もう随分以前から朝は7時に起床と決めている。自由業で何時起きても構わないのだが、自制しないと歯止めが利かなくなる恐れがあると思って、そう決めている。いつの頃からは忘れてしまったが、少なくともポルトガルに来てからの25年は朝7時の起床だ。

 小説家などとは違って絵を描く人間はやはり電灯の明りではなく自然光での仕事が必要だ。だから出来るだけ太陽と共に寝起きするのが望ましいのだ。

 日本の朝7時は既に明るくてそれ程早朝という感じはしないが、ポルトガルは他のヨーロッパ諸国との時差をあまりつけない様にしている為か、日本より2時間程の違いを感じる。朝の7時は日本の5時ほどで、夜の10時は日本の8時と言った感じだ。だから朝の7時は未だ真っ暗なことが多い。夏の夜には10時でも煌々と太陽が照っている時季もある。ポルトガルはヨーロッパの西の外れで例えばパリまで行くのに飛行機で3時間も乗ることになる。ポルトガル時間はグリニッチ時間と同じでドイツ、フランス、イタリアなどとは1時間の時差しかない。

 ポルトガルにも夏時間、冬時間があるが、先日、冬時間に変る時、その5日前から30分ずらせて起床時間とした。今回が初めての試みで、いっきに1時間でも別に構わないのだが…。

 ポルトガルに来る以前にカシオの腕時計を買った。飛行機の機内誌で広告を見て良さそうだと思ったので量販店で買った。タッチパネル式のデジタルでアラーム、ストップウオッチ、防水など多機能の腕時計で愛用していて、何年使っただろうか?何度かは電池も換えたが液晶が駄目になり使えなくなってしまった。同じものかそれの改良版を買いたいと思って、わざわざカシオまで問い合わせてみたものの作られていないとのことであった。

 その腕時計のアラーム機能とストップウオッチ機能は随分と役にたった。買うときは「腕時計の目覚ましなど蚊の鳴くような音で役には立ちませんよ。」と言う店員の話だったが、使ってみるとどうしてどうして大きな音で、だいたい朝の7時などは静寂そのもので、小さな音でも充分目が覚める。ストップウオッチも4分にセットしておくとだいたい応用が利き便利に使える。圧力鍋で米を炊くとき、煎茶のお湯を冷ます時、栗を焼く時などいつでも4分だ。スパゲッティを茹でる時は4分を2回。ラーメンなら少し茹で過ぎになってしまうが…。

 何年も同じ時刻に起きることを習慣付けていると、不思議なことに、目覚ましが鳴る1分前に目覚める様になる。だから目覚まし時計はもはや必要のないものだ。目覚まし時計が必要なのは早朝に飛行機に乗るとかと言った時に限られてくる。

 腕時計がなくなって丁度マイルが期限切れになるとのことだったので、それで全日空の腕時計と交換した。当然、アラーム機能などは付いているものと思っていたが、案外と何も付いていなかった。最近の流行はいっときのデジタルからアナログ的になっている様だ。でも防水は10気圧だし電子時計とかで正確さは優れているのだろう。優れた腕時計らしいが自分ではベルトを縮めることが出来ず、それ以来腕にははめなくなってしまった。

 腕時計がなくても意外と不便は感じていない。日本では至るところに時計がある。ポルトガルは日本程でもないが町角でデジタルのものを見かけるようになった。時計と気温が交互に表示されるものが多い。以前に町角のデジタル時計の気温が52度を示していて驚いたことがある。さすがにその日は暑かった。

 きょうお昼を食べたレストランでは壁掛け時計が天井近くの薄暗いところに掛かっていたが冬時間になって一ヶ月以上になるのに未だ夏時間のままであった。

 セトゥーバルでは正午にサイレンが鳴る。教会も毎時鐘を鳴らしている様だが、控えめなのであまり気付かない。日曜日のミサの鐘はよく聞こえる。日本では昔からお寺が毎時鐘をついて時を知らせていた。ミレーの『晩鐘』は心を打つ名画だが、農作業をする人にとっては今も有難いものなのかも知れない。当然のことだが昔は誰も腕時計などはしていなかった。

 以前には町角でよく他人から「今何時ですか?」と聞かれた。フランスでもアメリカでも南米でもよく聞かれた。最近はそれもあまりない。

 以前に成田空港の免税ショップで電池式の髭トリマーを見かけて買った。それまで髭の手入れはハサミでしていたのだが、髭トリマーなら便利だと思って買った。出発までの待ち時間に暇を持て余していたし、それまではだいたいそういうものの存在すら知らなかったのだ。パナソニック製だが買ってからはなるほど便利に使っている。その成田空港の免税ショップではおまけにカシオの小さな目覚まし時計が付いていた。電池式のアナログの基本的な物でいざ早朝などに起きなければならない時には便利に使っている。もう6~7年ほどになるが、未だ電池が切れたことがない。留守の時も、日本に帰国した時もポルトガルの我家で針を回し続けている。

 もう随分昔、まだ日本に住んでいた頃の話だが、読売新聞を1ヶ月以上の購読で目覚まし時計の景品が付いた。景品に惹かれて購読をした訳でもないが、勧誘員が置いていってくれた。その目覚まし時計も優れもので今でも実家に置いて使っている。思えば目覚まし時計はおまけでばかり手に入れている。

 最近は目覚まし時計の安さに驚く。1000円も出せば立派なメーカー品の物が売られているし、100円ショップにもある。買ったことはないが使えるのであろうか。

 昔、1974年だったと思うが、ストックホルムからニューヨークに行く時に清水さんという友人から餞別としておしゃれで小さな目覚まし時計を頂いた。物価の高いスウェーデン製だし、その頃は未だ高価だった筈だ。ゼンマイ式で小さな割には大きな音が鳴った。毎日ゼンマイを巻かなければならないのだが、ニューヨークでも使っていたし、南米旅行にも携帯した。南米では早朝にバスに乗らなければならない時など、随分と役に立った。しかしゼンマイを強く巻きすぎたのか途中ボリビアで動かなくなってしまった。何かの拍子に直るかも知れないと思ってその後の南米、中米の旅行中もずっと一緒に旅をした。そして動かないまま今は宮崎の自宅でインテリアとして鎮座している。

 動かなくなってしばらく後だったと思う。ペルーのクスコからマチュピチュまで行く列車が早朝5時発であった。実は5時発と8時発の1日2便があったのだが、8時発は観光客用で直接マチュピチュまで行ってしまう。僕たちはその一駅手前のアグア・カリエンテ(温かい水、つまり温泉という駅)で何泊かするつもりで、そこからインディオの道を歩いてマチュピチュまで登る計画を立てていた。だから5時発の各駅停車、地元住民用に乗らなければならなかった。乗らなければならなかった。と言うより常にそんな旅を楽しんでいた。

 クスコの安宿でモーニングコールをお願いした。時間は早朝4時である。安宿の男は拳(こぶし)を握りしめて「よし、分った。」と確かに言った。そして爆睡の中起こされた。大急ぎで服を着て、顔を洗い歯を磨いた。リュックを背負っていざ出発と勢い込んで5分とかからない駅まで急いだ。駅の時計は、ななな何と~ッ!未だ真夜中の2時であった。古典落語で言う丑三つ時である。子供の頃には真夜中は怖いものであった。「草木も眠る丑三つ時、お寺の鐘が陰に籠ってグオ~ォ~ン」などと九九を覚えるより先に声を震わせながら丸暗記していた。

 真夜中のクスコ駅も意味は違うが怖かった。眠り足りないまま冷たいベンチに座り5時発の列車まで震えながら待った。一時は安宿の男を恨んだものの、お陰で列車は立錐の余地がないほど満員になったが、座る場所を確保できた。ホテルでゆっくり寝て5時ぎりぎりに駅に着いていたらアグア・カリエンテまで立ったままの状態であったろうと思う。立錐の余地がない満員の中、物売りがしょっちゅう来る楽しい列車であった。インディオの女性がくちゃくちゃ噛んで作るトウモロコシのお酒とかを、その瓶を下げて、柄杓からコップに注いで一杯幾らという訳である。買った人はそのインディオの女性の顔を見ながら味わうのである。そんな時に買って食べた巨大粒のトウモロコシの味は僕たち夫婦間では今でも語り草になっている。

 ポルトガルに移り住んでから毎年、展覧会のため日本へ帰る。大体が3ヶ月ほどの日本滞在となる。大阪では実家に泊まる。固定電話の上に掛けてある壁時計が随分と狂っている、と思って針を直した。でも実は狂っていなかったのだ。その時計だけポルトガル時間に合わせてあって、父がポルトガルの僕まで電話をするのにポルトガル時間が分るようにしてあったのだ。

 時間には秒、分、時、日、週、月、年とあるように1年が365日でそれを分割しているのだと思う。日の出、日没などが重要な単位だ。そして月の出、月の入り、人々は随分と自然と向き合って考え続けてきたのだ。巨石文化時代の遺跡は日時計の様な形をしているし、古代ローマ時代の遺跡にも日時計はある。コペルニクス以前、何千年前から人々は時間の中で生きてきたのだと思う。洋の東西を問わず古代建造物と太陽は密接な拘りを持っている。

 そして天動説から地動説に変っても人の生活には何の変化もなかった。多くの人々にとって関係のない事柄であったのだと思う。私たちの住む地球は宇宙の中に浮いていることは今では誰でもが知っている。燃え盛る太陽とその引力、そして地球の引力、更に月、微妙なバランスのお陰で生活が出来ているのだ。引力が突然なくなれば人類は宇宙の藻屑となってしまう。普段の生活の中で我々の住む地球は太陽の周りを正確に回転しながら回っているちっぽけな一つの星に暮らしているなどと考えながら生活をしている人はあまり居ないのだと思う。「地球は絶えず回っている」などと言うと「そりゃ、あんた、呑み過ぎやろ」などとMUZは言う。

 何十万円もするロレックスやブルガリの時計でも、おしゃれなスウォッチでも、100円ショップの時計でも同じ時を刻む。でも人によって、環境によって随分時間の流れ方は異なる。時間の欲しい時には時計は早く進んでしまうし、待ちくたびれている時などには一向に針は進まない。

 日本では春夏秋冬が正しく四等分されている。季節に乗り遅れたら米も食べることが出来ない。それゆえ勤勉にならざるを得ない。そんな国とそうでない(米など1年中出来る)国とでは人々の時間に対する考え方に違いがあるように思う。

 時間に遅れたら人は遅れを取り戻そうとする。勤勉な人の普通の行為だと思うが、それが事故に繋がったりもする。人々は目の前の時計に縛られながらあくせくと生きている。尤も最近では腕時計をしている人は少ない。

 知人が絶えず携帯を開いているので「そんなにしょっちゅう広告メールが来るのですか?」と聞いたところ、大あくびを噛み殺しながら「いや、広告なんか来ません。時間を見ているのですよ」との返答だった。

 僕は携帯を持たないのでその便利さを享受はしていないが、携帯は今やパソコンにもなるし、カメラにもなるし、財布にもなるし、勿論、時計にもなる。目覚ましの音も蚊の鳴くような音ではなくて、大きさや音色も自由に設定できるのであろう。

 携帯も腕時計も持たず時間に縛られずに、お日様と共に生活をしている自分に満足をしている。などと負け惜しみを言いながらパソコン画面の右下の時計をちらっと見つめたりする。 VIT

 

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 僕は相変わらずジャズが好きで、その頃評判になっていたレコードにガボール・ザボの『魔術師』と言うのがあった。ボサノバをジャズギターで演奏したものでライブハウスでの臨場感溢れる演奏は素晴らしく、僕も早速買い求めて、西岡さんに聴いてもらった。そして暫くそのレコードを西岡さんのお宅に預けていた。ある日、西岡さんの家を訪れると『五つの赤い風船』のメンバーが揃って練習をしていた。ガボール・ザボ風の音楽である。フー子ちゃんもギターを弾いていた。遊びでやっているのだと思っていたが、その後、音楽舎主催で大阪城公園か何処かだったと思うが『ロック・コンサート』と言うのをやった。

 アメリカではボブ・ディランがそれまでのアコースティックからエレキギターに持ち替えて『ザ・バンド』をバックに歌っていたのと同時に、岡林信康も確かロックバンドの『はっぴいえんど』をバックにしてステージに立った。そのコンサートには『五つの赤い風船』も名前を連ねていた。演奏はドラムスに木田高介を加えて、1曲はそのガボール・ザボ風の音楽を演奏していて僕は嬉しかったが、そんなこともあった。

 『五つの赤い風船』も中川砂人が抜けて東祥高が加わった。東祥高はかつて太田ぼうと村上律の3人組で『アプルパミス』というフォークグループのメンバーであった。ギターが巧かったし何でもできた。

 『五つの赤い風船』から抜けた中川砂人は『グループ愚』を作った。最初は『秘密結社○○集団』と言ったと思う。メンバーは金延幸子、瀬尾一三、松田幸一(ありちゃん)そして中川砂人の実力者メンバーのグループで聴き応えがあった。もしかしたら村上律も居たかも知れない。松田幸一はかつての『ロック・キャンディーズ』のベーシストである。

 僕の母は父の定年退職後、大阪ミナミで店を始めた。火木土はフォーク・キャンパーズから分かれた2人組、浅田彰と河野耕志郎(だったかな)の『やまたのおろち』が演奏し、月水金は僕たち『GTM』が演奏した。高校、芸大と一緒だった、小笠原ひさし(v、b)と岡本睦子(v)そして僕(v、g)の3人組だ。定休日の日曜日はセッションの日『うわばみちゃん』に開放された。金延幸子さんが発起人となって、いろんな人が新作などを発表していた。『グループ愚』が中心だったが、遠藤賢次や高田渡なども時々は顔を見せていた。西岡隆さんも何度かは来てくれたし、フー子ちゃんもイノコと一緒に来てくれたこともある。

 ある日「音楽舎で聞いて来た。」といって、広島フォーク村の村長という人が一人でやってきた。僕たちが日本語で歌っているのを聴いて衝撃を受けたと言って帰って行った。そして暫くして広島フォーク村が自主制作LP『古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう』(1970年)を作った。それには吉田拓郎なども参加して話題になっていた。日本語で歌ったフォークである。九州からは武田鉄矢の『海援隊』の噂を耳にするようにもなっていた。

 加川良が『音楽舎』にサウンドディレクターとして入社してきたのはその前後だったと思う。最初は西岡隆さんがパーソナリティーを勤めるラジオ番組などを作っていたが、自分でも歌を作り始めていた。そのすぐ後くらいであったと思うが、バンジョーの岩井宏さんがURCレコードの制作スタッフとして加わった。そして加川良としょっちゅう6階。その頃には山安ビルの6階をフォークギター教室のために借りていて、その6階に行っては二人で音楽の練習をやっていた様だ。5階には相変わらず山口組が入っていた。やがて加川良は自作の歌『教訓Ⅰ』など引っさげて、岩井宏のバンジョーと高田渡のフラットマンドリンをバックに中津川フォークジャンボリー(1970年)で飛び入り参加して衝撃なデビューを果たした。音楽舎からは高橋照幸の『休みの国』や、細野晴臣、大瀧詠一、松本隆などの『はっぴいえんど』が新しい音楽を作り出していた。その他に斉藤哲夫、しば、『やまたのおろち』『ザ・ムッシュ』『バラーズ』『ロック・キャンディーズ』などが居た。大塚まさじがミナミに喫茶『ディラン』を開店させてそこを拠点に歌い始めていた。

 音楽舎所属のグループのそれぞれが単独でLPを作ったりもしていた。早川義夫はピアノの弾き語りでソロLP『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』だったか、を作った。中には『サルビアの花』なども挿入されていた。西岡隆も独自のLP『溶け出したガラス箱』をつくった。フー子ちゃんも『私のブルース』というソロLPを作った。フー子ちゃんのLP『私のブルース』は廃盤となっていたが、2003年に別のレコード会社から再販されているとも聞いた。

 『フォークリポート』には竹中労、片桐ユズル、三橋一夫、小倉エージ、田川律などが執筆していた。他にも居たと思うが、手元に資料がなく思い出せない。そんな人たちが社長の秦政明さんにいろいろと進言するのだろう。その他にもURCは新しい『童謡』や古い落語の『春話』、たいこもちの『桜川ぴん助』などの収録レコード、奇術の引田天功やイラストレーターの横尾忠則のレコードなども作っていた。その以前から音楽舎には放送禁止の曲が多くあったが、そんな物も積極的に作っていた。僕も博多まで『博多淡海』の取材で同行したこともある。URCレコードがなくなってしまった後、今はその様なレコードが希少価値としてプレミアムが付いているとも聞いた。

 その頃、九州出身のマネージャーの高木さんが九州には武田鉄矢と『海援隊』という面白いグループが居る。と進言していたし、僕も神戸のコンサートで高田渡と『グループ愚』の前座として出ていた、もんたよしのりが面白い声をしているし、歌も上手いと進言したが、既にその頃は音楽舎の余力は無くなりつつあったのだと思う。

 それより前だったと思うが、北田辺の駅ホームで『ロック・キャンディ-ズ』の谷村新司と会ったことがある。「君、なんでこんな所に居るねん?」と話しかけたら「ここが実家ですねん」との答えだった。僕はフォークリポートの編集をしていて新人を紹介するページなどもあったけれど『ロック・キャンディーズ』はその頃、『ママス・アンド・パパス』や『カーペンターズ』などを日本語に訳して歌っていたのだと思う、未だオリジナル曲がなかったので、それ以上、話はしなかった。後で知った話だが僕と谷村新司は同じ小学校、中学校出身で、実家も5分と離れていない場所にあるらしい。『ザ・ムッシュ』のリードボーカルの山本雄二は僕の浪速高美術部の2年後輩の山本雅敏が後に「僕の弟ですねん」と言っていて、皆意外と身近なところに居るんだなと感じていた。

 やがて『音楽舎』は大きくなりすぎてがたがたしていた。岡林信康やフー子ちゃんが体調を崩しコンサートをドタキャンしたりと言うこともあった。でも秦社長はそう言ったことに対して寛容な人であった。

 そして『音楽舎』の時代は終った様にも感じていた。僕はフォークリポートのレイアウトから下り、本格的に渡航の準備に入った。編集長の村元武さんもフォークリポートから退き『プレイガイドジャーナル』の出版準備をしていた。後に話題になった『ぷがじゃ』である。今も『雲遊天下』を出版しておられるし、僕も長く今もお付き合いをさせてもらっている。

 フォークリポートは中川五郎が引き継いだのだと思う。それが『フォークリポート裁判』へとなっていった。僕はそれより以前に高校の美術部の同級生の柴村夢二がデザイン学校を卒業していたのを知っていて、社長の秦さんから「東京でもアートディレクターが居るねんけど、誰か知らんか」と言われていて、柴村夢二を紹介して入社していたのだが、その後、『フォークリポート』は東京制作へと移って、柴村夢二が引き継いでいた。

 1971年、僕は事務所も大学も辞め岡本睦子と結婚し、一緒に海外へと旅立った。新潟港から大荒れの日本海を一晩揺られ、ナホトカ港、夜行列車でハバロフスク、プロペラ機でモスクワ、モスクワからストックホルム。その片道コースがその当時としては一番安上がりのヨーロッパ行きコースであったからだ。

