先日、クリスティアーノ・ロナウドが4度目となる『バロン・ドール』を受賞した。テレビで試合などを見ているとしょっちゅうゴールを外しているし、僕にはそれ程優秀な選手には思えないのだが優秀なのだろう。サッカー自体の契約金も年俸もとても使いきれないほどになるのだろうと思う。調べてみるとクリスティアーノ・ロナウドの年収は275億円だという。1日に直すと~。まぁ、ええかっ。

 ポルトガルテレビにはうんざりするほどコマーシャルに登場する。最近は母親同伴でコマーシャルに出ている。コマーシャル収入も相当なものなのだろう。そのコマーシャル収入に対する納税義務を怠っているのではないのか?スイスやバージン諸島に回避してのタックスヘイブンではないのかと捜査対象になっているとか。

 少し前にはアルゼンチンのメッシも脱税容疑で取調べを受けた。何でも大金6億円もの追徴課税を支払ったという。本来なら拘束されるところだが、初犯ということで、執行猶予扱いになっている。結構厳しい内容だ。

 ポルトガル代表でクリスチャーノと同様、リアル・マドリ在籍のコエントロンも捜査の対象になっているし、セトゥーバル出身の監督、ジョゼ・モウリーニョも捜査の対象になり、既に追徴課税を支払い済みだとか。とにかく一般庶民には想像もつかない金額を手にする。毎週宝くじに当っている様な金額で、とても使い切れないのだからすんなり税金など払えば良いと思うのだが、少しでも節税を考えるものなのか、そういった方法を教授する人たちがいるものだからそんな話は後をたたない。

 さてそんな大きな金額の話から一転して、些細な金額の税金のはなし。

 僕たちは毎年、春に日本へ一時帰国する。だいたいその頃に個展があるからだが、今年も2月中旬から5月中旬まで日本ということになる。今年は例年に比べても少し長い。

 昨年も5月初旬にポルトガルに戻ってきた。戻ってくると郵便受けにはぎっしりとダイレクトメールなどが押し込まれている。電話代、電気代、水道、ガス、などの銀行引き落とし通知書が殆どだが、そんな中に車検の期日を知らせるはがき、そして固定資産税の振込用紙なども混ざっている。固定資産税は銀行引き落としでは出来なくて、ATMから支払うか、直接税務署の窓口に行かなければならない。だから毎年、ポルトガルに戻った次の日に税務署の窓口に支払いに行く事にしている。そして固定資産税とクルマの税金を一緒に支払う。

 それが昨年はその郵便受けに固定資産税の振込用紙は入っていなかった。「遅れているのかな」と思いつつ、ポルトガルに戻った次の日にはクルマの税金だけ支払って、その足で車検を済ませた。

 そしていつまで経ってもその固定資産税の振込用紙は送られてこなかった。これは何処かで紛失していて、「その内、莫大な追徴課税と共にやってくるのかも知れないぞ。」と思い始めていた。重い腰を上げたのが半年以上たった12月である。

 先ずいつもの窓口に行った。ここでは順番札を取ってもそれ程待たされることはない。以前なら待っている間に奥のほうに座っているアナモニカが我々を目ざとく見つけて挨拶にやって来る。それが2年ほど前からセトゥーバルの支局に移ったらしく姿は見えない。以前、母親のマダレナおばさんがそう言っていた。

 すぐに順番が来て、昨年の領収書を見せ「今年の分を支払いたい」と言うと、パソコンを操作して調べてくれたが「ここでは判らない。隣の部屋のAの札を取りなさい」と言ったものだから、隣の部屋のAの札を取って順番を待つことにした。前には15人もの人が待っていることになる。でもそんなに人は居ない。札だけ取って頃合を見計らって戻ってくる人も居るのかも知れない。

 待合場所の椅子はちぐはぐなのが置いてある。ビニール貼りのベンチは背が高く奥行きが長くとても座り心地が悪そうだ。その他に事務所で余ってしまったのか、古い事務椅子が2つ、そして向こう側にも1つ。MUZはその座り心地の悪そうなベンチに座った。僕がきょろきょろしているとベンチの隣の事務椅子に座っていた男が別の事務椅子に移り直し、僕にその今まで座っていた椅子を勧めてくれた。そして僕の番号札『38』番を見て、「恐らく今から1時間半は待つことになると思うよ」と教えてくれた。その男の番号札は『30』でもう既に1時間も待っているとのことであった。お昼にかかってしまうし、職員も交代で昼食に出かける時間だし、1時間半どころか、もっと待つことになるのかも知れない。その日は金曜日であった。こういった場所は概して金曜日と月曜日は混みあう。「そうだ、来週水曜日に出直そう」と思いたち、その男に挨拶をして外に出た。

 クルマはいつも古い水道橋のあたりに駐車する。税務署からも歩いて10分はかからない。いつも何台分かは空いているし無料路上駐車である。古い水道橋の向こう側には広い石畳があっていざという時のヘリポートになっていて、一箇所救急車が出入り出来るスペースだけは駐停車禁止だ。そのあたりにも牧場などとは違う野の花が咲いていて、要チェックである。

 途中中央郵便局の前は全面通行止めにして大掛かりな道路工事をやっている。必要があるのだろうか?という工事だがポルトガルは税収が少なくあまり公共工事などに使えない筈なのにあちこちを掘り返している。いつも行くロツンダのレストラン周辺の歩道工事もやっているが、今までそのあたりを歩いている人は見たことがない。

 税金を支払いに行こうとしているものだから、税金の使い道については敏感になっている。その日はそのままスーパーに買物に行き家に帰った。買物については日本の消費税にあたる物品税を多額に支払っていることになる。でも日本に比べると物価は格段に安い。

 さて、次の水曜日には忘れずに再び税務署に出かけた。水曜日といえどもあまり先週の金曜日と変らない。やはり番号札は10人ほども待つことになる。その日は最初から座り心地の悪そうな背の高い奥行きの深い、緑色のビニール貼りのベンチに二人並んで座った。座ってみると思ったほど座り心地は悪くはない。少なくともこの待合室の椅子に関しては税金の無駄使いはなさそうである。

 Aの番号札で呼ばれても別のカウンターで何ごとか相談事をしていて「ちょっと待ってくださ~い」などと叫んでいる人もいる。やはり早くに番号札を取って頃合を見計らって戻ってくる人もいる。そして居ない番号もある。5回ほど呼び出して居なければ次の番号を呼び出す。僕たちの前は10人の内半分程が居なかった。

 やはり水曜日。それ程も待たされずに、やがて僕たちの番がやってきた。カウンターで対応してくれたのは、まるでサンタクロースの様な白髪混じりの立派な髭を生やし、鼻眼鏡を掛けた、定年間近といった感じの男性職員であった。先日と同じ様に昨年の領収書を見せて「今年の分を支払いたいのですが」と言った。カウンターからパソコンのところに引き下がって調べている様子である。そしてすぐに戻ってきた。「このあなたの住まいは古くなって資産価値が落ちています。昨年は払い過ぎていますので今年はその調整で無料です。来年はまた支払いして頂く事になるでしょう。」という僕たちにも判りやすいポルトガル語での明快な答えであった。支払い過ぎているといっても気になるほどの金額ではない、僅かな金額である。

 セトゥーバル出身の2010年世界最優秀監督ジョゼ・モウリーニョがすんなり追徴課税を支払ったものだから我家の固定資産税が無料になった。などと言う事は絶対にない。きっとサンタクロースからの贈り物に違いない。VIT

 

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 キノコを観察する為に森に入った。その森はセトゥーバルの郊外、町の東側にある。

 我家は町の西側の丘の上。自宅を出て、町を横断し、アルト・ダ・グエラあたりの工場地帯の縁を通って森までやってくる。工場地帯を過ぎたあたりには少し湿地帯があり、廃工場の煙突の上にはコウノトリが巣を架けている。湿地帯はコウノトリにとっては餌場になるのだろう。

 森はコルク樫と松の混生林で、アンズタケやチチタケに混ざってテングタケ、ドクササコ、タマゴテングタケなどの猛毒キノコの宝庫でもある。広い森でぐるりとひと回りするだけでも数時間もかかってしまう。その先には葡萄畑があり今は丁度紅葉が美しい。更にその先に塩田が作られ、その向こう側にはサド湾が輝いている。10月中旬から3月頃まではピンク色のフラミンゴの群れが姿を見せる。そしてそのあたりは自然保護区となっている。

 

葡萄畑の紅葉

 森は手付かずのままの様相で刺が厳しいウレックスなどが繁茂しキノコ観察の行く手を阻む。そんな中にヒースや紫色の優しい花弁と長く垂れ下がった雄蕊が際立ったオレンジ色のサフランがぽっと咲いていたりもする。

 森に入ってからは匂いはしないが、途中、アルト・ダ・グエラあたりでは悪臭を感じた。締め切ったクルマの中までも侵入してくる。パルプ工場の悪臭だ。

 セトゥーバル半島は首都リスボンの南に位置し、4月25日橋かヴァスコ・ダ・ガマ橋で、或いは渡船に乗ってテージョ川を渡らなければならない。橋を渡ったあたりにはアルマダ、セイシャル、バレイロ、モイタ、モンティージョ、アルコシェッテなどというリスボンの衛星都市がテージョ川沿い、セトゥーバル半島の北に連なりリスボンへの通勤、通学のベッドタウンとして今尚増幅を続けている。一方セトゥーバルはセトゥーバル半島の南に位置し、通勤、通学には不可能ではないが、少し距離がある。しかしセトゥーバルだけでも機能している都市といっても差し支えないほど商工業が発達している。

 セトゥーバルを含めこのあたり一帯をコスタ・アズール地方と呼ぶ。日本語に訳すと青の海岸、フランス語ではコート・ダ・ジュールと言う美しい響きになる。

 セトゥーバルの歴史は古く、古代ローマ時代にまで遡る。古代ローマ時代にはセトブリガという名前でその頃からイワシが大量に獲れたらしく、イワシの塩漬け加工窯やローマ式風呂などの遺跡も残されていて、大規模に魚の加工が行われていたことが覗われる。遺跡として所々残されているローマ街道を伝って、塩漬け魚は内陸部へと運ばれていたのだろう。

 セトゥーバル郊外では今も大規模な塩田が営まれている。イワシの塩漬けはその後、オイルサージンの工場へと姿を変え、つい最近までそんな魚の缶詰工場は幾つもがあったし、工場跡は廃工場として今も残っている。その一つは博物館として改装されオイルサージンの工場の様子などが展示されている。

 

廃工場煙突のコウノトリ

 セトゥーバルは活気のある町で古代ローマ時代から、ムーアの時代、レコンキスタを経て、中世、近代そして現代へと脈々と受け継がれた労働者の町ということになる。

 そんな労働力を見込んで幾つもの工場が進出している。一つはフォードとフォルクスワーゲンの自動車工場。そしてセメント工場。これは丸ごと石灰岩のアラビダ山を削っての工場である。画廊のペドロは「あと10年でセメント工場の操業は終る。」と言っていたが、あれから10年を過ぎた今も終りそうにない。そしてパルプ工場。アレンテージョには成長の早いユーカリがたくさん植えられていて大型トラックでユーカリ材がセトゥーバルに大量に運ばれてくる。ユーカリはパルプになる。パルプにされたものは遠く日本にまで輸出されているそうである。

 セトゥーバルには広い湾と良港があり、タグボートに誘導され大型の貨物船がひっきりなしに入港、出航している。パルプもセメントも自動車もそしてワインもコルクもこの港からどんどん運び出されている。時折巨大な大型タンカーも入港してくる。石油精製工場もあるのだろう。そして潜水艦や軍艦までも入港する。土日にはたくさんのヨットが浮ぶ。勿論、中小漁船の出入りは多い。対岸トロイアとを結ぶフェリーや渡船と共にイルカウォッチングの船も行き来している。イルカも住み着いている。

 セトゥーバルに住んで26年が過ぎた。「何故、セトゥーバルに住んでいるのだ?」とよく言われる。工場労働者でもないのにセトゥーバルに住む必要はないのかも知れない。ポルトガル人から見れば不思議なのだろう。そして左派政党が強い町らしい。でも「住めば都」とは良く言ったものだ。他の町を知らないから言えるのかも知れないが、「よくぞ良い町を選んだものだ」と思っている。物価もリスボンなどに比べると少し安い様だ。

