大勢そうしてくれてるよ。だからなんでも、ジッと見て好きになると、ボクわかっちゃうんだ」。

 そんな彼の植物を元気にする方法は、あどけなくて純粋な子供のハート・・・そのままを示しているようなやり方でした。草花に歌を歌って聞かせ、自分で調合した土に植え替えてあげ、夜は被いをして「おやすみなさい」と言葉をかけ。昼には外へ出して、“日向(ひなた)で遊ばせて”あげる。このように、まるで、友達や家族のように扱って面倒をみているだけ。ところがそれだけで植物達は、目を見張るほど回復して行ったのです。どんな植物も。

 後に植物研究者として次々と、まるで魔法のように製品を限りなく生み出していった、カーヴァー。かの有名な発明王、T.A.エジソンが「私の元で働いてみないか」と、天文学的な高給額を提示しながら熱烈に申し込んだ・・・そんなエピソードも彼の稀有な才能を、華々しく飾っています。

 

実験室のジョージ・ワシントン・カーヴァー博士(GEORGE WASHINGTON CARVER)

 

 日本では残念なほど名の知られていない彼ですが、植物という生き物はただ土に生え、黙って踏み潰されるだけの物体ではない、・・・ということを奴隷であるがゆえに、自分だけの名を持つ生まれでさえなかった彼が弱者の立場から身をもって教え、示してくれた。そんなふうに思います。  ブログ「しっぽ ふりふり」より

 

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タマゴテングタケは毒キノコである。

しかも猛毒御三家(タマゴテングタケ、ドクツルタケ、シロタマゴテングタケ)と呼ばれるうちでもリーダー格だそうだ。

どれほど猛毒かと言うと・・・『中毒症状は2段階に分けて起こる。まず食後24時間程度でコレラの様な激しい嘔吐・下痢・腹痛。その後、小康状態となり、回復したかに見えるが、数日後、肝臓と腎臓等内臓の細胞が破壊されて最悪の場合死に至る。古くから知られている毒キノコであるため、その毒素成分(キノコ毒)の研究も進んでおり、アマトキシン類、ファロトキシン類、ビロトキシン類などがその毒素であることが明らかにされている。これらは8つのアミノ酸が環状になった環状ペプチドであり、タマゴテングタケの毒性はこのうち主にアマトキシン (amanitatoxin) 類によると考えられている。毒性はα-amanitinw で、マウス (LD50) 0.3mg/kg。アマニチン (amanitin) は消化管からの吸収が早く、1時間程度で肝細胞に取り込まれる。アマトキシン類はこれらのキノコ毒の中では遅効性(15時間くらいから作用が現れる)であるが毒性は強く、タマゴテングタケの幼菌1つにヒトの致死量に相当するアマトキシン類が含有されている。アマトキシンはヒトの細胞においてDNAからmRNAの転写を阻害する作用を持ち、これによってタンパク質の合成を妨げ、体組織、特に肝臓や腎臓などを形成する個々の細胞そのものを死に至らしめることが、このキノコ毒の毒性につながっている。』(Wikipediaより)

日本ではめったに見られなくなっているそうだが、ここセトゥーバル近郊の森では僕はこの数年毎年確認している。その写真をブログ『ポルトガルのキノコサムネイルもくじ』に載せている。

数年前からスケッチ旅行の傍ら、野の花の写真を撮っては楽しんでいる。そしてそれらを同定し、ブログ『ポルトガルの野の花ブログ』として載せ始めた。

何よりも運動がてらという感覚である。ポルトガルの場合、日本とは異なり四季というより乾季と雨季という感じもあり、春は野の花も一斉に咲き揃い、見事と言う他はないが、殆ど雨の降らない夏には猛暑に焼かれて枯れ野原になってしまい、花たちも姿を消してしまう。

日本の様に夏には夏の花、秋には秋の花が咲いてくれれば、また楽しみも持てるのにと思うのだがそうはいかない。

それで思いついたのが秋、冬のキノコ観察である。春は野の花、秋にはキノコで野山を歩く楽しみができた、と思っている。早速キノコのブログも開設した訳であるが、キノコの同定の難しいこと。少しの本やネットなどで調べているが、写真だけではなかなか見分けは付かない。だれか詳しい人が教えてくれないかな~などと安易なことを思いながら、「不明菌」のままでブログに載せたりもしている。

そんなある日、OSOさんという人から書き込みが届いた。

「初めまして。OSOと申します。タマゴテングタケの写真を探していてこちらのブログに辿り着きました。当方キノコイラスト集の発行を予定しており、自身の撮影した写真で大半は揃えられたのですが、タマゴテングタケの写真だけは国内の色々な機関、個人に問い合わせても、写真をお持ちの方に出会えませんでした。日本国内での発生はほぼ幻とも言えるレベルのようです。そこで質問なのですが、貴ブログにて紹介されている写真を提供して頂く事は可能でしょうか・・・。」といった丁寧な書き込みであった。

早速、返事をして承諾に至った訳であるが、その後も、何度かメールのやりとりをしている。

そして待望の本が出来上がって、ポルトガルまでも送ってくださった。

 

OSO的 『キノコ擬人化図鑑』 著:OSO,監修:井口潔、発行:双葉社、定価:本体1,200円+税

その前にも、OSOさんのサイトを見ては楽しんでいたのだが、本を手に取ってみて、そのユニークさに改めてのめり込んでいる。先ず、それぞれのOSO的キノコ嬢が描かれている。キノコの説明。そしてキノコ嬢の作画解説。これが理にかなっていて、ユーモアたっぷりで思わず笑ってしまうし、頷いてもしまう。これはOSOさんの豊富なキノコの知識に裏付けされているから説得力もあり、擬人化とは言え、勉強にもなり興味深い、お勧めの1冊である。キノコに興味のある方は勿論、そうでない方も是非、本屋で手に取ってご覧ください。タマゴテングタケのページではMUZVITの写真も挿入されています。

OSOさんとはその前後に亘って何度かメールのやりとりに至っているが、タマゴテングタケの写真を提供したこともあり、自然タマゴテングタケに拘る話題となる。

OSOさんからのメール『タマゴテングタケは海外の小学校で給食に混入し20人以上と言うキノコ食中毒史上最多クラスの死者を出した悪魔のキノコ。総患者数100人以上、後遺症が残った方も。』・・・・『海外の、とは何処の国ですか?』と返信メールを送ったところ、すぐに『確か?ポーランドだったと思います。』という返事が来た。ポーランドと聞いて僕は鳥肌が立ち背筋が寒くなった。

そして古い話を思い出していた。それは1974年頃、僕が未だ20歳代前半の若かりし時代のはなしである。

僕と妻(MUZ)は1971年からストックホルムに暮らしていた。ストックホルム大学の夏休みなどを利用して、毎年、ヨーロッパの各地へ旅行していた。それはフォルクスワーゲンのマイクロバスを、中で寝られるように、料理も出来るように改造していて、いつでも気軽に出かけることもできたからだ。

スウェーデンの南から一晩フェリーに揺られるとポーランドに着く。僕たちにとっては2度目のポーランドであった。

ポーランドは未だ共産圏の時代で、まるで映画で見る19世紀のヨーロッパの雰囲気を漂わせていて、七面倒臭いビザさえなければもっとたびたび行きたかった国であった。

その時は、僕たち夫婦と日本人の友人、そしてその恋人のフィンランド人の女性の4人で出かけた。僕たちも20歳代前半であったが、友人の日本人男性は僕たちより更に若く、フィンランド女性は20歳そこそこか、まだ18~19歳であったかも知れない。

スウェーデンのイスタッドという港を夕方に出港して一晩フェリーに揺られると早朝にはポーランドのシチェチンという工場地帯の港に着く。確かその後、革命で有名になった『連帯』の発生の地ではなかったかなと思う。『連帯』のワレサ委員長は革命後大統領も勤めた人物だし、ノーベル平和賞も貰ったのだったと思う。

そのシチェチンから南に下るのだが、長い森が続く。その森の傍で休憩と言うことになった。ドライブインもカフェもお店の一軒もない両脇共深い森だけの道だ。僕たちはいつもスープのカンズメとか、パンなどを積んでいて、いつでもキャンピングガスでスープを温めて折りたたみの椅子とテーブルを出し、何処ででも食べることが出来るようにしていた。その時もそんな昼食を摂ったのだと思う。

僕たちは森を散策し、たくさんのキノコを採った。フィンランド人の彼女は「このキノコはフィンランドでも家族で採っていつも食べていたのと同じだから、美味しいわよ」。早速、フライパンを温めて塩コショーし、油炒めで食べることにした。怖いもの知らず、無知とは恐ろしいもので、何の疑いもなく、その時は喜んで皆で食べたものだ。勿論、僕たちは死にはしなかったし、お腹をこわすこともなかった。そのフィンランドの女性の言う様に家族で森で採取して食べていた安全なキノコに間違いはなかったのであろう。