 ヨーロッパを3ヶ月ほどで見ながら通過して、インドで暮らす計画を当初は持っていた。でもストックホルムを拠点にヨーロッパ滞在は4年余りになり、それからニューヨークへ渡り、1年を過ごし、南米を1年かけて旅をした。結局インドには行かずじまいで、6年後に帰国した。

 日本に帰国した頃にはあの頃、未だアマチュアでやっていた様な人の時代になって東京ドームなどで何万人を集めるコンサートなどをやっていた。時代は代っていた。谷村新二は『ロック・キャンディーズ』ではなく『アリス』である。そして武田鉄矢の『金八先生』である。

 『五つの赤い風船』は1972年に解散していた。僕がスウェーデンに暮らして2年目だ。フー子ちゃんと東祥高が結婚して抜けたからだと思う。フー子ちゃんは藤原姓から東姓へと代った。その後子供が2人生れたと聞いた。

 1972年にはストックホルムの我家に高田渡が訪ねてくれて、何日かは僕の家に雑魚寝して泊まったが『五つの赤い風船』が解散したという話は聞かなかった。多分その後のことだろう。その時にもう一人僕の知らない人が居たが、多分、若林純夫だったのかも知れない。余談だがストックホルムのその後には『休みの国』の高橋照幸がちょうど居て、親交があったし、ジャックスの谷野ヒトシとも2~3度会って情報交換などもした。

 僕は1977年だったと思うが、帰国して宮崎の義両親が経営するドライブインをやり始めていた。両親とも学校の先生だったが、ドライブインと別の場所でビジネスホテルを経営していて、手を広げすぎたのかもしれない。僕たちが手伝うことになった。僕は暫くはそのままの形で営業をしていた。鯉料理からトンカツ、うどん、ラーメンまで何でもある店である。やがてドライブインを改装し、ジャズとカレーの店に形を代えた。カレーはインドへの夢が未だ吹っ切れないでいたのだろう。ジャズの合間にラビ・シャンカールを掛けたりもした。

 僕が帰国した頃、東祥高は一人でシンセサイザーを駆使した新しい音楽を作り出していた。そしてそのCDが話題になり、NHKの人気番組『国宝への旅』のテーマ音楽として取り上げられた。僕も楽しみで毎回その番組は観ていた。新しさもありなかなか美しいメロディでその番組にはぴったりあって注目を集めた。フー子ちゃんも子育てに専念していたのだと思う。

 店は13年間続けたが、海外への夢は未だ消えていなかった。そろそろ店をやめてどこか海外に移住して本格的に絵を描きたいと思っていた。そしてその計画を練り始めていた。そんな時、突然、加川良が尋ねてくれた。会うのは20数年ぶりくらいであったと思う。九州ツアーの途中で立寄ってくれたのだ。店を見てこれならライブコンサートが出来ると思ったのだろう。実際に店だけで50坪あったし、敷地は1500坪があった。暫くしてライブの話があった。ジャズ好きの店の常連客などに協力してもらったせいもありライブ『加川良&村上律』は満席になり地元の新聞でも取り上げられ成功を収めた。その以前から九州での音楽のプロモートなどをしていた日南に住む河野好博さんが時々来ていて友人になっていた。河野好博さんの本業はブティックを数軒経営していたが、九州でのソニー・ロリンズや、ビル・エバンス、キース・ジャレットなどのジャズ、そして『上々台風』や林英哲の『鼓童』などの野外コンサートなど大きなイヴェントなども手がける人であった。その彼が僕の店でもライブをやる気があるのならと思ったのだろう。『高田渡』をやらないか。と電話で言ってきた。僕は店をやめてポルトガルに移住することが具体化していたが、閉店記念に『高田渡』もいいな。と思って、二つ返事で承諾した。チケットは売れなくても、今までお世話になった常連客や地元の新聞記者たちを招待して出来ればいいと思ったが、予想以上に満席になりそれも成功を収めた。

 高田渡と会うのはストックホルム以来、かれこれ20年ぶりである。ライブ当日、開演時間になってプロモーターの河野好博さんに連れられて店に入ってきた高田渡は僕の顔を見て全く驚いた様子でカウンターの中に居る僕に近づいて来て目を丸くしていた。そしてライブの話の中で、僕との高石事務所時代の想い出話やストックホルムでの話などを交えたライブとなっていた。

 その後の話でプロモーターの河野好博さんは「九州ツアーの中で、君の店でやったライブが一番良かったよ」と言ってくれた。そしてそのプロモーターの河野好博さんは出来ることなら『五つの赤い風船』をやりたいとも話していた。

 その後、僕はインドではなくポルトガルに移住して本格的に油絵を描きはじめた。そして毎年1度は帰ってきてどこかここかで個展をやらせてもらっている。

 大阪での個展で、西岡隆さんとは久しぶりにお会いした。個展会場でオープニングの挨拶をして頂いたこともあるし、画集に推薦文を書いてもらったこともある。そして新たなメンバーで『五つの赤い風船』をやっているとのことである。

 東京の青山でも個展があって、その時には千葉に嫁いでいるイノコがご夫婦で来てくれた。全くの久しぶりであったが、イノコは変らなく魅力的であった。逆にイノコは「街ですれ違っても解らなかっただろうね」と僕の変貌ぶりに驚いていた様だ。

 フー子ちゃんは子育てもひと段落しその頃の心情の歌を作詞作曲し、CD『今日はいい天気』をつくった。大きなコンサートホールでソロコンサートもしたそうである。でも残念ながら『五つの赤い風船』に戻ることはなかった。

 僕は2年に1度か3年に1度、高島屋で巡回の個展をやらせてもらっている。大阪、岡山、米子が中心だが横浜や岐阜と言った時もある。大阪での個展には西岡隆さんは必ず来てくれるし、加川良や西岡恭蔵も来てくれたこともあった。そしてメガネは必ず来てくれる。息子の祥平くんも恋人を伴って来てくれたりもした。何年前だったか、メガネとフー子ちゃんも一緒でしかもお嬢さんのあさひさんも一緒に来てくれたことがある。そして新しいCD『今日はいい天気』をプレゼントしてくれた。CDはお嬢さんのイラストで息子さんのタイトル文字だということだった。演奏は東祥高のシンセサイザーである。家族で作ったCDと言うことになる。フー子ちゃんにサインをお願いした。フー子ちゃんは『ひとしくんへ』と書き添えてくれた。思えば僕たちが初めて出会った頃はフー子ちゃんやメガネの息子や娘さんよりも若い年代であった。そう考えると長い付き合いである。

 

CD『今日はいい天気」の歌詞カード表紙面

 僕はCD『今日はいい天気』をポルトガルまで携えてきて今も時々は聴いている。明るくて爽やかな曲が多くて僕も自然に「今日はいい天気、甘い花の香りのプレゼント。きょうはいい天気、神が与えてくれた休息の日」などとフー子ちゃんの歌をしらずしらず口ずさんでいる自分に気付く。

 その後も、フー子ちゃんはメガネと必ず一緒に来てくれた。西岡隆さんも来てくれたが残念ながら西岡隆さんとフー子ちゃんが一緒になることはなかった。

 メガネと一緒に来てくれた2年後だった。フー子ちゃんは珍しく一人でやって来てくれた。僕は「きょうは一人」と言った。そして大阪高島屋のアートサロンで長い間僕と話し込んでいた。もしかしたらフー子ちゃんと二人だけでそれ程長く話すのはそれがはじめてのことだったかも知れない。僕と初めて会った高校生の頃の想い出話など思いも拠らなかった話。それから『五つの赤い風船』の頃のはなし。

 そして「CD聴いてくれた。どうやった。」と聞かれた。僕は只個人的な趣味で「もっとアコースティックな方が良かったんとちゃう」と言った。それとどうしても西岡隆さんとのコーラスのイメージが強いので「この曲をコーラスで聴きたかったな」とも言った。

 フー子ちゃんは「あの頃の関西フォークは左翼思想の人たちのもので、私には戦争がどうのこうのは歌えない。」と言う話をしだした。それが『五つの赤い風船』を抜けた理由と言いたかったのだろう。僕はフー子ちゃんと話すのは嬉しかったし楽しかったけれど、個展の会場に居るわけで他のお客さんのことも気になるし、そんなフー子ちゃんの話を真剣に受け止めることが出来ない環境であったと思う。個展が終ってからゆっくり話を聞いてみるべきだったかな。と今になって思う。そして、又、話す機会はあるだろうとも思っていた。

 僕たちの高校時代は60年安保と70年安保の丁度中間にあたり、あまりデモに参加したとか、の無かった時代だ。僕の兄は60年安保で盛んにデモに参加していたし、妹は70年安保でデモに参加して、機動隊から警棒で殴られて痣を作ったなどと言っていた。が僕たちの時代はその端境期であった様な気もする。或いは公立高校と違って、私立高校にはその様な盛り上がりはなかったのかも知れない。中川五郎は『受験生ブルース』を歌ったが、僕たちには受験戦争もあまり感じなかった。

 僕がストックホルムに居た頃、70年以後は安田講堂や浅間山荘事件など内ゲバへと流れは向い、難しい時代でもあった。その頃のヨーロッパには日本のニュースは全く入らなかった。ストックホルムの日本航空の事務所に1週間遅れの新聞を読みに行ったし、浅間山荘事件はパリの日本大使館でやはり1週間遅れの新聞を貪り読んだものである。

 パリに少し住んでフランス語学校、アリアンスフランセーズに通っていたのだが、同じクラスに東大の現役生が居た。「東大では授業がなく、仕方がないのでフランス語でも習おうとパリに来ている。」と話していた。

 戦争は誰もが反対だ。それを回避する方法には、人それぞれの考え方の違いがある。難しい問題を孕んでいることは確かだ。ベトナム戦争の後も、地球上では戦争や紛争の絶える事がなかったし、今現在も何処かで爆撃が続いている。人類は何処へ向おうとしているのか?と悲しくなってしまう。そしてアメリカは世界の警察を自負し、多くの戦争に拘ってきている。日米安保体制が是か非か、今の僕にも判らない難しい問題だ。

 音楽を政治に利用しようとする人は居るかもしれないけれど、音楽で政治を変えることはできない。岡林信康の『友よ』は確かにデモを扇動する力は持っていると思う。でも政治を変えることはできない。

 しかし「音楽は時代を変える力を持っている。」と僕は思う。関西フォークの人たちにはその力があった。『五つの赤い風船』にはその力があった。そしてフー子ちゃんにはその力があった。

 そのフー子ちゃんと2人きりで話した、高島屋の個展の3年後に再び大阪高島屋の個展DMをフー子ちゃんに送った。けれども来てはくれなかった。個展の1ヶ月前に亡くなっていたという話を娘のあさひさんからの僕のブログへの書き込みで知った。メガネの追悼文のブログ『哀悼 めがね』である。フー子ちゃんは不治の病、難病に罹っていた。という話も聞いた。CBD(大脳皮質基底核変性症)という難病だそうで、3年間の寝たきり介護の末、特養で静かに息を引き取られたそうだ。メガネが亡くなった同じ月、同じ年である。

 娘のあさひさんの書き込みによると、あの泉大津の豪邸も人手に渡ってしまったそうだ。

 東祥高はその1年前に肺炎で亡くなっていた。それは当時の『フォークリポート』の編集長、村元武さんがメールで知らせてくれていた。

 フー子ちゃんのCD『今日はいい天気』を作った後、別の女性ミュージシャンとの音楽つくりに熱中していて家族を省みなかったそうだ。亡くなる時もその女性ミュージシャンの下で亡くなったそうである。

 

 以下、フー子ちゃんの娘、あさひさんのブログへの書き込みを無断転載させていただきます。

 

 『 フー子こと母親は、三年間の寝たきり、難病介護のすえ、特養で静かに亡くなりました。

 父親は自分の死期をさとったとき、家を出て行き、愛人のもとで亡くなったそうで、わたしもお墓を知らないまま…

 せめて残された母親は、最期までしっかりとそばに居ようと思い、それを叶えました。

 まさかのはやいお別れで、わたしもまだ実感がありません。

 定められた宿命、寿命、ほんとうに未知のなかで、生かされているのだと思います。

 母親のことを、思い出してくださって、ありがとうございます!… あさひ 』

 

 あの大阪高島屋の画廊でフー子ちゃんが「もうそろそろ帰るわ」と言った時の淋しそうな顔とエスカレーターを降りてゆく後姿は今も僕の瞼に焼き付いている。

 『五つの赤い風船』の西岡隆と藤原秀子のハーモニーは本当に素晴らしいものであった。まだまだやれたと思う。まだまだ聴きたかった。

 そして東祥高のご冥福を祈らずにはいられない。一時は愛し合った仲であったと思う。フー子ちゃんとの間に出来た2人の子供の父親である。そして音楽という芸術に生きた、芸術を優先させた人生であったのだろうと思う。

 東祥高氏は2012年10月3日に。

 フー子ちゃん(東秀子)はその1年後、2013年11月29日に亡くなっていた。今月29日が3回忌にあたるのであろうか?

 そしてフー子ちゃん藤原秀子(東秀子)のご冥福を心よりお祈り申し上げるものである。VIT

 

 

写真は2009年5月、大阪高島屋6Fアートサロン、武本比登志個展会場にて。左から元『フォークリポート』編集長、現『ビレッジプレス社』社長の村元武さん。2017年6月1日号『村元武さんとかつ丼の話』。2014年4月号『哀悼 めがね』『むうるる』のメガネ。フー子ちゃん(東秀子)。2015年9月号『チョコレートにトウガラシ 』に登場のヨネやん(柴田米吉)。武本比登志。(撮影MUZ)

©2015  MUZVIT

藤原秀子(或いはフー子ちゃん)と、僕にとっての関西フォークの時代(上) 

 

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  フー子ちゃんが亡くなって2年が経とうとしている。僕の中でこの2~3年の間に実にいろんな出来事があり、心の整理がつかないままだが、フー子ちゃんのことについて、僕でしか知らない、或いは僕との拘りの部分だけでも書き残しておいてもよいかなと思い立ち、追悼の意味も込めて書いてみようとおもう。

 僕が藤原秀子と初めて会ったのは高校3年生になったばかりの時だ。1964年(昭和39年)であったと思う。東京オリンピックの年だ。僕と藤原秀子は同い年で、僕は浪速高校という私学の男子高で、藤原秀子は羽衣学園という女子高に通っていた。羽衣学園と浪速高校とは少し離れているが、沿線は同じ、今で言うJR阪和線にある。当時は国鉄といった。いや羽衣学園は阪和線の鳳駅から羽衣線という国鉄の支線に乗り換える。正確には東羽衣駅と言うらしい。そのあたりには南海電車も平行して走っていて南海電車は羽衣駅という。その国鉄、東羽衣駅の一つ手前に僕も子供の頃よく通った浜寺水練学校のある浜寺公園駅がある。昔は浜寺も羽衣も綺麗な海水浴場であった。大阪の近くには大浜という海水浴場があって「大浜は汚いけど、浜寺や羽衣まで足延ばしたら、そら水は綺麗やで」などと大人たちが言っていたのを覚えている。

 初めは羽衣学園に通うイノコという女性と知り合いになった。イノコの家は僕と同じ北田辺にあり、何となく顔見知りになったのだと思う。イノコには羽衣学園の中で5~6人の親しい友人グループがあった。タガヤさん、メガネ、まっさん、そしてその中の一人に藤原秀子がいた。藤原秀子という正式名は誰も使わなくて、ずっとフー子ちゃんと呼ばれていたし、僕もそう呼んでいた。

 フー子ちゃんの自宅は北田辺からはそうとう遠い、難波から南海電車に乗って堺市と羽衣も通り過ぎて、その先の泉大津にあった。今では関西空港が出来、快速列車も走りかなり近くになったが、その当時は遠く感じていたものだ。でもフー子ちゃんと初めて会ったのは北田辺であったと思う。そして羽衣学園の制服姿であった。もちろんイノコも一緒であった。その頃はいつもイノコと一緒にそのグループの誰それとは会っていた。僕は近鉄線の北田辺駅から2駅の終点、阿部野橋まで乗って、天王寺駅から国鉄阪和線で5つ目の我孫子町駅にある浪速高に通っていたがイノコとは帰りの電車で顔見知りになったのだと思う。

 イノコは魅力的な女性だが、僕からみれば大人っぽくて、事実イノコの誕生日は僕より1ヶ月早かったし、近寄りがたい雰囲気を漂わせていたが、イノコ自身はいたって気さくでさっぱりした人柄ではあった。イノコだけではなくそのグループの誰もが魅力的だった。浪速高の様なバンカラ高の僕から見れば、イノコのグループは何かアメリカ映画にでも出てくる高校生の様な、おしゃれでスマートで上流階級のお嬢様という雰囲気も漂わせていた。

 イノコと知り合う前から僕は1学年下のチコという女性と付き合っていた。そのチコも偶然同じ羽衣学園の女子高生だった。その後、イノコとチコは知り合ったらしい。チコとも天王寺駅から通学電車が同じで、その頃、時々は時間を示し合わせて通学していた。僕が我孫子町駅で先に降り、チコはそれからも暫くは10程の駅を乗らなければならない。チコは天王寺駅から快速電車で鳳駅まで乗れば早く学校に行くことが出来るが、僕に合わせて早朝に家を出て各駅停車に乗ってくれていたのだ。

 ある日、僕はその通学電車の中で、全く知らない建国高校の生徒二人から突然殴られた。前触れもなく突然。建国高校は韓国人の学校で在日の人たちが通う高校だ。浪速高校のすぐ隣にあったが、校門のせいで最寄り駅は次の杉本町駅で、彼らはもう一駅乗ることになる。僕の同級生、バンドのメンバーの森栄が他の女子高、相愛学園の生徒を見初めて僕が一緒にその女子高生に話しかけたことがある。それを建国高校の生徒が見ていたらしく、その電車の中で、僕に「その女から手を引け」という訳である。手を引くもなにも一度話しかけただけである。あらぬ濡れ衣のために殴られたのだ。それもチコと一緒の電車の中で。大勢の大人たちが見ていたが、注意する人も車掌に連絡する人誰一人として居なかった。誰もが見てみぬ振りである。そのすぐ後に僕は電車を降りなければならないのだが、チコはその建国高校の生徒と一緒に電車に残らなければならない訳である。僕はチコを連れ別の車両に移ってそこから降りた。別の車両に移ったとはいえ、怖かっただろうと思う。そして僕に対する不信感も抱いたに違いない。建国高校の生徒はボクシング部だと言っていたが、それ程パンチ力はなかった。顔が腫れることもなかったし、隈ができることもなかった。手加減をしたのかも知れない。そんなことがあって、気まずさもありチコとは暫くして自然に別れた格好になった。

 浪速高は他の高校より30分早い8時5分が始業時間になっていて、あまり他校の生徒と一緒になることはなかった。その日はたまたま彼らが早い電車に乗ったのだろう。浪速高生の中には建国高を怖がる生徒も居たが、僕は建国高を怖いと思ったことは一度もなかった。美術部の部長になってすぐに建国高校の美術部と交流を試みた程だ。