 26年前に選んだ理由として、それまで宮崎で13年間を山の中に暮らしていたので、次は海の見える港町。と思っていた。日本との往復に必ず使うリスボン空港からそれ程遠くはなく。そして小さ過ぎず大き過ぎず、一応何でも揃う生活臭のある町。と漠然と思っていて、その通り選んだだけだ。そしてたまたま部屋が見つかっただけ。それから27年目である。

 住んでみて前にも書いたが「よくぞ良い町を選んだものだ」と思っている。それは第1に、アレンテージョ地方への玄関口に当たり、交通の便が良いこと。僕の絵のモティーフはアレンテージョの田舎町が多い。

 でも予想をしなかった事柄が一つある。それは悪臭公害である。1年の内7日~10日くらいだろうか?続けてではなく断続的だが、パルプ工場からの悪臭がこのセトゥーバルにたちこめる。たいていが雨季に入った今頃、秋から冬に多い。気圧が低く、大気は上空へと逃げない、どんよりと曇った朝などに窓から悪臭が侵入してくる事がある。それでも1日中という訳ではなく午後には消え去っていることも多い。それは四六時中ではなく365日の内ほんの7日~10日ほどに過ぎないからあまり気になる程でもない。慣れてしまっているのかも知れない。

 かつて宮崎の日南市もパルプ工場の悪臭に悩まされていた。でも現代の悪臭除去システムによって全く悪臭はしなくなっている。だから設備さえ整備すれば悪臭はしなくなる筈である。セトゥーバルではそれをしない。費用の面などがあるのだろう。

 

夕暮れのセトゥーバルの町と商工業港、そして工場地帯。(我家のベランダから)

 パルプ工場は我家から見れば町の反対側でその高い煙突も煙もここから見える。風向きによって悪臭が運ばれてくるのだ。悪臭は秋から冬に多いので元から窓は閉め切っている。そしてそんな日には洗濯物に臭いが移りはしないかと少々心配ではあるが、今までそんなことは無かった。慣れてしまっているからかもしれない。

 セメント工場はサン・フィリッペ城の裏側だからここからは見えない。でもフィグエリーニャの海水浴場に行く時はセメント工場のパイプラインの下を潜って行く。そのあたりではやはり粉塵があって街路樹などは埃っぽい。セトゥーバルまでは粉塵は来ない様だが目に見えないものもあるだろうし、こればかりは判らない。

 もう20年くらい前になるのかも知れないが、EU先進国のイギリスあたりから環境保護の調査員がセトゥーバル沿岸のヘドロを採取しに来た事がある。大きなニュースにはならなかったから重金属などの公害物質は検出されなかったのだろう。もし重金属などの公害物質が検出されていればメルカドの魚介類は食べられなくなってしまう。

 ジュリア・ロバーツ主演の映画で「エリン・ブロコビッチ」(2000年アメリカ)というのがあった。ジュリア・ロバーツにとってもアカデミー主演女優賞を獲った映画だから代表作と言えるのかもしれない。あらすじは失業中のシングルマザーが交通事故で信号無視してきたクルマにぶつけられてしまう。勝訴確実と保険会社の言葉にも拘らず、相手は医者で社会的立場の弱い失業中のシングルマザーは「当たり屋」呼ばわりされ敗訴してしまう。

 保険会社に交渉に行くわけだが、そこで無理やり割り込んで仕事を確保。そして保険会社でも棚上げになっていた難しい地元の公害問題と取り組むことになる。素人のシングルマザーの勉強、奮闘振りは見ていて胸のすく気持ちの良いもので、ぐいぐいと引き込まれていく。最終的には重金属を垂れ流していた企業から多額の保障金を確保するという話。これは実在の人物と事実を映画化したもので難しい公害問題を扱っている映画にも拘らずジュリア・ロバーツの明るさも手伝って痛快な映画に仕上がっている。

 日本は公害先進国と汚名を着せられている。明治時代からその公害を数え上げるとキリがないほどだ。そしてその対策も先進国の筈である。そんな技術をセトゥーバルに輸出して貰いたいものである。

 セトゥーバルでは重金属などの公害物質は検出されなかったとのことでほっとしている。

 セトゥーバル郊外のキノコの森にはコリジオラ・テレフィイフォリア Corrigiola telephiifolia という植物が今丁度、花を付けている。花の直径は2ミリほどでよく目を凝らさないと全く目に入らない地味な花だ。うっかりすると踏みつけてしまう、いわば雑草の一つである。でもデジカメで撮ってよくよく見ると見事な5弁花をしている。この植物が実は重金属などの公害物質を吸収する可能性があると研究がすすめられている。

 すぐに除草剤の対象になる、いわゆる雑草扱いされている植物も、人間を殺してしまう猛毒キノコと言へども付き合い方さえ間違わなければ、地球上のあらゆる物に無駄は一つもないのだ。と今更ながら思う。

 重金属同様、或いはそれ以上に恐ろしいのが放射能汚染、そして原発事故だろう。

 ジャック・レモンとジェーン・フォンダ主演で『チャイナ・シンドローム』(1979年アメリカ)という映画があった。もう一度観てみたい映画だが、原発の管理のずさんさ、メルトダウン、利益優先の隠匿など2011年の福島原発事故を彷彿とさせる。この映画公開の12日後、スリーマイル島で事故があった。更に7年後、チェルノブイリで、そして32年後の福島である。映画の教訓は残念ながら生かされていない。

 ポルトガルには原発はない。ポルトガルをクルマで走れば判るが、国中いたるところで発電用風車が回っている。そして巨大なソーラーパネルのメガソーラーも目にする。セトゥーバルでは古代ローマ時代から波力を利用した水車(Moinho de marē)や丘の上の風車(Moinho de vento)がパンの粉を挽いてきた実績がある。VIT

 

葡萄畑の紅葉とフラミンゴやイルカの住むサド湾

 

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 先月、山火事があったばかりで、痛々しく赤茶けた松林に周辺が囲まれた、お隣のホテル屋上ベランダで今夜は何やらパーティーがあるらしく、着飾った人々が大勢集っている。正装した蝶ネクタイのボーイが颯爽と人々の間をすり抜けカクテルなどのサーヴィスに忙しそうだ。そしてピアノ、ギター、ベース、ドラムスのクアルテットでジャズが生演奏され、女性歌手が軽快な歌声で「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」などを歌っている。

 ポルトガルに来てからはジャズについてはまったく皆無であった。

 ところが最近になってほんの少しだがジャズが耳に入るようになった気がする。

 数年前にインターネットをケーブルテレビに替えてからはテレビの映画が見放題となって、毎晩ベッドに横になりながら映画を楽しむようになっている。

 映画の中ではジャズがよく使われている。「あっ、これは聴いたことがあるぞ」とか「いや~懐かしいな」とか「誰だったかな」などと思いながら映画を観ることも多い。BGMとして使われている映画も多いが、ジャズそのものがテーマの映画もある。

 先日、マット・デイモンとジュード・ロー主演の映画で、昔のアラン・ドロンの「太陽がいっぱい」(1960年ルネ・クレマン監督)の焼き直し版の映画「リプリー」(1999年アメリカ映画)を観た。焼き直し版といっても、こちらのほうが原作に忠実だそうだ。

 テレビの映画はしょっちゅう同じ映画を繰り返しやるので、もうこれも3回目くらいだ。でも途中からだったりすることも多い。先日は最初から観ることができた。良い映画なら3回でも4回でも見たいものだが、くだらない映画は途中で他のチャンネルに替えてしまう。

 あらすじは、ニューヨークのホテルで働く貧しい青年、トム・リプリーが、急遽、ピアノ弾きの代役としてパーティーでピアノを弾くことになる。ボーイ服ではまずいというので、プリンストン大学のジャケットを借りて弾いたことから、資産家の客は息子と同じ大学だと勘違いし、イタリアのリゾート地で遊びほうけている息子を連れ戻す様に依頼する。これはチャンスと思い、とっさに息子のディッキー(ジュード・ロー)の友人を装ったトム・リプリー(マット・デイモン)。

 息子のディッキーはジャズが好きだという情報を得たトム・リプリーは、一夜漬けでジャズの勉強。

 ジャズのLPレコード数枚を携えてイタリアへと向う。その中には僕にとっても懐かしいLP、チェット・ベーカーの「シングス」も含まれていた。そのLPの中では「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」が歌われている。

Chet Baker「Sings」1956年Pacific

 イタリアのリゾート地に着きディッキーに近づく事が出来た訳だが、夜には案の定、ディッキーはジャズクラブなどに常連として出入り。トム・リプリーを誘う。ディッキーは何でも出来る放蕩息子だが、ジャズクラブではプロのミュージシャンに混じってアルトサックスなどを披露する。ジャズと言えばニューヨークだが、ニューヨークから来たトム・リプリーも舞台に招きいれ一緒にジャズの歌などを歌いすっかりうちとける。

 舞台に上がったトム・リプリーも調子に乗り、もう一曲、チェット・ベーカーの「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」を歌う。

 僕は映画「リプリー」のあらすじを書くつもりもないし、解説を書くつもりもない。ジャズの話である。

 そのトム・リプリー、つまりマット・デイモンの「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」が実に素晴らしいものであった。

 マット・デイモンは名門ハーバード大学出の俳優で、才能豊かで何でもこなす。ピアノもこなすから僕はこの「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」もピアノの弾き語りで聴いてみたかったなと思ったほどだ。

 さてそのチェット・ベーカーの話である。

 いや、その前にニューヨークの話である。僕は1975~6年頃、1年間をニューヨークで過した。住まいはウェストの75丁目42番地、地上階。ワンルームにシャワー室とトイレ、台所も付いていた。エアコンも暖房器もなく、小さな窓を開ければお隣の室外機からの熱風。夏はサウナの暑さで、冬には凍えるほど寒かった。パークサイドウエスト通りまでは1分。その道を渡ればセントラルパークである。72丁目のあのダコタ館から3ブロックほど北の裏手といったところだが、マンハッタンとはいえ摩天楼とは違い5階建てほどの低層ビルばかりが建ち並ぶ閑静な集合住宅街。

 仕事は90丁目と91丁目の間でブロードウエーに面していたが、ハーレムにも近くあまり環境が良いとは言えない場所にあった。事実、僕がいる間にも3回のピストル強盗に見舞われて新聞にも載った程だ。そのマクロバイオティックレストランでコックの仕事である。

 帰りはたいてい仕事仲間と一緒に帰ったりもしたが、往きは一人であった。僕にはレストランの仕込み仕事があって、皆よりも早くレストランに入らなければならなかった。75丁目の自宅から90丁目までぶらぶら歩いて行ったり、自転車で行ったりだったが、途中、86丁目だったかに大通りがあるが、そんなところに一軒の小さなジャズクラブがあった。名前は忘れた。昼間はもちろん閉まっていたが、閉ざされた入り口の横にライブミュージシャンの名前が小さく張り出されたりしていた。ジャズクラブと言えばビレッジ周辺かせいぜいミッドタウンまででアップタウンにはあまりジャズクラブはない。あまりジャズクラブ、どころかお店も何もない環境で、「エ、こんなところに」という感じの店で、それでも3~4度はライブを見に入ったが、店内も狭かったが舞台などもなく、普通のお客はあまり居なくて、お客も黒人のジャズメンばかりがカウンターに寄り掛って身体を揺すりながら飲んでいる、という感じの店であった。

 どこのジャズクラブでも毎週演奏者が替わる。ニューヨークには「ヴィレッジ・ヴォイス」という週間新聞が売られていて、それにはジャズライブの広告が出る。僕は毎週必ずこの新聞を買って、その広告を検討し、その週に行くジャズクラブを決める。毎週1軒か多い時には2軒、仕事が終ってからか、休みの日の夜、どこかのジャズクラブのライブに必ず行っていた。そのヴィレッジ・ヴォイスには86丁目の店の広告は出ない。

