ポルトガルの運転免許証が今年の12月で切れる。それを更新しようかどうか、迷っている。

 その一方、日本の運転免許証はポルトガルに住み始めてからも、その都度更新をしている。更新時期に日本には居ないから事前更新と言うことになって、いつも1年分は短縮されて損をしている(5年のところが4年程になってしまう)がそれは仕方がない。

 日本の免許証があるのでそれで国際免許証を取得すれば、ポルトガルでもヨーロッパ中でもどこででも運転は出来る。

 昨年は国際免許証を貰って来て、ポルトガルでは3つの免許証を常時持ち歩いていたことになるが、一度も提示を求められたこともなければ、フォルダから出したこともなかった。そして国際免許証は少々嵩張る。

 ポルトガルに住み始めて28年になるが、免許証の提示を求められたのは2~3度あるか無しかだったろうと思う。

 きょう、5月28日のニュースで、ポルトガルの運転免許証も点数制度になり、最初の持ち点は12。刑事事件で即取り消し。飲酒運転だと6点減点だそうである。早速、スピードガンを使っての交通取り締まりの様子を伝えていた。

 ポルトガルの免許証はポルトガルに住み始めて暫く経った頃に日本の免許証から切り替えて作ってもらったもので、最初は有効期限が10年であった。その次も10年であったと思う。その次に更新をした時には「次の有効期限は2年ですよ」と言われた。何故だか聞かなかった。そして今年12月に期限を迎える。

 スウェーデンに住んでいた時にも日本の免許証から切り替えてスウェーデンの免許証を持っていた。その頃も期限は10年であったと思う。それより少し前までは免許証の期限は無期限で18歳くらいの写真のままで70歳の老人が使っている。などと聞いたことがある。スウェーデンの免許証から国際免許証を申請したこともある。それでヨーロッパ各国を運転した。

 ポルトガルの免許証を更新するには先ずACP(日本のJAFの様な機関)に年会費を支払って会員にならなければならない。ACPから紹介される医師の診断を受けるが、それ以外はACPが全て代行をしてくれてやがて交付と言うことになる。料金も掛るし、何度も出掛けなければならないので面倒だ。自分でするにはちょっと無理なほど複雑で、なお更面倒である。

 もしもの事故の時、故障の時と思ってずっとACP (Automóvel club de Portugal) の会員になっていたのだが昨年から会費を払っていない。

 だから再度ACPの会員になって、ポルトガルの免許証を持つよりも日本の免許証から国際免許証を申請して毎年持ってくる方が楽なのかも知れないと思い始めている。只、ポルトガルの免許証ならそのままでヨーロッパ中どこででも使えるから国際免許証は必要がない。

 日本の免許証も今年12月に期限を迎える。MUZは9月である。だから2人とも今回2018年の日本滞在中に事前更新をする必要があった。今年の日本滞在はいつもより幾分短く、それに大阪でのグループ展ばかりであったので大阪滞在が長く、宮崎は短かった。僕もMUZも運転免許証は宮崎県の発行である。

 ポルトガルに戻る直前の宮崎滞在は6日間しかなかった。その内の1日は運転免許証の事前更新と国際免許証の申請の日に充てていた。

 例年通りならその日の内に出来るのを知っているから、ぎりぎりでも構わない。それで天気予報などをみてポルトガルに戻る3日前の午後から宮崎運転免許センターの受付に行くことにした。

 電話で免許センターに問い合わせると「事前更新なら午後は13時からですが、国際免許証も一緒にやりますので少し早い目に来て下さい。」とのことで、自宅から自転車を走らせ、13時からの受付時間の30分前に到着して待合室で待っていた。

 13時の5分前に呼び出されて、免許証、スーパーの駐車場に設置されてあった自動で撮る証明写真、パスポート、出国を証明する航空券など、必要書類を提出した。

 5分もしない内に再び係の人に呼び出されて「あなたがたの場合、高齢者講習が必要です」と言われた。70歳を過ぎると先ずは高齢者講習を最寄りの自動車学校で受けなければならないというのがこの程決まったそうである。その半年前に告知が自宅に郵送されるとの事だが、僕の場合もMUZの場合も半年よりも以前になるから未だ来てはいない。