でも今なら恐ろしくて料理は出来なかっただろうと思う。僕には今でもカヤタケとドクササコの見分けもできないし、有毒のツキヨタケとヒラタケと天然シイタケの見分けも出来ない。先日は滋賀県の『道の駅』で山採りキノコの中にツキヨタケが混入していたというニュースもあったし、奈良県では触っただけで危険とされる、カエンタケが大発生していて、注意を喚起する立て看板を設置した、などのニュースもあった。そして、毎年、キノコの中毒があとを絶たない。あの時のポーランドの森で、もし1本のタマゴテングタケが混入していたら、と考えると背筋が寒くなる。

今年もポルトガルにもキノコの季節がやってきた。昨日は森に入り、カンゾウタケを見かけたし、アンズタケらしきものもアカジコウも、そして、カラカサタケとホコリタケの幼菌も見かけたが写真に収めただけで、採ることはしなかった。ポルトガルのテレビニュースで「日本人夫婦が森のキノコを食べて七転八倒の末、狂気の死亡」などとはなりたくはない。VIT

 

 

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 我が家の朝食はパン食である。

 朝はたっぷり食べることにしている。

 それがポルトガル式かというとそうでもない。我が家式である。

 基本となるパンはリオ・マヨールのどっしりパン。以前はラゴイーニャであったり、マフラであったり、モイーニョのパンであったり、いろいろ変わってきてはいるが、最近はリオ・マヨール。何故かというと、行きつけのスーパーで売られているからに他ならない。まあしいて言えばあまりこだわりはないが、保存料の使われていない炭火焼のどっしりパンには違いない。底には煤がこびり付いているし、日にちが経てば黴が生える。(最近日本の大手食品会社製のパンには黴が来ない。あれはどうみても不自然である。)

 時たまには他のスーパーでドイツ風の黒パンを買ってくることもある。それはもっと重い。スウェーデンに住んでいた頃、北欧や東欧を旅行中によく食べた懐かしさもあり時々は黒パンを食べる。日にちが経ったあの黒パンの酸味が癖になり堪らなく旨い。

 パンにはバターかチーズ。チーズはポルトガルのではなく、フランスかオランダのゴーダチーズ、ブルーチーズ、カマンベールなど3種類くらいを常時置いている。バターはマーガリンではなくバターを使う。

 それに必ずサラダを付ける。赤キャベツの刻んだものを塩コショー、りんご酢、オリーブオイルで和えたものをまとめて作っておいて毎朝食べる。新鮮なレタスも付ける。朝からサラダを食べるなどと言うとポルトガル人は驚く。日本では普通であるが。

 たまにはハムが付くこともあるし、目玉焼きが付くこともある。トマトが付くこともあるし、キュウリが付くこともある。ポテトサラダを作ることもある。我が家ではドレッシングもマヨネーズも自家製である。

 それにヨーグルト。ヨーグルトは以前には自作したり、カスピ海ヨーグルトを作ったりしていたが、今は市販のナチュラル125グラムを1個ずつ食べている。それにフルーツを混ぜる。フルーツはバナナ、りんご、オレンジそれに缶詰の黄桃をミックスしたものをあらかじめ作っておいて毎朝ヨーグルトに混ぜる。キーウィフルーツを混ぜることもある。先日は野原から採ってきたキイチゴなども混ぜた。

 飲物は以前はカフェオーレであったが、最近は穀物から出来たココア風味粉末を、沸かした牛乳に溶かして作るココア風飲物を飲んでいる。ココアは繊維が多く健康に良さそうで飲むことにしている。穀物から出来たココア風味は更に健康に良さそうに思えてこれを飲んでいるが、本物のココアより遥かに安価でもある。日本でも市販されれば良いと思うのだが日本では見たことがない。原料はイネ科穀物である。

 それと100%のトマトジュース。ミネラルウォーターも1杯。だいたいこれが我が家の朝食である。

 

 朝は7時に起床して、顔を洗い、歯を磨き、それから朝食の用意、7時45分には食べ終わっている。朝食にはコーヒーは飲まないが、ひと仕事終えた後、10時にコーヒータイムとしている。

 

 ちかごろは「ポルトガルの野の花」のブログなどを作っているせいで、やたら植物の科や属などが気になる。コーヒーはアカネ科、コーヒーノキ属というらしい。ココアはアオギリ科、キャベツはアブラナ科でレタスはキク科である。ちなみにパンは小麦から出来るのでイネ科コムギ属。リンゴはバラ科リンゴ属、バナナはバショウ科バショウ属、キーウィフルーツはマタタビ科マタタビ属。

 トマトもジャガイモもピーマンもナス科ナス属で南米原産なのでコロンブス以前のヨーロッパにはなかった食べ物なのだ。

 中世のヨーロッパ人は今とは全く違う食生活をしていたことになる。いまや地中海沿岸地方の郷土料理にトマトもパプリカ(ピーマン)も欠かすことが出来ない。もちろんジャガイモはなおさらである。ジャガイモなどポルトガル人の食べる量は桁外れだ。国道沿いでは20キロネット入りが5ユーロで、あちこちで競争して売られていて、人々はそんなのを買う。メルカドやスーパーの量り売りでは間に合わない。

 トマトもジャガイモもピーマンもナスも美味しい野菜だ。美味しいものには毒がある。ではないが、マクロビオティックでは禁野菜なのだ。

 僕はニューヨークに居た時、マクロビオティックレストランでコックをしていた。それ以前は全くマクロビのマの字も知らなかったのだが、友人の紹介でそのレストランで働くことになった訳であるが、教えられるままに1年間はマクロビオティックにどっぷりと浸かっていた。

 そのマクロビオティックではトマトもジャガイモも使わない。ピーマンはどうであったかは忘れたが、使った記憶はない。

 玄米を中心とした食事で豆類と海草は欠かさない。乾燥のあずき、白いんげん、うずら豆、黒豆など数種類を日替わりで煮ていた。

 天然醸造のたまり醤油と味噌を使う。甘味は野菜からとアップルサイダーなどから摂る。ニンジン、カボチャ、サツマイモなどはよく使ったがトマトとジャガイモは確かに禁野菜で使わなかった。

 たまたまかも知れないが両方ともナス科ナス属である。もちろんナスも禁野菜であった。「秋茄子は嫁に食わすな」ということわざがあるが、ナス科の野菜は身体を冷やす。大量摂取は確かに良くはない。タバコもナス科だ。

 ナス科タバコ属のタバコも身体を冷やす。本当かどうかは知らないが、タバコを吸うと1時的に血管を収縮させて血の巡りを遅くさせる効果があるとか。それでタバコを吸うと落ち着いた気持ちになれるというのだとか。

 大切な決断を迫られている時に「ちょっと一服」といってタバコを吹かせ、先ずは気持ちを落ち着かせる。理にかなっている訳である。

 画家や小説家ともタバコは切り離せない。考える時間が必要なのだ。僕はタバコは吸わないが、僕の画家仲間にはタバコを吸っている友人が多い。が、確かに健康には良くない。又、コーヒーを飲みながらの一服は格別旨いものらしい。コーヒーはアフリカ原産であるが、タバコは南米原産でコロンブス以前にはヨーロッパにはなかったことになる。ココアも南米原産だが、ココアを飲みながらタバコを吹かしている芸術家では様にならない。なんでや。

 意外なことにマクロビオティックではタバコは禁止ではなかった。創始者の桜沢如一氏も後継者の久司道夫氏もタバコを吸っていたらしい。僕が働いていたレストランのオーナーのタキさんもタバコを吸っていた。曰くニコチンが悪いのではなく、紙巻タバコの紙の黴防止保存料が悪いのだ。と言って細巻き葉巻を吸っていたのを覚えている。

 でもニコチンは確かに良くないのだと思う。血液の流れを押さえ、血管をぼろぼろにしてしまう。

 僕はニューヨークで1年間マクロビオティックのお世話になった恩はあるけれど、それほどマクロビオティックを心酔している訳でもない。人間は適当に毒?とも付き合い、食べ慣らしておいたほうが良い様にも思う。

 綺麗な花には棘がある。巧い話には裏がある。旨いものには毒がある。毒と薬は紙一重。旨みと毒は紙一重。

 最近、キノコ業界では、今までは旨いキノコだとされていたキノコに新たな毒が発見され、毒キノコとして登録され直されているとか。キノコの毒には即イチコロの毒もあれば、先ずは内臓を侵し、じわじわと脳も破壊し、狂い死なせる恐ろしい毒もある。

 過剰な保存料を施した食べ物はじわじわと身体の隅まで侵食し、やがて原因不明の病を引き起こす、確かに良くはないけれど、ナスやトマト、ジャガイモなどは程ほどに食べるほうがよいのではないのかな、などと思ったりもする。と言いつつ先日からトマトジュースを止めてオレンジジュース(ミカン科ミカン属)に切り替えている。

 マクロビオティックでは肉、砂糖(サトウキビはイネ科)、タマゴ、牛乳なども禁食物である。が、ほどほどなら毒も薬。良い様な気もする。肉も牛乳も全くなし、では栄養失調になり抵抗力低下にもなりかねない。

 でも最近の世界的人類の太りすぎはどうみても異常現象だ。

 朝からマック、昼はステーキランチ、おやつには保存料たっぷりのスナック菓子、夜は焼肉、それもタバコを吹かしながら、では病気になるのは必至だ。

 上記の文章には一切の責任は持ちません。食品健康管理は自己責任で。VIT

 