 だから僕は仕事に行く途中、その86丁目の店の張り紙を見ながら行くわけであるが、ある日「チェット・ベーカー」の文字を見つけた。それまでチェット・ベーカーは麻薬に溺れて廃人同様になっていると言われていた。だからという訳ではないが、僕はそのライブには行かなかった。たまたま別のジャズクラブでもっと見たいミュージシャンが出ていたのであろうと思う。とにかくチェット・ベーカーには行かなかった。今から思えばそれが残念である。

 その後、チェット・ベーカーは表舞台に復帰したというニュースがあった。86丁目のライブはチェット・ベーカーにとって復帰の前哨戦だったのだろうと思う。その後は主にヨーロッパで活躍したそうである。それから10年ほどして、アムステルダムのホテルの窓から転落死のニュースが報じられた。事故か自殺かは判らない。謎のままである。

 チェット・ベーカーの楽器はトランペットである。派手さはなく、渋い音色、メロディは心にずしりと浸み込む。チャーリー・パーカーのコンボで活躍した時期もあったし、マイルス・デイヴィスと人気を二分した時期もあった。又、歌も歌う。素朴で語りかけるような歌いかたで、これ程味のある歌い方は他にはない。あのボサノバのジョアン・ジルベルトがチェット・ベーカーの歌い方に感化されボサノバ誕生の一因になったというのは有名なはなしである。ジョアン・ジルベルトの奥さんのアストラット・ジルベルトが歌った「イパネマの娘」は世界中で大ヒットした。

 「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」は実に多くのミュージシャンが歌っているが、チェット・ベーカーの歌が僕は一番好きだ。心に沁みる。

http://video.search.yahoo.co.jp/search?p=My+funny+valentine&tid=22c98f64459e298db323660725883c49&ei=UTF-8&rkf=2&dd=1

 歌は、音楽は、テクニック(技術)ではなく「心だ。」と言っているように思う。それは絵も全く同様だと思う。絵はテクニック(技術)ではなく「心(気持ち)なんだ」とつくづく思う。

 この映画「リプリー」ではマット・デイモンがそんな感じで歌っている。

 その一週間後、ジュード・ロー主演の「アルフィー」(2004年)を観た。ジュード・ローにとっては「リプリー」から5年後、あの「コールドマウンテン」の翌年の映画だ。この「アルフィー」も1966年の同名映画(マイケル・ケイン主演)のリメイク版だ。1966年の映画の舞台はロンドンだが2004年はニューヨーク。

 主人公アルフィーはロンドンからニューヨークにやってきてリムジンの運転手をやっているのだが、開放感からか恋人が居るのにも拘らず、いろんな女と一夜を共にする。その内、全ての女との破綻が起きる。と言った内容。ある女(シエナ・ミラー)との別れ話が持ち出されたそのアパートの壁には何とチェット・ベーカーのポスターが貼られていた。若い頃のチェット・ベーカーではなく、復帰した頃のチェット・ベーカーのポスターである。

 チェット・ベーカーの「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」は女の唄で男のヴァレンタインのことを歌った唄だ。「ヴァレンタイン、あなたはちっともハンサムではなく、むしろ滑稽だけど、そんなそのままのあなたでいいのよ」といった内容だと思う。別れ話の歌ではない。それがその別れ話のシーンの壁に張られていたのは神様の悪戯だろうか?皮肉にも最近の映画界ではジュード・ローほどハンサムな俳優もそうそう居ない。シエナ・ミラーは真っ暗な夜、トランク一つ荷物を纏めてそのアパートから出て行き、大雨の中、タクシーに乗る。淋しいシーンだ。その映画がきっかけでジュード・ローとシエナ・ミラーは実生活では婚約をすることになる。そして2年後、映画と同様の破綻が待ち受けている。

 2004年版映画「アルフィー」はジャズではなくミック・ジャガーであるがこれがまた良い。

 1966年の映画「アルフィー」の音楽はジャズでソニー・ロリンズが担当している。

Sony Rollins「Alfie」1966年Impulse

https://www.youtube.com/watch?v=5_moRogiog0

 僕にとって「アルフィー」と言えば映画よりもソニー・ロリンズのイメージが強い。丁度僕が道頓堀の「ファイブスポット」で赤いタータンチェックのベストを着て黒の蝶ネクタイを締め、颯爽とバーテンダーの仕事をしていた頃に発売されたLPであったと思う。半世紀もの昔、未だ18歳の頃だ。ファイブスポットのJBLからは大音量で「アルフィー」がしょっちゅう流されていて、そのメロディやアドリブまですっかり身体に浸み込んでいたものだ。LPの掛ける順番を決めていた主任の中野さん。ジャズよりゴーゴーダンスが好きだった杉田くん。広島からやって来た英語が得意だった中島君。あの時の仲間たちとはその後1度も会ってはいないが、ソニー・ロリンズやマイルス・デイヴィスなどの音が聞こえると、彼らの顔が今も瞼に浮ぶ。僕にとっては短い僅かな時だったけれど、青春時代の想い出は貴重なものとなっているのは確かだ。 そして映画は、ジャズは、いろんな想いを膨らませてくれる。VIT

 

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 これは2016年9月5日、月曜日のはなしである。

 9月に入って幾分涼しくなった、と思った矢先、猛暑がぶり返してきたのだ。

 前夜のテレビではその日のセトゥーバルの気温は40度と予報が出ていた。

 セトゥーバルが40度に達するのは、この夏、確か3度目である。

 

薬局の電光看板。時間と気温などが交替で表示される。

 

 猛暑と言ってもポルトガルでは陰に入れば涼しくは感じるし、部屋の中ではそれほど暑さも感じない。

 だから我家ではエアコンがない。いらないのである。でも40度はさすがに暑い。

 その日は手紙を出すために最寄りの郵便局まで行く予定をしていた。買い置きの切手が底を付いてしまい、郵便局に並んで切手を纏め買いしておくつもりであった。ところが「この暑さの中出歩くと熱中症になってしまうよ。」とMUZが言う。今日は出たがらない様だ。仕方がないので家の中で居る事にした。それ程急ぐ手紙でもないし。

 いろいろと暇だからエコなどを考えている。暑い日には南側のベランダに6リッターの水タンクを15個も並べてお湯にすることを数年前に思いついて、その後、暑い日にはそれを実践している。

 煮炊きやコーヒー、お茶などは水道水を使っているが、生の飲み水だけはスーパーでミネラルウオーターを買ってそれを飲んでいる。その空き瓶が溜まる。空き瓶といっても6リッターのプラスティック・ペットボトルである。それに水道水を入れ、ベランダに寝かせて並べておくのだ。昼頃に並べたものが夕方には結構温かくなってそれだけで風呂に入ることが出来る程になる。

 南側のベランダの床はレンガ色のタイル張りで、それ自体が熱くなる。その熱を水タンクが吸収して、上からの太陽の熱とで水が温まりお湯になるのだ。

 風呂場でタンクに入れた水を南側のベランダに並べて、夕方には逆にベランダから風呂場に運ぶ。1回で両手に4個。単純に計算すると、24キロである。それを4回。1回は3個だから18キロだが…。24キロを3往復と18キロを1往復。寝室を通り抜けて、玄関ホールも通りぬけて風呂場まで運ぶ。

 エコと言ってもこれではあまりにも馬鹿らしくはないか。と誰もが考えることだろうと思う。だがそうではない。これは24キロのダンベルを持って8往復して筋トレ(筋力強化トレーニング)をしているのだと考えを転換してみるのも悪くはない。

 ベランダにパラソルを広げて陰を作ったり、観葉植物を置いて陰を作ったりしているよそさまもあるが我家はシンプルに何もない。「太陽よ。熱するだけ熱せよ」という態度である。

 40度の予報が出ているその日はさすがに温まる。ベランダのタイルの温度は恐らく50度に達しているのだろうと思う。事実、その夜の風呂は水で薄めなければ入れないほどであった。温めた15個の6リッターペットボトルは風呂場に運んでから、風呂に入るまでの間は古いタオルやマットなどで包んで冷えないようにしておく工夫はしている。

 いつも我家で風呂に入るのは寝る前の9時を過ぎてからである。9時を過ぎて15個の6リッターペットボトルの水を風呂桶に流し込む。そして2人が交替で入る。入った後もお湯は抜かないでおく。いざ断水となった時にはトイレに有効に使えるし、万が一小火(ぼや)でもあった時にはバケツに汲んで消火にも使えるだろう。だから次の日にお湯を入れる前に抜くことにしている。

 昼間は熱風が入らないように窓は閉め切っている。夜になれば空気は冷やりとする。その夜は風呂に入っている間に温まっている部屋の空気を入れ替えようと南向きの寝室のベランダ側の窓と、北側のアトリエの窓、そしてその隣の部屋の窓も全開にしておいた。いっきに風が通り抜けて部屋の空気が瞬く間に涼しくなる。

 僕は先に風呂を済ませ、ベッドに横になりうとうとと寝てしまっていた。MUZは風呂から上がってアトリエの隣の部屋の窓だけを閉めてからベッドに横になったそうである。僕がふっと目が覚めた時には部屋の空気が未だ勢い良く通り抜けていた。MUZは僕がアトリエの窓も開け放していたのに気がつかずにその隣の部屋の窓だけを閉めた。僕は寝ぼけ眼でアトリエの窓を閉めるために起き上がって暗がりの中、手探りでアトリエまで行った。

 窓を閉めようと思って外を見ると、ホテルの裏側から煙と火の粉が舞い上がっていた。

 我家の隣には1軒のお屋敷があり、向いにもお屋敷がある。そのお屋敷に挟まれた道の突き当りがホテルになっている。我が家のあるマンションの入り口からホテルの入り口まで20メートルしか離れていない。ホテルの入り口から建物までは更に10メートル。高台にあるホテルでセトゥーバルでは恐らく一番大きなホテルだろう。

 一瞬、ホテルが燃えていると思った。僕は「火事や~」と叫んでいた。

 

北側のベランダより撮影

 

 火の粉は僕の目の上を飛んでいく。未だ消防車は来ていない。

 ホテルから続々と人々が走り出てくる。館内アナウンスでもあったのであろう。「外に避難してください」と。

 我々も見学している場合ではない。火の手は大きく広がりを見せている様子である。とりあえずパジャマから普段着に着替えて、貴重品とパスポートなどを入れてあるリュックを担いだ。万が一のために合ものコットンの半コートを着てからリュックを担ぎなおした。リュックの中にビスケットも入れた。MUZも別にリュックを担いでいる。中には水とお菓子をいろいろと取り揃えて入れたそうである。いつでも逃げ出せる体勢は出来上がった。でも火の粉から飛び火して我家の下の住宅の周りでも燃えているし、どんどん火の手は広がっている。

 街の中心、つまりホテルの東側からは松の木とホテルが重なった位置にあることから、まるでホテルが炎上している様に見えたのかも知れない。又、町の南側、つまり漁港のあたりの下町からは我がマンションに阻まれて炎は見えず、立ち昇る黒煙だけが見えたに違いない。どこから集まってきたのか野次馬がカフェのあたりで100人ほども遠巻きに心配そうに眺めている。カフェは既に閉店している。

 

 我がマンションの南東の松林に燃え移ったらそれこそ我家が一番近いし大変なことになりかねない。その下を見るとガレージの持ち主の人がガレージからホースを延ばしていつでも放水が出来るように待機している。いや、既に放水をしていた。でもそのホースも松のてっぺんまでは届かない。最上階4階に住む我家が松のてっぺんからは一番近い。一番近いと言ってもベランダから松までは6~7メートルはある。風呂の水は抜かないで溜めてあるが、風呂の水をバケツで汲んで思いっきり飛ばしても恐らく届かない距離だ。

 ホテルの入り口付近には宿泊客だろう、2~30人が荷物も何も持たないで、ティシャツと短パン程度の軽装で心配そうに眺めている。随分してから消防車が来たが、入り口付近からは放水はしないで裏手に回って消火活動をしている様子であるがここからは見えない。ホテルの本館の裏手で大きく炎が立ち上がった。ホテルの宿泊客やご近所の人たちから悲鳴や叫び声が沸き起こった。炎だけではなく、その熱や木の爆ぜるばちばちという音など、本当に怖かった。

 

風呂場の窓から撮影

 