 イノコとは友達として何となくずっと付き合っていた。イノコのグループは僕から見れば皆が大人っぽかったが、フー子ちゃんだけは身体も小さくそんな感じはしなかったがお金持ちのお嬢様らしく少し近寄りがたい印象はあった。僕もフー子ちゃんも無口であったという訳ではないが2人だけで話すことはあまりなかった。

 フー子ちゃんの家は大きな紡績会社を経営していた。泉大津は古くからの紀州街道にある歴史ある町で、江戸時代から織物で栄え、その頃も大小の紡績会社があり、日本の90%の毛布を生産していた。藤原紡績はその最大手でフー子ちゃんはその社長の娘である。一度家にも行ったことがあるが、豪邸で家の中にはダンスホールもあってグランドピアノが置かれていた。

 羽衣学園は中学、高校、短大とある一環高で、いわゆるお嬢さん学校なのだと思う。イノコたちのグループは中学からの仲良しグループだった。勿論、チコの様に高校だけ通う人もいるだろうし、短大だけの人もいることだろうと思う。イノコはその後別の短大に行ったが、フー子ちゃんは短大も羽衣学園であった。羽衣学園のコーラス部は優秀で全国大会ではいつも上位であったし、生徒の中には音楽に興味のある人が多かった様にも思う。

 僕はギターが弾けなかったけれど高校3年の文化祭でビートルズをやろうということになって、その1年前からバンドを結成した。その前に体育祭があってエレキギターを抱えてビートルズとして仮装行列に参加した。イノコはそれを見て「ギター弾けるの?」と目を輝かせた。僕は弾けなかったけれどイノコは弾けるのだ。僕の家にはおんぼろのギターがあった。兄がどこかで貰ってきた物かも知れない。イノコはそのギターを使って歌を歌った。楽譜はイノコが持参していた。『ポールとポーラ』である。そして僕にそのポールの部分を歌えと要求した。恋人同士の歌だ。その楽譜は僕の家に置き忘れて帰ったが、後で見てみると、最後のページに「ふじわらひでこ」と書かれてあった。イノコはもっとギターが上手になりたいと本格的にクラッシックギター教室に通い始めていたが、仲良しグループで一番ギターが上手いのはフー子ちゃんだとも言っていた。その後、僕もその楽譜を見ながら少しずつギターが弾けるようになっていった。イノコはその後、ギター教室の生徒さんを取るまでになっていた。

 ビートルズをやるといってもレコードはドーナツ版『ラブ・ミー・ドゥー』が1枚しか出ていない時で、未だ殆どの人がビートルズの名前すら知らなかった。やがて人気は急上昇、待ちに待った初めてのLP版が発売になり、発売当日に買い求めた。『MEET THE BEATLES』である。僕たちはその『MEET THE BEATLES』のジャケットの様に黒ずくめの衣装にしたかったが、未だ町には黒いTシャツなどどこにも売られていない時代で、黒い染料を買ってきて浪速高の屋上で七輪に練炭を熾し白い体操着を黒く染めたりもしてステージ衣装を作った。

 リードギターの田中繁君もベンチャーズなら得意だったがビートルズの譜面起こしには全くお手上げだった。天王寺にあった出入りのトミタ楽器店での繋がりで田中君の知り合いの西岡隆さんに譜面起こしをお願いすることにした。歌が上手い人だからということで歌唱指導もついでにお願いし、浪速高校まで出向いて頂いた。

 僕は美術部でその部長も勤めていたのだが、講堂での歌唱指導の後で美術部室にも案内し見てもらった。丁度私学展の前で部室には大作が部屋一杯に並べられていた。その頃は大きい絵を皆が描いていてベニヤ板2~3枚が普通であった。そんな絵が大小10点程も並んでいるのだ。その中には、後の文章に出てくる、上久保良文、柴村夢二、小笠原ひさし、加藤正雄、はるき悦巳、松岡豊などの作品も含まれていた。もちろん僕の絵もあった。そして浪速高校は私学展ではいつもトップクラスの成績を挙げていた美術の名門校ということになっていた。西岡隆さんは少々驚かれた様子だった。

 それからは僕とは意気投合し親しくご自宅などにもたびたび遊びにいっていた。西岡隆さんはアルバイトでデザインの仕事などもしておられたし、ご自宅で抽象画を描かれていて100号ほどの大きな作品も立てかけられてあった。

 行くといつも歌を歌って聞かせてくれた。たいていがハンク・ウイリアムスやカーター・ファミリーなどを英語で歌っておられてギターは勿論、手作りのバンジョーやフィドロ。日本橋の古道具屋で見つけてきたというオートハープなどもご自分で修理し楽器は何でも出来る人だった。そしてレコードでは中東の音楽やインド音楽。ジャズはその前から聴いていたが、ラビ・シャンカールを西岡さんのお宅で初めて聴かせてもらって衝撃を受けた。

 僕は西岡隆さんの歌を一人で聞くのは勿体ないと思い。イノコやメガネなど女の友達を連れて行くことも多くなっていた。西岡隆さんは女の子にも判りやすいようにと思われたのだろう、日本語の歌も作られた。それが『遠い世界に』や『雨よいつまでも』である。恐らく『遠い世界に』を初めて聞いたのは僕である筈である。僕は西岡隆さんの影響を多く受けていると思う。インドへ行きたいと思ったのもその頃だし、海外への夢を抱いたのも西岡さんの影響がかなりの部分であったのだと思う。

 文化祭の当日は教室の一つを準備室に貰っていた。チューニングしたりする場所にもなる。そこで出番を待つ間ミニコンサートが開かれた。イノコもエレキギターの弾き語りを聴かせてくれた。そしてフー子ちゃんも小さな身体に重いエレキギターを抱えての弾き語りを聴かせてくれたが、アダモなどなかなかのものであった。

 文化祭も終り、高校も卒業ということになった。僕はバンドも解散して就職もしないで進学もしないで、宙ぶらりんの状態でいた。そしてアルバイトにジャズが好きだったこともあり道頓堀のジャズ喫茶『ファイブ・スポット』でバーテンダーの仕事をしていた。

 かつてのバンドのリードギターの田中繁が「きょうダンスパーティで演奏するから仕事がひけてからでも歌いに来ないか?」と誘ってくれた。御堂筋に面した本町あたりのビルの中だったと思う。そのバンドのサイドギターはイノコがやっていた。僕は歌ったが久しぶりだったし、イノコからは「めちゃくちゃやん」と言われてしまった。

 そのエレキバンドの合間に当時流行りかけていたフォークバンドの演奏があった。PPMスタイルのフォークバンドで、ボーカルがフー子ちゃんだった。そしてその時初めてお会いしたのだが、中川砂人さんが居た。

 僕は「へー、こんなんやってるの~。こんなんやったら、上手い人知ってるわ。」と言ったのを覚えている。フー子ちゃんと砂人さんは「その人、ツーフィンガーピッキング出来るかな?」と尋ねてきた。もう一人メンバーが欲しいと思っていたのだろう。僕はツーフィンガーピッキングがどんなものか知らないが「出来ると思うわ。その人一人でPPMの二人分の音出しはるわ」と言った。そしてその後、西岡隆さんを紹介したことになる訳であるが、そのあたりの記憶は定かではなく、或いはイノコが、或いは田中繁が、或いは僕が西岡隆さんにひき合わせ紹介したのだと思う。

 それからのことは知らないのだが『五つの赤い風船』という名前でヤマハライトミュージックコンテストに出場して2位を獲得したという話を後になって聞いた。『五つの赤い風船』というネーミングはフー子ちゃんだそうだ。ちなみにその時の1位は早川義夫の『ジャックス』である。1967年(昭和42年)のことである。フー子ちゃんや西岡隆さんと知り合って3年が経っていたことになる。

 僕は大阪芸大油彩科に通っていた。『五つの赤い風船』はプロとしての活躍が始まっていた。

 メガネはブティック『むうるる』を始めていて、その何かのパーティーだったと思う。『五つの赤い風船』が少しだけ歌った。そこにチコが来ていて、久しぶりにあった。チコは女性だけのエレキバンドをやっている。と言って名刺をくれた。名前の横にドラムスと印刷されていた。パーティーが終ってチコとも一緒に『五つの赤い風船』を新大阪まで見送りに行った。

 その時、西岡隆さんから「五つの赤い風船に入れ」と僕に誘ってくれたことがある。僕は少しギターが弾けるようにはなっていたが、プロではとても通じないし、歌も下手であると自分では思っている。フー子ちゃんはチコとの再会を喜んで話し込んでいた。西岡隆さんは「ギターでもバイブでも歌でも僕が教えるから」というはなしをしてくれていた。砂人さんは僕がどの程度弾けるのか随分と気にしていた様だ。もし僕が入れば、今後、自分とどんな音楽が作り出せるのかに拘ってくるのだから。

 僕は全く自信がなかったのが最大の理由だが、冗談で「僕は絵描きにならなあかんから歌なんか歌てられへんねん」と言って断わった。随分と失礼な言い方だったと思うが、僕と西岡隆さんはごく親しい間柄であったし、何でも言える年頃でもあった。それに僕は大阪芸大に入ったばかりであったのだ。

 チコは「やったらええのに」と見送った後に言ってくれたが、僕には無理な話であった。それからチコと一緒の電車で帰って別れたが、その後は何十年経った今も出会ったことはない。チコのドラムスも聴いてみたかったが、結局、聴く機会は訪れなかった。

 暫くしたある日、西岡隆さんから別の話があった。「事務所で雑誌のレイアウトの仕事をせえへんか」という話だ。

 『五つの赤い風船』は高石事務所に所属していたが、そこが全国から会員を募って『フォークリポート』という雑誌と『URC』というレコードを配布するという事業が始まっていた。発起人の一人の松山猛は東京での魅力的な仕事の誘いもあったのだと思う、フォークリポートの創刊号を終えた時点で東京に行ってしまったのだ。(これは僕が思っているだけで真実は違うかもしれないが)それで僕に白羽の矢が立ったという訳である。「歌はあかんでもレイアウトなら将来の美術にも役にたつやろ」と言って西岡隆さんは勧めてくれた。僕はやはり自信はなかった。とにかく未だ僅か19歳かそこらの何も知らない年代である。でも歳は関係がない。才能とやる気が問題なのだ。現に松山猛さんも同じ年齢だと思う。それにしても今から思えば京都フォークには才能豊な人が多かった。

 でも面白そうだし、西岡隆さんは「僕が教えるから。言う通りにしたら出来るがな。」ということで引き受けることになった。大学に行きながらである。

 最初の仕事は先ず印刷会社を探すことであった。創刊号はオフセット印刷で作られていたが、西岡隆さんはそれが気に入らなくて、もっと本格的な凸版印刷が望ましいと考えていた。僕は自宅の近所にあった、印刷会社が業界新聞や書籍などをやっていて、凸版印刷だし、そこなら出来ると思い、その会社名と電話番号を西岡隆さんに伝えた。そして『フォークリポート』の印刷はその後、東洋印刷製本と決まった。

 「僕が教えるから」と言った西岡隆さんはそれどころではなくなり、猛烈に忙しく全国の労音とも結びついて、それこそ年間200回ほどのコンサートである。とにかくあの頃の関西フォークは破竹の勢いで忙しくなっていた。

 一方、労音は分裂をきたしていた。労音で冊子つくりなどの仕事をしていた、村元武さんが『フォークリポート』の編集長として来てくれた。そして写植の張り方などの基礎から校正の仕方などいろいろと教えてくれて僕は本当に助かった思いだった。その頃に学んだことは僕のその後の人生にとって大きな力となっているのだと思う。イラストには西岡隆さんの友人でイラストレーターの毛利さんと僕の友人の加藤正雄に1ページずつはお願いしていたが、それ以外のイラストと表紙は僕がいろんな名前を使って一人で幾つもをしていた。

 その他には高校の美術部の仲間達にも1回ずつくらいはイラストを描いてもらって協力してもらった。上久保良文はその後、SFファンタジーな絵を描くイラストレーターで今も人気が高く、AUやテイジンなどのカレンダーにも使われている。柴村夢二は僕の推薦で『音楽舎』東京事務所のアートディレクターをしていたが、退いた後は自分でデザイン会社を設立して今も活躍中である。小笠原ひさしはその後、1級建築士となり神戸に事務所を構えた。そのあたりにたくさんの家を建てたが、阪神淡路大震災で彼の手がけた建物は一軒も倒壊しなかったそうである。加藤正雄はその後、東京に出て、月刊『プレイボーイ』のイラストなどを描いていたが、その後、大阪に戻り、郵便局や寺社などのパンフレットデザインを手がけ、最近では地元、工場地帯などのスケッチを描き、独自の世界を展開、それが『ダダダダダダダダ、スケッチだ!』という画集になって出版されている。はるき悦巳は漫画家となり『じゃりん子チエ』はあまりにも有名だが、その他に『日の出食堂の青春』という漫画も描いたが、それがNHKの銀河テレビ小説でドラマ化され、その音楽は偶然にも西岡隆さんが担当した。二人は僕の個展会場で偶然にも会い、挨拶を交わしていた。何れもフー子ちゃんを直接、間接に知る人物たちで、一度以上は『フォークリポート』にイラストを寄稿してくれた人たちである。

 『フォークリポート』の写真には大学同級生の岡本睦子にやってもらった。勿論、校正は村元武さん、岡本睦子、僕の3人全員であたった。1969年、1970年の頃である。

 事務所は大阪北区兎我野町、山安ビルという6階建ての小さなビルの3階にあった。隣にはホリプロが入っていたが、すぐに何処かへ引っ越して行った。その部屋も高石事務所が借りることになり、大きいほうが高石事務所本体で小さい方、元ホリプロの部屋に僕たちの制作部、アート音楽出版が入った。

 1階には喫茶店があり、ビルの5階には山口組の事務所があって、ビルの正面から仰ぎ見ると金色で菱形の代紋が夕陽に輝いていた。高石事務所の出入りは多かったけれど、山口組はそれほどでもなく、あまりエレベーターなどで会うこともなかったが、たまたま一緒になったりすると、3階のボタンを押すことは儘ならず、途中下車は許されず、5階まで先ず上がって、組員の方が下りてから3階に下らなければならなかったということもあった。僕は肩の下までの長い髪の毛をしていたのだが「髪の手入れ大変やろ」「いえ、それ程でも」などと会話があって、5階で組員の方が降りるときにニャッと笑顔を見せ「ほんじゃ、悪いの~」と田中角栄の様に片手を挙げて降りていった。「いえ、どういたしまして。お大事に」と僕は思わず言ってしまったが、3階のボタンを押して降りるエレベーターの中で「お大事に」はまずかったかな。などと考えたものだ。まあ同じビルの住民に手荒なことをする筈もなく怖いこともなかったが、口応えなどは決して出来ない雰囲気はあった。

 そのあたりには小さな雑居ビルが沢山あって、1階は食堂や喫茶店、そして個人商店など、上階に小さな事務所ばかりがある様な場所で、すぐ前にはお寺、太融寺の長い塀があり、裏道などに入ればラブホテルも点在していて、その先に毎日放送があった。兎我野町というくらいだから、江戸時代にはウサギが我が物顔で走り回っていた原っぱだったのだろう。

 新宿フォークゲリラという運動があったが、大阪でも大阪梅田地下街がその舞台となった。その大阪梅田の地下街を上がると曽根崎警察があるが、そもそも曽根崎などは、かつては淀川の河口に広がる葦の生い茂る湿地帯であったのだろう、曽根崎心中の舞台である。高石事務所はそれから5~6分歩いたところにあった。大阪梅田地下街を上がり、お初天神通りに出てすぐに左に折れ、細い路地に入ると10円寿司などの小さな飲食店が並ぶ、それが切れたあたりから左側に太融寺の塀があり、不等辺な四差路の角に『高石事務所』の山安ビルがあった。

 僕たちが子供の頃は大阪駅の正面、阪神百貨店の西側や南側などには未だ、闇市の名残があって、バラックの飲み屋などがひしめいていた。僕が『高石事務所』に通いだした頃も大阪万博を前にして、工事中が多くて、ところどころ板塀で囲ってあって、そんな板塀に僕のデザインのポスターがべたべた張られていた。

 そもそも高石事務所は秦政明という社長とその従兄の秦晋一郎という経理が経営をしていた。秦さんはジャズやその他の音楽のプロモートを生業にしていた会社である。僕が入る前にはジョン・コルトレーンやキャノンボール・アダレーなどのジャズの大阪公演や美空ひばりなどもやっていた。ジャズから演歌までである。ところが一度ドタキャンをしでかしたらしく、その失敗で日本のメディアから総すかんを喰らったことなどもあり、難しい立場にもいた。

 秦社長は阪大出身であり、学生時代は阪大の全学連の委員長をしていた人だ。多分51年の新安保闘争の時代である。そしてグリークラブにも席を置いていた。音楽が根っから好きで解る人ではあった。

 そんな人がやがて高石友也と結びつき『高石事務所』となるわけである。高石友也は京都フォーク連盟とも結びつきが強かった。フォーク・クルセダーズが解散記念に300枚だけ自主制作LPレコードを作った。その中にあの『帰って来たヨッパライ』が入っていた。僕の前任の松山猛の作詞である。それがラジオ関西を中心に爆発的なヒットへと繋がった。ヒットと同時にドーナツ版の製作へとなって、プロダクションは高石事務所となった。自主制作時の『帰って来たヨッパライ』には端田宣彦は入っていなかったのだが、そのドーナツ版から参加することになって、その当時としては史上最高の売り上げを記録する大ヒットにまでなった。事務所に入る印税も破格であった筈だ。そして秦社長のプロダクションは息を吹き返したのだ。

 プロダクションは高石友也、フォーク・クルセダーズの他に、岡林信康、ジャックス、高田渡、五つの赤い風船、中川五郎、六文銭、岩井宏、遠藤賢司、赤い鳥、豊田勇蔵、中山ラビ、ひがしのひとし、フォーク・キャンパーズなど多くのミュージシャンを抱えることになった。そして労音がその左翼的音楽の関西フォークを全国に回すことになり、ミュージシャン達はみるみる忙しくなっていった。

 フォーク・クルセダーズも『帰って来たヨッパライ』の次に同じ自主制作LPに入っていた『イムジン川』を発売しようとしたが、韓国の方から待ったが掛かって寸前で発売中止となった。それが『悲しくてやりきれない』に繋がった。詩はサトウ八チローで曲が加藤和彦である。その後は北山修と加藤和彦のコンビでヒット曲は次々に生み出された。

 フォーク・クルセダーズは元々解散をしていたグループだ。メンバーの一人、北山修は医科大学の学生だった。1年だけという約束でプロ活動をしたが、正式に解散となった。端田宣彦は引き続き『シューベルツ』を結成、『風』が大ヒットとなった。シューベルツは『クライマックス』と『ジローズ』に枝分かれした。そしてクライマックスは『花嫁』で、杉田次郎の『ジローズ』では『戦争を知らない子供たち』でやはりヒット。(実は杉田次郎はシューベルツに入る前はジローズをやっていて戻っただけ。)全てがメジャーヒットへとなり。とにかく破竹の勢いは止らなかった。

