パリに永らく住んでおられて、その頃は僕たちもよくお世話になった、先輩のあまのしげさんがフェイスブックの中で、パエリアの写真を載せておられる。本格的で旨そうだ。

 何でも鍋は日本の輸入雑貨店で購入されたようだが、直径1メートルもあるそうだ。「なんばの道具屋筋では最大40センチしかなく…」と書いておられるから余程大きくて本格的なのを探しておられたのだろう。

 我が家では40センチもあれば充分だと思うが、1メートルがよく日本の輸入雑貨店が取り扱っていたものだと感心する。業務用だろう? いや、業務用と言うよりも、本場バレンシアあたりの家庭ではどこでも普通に常備している大きさなのかも知れない。かつての日本の家庭には臼と杵があった様に…。家族や知人が集まれば、庭でわいわい騒ぎながら、大勢でパエリアを楽しむ。だから1メートルが家庭用で、40センチの2~3人用はむしろレストラン用と言う事になるのかも知れない。

 

 僕たちはスペインでもパエリアは食べるが、フランスの朝市でもよく買う。天気の良い日など公園のベンチに座って食べるのは気持ちが良く美味しい。ムール貝の貝殻がスプーンになる。

 以前、オンフルールの朝市で食べたのが美味しかったのだが、次の日、そのおばさんがカーンの朝市に移動していて、オンフルールでは直径1メートル程の鍋が2つだったのが、カーンでは4つを仕込んでいて、おおわらわの様子だった。僕たちの顔を見つけてにゃっと笑っていたから、前日のオンフルールで買ったのを覚えていたようだ。

 又、アルルだったかの朝市でもパエリアを買って、帰りのTGVで広げたのだが、周りの乗客が唾ごっくん。余程匂いぷんぷん撒き散らしていたのだろう。

 

 ポルトガルの露店市にはパエリアはない。パエリアを食べさせるレストランもないと思う。以前、鰯の炭火焼のレストランで、子供連れの北欧からの観光客が「スパゲッティはないの?」と店の人に尋ねていた。店の人は「スパゲッティはイタリアだ~」と馬鹿にした様に言っていたのが印象的だったが、ポルトガルのレストランでは郷土料理優先、外国の料理はあまりやらない様だ。ポルトガルにはアロス・デ・マリスコス(シーフード雑炊)、アロス・デ・タンボリル(あんこう雑炊)、アロス・デ・ポルボ(タコ雑炊)、アロス・デ・パト(鴨雑炊)などがありパエリアは必要ないと思っているのかも知れない。そのくせ、ピッツアの専門店は至る所にあるのだが…。

 とにかくパエリアの店はない。どこかにあるのかも知れないが、少なくとも、セトゥーバルにはない。パエリアを食べたくなれば2時間、高速道を走らせて国境を越えなければならない。スパゲッティを食べたくなれば飛行機でナポリあたりまで行くことになる。

 

 或いは自宅でするかだ。スーパーの棚にはいろんな種類、いろんなメーカーのスパゲッティが並んでいる。各家庭では盛んにやっている様だが、我が家でもしょっちゅう食卓に上る。パエリアもそうなのだろう。

 我が家でもパエリアは時々するが、今のところパエリア鍋がないのでフライパンでしている。取っ手が少々邪魔だが、鉄製のフライパンなので、旨くできる。フライパンよりもほんの少しでも深い鍋などですると、どうしても水分が蒸発しにくく、べたっとしたパエリアになってしまうことが多い。だからパエリア鍋はその深さというか、浅さが重要になる。

 

 パエリア鍋があっただけではパエリアは出来ない。材料の骨付き鶏、魚介類、ムール貝は欠かせない。米。米は丸いのより長いのが望ましい。それにサフラン。サフランは高級なのでインドサフランでも代用は効く。そして火。1メートルの鍋にあった火元が必要だ。あまのしげさん宅は野外で炭火でやっておられるそうだ。パエリアの後にはその残り火を使ってバームクーヘンを作るのだそうだが、何でもやってしまうご夫妻だ。

 

 我が家でもおおよそ何でも手作りをするが、バームクーヘンまでは考えが及ばなかった。はてどうやって作るのであろうか?スポンジ生地はまあ良いとして、その方法である。想像を巡らせてみた。例えば壁にペンキを塗るときに使うローラーをスポンジ生地にどっぷりと浸けて、1メートルのパエリア鍋の上を転がすのであろうか?それをクッキーを作る時に使う生地を伸す棒を転がし巻きつけて行く、それを次々に繰り返して、雪だるま式に分厚く巻いて行く。違うかな?それ以上は想像が及ばない。

 

 昨年はスペイン領マヨルカに行ったのでレストランでもパエリアは食べたがバリエーションも多く、店によって味は様々である。飽きさせまいと思ってか、試行錯誤した革新的なパエリアなどもあるが、最近はかえってフランスの朝市のパエリアの方が旨く感じることの方が多い。パエリアはパエリアらしくサフラン色で、骨付き鶏と魚介類の様々ミックスの本格基本スタイルが美味しいのだと思う。そして大鍋が旨くできる秘訣なのかもしれない。

 

 パエリアは1972年にバレンシアの、海の見えるレストランで食べたパエリアが初体験でそれを越えるパエリアには残念ながら未だお目にかかれないでいる。その時の冷えたビノ・ロゼの味は忘れられない。

 

 食べ物に関しての初体験などは忘れられるものではないが、あまのしげご夫妻関連の初体験が幾つかある。もう40年も昔になるのであろう、モンパルナス近くのあまのしげさんのお宅で、山盛りのムウル貝の白ワイン蒸しをご馳走になった。その後、数え切れないくらいムウル貝を食べたが、あまのしげさん宅のムウル貝の味は忘れられない。又、カルチェ・ラタンのクスクスの店に連れて行ってもらったのも初体験であった。その後、モロッコなどでも何度かクスクスは食べたけれど、カルチェ・ラタンの初体験の味は忘れられるものではない。その店の場所、インテリアなど40年経った今でも鮮明に覚えている。

 

 パエリア用の鍋は機会があれば買いたいと思っているので、昨年はマヨルカのメルカドでも見たけれど、最近のものはアルミ製で、テフロン加工した様なものが主流らしく、昔ながらの鉄製はなかった。アルミではどうも、と思って買わなかった。

 

 今では日本の方がいろいろと何でも手に入るのかも知れない。1メートルのパエリア鍋には恐れ入ったが、タジン鍋などもよく出回っている。その内、ポルトガルのカタプラーナ鍋なども出回り始めるのかも知れない。でも各国料理ごとに専用鍋を揃えていたら、余程広い台所でもその収納場所はおぼつかない。

 土鍋はポルトガルにもあり、それでも寄せ鍋などに使うことはできる。それを日本からわざわざ担いで来られた方が居られる。それも一度に友人の分まで2つだ。その方も「重くて参った!」と言っておられたが、その方が日本に帰られるというので、もう15年も前になるが頂戴した。その後、それは重宝しておでんなどにも頻繁に使っている。

 

 昨日モイタの蚤の市で昔ながらの鉄製で手頃な大きさのパエリア鍋を見つけたけれど、あまりにも錆びすぎていたので買うのは断念した。むしろ骨董価値があるのかも知れないが…。

 

 そして今日、ピニャル・ノヴォの露店市の5ユーロ均一店にパエリア鍋が重ねてあった。柱時計から絨毯、ステンレス鍋、ぬいぐるみ、玩具など5ユーロ均一の為に作られた様な粗悪品が殆どと言った品揃えで、いつもなら横目で見ても決して立ち止まる事はしない店である。ところが今日に限って立ち止まって手に取ってしまった。案外重くてアルミではない。鉄の様だ。底が割合分厚い。テフロン加工ではないがホーロー引きである。これは本格的ではないから駄目だ。と思って元に戻そうとすると、店員がぴたりと横に張り付いて、ビニール袋を広げて、「はい、この袋に入れて~」などと微笑みながら言うからついつい袋に入れてしまった。そして5ユーロ札を1枚払ってしまった。

 後で考えると悪魔の誘導としか考えられないが、まあ、買ってしまったのだから仕方がない。直径35センチのホーロー引きパエリア鍋。本格的ではないが、一応、本場メイド・イン・スペインである。さっそくムール貝などを買って来て、せいぜい自宅でのパエリアを楽しもうかなと思う。VIT

5ユーロのホーローパエリア鍋で作った我が家のパエリア

 

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 五寸釘から一寸釘をまばらに幾つか立てたかの様に植木鉢の土からにょきにょきと顔を出しているといったところが今の姿だ。大きいのはほんの少し先端がラッパ型に広がり始めているが、昨年の葉は全くないからまことにみすぼらしい。

 この春、宮崎の家の庭から邪魔になる部分の幾つかを引き抜いて、葉を落とし土を落とし、根とバルブ(根茎)だけをタッパーに入れてポルトガルまで持ってきたのだ。4つのプラスティック鉢に分けて植えつけたが、2ヶ月近く経った今でもそんな五寸釘状態である。各鉢に4本から6本の五寸から一寸の新葉が顔を出している。

文章を書いた時より少しは成長しているが、未だにこの状態。後ろにジャカランダとブーゲンビリアが見えるアトリエの窓辺にて。

 いつも思うことだがハランの新葉の成長は遅い。庭などに植えて放ったらかしにしておいたなら、いつの間にか広く繁茂して逆にその成長に目を見張ったりもするのだが…。

 ハランは葉蘭と書くがラン科ではない。クサスギカズラ科ハラン属の常緑多年草である。エビネ蘭の様に根茎で繋がって一年に一つづつ前へ伸びて行く。栄養が良いと奴(やっこ)に出たり、三つ又に出たりしてどんどん広く成長する。そして養分を取られた根茎は後ろから退化していく。

 学名は Aspidestra erlatior と書く。中国南東地方の原産とのことであるが、南九州でも自生しているし、ヨーロッパでも広く栽培されている。ハランと言うが花も咲く。地面ぎりぎりに、或いは半分土に埋もれるように咲く茶褐色の地味な花だ。ウマノスズクサ科のカンアオイの花に似ている。葉は全く違うのだが…。

ハランの花(2020年7月25日セトゥーバルのベランダにて撮影)

 父はカンアオイの花を「猿のだっちょ」と称した。それを聞いて夫婦で大笑いしたのを覚えている。カンアオイの媒体は森のナメクジかカタツムリで分布速度は極めて遅く、一万年に1キロと言われている。種子は重く飛ばない。受粉したその場に落ちる。風で飛ばされることもないし、鳥が運ぶこともしない。それだけに地域固有種が限られていて植物学者にとっては研究の対象として興味を引くものらしい。ハランの場合も花で考えるとそれと似ているところがあるのかも知れないが、植物学者の研究対象にはなり得ない。種子により分布を広げるというよりも、根茎で伸びて行く速度の方が速いのだろう。85種程が登録されているが大きな変化はないのだと思う。

 葉は立派で艶があり、長持ちもすることから活花のモティーフとしても良く使われる。尤も主役ではなく常に脇役であるが…。

 日本では昔から鮨の下敷きに使ったり、刺身のケンとの間仕切りに使ったり、料理店では欠かせないもので、料理用語ではバランとも言う。最近ではプラスティックの模擬バランが主流で弁当屋のおかずの間仕切りに使われているし、スーパーの刺身にも欠かせないものだ。プラスティックのバランは単なる飾りだが、ハランには殺菌効果もあり、昔は飾りのみならず、実用としての知恵が生かされていた。