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 昨年、父の遺作展を大阪、西天満の「マサゴ画廊」で催しましたが、その時に兄妹で小冊子を作り、父を偲びました。その僕の文章に一部誤りなどもありましたので、今回、訂正を兼ねて大幅に加筆し、タイトルも「父、武本憲太郎の履歴書」としました。武本比登志

武本憲太郎 「スペイン壷のバラ」 F6

「父、武本憲太郎の履歴書」

 父、武本憲太郎は今年(2012年)5月28日100歳5ヶ月と10日の生涯を閉じました。

 最後は自宅で兄の介護の元、眠るように息を引き取ったそうです。

 明治44(1911)年12月18日、武本幸三郎と君代の五男(夭折した子供を含めると六男)として愛媛県新居浜市に生れました。兄は4人、姉は2人。7人(9人、2人夭折)兄弟の末っ子です。すぐ上の姉は未だ103歳を越えても元気で居ます。(その後、亡くなりました。)

 何でも岡山県の山あいには今も武本姓ばかりが住む小さな村があると聞いたことがありますが、武本家の先祖で判っているのは1700年代に尾道近郊で塩田を営んでいた、という記述が残っています。武本嘉平太という名前で、1721年(享保6年)生れ、1788年(寛政11年)11月20日に78歳で亡くなっています。妻には1776年(安永5年)3月9日に先立たれ、その後、おみわという19歳も若い後妻と世帯を持ちますが、おみわも59歳で嘉平太が亡くなる同じ年の2月に先立ちます。

 塩田は今の広島県尾道市の肥浜というところですが、尾道市の対岸、向島にあります。嘉平太の息子は、武本猪三郎由宗(1765(明和2年)~1820(文政3年)6月13日没)そして、武本善太郎由則(1789(寛政元年)~1842(天保13年)5月1日没)、武本徳三郎由光(1817(文化14年)~1902(明治35年)9月3日没)、そして祖父の武本幸三郎(1865(慶応元年)10月22日~1946(昭和21年)7月25日)と続きます。幸三郎は三男でしたが、家督を継ぎました。祖父、幸三郎が亡くなった5ヵ月後、僕が生れました。だから僕は祖父を写真でしか知りません。

 武本家初代の竹之内嘉平太(幼名は不明)は1721年(享保6年)に竹之内小十郎(1781(天明元年)年没)と妻某(1733(享保18)年没)の長男として生れ、やがて家督を継ぎますが、いつの頃からか武本姓に改名します。改名したいきさつは定かではありませんが、その当時としては、改名することはままあったらしくて珍しくもなかったそうです。嘉平太はかなり盛大な塩田を営んでいたと記されていますが、その傍ら、小笠原流(弓、馬術、武家礼法)の免許があり、和歌の詠集も残されているそうです。

 塩田を営んでいたと言っても、武士で福山藩尾道城の藩士でした。

 嘉平太の息子の猪三郎由宗は塩田業を継ぎ更に拡大をします。三代目となる善太郎由則も塩田業を継ぎましたが、あまり芳しくなく、塩田を諦め尾道を去って今治へ渡ります。今治は姉達の嫁ぎ先でそれを頼っての今治移住でした。始めは煎餅などを焼いて売り、妻、まちも娘時代に習った日本刺繍で何とか生計を立てます。そして金貸業いわゆる質屋を始めます。屋号を「森原屋」とします。森原屋としたいきさつについては記されてはいませんが、嘉平太の娘、つまり善太郎由則の叔母にあたる、於徳が森野屋に、於民が竹原屋に嫁いでいます。その森と原をとって「森原屋」としたとも考えられます。

 金貸業は善太郎由則、徳三郎由光、そして僕の祖父、幸三郎で三代目です。幸三郎は三男ですが、家督を継ぎます。兄たちが継がなかった理由については記されていません。長兄、常助は岩城島の医師、岸直次の次女愛子を嫁にします。考えられるのは常助も医師で質屋を継がない理由として医師として独立していたとも考えられます。次男、武平は既に阿部家の養子になっていました。三男である幸三郎が金貸業(質屋、森原屋)を継いで、それは順調に行っていた様です。金貸のかたに美術品を集めるのも仕事で目利きもあったようです。趣味も兼ねていた様にも思います。

 僕の父の4兄のうち2人が医者でしたが、祖母、君代の家系には医者が多く、先祖は今治城の御典医(お抱え医者)だった様で、祖母自身も薬剤師の免許を持っていました。新居浜の屋敷の玄関土間には大きく立派な薬箪笥があったのが印象的でした。祖母の旧姓は村上で村上水軍の末裔とのことでした。ちなみに祖母、君代の父は村上又哲(ゆうてつ/明治39年死去)、祖父は村上又玄(ゆうげん)、曽祖父は村上玄眞(げんしん)と言っていかにも医者という名前です。

 今の今治城の展示物には骨董品が多数並べられているそうです。記録によると、いつの時代の典医かは判りませんが、書画骨董集めが趣味の典医が居たらしく、そのコレクションがそのまま残され展示されているとのことです。

 僕が知る新居浜のお屋敷は広く蔵もありましたが、蔵とは別に神社の近くにあったことからか、庭の一角にはだんじりが収まっている黒く塗られた大きなだんじり車庫もありました。

 祖父が亡くなった後の祖母の晩年は大きな屋敷に1人住まいで、生田流のお琴の先生をしていました。生徒さんの出入りも多く、座敷にはお琴が幾つも立てかけてあったのを覚えています。

 でも祖父も祖母も今治生れで、父が生れる少し前に新居浜に移ってきた様で、その大きなお屋敷は最初は半分で借地だった様です。今治での質屋業は順調でしたが、何でも祖父は材木か何かに手を出したらしく、案の定、失敗をして今治の家屋敷、財産を殆ど失い、逃げるようにして新居浜に移ってきたということでした。武本家がどん底にあった時期で、父とすぐ上の姉はそこで生れました。兄姉たちも苦労をした様ですが、祖母は厳しい人で、学業だけはおろそかにはさせませんでした。

 次男の光太郎おじさんは苦学の末、名門攻玉社を卒業、大手建設会社に入りましたが、東北方面の事業で成果を挙げ、東京本社の重役にまで上り詰めた成功者になりました。その頃、丁度、新居浜の地主は戦後バブルで税金が払えずに、土地を売りたがっていたので、光太郎おじさんがお金を出して買うことになりましたが、その隣の分も買ってくれということになり、買ったのだそうで、僕が子供の頃たびたび訪れた家屋敷はその広くなった家だったのだと思われます。

 祖母の実家は今治で村上姓ですが、祖母の母、つまり僕の曾祖母ですが、ツルという人が尾道の「秋田屋」という豪商の生れで、今治の村上又哲(ゆうてつ)に嫁いできて、そこで祖母が生れました。祖母も秋田屋の庇護の下、武本に嫁いできたそうですが、嫁入り道具はそれは豪華だったようです。秋田屋は何百年も続いて来た備後表(畳表)を営む豪商だったようで、今でも尾道の正授院というお寺に40基ものお墓が残っていて、備後地方最古のお墓とのことで、文化財にも指定されて、尾道の古寺巡りで有名な墓だそうです。

 祖母、君代はその当時、女性は学校に行けなかったので個人教授で、読み書きを教えられ、英語も知っていると言っていました。その他には、琴、三味線、胡弓を習い、茶の湯そして縫い物と他所の子は遊んでいるのに毎日、稽古事に追われて辛かったとよく言っていたそうです。結婚は16歳の時、質屋をしていた幸三郎と結婚しました。子宝にも恵まれ大所帯となりましたが、材木で失敗した幸三郎は明治の日露戦争のあとの戦後景気を乗り切れなくて銀行の差し押さえを受け、その立派な嫁入り道具も失い、今治に居られなくなって新居浜に移りました。祖父は新居浜でも細々と質屋を続けていましたが、君代が薬を売り、琴を教え、縫い物で生計を支えたそうで、そこで父とすぐ上の姉が生れ更に大所帯となりました。

 父は五男ですが、憲太郎です。兄達も長男が清太郎、次男が光太郎、三男、繁太郎、四男、隣太郎、そして父が憲太郎で、全員が太郎です。次男の光太郎の上に虎次郎というのが生れましたが、すぐに夭折してしまいます。それもあって、祖母の方針で兄弟は皆、平等なもので、分け隔てがあってはならない、だからそれ以降は全員が太郎にしようというものでした。

 父は子供の頃は剣道少年でありましたが、祖父や先祖が集めた美術品に囲まれても育ち、美術好きの少年でもありました。父と祖父はそんな家系にあって、異端児だったのかも知れません。父は小学校の頃から絵を描くのが好きで上手で、先生から教室の黒板にチョークで虎を描かされた、と言う話も聞いたことがあります。

 画家になりたくて、親戚中の反対を押し切って東京美術学校(現東京芸大)を受験しましたが、失敗に終わりました。滑り止めの為受験した日大芸術学部には合格しましたが、反対を押し切ったため仕送りもなく授業料が払えずすぐに中退となりました。