 米ソの冷戦下、アメリカではケネディ大統領が月への夢を乗せて1961年に『アポロ計画』を発表。月面到着を見ないまま、1963年11月22日、ダラスで暗殺され、その生々しい映像が世界中に放送され衝撃を与えた。その翌年、公民権運動の黒人指導者、マルティン・ルーサー・キング牧師にノーベル平和賞が授与されたものの、4年後の1968年、暗殺される。そして1969年アポロ11号が月面到着を成功させる。がその前から、アメリカではベトナム戦争が泥沼化し、ジョン・バエズ、ブラザース・フォー、キングストン・トリオ、PPM、ボブ・ディランなどのフォークブームが起こっていた。そしてそのスタイルがそのまま日本のマイク真木、森山良子、加藤登紀子へと繋がっていたのだと思う。そして京都ではフォーク・キャンプが盛んに音楽活動を始めていた。そんな時、ヤマハ楽器がフォークギターを製作するのと同時にヤマハライトミュージックコンテストを行ったのだと思う。アメリカでは『ウッドストック・コンサート』が大きな話題となり、日本でも何万人も集める『中津川フォークジャンボリー』(1969年)などが実現していった。出演者はその頃は高石事務所から『音楽舎』へと名前が代っていた『音楽舎』のミュージシャンが中心だった。

 僕は音楽舎の中でアートディレクターとして働いていたが、事務所は関西フォークの他に従来からの外タレや演歌のプロモートなども未だしていた。その中にはベンチャーズや藤圭子などもあって、僕もそのポスターやちらしのデザインをしたりもしていた。とにかく『早い安い』(何かクリーニング屋のキャッチフレーズみたいだが)をモットーにデザインをしていたものだから、今から考えると良いデザインのものはひとつもなく、(言い訳に過ぎないのだが)大阪の街にべたべたと僕のデザインのポスターが氾濫していて、僕はその前を通るたびに恥かしい思いをしていたものだ。しかし、経理の晋ちゃん(秦晋一郎さん)からの信頼は厚いものになっていた。

 『五つの赤い風船』のメンバーとはあまり会うこともなかった。お互い忙しすぎたのだろうと思う。勿論、西岡隆さんやフー子ちゃんの活躍はまぢかに見てはいたが会うことは殆どなかった。

 時々は、コンサートの舞台の袖などですれ違って一言二言、フー子ちゃんとも言葉を交わしたことはあった。ジャックスの舞台の袖で「ひとしくんジャックス好きやろ」「ええな~」とか、岡林信康の舞台の袖で「岡林さんは歌が上手いね~。演歌なんか歌わしたら絶品やと思うわ」「僕もそう思うわ」などと他愛もないことだ。一度、五つの赤い風船の楽器運びをかって出たこともある。山口市までの国道2号線を往復クルマの運転をした。宿に着くと浴衣姿の西岡隆さんが古典落語を皆に聞かせていた。何でも出来る人である。

 僕は『五つの赤い風船100曲綴り』と言う楽譜集の制作に携わった。その準備中、たまたま五つの赤い風船のメンバー全員が事務所に来たことがある。皆で山安ビルの屋上に上がってもらって写真撮影を行った。小雨が降っていて傘を差した。それをその『五つの赤い風船100曲綴り』の表紙に使った。フー子ちゃんのステージ衣装はメガネが全部作っていると言っていたが、街歩きでも使える服装であった。

 事務所の中では、僕とフー子ちゃんが以前からの友人であることは誰も知らなかったと思うが、フー子ちゃんの歌の上手さと穏やかな人柄は評判で、秦社長も「フー子ちゃん」などと親しみを込めて呼んでいたのが僕も嬉しかった。

 関西フォークが全盛期には『アングラ音楽祭』というのもやったが、大阪では『メッセージコンサート』と銘打って音楽舎の1~2組と今後有望なアマチュアバンドを数組でコンサートが開かれていて『五つの赤い風船』の前座に谷村新司の『ロック・キャンディーズ』や『ザ・ムッシュ』などを加えていた。そして加藤登紀子も音楽舎と行動を共にしたりしていたこともあり『メッセージコンサート』に出演したこともあるし『フォークリポート』にも寄稿してもらったこともある。一度、編集長の村元武さんと加藤登紀子の楽屋に原稿を受け取りに行ったことがある。僕は付いて行っただけだから別に話はしなかったが、にこにことしていたのだろう。加藤登紀子も笑顔で返してくれたのが印象的であった。僕は加藤登紀子の文章のタイトルバックに1輪のバラを描いた。あまりスペースがなかったのだ。加藤登紀子は1987年『100万本のバラ』を歌った。10年ほど経過して、たった1輪のバラが100万本に増殖した。(下へ続く)

 藤原秀子(或いはフー子ちゃん)と、僕にとっての関西フォークの時代(下)

 

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 数年前までは「3つ買って支払いは2つ分」という広告が良く目に付いた。

 牛乳を3リッター買って、支払いは2リッター分だから少し徳をした気分になる。

 でも要らなくても3つも買わされるのだ。

 

「LEVE3PAGUE2」(ワインが3本で2本分の支払い)の広告

 「2つ買って支払いは1つ分」というのもあった。半額になる訳だから随分とお得な買物となる。

 それを知らなくてそういう商品を選んだならば1つだけなのに2つ分の価格を支払わされる羽目になる。1つだから半額ならば良いのだが、1つで1つ分の支払い、だから普通の筈だが損をした気分になる。

 歯ブラシが必要になり買った。その商品は「LEVE 2, PAGUE 1(2つ買って支払いは1つ分)」という商品だったのだが、それを知らなくてそのままレジに並んだ。レジ係がレジを打ちながら「これは2つでも同じ値段ですよ。どうしますか」という。急いで歯ブラシ売り場に引き返してもう一つを持ってくれば良いのだが、レジには後ろにたくさんの人が並んでいる。僅かなことで時間を取らせるわけにもいかない。安い値段だし、まあいいか。と思って「1つだけでいいです」と言ってしまったが、随分と損をした気分だ。そして歯を磨くたびにそれを思い出す。もうそのスーパーでは買物は控えようとも思ってしまった。

 そんなことを思った人も多かったのかも知れない。その制度は飽きられた様で、最近は「3つで2つ分」の広告はあまり見かけない。

 と思っていたが、きょうスーパーでよく見てみると未だやっていた。パスタを3袋で2袋分の支払い。家に帰ってから広告をよく見てみるとまだまだやっている。ワインが6本で5本分の支払い。ピッツアが2枚で1枚分の支払い。シャンプーが2本で1本分の支払い。猫用ペットフードが8缶で6缶分の支払い。「LEVE 8, PAGUE 6」となる。

 

「パステル・デ・ナタ」が8個で6個分の支払いの広告

 大阪の新聞ちらしでは「1円」などという広告がある。例えば1袋150円ほどもする乾燥ワカメがたったの1円になる。その日によって品物が違って、鶏卵1パックの時もあるしカレールーの時もある。ただし合計1000円以上の買物をしなければならない。そしてお一人様1個である。1000円以下ならば通常料金になる。2個目からも通常料金になる。新聞チラシにボールペンで丸く囲んで1円につられ大阪のおばちゃんたちは遠くまでママチャリを走らせる。

 

コンチネンテの広告ちらし。何れもA4サイズで36ページ。右は新学期文房具特集。左は普通の食料品。

 僕は子供の頃、母に連れられてよく買物に行った。北田辺の駅周辺に商店街と公設市場が2つ、それに光商店街というのもあった。駅に向って最初に光商店街があり、往きにはそこは素通りをする。駅の踏切を渡ればずっと商店街になっていて野菜や魚などを見ながらやがて公設市場に入る。ひと回りするころには買い物籠もかなり重くなっている。子供の力でも母にとっては有難かった筈だ。そして再び踏み切りを渡って帰りがけ光商店街の入り口にある豆腐屋で1丁の絹こしを買う。そこの威勢の良い老女主人は子供好きで子供が「おばちゃん、絹こし1丁ちょうだい」などと言うと、うす揚げ1枚のおまけが付いた。母もそれを知っていて、僕を買物に誘うわけである。

 北田辺周辺は今ではすっかり寂れてしまって当時の面影はない。踏み切りもなくなって電車は高架になった。そこに小さいコンビニが出来ていて、そこだけはお客の出入りが多い。光商店街はマンションに建て替えられたし、公設市場の一つはパチンコ屋、商店街も淋しい限りで、もう一つの公設市場はスーパーになっている。でも幾分公設市場の名残を残しているスーパーではある。

 

スーパー「ジュンボ」のパン祭の広告左と普通の食料品と衣服。何れもA4サイズ32ページ

 セトゥーバルは人工10万人の中都市、そして港町。郊外には工業団地を幾つも控える、工業の町、工場労働者の町だ。古代ローマ時代にはセトブリガという名前で、その頃からイワシの塩漬けや塩田で栄えた町で、そんな遺跡も残されている。その伝統は現在まで引き継がれ、少し以前まではオイルサージンの工場がたくさんあった。そんな労働力を当て込んで、今では自動車工場、パルプ工場、セメント工場など、それに従来からのオイルサージンやチーズ、ワインでも栄える活気のある町には違いない。そして大型貨物船が出入りする港町でもある。

 

スーパー「ジュンボ」のワイン祭の広告の見開きページ。A4サイズ32ページ全てワイン。

 活気はあるがたかだか10万人である。さほど大きくもない町に大小のスーパーマーケットがひしめきあっている。大型のその名もジュンボ、昨年には更に大型化ショッピングモール工事も終って、無料の専用バスを走らせ周辺地域からも集客しようとしている。それにフランス系のインター・マルシェ、老舗のピンゴ・ドーセが2軒、コンチネンテ、ドイツ系だと思うリドゥルが3軒、それに小型のミニ・プレソが数軒。そして数キロしか離れていない隣町パルメラにも3つ、4つのスーパー。その他に家電や日曜大工の量販店、中華雑貨、その名もメガチャイナが数え切れないほど。

 スーパーは全国チェーンや外国資本が殆どで、テレビでもコマーシャルを流すし、こぞって立派なチラシを作る。チラシと言うよりも、冊子、或いはカタログと言っても良いくらいで、カラー刷り、写真も豊富に使い、デザインも凝っていて何ページにもわたった立派なものだ。日本の様に新聞配達はないので、それをアルバイトを雇って各家の郵便受けに入れる。

 最近は印刷技術が向上して、カラー刷りはあたりまえになっている。しかも両面印刷だ。日本でも以前の新聞のちらしはモノクロ、片面印刷もかなりあった。その裏をメモ用紙として使ったりしていたものだ。小さく切ってクリップで挟み電話機の横などに置いていたりもした。

 あの野村監督が作戦を練るのにちらしの裏にいろいろ書いては頭を巡らす。という話を聞いたことがある。最近の様にパソコンのモニターに向って文字を書くのより、自分の手で、指先で鉛筆やペンを走らす方が、頭を働かせるのには良いような気もする。

 その片面の新聞チラシを集めて立派なメモ冊子を作ってプレゼントしてくれた親しい友人がいる。糸で丁寧に綴じて、本来は捨てるべきたかがチラシだが、既にそれ自体が作品の様相を呈している。A4サイズで、何ページくらいあるのだろうか?厚さは2cm程もある。表紙には僕の好きな画家の展覧会のチラシを使ったりして丁寧に作られているのだ。1部限定、同じものは2冊とない、自分だけのオリジナルである。友人自身もそれに何でもメモをしておくのだそうだが、僕は勿体なくて使えなくそのまま本棚に仕舞いこんでいる。文字や絵で埋まればそれ自体立派な作品になる。美術館か画廊に展示しても面白い作品となることだろう?と思う。

 

ドイツ系スーパー「リドゥル」の広告。下着バーゲン。A4サイズ16ページ、見開き部分。

 そんなちらしを駆使してセトゥーバルのスーパーが会員獲得合戦である。

 会員カードを作れば5パーセント、10パーセントの割引。

 会員登録すればポイントが溜まるというのもある。溜まったポイントで買い物ができる。そういったのは日本でも同じ。

 

スーパー「コンチネンテ」の広告チラシ。A3サイズで何れも24ページ。

 

 我家が行くスーパーで行われているのはもっと凄くて、会員登録すれば定期的にクーポンが郵送されてくる。会員登録は無料だ。

 何月何日から1週間の間、1回に20ユーロ以上の買物をすれば5ユーロの値引き、というクーポンだ。

 丁度20ユーロだけを買えば全商品25パーセントの割引となる。随分の割引率だ。でもそうは巧く買物は出来ないでいつも30ユーロ近くを買ってしまう。5ユーロはその場で差し引かれるのではなく次の買物から差し引かれる。そこがミソだ。

 それが毎週の様にある。クーポンの日にちを見ながら効率良く買物をしようと考えたりもする。毎週20ユーロ分くらいは普通必要で、別段特別な物を買ったり、高いものを買ったりはしなくても良いが別のスーパーには行かれなくなってしまう。

 クーポンの5ユーロ以外にも10パーセント、25パーセント、50パーセント引きという商品もあって、その値引き分も次の買物から一緒に引かれる。多い時などは30ユーロ程の買物をしたにも拘らず支払いはたったの10ユーロなどと言う時もある。随分と得をした気分になる。これでお店は儲かるのだろうか?と思ってしまう。クーポン券の郵送代も掛かるだろうし。

 でもすっかりそのスーパーに釘付けになってしまっている自分に気付く。まああまり無理をして買物をしているつもりもなくて、別のスーパーの方が良い品物があればその別のスーパーで買うようにしているから今のところガンジガラメになっていることもないし、問題はないと思う。

 スーパー同士の競争も大変だろうが、昔からの商店は寂れる一方だ。でも意外なことにセトゥーバルではメルカド(公設市場)だけはお客は減っていない。土曜日の午前中などは相変わらず混みあっている。やはり魚や野菜は新鮮だ。

 殆どのスーパーではレジ袋は有料になっている。その代り、エコバッグの製作にしのぎを削っている様にも思う。

 たいていは50センチモと格安でたっぷりと入り、丈夫でデザインもなかなか凝っている。今までのレジ袋より使い慣れればなかなか良い。

 

スーパー「リドゥル」の広告チラシ。A4サイズ16ページの表紙。左は秋特集、右は工具特集。下段はクーポンを貯めて特製ぬいぐるみをゲットしよう。

 先日、1年ぶりに画材を買いにカセンという町まで行った。セトゥーバルにも画材店は1軒あるが、小さくて品物が揃わないし、高いので、以前にもリスボンまで出かけて1年分の纏め買いをしていた。

 カセンまで行くようになったのは、3年前からである。ずっと以前に画廊のペドロのクルマで連れて行ってもらったことがあるが、自分で行くようになったのは3年前からである。ペドロのクルマには2度と乗りたくはないと思った。何時死んでもおかしくはない運転だ。カセンはセトゥーバルからリスボンを通り過ぎてシントラの近くまで走るから1時間以上は優にかかる。大型の画材専門店でリスボンの画材店より同じものでも少し安い。リスボンは駐車場にも困るが、カセンまで行けば駐車場の心配はない。工場団地の一角にあり、画材の量販店といったところで、自前の駐車場もあるのでゆっくりと買い物ができる。

 今回行けば、たまたまバーゲンセールをしていた。5ユーロ以上を買うと全商品25パーセント引きと入り口に書いてあった。僕の買物は、キャンバスの買い置きは未だあるので、今年は特別少なくて、それでも100ユーロは突破してしまう。アルバイトらしく画学生風の女店員に「25パーセントの割引ですか?」と尋ねると、「次回の買い物から引かれます。」と言う。「明日からでも大丈夫です。」でもきょうは駄目なわけである。上記のスーパー方式を取り入れたのだ。毎週の様に買物をする近くのスーパーでもあるまいし、画材店が割引分は次回の買物から差し引くという、何と言う制度を取り入れたのかとその頭脳を疑ってしまう。そして買った画材を入れる袋も有料になってしまった。それは別にいらないからいいが、結局税金を除いた分の25パーセント23ユーロが次回の買物から引かれる。でも期限があり、10月末日までとのことだ。

 ガソリン代や橋の通行料金などを考えてもやはりただ23ユーロをドブに捨てるには忍びない。10月などと言っていたら忘れてしまいそうなので、その3日後の土曜日に再び出かけた。帰りにはクェルースに寄って少しスケッチをするのも悪くない。土曜日なら高速道も空いているだろうと思ったが、それ程でもなかった。リスボンからカセンまでは無料の高速道が繋がっている。片側4~5車線はある高速だが、アレンテージョに比べると1車線幅は狭く、交通量はただ事ではなく多い。真ん中車線を道路標識などを見ながら注意深く走っていると左からも右からもびゅんびゅん追い抜いて行く。そして車線変更が多く、直前に割り込んでくるクルマなどヒヤッとすることも度々だ。同じポルトガルでもセトゥーバル周辺やアレンテージョとはまるで違う交通量だ。

 土曜の午前中なので画材店は空いていた。店主は覚えていて快く割引のレシートで買い物が出来た。23ユーロプラス5ユーロ程の追加料金でターレンスの油絵の具3本を買うことができた。比較的良く使う基本的な色、ヴィリヂアン、ヴァーミリオン、ローアンバーで余分にあっても何れは使う。

 でも3本の為のその1日の行動を考えていると絵の具をチマチマと使ってしまいそうだ。帰りはクェルースで昼食を摂り、数枚のスケッチもし、再び高速道に入ったが、リスボンに入るあたり、ベンフィカ・スタジアムの手前で案の定交通事故があり、長い渋滞に巻き込まれてしまった。事故現場ではあのメルセデスから販売されている、スマートが見る影もなくスクラップと化していた。

 そしてヴィリヂアンを使うたびにゴーガンに似たカセンの店主の顔が頭に浮びそうだ。VIT

 

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 露店市の食堂のショーケースにはムース・ド・ショコラーテ(チョコレート・ムース)とアロス・ドース(ライスプディング、米プリン)しか残っていなかった。少し迷ったがアロス・ドースを注文した。

 

チョコレートにトウガラシ

 この食堂では、今まであまりデザートは食べなかったのだが、きょうに限って甘いものが欲しくなって食べることにした。鶏の炭火焼が少し塩辛かったのかも知れない。それにピリピリ(モーリョ・デ・ピメンタとも言うトウガラシ、タバスコ)を掛けすぎた。

 先月の話では、マサゴ画廊のNACKシニア展でジャズ好きの友人が同席し、そんな話から「ファイブ・スポット・アフター・ダーク」へと話が発展したが、今回も同様、マサゴ画廊に親友、米吉(アロス・フェリシア)がチョコレートを携えて来てくれたところから話を始めようと思う。

 米吉は僕の古くからの親友である。高校美術部以外の親友で、悪友と言っても差し支えない。良いことも悪いことも全て米吉と一緒にやってきた本当の悪友である。いや、良いことなど一つもない筈だ。高校の1年から同じクラスで、何かにつけ一緒にワルさをやってきた。教室に立たされる時も一緒だった。

 僕はずっと美術部で、先月の話にも書いたように、3年生の時にはバンドも結成した。米吉はバンドにも美術にも無関心で、全く関係のないところの悪友という訳である。

 3年生の時に僕はバンドを結成したが、米吉は生徒自治会の副会長に立候補した。僕に応援演説を頼んできたので引き受けざるを得なかった。僕が足を引っ張ったにも拘らず見事副会長に当選してしまった。