 ハランだけではなく、昔はおにぎりを竹の皮で包んだり、押し寿司を熊笹で巻いたりが普通であった。富山の鱒寿司は木の半切り樽に熊笹をぐるりと敷き並べて包んであった。

 今でも柏の葉で包んだ柏餅や桜の葉で包んだ桜餅などは普通に使われている。今年も帰国時はちょうど桜餅の季節で2度ほど美味しい桜餅を食べた。宮崎では餡子餅を山に自生しているサルトリイバラで包んだものなどもあった。それを猿取り茨餅とは言わなかった。それも柏餅と言っていたから単にサルトリイバラを柏葉の代用に使っただけだろう。しかし灰汁餅(あくもち)は必ず竹の皮に包まれていなければならない。奈良には柿の葉寿司なども有名だ。たこ焼きは薄板の舟に乗ったものが一番旨いと僕は思う。あの木の香りが何とも食欲をそそる。酒も青竹で呑むと二級酒でも一級酒に変るなどと父は言っていた。南方のインドネシアではお皿代わりにバナナの葉を使っていたし、チマキなどもバナナの葉に巻かれて蒸されていた。それぞれ葉によって殺菌の成分は違う様だが何れも殺菌効果はある。ハランにはフィトンチッドという殺菌成分があるらしい。

 僕が宮崎から持参した根茎のハランは元々は斑入りである。斑入りであるが、うっかりしていると斑は消えてしまう。深緑一色の葉になってしまう。宮崎の庭でも斑入りは一割ほどしか残っていない。庭には残飯などを長年漉き込んでいるから、土は肥沃になっている。窒素分の多い肥沃な土地では勢いの良い緑葉が繫茂して劣勢な斑入り葉などは押しやられてしまう。出来ることなら時々は植え替えをして、斑入りと斑入りでないのを隔離して育てるのが望ましいのだが、なかなか帰国時には手が回らないのが現状である。

 斑はアトハゼである。アトハゼとは出始めは緑の部分も白い部分も薄い。それが1年もするとはっきりと深緑と真っ白に際立ち美しい斑入りハランとなる。

 この斑入りハランは父が大阪の実家で育てていたものを一株譲り受け宮崎で増やしたものだ。実家の隣近所でも斑入りのハランを家の玄関先に植えているところを数軒見かける。父から株分けされた物なのかも知れない。父の育てるハランにはいつも立派な斑が入っていた。せっせと選別を怠らなかったのだと思う。

 父に聞いてみると元々は父の出身地、新居浜の実家の庭に植わっていたものだと言う。何時の頃からそこに植わっていたものなのか父も知らないと言っていた。「わしが物心付いた頃には既にあったがな~」と言っていた。父は昨年100歳で亡くなったが、新居浜では恐らく父の年齢より永くそこに植わっていたのかも知れない。

 その新居浜には僕も子供の頃、法事などで何度か行ったこともあるが、今はお屋敷は取り壊されてない。高層のビルが建っているらしいから、もう既にその場所に斑入りハランはない筈だ。移植されているか或いは捨てられたかだろう。

 宮崎では鉢植えで増やしていた。店に飾っていたのだ。窒素肥料過多では斑が消えてしまうと思い、あまり肥料を施さずに少しづつ増やしていたので、いつも班が入っていた。斑の消えたものなどは株分けの際、庭に移植していたが、その中からも時たま斑が現れたりもしていた。

 ポルトガルに移住する時に、その内の一鉢を義母の宮崎の庭に託していた。そしてその後、宮崎に家を買ったのを機に自分の庭に植えていたものだ。自分の庭と言っても、大半をポルトガルに暮らしているから、宮崎には1年の内2~3ヶ月もいない。水をやる人も居ない。日本は幸い雨が多く、庭に植えると放ったらかしでも良く増えた。但し班はいつの間にか少なくなってしまっている。

 昨年、大工さんに頼んで庭にフェンスを作ってもらった。その際にも邪魔になるところは、大工さんの手でかなり処分された。それから1年が経って又、根茎からたくさんの芽を出していた。それを引っこ抜いて今回持ってきたのだ。

 鉢植えが立派に育ったらマンションの玄関ホールに飾るつもりである。以前にも持ってきて、玄関ホールに飾っていた。玄関ホールは出入りの時にはいつも見るのだが水遣りが疎かになる。たいてい水切れ気味だ。なかなか旨くは育ってくれない。

 これは一度は瀕死の状態になってしまった鉢だが、ようやくここまで回復を遂げ、新葉が10本ほど出ている。新葉にも斑が入っている様だ。

 ポルトガルでもハランは珍しくはない。いつも立ち寄るアライオロスのドライブインの入り口には見事なハランの鉢植えがあり、手入れの良さにその都度感心している。エボラのホテルにもあったし、アゼイタオンのワイン蔵の前にもたくさん並んでいる。イギリスのテレビドラマでもよく見かける。

 別に珍しくもないが、宮崎でゴミとして出すには忍びない。それで遥々と生きている根茎だけを連れてきたという訳である。

 階下のマダレナおばさんは緑のハランはポルトガルにもあるが、斑入りは初めて見たと言っていた。

 今回持ってきた根茎からは斑は出ないかもしれないが、大きく育って、海水浴の弁当におむすびかサンドウィッチでも包んで持っていければ楽しいのではないだろか。VIT

 

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 檀一雄が一年四ヶ月を暮らし、しばらく中断していた『火宅の人』を書き続けたというサンタクルスへ行くことになった。

 サンタクルスへ行く前はこの時期のポルトガルには珍しく、少し寒波が来て天気も悪かったものだから、週間天気予報とにらめっこで出発のタイミングを計っていた。お陰で出発前に『火宅の人/上・下巻』 『リツ子・その死』 『美味放浪記』 沢木耕太郎の 『檀』 それにサンタクルスの檀一雄文学碑建設の際の冊子『サンタクルスの落日/檀一雄のポルトガル滞在記』 など全部をゆっくり読むことが出来た。

 そして五月二十一日に出発。二泊三日の旅としホテルもインターネットで予約をしておいた。僕の住むセトゥーバルからリスボンの縁を通りぬけて、高速道路を使えば恐らく二時間くらいで着いてしまうところだが、今回は途中、野の花を探索するつもりで、できるだけ田舎道を選び全く別のルートでのんびりとクルマを走らせた。シャゼンムラサキなど様々な野の花は今が盛りと綺麗に咲いていたが、アレンテージョ地方とは違いエストレマドーラ(首都圏)はクルマも多く、道も曲がりくねって狭くなかなか大変な行程であった。

 

檀一雄の歌碑とサンタクルスのビーチ

 

 一泊目がサンタクルスのホテル・サンタクルス。サンタクルスには年間を通して開いているホテルはここ一軒しかない。

 サンタクルスはリスボンからなら一時間あまり、夏の海水浴客で賑わうリゾート地だが、シーズンオフには全く人通りはなく、波の音と海鳥の鳴き声だけが侘びしく響く寒村となる。

 

サンタクルスの町角

 そう言えば以前にゴーギャンの足跡を訪ねる旅をしたことがある。フランスのブルターニュ地方である。『黄色いキリスト像』のあるポンタヴァン(ポンタヴァン派の名の起こりの村、近代美術史上重要な美術革命)のその先のル・プルデュという海辺の村を訪れた。ゴーギャンが家の天井から壁からドアまでに絵を描いたマリー・アンリの下宿屋がある海水浴場だ。僕が以前に見た画集のなかにはル・プルデュの岸壁の上に建つ聖十字架(サンタクルス)が描かれていた。その場所を見たいと思っていたのだが、観光案内所ではその存在が判らなかった。その後なくなってしまったのかも知れない。偶然だがこのル・プルデュとサンタクルスは夏の海水浴場でシーズンオフには全くの寒村と化すなど良く似ている。(以前に書いたポンタヴァン旅日記参照)

 ゴッホは炎の人だが、『火宅の人』 を読みながら、僕はゴーギャンのことを時々オーバーラップして考えていた。家庭を顧みず芸術と酒と女にうつつをぬかした奔放な人生。後世に芸術は残るのかも知れないが、人間としてあまりにも身勝手で周囲に対する犠牲が大きすぎるのではないのだろうかなどと考えながら読んだ。

 

サンタクルスの町角

 そのホテル・サンタクルスにチェックインを済ませ、ホテル近くのレストランで遅い昼食。ワインは同じダンという名前から檀一雄が愛したというダン地方のワインにしようかなとも思ったが、ダンはいつも呑んでいることだし、レストランお勧め、この地方のトーレス・ヴェドラスのワインにした。少し甘口だが、その日の定食には良く相った。

 僕はサンタクルスには今までも四回ほどは訪れているが、今回は久しぶりだ。そして泊るのは初めてだ。

 勿論、檀一雄が住んだ家の場所も知っているし、歌碑の場所も知っている。(実は歌碑建設の発起人の辻司先生(画家で元大阪芸大教授)はよく知っている人で、建設前にはその設計図も見せてもらったこともある)小さな村だし道の数もそれほどは多くない。このレストランから歩いて恐らく二~三分もかからない距離だ。檀一雄先生通り六番地に檀一雄が住んだ家がある。

 試しにレストランのウエイトレスに「ルア・プロフェッソール・カズオ・ダン(檀一雄先生通り)はどこにありますか?」と尋ねてみた。だがその若いウエイトレスは檀一雄先生通りを全く知らなかった。その道の両側に二十軒もあるだろうか?単なる住宅街で日本人以外は行くことはないだろうし、親戚か友達でも住んでいない限り知らなくても当然なのかもしれない。

 「そうか、知らないか~」と思いながら、ホテルに戻ってフロントの同じ年頃の女性に同じ質問を投げかけてみた。ホテルの女性は当然のことながら即答であった。ホテルでくれたサンタクルスの地図にも「ルア・プロフェッソール・カズオ・ダン」は載っていた。日本人の宿泊客も多いのかも知れない。

檀一雄が『ポルトガル滞在記』の中で書いている、ポルト・デ・ヴァッカス(牛の津)とカーボ・アズール(青の岬)も聞いてみたが、それはフロントの女性も知らなかった。地元の人でも知らない、或いは漁師仲間だけの呼び名なのかも知れない。

 町の中心はかなり綺麗に整備されているとは言え、ひっそりと静まり返りレストランやカフェ、普通の商店なども少なく、リゾートシーズンを前にリメイク中なのか閉まっている店が目立った。そんな中で色褪せた赤い提灯の中華雑貨の店が侘びしくもドアを開け広げていた。こんな寒村にも中国人は入り込んでいるのだと改めて驚いた。

 

檀一雄が暮らしたサンタクルスの家

 

 檀一雄が住んだ家は以前と変わらずそのままの姿であった。でも誰も住んでいる気配はなく、誰かの別荘として使われてでもいるのであろうか?外から見るだけで内部は窺い知ることはできない。家の造りはその時代の特徴なのか、この地方に多くある形式で夏のリゾートの別荘造りなのだろう。僕の住むセトゥーバルあたりには見当たらない様式だ。普通ならスケッチをする対象ではないが、一応、檀一雄が暮らした家ということで鉛筆スケッチをした。その他にも町角風景など幾つかスケッチをしたが、久しぶりの鉛筆だったからなかなかいい線にはならなかった。今までも四回、サンタクルスを訪れているが一枚の油彩にもなっていない。

 