 就職試験ではいろいろと受けたそうですが、公務員の大阪府庁なら絵を描く時間が取れそうだということで、そこに入りました。最初は守口保健所勤務だったそうで、その頃に知り合った人たちとはその後も長く付き合っていたようです。

 大阪府庁の美術部に入り、中ノ島洋画研究所に通い本格的に絵を描き始めます。講師には鍋井克之、国枝金蔵、古家新などが居ました。古家新が会員だった戦前の二科展に父は何度か入選しています。

 軍の召集では未だ戦禍がそれほど激しくなる以前でしたので、杭州や蘇州あたりに赴きましたが、何冊かのスケッチブックも残しています。父はあまり戦争での話はしませんでしたが、死ぬ思いもしたそうで、戦友たちのお陰で生きて帰ってこられた、と言っていました。

 未だ戦時中でしたが退役してやがて母、千登瀬と結婚をしました。母は父より13歳も年下です。地方公務員なので大阪以外への転勤はなく、それからはずっと大阪生活です。僕の兄は昭和19年生れです。僕は戦後の昭和21年生まれ。妹は昭和24年で兄妹共が大阪生れです。

武本憲太郎、千登瀬の結婚式(昭和18年)

 僕が物心ついた頃には父は大阪府庁で通商課の観光係というところで係長をしていました。既に部下が何人かいましたが、僕が知る主な仕事は外国人むけの観光パンフレットなどを製作していました。

 父は戦後は古家新などが創設した行動展に出し始めました。まもなく会友にはなりましたが、府庁の仕事の方が忙しくなりなかなか制作の時間が取れないのも悩みでした。それでも画家仲間とスケッチ旅行にはしょっちゅう行っていた様です。

 行動美術の仲間にはパリで住み絵だけで生活が成り立っている画家も居て、とても羨ましがっていました。絵を描く時間がなかなかとれないと言っても、僕の子供の頃の僕の家は油絵の具のポピーオイルの匂いで満ちていました。友人の家が大根の煮る匂いがするのに対して、僕はポピーオイルの匂いのする我が家が気に入っていました。

 その頃の公務員は薄給で、父も絵の具代を賄うため半ドンの土曜日には自宅で近所の子供たちを集めて児童画絵画教室をしていました。僕もその生徒の一人でした。

 行動展の関西支部やその他の会などが集まって創造美術と言うのも立ち上げたのもその頃ではなかったかなと思います。そんな行動美術や創造美術が会員たちに児童画教室を推進していた様で、天王寺美術館で催される展覧会には必ず児童画展が併催されていました。

 府庁では通商課観光係に移ってからは父の場合全く移動がなかった様です。外郭団体には大阪工芸協会などもありました。

 そんな関係からか父は日本民芸協団の理事にもなりました。日本全国、時々は九州や沖縄などの民芸陶器の故郷を訪ねる旅にも参加しています。そして国内に留まらず、海外の民芸陶器や織物などを訪ねたりもしています。アジアや中東、南米などにも及びました。そしてその先々でスケッチを描いています。

 府庁から出張でヨーロッパへ行った事もありました。父の海外旅行は50カ国に及んでいます。

 僕が20歳代の頃には4年半をスウェーデンで過しましたが、その時にも出張の途中、父はストックホルムの我が家を訪ねてくれています。

 僕の大阪での個展には大阪現代美術センター初代館長の前田孝一先生が必ず来てくれましたが、大阪府庁美術部での父の後輩にあたります。その前田孝一先生が「大阪現代美術センターがもう少し早く出来ていたら、初代館長は武本憲太郎さんだった筈だ。」と言われたことがあって僕も驚きましたが、「だいたい大阪府庁の美術部を作ったのは武本さんや」とも言われていました。

 僕は40歳を越えてからポルトガルに住み始めました。その翌年にサロン・ドートンヌに入選をしましたが、それを観るためという名目で80歳になった父がパリとポルトガルを訪ねてくれました。そしてポルトガルで1ヶ月を過しました。パルメラで一緒にスケッチブックを広げたのは今では懐かしい思い出です。その頃は未だ下町の古い家に間借りをしていましたが、その後移り住んだ今のマンションのアトリエからはそのパルメラの城を望むことができます。

 僕はポルトガルに住み始める前は宮崎のワイフの両親が経営をしていたドライブインをやり始めました。

 ワイフの両親とも学校の先生でしたが、多くの人を雇ってドライブインとビジネスホテルを経営していました。少し手を広げすぎたのか手が回らなくなり、僕たちが手伝うことになったのです。

 そこにも父はたびたび訪れてくれました。美しい澄んだ水を使っての鯉料理やそうめん流しを出す店でした。父はその鯉のあらいを美味しそうに食べてくれました。僕も鯉料理が得意になりました。

 僕は一日中忙しくて父とゆっくりする時間もありませんでしたが、父はそのあたりに出かけては油彩の風景画を仕上げて帰ってきました。僕などはとても絵になる様なところではないと思ってスケッチにもしませんでしたが、父の手に掛かると立派な油彩作品になっていました。そしてスケッチの帰りや庭からも野草を摘んできては生け花を生けて店に飾ってくれましたが、それは見事なものでした。
 父はこんなことも言っていました。「花屋で買うてきたバラでは絵にならん。茎が揃うてて面白うない。やっぱり、庭で自分で育てたバラでないと面白い絵にはならん。」

 従姉の淳子さんの話では「新居浜の家には憲叔父さん(僕の父)が植え、育てていたバラが最後まで残されていましたよ」。新居浜のお屋敷はその後、売られ、今では7階建ての分譲マンションが建っているそうです。そのバラは、当然今はありませんが、父が未だ若い頃に、新居浜の庭から引き抜いてきた斑入りのハランは株分けされ、あちこちで子孫を増やしています。ポルトガルにも少しの根茎を持って来ましたが、ここでも増殖し続けています。

 そう言えばスウェーデンでも一緒にスケッチをしましたが、僕は「えっ、そんなとこ絵になるのん」と言ったのを覚えています。ポルトガルでも一緒にスケッチブックを広げましたが、不思議と同じ場所に立っても描く方向が違ったりします。

 僕は父から絵のことについて有言、無言でいろんなことを学んできましたが、やはり育ってきた時代、環境が違うのか、微妙に捉え方が違うのが面白いところです。

 父の風景画で一番新しいのはポルトガルの絵かも知れません。ポルトガルから帰って何年もかけてポルトガルのスケッチを元に油彩を描いていた様に思います。

 僕はポルトガルに移り住んでからは毎年何箇所かで個展をしています。父は日本国内での個展、その殆ど全てを観に来てくれました。個展の準備は宮崎の自宅でするか、実家(父の家)でするかです。準備の途中で備品が切れたりもします。「あっ、セロテープ切れてしもた~。」などと発すると、父はすぐさま自分の自転車を出して買ってきてくれたりもしました。90歳を過ぎた父がです。

 父が94歳の時だったか、僕たち夫婦がパリのサロン・ドートンヌの合間を縫ってミレーの生れ故郷を訪ねる旅をした時、その途上、小雨が降るシェルブールの町角をホテルに戻りかけたところ、日本に居る妹から携帯に電話が掛かりました。それは父が倒れたと言う知らせでした。パリからリスボンに戻る切符をキャンセルして急遽日本へ帰りました。

 手術は巧くいって一時は元気を取り戻したましが、歳も歳、徐々に弱っていった様に思います。
 99歳になった昨年の夏にも倒れました。兄からの電話で「覚悟しておいてくれ。」とのことでした。その後の電話では「少し回復をした。でも意識のあるうちに一度帰ってきてみてはどうか。」とのことでしたので、1ヶ月ばかり帰国することにしました。そして父との時間をゆっくり過すことができました。総理大臣からの100歳を祝う表彰状も届き、僕の手で壁に飾りました。

 僕が急遽帰国したのを知って、従姉兄の淳子さんと庄太郎さんがわざわざ東京からお見舞いに来てくれました。父の寝姿を見て、淳子さんは「祖父の幸三郎さんにそっくりになってきたね」と言いました。そう言えば写真で見る祖父、幸三郎によく似ていると、僕も思いました。

 この文章を書きながら、嘉平太とはどんな容貌をしていたのだろうか?などと考えたりします。僕には叔父、叔母は夭折した子供を含めると、8人。従兄姉も夭折した2人を含めて、19人が居ます。叔父母さんたち、従兄姉たちをぐるりと見回してみるけれど、なかなか想像がつきません。或いは、父や祖父に似ていたのではないかな。と思ってみると、イメージがぴたりと合います。祖父は三男で家督を継ぎました。父は末っ子です。従兄は男子が14人、女子は5人、僕は従兄の男子では一番下です。そしてそのDNAは末席ながら、僕にも受け継がれている筈です。

 今年はポルトガルに移り住んでから一番長い4ヶ月ばかりを日本で過し、5月24日のフランクフルト経由の便でようやくポルトガルの我が家に戻ってきました。戻って2日目に兄から電話がありました。父が亡くなったという電話でした。