 合ものの半コートを着込んで靴も履いて背中にはリュックを背負って、それでもデジカメのシャッターを切った。北側のベランダから、そして風呂の小さな窓から。

 消防車と同時に白バイ2台とパトカーも来て、既に検問や交通整理なども始めていた。ホテルの入り口のところには消火栓が設置されているのだが、何故かそれは使うことはなかった。消防車は何台も何台も次から次に入れ替わり立ち代りやってきてくれた。30キロも離れたアルコシェッテと書かれた消防車も応援で駆けつけて来ている。消防の30トンはあるタンクローリーも南の道で待機している。

 火はなかなか消えない。随分と永い時間が経過したのだと思う。僕もMUZもそわそわ何も手が付かず、あちらの部屋からこちらのベランダから経過を眺めるしかない。

 やがて炎はなくなり白い煙に変った。これで一安心である。その頃になって複数のテレビ局が到着し取材を開始していたが、写すべき炎は既にない。ホテルの門のところで、女性記者がテレビカメラに向って喋り続けていた。手の空いた消防士や警察官を捕まえては質問をしている様子が覗えた。果たして放映されたのであろうか?テレビは見ていない。その頃には宿泊客も部屋に戻ってしまっていた。遠巻きに見ていた野次馬たちもぞろぞろと帰り始めた。何とか安心して再びパジャマに着替えて寝たのが3時を回っていた。

 安心してぐっすり眠ることができた。朝、起きてみると消防士たちは未だ活動をしていた。実際、飛び火した下の住宅の周りの薮から煙がまた立ち昇っていて、消防士が2人ホースを引っ張って水を撒いていた。一旦、消えたからといってなかなか安心は出来ないものだ。幸いにも我家にとってはその日の風向きはほんの少しだけ東側にずれていて助かったのかも知れない。

 

飛び火で焼け焦げた下の住宅側の潅木。この写真を見る限りでは何てことはないが、その時はあちこちに飛び火し、炎が上がって本当に怖かった。

 

 次の日、最寄りの郵便局に手紙を出しに行った。そのついでに国道10号線を少し走ってみた。セトゥーバルを出た最初のバス停の裏手から焼け跡が始まって上に上に昇ってホテルの手前まで達している。その向こう側に我家がある。

 相当の広さである。よく使われる例えで言えば東京ドーム3個分くらいだろうか?幸い建物に被害はなかった。山火事と言えるのかも知れない。

 バス停のすぐ後ろにダンチク(アルンド・ドナクス Arundo donax)が大きく根を広げた林がある。先ずそれに火が付いたのかも知れない。ダンチクの枯れ葉はいかにも燃え付き易い。その上にはキイチゴ(ルバス・イダエウス Rubus idaeus)などもある薮と実生で生えた松の木の大木が点々と上ってホテルのすぐ側まで、そしてホテルを跳び越し我がマンションも飛び越し再び松林が出来ている。

 

 更に2日後の朝、2台の消防車と2台のパトカーがホテルまでやって来た。現場検証だろうか?ホテルから出火した訳でもないし、幸いにもホテルが燃えた訳でもない。

 あれだけ大きく燃え上がったその跡形は、松の枝葉がほんの少し赤茶色になっているだけに見える。

 

あれだけ炎が燃え上がったのに翌日の松の木はこの程度。

 

 その翌々日くらいにホテルにチェックインした宿泊客には9月5日の夜にこれほどの騒ぎと怖さがあったことは感じないのかも知れない。

 我家がある場所は、古いセトゥーバルの絵画によると風車小屋が建ち並んでいた場所で、風当たりも強いが見晴しも良い。セトゥーバルの東西南北どの方向も良く見渡せる。消防署の火の見櫓があれば火災でも、真っ先に発見することが出来るのに、などと思っていた程だ。今までも500メートル離れた城郭での2度の小火、下町のチキン専門レストランの火災、パルメラの丘のお屋敷の全焼火災。そして何日も燃え続けたパルプ工場の資材置き場の火災等々、何れも目撃している。本当に火災の多い町なのだと感じる程である。今までの火災は少し、或いは遠く離れていて他人事であったが、今回の間近な火災は寿命が縮まる思いであった。

 

2016年最初の山火事はマンテイガスの山火事であった。エストレラ山探索の際の定宿から見える山火事跡。

 

 この8月は暑い日が多く、グアルダだけでも1万2千ヘクタールという広さを燃やしたという。ポルトガル全土で120箇所だというから相当の山が燃えてしまったことになる。

 

レイタォン(子豚の丸焼き料理)で有名なメアリャーダの山火事跡は広範囲であった。松の木とユーカリの幹が黒こげ。でも不思議と葉は落ちていない。

 

 2016年9月5日、セトゥーバルの火災があった同時期に南の温泉地モンシックでは6日間も更に燃え続けていた。VIT

 

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 ヴィットリオ・デ・シーカの「自転車泥棒」(1948年)は誰でもが1度は観たことがある名画だと思うが、これほど悲しい、観ていて辛い映画はない。

 戦後間もない頃のはなしで、世界中が貧しく、失業者も街に溢れていた。

 

露店市で見つけた2人乗り自転車と花柄のティシャツ

 その頃の自転車というと、今の様にスポーツに使ったり、サイクリングに使ったりは未だあまりなく、実用的なものであった。

 今の軽トラの様な役割を果たしていたいわゆる運搬自転車と言ったかと思うが、そんな自転車も多くあった。我家の筋向いに、はじめちゃんという幼馴染がいたが、そのおじいさんが運搬自転車にリヤカーを付けて、運送屋をしていた。引越しなどを請け負うのだが、父も天王寺美術館まで100号の絵を搬入するのにそのはじめちゃんのおじいさんに頼んでいたこともある。はじめちゃんのおじいさんは大きな自転車とリヤカーを操っていたが150cm程しかない当時としても小男であった。それから1軒おいた、たかしちゃんのお父さんも小男であったが、肩には桜吹雪が舞っていた。たかしちゃんのお父さんは運搬自転車でグリコのおまけを作る内職の運搬をするのが仕事であった。ご近所の各家にそれぞれの部品を配達し、それにあった機械を置いてゆく、部品のどの部分かもわからずにごっとんごっとんと機械を動かす、10個こなして1円とかいう内職である。そんなものの元締めとでも言おうか、そんな仕事で運搬自転車を使っていた。

 中学生になった頃、級友たちは家業の仕事を既に手伝っていた。牛乳屋の五郎は朝早くから運搬自転車で牛乳配達である。笑顔の絶えない健康優良児で力自慢であった。クラスで腕相撲なら五郎にかなう奴は居なかった。軟式野球部のピッチャーをしていた宮田君の家は傘屋であった。本町辺りにある大手傘屋の下請けで傘の布を裂いてミシンで縫う仕事である。宮田君の家に行くと近所の奥さんたちが女工さんとしてたくさん働いていた。宮田君は出来上がった布を運搬自転車に載せて本町まで届ける手伝いをしていた。ある日、若い女工さんが宮田君の家に入った。まさに金の卵である。お父さんはことのほか喜んで、宮田君に家まで送り届けることを命じた。運搬自転車の荷台に座布団を敷いて女工さんを横座りに乗せて家まで送り届けるのである。女工さんは少し恥かしそうにしていたと思うが、宮田君はまんざらでもなかったようである。宮田君は背も高く変化球の得意なピッチャーであったが、エースにはなれなかった。公式試合ではいつもベンチを温めていた。五郎は工業高校に宮田君は商業高校に進学したが、将来は家業を継ぐ事が約束されていた様に思う。高校に入った頃は2人の家とも運搬自転車がミゼットに代っていた。いや、五郎の家にはミゼットが入ったが、配達には未だ運搬自転車を使っていた。

 ヴィットリオ・デ・シーカの「自転車泥棒」も仕事に使う自転車のはなしである。長いこと失業していた男が広告貼りの仕事にようやくありつくことが出来た。自転車を持っていることがその仕事が出来る条件である。張り切って広告貼りの仕事に出かけた初日、自転車を盗まれてしまう。自転車がないと失業してしまうことになる。それからの顛末は辛くて書くことができない。

 僕は小学校高学年の時、買ってもらったばかりの自転車を盗られたことがある。それまで子供用自転車に乗っていたのだと思うが、そろそろ、という訳で24インチの3段変則大人用自転車を買ってもらった。3段変則などは出始めたばかりであった。クラスの友人と3人で自転車に乗って少し離れた町の夏祭りに行く約束をした。南田辺駅近くの山阪神社の夏祭りである。夕方薄暗くなってから友人2人が自転車に乗って迎えにきた。僕が出かけようとすると、仕事から帰ってきた父が反対した。子供が夜に出かけることは許さん。という訳である。僕は友人たちとの約束を破るわけにもいかないので、父を振り切って夏祭りに出かけた。山阪神社に着いて、鳥居の側に3台の自転車を並べてそれぞれしっかりと鍵をかけ駐輪した。夜店の屋台をひと回りして戻ってくると、自転車は2台しかなかった。僕の自転車だけがなかった。一応、お巡りさんに報告したのだったと思う。山阪神社からはとぼとぼと歩いて家に帰った。家に帰って父に「自転車を盗られた。」と言うと父は「そうか」と言ったきり、僕を叱ろうともしなかったが、その時の父の悔しそうな顔は今も忘れられない。我家は決して裕福な家庭ではないのだ。そしてそれは怒られるよりもっと辛かった。大人達の意見は「ほとんど戻ってこない、諦めるしかない。」と言うものだった。案の定、その後、警察からは何の連絡もなかった。

 それから暫くして、その事件は忘れたかのように、父は同じ様な自転車を買ってくれた。父もその自転車を使った。結局僕が家を出た後にもいつも実家には自転車があった。父も自転車が必要なのである。

 それより以前、やはり小学生の時、クラスの友人6~7人で二上山まで子供用自転車で行ったことがある。二上山で僕たちより少ない4人の小学生から喧嘩を売られた。4人の内1人は相撲取りほども大きかった。他の3人は僕たちとほぼ同じ学年で同じ様な大きさであった。その小さいのが僕たちの中で「誰でも良いから、このナイフを持って、俺たちの仲間(大きいの)と決闘しろ。」と言ってナイフを差し出す。僕たちに決闘する意思は毛頭ない。多分、謝ったのだったと思う。怪我もなく、お金を恐喝された訳でもなかったと思うが、とにかく地元の警察へ行った。警察物のドラマを見ている想いだった。事情を聞いた警察官はすぐに判ったのだろう。取調室にすぐに写真を持ってきた。その相撲取りの様な大きな男が写っていた。僕たちと同学年だそうである。取調室には大きな鏡があった。僕は「ははん、これがマジックミラーか。」などと思って見ていた。警察では卵どんぶりの出前を取ってご馳走してくれた。そして「きょうはもう遅いから、自転車は警察で預かるから電車で帰りなさい。」と言って森永ミルクキャラメルを1箱づつお土産にくれた。幼き日の思い出である。*

 ニューヨークでも自転車を買って使っていた。車輪が小さくサドルやハンドルを自由に伸縮できるタイプの自転車である。ニューヨークでは自転車などすぐに盗まれてしまう。と言うので太い鎖と錠を同時に買い揃えた。前輪と本体に鎖を絡ませて電柱などに繋いでおくのである。前輪だけなら本体を盗まれてしまうし、本体だけだと前輪だけ盗まれてしまう。と言われていた。事実ニューヨークでは自転車の前輪だけ持って地下鉄に乗っている人も時折見かけた。僕は自転車でマンハッタンのアップタウンからダウンタウンまで縦横に走り回った。休みの同じでないMUZもセントラルパークなどを走り回ったそうである。幸い自転車を盗まれることはなかった。

 ポルトガルに移り住んでからは、宮崎の自宅に自転車を1台づつ置いてある。1年の内2~3ヶ月を日本で過すが、自転車に乗ることが出来るのは僅かである。1番安いのを買って25年にもなるが、ポルトガルに戻る時には部屋の中に入れているので、未だ丈夫に使っている。帰った時にはタイヤの空気は抜けているが空気を入れるだけですぐに乗ることが出来る。空港までも20分くらいだし、宮崎市内はもちろん、青島や綾町までも自転車で行くことができる。そして宮崎市は結構自転車道が整備されているので自転車が1番便利だ。でも最近になって架け替えられる橋は設計が以前の橋とは違って橋脚が少なくなっているからか、アーチ型になっていて、橋を渡るのに結構脚力がいる。そして体力の衰えを感じる。