 只、以前と違っているのは町の入り口にアルミ色の大きな釣り針のモニュメントのロータリーが出来ていたこと。そこが町の入り口になり、以前は檀一雄の家は少し町の外れにあったのだが、今ではもう少し外側にも新しい町は広がっていた。

 ビーチを歩いてみたが昨日までの寒波の影響が未だ残っているのか、天気は快晴なのに風は強風でことのほか冷たかった。さすがに泳いでいる人は居なかったが、既に泳ぎ終わったのか水着で日光浴をしている十人程がいた。或いはサーフィンの後かも知れない。外国からのリゾート客なのだろう。それと釣をしている人も何人かいた。これは地元の人だろう。

 

サンタクルスの町角

 サンタクルスの南端、これが檀一雄の言うカーボ・アズール(青の岬)なのだろうと思われる断崖にはへばりつく様に松葉牡丹に似た多肉植物のカルポブロトゥス・エドゥリスの白と矢車草の一種だろうセンタウレア・プラタのショッキングピンクが混生し、野生のスターティスが鮮やかな紫の花を強風に耐えながらも多くの花をつけていた。

 その岬のカフェに座ってビールとトレモッソで休憩。風が冷たいとは言え西からの太陽は海原に反射し容赦なく顔面に照りつけ、いっぺんに陽焼けしてしまった。テラス席で五人連れのセニョーラたちがコーヒーとお菓子でお喋りに夢中でその場所だけが賑やかだったのだが、その人たちが解散してからはこのカフェもひっそり静まり返ってしまった。トレモッソは気前良く皿に山盛りでそれを当てにビールを飲むと夕食はとても入りそうにない。昼食は遅かったし。

 トレモッソは黄色く一見すると大ぶりのトウモロコシの様な感じだが、ルピナスの実だ。ポルトガルでは食前のつまみにはオリーブを食べることが多いのだが、それ以外でビールを飲むときはトレモッソをよく当てにする。丁度日本の枝豆の如くで、味も良く似ている。ルピナスもマメ科植物だから。

 すっかり陽焼けしてしまったし、少し疲れたのでホテルに帰って一風呂浴びて少し横になった。

檀一雄の歌碑 

 檀一雄の歌碑は町の中心の海側に突き出た断崖の広場に大西洋へと向って建っている。日没とその歌碑が重なる瞬間を見てみたいと思い立ちホテルを出た。ホテルからゆっくり歩いてもほんの二~三分もかからない。五月下旬は陽が長く日没は八時半頃になる。

 歌碑の周辺は勿論のこと、町なかを歩いている人は全くいない。人には会わなかったが昼間から何度もすれ違った犬が忙しそうにうろついていた。歌碑に一番近いバル(バー)のロック音楽だけが波の音に欠き消されながらも、うるさく金属音を響かせている。お客は一人も居ない。お店の人も居るのであろうか?人影がない。

 ようやく日没だ。歌碑と日没が重なり合って実に見事だ。海の上には少しばかりの薄い雲が浮かび日没に多少の変化を与えている。真正面から荒波の水面を照らし、歌碑に見え隠れし、そして黄金色の太陽がぶるぶると震えながら大西洋へと沈んで行く。

 檀一雄は『落日の火心はブルブルとたぎりふるえて、波の間に落ちてゆく。』と書いているが、本当にぶるぶるとたぎり震えて落ちて行く様を確認することができ感動を覚えた。

 歌碑には『落日を 拾ひに行かむ 海の果 A praia de Sta Cruz  檀一雄』と檀一雄の書体で記されている。歌碑そのものも幾分赤っぽい石でまるで落日の様にまあるくどっしりとした形をしている。

 日本語とポルトガル語で説明が彫られているが、日本人以外で読む人も立ち止まる人も居ないのかも知れない。檀ふみのお父上として名前を知っているだけの人が多いのかも知れないが、ポルトガルを訪れる日本人のいくらかはこの地に立つのだろう。そして『火宅の人』を読んでみたいという衝動に駆られることだろう。

檀一雄の歌碑と重なる日没 

 『火宅の人』の上巻はすごい文章力でぐいぐいと引き込まれ、これは早く読み終えてサンタクルスに行かなければなどと思っていた。しかし下巻に入った頃には「いや待てよ。文学のためとは言え、自分自身は良いとしても、これ程家族や周りの人たちのことを赤裸々に文章にし、おとしめても良いものだろうか。檀一雄はあまりにも奔放で身勝手ではないのか。」と檀一雄自身に腹が立ってきてサンタクルスに行くのも嫌になってきたものだった。読むのも少々うんざりしはじめた。でも又、更に読み進むに従ってやはり「凄い」の一言だ。そして人間の生き方そのものを考えさせられる本でもあると思う。壮絶さはエミル・ゾラの登場人物に匹敵するかも知れない。

 

 そして沢木耕太郎が、檀一雄の奥様ヨソ子さんに一年もの間に亘ってインタビューをして書き下ろしたという『檀』も凄かった。ヨソ子さんの口調で書かれているからまるでヨソ子さん自身が書いた本の如く錯覚を起こすくらいだが『火宅の人』と併せて読むべき本だろうけれど、単独の文学としても凄いと思う。そして最後の文章を辿る時、僕は救われた気持ちになった。

 

― 檀を思い出すとき、まず脳裏に浮かんでくるのは、何かがあるとパッと立ち上がる瞬間の檀の姿だ。そのかすかな激しさをはらんだ挙措が、まさにダン、檀だったのだ。

初夏、陽光がさんさんと降り注いでいるのに、なぜかサアッと涼しさが走ることがある。そんなとき、ふっと身体にポルトガルがよぎる。

あなたにとって私とは何だったのか。私にとってあなたはすべてであったけれど。

だが、それも、答えは必要としない。―

 

 沢木耕太郎ももっと読んでみたいとも思った。

 ヨソ子さんは檀一雄のサンタクルス滞在中に健康を気づかって二ヶ月半を過された。そして、亡くなってから、多分、文学碑建立記念式典の時に招待されたのだろうと思うけれど、二度、サンタクルスを訪れている筈だ。

サンタクルスの町角 

 『リツ子・その死』これは火宅の人より若い檀一雄の人となりが表れている。そして一連の文学として繋がっている。

 今までは『美味放浪記』と『サンタクルスの落日』しか読んだことがなかったけれど、『火宅の人』とその関連の作品を読んで、もっともっと檀一雄を読んでみたいと今は思っている。流行作家時代の大衆小説も含めて。

 

 『火宅の人』にはいろんな登場人物がある。家族を初めとして愛人の恵子。その他の愛人の数人。恵子は入江杏子という新劇の舞台女優のことだが、その人もそれに関連して『檀一雄の光と影』という本を書いている。檀ふみも『父の縁側、私の書斎』という本を出しているそうだ。又、檀一雄の母、高岩とみは1978年に『火宅の母の記』という本を出している。リツ子との間の長男、太郎は『婦人公論』の中で『『火宅』の父檀一雄を見つめて』という文章で父との日々を回想している。何れも『火宅の人』の登場人物だ。

 その他に三島由紀夫と檀一雄に深く拘っていた新潮社編集者の小島千加子さんと言う人だが、『三島由紀夫と檀一雄』という本を出している。その中に『檀一雄不屈の十日間--『火宅の人』完成日誌』という章があり、それも興味深い。

 

 

 僕はお酒は好きなのだが弱くてあまり呑めないのがいつも残念に思っていることだ。

 ましてポルトガルなどとアルコールの安くて旨い国に住んでいるのにも拘らず、呑めないのが悔しいのだ。

 ポルトガルには普通のワインの他にビニョ・ヴェルデ(発泡性ワイン)ポルトワイン、マデイラワイン、モシュカテル、アグアペー(二番絞り)それにアグアデンテ(ワインの絞り粕焼酎)など実に豊富なバリエーションがありどれも特徴があり旨い。勿論、ビールも様々な銘柄があり、何れも少し甘口気味なのかも知れないが、コクがあり喉ごし良く旨い。

 でも檀一雄ほども呑みたいとは思わない。

 

 僕の父も若い頃は浴びるほど呑んでいた。昨年、百歳で亡くなったが、檀一雄より一歳年上だ。父が明治四十四年生まれ。檀一雄は明治四十五年生まれと言うことで、今年が生誕百年ということになるのであろうか。

 僕は残念ながら父の体質は受け継いではいないようで、ビールをコップに一杯で顔に出てしまう。

 今年はささやかながら父の遺作展を催した。本当にやって良かったと思っている。それが終わって次の週が『NACKシニア七人展』だった。父の遺作展で僕の心は少しは達成感で気が抜けていたのかも知れない。そんな時に吉田定一さんから『檀一雄のサンタクルス』の話があった。その時は本当に気持ちがどこかに行っていたのは確かな様だ。生返事をして、うわのそらで聞いていたのだ。

 吉田定一さんは僕の絵画グループNACKシニア7人のメンバーで絵も描かれるが詩人で児童文学者でもある。そして季刊文芸雑誌『伽羅Kyara』を主宰されてもいて、これはそれの為の原稿だ。吉田定一さんから下記の様なメールも届いた。

 --檀一雄さんとの繋がりは、小生の文学の恩師、北原白秋の弟子で、童謡 詩人であり童話作家である与田準一先生を通してです。

 与田準一先生は、リツ子さんを亡くされた檀さんに、戦中、与田先生と同じ町・福岡の瀬高に疎開していた檀さんに、今の奥さんを紹介した人です。そんな関係で檀さんとお会いしました。二人はすでに故人となられましたが、恩師との不思議な縁に導かれて文学に嵌った感を深くしております。--

 でも後からそれなら『火宅の人』くらいは読んでおけば良かったと思ったのだが、思いついたのがポルトガルに戻ってきた後だから、あとのまつりと思っていた。それを通信に書いたところ、友人がすぐさま送ってくれたので、「いや、これは読まなければなるまい。書かなければなるまい。」と読み始めたのだ。

 でもお陰さまで檀一雄をまとめて読むことができたし、サンタクルスにも久しぶりに行き、泊ることにして本当に良かったと思っている。

 檀一雄はこの地で『火宅の人』の最終章の前章の『骨』と前前章の『きぬぎぬ』を脱稿し、『新潮』編集部に送っている。その後、死の直前に病院での口述筆記により最終章『キリギリス』を書き上げるまでの4年間、『火宅の人』の執筆は中絶している。

 サンタクルスで脱稿した『きぬぎぬ』は第二の愛人徳子、そして第一の愛人恵子との別れの章である。その中にまるでサンタクルスの情景をスケッチした様な箇所がある。

 --どんよりとした鉛色の波は、揺れているのか、輝いているのか、いやもう波の面を眺めているだけでもなく、私はただものうく頬杖をつき、その落日の光輝が鉛の海を縦横に揺さぶり、染め上げていく有様に見とれているわけである。--

 --なぎ払われ、とりこわされたような周囲の家々の辺りから容赦なく差し込んでくる西日差も漸く斜めに傾き終って、私と恵子のいる家の庭先は暮れかかった気配である。昔のままに高く低く囲われた黒板塀だけが無残な傾斜を見せながら伸びていて、その黒板塀の裾の辺り、リリリリリンとこおろぎの一声を聞いたような気がした。--

 『骨』は日本脳炎を患い不随になって九年間寝たきりであった次郎の死である。

 --チチさん  酒呑んで  酔っぱらって  転んだ

  ジロさん  それ見て  たまげて  転んだ

  転んだ……  転んだ……

  転んだ……  転んだ…… --

 