 その後、妹からメールが届きました。以下、一部を抜粋します。

 「亜基良兄から聞かれたことと思いますが、父は5月28日の午前0時過ぎに、眠るように亡くなっていたそうです。1時間ほど前には話もしていたとのことで、父は自分が亡くなったことに気づいていないかもしれません。兄は父があまりに静かなので様子を見ると息をしていなかったそうです。すぐに心臓マッサージをしながら田島先生に連絡をしたというのを聞いて、まだ生かそうとしていたのかとあきれましたが、兄には黙っていました。兄でなく私が当番だったら、きっと朝まで気付かなかったことだろうと思います。」
 兄と妹の介護には感謝をしたいと思います。
 そして兄の娘たち、看護婦さん、ヘルパーさんたちと多くの人たちに囲まれての最晩年でした。

 タバコはかた時も放さず、酒は浴びるほど呑み、好きな絵を描き、旅も好きなだけして、自分で稼いだ金は自分で使い果たし、母にはわがまま放題、好き勝手で、晩年までたいした病気もせず、父にとっては幸せな人生であったと思います。
 でもよく100歳までも長生きをしてくれました。

 僕と父との最後の会話は、ポルトガルに戻る前日でした。父はいつものようにベッドに座ってうたた寝をしていました。手も足も布団から出ていましたので、手足をさわると冷たかったので、さすってやりました。父は「おかあちゃんの手は温うて気持ちええわ~。」と嬉しそうに言いました。僕は「おかあちゃんと違うで~。比登志やで~。」と応えました。父は照れ笑いの様に「ほっ、ほっ、ほっ」と声を出して笑いました。父はその時、どうやら母の夢を見ていたのかも知れません。僕は父の母との夢の時間を打ち破ってしまったことに多少の後悔をしています。

 母は10年も前に亡くなっています。今頃は天国で母との再会に喜んでいるのかも知れません。  

2012年6月12日、ポルトガル、セトゥーバルにて(2014年7月23日加筆)
武本憲太郎の次男、武本比登志筆

 (武本家先祖のことについては光太郎叔父さんの長男、僕の長従兄の義太郎さんと従姉の淳子さんが定年退職後、尾道や今治、新居浜まで出向き菩提寺などの資料に基づき、丁寧に調査されました。そしてそれにはやはり従姉であり、尾道に住む小川秋子さんも加わっています。義太郎さんは惜しくも亡くなりましたが、かなり綿密な資料として残してくれています。今回の文章はそれに基づいて加筆しました。)

武本比登志 「ヴァスコ・ダ・ガマ壷のバラ」 F6

私、比登志が1歳の記念写真、父、憲太郎、母、千登瀬、兄、亜基良。

 

 

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 先月は僕の兄と妹がポルトガルまでやって来た。初めてのことだ。

 2週間の日程である。パック旅行ではなく自由旅行であるけれども、折角ポルトガルまで来るのだから一応見るべきところは押えておきたい。と思ってスケジュールをたてた。

 

セトゥーバル郊外の野原に咲く野生のラベンダー。香りをお届けできないのが残念です。

 

 そして僕には思惑があった。

 我が家のトイレのタンクはもう随分以前から、水漏れがして調子が悪い。風呂の水道蛇口も古くて具合が悪く、出来れば取り替えたい。

 でも実は、僕は水道工事と電気工事がからっきし駄目で、自信がない。直すつもりが、逆に壊してしまいかねない。収拾がつかなくなる恐れもある。水道工事をやろうものなら、たちまちそこらあたり洪水になりかねないし、電気工事なら感電死がおちだ。

 かといって、業者に頼むのも躊躇してしまう。

 以前、郵便受けにチラシが入っていて、その人に電気工事を頼んだことがある。フランシスコという名前だった。サッカーが好きでヴィットリア・セトゥーバルの熱心なサポーターで、チラシにもヴィットリアと名乗っていた程だ。最初は結構思惑通りにやってくれて、いい人が見つかったと喜んでいた。ところが何度か頼む内、値段をボル様になったし、仕事も雑になってきていたのでそれ以来頼まなくなった。そんなことがあってからは業者を探すのも億劫になっている。

 その点、兄なら安心だ。兄は僕とは正反対の性格で、水道、電気工事が得意分野である。それでこの際、旅行の合間を縫って、取替え工事をしてもらおうという思惑である。でも旅行スケジュールを組んでみるとどこにもそんなゆとりは生まれそうにない。

 

 関空からフランクフルト経由でリスボンに到着は真夜中である。到着して次の日は疲れているだろうからと、先ずはメルカド見学とアラビダ山ドライブだけというゆったりとした計画をたてていた。その次の日はちょうど日曜日だったので、パルメラの城に立ち寄ってからピニャル・ノヴォの露店市に行くことにした。それもゆったりである。3日目以降は見るものを見なければならないので結構ハードスケジュールになる筈であった。

 

 最初の日、メルカドで買物を少ししたので、アラビダ山に行く前に家に立ち寄り、買物を冷蔵庫に入れることになった。その時に例のトイレと風呂を兄に見てもらった。「まあ、やったことはないけれど何とかなるやろ」という感じであった。

 

 アラビダ山ドライブの後、セトゥーバルのサン・フィリッペ城も見学したところで、兄のデジカメのメモリーがなくなったとのことで、量販電気店に行き新しいメモリーを買うことにした。そしてその帰り、ついでに日曜大工量販店にも立ち寄り、トイレのタンクと水道蛇口を見てみようということになった。

 トイレのタンクは何とちょうど「広告の品!」か何かで通路に山積みされていて、ものすごく安かった。こんな特殊な物を果たして広告の品とするものだろうか?と疑問に思うが、神様が僕の味方をしてくれたとしか思いようがない。

 

 日本ではこんなものは永久使用物で、自分で取り替えることなどはあまり考えないのだと思う。便座でもそうだ。日本では僕は取り替えたことはないが、ポルトガルではもう既に2度ばかり取り替えた。スーパーにも便座が売られているし、売り場にはデザインがいろいろ揃っていて、カーテンの色柄を選ぶように自分の好みで便座を取り替えたりもする。

 山積みされたトイレタンクの中から、とりあえず一つを買って帰って取り替えてもらうことになった。実はトイレが二箇所あって、どちらも同じ様に具合が悪いのだ。これが巧くいけば2箇所とも取り替えてもらえればありがたい。

 

 トイレタンクに取り掛かる前に先ず簡単なところからと、手洗いの蛇口のパッキンを取り替えることになった。たかがパッキンだが、それが難航した。蛇口がこびり付いて外れないのだ。まるで溶接でもしてあるのではと思った程だ。これはどうなることかと先行きが心配になったが、難航の末、何とか蛇口も外れて巧くいった。

 そして肝心のトイレタンクである。兄は初めての経験らしく、箱書きを眺めていたが、すぐに判ったらしく、すらすらとやりはじめた。日本語ではなく、ポルトガル語の箱書きであるが、幸いに図が描かれていたので判ったらしい。「しかし案外安いもんやな~」と感心もしていた。しかも5年の保障期間付きである。

 長めに取ってあるパイプをサイズに合わせて切り落とし、はめ込む作業で、これは難なく出来てしまった。僕なら切り落とすなどとは思いつかない。その時点でお手上げだ。

 

 風呂の蛇口も日本とは規格も異なるし勝手が違うのではと思ったが、案外とすんなりと出来てしまった。MUZと妹でお茶漬けの支度をしている間に全て出来てしまっていた。案ずるより生むが易しである。

 

 そして次の日、計画通りパルメラの城とピニャル・ノヴォの露店市に行って、その帰り、再び日曜大工量販店に立ち寄り、昨日と同じトイレのタンクをもう一つ買った。山積みは昨日と同じ形で通路に山積みで、昨日のその後に売れている様子はなかった。昨日だけのタイムサービスでなくて良かった。

 これの取り付けは左右が反対であるが、昨日の経験もあるし、楽勝である。

 

 それから1ヶ月になるが、毎日、トイレに入っては真っ白でぴかぴかのトイレタンクを眺めては感心し、風呂の湯船に浸かって真新しい蛇口を眺めては悦に入っている。

 そうして我が家の水周りは今のところ順調に推移している。

 かに見えたが、実は先日から冷蔵庫の水漏れが発生している。が、今のところはしらんぷりを決めている。

 床がタイル張りだから、1日に2度ほどふき取ればそれで済む。

 長く住んでいるとなにやかやとガタが来る。

 

 パリに住む知人が以前言っていたが「ヨーロッパの電化製品は10年も持てば良い方ですよ。」

 冷蔵庫を買い替えて10年はとっくに過ぎている。でも食料は良く冷えているし、未だ買い替えようとは思わない。

 

 トイレタンクがあれほど安価なものならばたびたびは取り替えても良いのかも知れない。

 でも今後、保障期間の5年が過ぎてトイレタンクに老朽化が来て同じ様な故障が起きたとしても、果たして自分で取替えが出来るだろうか。今から心細い。

 自分の身体のガタだけはなるべく最小に、出来れば来ないように願いたい。VIT

 