 ポルトガルは坂道が多いし、歩道は石畳で走れないし、自転車は馴染まない。でもやって来た当初に比べると自転車が増えた。急激に増えた。増えたといってもママチャリや普通自転車ではなくて競技用自転車である。土日にでもなれば、老いも若きもまるでツール・ド・フランスの選手の様な本格的な格好で国道を走らせている。いや、ポルトガルにもツール・ド・フランス同様、ボルタ・デ・ポルトガルという大会があり盛んだ。でもお喋りな国民性は治しようがないらしく、国道を2列にも3列にもなりお喋りをしながら走っている。

 

 それは宮崎の女子高生も同じだ。下校時間などになると、2列、3列に横に広がってお喋りをしながら自転車を走らせていてすれ違っても、除けようとも、道を譲ろうともしない。

 父は94歳に病気をするまでずっと自転車に乗っていた。その頃はシルバー自転車であった。「なかなか前へ進まんし、坂を登らん。」などと言いながら乗っていた。数年前100歳でこの世を去ったが、そのシルバー自転車は実家の玄関横に銀色のシートを被せられて淋しげに置かれている。 VIT

 

*寄り道のおまけ

 二上山(にじょうざん)は、奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる山。かつては大和言葉による読みで「ふたかみやま」と呼ばれ、万葉集にもいくつか詠われている。

 金剛山地北部に位置し、北方の雄岳(517m)と南方の雌岳(474m)の2つの山頂がある双耳峰である。

 僕が生まれ育った北田辺。その高架になった北田辺の駅ホームからも晴れた日には間近に見ることが出来る。北田辺から直線距離で25kmほど。近鉄南大阪線、北田辺から16個目の駅が二上山駅で、大人普通乗車券は440円である。

 『いにしえより、その美しい山容へ日が沈んでいく様子から、神聖な山として崇められてきた二上山。

 悲運の皇子・大津皇子は都から遠く離れたこの双峰の山に葬られたと万葉集は伝える。急峻な山道を登り、奈良盆地や大阪平野を見渡す頂へ。時代の渦に巻き込まれ、自害に追い込まれた若き皇子の、その短き人生に思いを馳せてみたい。

 大津皇子の遺体が二上山に移し葬られる時、姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が哀しみ悼んで詠んだ歌が2首ある。

 ①「うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を 弟世(いろせ)とわが見む」(万葉集 巻2-165)(現世の人である私は、明日から二上山をわが弟の君であると見て偲ぶだろう)。そして②「磯の上に 生ふる馬酔木(あしび)を 手折らめど 見すべき君が ありと言はなくに」(万葉集 巻2-166)(岸のほとりに咲く馬酔木を手折ろうと思うけれど、見せるべきあなたはもうこの世にいない)。そびえる二上山を見ないようにして暮らすのは、さぞ至難であったことだろう。弟を山に重ね見る大伯皇女の辛さが伝わる。

 大津皇子は、天武天皇を父に、天智天皇の長女・大田皇女(おおたのひめみこ)を母にもつ皇子。文武ともに優れていたうえ、高貴の身分に奢ることもなく、誰からも愛されていたと、『懐風藻』や『日本書紀』は伝える。しかし、謀反の嫌疑をかけられ、24歳の若さで自害に追い込まれる。皇子の亡骸は二上山に移葬されたが、その真意はわからない。荒ぶる魂によって境界の守りとするためという説もある。かつて、太陽の沈む西には死者の世界があったと信じられていたからだ。

 現在、雄岳の山頂付近には皇子の墓とされる場所があり、「大津皇子 二上山墓」と呼ばれ、宮内庁が管理する。

 大津皇子には、石川女郎(いしかわのいらつめ)という、心から愛する女性がいた。③「あしひきの 山のしづくに 妹待つと わが立ち濡れし 山のしづくに」(万葉集 巻2-107)(あしひきの山の雫に妹を待つとて私は立ちつづけて、山の雫ですっかり濡れてしまった)とうたっている。男が女のもとに通う風習があった時代に、身分の高さをいとわず山の雫に濡れながら愛しい人をずっと待ったとある。

 また、陰陽師の津守連通(つもりのむらじとおる)の占いで二人の関係が露見したときは、④「大船(おおふね)の 津守(つもり)が占(うち)に 告(め)らむとは まさしに知りて わが二人宿(ね)し」(万葉集 巻2-109)(大船の泊(とま)る津守の占いに出るだろうことを知っていて二人で寝たのだ)と、二人の関係が世間に知られても構わないと開き直っているように捉えることができる。それほどこの恋に身を焦がした。

 石川女郎は、大津皇子の皇位継承のライバルであった草壁皇子にも慕われていた。なんとも皮肉な三角関係だ。』(奈良の歩き方、新提案「歩く・なら」より抜粋)

 

 馬酔木(あしびき、アセビ)ツツジ科、アセビ属の常緑の大形低木、学名:Pieris japonica、関東以西の山野に自生し、庭木ともする。早春、壺形の白い小花を枝先に総状に多数つける。有毒で、馬が食べると麻酔状態になるというので「馬酔木」と書く。葉は殺虫剤に、材は細工物にする。別名:アセボ、アシビ、アセミ、アシミ、 〔「馬酔木の花」は [季]春〕

 小倉百人一首に「あしびきの 山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む」という柿本人麻呂の歌がある。あ行の最初に出てくるので、多くの初心者が最初に覚える歌かも知れない、僕も子供の頃に最初に覚えた歌である。VIT

 

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 蝉が止まっている。

 も少し詳しく言うと、我家の南側のベランダの内側の西の壁の、床から10cmのところに蝉が止まっている。

 小さい、体長、頭から羽の先までで、ほんの5cm程の可愛い蝉だが、床から10cmと言へども塗装された垂直のモルタル壁の何の手がかりもないところに、まるで蝿のように、よくも止まっていられるものだと感心しながら見ていた。

 

 ポルトガルには蝉は少ない。日本に比べると少ないという意味だ。フランスのプロヴァンス地方には蝉の置物やブローチなどのみやげ物が売られているので蝉は居るのだろう。プロヴァンス地方には数え切れないほど訪れているがいつもサロン・ドートンヌの時期で11月頃なのでセミの声は聞いたことがない。

 蝉は日本には32種が居て世界には約1600種~2000種がいるらしい。

 でもヨーロッパには蝉はあまり多くはない様に思う。

 地中海沿岸地域には居るが、中北部ヨーロッパには居ないという。

 

 『蟻とキリギリス』は誰でもがよく知っているイソップ寓話だが、元々は蟻(アリ)と蝉(セミ)だったそうだ。

 ところがその話がギリシャからイギリスに伝わった際、イギリスには蝉は居ないものだからキリギリスに置き換わったという訳。そして蟻とキリギリスとなって世界中に広まった寓話となった。*

 

 フランスも北部パリには蝉は居ない。パリ人にとって夏のバカンスを南仏プロヴァンスやコート・ダジュールで過すのは憧れに違いない。プロヴァンスには蝉が居る。夏、太陽、バカンスの象徴が蝉なのである。いつしか蝉は幸福の象徴となり、プロヴァンスの土産物屋には陶器で作られた蝉の置物、蝉をかたどった石鹸、銀細工の蝉のブローチ、蝉の柄が入ったテーブルクロス等々が売られるようになった。楽しいバカンスをプロヴァンスやコート・ダジュールで過した思い出と共に置物の蝉はパリの暖炉の上に置かれている。

 

 我家の南東には4本の松の大木があるので、蝉の啼く声はよく耳にする。

 午前中か、確か10時のコーヒータイムの頃にはよく耳にする。

 それほどウルサイと言うほどでもない。どちらかと言うと心地好い鳴声だ。蝉しぐれと言うほどでもない。

 日本で秋に啼くヒグラシという蝉の様な鳴き声の様に思うが、蝉のことは全く詳しくはないのであいまいなことは言えない。

蝉の鳴声は耳にするが、その姿を見ることはあまりないので、この際、写真を撮っておこうとデジカメを用意し撮影をした。

 我家のベランダの蝉は、僕が昨晩、昼間の太陽の熱をいっぱい受けた、ベランダの床タイルの熱気を冷却しようと、たっぷり水を含ませたしぼらないモップで、数度拭き掃除をし、昨夜からベランダにそのまま放置してあった掃除用バケツで、そのすぐ側に蝉は止まっていた。掃除バケツを片付けようと近寄らなければ全く気が付かなかったのだろうと思う。

 

 最初に1メーターの距離から撮影をした。あまりに小さいのでもう少し近寄って、50cmの距離からもシャッターを切った。それでも小さいので20cmの距離から3たびシャッターを切った。それでも小さいので5cmの距離に近寄ったところで蝉は一目散に飛び去ってしまった。

 その蝉と、いつも聞いている蝉が同一かどうかは判らない。その時は一言も声を発することなく飛び去ってしまったのだから。

 

 ネットで検索してみると、チッチゼミCicadetta radiatorかその近縁種なのかも知れない。実はチッチゼミという名前も初めて知った。クマゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシ、ミンミンゼミ、ニイニイゼミなどはよく耳にするが。

 

 数年前、所用で夏に一時帰国したことがある。例年なら展覧会の関係でたいていが春だが。

 久しぶりの日本の夏を体感した。最も暑い8月中旬からの1ヶ月であったと記憶している。その時は大阪には寄らずに宮崎でのまるまる1ヶ月滞在であった。宮崎の夏は猛烈に厳しかった。大急ぎでエアコンを注文した。

 宮崎の自宅には自転車を置いてあって、宮崎では自転車ライフを満喫することになる。自転車でどこにでも行くことが出来る距離だし、宮崎は比較的自転車道が整備されていて便利だ。

 

 宮崎の自宅は大淀川の河口の側で、土地も幾分低くなっている。ひとたび東北の様な津波でも来ようものならひとたまりもない。もし大地震があれば咄嗟に自転車で高台まで逃げようと覚悟を決めている。自宅から日豊本線を渡れば10分以内に南宮崎駅まで行くことができる。そのあたりには大型ショッピングセンターもあり、そこまで辿り着けば何とか大丈夫だろうと思っている。

 ところがJR日豊本線を渡るのにその線路の下を潜ることになる。下を潜るというのは津波の危険が増す。それでその幹線道路から一つ南側の道を通るようにした。その道を通れば下を潜るのではなく、小さな踏切、城ヶ崎踏切を渡ることになる。そんな非常時の訓練と思ってそれ以来、常日頃からその道を通る様になった。

 その道沿いには大谷石で囲まれた様なお屋敷が幾つもある。それぞれ立派に庭園作りがされていて、いろいろな庭木が植栽されている。春には桜なども楽しむことが出来るが、四季折々の花や秋にはもみじなども美しいのだろう。

 

 その夏の話である。いやはや蝉のうるさいこと。はて、蝉とはこれほどうるさかったものであろうか?と自転車を走らせながら感心していた。まさに暴力的であった。油蝉であったのだろうと思う。そしてアスファルトの道路に幾つもが転がっていた。未だ生きている蝉が転がっていた。

 

 蝉は幼虫時代を6年ほども土の中で過ごすと言う。土から這い上がってきて木の幹にしがみつき羽化をする。たいていが薄暗くなってからの行動だという。成虫になってからは1ヶ月の命だそうである。小説で「八日目の蝉」というのがあった。蝉は7日しか生きられない。せめて8日目の景色を見せてあげたい。という作家、角田光代さんの想いがタイトルとしてあるのだと思う。蝉は成虫になって1ヶ月の命、と上に書いた。研究者が飼育しての観察であるという。でも飼育したものと自然界では異なる。幼虫時代を6年ほどとも書いた。これも実際には未だ解明されていないらしい。尚、謎は深まる。

 子供の頃よく樹木の幹に残っているそのぬけがらを目にした。

 蝉のぬけがらを空蝉(うつせみ)という。そして、この世に生きている人間の世界。現世のことも空蝉という。

 