 その以前から米吉はお喋りである。お喋りであるがあまり話が巧いとも言えない。僕はどちらかというと聞き役で、適当に聞いている。話の半分くらいしか聞いていないのかも知れない。あるいは聞きながら他のことなどを考えていたりする。でも良く聞いてみると理にかなっていたり、感心するところも無きにしも非ずである。

 僕と米吉を一緒に見て呉やんはすかさず「何で長続きしているのかが判ったわ。漫才のボケとツッコミや」と言った。僕がボケで米吉がツッコミという訳である。そうすると、もう50年以上のコンビになる。

 先日、米吉がマサゴ画廊にやってきたときはチョコレートの講釈を盛んに述べたてていた。要するに「身体に良いからもっと食べなければならない」という訳である。それを1時間でも2時間でも喋り続ける。同じ事を繰り返すのではなく、次から次に資料が出てくる。脳みその中に資料が折りたたまれて入っているのだ。人の名前や細かい年号まで次々に飛び出す。まるでコンピューターの様だが、米吉はコンピューターはしない。根っからのアナログ人間である。

 僕以外にもその話を聞いていた人は4人ほど居たが、皆が半分しか聞いていないか、全く聞いていないかのどちらかだろう。馬耳東風である。

 米吉は「きょうはひとつチョコレートの話をしてやろう」と余程覚悟を決めてマサゴ画廊に入ったに違いない。自宅の河内天美の遠方から拾った様なクソボロママチャリでやってくる。途中、スーパーで徳用袋入りチョコレートを買ってきている。仕事をしながら横で聞いていた画廊の奥さんも多分半分しか聞いていないのだろうと思うが「面白いわね~」などと相槌を打つ。危険なお世辞だ。

 チョコレートは中米原産だそうだ。と言うより、チョコレートの原料のカカオ豆が中米原産で、それをコロンブスがヨーロッパに持ち帰り、今のチョコレートに発展していったというほうが正しいのかも知れない。当時は固形物のチョコレートはなく、飲物のチョコレート、つまり日本で言うところのココアとして使われていた。

 古くマヤ文明では紀元前2000年頃からカカオ豆を栽培していて薬として使っていた。カカオ豆にトウガラシをトッピングして食べるのだそうだ。少し前になるが、ブラジルのテレビドラマで「ショコラーテ・コン・ピメンタ」というのがあった。訳すとチョコレートにトウガラシとなる。ブラジルにはハチャメチャなテレビドラマが多いのでその類かと思っていたが、案外とマヤ文明からの伝統を継承しているのかも知れない。

 

 ヨーロッパにはチョコレート専門店が多いのに気付く。パリなどには至るところにある。ポルトガルにもあるがパリ程ではない。南米のパリと呼ばれるブエノスアイレスにもチョコレート専門店があった。ブエノスアイレスから遥か南、マゼラン海峡を渡ったところにフエゴ島がある。それより南はもう南極大陸しかない。そのフエゴ島にウスアイアという町がある。地球最南端の町である。町と言っても何もない。観光客が訪れるからホテルはあったのだと思う。僕たちも1週間ばかり滞在した。1週間ばかり滞在した、と言うより、滞在せざるを得なくなったのだ。

 南米大陸からフエゴ島へ渡るには飛行機しかない。しかもアルゼンチンの空軍が運用する飛行機しかないのだ。乗る前には乗ったことのある人から「宙返りするから」などと脅されていた。

 スチュワーデスならぬ、カーキ色の軍服を着た男の軍人さんが飲物とお盆にチーズを挟んだサンドウイッチを乗せてよろけながら客席にサービスに来る。軍服を着ているから軍人さんと判るが、指で押せばこけてしまいそうで気の弱そうな軍人さんだった。まるでチャップリンが軍服を着たような…。皆が1つずつお盆から受け取り食べる。残ったのか、又、回ってくる。2度目にはお客の手はあまり出ないと見えて、お盆のサンドウイッチは減らない。サンドウイッチは干からびて反り返ったりもしている。それを携えて何度も軍人さんは回ってくる。そんな飛行機であった。幸いなことに僕たちが乗った飛行機は宙返りこそしなかったが、かなり揺れることは揺れた。

 帰る予定の日、その飛行機が欠航となった。軍事クーデターである。世界初の女性大統領として注目を浴びた、イザベル・ペロンであったが、僅か2年足らずでの失脚となった。それでその何もないウスアイアに1週間足止めを食った格好になった。

 その何もないウスアイアに何と評判のチョコレート専門店があるのだ。行く前には僕たちは知らなかったが、ヨーロッパからの観光客はこぞってその店を目指し、買い求めていた。僕たちも買ってみたが、その違いは判らなかった。その時に実は初めてホワイトチョコレートなるものを味わった。1976年の話である。

 

 フランスのプロヴァンス地方にサン・レミ・ド・プロヴァンスという田舎町がある。あのゴッホがアルルで耳切り事件を起こした後、自ら望んで入院した精神病院がある田舎町である。その精神病院はサン・レミ・ド・プロヴァンスから2キロほどの郊外にあり、ゴッホはアルルから馬車でやって来た。そしてそこで後に代表作となる作品多くをモノにしている。「糸杉」「オリーブ畑」「囲われた畑」「穴あき岩の山」「アイリス」など名作ばかり数え切れないほどがある。なかでも「星月夜」は代表作中の代表作と言ってもよいものだと思う。

 「星月夜」はその病院の外れの小高い丘からサン・レミ・ド・プロヴァンスの夜景と星空を描いた作品である。その丘のあるあたりは今はローマ遺跡として整備されているが、ゴッホが居た当時は未だ発掘はされていなくて単なるオリーブ畑と丘だけであった筈である。その絵には黒々とした糸杉と月明かりを浴びて白く浮き上がる小さく尖がった鐘楼の教会が描かれている。何れも星空を貫く槍穂の様である。

 

「星月夜」73,7x92,1cm、 1889年6月作、ニューヨーク、近代美術館蔵

 

 僕たちはその教会のすぐ側のホテルに泊まった。僕たちが泊まった夜にはあいにく星空はなかった。プロヴァンスの郷土料理レストランで夕食を済ませ、散歩がてら大回りしてホテルまで帰ることにしたが、教会の裏手の建物、その半開きになったドアから明かりが漏れていた。覗いてみると、数人の女性たちが立ち働いているのが見えた。チョコレート工房である。

 フランス語でチョコレートのことを「ショコラ」という。ポルトガル語では「ショコラーテ」となる。日本で言う「ココア」も「ショコラーテ」である。

 

 「ショコラ」という2000年製作のハリウッド映画がある。時は1959年。舞台はフランスの田舎ランスケネ村。

 主演のジュリエット・ビノシュが実に魅力的だ。ジュリエット・ビノシュはパリ生れだが、フランス人の舞台監督を父に、母はポーランド人の女優。

 「ショコラ」の監督はラッセ・ハルストロムというスウェーデン人。それにジョニー・デップなど多彩な俳優人が脇を固めている名画といっても良い作品だ。

 フランスの田舎町ランスケネ村に赤い頭巾を着た母と娘が北風と共にやって来た。「ショコラ」の魅力を伝え広めるためである。

 尖塔のある小さな教会広場の横にそのショコラの店が作られた。古い家を改装してのヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)の手作りである。店には自ら携えてきた中米の置物なども飾られ、店の名前は「マヤ」。

 古い因習に囚われている保守的な小さなランスケネ村。ヴィアンヌはそれぞれの村びと一人一人に合ったショコラを調合して作り食べさせる。ショコラの店「マヤ」は村人達の人気を集めるかに見えたが、村の有力者、厳格な宗教指導者は「ショコラは悪魔的で堕落した食べ物だ」とミサを通して排除しようとする。

 保守的な小さな村ゆえに堅苦しい因習は人々の心を閉ざしてしまう。やがては社会に歪が生じ、その矛先は犯罪や差別、いじめ、家庭内暴力などに向わせる。夫からの暴力に脅かされている妻は人の物を取ったり、万引きをしたりと心が不安定になる。そんな女を演じるのが監督の妻であるスウェーデン出身の女優レナ・オリン。「マヤ」でもショコラを万引するが、やがて夫の暴力から逃れ、トランク一つを携えて「マヤ」に身を寄せ、ヴィアンヌと一緒にショコラを作り始め、生き生きとした人生を取り戻しはじめる。レナ・オリンは1990年作品「ハバナ」でロバート・レッドフォードの相手役を勤め注目を集めた女優だ。「ハバナ」は革命前夜のキューバを舞台にプロのギャンブラー(ロバート・レッドフォード)と革命運動の女性闘士(レナ・オリン)との恋と運命を描いた、90年代版「カサブランカ」と言われた見応えのある作品だ。「カサブランカ」のイングリッド・バーグマンとは比較は出来ないけれど、レナ・オリンも同じスウェーデン出身女優だが、全く違う魅力を発揮している。

 話を「ショコラ」に戻そう。ヴィアンヌの娘のアヌークは村から村へと渡り歩く生活に嫌気がさして、いつも母を困らせる。そんな時、ヴィアンヌは娘に決まってこんな話を聞かせる。

 『昔々、おじいちゃまのジョルジュ・ロシェはオル・レ・バンの町で薬局を開いていました。1927年の春、薬剤師協会は自然の中の医薬を研究するため、中米への探検隊を組織しました。ジョルジュおじいちゃまは真っ先に志願したのです。そこで、古代マヤ人が聖なる儀式に用いた、トウガラシ入りのカカオを飲みました。昔からマヤではカカオは心の鍵を開け、運命を解き放つと信じられています。ジョルジュおじいちゃま自身の心も解き放たれ、村の美しい娘チザと恋に落ちました。ジョルジュおじいちゃまは敬虔なカトリック教徒でしたが、教義を曲げてその娘と結婚し、ヨーロッパへ連れて帰ります。私の母で、あなたのおばあちゃまですよ。娘にも恵まれ、つまり私です。幸せな日々を送っていましたが、部族の長老が警告していたことが起こります。元々チザは、北風と共に村から村へと渡り歩き、古代の薬を処方する流れ者でした。ある朝、ジョルジュおじいちゃまが目覚めると二人の姿がありませんでした。チザとヴィアンヌは古代の薬カカオを処方しながら村から村を渡り歩く運命だったのです。』という話を娘アヌークに言い聞かせます。

 そんな村にジプシーの一団が流れ着く。そのジプシーの一人がジョニー・デップである。若いジョニー・デップは実に魅力的で、特にギターやドブロを弾くその音色は堪らなくいい。

 ショコラの魅力を伝え広めるため小さな村々を北風に乗って移動する母と娘。それはジプシーの生活習慣と共通する。ジュリエット・ビノシュとジョニー・デップは助け合い古い因習の村に立ち向かう。

 この映画のロケ地はブルゴーニュ地方、あのマスタードで有名なディジョンの北西約50キロにあるフラヴィニー・シュル・オズランという村だそうだが、僕にはプロヴァンスのサン・レミ・ド・プロヴァンスやフエゴ島のウスアイアをイメージすることも出来る。

 

 今の浜寺公園は僕たちが子供の頃にはアメリカ駐留軍の住宅地になっていて、僕が高校生の頃には、アメリカ兵は既に居なくて大阪府の管理地となっていたが、アメリカ式の住宅はそのまま残されていた。その中心地にレトロなアメリカ映画にも出てきそうなダンスホールがあり、僕はそれを借りてダンスパーティを催したこともある。そのあたりから通学していた高校の同級生によると、子供の頃には、アメリカ兵からよくチョコレートを貰ったよ。という話を聞いた。アメリカ兵はいつもハーシーのチョコレートを非常食として携帯していたのだ。

 山で遭難した人が、チョコレートで生き延びた。という話もよく聞く。僕たちは今でもちょっと遠出する時にはいつでも1枚の板チョコとマリアのビスケットをバッグにしのばせている。

 

 僕が小学生の頃、母はお菓子作りに熱中していた時期があった。未だ材料が殆ど揃わない時代で、いろいろと工夫して作っていたようだ。僕の誕生日に友達10人限定で招待するように言われた。誕生会をしようと言うわけだが、ぜんざいとチョコレートケーキを作ってくれた。ぜんざいは普通だと思うが、友人たちはチョコレートケーキには驚いた様で、僕は暫く鼻が高かった。

 鼻は高かったが僕自身はそれ程甘いものが好きな少年ではなかった。クリスマスケーキも好きではなかったし、特に巻貝の形のチョコレートパンは苦手であった。子供の頃の僕の好物はカツオの塩辛や九州の叔母さんがお土産に持ってきてくれる「蟹漬け」が大好物の少年であった。蟹漬けと書いただけで今でも生唾が出てくるのだが、シオマネキを殻ごと叩き潰し塩辛にしたもので、今も売られているが今のものは機械で潰されていて、滑らか過ぎて駄目で、昔のものは殻がそのまま残っていてその方が良かった。それにたっぷりと七味唐辛子をまぶす。子供の頃からうどんが好きでそれにもたっぷりと七味唐辛子をふりかけていた。食べ物の好みは年齢と共に変化してくる。子供の頃には見るのも嫌だった、あの巻貝のチョコレートパンも平気で食べる様になったけれどカツオの塩辛と蟹漬け、それに七味の効いたうどんは今も大好物である。

 

 昔、スウェーデンに住んでいた頃、ストックホルム大学の休みのたびにクルマで旅に出た。クルマはフォルクスワーゲンのマイクロバスで、車内で寝られるようにベッドも自分で作り、ある程度の料理も出来るようにしていた。まだ日本では知られていなかったが、ヨーロッパではオートキャンプ場はどの国にもどんな町にもあり、便利にクルマの旅ができた。

 今ではユーロ圏で国境はないが、その当時は国境があり、国境を越える時にはパスポートの提示、荷物検査などもあるが、免税品を買うこともできる。その頃、MUZはタバコを吸っていた。ヨーロッパでは、とりわけ北欧ではタバコには高額の税金が掛けられている。それで免税のタバコというのは愛煙家にとっては有難いものだった。国境を越えるたびにMUZは1カートンのタバコを買い、僕はタバコを吸わないので、その代り、1枚のチョコレートを買った。その頃は甘いものは苦手だったので、出来るだけビターなシンプルなものを選んで買っていた。大きな分厚い板チョコである。それをほんの1かけらずつ割っては食べるのを楽しみにしていた。そしていざと言う時の非常食とも考えていた。

 ある日、久しぶりにチョコレートを食べてみようと、保管してあるところを探しても見当たらない。「どうしたのかな~」と言うと、MUZは「あんなのとっくの昔に食べてしもたよ~」と言うではないか。何十年も昔の話だが食べ物の恨みはいつまで経っても忘れられるものではない。それどころか、近頃は甘いものも好んで食べる様になったせいもあり益々恨みは増幅する。

 

 カカオは学名をTheobroma cacao、アオキ科、カカオ属の常緑樹。

 学名のTheobromaはラテン語で「神(theos)の食べ物(broma)を意味する。

 中央アメリカから南アメリカの熱帯地域が原産で、標高300メートルほどの丘陵地に自生する。

 現在では西アフリカのコートジボワール、ガーナ、ナイジェリア、カメルーンなどが主要な生産地で南米ブラジルと東南アジアのインドネシア熱帯域などでも栽培されている。

 

 米吉はマサゴ画廊で喋り足りなかったと見えて、もう一度会おうということになった。今度はバンホーテンのココア缶を携えてやってきた。僕の実家近くの幼馴染が経営する喫茶「英登(エイト)」で待ち合わせをしたが、僕は既にココアを飲んで待っていた。午後にコーヒーを飲むと眠れなくなるからだ。米吉は何故かコーヒーを注文した。

 米吉の言いたいことは「西洋医学や薬に頼るのではなく。その前に、チョコレートを含むバランスの取れた食生活を心がけ、適度の運動と、充分な睡眠で健康を保ち、それは経済的にも有効だし、長寿社会にあって、老後をより豊なものに出来る。」ということを語りたいのだ。そしてそんなことを閉店まで喋り続けた。英登のマスターは「よう喋るね~」と感心した様な顔をされていたが、早く店じまいに掛かりたかったことだろうと思う。

 僕は米吉に言われるまでもなく、もう10年も前から、朝食には「ショコラーテ」を飲んでいる。コーヒーも飲むがそれは10時のコーヒータイムとしている。

 米吉(アロス・フェリシア、米=アロス、吉=幸=フェリシア)はきょうもチョコレートを手に孤軍奮闘中である。いや、それはない。次のマサゴ画廊では、或いは喫茶「英登(エイト)」でどんな話が出てくるのか楽しみである。

 だいたい、お喋りの人は海外に住んでも言葉の上達は早い様に思う。お喋りでない人は余程、勉強してもなかなか上達しない。米吉はお喋りで外国語大学に行ったにも拘らず、海外生活はない。勿体ない話だ。一方、僕は全く上達しない言葉で、海外での苦労は堪えない。米吉と性格が反対であったら良かったかなと思う。

 普段は米吉ではなく米やん(ヨネヤン)と呼んでいる。僕は武やん(タケヤン)と呼ばれている。今回の文章に関して米吉と正式本名表記とした。僕の留守中でも、頑張れ相方、米やん。 VIT

 

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 以下の話はずっと昔に加藤と市ちゃんには話したと思いますが、先日、NACKシニア展の折、マサゴ画廊でジャズ好きの奥田優さんと加藤正雄がたまたま同席し、ジャズの話から「ファイブ・スポット」の名前なども出ました。僕にとっては懐かしい響きです。これはひとつ文章にしておいても良いかな、と思い立ち、文章にしてみました。古い話ですが、僕にとっては青春時代の貴重な体験です。

 インターネットを始めてからすぐにホームページもたちあげ、以前の紙の「ポルトガルのえんとつ」を引き継ぐべき、サイト、ブログにもエッセイを載せてきました。毎月1つ、月初めの1日に必ずアップしてこれまでに126話にものぼります。ポルトガルに住んでの思いなどが殆どですが、フランス美術に関する旅日記なども含まれています。これ以上書くことがないから古い話を持ち出し書き始めた、などと思わないで下さい。古い話も僕の人生にとっては重要な要素を占めています。これからも時々出てくるかもしれません。

 2015年の8月1日号、「真夏の夜の夢」ではありませんが、僕にとっては夢の様な話、でも100パーセント真実です。名前や年代などに誤りがあるかも知れませんが、嘘や誇張は一切ありません。お読み頂けると幸いです。武本比登志

 

ファイブ・スポット・アフター・ダーク Five Spot After Dark

 

 僕は高校を出て、進学もせず、就職もせず、宙ぶらりんの状態でいた。

 高校3年の時、美術部だけでは飽き足らず、文化祭でビートルズを演るということでバンドを結成した。文化祭が終ってからもバンドをそのまま引きずって、ダンスパーティやらなにやらと活動していて、就職も進学も頭にはなく、ずるずると高校卒業ということになっていた。卒業と同時にバンドは解散、本職のバンドマンになった人もいれば、仕方なく自衛隊に入った人もいる。僕だけが宙ぶらりんの状態でいた。