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 僕が子供の頃、キーウィフルーツは日本にはなかった。少なくとも僕の周辺にはなかったと言った方が良いのかもしれない。

 僕が初めてキーウィフルーツと出会ったのは、1971年ストックホルムのシンケンスダム、トンネルバーナの駅前にあったコンスンと言う名前の小さなスーパーでであった。そしてその美味しさに驚愕した。それまで果物といえば赤、白、黄色などが主流で濃いエメラルド・グリーンの果物にも感心した。冷蔵庫で冷やして縦に半分に切り、スプーンで掬って口に運ぶ時、まさに外国に住んでいる幸せを感じたものだった。

ルイサ・トディ大通り公園のジャカランダ並木(2014年5月31日撮影)

 スーパーの表示にはKIVIと書かれていて、僕はずっとキヴィという名前だと思っていた。スウェーデン語ではしばしばWとVが日本的には反対読みになる。WASAと書いてヴァーサと読んだりする。KIVIと書いてキヴィではなくキーウィだったのだ。そしてKIVIはスウェーデンの果物だとばかり思い込んでいた。

 KIVI以外にもスウェーデンのスーパーで買った果物は全てが美味しかった。りんごでもオレンジでもメロンでもスイカでもサクランボでも洋ナシでもどれもが完熟していて、まさに食べ頃が売られていた。買った客に「自分で追熟してから食べろ」などとは言わないのだ。果物業者が完熟させてから、スーパーに並べるのだろう。確かにどれもが美味しかったがどれもが高価でもあった。

 その6年後に日本に帰国した時にはキーウィフルーツは日本の市場にも出回っていた。その時、初めて名前がキーウィだと知ったし、ニュージーランドからの果物なのだとも判った。早速、買って食べてみたが残念ながらスウェーデンでの美味しさはなかった。

 園芸のことで知り合った知人の家に行くと広大な敷地の片隅にキーウィフルーツが植えられていて「放ったらかしで毎年たくさん実がなりますが、誰も食べないので厄介者です」などと言ってその方は苦笑いしておられた。

 あんなに美味しいものが、それ程簡単に実るのならと、植木市で苗を雌雄買って植えてもみたが接木の下からひこば枝が勢いよく出てうまく出来なかったので2年ほどで掘り起こしてしまった。小さい実も出来ていた様だが食べても全く旨くはなかった。

 ニュージーランドの果物と言われているが原産地は中国だそうで、ヨーロッパ人がニュージーランドに持ち込んで品種改良が進み商品化されたのだそうだ。はじめは「チャイニーズグーズベリー」という名前だったそうだが、主な輸出国であるアメリカでは当時、中国との関係が芳しくなかったため、中国という名前が付いていたのではアメリカでは売れないと判断した業者がキーウィフルーツというニュージーランドを現わす名前にしたのだとか。鳥のキーウィも直訳するとニュージーランドの鳥ということになる。

 日本でキーウィフルーツが流行り始めた頃、僕は別の植物の観察で鹿児島県の下甑島に行ったことがある。そこの宿の息子が「甑島には昔からキーウィフルーツの原種がありますよ。」と言っていたのを覚えている。中国原産なら甑島に原種があってもおかしくはない。

 人々は誰もが歴史の移り変わりを見ながら時を過している。子供の頃にはなかった物が今は当たり前に存在する。父の時代も祖父の時代も、また子供達の時代もその時代時代の移り変わりがある筈だ。

セレージャで大忙しのセトゥーバルのメルカドの果物屋さん(2014年5月31日撮影)

 僕は高校を出た18歳の時、心斎橋のフルーツパーラーでアルバイトをしていて、毎日フルーツと格闘していた。りんご、バナナそれに缶詰めの黄桃、パイナップル、ミカン、サクランボなどを扱うが、キーウィフルーツはもちろんなかった時代である。

 僕はその頃プリンを作るのが得意であった。自分なりのレシピが頭に入っていて、タマゴ何個に、砂糖がどれほど、そして牛乳が何リットルではなく、五合瓶で計っていた。その頃の牛乳は紙パック入りではなく、一合瓶か五合瓶に入っていた。カラメルもフライパンで砂糖を焦がして作っていた。

 紙パック入りの牛乳を初めて見たのはやはりストックホルムであった。その開け方をスウェーデン人から教えてもらったのも覚えている。

 中学の同級生の実家が牛乳販売店で同級生の五郎は中学に通いながら実家の配達を手伝っていた。自転車の前と後ろにたくさんの牛乳瓶を積み込んで早朝から配達をする。僕も新聞配達をしていたので、時々すれ違っては挨拶をした。背丈はそれ程高くはないのにクラスで一番の力持ちで、腕相撲で彼に敵う奴はいなかった。高校に通うようになってからは軽免許を取り、黄色い三輪のミゼットで配達をしていた。ある日、ミゼットの荷台に沢山牛乳瓶の箱を積んで急カーブを切ってしまったのだそうで、ミゼットは見事転倒し、荷台の牛乳瓶はことごとく割れてしまった。という話を聞いたこともある。朗らかな奴でそれを笑い話にしていた。

 先日、帰国した折、その五郎が住んでいた牛乳販売店があった場所を通ってみたが、牛乳販売店も五郎の姓の表札も見当たらなかった。

 今では牛乳はスーパーで紙パック入りを買うのが普通だろう。そう言えばその頃、スーパーなるものも日本にはなかった。あったのかも知れないが、少なくとも僕の周辺にはなかった。

 スーパーで初めて買物をしたのもストックホルムである。大型店、中型店、小型店があって、今のハイパー、スーパー、コンビニの原型であった様な気がする。

 ヨーグルトを初めて食べたのもストックホルムであった。1971年当時、やはりヨーグルトも日本にはなかった様に思う。コンスンで牛乳だと思って間違って買って帰って開けてみると、中味は固まっていた。てっきり腐っているのだと思って捨ててしまった。セルフサーヴィス・カフェテラスの陳列台に並んでいるのを見て、あれはヨーグルトだったのだと知った。その後僕はヨーグルト党になっていた。ブルガリアに行った時にはカフェで本場物を味わったものだ。ヨーグルトも6年後に日本に戻ってみると、市場に出回っていた。

 セトゥーバル、カルモ広場のジャカランダ(2014年5月31日撮影)

今僕は毎朝、ヨーグルトを食べる。あらかじめフルーツサラダを作っておいて、それと一緒に食べることにしている。りんご、オレンジ、バナナ、キーウィフルーツそれに缶詰めの黄桃、それを小さく刻んだものを混ぜる。キーウィフルーツは緑なので彩りも良くなるし、ビタミンも豊富だそうで混ぜることにしている。

 宮崎に住む親友が庭でいろんな果樹を作っていた。完熟日向夏などを頂いたが果物屋で買うものより数段美味かった。キーウィフルーツも作っていたがそれの試食は残念ながらしたことがない。

 その親友が休暇を利用してニュージーランドの自転車旅行に出掛けた。その詳しい話も聞かないまま、数年後に逝ってしまった。

 先日、パルメラのスーパーで鶏卵よりひと回り小さなキーウィフルーツがパック詰で売られていたので買ってみた。可愛いばかりで美味しくも何ともなかった。摘果された実かも知れない。たぶんジャム用として売られていたのだろう。フルーツサラダに混ぜて使ったのでそれでも良かった。もう一度買ってジャムを作ってみようと思ったが、次にスーパーに行った時には既に売られてはいなかった。

 例えば、キーウィフルーツのことについて書いたが、どんな些細な物にも甘い、或いは酸っぱい小さな思い出という味は詰っているものだ。

 毎朝、フルーツサラダのエメラルド・グリーンを見ながら、親友のこと、五郎のこと、スウェーデンでの美味しかったKIVIのことなど、懐かしんでいる。18歳の頃、毎日作っていた絶妙のプリンが今でも作られるだろうか?などと思いながら今更作ってみる気は起こらない。VIT

(文章と挿入写真は関係ありません。)

 

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<五月蠅い>と書いて<ウルサイ>と読む。

万葉の昔からうるさいと言う言葉はあったらしいが、五月蠅いと当て字をしたのは夏目漱石の創作?だそうだ。坪内逍遥という意見もある。

湿度が適当にあり、気温が上がってくるこの時期が蝿にとっては最活動期となるらしい。

日本とは多少気候の異なるポルトガルでも五月は蝿の大量発生期の様な気がする。

 

「蝿叩き」を買った。思えば27年の念願であったのかも知れない。かなり大袈裟。

初めてポルトガルを訪れたのが1987年。その旅の途上、どこの町かは忘れたが、露店市に立ち寄った。

素朴なプラスティック屋の屋台でこの蝿叩きを見つけた。

カラフルな色彩に何と蝿のデザイン。

面白いと思った。が買うことはしなかった。

 

その後、ポルトガルに住み始めて24年、毎週の様に近くの露店市を散策する。

露店市には生きた鶏、アヒル、兎、観賞用の小鳥、孔雀。飼料の稲藁。チーズやチョリソ、マフラのパン、菓子、練り飴、果物。帽子、衣類、靴、雑貨、陶器、台所用品、家具。大工道具類、古道具。カーテン生地、服地。野菜の種や苗、果樹と庭木苗、鉢植え、造花。大音響のCDとカセット屋。ミシン屋。ワイン用の樽、アグアデンテ(焼酎)造りの蒸留器具、養蜂道具、乗馬用品。それにファルチューラス(ドーナツ屋)と屋台食堂などおおよそ300ほどのテント店が立ち並ぶ。