 その一時帰国したある日、県立図書館まで自転車で行った。帰りは大回りをして江田原(えだばる)の三角茶屋で熱いうどんを食べ、通称「長友道路」を通って帰った。その長友道路が終ったところの横断歩道を渡って自宅に帰る。

 その横断歩道を渡りきろうとしたところで突然、油蝉が後方で猛烈に鳴き始めたのでびっくりして振り返った。もう少しでよろけてこけるところであった。横断歩道の中ほどに60歳くらいの男が僕の後方を歩いている。蝉の鳴き声はその男の手から発せられていた。男が横断歩道の途中でその油蝉を拾ったのだろう。横断歩道に転がっていた油蝉は男に拾われてびっくりして啼き始めたのだろうと思う。蝉もびっくりしただろうが、恐らく男もびっくりしたことだろうと思う。僕もびっくりした。大きな鳴声である。男は油蝉を手放すでもなく、何ごともなかったかの様に涼しい顔で、いや実際には暑苦しかっただろうと思う、油蝉の猛烈な鳴声と共に横断歩道を進んでいる。只、僕と目が会ったことに関しては何となくバツが悪そうな表情が感じ取られた。

 

 今、7月24日、ポルトガル時間夜の8時23分。未だ松の木に西日が燦燦と当たっている。たった一頭の蝉がちちちちちち、ちちちちちち、ちちちちちちと淋しげに鳴いている。VIT

 

  

その後、8月3日の朝に同じベランダの反対側の壁に同じ様に止まっていた蝉。(右)以前の(左)より少し大きく、色合いも異なるので種類は少し違う様だ。

さらにその午後、西日がもっとも強くなる5時30分、松の木で複数の蝉が異なる鳴き声を発していた。

 

チッチゼミ、学名:Cicadetta radiator、又はCicadetta montana、

半翅目同翅亜目セミ科、チッチゼミ属。体長 (翅端まで) 30mm内外。体は黒色で,頭部と前胸背に褐色の小斑紋があり,中胸背には2個の暗黄色斑がある。翅は透明で長く,たたむと後翅の一部が背面の翅の合せ目より三角形状に突出する。

世界には1600~2000種の蝉がいて、日本には32種。東南アジア650種、中国227種、台湾59種、オーストラリア198種、ニュージーランド35種、北米175種、ヨーロッパは少なく10種(イギリス1種)。一番大きい蝉は、テイオウゼミ(マレーシア)で体長10センチ、小さい蝉はウラブナナゼミ(オーストラリア)で体長5ミリくらい。蝿を細くしたような形。

蝉の天敵は、セミタケ(幼虫に寄生してキノコになる)、トゲアリ(孵化したばかりの幼虫を狙う)、ムクドリ、ヒヨドリ、カラスは羽化前の幼虫を狙い、成虫となってからも、ヒキガエル、タヌキ、アリ、ハチ、カマキリ、セミヤドリガの幼虫、クモなどに襲われる。

 

*OMAKE

イソップは古代ギリシャの人である。ギリシャ読みではアイソーポスとなる。紀元前619年、今のトルコに近いサモス島の出身。生れは小アジアの何処かという説もある。サモス島はエーゲ海東部、アテネから東に250km、トルコの沿岸からは僅か2kmという地理。イソップは元はサモスの市民イアドモンの奴隷だったが、語りに長けており奴隷から解放された。それを妬んだデルフィの市民に55歳の時、紀元前564年に殺害された。

数学者、哲学者でピタゴラスの定理として知られる、ピタゴラスも同じサモス島の出身であり、イソップと同時代を生きている。イソップが37歳の時、紀元前582年にピタゴラスが生まれている。そしてピタゴラスが18歳の時、紀元前564年、イソップは55歳で殺された。恐らく接点はなかったのかも知れない。ピタゴラスはその後も86歳まで長生きをしているが、その最後に関しては様々な説がある。紀元前496年のことである。

 

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 きょうは久しぶりに露店市を歩き回った。第4日曜日なのでモイタだ。昼過ぎに到着したので先ずは腹ごしらえ。でもいつも露店市でなじみにしているジョゼの店は随分前からこのモイタからは撤退して出店していない。たぶんモイタはお客が少ないので、比較的大勢のお客で賑わうアゼイタオン、ピニャル・ノヴォ、コイナだけに集中して、モイタは止めにしたのだろう。

 見回したところ、きょうもお客が少ない。食堂だけではなく、衣類などの露店もこのモイタでの出店は少なく全体的にひっそりとしている。アゼイタオンなどで、ジョゼの食堂では昼過ぎにでもなろうものなら、空き席は既になく、行列ができ、随分と待たされることもあるが、モイタの食堂ではどこでもすぐに座ることができる。それだけお客が少ないのだ。

 露店市では鶏の炭火焼を食べることが多いのだが、きょうはエントレメアーダにした。エントレメアーダは味付けした豚の薄切り三枚肉を炭火で焼いたものを、パンに挟んだサンドイッチで、まあ簡単な食べ物だが、たっぷりの三枚肉が挟んであるので、僕にとっては充分な食事となる。

 モイタでジョゼの店の代わりに最近入る食堂は家族でやっていて、老夫婦の女将さんがトレーラーハウスのなかで飲物とレジ係り、そのご主人が炭火焼係り、若夫婦は煮込み料理やサラダなどを作る係り、そして未だ10代の若い娘2人が接客係り(ウエイトレス)だが、若夫婦も接客係りに出てきたり、若い娘たちが、煮込み場所で立ち働いていたり、皿洗いをしたりと、とにかく家族中がくるくると良く働くし愛想が良い。そしてここのエントレメアーダはジョゼの食堂に負けず劣らず旨い。

 

建物の階段に沿って植えられた大株のアジサイ

 普段の運動不足解消のため露店市を歩くことにしているのだが、モイタは店も少なくあまり運動になるとはいえないかもしれない。以前にはモイタも随分と賑わっていて空きスペースがないほどで活気があったが、本当に少なくなった。

 以前にモイタで処分品として山積みされて、5ユーロで売られていた革靴を買ったことがあり、今もそれを履いている。おおよそ靴屋では見たことのない靴で、染められていない白というか灰色というかの皮そのままの、裏皮で、靴底が厚く無骨そのものであったが、5ユーロと破格だし、面白半分に買ってみた。これに濃い茶色の靴クリームを塗り込むと、微妙な皮の輝きを醸しだして、これが一気に上等化した。もしかしたら軍からの横流れ品だったのかも知れない。ことのほか頑丈で野の花観察用に随分と重宝に使っていて、茨であろうが、泥濘であろうが平気で、随分と乱暴に使っているが、本当に永く愛用していて、野の花観察には欠かせない。が、そろそろガタが来初めている様で、買い替え時かなと思っている。

 食堂が立ち並ぶ前の通りは靴屋通りである。以前の様な5ユーロの投売りは今では望むべくもない。でも野の花観察に丁度良い靴がいろいろと並んでいる。靴底が厚く編み上げになった裏皮靴で14ユーロからといろいろある。本皮だしこれで充分なのだが、もう少し考えて来週のアゼイタオンで買うことにした。

建物の入り口付近に植えられたアジサイ

 モイタの露店市で僕がいつも使う駐車場は普段はモイタ保健所の駐車場だ。日曜日なので保健所の玄関は閉ざされお休み。その玄関横に立派なアジサイが花をつけている。何の気なしに見ていたが、ポルトガルのアジサイは日本のものに比べると色に青みが少なく、赤みが強く、ピンク色のものが多い。なるほどこれが酸性土壌とアルカリ性土壌の違いなのかとつくづく感心をして見てしまった。

 露店市の花屋でもきょうはアジサイが売られていて、随分と花色が赤く、アジサイとは思えない程の濃い色合いをしていた。水切れで少し萎れていたし、買っても留守が多くて育てられないので買うことはできないで見るだけだ。

 

赤いアジサイ

 アジサイは元々は日本からやって来た植物だ。でもポルトガルでも多く植えられていて立派に花をつけている。しかもポルトガルでの良いところは、花が終った後でも花を切らずにそのまま放置しておくとドライフラワー化していつまでも楽しむことが出来ることだ。日本では花が終った後は花殻を切ってやらないと雨などに当たって汚くなってしまうが、その時期雨のないポルトガルでは種が出来、ほんのり色の付いたドライフラワーになるのである。そして夏の間から秋、冬までも楽しむことができる。

 以前によく行ったカルダス・ダ・モンシックという温泉地がある。お気に入りのレシデンシア(宿)があって、そこの風呂に入ると肌がすべすべして、プールに入っても同様になり、なるほど温泉なのだと思った。部屋には広いベランダがあり、裏庭に面している。ベランダの寝椅子に寝転がっていると、屋根の上に孔雀が現れて興味深くこちらを伺っていたりする。裏庭には熱帯植物などが植えられて趣があるが、そんな中にアジサイの植栽があり、実に見事に花をつけていた。そのレシデンシアが気に入って何度かは訪れたがその後、残念ながら廃業してしまっていた。

ブーゲンビリアと鉢植えのアジサイ

 それは南のアルガルヴェ地方の温泉地だが、東のスペインの国境付近にもテルマス・デ・モンフォルティーニョという温泉地がある。その温泉地に先日、エストレラ山に行った帰り、久しぶりに寄ってみた。ホテルはネット予約である。以前に泊まったことのあるホテルだと思って予約したところすぐ隣のホテルであった。フロントには1930年と1940年の写真が掛けられていて女将は老舗を強調していたが、古いだけのホテルであった。もう少しアンティックな良さが出せれば良いのだが、いろいろと中途半端なところがあってなかなか難しそうだ。

 そして以前に隣のホテルに泊まった時よりも随分と町全体が寂れているように感じた。以前に泊まった隣のホテルの前まで行ってみたが、張り紙がされてあって売りに出されていた。その閉ざされた入り口の横に大株のガクアジサイが植えられていてここでも綺麗な花を咲かせていた。

 

廃業したホテルの入り口で咲いていたガクアジサイ

 何軒ものホテルやペンションがある温泉町だが少し埃っぽくて寂れた感じは否めなくて、手が行き届かないのであろうか、雑草が生い茂ったのを草払い機で刈ったのだろう、草がそのまま放置されていた。そんなところを歩きながら「勿体ないなあ。せっかくの温泉地なのに。せめて町じゅうにアジサイでも植えれば感じは随分と変るだろうに。」などと夫婦で話したものだ。

 僕はポルトガルに来る前は13年間を宮崎の山の中で暮らした。山の中といっても国道10号線に面した長距離トラックなどが頻繁に走るところだ。長距離トラックが途切れると、川向こうには山猿の群れが現れ木々を揺さぶって飼い犬を脅し、庭を猪が横切り、川ではカジカが囀り、アカショウビンが窓ガラスに激突して気絶する。そんなところでお店をやっていた。川に取り巻かれた敷地が1500坪あり、その他に隣接する国有地の1000坪ほども併せて管理していて、休みの日にはその庭の手入れや芝刈りなどに追われていた。庭には500本の薮ツバキを植え、エビネを5万株、その他にカンアオイなども栽培して楽しんでいたが、川沿いにアジサイを植えようと珍しい花の枝を貰ってきては少しずつ挿し木で増やしていた。そんな矢先、ポルトガルへの移住を決めたものだから、アジサイに関しては中途半端な気持ちだけが残っている。

 

石造りの建物を彩るアジサイ

 最近はアジサイもいろいろな品種改良が進み、珍しい新品種が花屋の店頭に並んでいるようだ。

 ポルトガルに移り住んで、ちょうど日本に一時帰国中だった。大阪の父と近くのスーパーに買物に出かけた。買い物が終ってクルマに戻ろうとすると父はクルマとは反対の方向に歩き始めた。そこに小さな花屋があるからだ。父は晩年、花屋を覗くのが何よりも好きだった様だ。そして幾つかの鉢植えを買い求める。そのスーパーの隣の花屋には立派な今までに見たこともない珍しいアジサイが店頭に並べられていた。父は暫くその場所から動こうとはしなかった。花屋の主人は父には愛想が良い。いつも買っているからお得意様なのだろう。でもそのアジサイには7000円の値札が付いていた。僕も驚いたが、父にとってもアジサイの7000円は少々高かったのだろう。だいぶ考えて迷っていた様だが、僕の「やめとき」のひと声で諦めが付いたのかも知れない。あの時の父の悔しそうな顔は今も忘れることが出来ない。