 二泊目はその近くの温泉地・ヴィメイロに予約を入れていた。地図でみるとサンタクルスからほんの近くなのだが、道がややこしく案の定<微迷路>に入り込んでしまい、フランス系のスーパー、インターマルシェの駐車場で買い物のおばさんに尋ねたところ親切にしかも的確に教えていただいた。どうやらトーレス・ヴェドラス近くまで戻って来ていた様で随分と違う方向へと行ってしまっていた。

 それからはすぐに道路標識も目に付き、ようやくヴィメイロにたどり着いたが、予約したホテルには埃が被り、蜘蛛の巣が張り、吹き溜まりには落ち葉が積み重なっていた。全く営業をやっていない。名前も場所も間違いがないのだ。近くのパステラリア(お菓子とコーヒーの店)に入って聞いてみると、「このホテルは夏の間しか開かない。数キロ程走ったところの海岸縁に大きなホテルがあって経営者は同じだから、そこで聞いてみれば」とのことであった。

 その別のホテルのフロントには僕の名前があった。

 これもインターネットの弊害と言えるのだろうか?お客をできるだけ間口広く予約させて一箇所に集めてしまうというやりかたなのだろう。でも予約したホテルの入り口に張り紙くらいしておいても良さそうなものだと思った。

 ホテルは大西洋に面した崖の上に建つ高層で、広大な敷地にはゴルフ場や乗馬で野山を駆け回れる気持ちの良い環境にあった。もちろんビーチに面しているし、風呂の水も温泉質だ。ホテル専用道路の脇にもアナガリス・モネリ(瑠璃ハコベ)などの野の花が一面咲き乱れて、最初にたどり着いた山の中の薄暗い温泉宿よりは良かったかなと気分を良くした。部屋は見晴しのよい九階にあり、三つ星なのに予約した二つ星ホテルの値段のままだ。

 海水浴場のところで昼食を取ったが豪華でその割に安くて満足の内容だった。随分大回りしてこの場所まで辿り着いたが、ホテルはサンタクルスから海伝いに来るとほんの僅かな場所にあり、この日の行程はいったい何だったのかとがっかりもした。

 

 帰りは海岸線を走り、再びサンタクルスの釣り針モニュメントのロータリーを回り、檀一雄が滞在中はよく行ったという、エリセイラでブッジオ(巻貝)の昼食をとり、マフラの修道院の前を通り、リスボンの縁をかすめてヴァスコ・ダ・ガマ橋を渡って無事帰宅した。VIT

 

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 日本では花粉飛散の季節は既に終わったのであろうか?

 今年も日本滞在中は2月頃から連日、テレビの天気予報の中でスギ花粉やヒノキ花粉の情報が流れていて「そうか花粉症か」などと他人事の様に聞いていた。

 

 僕は日本では全く花粉の影響はない。

 ところが一昨年のあたりから、ポルトガルの野の花の花粉に反応を示すようになってしまった。

 一昨年より昨年、そして昨年より今年がひどい。

 目の周りは赤くなって痒くしょぼしょぼする。涙が出てきて、眼球までもが赤く、まるでトラホーム患者の様に醜くなってしまう。鼻水が出る。かんでもかんでも出てくる。くしゃみが立て続けに10回も起こる。そして喉の奥の扁桃腺の辺りがムズ痛くなる。それに喘息の徴候。そうなると少々目薬を差そうがどうしようも収まらない。

 

 一昨年には慌てて薬屋に飛び込んで花粉アレルギーの薬を買ったが、薬に頼るのもあまり好きではないので、今のところ使うのは目薬だけにしている。

 ひどくても野の花は見たい。

 

 ポルトガルの野の花は2月頃から6月中旬頃までに限られる。春には日本に居ることが多いから僕が野の花を見られるのは少しの期間に限られる。この春にも初めて見る花が幾つか見つかっている。ラン科だけでも3種類だ。

 この際、花粉症などとは言っては居られない。

 そう思って辛いのをものとはせずせっせとアレンテージョなどに出かけている。

 クルマの運転をしながらくしゃみが出る。これだけは我慢の仕様がない。立て続けに10回も出る。くしゃみをする時は目をつぶってしまうものだ。MUZはすかさず「危ないから目を開けたままくしゃみし~や」などと言う。

 120キロ程で走っている時に10連発のくしゃみが出れば本当に危ないと自分でも思う。目をつぶらない様に努力をしてみるが出来るものではない。携帯が掛かって来たときには路肩にクルマを寄せて電話を聞くことも出来るだろうが、くしゃみは路肩に寄せる時間さえ待ってはくれない。

 でもそろそろ野の花の季節も終りに近づいているのであろう。街路樹のジャカランダが紫に色付き始め、メルカドにはセレージャ(サクランボ)が山と積まれる。季節は乾季へと移り変わり、やがてアレンテージョは一面枯れ野原と化す。VIT

 

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 その後皆様如何お過ごしですか。

 展覧会の会期中に満開だった桜もすっかり終わり、若葉萌える季節に移り、御堂筋のイチョウも可愛らしい小さな葉からみるみる大きく開く様をつぶさに観察することもできました。大阪に生れ育ったにも拘らずこれは初めての経験でした。(遺作展では学生の頃にはなかった「田辺駅」か「文の里駅」まで歩き、画廊最寄りの「淀屋橋駅」まで地下鉄で通いました<日本の交通費のなんと高額なことか!>が、NACKシニア展では毎日東住吉の実家から兄嫁のおんぼろママチャリを駆って大阪城公園を横切ったり、御堂筋を通ったり、又、通天閣の下をくぐったりして浪速の街を、サイクリングでの春を楽しみながら通いました。)

 そして4月24日宮崎を発ち羽田、パリを経由して25日にセトゥーバルの我が家に無事に戻って来ました。(4月25日はポルトガルの祝日)

 展覧会ではご多忙中、ご遠方にも拘わりませず、又、あいにくの雨という日もありましたが、そんな中、父「武本憲太郎遺作展」及び「第2回NACKシニア7人展」(於・マサゴ画廊)に御来場、御高覧賜りましてありがとうございました。又、マサゴ画廊スタッフの方々の心温まる行き届いたご配慮にも感謝申し上げたいと思います。

 お陰様で双方とも盛況裡に終えることができ、わけても、遺作展に於いては本当に催して良かったなと兄妹一同喜んでおります。

 準備期間から会期中まで、そして皆様との交流の中で、又、父の新たな発見をできた様な気もします。私たち兄妹にとっては心の中でいつまでも持ち続けられる宝物を得た様な気持ちにもなっています。本当にありがとうございました。

 今年はポルトガルも日本も同じ様な異常気象らしく昨日は空に黄砂がかかりどんより暑く海水浴にでも行きたい気持ちだったのが、(お隣はご家族で海水浴でした。)今日は一変して、冷たい風が吹き、慌ててオイルヒーターのスウィッチを入れた程冷え込みました。まもなく5月だというのに。日本でも雪が降ったり、2ヶ月も早く真夏日が訪れたり、まったくこのところの天候不順には予断を許しません。どうぞ皆様にはご自愛いただき、今後いっそう、ご健勝であられますことをお祈り申し上げます。
2013年4月27日 武本比登志 



宿題

 NACKシニア展の会期中、メンバーの吉田定一さんから「檀一雄が暮らしたサンタ・クルスのことを書け」と頼まれた。僕はその時、生返事をしたが、今になってそれが大きく頭にのしかかっている。

 吉田定一さんは画家でもあるが、児童文学の第一人者でもあり、現在「伽羅Kyara」という季刊誌を発行されている主宰者である。そしてそれの原稿だ。

 吉田定一さんは檀一雄とは生前に交流があったらしい。

 檀一雄は1970年から71年の約1年半をポルトガルの寒村、サンタ・クルスで暮らし、代表作「火宅の人」をその地で書き続けたと言われている。

 僕はサンタ・クルスには3~4度は行っていると思うがそこで泊ったことはない。いつも中継地である。

 檀一雄が住んでいた建物はそのままの姿で残っている。
 僕がはじめて訪れた頃には石碑はなかった。それが数年して僕も知り合いでもある辻司先生(元大阪芸大教授)などが発起人となって、石碑が建てられた。
 サンタ・クルスの一等地、海の見晴らせる広場に日本語で彫られた大きな石碑である。
 建てられてからも何度かサンタ・クルスには訪れている。
 檀一雄がこの地に住み始めた1970年は僕たちにとってもストックホルムに住み始めた年だ。
 僕は檀一雄の本はあまり読んではいない。「火宅の人」も読んでいない。読んだのは「リツ子・その死」と「美味放浪記」の2冊だけだと思うが随分と前に読んだ本だ。

 吉田定一さんから文章を頼まれた時にせめて「火宅の人」の文庫本だけでも仕入れて持ってくれば良かったと後悔している。
 でも読んだからと言ってそれが書ける訳がないことは判っている。画家の足跡を訪ねる旅ならなんとかなるかも知れないが、文学者はどうも勝手が違う。

 今、以前に読んだ「美味放浪記」をぱらぱらとめくってみた。宮崎の項で知っているお店の名前が複数見つかった。先ずは「三角茶屋」。ここでは帰国するたびに何度かうどんや蕎麦を食べる。僕はいつもゴボウ蕎麦かゴボウうどんだ。それと「五郎」である。最近はご無沙汰であるが以前には4回ほどここで食事をしたことがある。いつも誰か友人か知人と一緒だった。
 こんなことなら久しぶりにポルトガルに戻る前にでも一度行っておけば良かった。

 いずれにしても、檀一雄のサンタ・クルスを書く自信は全くない。今までもサンタ・クルスは1枚の絵にもなっていない。
 でもとりあえず近いうちにサンタ・クルスに出かけて1~2泊してみても悪くはない。VIT


今後の個展
武本比登志油彩作品展
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2013年12月11日(水)~17日(火)
最終日は午後4時閉場
高島屋大阪店6階美術画廊/B
〒542-0076大阪市中央区難波5-1-5
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2014年1月29日(水)~2月4日(火)
最終日は午後4時閉場
高島屋岡山店7階美術画廊
〒700-8520  岡山市北区本町6-40  ℡086-232-1111
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2014年2月12日(水)~18日(火)
最終日は午後4時閉場
高島屋米子店4階美術サロン
〒683-0812  米子市角盤町 1-30  ℡0859-22-1111

 

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2013年度(平成25年)春の展覧会日程

武本憲太郎遺作展
2013(平成25)年 4月1日(月)~6日(土)11:00-19:00 最終日は午後5時終了
マサゴ画廊
〒530-0047 大阪市北区西天満 2-2-4 ℡06-6361-2255
裁判所西側の道、小山医院西入る

2nd NACKシニア展
藤井 満(賛助出品)呉 景萬、加藤正雄、武本比登志、田中昭雄、六車隆一、吉田定一(50音順)
2013(平成25)年 4月8日(月)~13日(土)11:00-19:00 最終日は午後5時終了
マサゴ画廊
〒530-0047 大阪市北区西天満 2-2-4 ℡06-6361-2255
武本は会期中、毎日午後16:00まで会場に居ます。最終日は午後5時終了

 

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 油彩を描くためのキャンバスはいつもひと巻を丸ごと買う。

 ひと巻きは2メートル10センチ幅で長さは10メートル。それを出来るだけ無駄が出ない様に考えながら測って切る。大きさ(号数)の組み合わせによっては無駄が少しは出たりもするから、それを最小限に抑えるべくいろいろ考えて頭を捻る。