 とりあえずは天王寺美術館の地下にある美術研究所でデッサンを習うことにしたが、習うというところではなく、場所だけ提供して自分で勝手にする、そんな所だったような気もする。石膏像とイーゼルはたくさん立てかけてあったが、他には生徒は誰一人としていなかった日もあった。

 

 何かアルバイトをと考えて喫茶店で働くことにした。ジャズが好きだったこともあり、ジャズ喫茶という選択をした。

 道頓堀にあった「ファイブ・スポット(5SPOT)」である。道頓堀のグリコのネオンはあまりにも有名だが、そのネオンのちょうど裏側にあたるところにその店はあった。裏は道頓堀に面していた筈だが窓がなく店から道頓堀は見えなかった。戎橋南詰から1分、御堂筋からも1分の中間にあり、店の真ん前は松竹座という大阪では一番の繁華街ということになる。

 

今はない大阪「ファイブ・スポット」のブック型マッチ

 道頓堀筋に面した1階が入り口で右手にレコード棚があり、客席もすこしある。客席の殆どは2階と地階にあった。1階の僅かな客席の奥にカウンターがあり、1坪ほどの場所がある。コーヒーをたてたりする場所だが僕の働き場所となった。

 仕事といったらコーヒーをたてることくらいで、15杯分ずつまとめてたてる。ボーイの注文によってそれを温めて注いだり、ジュースやコーラをサーバーから注いだりと、他にすることは何もなかった様な気もする。なま物で扱うのは紅茶に使うレモンくらいのもので、あとはソーダ水に飾る缶詰のサクランボ、たまにはトーストも焼いたりもしたが、忙しいばかりで技術的なことは何もなかった。

 とにかく狭いカウンターの中で1日中大音量のジャズを聴いて過した時期である。レコードを選んでかけるのはホール主任の中野さんの仕事で、ダークスーツに身を固め目の鋭い人だった。目は鋭かったが内実は優しく、僕とも気があって楽しい職場だった。中野さんはジャズには詳しかったのだと思う。掛ける順番を選ぶこともするが、お客のリクエストに応えたりもする。何千枚もあるレコードのどこに何があるかを把握していたのだろう。

 ボーイやバーテンダーなど店員は準備もあって開店前から店に入る。揃いの制服、黒のズボン、ワイシャツに赤いチェックのベストに着替え、黒の蝶ネクタイを締めてから掃除なども行う、慌しい時間だ。

 そしてやがて「ファイブ・スポット・アフター・ダーク」の曲が流れるといよいよ開店ということになる。開店時と閉店時は決まってこの曲を流すことが決められていた。テナーサックスとトロンボーンの柔らかなハーモニーは絶妙で、それに軽やかで心地好いピアノが加わり「さあ、これから仕事を始めるぞ」という気分にさせてくれるし、終りには「きょうも無事に終った、お疲れさん」という気持ちにもさせてくれる、一日の始まりと、終わりに相応しい、実に良い曲だといつも思っていた。

 レコードジャケットは女性が赤と青色の絹布を持ってダンスをしている様子のデザインだ。

 

 メンバーのリーダーはトロンボーンのカーティス・フラー、それにこの曲の作曲者ベニー・ゴルソンのテナーサックスが加わり、リズムセクションはピアノのトミー・フラナガン、ベースがジミー・ギャリソン、ドラムスはアル・ヘアウッド。2管だが実に優しい穏やかな気分にさせてくれる名曲、名盤と言って良いだろうと思う。

 僕はジャズは好きだが全く詳しくはない。聴くのは好きだが、スイングジャーナル誌を読むこともしないし、レコードの解説を読む事もしなかった。だからこのレコードがカーティス・フラーのレコードだということは知ってはいたが、実はメンバーが誰であったか、作曲者が誰であったか、までは知らなかったといった具合だ。

 僕は高校に入ってからジャズを聴くようになった。高校美術部顧問の藤井満先生がジャズ好きでその影響があった。多少なりとも美術部員は皆がジャズ好きになっていた。藤井満先生はジャズだけではなくクラシックやあらゆる音楽に造詣が深かった。ご自分でも楽器を嗜まれる。

 ちなみに僕が最初(高校1年の時)に買ったレコードはアート・ブレイキーとジャズメッセンジャーズの「モーニン」である。ワルツ堂の中古で当時のお金で600円くらいだったと思う。

 その道頓堀の「ファイブ・スポット」に何ヶ月いたかは定かではない。それ程長くは居なかったのだろう。僕はすぐにホール主任、中野さんの推薦でカウンター主任という肩書きを貰って少しは給料も上がっていた。一日中ジャズを聴いて過す生活には心地好さを感じていたが、コーヒーをたてるだけでは飽き足らなさも感じていた。

 僕の前任のカウンター主任は道頓堀店から小大丸店に移ってそこのカウンター主任になっていた。小大丸店ではフルーツ物もやっていたので、僕も希望を出して小大丸店に移動することになった。道頓堀からも歩いて20分くらいの距離だったと思う。

 小大丸は心斎橋筋の一等地に昔からある老舗の呉服店でその場所にビルを建て、入り口付近は呉服店だが、中には一流ブランドのブティックが入ったファッションビルで、ファッションビルの草分け的存在なのかも知れない。

 小大丸店でも開店時と閉店時には「ファイブ・スポット・アフター・ダーク」を流す。でも小大丸店はフルーツパーラということもあり、ジャズは大音量ではなく比較的静かにジャズを楽しむという店になっていた。そして軽いジャズボーカルやピアノトリオなどを多くかけていた。そこのホール主任(店長)は久保田さんといってその方は本当のジャズ通であったと思う。ジャズ評論家の久保田高司さんとご縁戚関係にあったのかも知れない。

 バーテンダーは3人居たが、僕はすぐにプリンを仕込む係りになった。毎日12個だけのプリンを作る。それがなくなれば売り切れとなる。いつも夕方には売切れてしまっていた。僕は12個分の材料で13個を焼く工夫を凝らした。しかも絶妙に舌触りの良いプリンに仕上げていた。そのプリンを久保田主任はことのほか褒めてくれた。「まだある?」などと言って、久保田主任は自分のお金でプリンを注文するのを日課にして食べてくれていた。

 18歳そこそこ、もう何十年も前の話で、それが1年にも満たない僅かな月日だったと思うが、若かりし頃のことは中味が濃く自分の人生の多くを占めているのに今更ながら驚きを感じる。

 その後、大阪芸術大学やURCレコードを経て、僕は数年後にストックホルムに住むことになった。更にその数年後、ニューヨークに居た。

 偶然日本からの船が一緒でストックホルムでも親しくしていたコマちゃん(生駒くん)が先にニューヨークに渡っていて、僕たちが行くと言うことになった折にはニューヨークでの仕事とアパートまで全てを決めていてくれたのだ。僕たちはその日からウエストサイド75丁目42番地のアパートに住むことが出来たし、すぐにマクロバイオティックのコックとして雇われた。そのマクロバイオティックレストラン「SOUEN」はブロードウエイにあるが、アップタウンの90丁目と91丁目の間にあり、ハーレムにも程近いあまり環境としては良くない所でもあった。

 僕はそれまでマクロバイオティックのバの字も知らないでいたのだが、チカさんという人が優しく教えてくれて何とかできた。僕は包丁がある程度使えたお陰でストックホルムでも皿洗いからすぐにカールシェンケン(冷たい料理専門のコック)から本物のコックにもなれたし、そのお陰でコマちゃんの推薦もあってニューヨークでもコックとして雇ってくれた。全てはあの小大丸でのフルーツ物バーテンダーのファイブ・スポットでのお陰かも知れない。

 そのマクロバイオティックレストラン「SOUEN」には芸術家が多く常連客として来店していた。ジャズメンが多かったが、クラシックの音楽家、役者やダンサーやニューヨークフィルの新米コンダクターなども居た。「SOUEN」のウエイトレスとして働いていたヘザー・ブラウンはバレリーナだったし、その兄で「SOUEN」の常連客のキャメロン・ブラウンも新進気鋭のジャズベーシストだった。オーナーのTAKIさんの言では、「少し前まではジャレット・キースやチック・コリアも毎日の様に来ていたよ。」とのことであった。TAKIさんはキース・ジャレットのことをいつもジャレット・キースといっていた。僕の居る時にもチック・コリアさんは1度来店されていたこともあるし、ジョン・レノン、オノ・ヨーコ夫妻も見えたこともある。また、何かの記念日だったのかも知れないが、常連客でバイブラフォン奏者デイビット・フリードマンとエディ・ダニエルスというクラリネット奏者のデュオ・ライブをその「SOUEN」で催ったこともある。

 「SOUEN」には毎週1日の定休日があった。僕は毎週必ず「ヴィレッジ・ボイス」(芸術やイヴェントなど専門の週間新聞)を買って、その広告を眺めては毎週どこに行くかを決めて、必ず出かけた。休みでなくても仕事が終ってから出かけたこともある。殆どがジャズのライブハウスだが、フォーク・シティやセントラル・パークでの野外コンサートやマディソン・スクエア・ガーデンのビッグコンサート、又、ベーコンシアターやカーネギーホールのコンサートにもよく出かけた。

 ライブハウスはヴィレッジバンガード、トップオブザゲイト、ブルーノート、ボトムライン、そしてファイブ・スポットなどが主なところだが、その他にも小さい無名なところや、ジャズメンしか行かない様なマニアックなクラブ等にも出入りしていた。

 そんな中でもファイブ・スポットは好きな場所であった。イースト・ヴィレッジにあり、イタリア街にも程近く、決して環境が良いとは言えない地区にあった。そしてそこは何故かいつも空いていた。ファイブ・スポットは最近まで別の場所にあり、イースト・ヴィレッジに移って来たばかりであって、未だ知られていなかったからかもしれない。

 ファイブ・スポットはサン・ラやオーネット・コールマン、セシル・テーラーなど前衛的なジャズも多く催っていたが、ジャッキー・マクリーンやアート・ブレイキーもたびたび催っていて、最初に行ったのがアート・ブレイキーであった様な気がする。その後もアート・ブレイキーの時には必ず出かけた。ドラムスがアート・ブレイキー、サックスはデイビット・シュニター。トランペットにビル・ハートマン、それにベースが日本人で鈴木良雄さん。ギターも黒人で居たと思う。ピアノが入る時もあった。

 ちなみにそのサックスのデイビットはマクロバイオティックレストラン「SOUEN」に毎日の様に通う常連客の1人であった。でもデイビットは僕が「SOUEN」のコックであったことは多分知らなかったのだと思う。「SOUEN」の調理場から客席は見えたが、客席から調理場は見えなかったし、そんな話をしたこともなかった。

 ヴィレッジバンガードなどとは違い、ファイブ・スポットにはジャズメンが多く出入りしていた。そしてその演奏に飛び入りで参加するのだ。勿論、超有名なミュージシャンも居れば、無名の売り出し中の人も居たのだと思う。ある日、ベースの鈴木良雄さんがそわそわしだした。アート・ブレイキーに促されて、舞台を下り、カウンターのところまで走りよった。何とそこにはチャーリー・ミンガスがカウンターに寄りかかって酒を呑んでいたのだ。「是非、奏って下さい。」という訳である。

 ある日などは、コンボバンドのはずが、ビッグバンドなみのメンバー編成が出来上がっていたこともある。アート・ブレイキーなどは舞台の下に引き下がって指揮をしていた。

 またある時は、アート・ブレイキーが僕のテーブルまで来て「これ1個喰ってもいいか」などと言ってスペアリブを摘んだりもしていた。そのファイブ・スポットは飲み物だけではなく料理も少しは出していた、が殆ど誰も注文をする人は居なかった。厨房には中国人が働いていたのだと思う。メニュには春巻きなどもあった。スペアリブも中華風に甘ったるかった。

 アート・ブレイキーの時にいつも決まってやってくる若いミュージシャンが居た。ダークスーツに身を固め、アイロンの掛かった真っ白いワイシャツにきっちりとネクタイも締め、礼儀正しい好感の持てる黒人であった。楽器はトロンボーンである。アート・ブレイキーにまず「奏ってもいいですか」と尋ねてから楽器を取り出す。そして他のメンバーと一緒になって演奏を始める。

 なにやら聞き覚えのある、懐かしい響きの曲である。これはもしかして「ファイブ・スポット・アフター・ダーク」である。

 僕にとってはあの道頓堀で、あの小大丸で毎日の始めと終わりに聴いていた懐かしい曲である。僕はそれまで大阪のファイブ・スポットのことはすっかり忘れていた。大阪のファイブ・スポットと、このニューヨークのファイブ・スポットが実は結びつかなかったのだ。しかも今聴いている「ファイブ・スポット・アフター・ダーク」はその本場ニューヨークのファイブ・スポットである。

 勿論メンバーは違う。トロンボーンは礼儀正しい黒人とは言え若いミュージシャンだし、サックスはベニー・ゴルソンではなく、デイビットだし、ベースはジミー・ギャリソンではなく鈴木良雄さんで、ピアノのトミー・フラナガンも居ない。ドラムスだけは大御所のアート・ブレイキー。でもニューヨークの本場ファイブ・スポットでの「ファイブ・スポット・アフターダーク」を聴いているのだ。本当に夢心地、夢の中の出来事の様であった。

 でもちょっと曲名を言っただけで楽譜も見ないで、すぐに誰とでも合わせられるし演奏が出来る。本当にジャズは素晴らしい音楽なんだとつくづくと思う。

 その若いトロンボーン奏者にはあちこちのライブハウスで見かけた。トロンボーン奏者も僕の顔を覚えてくれているらしく、顔を見合わせては挨拶を交わすようになっていた。

 ある日、ボトムラインでカウント・ベイシーのビッグバンドがあるというので出かけた。たいていは1人で出かけていたのがその時は珍しく妻MUZと2人であった。ボトムラインはニューヨークでは大きなライブハウスで比較的広いちゃんとした舞台もあるし、客席が多く、料理もいろいろとあって食事を楽しむ客も多い。僕たちも少し後ろの方の客席でピッツアなどを注文して食べていた。やがて演奏が始まったがメンバーの中にあの若いトロンボーン奏者が入っている。しかも重要なところでソロをまかされている。

 第1ステージが終って休憩に入るところで、あの若いトロンボーン奏者が手を振って挨拶をしている。後ろを振り向いても誰も居ない。僕たちに手を振っていたのだ。そして舞台から下りて真っ直ぐ僕たちのテーブルにやって来て握手を求めた。今まで顔を合わせて挨拶くらいはしたが、話したこともないし、それ程親しい間でもない。若いミュージシャンとしては自分の馴染み客が居るというのを、店側やバンド側に見てもらいたいのだろうか?などとその時は思った。

 僕はニューヨーク中のライブハウスに出入りしていたのだが、いつも必ずソニーの小型カセットで録音をしていた。その頃は別に誰からも何も言われなかったから、テーブルの上に乗せて堂々と録音をしていた。ステージからすぐの1番前の席に陣取ることも多かった。しかも第1ステージから最終の第3ステージまでぎっしり。ある時は、ボビー・ダーハム(Ds)というミュージシャンから「君はよく見かけるけれどミュージシャンだろう」と言われたこともあった。日本から勉強に来ている若いミュージシャンだろう、くらいに誰からも思われていたのかも知れない。

 やがてニューヨークを引き揚げて南米旅行をすることになった。

 それが決まった頃だったと思う。ニューヨーク、ソーホー地区の中古レコードショップで何となくレコードを繰っていた。繰っていて「おやっ」と驚いた。あの若いトロンボーン奏者のレコードがあったのだ。顔が大写しで出ていた。何とそこにはカーティス・フラーと書かれてあった。あの若い新米のトロンボーン奏者と思っていたその人は、カーティス・フラー当の本人だったのだ。僕としては全く迂闊だった。それとは知らずに挨拶を交わしていたのだ。

 カーティス・フラーという名前はよく知っている。トロンボーン奏者だということもよく知っている。その音色もだいたい判っている。だがご本人を、それも何度も目の前にしてそれが結びつかなかったのだ。全く迂闊だった。

 そして自分の心の中だけの思いとはいえ、店側やバンドの人たちにいい顔をしたいから、などとんでもない話だ。僕は残念ながらミュージシャンではないけれど、若いミュージシャンに声をかけ、温かく見守ってやろう、という親切心からの挨拶だったのだ。カーティス・フラーさんに失礼なことを思ってしまっていた自分に恥じなければならないと思っている。

 

 その後、僕たちの南米旅行は1年に及び、ニューヨークに戻ることはしなかったので、カーティス・フラーさんと会うことはなかった。

 

 ネットで調べてみると未だご健在でご活躍をされている。以下、Wikipediaより抜粋。

 

 カーティス・フラー(Curtis Fuller, 1934年12月15日 - は、アメリカ、ミシガン州デトロイト出身のモダンジャズのトロンボーン奏者。幼少の頃に両親と死に別れ、孤児だったフラーは、デトロイトの学校でポール・チェンバース、ドナルド・バードと知り合う。1953年から1955年軍隊に在籍し、その後ユセフ・ラティーフのバンドに加わった。1957年にニューヨークへ行き彼はプレスティッジ・レコードに初リーダーアルバムを録音した。以後ブルーノート・レコードでも活躍し、特にジョン・コルトレーンのリーダー作である『ブルー・トレイン』は、リー・モーガンと共に3管の一人として参加し評価された。彼自身も、ブルーノートにはリーダー作をいくつか残した。また、アート・ブレイキーやジョー・ヘンダーソンのグループでの活動も有名である。他に共演者はベニー・ゴルソン、トミー・フラナガン、ジミー・ギャリソン、アート・ファーマー、ソニー・クラーク、ズート・シムズ、ハンク・モブレー、ボビー・ティモンズ、アート・テイラー等がいる。ジミー・ウィルキンス楽団で活動していた。(Wikipediaより抜粋)

 

 僕がニューヨークのあのファイブ・スポットで初めて出会った頃は、僕が27歳くらい、カーティス・フラーさんも多分39歳くらいだったのだろう。僕よりひと回り、12歳年上ということになるが、でも実際よりずっとお若くみえたのは確かだ。

 そしてカーティス・フラーがこのアルバムをリリースしたのが、1959年というから弱冠25歳ということになる。

 「ファイブ・スポット・アフター・ダーク」は僕にとっては昔も今も、そしてこれからも特別な曲であり続けるだろう。VIT

以下のアドレスをクリックで「ファイブ・スポット・アフター・ダーク」をお聴きいただけます。

https://www.youtube.com/watch?v=q-zNWpdcxvQ&list=PLtvmYP6_yqHdW9dNU80HUNIixk7w_rdEY

 

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 エリカ・ウンベラタ Erica umbellata の接写(マクロ写真)を撮っていた。以前に同じ場所で撮った花は少し盛りを過ぎていて、もう少し新鮮な写真が欲しかったからだ。夢中になってピントが合うのを見ていた。慣れない真新しいバカチョンデジカメで、マクロには設定してあるが、なかなかフォーカスしない。何だか背後で息使いをする様な音が聞こえる。そしてその後、コンコンと背中をノックされた。何とかピントがあった様なのでデジカメのシャッターを切った。

 