そんな中でいつも2軒のプラスティック専門店が出ている。バケツ、たらい、ざる、塵取りと箒、植木鉢、ジョロ、タッパーなどカラフルな品物が、テントも売り台もなく地べたに並べてある。蝿叩きもある。27年前に「面白い!」と思ったにも拘らず、今まで買うことはなかった。

ポルトガルに住み始めて、お陰さまで蝿をうるさいと思ったことはない。

窓を開けっぱなしにしておいたなら、時たま大きな蝿が飛び込んでくることがあるが、別の窓を開けるとすぐさま出て行ってしまう。くるくる舞う小さな蝿もごくたまに侵入するが、知らない間にどこかに行って見えなくなる。ラードたっぷり、食欲をそそる濃厚な良い匂いのポルトガル料理の他家に比べれば、我が家の匂いではポルトガルの蝿は入るところを間違ってしまったと思うのかも知れない。

 

以前、マリーナのお屋敷に招待されたことがある。庭の一角でメルカドから買ってきたばかりの新鮮な魚の炭火焼。見晴しと言えば、これ程豪勢なところは他には考えられない。眼下にサンフィリッペ城とトロイア半島、そして大西洋。そもそも城を見下ろせるところなどそうそうある筈がない。しかもアラビダ国立公園の一角に位置し、東に目を転じればセトゥーバルの町並み。お屋敷内にプールもあるが、古い風車小屋があり、風車として今は使われていないものの、お母さんがコーヒーを飲む憩いの場所としているとか。風車の羽音がない代りに風鈴がからころと奏でる。これ程、贅沢な暮らしを僕は見たことがない。

でもマリーナにも悩みはあった。蝿が多いことである。確かに蝿が多かった。焼魚の骨をほぐす間にもひっきりなしに蝿がたかってくる。

近くに羊を飼う牧場があって、そこから飛んでくる蝿で、これだけはどうしょうもない。とマリーナはこぼしていた。

蝿叩きでは間に合わない。あれも確か五月であった。

同じセトゥーバルでも随分と違うと感心もした。

パリに住む知人で蝿ばかりを細密に描いている風変わりな画家がいるが、ダダイズム的発想なのだろう。でもパリにはあまり蝿がいなくて、モティーフに困るのだそうだ。蝿を求めていると聞いたが、彼も蝿そのものが好きなわけではないだろう。蝿を好きな人はそうそういない。第一ばい菌を運んでくる。

 

昔、僕が未だ子供の頃。大阪にも蝿が多かった。明治生まれの父はいろんな物を手作りしていた。狭い前庭には棕櫚の木が一本あって、その棕櫚の葉を使って、蝿叩きを作っていたのを覚えている。棕櫚の葉を短く切りそろえ、麻紐で繋いであっただけの簡単な物だったが、荒物屋で売られていた金網製の物よりは丈夫だった様に思う。1シーズン使えば秋には焚火で燃やすことになる。今流に言えばエコでもある。兎に角、父は一時もじっとしていない、いつも動き回って何かを作ったりしている人であった。

 

蝿も一時もじっとはしていない。止っている時でも、忙しく手を擦り合わせていたりする。その動作が縄をなう仕草に似ていることから蝿という文字になったのだそうだ。

 

僕も父のDNAを受け継いでいて、じっとしていなくて何かにつけ手作りするのは好きなほうだが、蝿叩きを作ってみようとは思わない。そして必要もない。必要もないのだが、昨日は買ってしまった。

露店市のプラスティック屋の地べたにいろんなものが雑多に並べられていて、1個1ユーロ、6個で5ユーロと書かれてある。たらい、洗面器、バケツ、タッパーなどと例の蝿叩きもある。

6色程あるカラフルな蝿叩きの、ポルトガル国旗カラーを3本選び出した。赤、緑、黄色である。アトリエの屑籠用にバケツを一つ買っても良いかなと思った。洗面器も予備に一つあってもよい。あと一つで6個。5ユーロである。

もう一つ、バケツを選んで5ユーロ札を払おうとすると、店のおばさんは蝿叩きをもう一つ選んでくれという。蝿叩きだけは2本で1個分だそうである。もう一つ、青色を選んだ。まだ5ユーロ分にはならない。おばさんは台所用洗い桶はいらないのかい?と勧めてくれたが今のところ間に合っている。仕方なくもう一つバケツを選んだ。バケツが大小3個。洗面器が1個。蝿叩きが4本。どっさりの買物になった。

バケツはレジ袋を被せてアトリエや寝室など各部屋の屑籠として収まった。

さて、蝿叩きは蝿を叩かないまま、たぶん五月をやり過ごし、当分は眺めておくことになるのかも知れない。

VIT

 

 

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 めがねはもうこの世にはいない。昨年11月に亡くなっていたらしい。12月に催した僕の個展の1ヶ月前には既に亡くなっていたことになる。

 

 めがねと知りあったのは高校3年生になったばかりの時、1964年という年号が正しいかどうか、恐らくその頃だ。思えば長い付き合いであった。

 

 眼鏡をかけていたからめがねだったのだろう。知り合った時には既に皆からそう呼ばれていた。正式の名前も皆は知ってはいたが、名前を呼ぶ友人たちは居なかった。他の友人たちも名前ではなく、お互いにそういった呼称で呼ばれていて、そういうものであった。

 僕がそのめがねたちのグループと知りあった最初はイノコである。同じ北田辺で乗り降りするからか、通学電車で顔見知りになり、やがて話す様になったのだと思う。そのイノコのグループにフー子ちゃん、マッサン、メガネ、タガヤさんなどが居た。他にも数人はいたが呼び名は忘れた。タガヤさんだけは何故か本名だったのが、今思うと不思議な気がしないでもない。めがねたちは羽衣学園という女子高の女子高生だった。いわゆるお嬢さん学校で、お金持ちの子女たちが通っていて、中学から短大までの一環校だった。ちなみに僕はそのめがねたちのグループからはヒトシクンと呼ばれていて少々こそばゆかった。

 

 僕は私学の男子高に通っていた。高校では美術部で活動をしていた。年2回の展覧会に出品するのが大きなイヴェントであって、高校には絵を描きに通っていた、と言っても過言ではない程、絵に夢中な高校生活を送っていた。絵を描きに通っていたといっても普通高の進学校であったから勿論授業は普通である。自慢することではないが、勉強は全くしなかった。そして3年生になった時、絵だけではなく、何か今でないと出来ないものをと思って、文化祭に向けてビートルズをやろうとバンドを結成した。

 

 ビートルズをはじめるきっかけを話すと長くなるが、書いてみようと思う。

 その頃の大阪の男子高校は殆どが丸刈りであったが、他の高校でもほぼ一斉に同じ長髪運動なるものが起こっていた。僕たちより上の世代が既にその運動を起していて、僕たちの世代が何もしないでその恩恵に預かったという訳である。僕は中学生までは丸刈りではなかったので、高校に入って初めて丸刈りになった。でも長髪運動のお陰ですぐに長髪にすることになった訳である。僕は美術部であったからか、画家風に髪の毛を伸ばし放題にしていた。要するに散髪屋が好きなほうではなかっただけなのだ。押さえつけられてじっとしているのが嫌いなのである。

 そんな僕に向って、ある友人が「たけやん、ビートルズみたいやな~」と発した。僕はたけやんと呼ばれていて、今でも一部からそう呼ばれている。その友人は流行の西洋音楽に詳しく、僕なども聴きはじめていたジャズなどにはことのほか詳しい奴であってよく音楽の話もした。

 そんな話の中「そのビートルズて何やねん」と聞いた。未だビートルズがたった1枚のドーナツ版を発売したばかりの時で、殆どだれもその存在を知らない頃であった。その1枚のドーナツ版は「ラヴ・ミー・ドゥー」である。でもラジオからはプリーズ・プリーズ・ミィなど別の歌も流れはじめていて、早くLP版が出ないかなと待ち遠しく思った時期でもある。

 そのビートルズを文化祭でやろうという訳であった。文化祭の前に体育祭があった。その仮装行列で僕たちはビートルズに扮した。仮装行列では他にも女装したマキシムの列もあった。僕は友人から頼まれてイノコからマキシムのスカートを借りた。イノコたちは体育祭に見学に来ていて、僕のビートルズ姿を見て「エレキやるの~」と目を輝かせた。あとで知ったのだが、イノコはギターの弾き語りでいろんなポップスを唄えた。勿論、フー子ちゃんはその先頭で、歌がことのほか旨かった。後に「五つの赤い風船」のリードヴォーカルとしてプロで活躍したことは知られている。ビートルズも一気に有名になり、文化祭のビートルズも成功して、その後も暫くはバンドを引きずっていた。そんな話は又別の機会にするとして、イノコたちとはますます近くなっていた。そのグループのめがねはファッションに目覚めていて。自分で服などを作っていた。イノコから借りたマキシムのスカートはめがねの手製であった。