 それでも最終的にはどうしようもない端布(はぎれ)が多少は出てくる。最も小さい0号も取れない端布。0号と言へど張りしろなどが必要だから結構な寸法、幅21センチがいる。それより狭い15センチ程度から2センチ程度の帯状の端布がかなり出てくる。それはどうしょうもない。



 どうしようもなくアトリエの隅っこでぼろ布と一緒にたむろしている。ぼろ布は油彩を描く上での必需品だ。おつゆ掛け(油彩専門用語)の伏せに使ったり、筆を拭いたり、ペインティングナイフを拭いたり、絵を拭いたり、手を拭いたり。それは使えなくなったメリヤスのシャツ、タオル、シーツなどが再利用されるわけで僕の場合大量に使う。

 キャンバスの端布では手は拭けない。せいぜい描きかけのキャンバスパネルの下敷きくらいにしか使いようがない。と今までは思っていた。



 以前知り合いになった人がシンガポールに住み、数年前から『パメラン・ポスカド展』という公募展を主催している。約12センチX20センチの主催者規格のビニール袋に入るものなら何でもOKという面白い企画である。

 だいたいポストカードサイズのものを入れる様に考えられている。但し腐るものや他人に不快を与えるものは不可。という出品要項があるものの、何でも良い。

平面用のビニール袋なので立体は無理なのかもしれないが、要項からいけば立体もOKだ。規格のビニール袋に入ればの話だが…。

 ネットで出品作品を観てみるとなかなか個性的でユニークな面白いものが多い。一人10点までで、500人が定員で締め切られるそうで、いつも出品者は定員いっぱいの500人が参加し大盛況の様だ。
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.448796558505317.121882.407769585941348&type=1
 第1回から僕にも誘いがあったが、あいにく帰国と重なったり、準備に要する時間が足りなかったりで、今まで出品は出来なかった。

 そうして第4回目の2012年に初めて参加出来る事になった。僕は油彩画家なのでやはり油彩を出したい。油彩の出品は案外と少ないそうだ。



 油彩は乾きなどを考えると時間がかかる。ある程度は前もって出来上がって乾いていないと出品は出来ない。2012年に出品するにあたって、随分前から準備をしていた。
 木枠に張らないで、キャンバスに油彩を描く訳である。サイズはビニール袋に入る大きさとして11,8センチX17センチとした。それでビニール袋に丁度一杯である。
 油彩はベニヤ板などにも描くことは出来るが、僕の場合、ここで端布画布が有効に使えることになった。

 アトリエにたむろしていた端布画布の出番となったのだ。描いてみると、木枠に張られていないから描きづらいことは描きづらい。以前に比べて手や服を油絵の具で汚すことが多くなった。
 でもこれが案外と面白い。100号などの大きい絵を描く合間にそんな端布画布に描く。端布画布に描く合間に100号を描く。これが気分転換にもなり、僕にとっては面白い。



 そしてその端っこが真っ直ぐではなく、描き重ねていくうちに油彩により麻布の微妙な歪みが生じてきたりしてそれがまた気に入っている。
 今年2013年もパメラン・ポスカド展には出すつもりで今描いている。
 パメラン・ポスカド展はビニール袋に入れてぶら下げての展示だが、それに出品だけではなく、それなりの額縁に入れて、僕の個展に混ぜても良いだろうし、それだけで個展をしても面白いかも知れない。



 僕は以前からポルトガルに住んでの思いを文章にしてきた。そのタイトルを『端布画布(はぎれキャンバス)』としている。

 絵を描く合間のたわごと、何の役にも立たないもの、と言う意味を込めている。そしてその役に立たない事柄がもう一つ増えた、ということになるのかも知れないが、端布画布(本当のキャンバスのはぎれ)同様、或いはその内、役に立つ日がやって来るのかも知れない。VIT

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 毎年、サロン・ドートンヌが開催されるこの晩秋にパリまで100号の作品を持って行き、始まるまでの1週間をどこか違う町の見学という形で過していた。
 それはノルマンディであったり、ブルターニュであったり、イルド・フランスであったり、そしてプロヴァンスやコートダジュールにまで及んだりで、その先々の美術館などを観て楽しんでいた。

 晩秋のフランスは寒く、雨が降ったりもするが、紅葉が美しく、我々の住む南国ポルトガルでは決して味わえない景色とキーンと凍える張り詰めた空気には格別のものがあった。
 バルビゾン派や印象派の作品そのままの風景が今なお手付かずに残されていて、その時代にタイムスリップした如くに感じることさえある。

1.セトゥーバル郊外モシュカテルワイン用葡萄畑の黄葉とアラビダ山(2012年11月撮影)

 フランスと比べてポルトガルにはあまり紅葉はない。街路樹のポプラが黄色く色づき、やがて褐色になり落葉するが、年によっては半ば黄色くなりかけで落葉してしまったりで、黄葉を楽しむまでは至らないことの方が多い。それと僅かだが家の壁などを覆う蔦が赤く紅葉しているのを時々見かける程度で真っ赤に色づくモミジやカエデ、ハゼなどの類はあまり見かけない。

 僕は大阪市内南部の下町育ちなので紅葉とはあまり縁がなかったのかも知れない。周辺は棟割住宅が建ち並ぶ住宅街でそんな中に町工場がひしめき合い混在している様なところで、庭木や街路樹も少なく、殺伐とした地区に育った。と言うより戦後の日本はそんなところが多かったのかも知れない。
 近くに漆堤という川べりがあったが、漆は一本もなく、エノコログサやセイタカアワダチソウが子供の背丈ほどに生い茂っていた。
 今は桜の名所になって、時期には舞台が作られ提灯がぶら下がって、屋台が出たりしているがその頃には桜は一本もなかった。遠い昔、万葉の時代には息長川という名でカイツブリも生息する美しい川として歌われているのだが…

2.葡萄の紅葉

 戦後間もない時期にあって、父はそれでも季節感を大切に持っていた人だった様に思う。旬の物には目がなく、いつも季節を先取りして、自ら通勤帰りにいろんな物を買ってきたりしていた。それは枝が付いたままの柿であったり、いがに入った栗であったり、松茸であったりもした。
 僕が未だ小さい頃、春にはよく吉野に花見に出かけたし、夏は淡輪(たんのわ)に泊りがけで海水浴と舟釣りに行き、秋には必ず箕面(みのお)にもみじ狩りに出かけた。箕面の紅葉は美しかったのだろうが、子供心にはそれを愛でるには早すぎたのかも知れない。紅葉よりは『箕面昆虫館』が楽しみであった。

 そして床の間の掛け軸は四季折々に架け替えられた。日本画家は四季を大切にする。それは掛け軸がくるくると巻いて収納しておけるし、気軽に架け替えられる様になっているからで、西洋の油彩ではそうはいかない。架け替えても収納しておく広い場所が必要になってくる。
 西洋の油彩は架け替えることは念頭にない。だからむしろ季節感のない画題が好まれたのだろう。ペーテル・ブリューゲルには雪景色があるが…。
 その後、19世紀の後半に日本からの美術が大量に西洋に渡った。西洋の画家達はこぞってジャポニズムを取り入れた。印象派、ポンタヴァン派、ナビ派、そしてアール・ヌーボーなど。

 ゴッホもジャポニズムを積極的に取り入れた一人だ。季節の花も積極的に絵にしている。巴旦杏、アイリス、向日葵などあまりにも有名な絵だ。
 ゴッホはオランダの南部ヌエネンに生まれ育った。身近に紅葉が美しい土地だったに違いない。
 ゴッホはパリを後にして、アルルにやって来た。フランス南部アルルはポルトガルとよく似た気候で植生なども似通っている。あまり紅葉はないのかも知れない。でもアリスカンのポプラ並木の黄葉を絵にしているし、葡萄畑の紅葉を絵にしている。たぶん、ゴッホは故郷ヌエネンの紅葉が懐かしかったのかも知れない。

3.紅葉するアレンテージョの葡萄畑

 晩秋のこの時期、アレンテージョなどをクルマで走っていると葡萄畑の紅葉を眼にすることができる。今までクルマを停めてまでは見ることはしなかったが、車窓を流れる風景に「おっ、綺麗やな~」と思わず口にすることがある。
 この程、クルマを停めてじっくり写真撮影などを行ったが、意外と停められるところが少ない。
 赤葡萄は赤く色づき、白葡萄は黄色く色づくのは以前から思っていたが、それと多分、葡萄の品種によって紅葉の具合がかなり違うのに気がついた。

4.帯状に様々な色合いの葡萄畑

 その赤も様々であるのに気がついたのである。同じ畑でも品種ごとに帯状に植えられているところなどを見ると一目瞭然である。赤のなかにも赤黒いものから、淡いものまであるし、紅葉をしないで、いきなり枯れた様な褐色になるのもある。
 そして紅葉が美しい年とそうでもない年がある。天候や気温によるものだろうが、うかうかしていると、そんなものを感じている暇もなく季節は瞬く間に過ぎ去って行く。VIT



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 マヨルカ島はスペインのバルセロナ沖、地中海に浮かぶ昔からの一級のリゾート地である。
 単なるリゾート地だけではなく、歴史も深く、見所も多い。

■10月6日(土)予報では晴時々曇/最高気温27℃-最低17℃/降雨確率2%

 リスボン空港を16:20発なのでゆっくり家を出ることができる。土曜日だからセトゥーバルからのバスの本数は少ない。空港には早く着きすぎ、少し待って搭乗手続き。航空機はオーストリアのニキ航空といって初めて乗る飛行機だ。

 手荷物検査の後、乗り込むまでの間に、いつもパリなどに行く場合は機内ですぐに軽食が出るので、コーヒーだけにするのだが、マヨルカ往きではどうも食事はないようだ。少し腹に入れておく方が良いと思って、何を思ったのか、以前からのCMが頭のどこかに引っかかっていたのかも知れない<マクドナルドのビッファナス>を食べてみることにした。しかしこれは2度と食べるべき代物ではなかった。

 飛行機は空いていた。3人掛けシートの殆どに2人ずつ。
 軽食は出なかったが、ソフトドリンクとビスケットかスナック菓子のどちらかをチョイスということだったので、別々に一つずつ貰った。ビスケットはクリームを挟んだもので4枚が入っていた。スナック菓子はうずら卵型のプリッツの様な固パンで荒塩がまぶしてあって素朴な物だがなかなかいける。
 座席はグレーの革張り、客室乗務員はオーストリア美人でスリムなブルージーンズが制服。格好が良い。


●ニキ航空機の革張りシートと安全のしおり

 ほぼ定刻通りマヨルカのパルマ空港に到着。
 今回の旅行は、航空券とホテルがセットになったパックツアーなので、空港からホテルまでのリムジンも含まれている。到着口を出ると<ソルプラン>と言うツアー会社の係員が迎えに来ている筈だから。と教えられていたが、向うからこちらを目ざとく見つけてくれた。日本人の名前だからすぐに判ったのだろう。リムジンは8人乗り位のRV車で、後で判ったのだがナザレから来たという中高年のカップルと僕たちの2組だけだった。

 そのナザレのカップルとは8日間、朝食、夕食の時は時々見かけ挨拶を交わした。勿論帰りのリムジンでも一緒だった。只、ナザレのカップルは3食付で申し込んだらしく、ホテルのチェックインの時に手首に目印のショッキング・ピンクのリストバンドをしてもらっていた。それがあると、呑み放題なのである。2食付の僕たちは飲物、別料金。