エリカ・ウンベラタのマクロ写真。小さい花で花の長さは1cmに満たない。

 後ろを振り向いてみると、大きな犬の顔がそこにあった。エストレラ犬だ。何故かその時は驚きもしなかったのが自分でも不思議だが、後で考えてみると驚いて尻餅を搗いていてもおかしくはなかった状況だ。

 エストレラ犬はセントバーナードに匹敵するほど大型の牧羊犬だ。その犬も身体こそ大きいとはいえ未だ子犬だった様だ。一緒に記念撮影する暇もなく残念ながらすぐに姿を消してしまった。僕を飼い主の羊飼いのおじさんと間違えたのかも知れない。

 エストレラ山はポルトガル本土で一番高い山で、標高が1993メートル。そのエリカの群生地は山頂よりも少し100メートルばかり下の石灰岩のごろごろした平原にあり、色、形の違う3種類のエリカがまだら模様の様に群生していてそれに黄色いハンニチバナ、ハリミウム・コムタツム Halimium commutatum が加わり、以前に訪れた時にはそれは美しく見事であった。只、このウンベラタ種だけは盛りを過ぎていたのだ。

 そこで今回の旅は前回より1週間早める旅にしたものの、エリカたちは既に色褪せ終わっている様に見えた。

 エストレラ山に行くのはこれで3度目だ。もう既に慣れたもので、どこに何があるか、どれほどの距離、おおよその所要時間などがだいたい頭に入っている。

 今回の旅では4泊するつもりで出発の前日にホテルは4泊ともネット予約しておいた。週間天気予報を見てからだ。

 週間天気予報では雨こそ降らないものの、後半には冷え込む予報が出ていた。麓の町、コビリャンで最高14度、最低は2度と真冬並みの寒波が来るらしい。山頂を通過するのを当初は後半に考えていたが、初っ端に変更した。一番寒くなる時には山頂は避け、南側の山筋を通ることにして、そのようにホテルの予約を入れた。最初と最後は基点になるコビリャンのホテルで以前に泊ったのと同じホテルだ。結局4泊のうち3泊が以前と同じホテルということになった。

 リスボンに届け物があるので、いつものアレンテージョ回りではなく、テージョ川の北側に沿って走る高速道を使うことにした。ところが高速料金所の少し手前でMUZが自分のデジカメを忘れたのに気がついて、どうしようかと言う事になった。料金所の手前とは言え既に高速道路には入っている。高速で考えた結果、取りに戻ることにした。2時間のロスであるが、今回の旅はゆっくりの旅程を組んでいるので、それ程ロスでもないし、慣れた道で行く方が良いのかも知れない。

 2時間遅れとは言え、最初の予定通りである。アライオロスのトラック食堂で遅い昼食をとる。アライオロスからエストレモス、ポルトアレグレ、カステロブランコそしてフンダオンを過ぎればコビリャンはすぐだ。

 途中は一部、高速道路を使う。高速道路といってもSCUTと言って、インターチェンジも料金所もない。

 自然に誘導されていつの間にか高速道に入ってしまう。ところどころの道路の上にクルマのナンバーを感知するセンサーが取り付けられていて通過したクルマに料金が加算される仕組みだ。前もって登録してあれば自動的に銀行口座から引き落とされるのだが、登録していなければ後日、郵便局に払いに行かなければならない。それが面倒でなるべくならSCUTの高速道路は使いたくないのだが、今回も少しだけ使ってしまった。

 リスボンのまだ先までを往復したにも拘らず、基点の町コビリャンにまだ明るいうちに着いてしまった。距離は結構走っている。コビリャンのガソリンスタンドで満タンにしてからホテルにチェックイン。

 トラック食堂の昼食が遅かったので夕食は入らない。途中のスーパーでワインと、チョリソ、チーズそれにナッツを仕入れておいたので、ホテルの部屋で軽く呑む。熟睡。

 朝食はホテルでたっぷりと食べ、準備万端、デジカメは1台ずつ、早速エストレラ山を目指す。今日の行程はゆっくりであるから、途中何度も路肩に停めては野の花観察をする。当初泊る予定にしていた、ユースホステルを過ぎたあたりでも観察をしてみる。今回の旅での大きな目的の一つにビオラ・ルテア Viola lutea(黄色い高山スミレ)を観察することがある。以前の旅では山頂を過ぎた岩場の平原あたりで見かけて写真撮影をしている。ところがほんの少し(3輪)しか観察出来ていないのと、ピンボケ写真が多くあって、今回はもう少し良い写真を撮りたいと思っての旅である。出来れば群生を見てみたい。

 マメ科の黄色い花だが異常に毛深くて今までに見たことのない花が群生している。それにナデシコ、ダイアンサス・ルシタヌス Dianthus lusitanus が未だ新鮮な花を咲かせているし、鮮やかな黄色いセダム・アンプレクシカウレ Sedam amplexicaule もあちこちに咲いている。雨の降らないアレンテージョではもう既に殆どの花はなく、枯れ野原と化しているのに対しエストレラ山は今が盛りだ。

 クルマに戻りかけて路肩のところに黄色い小さい花を見つけた。或いは踏んでしまったかもしれない。良く見るとスミレである。何とビオラ・ルテアである。今回の旅の目的であるビオラ・ルテアが早くももう見つかってしまった。路肩沿いに丹念に探してみると、株立ちなども自生していた。これは以前の場所、山頂を少し越えた岩場の平原が楽しみである。群生があるに違いない。

 気を良くしてもう少し、マリアの展望台まで走った。大きな一枚岩にマリア像が彫られ、誰もが休憩する場所だ。湧き水が流れていて、少し植層が変っていて、珍しい花を以前にも見かけているところだ。やはりいろいろと咲いている。きょうもカンパニュラ(ツリガネソウ)を見つけた。高山性のカンパニュラで我々にとっては初花である。

 ところが何とこの場所でデジカメのバッテリーが切れてしまった。今まで途中では切れたことのないMUZのデジカメのバッテリーまでも切れてしまった。2台ともアウトだ。家を出る前には十分に充電しておいたのだが、昨日は走るだけであまり写真は撮らなかったこともあり、昨晩のホテルでは充電をしなかったのだ。それにバッテリーの寿命も減っている様だ。写真撮影はこれからが本番。今夜泊るホテルでは充電は出来るが、今日のこれからが本番なのだ。

 考えた末、コビリャンまで戻ることにした。2時間のロスになる筈であったが時間は充分にある。コビリャンにはショッピングモールがあり、バッテリーくらいは売っているだろうと思った。ポルトガル全国チェーン家電量販店のウォルテンがショッピングモール内に入っている。

 上りには意外と気付かないが、かなり上ってきた様だ。下り坂をぐんぐん下る。ギアをセコンドに落としてエンジンブレーキでぐんぐん下る。

 無事コビリャンショッピングモールに到着。早速、ウォルテンの店員に聞いてみると、ちらっと見ただけでよくよく調べもしないであっさりと「ない」という。半ばまでとは言えせっかく上った山を下りてきたのだ。諦めきれる筈はない。幾つかのバッテリーがぶら下げてある場所に行って自分で調べてみたがやはりなかった。そこにいた別の店員にもう一度尋ねてみたら「取り寄せです」という。「このコビリャンの町に専門店はないのですか」と聞いてみたが「ない」という。万事休すである。

 諦めるしかないか。と思ったが、MUZが「このデジカメを買ってしまったら」という。そこには日本製や韓国製のデジカメが展示されていた。僕のデジカメももう随分使っている。今年帰国した折にドイツ人のロルフさんから「古いデジカメを使っているね」などともからかわれたくらいの代物だ。そう言えばもう既に12~3年も使っているのかも知れない。メディアも買い替えたし、バッテリーも買い替えたが何の支障もなく使っている。デジカメもどんどん進化しているが、僕は基本的に写真が撮れれば良い訳で今のデジカメで充分だと思っている。でも取り寄せのバッテリーの価格は案外高額だし、最新式のデジカメは安価で勿論バッテリーは標準装備されている。

 一眼レフなどもずらっと展示されている中で一番小型のニコンのデジカメを選んで思い切って買うことにした。一眼レフならそれは良い写真が撮れるのだろうけれど、僕はスケッチブックも持たなければならないし、あまり嵩張るデジカメは必要がない。小さくても8倍ズームでマクロも問題なさそうだ。取扱説明書はヨーロッパ言語でしかない。スペイン語、ポルトガル語、チェコ語、スロバキア語の4カ国語の取扱説明書が同梱されていて、英語もフランス語もなく、勿論、日本語もない。店員に「日本企業のカメラなのに何で日本語がないのだ」と冗談に言ってみると「ここはヨーロッパだからね」と返ってきた。

 ついでにショッピングモール内のファーストフード店でサンドイッチの昼食。

 

 マリア像の休憩所を過ぎたあたりまではノンストップで坂道を上る。

 エストレラ山の頂上は平らな平原になっていて、気象観測の古めかしいドーム屋根のレーダー塔が2棟と土産物屋の建物があるだけ。側に、冬場にはポルトガルで唯一のスキー場となるゲレンデがあり、そのリフトがある。もちろん冬場だけのもので今は作動していない。2日後に寒波が来る予報が出ているだけにさすがに寒い。我々はウインドブレーカーを着込んでいるが、他の観光客は下界の服装のまま、短パンにティシャツ1枚、ノースリーブの人もいるが、さすがに寒そうにして急いでクルマに引き返している。

 ひと通り土産物屋を見てみたが買いたいものは何もない。その土産物屋でエストレラ山特産のチーズを挟んだサンドイッチが売られていて、以前はそれを昼食として山頂の岩に座って食べたのが旨かったので、今回もその予定であったが、コビリャンのショッピングモールで昼食を済ませてしまったので、今回は買えない。

 山頂を過ぎたあたりにエリカの群生地があり、今回、エストレラ犬に背中を突かれたところだ。それを更に下ったあたりでエリカ・ウンベラタのより新鮮な花を見つけたので、停車して撮影。そこにはエリカ・ウンベラタだけではなく高山性のカンパニュラ。これは今日の新花。それにビオラ・ルテアも少しだけ咲いていた。

 そしていよいよ以前にビオラ・ルテアを観察した岩場の平原に着いた。以前と同じようにアルメリア・ガディタナ Armeria gaditana のピンク花が綺麗に咲いている。そんなアルメリアの群生の中でビオラ・ルテアを以前は見つけたのだ。そのあたりを丹念に探してみたが、一株も見あたらない。群生を期待していたが、たったの一株もない。

 その後も、何度も停車してビオラ・ルテアを探してみるが、最初の2箇所で見かけただけでその後は全く見つからない。

 その夜はセイアのホテル。コビリャンがエストレラ山の東側麓なのに対し、セイアは西側麓にあたる。このホテルも以前に泊ったホテルだ。

 夜に3台のデジカメと携帯の充電をしっかりとしてぐっすりと熟睡。

 朝、セイアのホテルを出て、きょうはエストレラ山の南側稜線を走る予定。僕はベルトの右と左にデジカメ。二挺拳銃だ。

 その途中に今夜泊る、ロリガという村がある。この道を走るのは初めてである。初めてであるが距離的には僅かで、当初は早い目に着いてそのあたりの森に入り山野草の観察をするつもりであった。

 ロリガの村に行く途中からもエストレラ山の頂上に行く別の道がある。ビオラ・ルテアの群生が諦めきれずにその山頂へ続く道に入った。立派な道であるが、ほとんどクルマが通らない貸切道路状態である。いろんな花が咲いているが残念ながらビオラ・ルテアは一株もなかった。やはり稀少な植物なのかも知れない。

 ロリガのホテルは国道沿いにあるが、村は谷底にある。ホテルの部屋からはロリガの村が俯瞰できる。部屋から幾つかをスケッチした。

 ロリガの村はずれに天然のプールと古代ローマ街道のハイキングコースがあり、歩いてみるとやはり珍しい花がいろいろとあった。天然のプールではヒッチハイクだというフランス人の若者男女3人が泳いだあとらしく甲羅干しをしていた。真冬並の寒波の筈であったが、それ程にもならなかった様だ、が多分寒かったのだと思う。日溜りで3人が寄り添い縮こまっていた。きょうは3台のデジカメともバッテリーが切れることはなかった。

 ロリガを出て、コビリャンへ戻る道沿いは途中からは以前にも走った道だ。その途中ウニャイスという村がある。その村はずれ手前に水が沸き出る山道があり、以前にもいろいろと花の写真を撮ったところだ。以前とは反体車線なので一瞬に通り過ぎてしまった。そしてその入り口には1台の商用車が休憩していた。

 ウニャイスのカフェでコーヒーを飲んでいる内に引き返すことを思いついた。僅か20分ほどの後戻りであるが、今回のエストレラ山では最後の観察になる。

 今回の旅では初から実に引き返すことが多い旅となった。以前なら行き当たりばったりその日の宿はその場所に着いてから、という旅が多かった。今ではネット予約で便利になった反面、却ってがんじがらめの旅となってしまっている。

 そんな中で、行きつ戻りつ、今までにこんな旅もなかった様な気がする。こんな予定通りにいかない旅も、あるいは旅の醍醐味なのかも知れない。VIT

 

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 日本で3ヶ月たらずを過ごし、ゴールデンウイークの影響が未だ始まらないうちに大急ぎでポルトガルに戻った。ポルトガルは多分既に初夏で暑いだろうと覚悟を決めていたにも拘らず、案外と涼しくて、空港からバスターミナル、そして我家へと大きな荷物を移動するのに、いつもなら汗だくで難儀するところだが、ミュンヘン経由の厚着のままで平気であったのにはかえって助かった。1時間に1本のセトゥーバル行きバスは2分も待たないで乗ることができた。

 

 深夜、無事に帰り着いて、風呂にも入り、ベッドも出発した冬のままなのにそのままでバタリと休むことにもなった。

 時差ぼけもほとんど感じない。ぐっすりと熟睡。

 

田舎道は花盛り。ラシラス・グランディフロルス Lathyrus grandiflorusとスカビオサ・アトロプルプレア Scabiosa atropurpureaの競演。

 

 野の花観察の季節には未だ間に合う。クルマの車検。そして税金の支払いなどを済ませ、早く野の花観察に出かけたい。翌日はクルマのエンジンは1発でかかった。いつも帰り間際にバッテリーを外しておくのだ。そうすればたいていエンジンはすんなりとかかる。

 

 以前からクルマの左前のタイヤの空気が抜けやすく、たびたびガソリンスタンドで空気入れをしていた。今回も少し抜けている様なのでよく見てみるとタイヤに亀裂が入っていた。これは危険だ。それにこれでは車検も通らないかもしれない。

 早速、タイヤ交換をしなければならない。でもその日は日曜日だったから月曜日まで待つことになった。

 

 最近はフランス系スーパー、インターマルシェが入っているショッピングモール内にあるローディという修理工場で全てをやってもらっている。既に僕は常連客で我がクルマのデータも保管されている。

 

 ショッピングモール内には日曜大工店、美容院、花屋、鍵屋、カフェなどが入っている。以前ならクルマの修理やオイルチェンジを頼んでおいて、その間にショッピングモール内にあるレストランで食事でもして時間を潰せばその間に出来上がっているから便利だと思ってそこに決めたのだ。だがその後、そのレストランは閉店してしまった。他にもショッピングモール内に空き店舗が目立つ。スーパーのインターマルシェもお客が少ないし、日曜大工店も殆ど客の姿を見ない。このショッピングモール内で繁盛しているのは修理工場のローディだけだ。

 

 ローディでタイヤ交換を頼みクルマを預けて1町ほど歩いたところにレストランのロツンダがある。その1町の間は国道10号線の幹線道路なのでクルマがびゅんびゅんスピードを上げて通り過ぎるし、路肩に軒並み駐車がされているので、歩道のない路肩を歩くのも容易ではない。だがその間の道端にも野草が咲いていて、幾つかをデジカメに収めた。天気は良いが風は案外と冷たい。

 

 ロツンダはわれわれだけが呼んでいる名前で、本当はオ・ソーラル・デ・パトという名前だ。訳せば太陽の鴨と言うことになるが、鴨料理専門という訳でもない。その日の定食と飲物、コーヒーまで付いて7ユーロから、7,5ユーロ、8ユーロ~11ユーロ位までと定食も様々なものが揃っている。煮込み料理などもあるが、店の前面で焼く炭火焼がメインだ。魚もあれば肉も焼く。この店ではデザートだけは別料金だが、一律、1,5ユーロと安い。そしてサラダや焼きたてパン、バター、塩漬けオリーブ、パン粥、ジャガイモやライスなどがどっさりと付いてくる。たいていは肉と魚を一皿ずつ注文して、半分ずつ分け合って食べる。

 

 久しぶりにロツンダに行った訳であるが、その日は月曜日であった。いつもなら陳列ケースの魚を見てその日のメニューを決めるのだが、炭火焼のコンロの前の陳列ケースは空っぽであった。おかみさんは腕組みをして「あたりまえよ、きょうは月曜日だから」という。日曜日は漁師の休日で、その翌日の月曜日はメルカドも休み。レストランでも魚の仕入れが出来ないという訳である。焼き魚は諦めて、豆と豚肉の煮込み料理とショコフリットと言うことにした。ショコフリットはセトゥーバル名物で巨大モンゴイカの唐揚げである。巨大モンゴイカはメルカドが休みでもどこのレストランでも常備されている。どちらも久しぶりのポルトガル料理だし、まあまあ旨かった。

 しかしこの店に月曜日に来たのは初めてだったのかも知れないが、お客はいつもより格段に少ない。デザートにプディンフランを食べたが、良く冷えていて、身体が凍ってしまった。店の中が底冷えするのだ。大急ぎでコーヒーを飲んで外に出た。外の方が暖かい。

 

 ローディに戻るとタイヤ交換は出来上がっていた。時間はまだ早い。この足で車検場に行ってみることにした。例年なら余程覚悟を決めて、前もってオイルチェンジなどを済ませておいてから、アサイチで車検に臨むのだが、今回は前2本のタイヤ交換はしたもののオイルチェンジはしなかった。これで車検にパスするのだろうか?一抹の不安が頭をよぎったが行ってみることにした。

 

 車検場受付の女子事務員とは既に顔見知りである。公務員特有の冷たい感じの女性だが、僕の顔を見ると少し顔をほころばせる「あらまた来たわね」という表情である。良く言えば、すらりと背が高くジュリア・ロバーツのタイプだが、神経質そうな眼鏡をかけ、表情はいつも硬い。

 車検場はセトゥーバルではなく、隣町パルメラの車検場に行く。パルメラはセトゥーバルに比べて空いているからだが、きょうは特別空いている。事務手続きを済ませると一時の猶予もなく、場内に響き渡る拡声アナウンスで呼び出された。そして試験官が手招きしている。試験官もいつもの人とは違うがこの人も顔見知りだ。

 以前にモンティージョのショッピングモールですれ違った人とお互いに挨拶を交わし「はて誰だったか?」と考えると、車検場の試験官であった。と思いついたことがあった。車検場で制服を着ている姿と私服ではイメージも違ってくる。相手は僕が日本人だからすぐに判ったのだろう。その試験官の姿はきょうは見えない。別の試験官だ。

 