 

鉢植えのアジサイと様子を伺いにきた犬

 花が終ってから地植えすることの出来る庭があればまた来年が楽しめる。でも父の家には庭がない。その年限りの鉢植えになってしまうかもしれない。それでも毎年幾つかのアジサイを買っていた様だが、花が終ったあとは兄が持ち帰って自分の庭に地植えしていたとのことだ。

 大阪の実家の界隈、下町では玄関先の軒下に所狭しと鉢植えを育てている家が多い。そんな中にアジサイも数多くある。ポルトガルに戻ってくる前には既に小さな蕾が顔を覗かせていた。

 

アジサイ寺ならぬアジサイ教会

 牡丹を見に長谷寺に行った。牡丹寺として有名で多くの観光客が訪れていたが、長谷寺はアジサイ寺としても知られている。牡丹の時期のアジサイには未だ蕾さえも見えなかった。

 ポルトガルでは大西洋の真ん中に浮ぶアソーレス諸島がある。火山島で温泉もある。そこにはアジサイが多く植えられている。中でもその一番遠い西の端にあるフローレス島(花の島)のアジサイが有名で、その観光パンフレットなどには必ずアジサイのある風景が使われている。

 父は新居浜で生れ、大きな屋敷と広い庭のある中で育った。子供の頃から植物が好きで、その頃は未だ珍しかったバラをいち早く育てていたという。バラや牡丹、洋蘭、ヒマワリなど豪華な花も好きだが、野草など可憐な花にも目を向けていた。そしていろんな花を油彩にした。「バラは花屋で買うてきたバラを描いても良い絵にはならん。自分で庭で育てたバラを描いてこそ面白い絵ができる。」

 でも父のアジサイの油彩だけは見たことがない。もう少し長生きをしてくれていれば父のアジサイを観ることが出来たのかも知れない。いやそれは無理だ。父は100歳まで生きた人だ。(VIT)

 

アジサイ(紫陽花)

アジサイ科(Hydrangeaceae)、アジサイ属(Hydrangea)、日本原産の落葉低木、

学名:Hydrangea macrophylla、和名:アジサイ(紫陽花)、

英名:Bigleaf Hydrangea、French Hydrangea、Lacecap Hydrangea、Mophead Hydrangea、Penny Mac、Hortensia、

葡名:Hortênsia、Hortência、

原種は日本に自生するガクアジサイ(萼紫陽花)学名: Hydrangea macrophylla f. normalis である。

 

サッカーの国際試合を応援するポルトガル国旗とアジサイ

©2016  MUZVIT (掲載の写真は全てMUZVIT)

 

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 ポルトガルに来る前に宮崎の山あいに住んでいましたが、その周辺の山には山椒の木がたくさん自生していました。知人からシイタケ菌の仕込まれたほだ木を2本頂いてその置き場所を探していたところ、その半日陰になった場所に山椒の木が自然に生えていて、実まで付けているのを見つけたこともありました。

 山椒の木は大阪の実家では欠かしたことがない鉢植えでした。父はいろんな植木を狭いベランダや物干しなどに所狭しと並べていましたが、山椒の木の鉢植えは玄関のすぐ脇にいつも置かれていて、夕食の香味に時々使っていましたが、使うときはいつも両手に挟んでパシッと音が鳴るように叩いて香りを強くして柔らかくしていたのを思い出されます。

 宮崎ではその様に庭に自然に自生していましたが何故かわざわざ使うことはしませんでした。今から考えると勿体ないことでした。ポルトガルには山椒はありませんので小さな卓上瓶で粉になった物を日本から持参して使っていますが、色と香りはすぐに抜けてしまいます。

 宮崎では大きな擦り鉢と山椒の木で出来た擦り粉木(すりこぎ)はよく使っていました。

 ポルトガル移住にあたって、そこを引き払って、宮崎市内に倉庫兼帰国時のための小さな家を購入し、いろんな荷物を押し込みましたが、擦り鉢は大きすぎるので少し小さいのに買い替えました。でも山椒の木の擦り粉木はそのまま荷物の中に入れて持って行きましたので、一時帰国の折には使っています。ポルトガルでも日本人の方から帰国される折に少し小ぶりの物を頂いたので時々は使っています。擦り粉木はやはり山椒の木です。

 昔、ニューヨークに居た時にはマクロバイオティック・レストランでコックをしていました。マクロバイオティックですから自然食の胡麻はよく使います。胡麻のドレッシングは好評でした。胡麻を使ったデザートなども作りました。胡麻は必ず擦り鉢と擦り粉木を使います。でも調理場の専門用語では「胡麻を擦る」とは言いません。「胡麻を切る」と言う言葉を先輩の本職の板前さんから教わりました。「胡麻を擦る」のは上役などに対しておべっかを使うことで、「胡麻を切る」の方がより香り立つ様な感じがします。だからと言っていちいち包丁で切るわけではありません。

 最近は卓上の擦り胡麻器などが売られています。100円ショップなどにもあると思いますが、手軽に擦り胡麻が使えます。でもやはり擦り鉢と山椒の木の擦り粉木でごろごろと擦った方が香り立ちが違いますし、有り難味がある様な気がします。

 大阪西天満には擦り胡麻専門の老舗があります。キャッチフレーズに『黄金の国の黄金の胡麻、黄金香りごま』と『ジパング』などとも袋には書かれてあって、南蛮屏風の絵からの昔のポルトガル人数人が描かれています。袋の裏面を見ると『大阪天満の地に和田萬次郎が造りつづけた秘伝<黄金香りごま>香り高い貴重な金胡麻使用、焙煎手法に秘伝あり。小野小町は金ごまの香りを愛し、季節の旬の野菜のあえものに…。楊貴妃は金ごまのうま味を讃え、贅沢三昧の皿、皿、皿にふりかけて…。クレオパトラは“開けごま”の不思議なパワーに魅かれ、朝晩、健康のスパイスとして……』などと書かれています。ここまで書くと何だか眉唾ものに思へますが、確かに美味しくいつまでも香りが落ちない様な気がしますが、やはり秘伝なのでしょう。でも何故、南蛮屏風の絵が描かれているのかが判りません。

 ポルトガルでも胡麻は使われています。お菓子やパンなどに使われているのを見ることがありますが、胡麻そのものは、何故かスーパーなどではまったく見かけません。一般家庭では使わないのでしょう。専門の菓子業者かパン製造などのところでしか流通していない様なので、我家ではリスボンにある中華食品かインド食品で購入しています。大抵が業務用の大袋ですので、日本に比べると格段に安価です。

 昔、母が縁側で「これ、ちょっと押えとき!」と言って僕に擦り鉢を押える役目を言いつけました。母が山椒の木の擦り粉木を回して胡麻を擦ったのです。ほうれん草のおひたしの時などいつも大きな擦り鉢を持ち出し、縁側で擦っていたのは懐かしい思い出です。ある程度擦りあがったらそれに塩を加え胡麻塩にしたり、醤油を垂らし胡麻醤油にしたりしていました。僕は子供の頃からほうれん草が好きで、赤い根っこのところなども好んで食べていました。胡麻醤油はいつも余分に作っていましたが、御飯に乗せて食べるのも大好物でした。僕が少し大きくなった頃には率先して胡麻擦りを買って出ていました。

 宮崎の倉庫兼帰国時のための小さな家には猫の額ほどの庭があります。隣との間に丁度猫が通れるくらいの隙間があって、我が庭は野良猫のみならず、他家の飼い猫の格好の糞場所になります。犬は来ないし、誰からも邪魔されずに落ち着いて用が足せるのでしょう。留守の時は構わないのですが、帰国の折にはやはり雑草取りなどの土いじりを楽しみます。うっかり猫の糞を踏んづけてしまうことも何度かありました。ある日、二階から下を眺めていると近くに住む、未だ小学校の低学年の少年たち5~6人がその狭い通路を走りこんで来ました。僕が上から眺めているのに気がついた少年の内で一番小さい一人が僕に対して「猫退治にやってきました。」とはきはきと大きな声で言いました。今時の小学校低学年の子供はこんな言葉遣いをするのかと、僕は笑ってしまいましたが、ご近所でも猫の糞公害で困っているのでしょう。僕は子供たちに「猫をいじめると化けて出てくるよ~」とつい口から出掛かりましたが、咄嗟に押えました。そんなことを言うと、かえって子供達から馬鹿にされただろうと思います。「あのおじさん、お化けを信じちょるんじゃろか~」などと思われかねない雰囲気があったからです。猫が居ると鼠が居なくなるので良いのですが、猫の糞には確かに困ったものです。

 それで猫除けとして、香りの強い植物を植えると猫は嫌がって近寄らなくなるとのことを聞いたので、数種類のミントを植えました。最初の年はうまく育ちましたが、そのまま種が落ちて毎年繁茂するものと思っていましたが、次の年は皆無でした。土が会わないのかも知れません。そこで昨年の帰国時に植木市で刺のある山椒の苗木を買って猫の通路を塞ぐように植えました。最近は棘のない山椒の木もあるとかで、その方が人気が高いそうですが、あえて刺の鋭いのを探したのです。刺のある方がやはり香りも高いとのことです。山椒の木は移植を嫌う植物なので山で採取してきた山椒の木はなかなか根付かないのだと思います。植木市で買った山椒の木は、順調に根付き、昨年、ポルトガルに戻る頃には勢いよく沢山の新葉をだして調子が良かったので、アゲハチョウの幼虫に食われていなければ良いのですが、さて今年は繁茂してくれているでしょうか?半月後の帰国が楽しみです。VIT

 

サンショウ(山椒、学名:Zanthoxylum piperitum)は、ミカン科サンショウ属の落葉低木。 別名はハジカミ。英名はJapanese Pepper、Japanese Prickly Ash。日本の北海道から屋久島までと、朝鮮半島の南部に分布する。若葉は食材として木の芽の名称がある。雄株と雌株があり、サンショウの実が成るのは雌株のみである。

 

ゴマ(胡麻、学名:Sesamum indicum)は、ゴマ科ゴマ属の一年草。英名:Sesame、葡名:Gergelim、Sésamo、アフリカ大陸に野生種のゴマ科植物が多く自生しているが、考古学の発掘調査から、紀元前3500年頃のインドが栽培ゴマの発祥地である。主に種子が食材、食用油など油製品の材料とされ、古代から今日まで世界中で利用する植物である。(Wikipedia)より

 

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 アルガルヴェ地方、オーリャオンの名物料理にはアロス・デ・リンゲラォン(マテ貝の雑炊)と言うのがあって、美味しいので時々は食べに訪れる。何軒かのお店で食べてみたが何処も同じ様なもので変わりはないが、最近はメルカド通りから裏通りに引っ込んだ店に行くようになっている。ご主人がウエイターで奥さんが調理をしていて、2人だけでやっているが店内に20席、表のテラスに3席があり結構広い店だ。

 

オーリャオンの名物料理「マテ貝雑炊」

 最初訪れた時に2人前を注文しようとすると「多いので食べきれないよ、1人前にしておきなさい。」などと言ってくれて、正直で親切な店だな。と感心して、それからその店がお気に入りになったのだ。マテ貝の雑炊を1人前にするかわりに、前菜として、コンキーリャというサクラ貝の様な小さな二枚貝のニンニク炒めも1人前取った。それが又旨くて、その店ではその注文が定番になってしまった。

 

「コンキーリャのニンニク炒め」

 土鍋に入ってぐつぐつ煮立っているマテ貝の雑炊は成る程1人前でもマテ貝がたっぷり入っていて2人でお腹が一杯になってしまう。これで2人前も取れば大変だ。マテ貝は身だけにしてあり、味付けは絶品だ。

 先日、久しぶりに訪れた。注文は定番であるが、その時期、コンキーリャはなくて、と言うのはご主人曰く「この時期、コンキーリャには貝毒がある」とのことで、アサリに代ったがそれも旨かった。美味しくて正直な店なのにお客は全く居ない。残念ながら今回も前回も、遅い目のお昼だったが、我々2人だけである。以前には数組は入っていたのに、やはり裏通りというハンディがあるのだろうか。