 マヨルカに到着が19:00だから空港からホテルはすぐ側といえどもホテルに着いたのは8時頃であったのかも知れない。部屋に荷物を下ろし、すぐに夕食。
 「この食事で7泊はきつい」とMUZは渋い顔をしたが、僕はまあまあかなと満足していた。それというのもサラダが豊富にあったので気に入ったのだ。ビールやワインも高くはない。
 バスタブの大きい部屋と注文したからか、確かにバスタブは大きかったけれど、部屋は2階で道路を行くクルマの音が夜遅くと早朝にうるさかった。

■10月7日(日)晴時々曇/27℃-17℃/降雨確率3%

 夕食に比べて朝食はまあまあだ。と言ってMUZも満足の様子だった。クルマの音がうるさい。と言って部屋を替えてもらった。今度は5階(日本式には6階)の北向きで空港が真正面に見える。ベランダからは長々と伸びるカン・パスティーラのビーチも見える。バスタブは小さくなったけれど、うるさくもなく、眺めも良いので替えてもらって良かった。航空機の発着は見えるがその騒音は殆ど感じない。

 ツアー会社ソルプランの人が13:00からホテルで説明会をします。とのことだったので、遠出はできない。
 午前中は水着に着替えビーチタオルを持ってカン・パスティーラのビーチに出かけた。漁港のあたりはまるで泥水だ。海草が多くてそうなっているのかも知れない。ビーチ沿いの土産物屋が立ち並ぶところを歩いていると空車のトランが来たので乗ることにした。2両連結のトランだがやがて満席になってカン・パスティーラのビーチ沿いの大型ホテルが建ち並ぶ道をどこまでも行く。
 やがてUターンしたので、そのあたりで降りてビーチに寝転がることにした。


●カン・パスティーラのビーチ通りをすれ違うトラン

 10月だと言うのに大勢の人が泳いだり、浜辺で水遊びをしたり。僕も少し泳いでみた。海は遠浅で水もトルコ石ブルーに輝いて綺麗だ。やはり大西洋とは違って海水は温かく波も穏やかで泳ぎやすい。

 帰りもトランに乗った。往復切符だったのだ。トランは超満員だったが、車掌がうまく席を作ってくれた。同席した北欧人は身体が大きくいかにも窮屈そうだったが、中年の男女2人組4人で重なり合って、それを楽しんでいるようでもあった。
 帰りのトランは僕たちのホテルのすぐ側まで行ったのでそこで降りた。
 ツアー会社の説明時間までは少し暇があったので、シャワーを浴びてからロビーに向った。約束の5分前だった。ツアー会社の人は10分遅れてやってきた。いろいろとオプショナルツアーの勧誘があるらしい。僕たちは個人で行くつもりだったので、断わって、昼食に出かけた。

 ホテルはカン・パスティーラという地区にあるので、ビーチ以外どこに行くにも先ずパルマまで市バスで出なければならない。そのバス停を見届けてからその近くの地元の人がよく入っているレストランに入った。期待したけれど注文したものが悪かったのか、期待外れであった。注文は海鮮パエリアである。


●パエリアを注ぎ分けてくれる

■10月8日(月)晴時々曇/27℃-18℃/降雨確立4%

 朝食を済ませ早速、ミロ美術館に行くつもりだったが、予定を変更してソーイェルに行くことにした。郊外に行くのは天気が崩れない内が良いと判断したからだ。カン・パスティーラのバス停から15番のバスに乗り、終点のスペイン広場で降りると、そこからソーイェル行きのレトロ電車が出ている。バスの車窓からその電車が見えたのだが終点まで乗った。終点はスペイン広場ではなく、スペイン広場からさらに3つ4つ乗ったカテドラルであった。終点がスペイン広場だと勘違いをしていたのだ。「それなら」と言うことになってカテドラルを観ることにした。
 10時から開門だが5分前に着いた時には長い行列が出来ていた。入り口の隣のカフェに座ってコーヒーと水を注文。行列が少なくなってから入場。

 ステンドグラスを通して柱やベンチに当る朝の光が美しかった。


●朝陽がステンドグラスを通してカテドラルの柱に映る。

 ガウディが手がけた礼拝堂はなるほど異彩を放っていた。

 この日はソーイェルもやめて、予定をまたまた変更してこのカテドラルの周辺を重点的に見ることにした。しかしその隣のアルムダイナ宮殿は休館日である。その前の階段から降りてローマ風呂遺跡に行くことにしたが、途中、湖の対岸に巨大なミロの陶板壁画が見える。


●ミロの陶板壁画

 ローマ風呂遺跡は小さいところだが中庭には緑が生い茂ってなかなか雰囲気のいいところだ。椅子テーブルが数箇所に配置されていて、観光客が地図を広げたり、ガイドブックを読んだりしているが、こんなところで1日読書でも良さそうだ。


●ローマ風呂遺跡入り口とモンステラ

 観終わったところで、まだまだ時間はある。ソーイェルまでは50分しかかからない。次の発車時刻に間に合えばゆっくりと行くことが出来そうに感じたので、歩いてスペイン広場まで戻ることにした。

 13:05発のソーイェル行きの列車には充分間に合った。なるほど木製のレトロな列車だが古いままの物ではなく新たに作った車両の様である。昔はこの路線はオレンジなどを運ぶトロッコ列車だったそうだが、今では観光客ばかりが乗って楽しんでいる。


●レトロな連結部分

 車内の電燈、窓枠、連結部分など見ているだけで楽しいが、車窓の風景もなかなかのものだ。急峻な岩山と緑に覆われた山々、トンネル、そしてやがてソーイェルの町の全貌が左に右に幾度となく姿を現わす。
 ソーイェルの駅に着くとまたレトロな路面電車に乗り換えソーイェル港まで乗客を乗せていく。


●路面電車の車内

 何と言うこともない列車の旅だが何かディズニーランドにでも行った様な楽しさがある。


●路面電車に乗り込むドイツ人など観光客たち

 ソーイェル港で軽く昼食。路面電車で再びソーイェルへ。


●路面電車とソーイェルのカテドラル

 何と言うこともない。と書いたがこれが大違い。ソーイェルの駅舎には何とミロの展示室とピカソの陶器展示室が併設されていて、びっくり。


●ミロの展示場一部

 ミロはリトグラフ40点程だがなかなか良い作品ばかりで見応えがあったし、以前、南仏ヴァロリスのピカソ美術館でもたくさんのピカソの陶器は観たが勿論1点1点違うわけで、ここでも壷などの立体が10点程と絵皿が20点程もあり思いがけず良かった。


●ピカソ陶器の展示場

 本命のミロ美術館には未だ行っていないが、これだけでもマヨルカに来たかいがあったと思ったほどである。


●ソーイェル駅のミロの陶板壁画

 ホテルの夕食は趣向を凝らして毎晩飽きさせない工夫がなされていると感じた。それにビュッフェ式だから常に切らさない様に気を使っている様だ。今夜のメニューはMUZも満足そうであった。
 三ツ星ホテルだがプールはあるし、そのプールサイドでは2晩に1度は歌謡ショーが催されていて、その奥には卓球台やテニスコートまである。使ったことはなかったが…。部屋にはテレビも冷蔵庫もないが、1週間や2週間の滞在でホテルばかりに閉じ籠っていたとしても飽きさせない工夫がなされている。

■10月9日(火)晴/26℃-16℃/降雨確立2%

 きょうは郊外のヴァルデモサに行くことにした。スペイン広場のバスターミナルからバスで30分。方角としては昨日と同じ北西方向だ。
 ヴァルデモサも大勢の観光客で賑わう美しい町だ。早速、カルトゥハ修道院へ。ショパンが隠れ住んだ僧院である。

 ショパンは結核療養の為とパリの社交界から逃れる為、そしてジョルジュ・サンドとの隠棲の地を求めて、暖かい筈のこのマヨルカ島にやってきて、一冬を過し多くを作曲した。
 修道院内にはショパンが住んだ部屋とピアノが保存され見学ができる。
 


●カルトゥハ修道院

 ショパンの部屋、ショパンのピアノが保存されていて、その壁には自筆(コピー)の楽譜が沢山展示してある。


●ショパンが使ったピアノと壁やケースに自筆楽譜

 上から上から、物によっては破れんばかりに加筆されている。ピアノを弾く人や作曲家にとっては興味深い楽譜なのだろうと思うが、僕にとっても絵を描く上でのエスキースと同じで、その筆跡に素晴らしさとショパンの息使いを感じる。


●ショパンの自筆楽譜(コピー)

 ピアノの横には小さな窓がある。その窓からショパンは10月の雨だれを見ていたのかも知れない。
 マヨルカ島は文字通り地中海性気候で殆ど雨が降らないのだが、皮肉にも10月が1年の内最も雨が多いとのことで、ショパンもこんな筈じゃなかった、と思ったのかも知れない。
 ショパンがこの地で作曲した「雨だれ」は余りにも有名だ。もっとも雨だれという名称はショパン自身が付けたのではなく、プレリュード作品28、15番、変ニ長調で、ショパンがピアノを弾いている音と、雨だれが軒下から落ちる音とが微妙に調和していた、とジョルジュ・サンドが書いていることから生まれた通称であるとか。他にも諸説あるそうだが…。
 作曲したのはショパン28歳、1838年だが、まさにこの10月。長雨が続き修道院の陰鬱な部屋は底冷えがし、結核は悪化の一途、眺めは靄にかすみ小さな窓の雨だれがピアノの旋律に調和したというのも頷ける。


●ショパンの部屋のピアノの横の窓

 窓から見える庭も素晴らしい。パティオ風に作られた緑豊な庭。棚にはジャスミンの白い花が咲き、そのベランダからは家々の屋根と山が水蒸気を含んで柔らかく穏やかな眺めだ。時折、羊の鈴の音が遠くに聞こえる。

 ショパンの部屋を出て修道院内をもう少し進むと2階に上がる階段があった。階段部分には世界中で催されたミロ展のポスター。日本のも2枚あった。何とその2階は美術館になっていて、ミロのリトグラフやエッチングがたくさんあった。


●ミロの展示室と版画プレス機

 ミロだけではなくピカソも10数点、ポリアコフやアンドレ・マッソンなどを含め50点ばかりの作品で、そこだけでも見応えのあるものであった。


●ピカソの作品群

 修道院の元厨房なども別棟で見学ができる。
 カルトゥハ修道院前広場のレストランで軽く昼食。食べ過ぎると夕食が入らないので昼は少しだけ。隣に座った中高年のドイツ人も2人で1人前を注文しただけであった。彼らも朝晩は2食付パック旅行なのかも知れない。


●ヴァルデモサの眺め

■10月10日(水)晴時々曇/24℃-17℃/降雨確立10%

 今までも思いがけず、かなりミロを観たが、いよいよ本命ミロ美術館の日である。
 やはりスペイン広場から市バスを乗り次いでミロ美術館へ。乗るときに運転手に「ミロ美術館に行きますか?」と尋ねた。
 ミロ美術館とは関係なくジョアン・ミロ通り何々番地という停留所が3つ程もあった。それを通り過ぎて暫く走り、市内地図を見比べてもうそろそろかな…、と思ったので、運転手に「まだですか?」と尋ねると「一つ停留所を過ぎてしまったよ」と言ったので、慌てて下車した。一停留所を戻ったところでカフェテラスの用意をしていた人に聞くと、丁寧に教えてくれた。「ミロ美術館はこちら」という標識がなかなか見当たらないので聞くしかなかった。

 坂道を5~6分上がったところにミロ美術館はあった。作品は少ししかない。と聞いていたがどうしてどうしてたっぷりで見応えがある。


●ミロ特別展の幟

 パルマ市内にミロ展の幟がたくさんあったので、特別展なのだろう。やはり常設だけではなく、常に企画展をしているのかも知れない。ガウディに関連のミロの作品。これが企画なのかも知れないが、大きなタペストリが沢山掛かった展示室もあった。


●ミロ美術館展示室

 ミロの自由奔放な線、形、色彩。クレーやピカソと同時代、絵画革命とも言える一つの時代を築いてきた画家であるが、21世紀の現代にあっても色褪せることなく素晴らしい作品ばかりだ。

 ヨーロッパのどこの美術館でもよく見かける光景だが、この美術館でも小さな子供たちがミロの絵の前で説明を聞いている。先生はどんな話をしているのであろうか?