 2000年にクルマを新車で買って、確か5年目くらいから車検があって、10年目からは毎年車検だから、既にもう何回も受けていることになる。慣れた筈のものであるが、いつも緊張はする。一発で通らなければどうしよう、と思ってしまうのだ。日本の様に車検代行はない。これはスウェーデンでも同じであった。本人が自分で車検場に持ち込み車検をうけるシステムだ。車検場内でも自分で運転をする。計器を見るのが試験官である。そしていろんなことを指示に従って行わなければならない。「ライトを点けて」とか「全開にして」とか「ワイパーを動かして」とか「ハンドルを揺らして」とか「吹かして」とか等々、いろいろとやる。試験官の言葉を漏らさずに聞かなければならないし、試験場内は底冷えがするが、僕はたっぷりと冷や汗をかく。

 全てが終って緊張がほぐれる。でもそれからが本番、いよいよ緊張が最大限に達する。結果発表である。少し離れたところから試験官の顔を窺がう。試験官は計器を眺めながら首を傾げたりもする。「あー、今回は駄目かぁ」「いや案外いけてるかも」などと考える暇もなく、試験官は和らいだ表情で緑色のシールの付いた紙を持ってくる。

 今回はオイルチェンジもしないで臨んだにも拘らず、1発で合格であった。前回はスモールライトの一つが薄いというので、直しておくようにとの注意書きがあったが、今回は僅かの注意書きもない。100パーセントの合格であった。何年か前の車検では何か難しい箇所が駄目で赤色シールの紙を渡されたこともあった。1ヶ月以内にその箇所を直して再び車検を受けなければならなかった。今回は本当に一発合格であった。

 

 翌日の税務署も空いていた。順番待ちの間に、たいていは奥のほうからアナモニカが気付き、わざわざ挨拶に出てくるのだが、今回は留守なのか、姿が見えない。

 アナモニカは同じマンションのマダレナおばさんの娘で、初めは一緒に住んでいたが、その頃は就職難で失業中であった。それが3時間あまりも遠く離れたヴィアナ・ド・アレンテージョという村の税務署に就職が決まり、しばらくはそちらの勤務であったが、その後、セトゥーバルの税務署勤務となっていた。その後、結婚もして男の子も生まれ、いつの間にか少し貫禄も付いてきている。セトゥーバルでの勤務ももう随分となる。フロントあたりではなく、いつも奥の方の席に居る様なので、重要な地位なのかも知れない。

 

 車検も終わり、税金も払って、明日からは晴れてアレンテージョにでもアルガルベにでもスケッチに、野の花観察にと、旅に出ることができる。スケッチをするにしても夏になれば暑すぎて動きが取れないし、野の花は咲いてはいない。今しかないのだ。

 先ず、インターネットで天気予報を見てみることにした。例年に比べると案外と天気は悪い。小雨のマークなども出ている。小雨マークが消えるのには3日間の猶予が必要である。

 3日間を待って、その間にキャンバス張りをすることにした。雨模様の湿度の高い時はキャンバス張りに最適なのだ。布は適当に延び、張り易く、乾燥すればぱりっと張れている。天気予報では小雨が降ることになっていたが、その3日間に小雨も何もなかった。

 そして3日目にアレンテージョのモンサラス近くのキンタ(農園)ホテルを検索して予約をいれた。この時期にしては格安(2人で朝食付き30ユーロ/1泊)である。予報では快晴続きの筈である。

 明日からと思っていたが、きょうから2泊と言うことにした。昼前の出発である。遅い昼食をアライオロスのトラック食堂で摂るつもりで、途中もスケッチをしたり、野の花観察をしたりと寄り道をしながらであった。野の花はいろいろと咲いている。今までほんの少ししか見なかったような花も群生をしていたりと、やはり年によっては違いがある。アライオロスのトラック食堂はいつも満席で早く行くか遅くに行くかでないとなかなかすんなりとは座れない。行列の出来るトラック食堂なのだ。

 少しスケッチもし、野の花をたっぷりと見てトラック食堂に入ったのは2時の少し前であった。テーブルは前の人の片付けがまだ済んではいなかったが、いくつかが空いていた。ウエイターのおじさんに「2人だけど」と言うと、「その窓際の席に座って」という。実は前回もこの席であった。自分で大まかに片づけをした。この店に来るのは5回目くらいだが、カウンター席に2回、別の個室の席に1回、そしてこの同じ席に2回目である。きょうも煮込み料理にした。豚肉とチョリソなどと野菜の煮込み料理である。注ぐだけだから早いだろうし、この店の煮込み料理は旨い。オリーブの塩漬けをあてにノンアルコールビールと田舎パン、デザートにはフルーツサラダ、そしてデスカフェナード(カフェインレスコーヒー)。締めて14ユーロ/2人と格安だ。

 きょうのホテルは予約済なので夕方遅くにでも到着すればいい。またもやゆっくりと田舎道を進む。野の花が綺麗に咲いていて、新たな花もいくつかをデジカメに収めることができた。同定できるかどうかが楽しみである。

 途中の道で前方に停まっている大型トレーラーの荷台からもうもうと煙が横に流れていた。煙で道も何も見えなくて追い越す訳にはいかない。前に5~6台の乗用車が立ち往生している。僕はすぐにUターンして別の道から行くことにした。後ろに付いたクルマも次々と僕に続いてUターンを始めた。

 別の道はかなりの大回りであった。でも更に田舎道なので野の花もたっぷりと見られる。ポルトガルの5月は陽が長く、いつまでも明るいので助かる。回り道をしたお陰でキンタホテルのある村の標識がすぐに目に付いた。キンタホテルもすぐに見つかった。

 バックで駐車しているとホテルの親父さんが事務所から出てきて、迎えてくれた。「予約したタケモトです」というと「判っているよ」という答えが返ってきた。まだ明るいとはいえ、もう夜の8時なのに他にクルマは停まっていない。泊り客は我々だけなのだろうか?クルマの後ろにはレモンの花が咲き、実がたわわに実っていた。丘の上の小さな村の中にあり。下には陶器の町、サン・ペドロ・ド・コルヴァルの村が俯瞰できる。親父さんは遥か彼方を指差して「あれがモンサラスだよ」と教えてくれた。モンサラスは数え切れないくらい訪れているところだが、こんな角度から見るのは初めてである。

 そしてこのキンタホテルは静かなところにある。プールの掃除ロボットだけが、浮いたり沈んだりと忙しく作動していた。

 翌朝、朝食室に行くと、既に4人のビジネスマンが朝食を摂っていた。夜遅くになって到着したのかも知れない。駐車場には僕のクルマの他に商用車3台が停まっていた。

 慌しさもこれまでで、そろそろポルトガル時間の中に溶け込んでいくことになりそうである。VIT

 

 

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 ヒマワリで思い起こすのは先ずゴッホである。

 ゴッホはパリで負った傷を癒やすが如く、広重や北斎の描いた日本(Japon)の様な明るい光線を求めて南国アルルへとやってきた。

 アルル駅に降り立った時には折りしも記録的な寒波がやってきていて、普段は決して降ることのない雪が舞い降りていた。

 下宿屋に荷物を下ろしてみたものの、じめっとして薄暗く、しかも下宿費が想像以上に高く、ゴッホの気持ちは落ち込む一方であった。南国本来の春が、焼け付く太陽の夏が待ち遠しくてならなかった。

 やがて巴旦杏やアイリスの花咲く春も過ぎ、夏の初めの頃、目と鼻の先に「黄色い家」が見つかった。暫くは誰も使っていなかったと見えて、古くあちこちの修繕は必要なのだが、明るく広くしかも家賃も安く理想的でゴッホは小躍りして喜び、制作もはかどって行った。

 そして明るい黄色い絵の具をたっぷり用いて「ヒマワリ」の連作に取り組んでいた。

 良いことは続くもので頭領ゴーギャンが来る、と言うことになった。ゴッホはかねてより考えていた理想に少しずつ近づいているのを感じていた。

 ゴーギャンのために新しくベッドと上等の肘掛け椅子を買いそろえ、歓迎の意味で頭領ゴーギャンの部屋を6枚のヒマワリの絵で飾った。黄色く明るいヒマワリの絵はそれまでにない色使いでこれから訪れるであろう絵画革命の先駆けとなる筈であった。

 

 ヒマワリの学名はHelianthus annuus、和名は向日葵と書き、英名はSunflower、仏名ではTournesol、そして葡名をGirassolという。何れも太陽と共に回るという意味がある。

 『キク科ヒマワリ属の1年草で、原産地は北アメリカ大陸西部。アメリカ・インディアンは紀元前から食用としていたと考えられる。

 スペイン人がスペインに持ち帰ったのが1510年、初めはマドリード植物園で栽培が試みられ、他のヨーロッパ諸国に広まるまでは100年近くの歳月を要している。フランスには17世紀、そしてロシアに伝わった。ロシアに到達してはじめて、その種子に大きな価値が認められた。

 正教会は大斎の40日間は食物品目の制限による斎(ものいみ)を行う。19世紀の初期にはほとんど全ての油脂食品が禁止食品のリストに載っていた。しかしヒマワリは教会の法学者に知られていなかったのか、そのリストにはなかったのである。こうした事情から、正教徒の多いロシア人たちは教会法と関わりなく食用可能なヒマワリ種子を常食としたのであった。そして、19世紀半ばには民衆に普及し、ロシアが食用ヒマワリ生産の世界の先進国となったのであった。』(Wikipediaより)

 日本にも17世紀に伝来している。

 

 僕が幼い頃の実家には未だ少しばかりの前庭があり、そこに父は毎年ヒマワリを植えていた。僕の背丈の2倍ほどもある大きなヒマワリは夏が過ぎてもそのままに放置されていた。やがて種が出来、ドライフラワー状態になってから、切り取られた。そしてそれは父の絵のモティーフとなった。父は明るいゴッホの様な黄色い絵ではなく、暗く緑褐色の枯れてしまったヒマワリを描いた。それは渋く静謐としていて、まるで骨董品を見る趣があった。

武本憲太郎「ひまわり」P30 昭和35年頃の作

 『枯れてしまったヒマワリ』と書いたが、ヒマワリの種は枯れてはいない。植物は4000年も昔の種でさえ発芽したりもする驚くべき力を秘めている。

 

 『ヒマワリの種には、葉酸、ビタミンE、鉄分、亜鉛、繊維、ビタミンB1、ビタミンB6、ビタミンB12、マグネシウム、カルシウム、カリウム、良質のタンパク質、トリプトファンなどなど、さまざまな種類の栄養分が含まれているという。

 アメリカでは、この栄養価の高いヒマワリはアメリカ・インディアン以来の伝統もあり推奨され、生活習慣病の予防や高血圧・貧血予防、脂肪燃焼、若返りなどの効果が期待できる、優秀な健康食品として知られているそうだ。ただし、カロリーも高く脂質も含まれるので、健康のためには一日スプーン1杯程度が適量と言われている。』(現代ビジネス/食の研究所より)

 

 大リーガーがダグアウトでヒマワリを食べる姿は有名でたびたび話題にも上る。それまでは噛みタバコを常用していたのだが、健康に良くないのと子供への影響を考慮し禁止になり、仕方なくヒマワリの種に切り替えたという経緯もある。

 ヒマワリの種を上手に食べられる様になって初めて大リーガーといえる。(ほんまかいな)

 先ず一つを口に放り込む。前歯で縦に割り、胚を舌先で横によける。横によけた胚を奥歯で噛み砕き味わいながら喉に通す。同時に前歯付近に残した殻の塩分を舌で嘗め回す。これが日高昆布に匹敵するほど実に旨い。

 それを大リーグのゲームを見ながら、野次も飛ばしながら無意識にやってのけてこそ大リーガーといえる。そしてその殻は相手選手(主にピッチャー)の顔を睨みつけながらダグアウトの前にぺっと吐き出す。一流選手ともなるとその殻も美しいのだそうだ。また、一度に20~30粒ものヒマワリの種を頬張り、上記のことを同じ様にやってのける。まさに神業といわざるを得ない。

 

 先日、ピニャル・ノヴォの露店市で不二家のペコちゃんならぬ、ミス・パロミタを見かけたので2袋買った。2袋で1ユーロ。中味はヒマワリの種である。

 もう10年も前の話だが、アレンテージョの田舎町のカフェでペコちゃんにそっくりな絵が描かれたものを見かけたので興味本位に買ってあけてみたところ、甘いお菓子ではなく塩辛いヒマワリの種が出てきて驚いたものだ。それからもいろんなところでミス・パロミタを見かけるようになっていた。

 今回はヒマワリの種と知って買ったものだ。露店市のその店には量り売りのいろんなたね類が専門に売られていて、かぼちゃの種などもあった。ミス・パロミタの描かれた袋も大小味付けの違う幾つもが取り揃えられていて親父さんは全部を並べて見せて自慢げであった。

 

 ミス・パロミタは金髪である。その点だけがペコちゃんとは異なる。舌を横に出した感じ、目の感じ、顔の輪郭など一分の違いもない。

 この会社はスペインにあり、創業が1932年というからかなり古い。不二家の創業はもっと古く1910年。しかしペコちゃんをキャラクターとして採用したのは1950年。微妙な年代だ。でもミス・パロミタをキャラクターとして使い始めたのも創業と同時ではなく後になってからというから、ペコちゃんとしては不二家の方が少し古いのかも知れない。

 不二家のペコちゃんもアメリカのキャラクターを参考に作られたというから、はなしはややこしい。アメリカではその後、すぐに姿を消しているそうでそちらでは問題はない。

 ミス・パロミタはキャラクターとしてもスペイン、ポルトガルでは浸透していて、バッグに描かれたり、変ったものでは女性用のパンツの絵柄になっていたものも見たことがある。(やはり露店市で売られていたものである。)そしてスペイン、ポルトガル人は不二家のペコちゃんの存在を知らない。ヨーロッパでは不二家製品は売られていない。

 ペコちゃんとミス・パロミタは瓜二つそっくりであるが、中味は全く違う。一方はミルキーな甘いお菓子なのに対して、片や塩辛いビールの宛てに丁度良いつまみである。

 僕にとってはペコちゃんならぬミス・パロミタの袋をやぶってそれを眺めながらビールを飲むのには非常な違和感がある。果たしてスペインやポルトガルのおじさんたちはどんな気持ちでミス・パロミタを眺めながらビールを呑んでいるのだろうか。

 

 もしあの頃、ゴッホとゴーギャンが黄色い家の住人となったあの頃、二人が常呑していた深緑色の強いアブサンではなく、もう少し軽いワインかビール、そしてそれと共に、未だ大リーグはなかっただろうし、ミス・パロミタの会社も創業はしていなかったが、大リーガーの様に、或いはスペインおじさんの様にヒマワリの種を食べていたら、その後の美術史はもしかしたら違うものになっていたのかも知れない。VIT  (C)2015  MUZVIT

 

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 一昨年のクリスマス(2013年)は久しぶり(23年ぶり)に日本で過ごしたが、このところ毎年はアルブフェイラのホテルで過ごすことが多くなっている。

 アルブフェイラはポルトガルの南に位置し、夏場はリスボンあたりからはもちろん、イギリスやフランスなどからも大勢が押し駆ける海水浴場で1級?のリゾート地。

 昔はひっそりとした寒漁村だったのが、今は大小無数のリゾートホテルが建ち並び、リゾート客目当てのアメリカ風バー、ディスコ、アイリッシュパブ、果てはフィッシュ・アンド・チップスの店まで開店し、夜はラスベガス?なみのネオンが煌く通りも出現する。

 夏のフェリアス(ヴァカンス)にはポルトガルの政治家、財界人、芸能人などもこぞってアルブフェイラに集結し、秘密会合?なども行なわれ、テレビ局もスタッフ一同移動、アルブフェイラからの中継。

 そんなリゾート地も冬場には比較的ひっそり。冬場でもイギリスやドイツあたりから老人リゾート客がパックツアーで大挙訪れるが、夏場に比べるとほんの僅か、全てのホテルの客室が埋まることはない。それで閉めてしまうホテルも続出するが、閉めるには忍びない、と安売り競争。3星や4星ホテルが朝食付き1泊2人で20~38ユーロ。簡易キッチンの備わっている部屋も。部屋はビーチに面し、ベランダに出るとカモメの声、打ち寄せる波の音、そして大西洋へ沈む夕日が美しい。

これは夕陽ではなく日の出。ホテルのベランダから。

 イギリスあたりからのリゾート客は水着になり、日焼けしていない真っ白な肌を露に日光浴。2014年12月24日、2人の子供が泳いでいたのには驚き。天気は良いと言へども海水は氷水ほどの冷たさ。

砂浜に制作中のプレゼピオ。

 三人の男女が競い合って砂城作り。

 夕陽が落ち夕食(2食付4星ホテル2人1泊58ユーロ)も済ませた後、町に出てみると広場にはクリスマスイルミネーション。

 お正月早々、クリスマスの話。何と蛍光灯的話題。(古い言いまわし?)

 日本では12月25日も夜になるとクリスマスケーキの投売りが始まり、クリスマスツリーも早々と片付けられ、お正月飾りに衣替え、などと慌しく、文字通り先生も走り出す師走。

砂浜に制作中のクリスマスツリー。2014年12月23日。

 一方ポルトガルではクリスマスケーキ(ボーロ・レイ)など1年中売られているし、クリスマスは静かに、など昔の話。ポルトガルのクリスマス商戦など日本以上?テレビでは11月初旬からクリスマスソング。先日はサンタクロースの赤い帽子を被った200台ものバイク軍団が我家の前をクラクションを鳴らしながら爆走。お巡りさんもバイクのヘルメット着用義務に大目を見ているのか?いやはや。

 そしてポルトガル(ヨーロッパ)のクリスマスは1月6日のエピファニアEpifania(公現祭=東方三博士の礼拝日?)まで続くのです。クリスマスツリーもそのまま、イルミネーションもそのまま、クリスマスリース(ドア飾り)もそのまま。

 クリスマス飾りといえば「プレゼピオ Presepio」。

 ポルトガルの各町々、村々の礼拝堂はプレゼピオ飾り。

 まあ日本ではお雛様飾りの様なものでしょうが、人形が動く仕掛けになっていたり、最近はLEDのイルミネーションを取り付けたりと、楽しませてくれます。その中心にキリスト誕生の「馬小屋」

ドライブインのプレゼピオ。12月23日なのでイエスはまだ誕生していない。

 ところが今年のセトゥーバルの礼拝堂はプレゼピオなし。以前には毎年、箱庭のプレゼピオで楽しませてくれていたのが、作る人がいなくなったのか淋しいかぎり。セトゥーバルの中心、ボカージュ広場のクリスマスツリーといえば、古タイヤにペンキを塗り、大きいのから順番に重ねただけ。メルカドのツリーもジュースの空きパックの再利用。

ジュースの空きパックで作られたメルカド(公設市場)のクリスマスツリー。

 プレゼピオも古雑誌などの再利用。ごみのリサイクルを喚起する呼びかけにもなっているのかも知れないが、異教徒の僕から見ても「キリストさんを冒涜しているのじゃないの。」と言いたいくらい。

古雑誌などを再利用し作られたメルカドのプレゼピオ。

 まあ、宗教色が薄れているのは良いことかもしれませんが。VIT

 

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