 いつもは裏通りの露地に設置されたテラス席で食べるのだが、冬だしテラス席は陰になっているので寒いと思って店の中で食べた。

 店の表にはいつも小型の可愛らしい犬がいて、通りがかりの人などからも声をかけられたりして可愛がられている。

 

黒、白、茶色、3色の「ミケ」

 名前は「ミケ」と言うのだそうだ。ご主人に言わせると「白、黒、茶色の3色だから。でも意味は判らない」と言っているが、それでは日本語の「三毛」ではないか。多分日本人が名前を付けたのだろう。

 店の中で食べていると、入り口でひと声ミケに声をかけて、大きな布袋を肩に担いだ男が勢い良く入ってきて、真っ直ぐ調理場の方へ向った。調理場の前にいたご主人に何やら買ってくれと言って、布袋の中身を見せている。ご主人はちらっと覗き込んでにべもなく「いらない」と言った。男はやっぱり駄目か、といった表情を浮べすごすごと帰りかけたが、思い止まり我々の席に来て「買ってくれないか。1キロ1ユーロだけど。」と言って布袋の中身を見せた。中味は緑色の小さなアボカドである。未だ硬くてすぐには食べられそうにない。いや、永遠に食べられないかも知れない。でもアルガルヴェ地方はさすが暖かく、アボカドも実が生るのだ。

 アボカドは我家では昔から良く食べる。昔は日本ではあまり見かけなかった。僕たちが初めてアボカドを口にしたのは1976年頃、南米、ボリビアであったと思う。大きな真っ黒いアボカドを旅行中、良く買って食べた。ボリビアの塩を振りかけてスプーンですくって食べた。熟れたアボカドは本当に旨い。ワサビと醤油があればもっと旨い。日本のスーパーでもその後、売られているが未だ硬く熟れていないものが多い。熟れてから食べよう。などと思っていると、うっかり腐らせてしまうこともあり、食べ頃を見極めるのも難しい。

 アボカドには大きな種があり、立派なので捨てるには惜しい。宮崎に住んで居る時には何度か植木鉢に埋めておいたことがあるが立派な観葉植物になる。そう言えばバリ島の安宿でも食べて、その種を部屋の前の植え込みに埋めておいた。今頃は立派な木に成長して果実も実っているかも知れない。

 アボカドの種は水溶性植物繊維が豊富だそうで、お茶にして飲むと良いらしい。それ程硬くはなく、ジャガイモより少し硬いくらいだから、普通の菜切り包丁でも切れる。1個の種を1cmの厚さにスライスし、1リッターの水に30分ほど水から煮出す、飲む。それだけ。少し青臭く感じる人は蜂蜜でも垂らすと良いかも知れない。

 ところでその店に入ってきたアボカド売りであるが、ただ、いらないと帰すのは気の毒な気がして、1キロだけ買うことにした。「5個で1キロだけど、1個おまけ」と言って6個をくれた。店の主人も「3日くらい置いとくと、美味しくなるかもね~」などと無責任に言う。まあ、1ユーロだから食べられなくてもたかが知れている。

 

窓辺に置いた未だ硬くて緑いアボカド

 そして家に持って帰って陽のあたる台所の窓際に置いておいた。それから10日が過ぎようとしている。1個の皮が黒ずんできた。硬くても薄くスライスしてサラダに混ぜればいいかな。と思って皮をむき始めると、なんと丁度良い柔らかさになっている。サラダに混ぜるのは勿体ないと思い、急きょワサビを練り刺身で食べた。絶品である。

程よく熟れて半分に割ったアボカド

 その後、1個づつ序々に黒ずんで全て食べ頃に美味しく頂くことができた。何と安い買物をしたものだ。

 

未だ緑いアボカドと黒くなって食べ頃のアボカド

 アボカドは森のバターとも言われ、世界一栄養価の高い果実としてギネスブックにも登録されているそうだ。

 アボカドはクスノキ科、ワニナシ属、メキシコと中央アメリカ原産の常緑高木、

 学名:Persea americana、英名:Avocado、Alligator Pear、葡名:Abacate、和名:ワニナシ(鰐梨)

 和名の鰐梨などと呼ぶ人は最早いないと思う。英名の直訳だが、皮の表面が鰐皮に似ていて、洋ナシの形だから鰐梨(ワニナシ)。判りやすい。アボカドには3系統、1000品種もあるらしい。

 

 我家から歩いて5分程のところにある個人の住宅。熱帯の植物が幾つか植えられていて、前庭に以前にはアボカドが実っていた。今(2016年1月31日)はパパイヤの大木が沢山の実をつけている。VIT

 

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 セトゥーバルに住んで25年が過ぎた。25年というとやはり長い年月だ。オギャ~と生れた赤ん坊が成人し、もう既に子供を生んで母親となっているかも知れない。そう考えると長い年月だが僕にとってはあっと言う間の歳月であった。他人から見れば僕も随分歳を取ってしまった筈だ。

 でもやって来たその当時のことはつい先日のことの様に覚えている。1990年の9月19日、水曜日、快晴、安宿からの夕陽と赤瓦の屋根が美しく早く絵を描きたいと思ったものだ。

 振り返ってみると世の中も随分と代ってしまった様に思う。四半世紀をこのセトゥーバルで暮らしたのだから代って当然には違いない。荒地で野草の花を摘んだりしていたところに10階建てのビルがどんどん建ち、すっかり街になってしまった。そして既に色褪せている。

 1990年と言うと昭和から平成に代ったばかりの平成2年。ロシアは未だソ連と言っていた時代でゴルバチョフ大統領がノーベル平和賞を受賞した。鉄の女と言われたイギリスのサッチャー首相が11年の長期政権に終止符を打った年でもある。サラ・ボーン、アート・ブレイキー、グレタ・ガルボが死去。奥村土牛も101歳で亡くなられた。日本ではバブル崩壊の年とも言われている。

 その後、様々なことがあった。湾岸戦争、地下鉄サリン事件、9,11ツインタワーテロ、阪神淡路大震災、インドネシア大津波、東北大震災、ポルトガルの通貨はエスクードからユーロに替わり、ヨーロッパの国境も無くなってしまった。香港もマカオも返還され、ダイアナ妃がパリで事故?死という事件もあった。オリンピックも何処で何回あったかも忘れてしまった。

 1990年9月16日、成田で1泊、9月17日成田発アエロフロート機でモスクワで1泊経由してリスボン空港に降り立ったのが1990年9月19日。その前前年にバリ島で買った水牛皮のトランク一つを携えてやってきたのだ。それ以前に2度、1ヶ月づつのポルトガル旅行には来ていたものの、殆ど何の手がかりもなく、一人の知り合いもなく移住を決意してやって来た。

 同じ飛行機に乗ってきた個人旅行の日本人2人と4人でタクシーを乗り合わせ同じ安宿に向った。危うくタクシーにぼられるところであった。いや少しはぼられたかも知れない。

 リベルダーデ大通りから西側に少し入った警察の隣の安宿にトランクを置き、すぐに部屋探しを開始した。

 それまでは13年間、宮崎で山の中に住んでいたものだから次は是非とも港町に住みたいと思っていたのでリスボン周辺の港町を重点的に探そうと思っていた。

 テージョ川を渡った対岸、セトゥーバルが大都市ではなく程々の中都市で何でも揃っていそうだし、リゾートっぽくはなく生活臭がし活気もあるし、何となく肌に合ってそこを第一候補と考えていたが、その通りになった。

 当初は不動産屋が何処にあるかも判らず、今の様に『売ります、貸します』の張り紙も見当たらず、かなり苦心をした記憶はあるが、確か3日目には最初に2年ほど住んだセトゥーバルの下町アロンシェス・ジュンクエイロ通りの部屋が見つかり、リスボンの安宿から移り住んだ。

 セトゥーバルのバスターミナルに降り立ち、トランクがあるものだから、タクシーで行こうと思ったのだが、タクシーの運転手から「すぐそこだから歩きなさい」と言われてしまった。

 そしてセトゥーバルの生活がスタートした。家具付きで一応の物は揃っていたが、クルマもなく、電話もなく、勿論、パソコンもなく、テレビは映りの悪い白黒で、洗濯もバスタブでした。古い良く冷える冷蔵庫だけはあった。そして毎日メルカドに買物に出かけた。アーチ型の窓枠の塗料は剥がれ落ち、でも天井は日本の家屋の倍程も高かった。部屋は広場に面していたが、北向きで冬になればかなり冷え込んだ。が、そんな生活が気に入っていた。

 当初は5年ほど住めれば良いかな?と考えていた。

 僕は絵を描くためにやって来た。それまでに2度1ヶ月ずつの旅行で訪れた時もスケッチを目的で旅行した。一度は油彩の道具も携えて来て油彩も描いた。

 20歳代の時にストックホルムで4年余りを過した。アルバイトをしながら必死でスウェーデン語を勉強した。ある程度ははかどったのだろう。そして勉強をすることが面白くもあった。でもスウェーデンから離れると役には立たなかったし、忘れる一方で、あの時の勉強は何だったのだろう?などと思ってしまった。あれが英語圏かフランス語圏、或いはスペイン語圏だったら少しは違ったかも知れない。でも勉強をすることに意義はあったのだろうと思うが、他のことは何にも出来なかった。例えば絵を描くことである。

 ポルトガルには絵を描くためにやってきた。そしてそれは出来ているのだろうと思う。スウェーデン語での経験があるのでポルトガルでははなから語学の勉強はやる気はなかった。その分、絵は描いた。納得のゆく絵が描けたかと問われれば、それは否である。しかし、納得の出来る時間を絵と共に過せたのは確かだと思う。モティーフを求めて随分と旅もした。でも25年も住んで、荷物は思いっきり増えてしまった。セトゥーバルでの生活も10年目あたりを境にかなり変わってきた。クルマを買ったし、パソコンを使うようになった。白物家電も既に何代目かを使っている。トランク一つでやってきた荷物は膨大に膨れ上がり、恐らくトラック何台か分になっている。

 そしてポルトガル語は未だに皆目なのである。

 最近は覚えることよりも忘れることの方が多い。五年ほど前だったか、セトゥーバル市主催で無料の6ヶ月コース、ポルトガル語教室に無欠席で通って修了証書を頂いたがたちまち忘れてしまった。まして毎年3ヶ月程を展覧会のため日本で過す。日本からポルトガルに戻ってきた時など、以前には覚えていた単語などもなかなか出てこない。ハリウッド俳優の名前、ジャズメンの名前、花の名前が出てこないのと同様だ。そして英語も昔はもう少し喋れていた筈だがそれもおぼつかなくなって来ている。そろそろ呆けが始まったか?でも絵の具の名前はクリムソン・レーキ、プルシャン・ブルー、バーント・アンバー、イエロー・オーカーなどとすらすらと出てくるので今のところ大丈夫だと思う。

 先日、アルガルベの宿の主人から「英語がいいか、ポルトガル語がいいか」と聞かれて「英語の方がいい」と応えると「ポルトガルに何年住んでいる」と問われたが「いや~、長い」と言葉を濁らさざるを得なかった。「何故、ポルトガル語を喋らない。日本語に比べると、簡単な言葉だ。」と流暢な英語で皮肉たっぷりに言われてしまった。その宿の主人もかつてアメリカで暮らした経験があるそうだが、英語の他にフランス語もスペイン語も喋れる。ポルトガル人には言葉が堪能な人が多く、何ヶ国語も操る人もいる。日本語でも勉強すればすぐに喋ってしまうだろう。そしてすぐに社会に溶け込んでいく。

 確か堀田善衛の本の中でであったか『周りの雑音が聞こえ始めたら、引き揚げ時』と言う文章があった。日本人同士の夫婦の場合、せいぜい5年から長くても10年程で雑音が聞こえ始めるのであろう、帰国する人が多い。日本人同士の夫婦でも子供がその国で成人した場合などは別であると思う。勿論、外国人との夫婦でも別である。

 僕には幸か不幸かノー天気なのか、未だに雑音は聞こえてこない。VIT

 

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