●ミロの絵の前での子供達の課外授業

 僕は子供は誰もが絵の天才だと思う。それがやがて物心がついてどんどん絵は面白くなくなっていく。絵を描きたいという純粋さがなくなって行くからだと思う。上手に描こうとする下心が生れるからだと思う。

 絵を描く者にとってピカソやクレー、ミロなどの純粋さ、いや子供の持つ純粋さを取り戻して絵を描きたいと思っている画家が少なからずいる筈だ。僕もその一人だ。ピカソやクレー、ミロなどは子供の純粋さを自分の物としたのだと思う。

 この美術館で説明を聞いていた小さな子供達は恐らく未だ天才だと思う年頃だ。そんな絵の天才の子供たちに、恐らく天才ではなくなった先生は何を説明していたのであろうか?

 美術館とは別棟のミロのアトリエはモンドリアンを思わせるモダンな建物である。


●ジョゼップ・ルイス・セルト設計のミロのアトリエ

 広く明るく数々のイーゼルに沢山の描きかけの絵が掛かっている。
 壁やテーブルにはモティーフとなった様々な物。そしてパレット、絵の具、作業着などがそのままに配置されている。中2階にも置物や玩具、民芸品などがあって一つ一つ見てみたかったが中2階へは入室禁止で残念であった。


●ミロのアトリエ

 アトリエを出てさらに港を見晴らせる階段道を登ると古くからの建物があり、そこが元々の初期からのアトリエとのことであった。


●ブーゲンビレアとミロの階段道からの眺め

 ミロは当初、パリのアトリエでは狭くもっと広いところが望ましいと願って、ノルマンディーのカーンあたりにアトリエを構えようとした。
 でも当時、ナチス・ドイツの侵攻で戦禍は激しさを増し、疎開をするつもりで母の生れ故郷であるマヨルカ島にやってきた。
 そしてここが余程気に入ったのだろう。1956年に本格的にアトリエを構え1983年90歳で亡くなるまでをこの地で制作した。
 ミロは同時にパリとバルセロナにもアトリエを持ったが、アメリカや日本など各国でも作品を作った。
 フランスのコートダジュールでも作品を多く残している。以前訪れたサン・ポールのマーグ財団美術館にはミロのオブジェが多数展示されていた。
 ミロの作品は世界中で観ることができる。版画なども数多く自筆サイン入りのリトグラフを宮崎の友人が数点もコレクションしていて驚いたが…。動かすことが出来ない、そこでしか観ることができない物がアトリエにはある。


●木炭エスキースが壁にいっぱいのミロの住居兼アトリエ

 その元々からのアトリエ件住居の2階は入室禁止であったが、1階だけでもホールと小さい小部屋3つと台所などがあって、その部屋の壁全てにミロ自身が描いた木炭でのエスキースが残されている。


●アトリエ件住居の内部

 まさに今、ミロが木炭を走らせた如くに生き生きとした線だ。床には絵の具が飛び散った跡。何と素晴らしい。これこそが展覧会では観ることができない。現地に赴かなければ決して観ることができないものだ。


●アトリエ件住居のホールと階段、いたる所にエスキース


●壁に描かれた木炭エスキース(一部)

 ミケランジェロの壁に描かれたエスキースはフィレンツェのメディチ家礼拝堂の新聖器室でしか観ることができない。ピカソの小さな礼拝堂の壁に描かれた「戦争と平和」は南仏ヴァロリスに行かなければ観ることはできない。また、パリ、オペラ座のシャガールの天井画はオペラ座に、デュフィの「電気シティ」はパリ市立美術館に行かなければ観ることはできない。
 その他にも決して動かすことができない、そこでしか観ることができない美術が世界中には数多くある。

 ミロ美術館で堪能して再びバス停まで戻り、同じバス路線上にあるベルベル城に行く。バスの運転手にそう告げると「プラサ・ゴミラで降りなさい」と教えてくれる。降りて運転手に手を上げて合図。運転手も納得の様子。今度は乗り過ごすことはなかった。
 なかったけれどベルベル城は随分と遠く遥か彼方上方に見える。クルマ道からやがて階段道になり、道脇の植生などを眺めながらゆっくりと登った。ポルトガルと距離的にはかなり離れているが、植生はよく似ている。歩いてみると思ったほど遠くもなかった。


●ベルベル城中庭

 入場券売り場の横のカフェテラスで軽く遅い昼食。ベルベル城入り口まで2階が空天井の市内観光オープンバスが来ていた。


●ベルベル城の台所

 ベルベル城の展示物を観、屋上からパルマの町並みや港を眺め、再び階段道をプラサ・ゴミラまで。市バスを乗り継ぎホテルに。

■10月11日(木)晴時々曇/24℃-16℃/降雨確立35%

 先日、カテドラルを見学した日は休館日だったアルムダイナ宮殿とパルマ博物館の予定。でもそれだけでは時間が余りそうだったので、朝の内にと思って先ずメルカドへ。

 スペイン広場で市バスを降り歩いてすぐ。大きなメルカドで魚も新鮮。そして珍しい小魚が沢山でセトゥーバルとはだいぶ魚の種類も違う。メルカド内のあちこちにタパスを食べさせるカウンターがあり、昼食は出来たらここが良いな~と思いながら繁華街を抜けてアルムダイナ宮殿へ。

 見学の後、先日見学したローマ風呂遺跡のすぐ側を通りパルマ博物館へ。

 実は今まで僕は勘違いをしていたのだが、マヨルカ陶器である。フランスでもイタリアでも美術館、博物館で数多く観てきたマヨルカ陶器。渋い黄色と紺色が特徴で多くは真ん中に肖像画などが描かれた重厚な陶器だ。そして中川一政のバラの絵に描かれたマヨルカ壷。僕はてっきりマヨルカ島の特産だと思っていた。調べてみるとマヨルカ島とはあまり関係がなさそうだ。それらは実はイタリアでルネッサンス期に作られた陶器らしい。だから勘違いしていた当初はパルマ博物館で、それの古く良いものが沢山観られると期待していたのだが、それは違っていた。

 でも歴史の深いマヨルカのパルマ博物館は楽しみにしていた。だが残念ながら、入り口から覗くと空が見える程の大規模な工事中であった。

 仕方がないので、その手前で見かけたダリ美術館へ。ダリはあまり好きではない画家なのでどちらでも良いのだが、一応鑑賞。


●ダリ美術館展示室

 再び繁華街を戻って大急ぎでメルカドへ、軽くタパスで昼食。食べ終わった後見てみると牡蠣の専門店がそこで食べさせるカウンターがあった。牡蠣にすれば良かったと後悔。
 ホテルに戻ってホテルのプールででも泳ごうかと思って、スペイン広場のバス停まで。


●市内観光オープンバス

 バス停にはオープンバスが停まっている。これに乗ってみるのも悪くはない。1台目は満席で、すぐに2台目が来るという。
 24時間乗り放題、降り放題であちこちを観て回れる様になっている。リスボンのオープンバスと同じ方式だ。ポイントポイントで停車。パルマ市内を1周、1時間半ほどのコースだろうか、朝から晩まで1日中乗っていても構わない。それに乗ると苦労して階段道を登ったベルベル城には簡単に行けてしまう。

■10月12日(金)晴時々曇/24℃-16℃/降雨確立35%

 行っても行かなくてもどちらでも良いと思っていた、ドラック洞窟に行くことにした。
 スペイン広場からバスで1時間15分。バスは観光客と地元の人たちでほぼ満席である。途中の村で地元の人が少し降りてあとは殆どがドラック洞窟行きの観光客である。
 洞窟入り口前には路線バスだけではなく、観光バスなどもたくさん並んでいた。

 1時間に1回の入場で12時の入場に間に合った。さすが大勢の人たちが詰め掛けるだけあって、見応えのある洞窟である。効果的にライティングがしてあって幻想的な風景のあちこちに監視員が立っていて観光客が写真を撮るのを注意する。撮影禁止なのだ。でも写真を撮りたくなる気持ちは抑えがたい。


●ドラック洞窟

 たくさんの人がこっそりデジカメや携帯をかざす。一番奥深いところに地底湖があり、その前にベンチが並んでいて、前から順番に座ることになる。1回の入場でおおよそ300人くらいは居ただろうか。

 やがて地底湖の奥から音楽が小さく聞こえ、演奏者を乗せた小船が現れ音は次第に大きくなる。オルガンとチェロなどトリオの演奏だ。ショパンの「雨だれ」を奏でている。右から入ってきて、左に消え、また左から右に消えていく。何とも幻想的で300人の観客はしんと静まり固唾をのんで聞き入っているが、一人の赤ん坊だけが泣き叫んでいた。監視員から母子がその場所から退場させられたが気の毒であった。

 演奏は洞窟の中だからノートルダムのパイプオルガンの如く、ぐぉーんぐぉーんと反響するのかと思っていたが、そうでもなく、まるで鍾乳石の隙間隙間に消え入る様な演奏であった。オルガンの音は聞こえたがチェロとヴァイオリンの音は殆ど聞こえなかった。それが何だかショパンの「雨だれ」に相応しい様にも感じた。

 演奏の後、その地底湖でボートに乗ることが出来た。希望者だけが乗ることができるとのことであったが、あまりの人の多さに駄目かな、とも思ったが3隻目に運よく乗ることが出来た。
 1隻に10人ほどが乗るが、5隻の船が次から次に往復をしている。ほんの50メートル程の少しの距離だが貴重な経験だ。マヨルカというリゾート地は観光客を楽しませることが上手だ。といろんなところで感じた。

 帰りのバスまでは1時間あまりの時間があったので、その港町、ポルト・クリストまで歩いて行くことにした。15分の道のりであった。カフェテラスで軽くタパスとビールで昼食。雲行きが怪しく風が吹き始め、どうやら雨になりそうである。そろそろバスが来る頃、とバス停に向うと既に大勢の人がバスを待っていた。そしていよいよ雨である。それもかなり激しく降り始めたが、殆どの観光客は傘を持っていない。僕たちはシェルブールで買った小さな折り畳み傘を広げた。

 やがてバスは来た。少しでも早く雨から逃れ様と人々は入り口に殺到。でもそのバスはパルマ行きではなかった。続いて来たバスは空いていてそれがパルマ行きであったが、もう動き始めていて、あわてて手を振った。もう少し遅かったら停まってくれなかっただろう。バスが発車してすぐに雨は止んだが途中の道もパルマに着いてからの歩道も雨の跡で濡れていた。
 ホテルに戻りパックツアー最後の夕食をとった。