 卒業目前の頃だと思う。ファッション誌「装苑」がファッションモデルを募集していることを知って、めがねは応募してみようと思ったらしい。その応募写真を僕が頼まれた。僕が自宅で現像、焼付けなどをやっているのをイノコが知っていて、それをめがねに言ったらしくて、それならと言うことになったらしい。僕は自信がなかったけれど「どうしても」と言うことになり引き受けざるを得なくなった。

 その頃は未だ競技場など何もなかった長居公園で撮影ということになって、めがねと待ち合わせた。顔写真と全身写真をキャビネ版に引き伸ばした。めがねは何故か僕に全幅の信頼を寄せてくれていて、写真もだが、ことのほか下手な僕の文字までを気に入って、その応募封筒の宛名まで僕に書いてくれということで仕方なく僕が書いた。

 でもそのファッションモデルの応募には残念ながら不合格であった。僕の責任は大きい。

 

 僕は高校を卒業して進学もしないまま、就職もしないままであった。何とか変化を求めるべく、東京でデッサンの勉強をすることにした。東京では映画の試写会に応募して封切前の映画をよく観たり、クラシックコンサートの無料チケットで楽しんだり、そして今まで読まなかった本を読んだ。そんな中にグリムやイソップ、アンデルセンなどの童話もかなり含まれていた。高円寺の古本屋では岩波童話が格安で出回っていたからだ。そして少しの手紙も書いた。イノコにも書いたがあまり返事は来なかった。筆不精なのだ。めがねにも書いたが、めがねの方がよく返事をくれた。ある時手紙に「どんぐりの王子様」という童話を添えたのを覚えている。めがねはそれをことのほか喜んでくれて、感激的な返事をくれた。

 高校を卒業して、しばらく経った頃だったと思う。めがねはお祖母さんの綾野町の自宅を受け継いでブティックを立ち上げた。天王寺から路面電車が浜寺公園まで繋がっているが堺市に入ったばかりのところに綾野町という駅がある。その路面電車駅から東西に伸びる道路沿いにその二階家はあった。そしてその1階をブティックに改装した。ブティックの名前を何か考えてくれとめがねに頼まれた。僕はその頃大阪に帰ってきていて大阪芸大に通っていた頃だ。僕は芸大同級生のMUZに相談した。MUZはいろいろ頭を捻った挙句「むうるる」ではどうか?ということになり、めがねに言ったらめがねはことの他気に入った様だった。最後のるは小さく書いたるである。サインペンで書いたそのままがロゴ文字となった。めがねはその前にコットンハウスと付けて、コットンハウス「むうるる」とした。可愛いプリントのコットン地でスキャンティーと言う下着をメインにしたブティックだった。

 オープンの時には大勢の友人たちが集まっていた。めがねの交友関係の多さに目を見張った程である。真新しいガラス張りのショーウインドウに「むうるる」の文字と花のデザインを描いた。エナメルか何かが用意されていた。

 

 その後、1971年から僕とMUZはストックホルムで暮らすことになった。1974年のことだったと思う。突然、めがねが尋ねてくれた。パリで僕の住所を聞いてきた。とのことだったと思う。パリではその前前年だったか、大学の先輩のあまの、あーたんご夫妻にお世話になっていた。そのご夫妻から住所を聞いてきたとのことだったが、あまの、あーたんご夫妻とめがねの関係が判らないままであった。

 あまの、あーたんご夫妻とめがねを結ぶ関係にIKUOさんがいる。IKUOさんはパリで永くジュエリー作家をしておられる。僕自身はIKUOさんにはお会いしたことがなかったが、IKUOさんのお名前は高校生の頃、イノコからたびたびいくおちゃんとして聞いていた。その後パリで暮らしていると言うのもめがねからも聞いていた様にも思う。あまの、あーたんご夫妻もIKUOさんもパリに永く暮らしておられるので知り合いになったとしてもおかしくはない。

 

 僕もMUZもストックホルムでは別々のレストランで働いていた。その隙間をぬってめがねと過したストックホルムでのひと時は今も鮮明に蘇る楽しい思い出である。

 めがねは未だ独身であった。

 ストックホルム、ニューヨークと暮らし、南米を1年かけて日本に戻ってきた。戻って来てMUZの故郷である宮崎で13年を暮らした。その間も毎年1回、大阪でのグループ展 に参加したが、その都度めがねは画廊を訪れてくれた。

 ポルトガルに住んで絵描きとして生活をするようになった。

 毎年、日本で個展を催す。その大阪での個展にもめがねは必ず顔を見せてくれた。

 ブティックはコットンハウスからマルシェに替わっていたが「むうるる」はそのままである。パリの輸入雑貨なども扱い、コットンの下着などだけでなく、もっとファッション性のあるデザイナーブランドとして成功しているように思って嬉しかった。

 かっこよい男性とも結婚し姓が代っていた。そして男の子にも恵まれ、たいそう可愛がって育てていた様に思う。名前は祥平くんと言った。その頃は綾野町ではなく津久野というところの池の傍にモダンなコンクリート打ちっ放しの一軒家に住んでいた。そこにもマルシェ「むうるる」の文字があった。僕は綾野町には2回行ったことがあるが、その津久野には1回だけ、その後移り住んだ太子町葉室にも1回だけお邪魔したことになる。いや綾野町の前に住んでいた金岡団地にも1回行ったことがあるが、殆どが別の場所で会っている。

 津久野の豪邸と白色のベンツを乗りこなすめがね一家は本当に成功者としか見えなかった。津久野の居間の広いテーブルで僕たちが話している傍らで小学生の祥平君が宿題の算数をすらすらと解いてゆく。

 まばゆいばかりの生活がそこにはあった。

 津久野から葉室に移ったのは何故だか僕には知る由もない。

 

 数年前の大阪高島屋の個展会場にめがねと祥平君がそろって来てくれた。そしてぽつりと「お父さんが1週間前に死んだ。」と言った。咄嗟にお父さんとは誰のことか僕には飲み込めなかった。「お父さんて誰?」と僕は聞き返した。ご主人のことである。癌だったそうである。

 僕はすぐにご冥福を伝えに葉室を尋ねた。葉室に行ったのはこれが最初で最後となった。二人で精一杯のご馳走をしてくれて、帰りには祥平君がCDをコピーしてくれた。ノラ・ジョーンズのRADIO。ノラ・ジョーンズはお父さんも好きだったらしい。ニューヨークのピアノジャズ専門ラジオ番組「MPR」に出演した時の録音で、ノラ・ジョーンズの中ではどのCDよりもジャズっぽくて素晴らしく、今もアトリエで常時かけている僕の一番のお気に入りだ。

 

 昨年、12月に催した大阪高島屋の個展の案内状はめがねと祥平くんの連名で投函した。祥平君は4月に、めがねは11月に既に亡くなっていたのを知ったのは後になってからのことだった。祥平君が亡くなっていたというのは12月になってから個展の会期中だったか、あーたんのシャンソンライブを聴きに行った翌日、あーたんから聞いた。めがねが亡くなっていた、というのもあーたんから1月2日に宮崎滞在中の自宅に電話で知らせてくれた。その前の12月の個展会期中に高島屋に葉室のめがね宛の案内状葉書が戻って来ていて胸騒ぎがしていたのだ。

 

 そしてきょう、パリのあーたんからめがねの遺品のパンタロンがセトゥーバルに送られてきた。まさにめがねの作品である。えんじ色のウール地でポケットのところがめがねらしく凝った造りで裏地にもセンスの良さが感じられる。そしてベルトのあたりの内側にピンクのシールが、それにはまさしく僕が書いた「むうるる」のロゴマークが白抜きで、いかにも寂しげに縫い付けられてあった。

 

 これを書きながら僕は涙が止まらない。

 人には寿命というものがあって誰もがいつかは死ぬ。仕方のないことだが、もっと話したかったことや一緒に長く過したかったことなどめがねほど心残りな友人は他にいない。

 そしてこれほど寂しいことはない。

2014年3月25日 セトゥーバルにて武本比登志

 

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下記各会場とも全日程(10:00-18:00頃まで)会場に居ます

2013年度(平成25年)

武本比登志油彩作品展
スライドショー
2013年(平成25年)12月11日(水)~17日(火)
10:00-20:00 最終日は午後4時閉場

高島屋大阪店6階美術画廊/B

〒542-0076大阪市中央区難波5-1-5 ℡ 06-6631-1101(代)
DM




2014年度(平成26年)

武本比登志
油彩 作品展

2014年(平成26年)1月29日(水)~2月4日(火)
10:00-19:00  最終日は午後4時閉場

岡山高島屋7階美術画廊

〒700-8520  岡山市北区本町6-40  ℡086-232-1111

武本比登志
油彩 作品展

2014年
(平成26年)2月12日(水)~18日(火)
10:00-19:00  最終日は午後4時閉場

米子高島屋4階美術サロン
〒683-0812  米子市角盤町 1-30  ℡ 0859-22-1111

かく

 

 

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