■10月13日(土)雨/22℃-14℃/降雨確立55%

 長い8日間の贅沢な日々を過し、いよいよセトゥーバルの我が家へ帰る日である。パルマ飛行場の見えるこのベランダともお別れである。

 ホテルの部屋にはテレビは付いていなかった。毎晩、夕食の後、ベランダから飛行機の発着を眺めるのが日課であった。右前方の空にまるでUFOの如くオレンジ色の灯りが2つ見える。それが少しずつ近づき、その後にまた別の灯りが現れる。同時に6つ、そして8つ。やがて滑走路へと消えて行く。左前方からはこちらに向って飛び立つ。遅れて小さく轟音が聞こえホテルの建物の影に隠れ、海の上でユーターンして右の空遥か上空を北へ向って行く機体が見える。2分おきに離陸し、2分おきに着陸している。次から次で見ていて飽きない。毎日、もの凄い数だ。小さい飛行機ばかりだが1機に100人から200人位は乗っている筈だ。
 シーズンオフなのにこれだけの人がマヨルカを訪れる。これを見ている限りスペインの経済危機などは全く信じられない。何でも年間1000万人の観光客がマヨルカを訪れるそうだ。

 僕たちが訪れた10月は1年の内で最も雨の多い時期だとのことであったが、殆ど雨にもあわず、それほど乾燥もせず、しっとりとして実に過し良い気候であった。
 様々な色のブーゲンビレアが咲き誇り、レモンが実る様子は我々のセトゥーバルとさほど変わらない風景だが、ピンクのノウゼンカズラがまさに盛りで家々の庭先からこぼれ出る様に咲いていて、何故か、普通にあるオレンジ色は見ることはなく、全てがピンク色であったのも印象的であった。


●ピンクのノウゼンカズラ

 ゆっくりと最後の朝食。朝食の後は部屋で荷造りとのんびり読書。8日間、退屈かも知れないと思って、荷物の中に先日知人から頂いたばかりの文庫本上下2冊を入れておいた。

 ジョルジュ・サンドの『マヨルカの冬』でもあれば良かったのだが、本はカルロス・ルイス・サフォンの『風の影』。スペインの作家でフランコの時代の1945年から1965年頃のバルセロナが舞台で古本屋と本を巡る話。面白い本で2人で奪い合う様に8日間で一気に読破してしまった。このままバルセロナに行ってしまいたいとも思った程だ。ベランダの前方にある筈の海をひとっ飛びすればバルセロナだ。
 今後、この『風の影』とマヨルカがオーバーラップして心に残るのかも知れない。

 12時にチェックアウトを済ませ、ロビーで迎えのリムジンを待つ。着いた時に一緒だったナザレのカップルも一緒だったが、その他にも8人ほどが同じリムジンで空港に向った。
 夜に雨が降ったらしく歩道は濡れていたが出かけるときは真っ青に晴れていた。空港で軽くサンドゥイッチを半分ずつの昼食。飛行機は往きにはニキ航空だったが、復便はベルリン航空機であった。


●エアベルリン航空機

 革張りだし、ジーンズの制服だし、スナック菓子も同じで、内容は全く同じで姉妹会社の様である。
 セトゥーバルの上空あたりを通過してリスボン空港に到着。
 
 ナザレのカップルとはリスボンの荷物受け取りコンベアのところで別れた。別れるときに手を振ったその手首には未だあのショッキング・ピンクのリストバンドがあった。

 セトゥーバル行きのバスまで少し時間があったので、ガレ・オリエンテの炭火焼フランゴで早い夕食。マヨルカに比べてポルトガルの物価の安さを改めて感じた。

 セトゥーバルの我が家に戻って普段の生活に戻った途端、いよいよ雨季に突入した模様である。VIT

 

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 セトゥーバルからリスボンに行くには必ず4月25日橋かヴァスコ・ダ・ガマ橋の何れかでテージョ河を渡らなければならない。橋は高速から繋がっているが、高速はあまり好きではない。急いで行く必要もないので、往きは国道10号線を通り、4月25日橋で行くことが多い。

 帰りにはたいていヴァスコ・ダ・ガマ橋を渡る。セトゥーバルからは大きく時計回りに円を描く様な格好だ。
 距離的にも時間的にも同じくらいで片道約1時間。どちらを通っても良いのだが、橋の長さは違い、微妙に橋の通過料金が異なる。
 4月25日橋は2キロと短く1,55ユーロとこちらの方が安い。それに4月25日橋からのリスボンの眺めが良い。橋は高くリスボン全体を南西上空から俯瞰できる格好だ。ことさら夕方などリスボンの夕陽に映える町並みは赤瓦と白い家並がサーモンピンクに染まり筆舌では尽せない素晴らしさだ。

 どちらの橋でも、リスボンに入る時だけ料金がかかるが帰りは無料だ。と言うよりリスボンに入る時に往復料金が取られていることになる。だから往きにヴァスコ・ダ・ガマ橋を使うより、4月25日橋を通過する方が安上がりに往復できる。
 帰りはどちらでも無料だから渋滞もなく道幅が広く気持ちの良いヴァスコ・ダ・ガマ橋を走る方が何となく得した気持ちになる。全長17キロのヨーロッパで一番長い橋だそうで、橋を渡りきったあたり、モンティージョの塩田にはフラミンゴの姿も見ることができる。但し、そのあたりではスピードは110キロ程が出ているから一瞬だ。それを更に猛烈な速さで追い抜いていくクルマもいる。片側3車線で1車線の幅も広く、事故が起こることもあまりないのかも知れない。

 最近は歳を取ったせいで、前立腺の影響か小用が近い。情けのないことだが、筋肉が低下し、全てが下がり、膀胱を圧迫し小水の蓄債容量が少なくなっているのだ。
 リスボンに入って渋滞などに巻き込まれる前に小用を済ませておきたい。往きはその間、サービスエリアがないので僕もいろいろと考えている。

 先ずは最近出来たばかりのコイナ・ショッピングモールのトイレ。これは国道から少し入って、ロータリーを2つも通過しなければならないし、駐車スペースに停めてからもショッピングモール内をかなり歩く。でもここは綺麗だし誰に気兼ねをすることもなくトイレが使える。トイレの手前に赤い提灯が掛かったたぶん中国人が経営する寿司店があるが勿論入ったことはない。

 もう少し先にイズィという日曜大工の大型店がある。ここは国道からすぐで、店に入って入り口の側にトイレがあり誰でも使える。でもそこではまだ一度も買い物をしたことがなく何となく気が引ける。

 もう一つはトータ・デ・アゼイタオンのアンテナショップだ。ここではトイレだけ、という訳にはいかない。トータ・デ・アゼイタオンの4個入りか6個入りの1パックを買う。自分で食べても良いし、お土産にしても良い。小さなロールケーキだが、卵がたっぷりでシナモン味が利いてポルトガルのお菓子としては甘すぎもせず美味しく、お土産としては手頃だ。ただそのアンテナショップでなくてもどこのスーパーででも手に入るから珍しくはない。
 そのアンテナショップはたいていいつも他の客の姿はなく、がらんとして、またトータ・デ・アゼイタオンが入ったショーケースは店の一番奥にあるから、入店からそのショーケースに辿り着くまでに従業員たちから注目されて何となく居心地が悪い。
 トータ・デ・アゼイタオンは日本へのお土産にもしたいくらい美味しい物だが生菓子なのでそれ程は持たない。
 トイレはモダンで掃除も行き届いていて明るく気持ちが良い。コーヒーを飲むことも出来る店だが、コーヒーを飲むとまたトイレが近くなるのでそこでは飲んだことはない。

 日本に比べて欧米ではどこでもだが、案外と公衆トイレが少ないのに困る。
 最近はポルトガル国内至る所に大小のスーパーが出来たので、地方ではそんなところのトイレを利用することが多くなった。

 一方リスボンに着いてからは小用の出来るところがなかなかない。
 カフェやレストランに入れば出来るが、駐車の問題もあるし、リスボンに行ってカフェに入ったり、食事をしたりはあまりしない。画材を仕入れたり、何かの買い物をしたりで、そういったところにはトイレはない。急いで帰ることになる。

 帰りはヴァスコ・ダ・ガマ橋を渡る。ヴァスコ・ダ・ガマ橋を渡りきって塩田を過ぎたところにはサービスエリアがありトイレだけでも使えるし、時々はそこでサンドイッチを食べることもある。温かいベーコンやソーセージのバゲットサンドイッチとポテトフライと飲物がセットになって案外と美味しくて安い。

 或いはもう少し走って高速から外れモンティージョのショッピングモールに入ることもある。大型スーパーと映画館、色んなブランドのアパレルも入った総合モールだ。いつも行くスーパーの大型店舗が入っているのでついでに買い物をすることもある。

 そのスーパーの通路手前に絨毯屋があった。通路からガラスを通して店内が全て見渡せる。ペルシャ絨毯などの良い物がいつも掛かっていて、それらを眺めるのも楽しみの一つだった。先日そこを通ると閉店していてガラスには紙が貼られ、次の店舗、ドラッグストアに改修中と書かれていた。楽しみが一つ減ったことになる。

 そのショッピングモールには当然ながらトイレは数箇所にある。
 その入り口付近のドーム屋根になったところは吹き抜けになっていて、エスカレーターを上がった2階にセルフサービスのファーストフード店が20軒程もある。ハンバーガーやピッツァ、アイスクリームは勿論、スープ専門、中華、パスタ、ケバブ、鶏の炭火焼、ポルトガルの郷土料理のファーストフードまで。早くて安くて手頃だし、そのあたりのビジネスマンや家族連れなどでいつも賑わっている。まあまあ悪くはないので我々も時々は利用する。

 その日はリスボンに用事で出かけ、食事もリスボンで済ませ、小用とちょっとした買い物だけで立ち寄った。いつも買う牛乳、ヨーグルト、肉類、野菜程度の買い物だ。
 絨毯屋が閉店し改修工事中だったので、買い物の帰り、駐車場まではショッピングカートを押しながらいつもと違う別の通路を引き返すことにした。斜めに通る通路ではなく、直角にある通路で、子供の遊び場と子供服の店舗があり、我々にはあまり用事がないのでいつもはあまり通らない。
 それにその通路にはいつも携帯電話やケーブルテレビ、カード会社などの勧誘員が立ってこちらを伺っているのでどうしても敬遠がちになる。

 その子供服店の隣に今までは気が付かなかったのだが、旅行エージェンシーがあった。表のガラスに張り紙が幾つかある。カートを押しながら何となく見てみると 『マヨルカ、7泊8日、3星ホテル、2食付、往復航空券、保険、税金サービス料全て込み、360ユーロ』 の文字が目に入った。

 マヨルカ島には以前から1度は行ってみたいという気持ちがあったので、いっきに触手が動いた。早速、店に入ってパンフレットを貰うことにしたが、パンフレットはないという。ガラスに貼ってある紙を外してコピーをしてくれた。

 家に帰って丹念に検索をしてみた。航空会社、出発、到着時刻、ホテルの口コミ評価、場所も悪くはない。天気予報も徐々に崩れそうだが今のところは良い。行くなら早いほうが良さそうだ。

 翌日早速、エージェンシーに戻り「明日からはないですか」と聞いてみた。「明日は満席で、2日後の土曜日出発ならあります。」とのことだったので、それで申し込んだ。
 小用で立ち寄っただけがひょんなところでマヨルカ島に行くこととなった。

 

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