 MUZは今年から、僕は昨年から宮崎市の宮崎交通バスの高齢者パスが送られて来ていて、自分たちも高齢者の仲間入りになってしまったことは認識していたのだが、いろいろと優遇されているところもあれば不利なところもあるものだ。

 「日数が限られていますが、どうすれば良いですか?」と尋ねると、「高齢者講習に詳しい係の部屋に行きなさい。」と言われ2階の小さな部屋に通された。

 「とにかく高齢者講習が必要になりましたから、どこかで受けてから更新手続きになります。」と言いながら、定年退職直前といった警察官が2人がかりで頭を捻らせてくれていた。そしてあちこちの自動車学校に電話をかけ始めた。高齢者講習というものは毎日はやっていないとみえて、この2日の内で宮崎市内や近辺でやっているところは皆無の様であった。それにしても親切な警察官のお二人であった。

 思えば僕が牽引免許と大型特殊免許を取ったのがこの宮崎運転免許試験場であった。

 普通免許は大阪の鳳自動車学校で18歳の時に取得した。その頃の普通免許は自動二輪も含まれていたので、僕は大型バイクにも乗ることが出来る。宮崎では750cc(ナナハン)に乗っていたこともある。

 その後、都城自動車学校で大型自動車の免許を取得した。その勢いを駆って宮崎の試験場に牽引と大型特殊を取得しにナナハンで通ったのである。実は大型も牽引も大型特殊も必要ではなかったのだ。何となく時間は自由に使えたし、受験代は多寡が知れているし、もし受かれば儲けもん。という考えで通った。試験場にはそういった類の男たちが何人かいて、情報交換などをしていた。

 最初は牽引を受験した。初日は惨憺たるものであった。途中でもう駄目と判っていたが、その時の試験官は「もう駄目だけれど、練習のつもりで、コースの最後まで運転をしてみなさい。」と言いながらコツなどを教えてもくれた、優しい試験官であった。そして牽引はまぐれだとは思うが3回目で見事合格をした。

 そして大型特殊である。まぐれは2度も続いて、これも同様3回目で合格した。これはいけると思い。次には大型2種に挑戦したが、そうそうまぐれがある筈もなく、それは3回目も不合格であった。その頃から仕事が少し忙しくなりかけていたので大型2種の4回目は断念と言うことになった。

 牽引というのはトレーラーのことである。30トンもあるトレーラートラックを運転するにはこれが必要で、その他には大型のヨットなどを乗用車で牽引するにも必要な免許である。これはバックでの車庫入れが難問で普通車の様に一気にハンドルを切るのではなく、徐々に押し込むという感じがコツといえる。

 大型特殊というのはブルドーザーやショベルカーなどのことで、これは後輪のタイヤに方向転換機能が付いているので、前進はバックの要領で後退は前進の要領で運転することがコツと言えるのかもしれない。大型2種は市バスや観光バスなど料金を取るバスのこと。

 大型も牽引も大型特殊も取得してからは残念ながら1度も運転をしたことがない。4トンまでのトラックなら普通車免許で運転が出来る。

 宮崎運転試験場の場所はその当時と同じだが、その頃の面影はすっかりなくなりリフォームされているが、でも懐かしい宮崎運転試験場である。

 その時の試験官の優しさは今、目の前で僕たちのために一生懸命に電話をかけ続けてくれている警察官に受け継がれているのだろう。

 警察官の1人は「宮崎市内にはないようだからもしかしたら延岡あたりにやるところがあるかも知れないですが、延岡でも良いですか?」というので「はあ」としか答えようがなかったが、「いや延岡より、もしあれば都城の方面が良いです。」と言うと「いや都城は宮崎市より更に厳しい」との返答であった。

 都城なら高齢者パスを使えば宮崎交通バスに乗り片道100円で行くことが出来るが、延岡まではその制度は使えない。

 が、果たして延岡市に1件だけ明日に高齢者講習をやるというところがあった。それは旭興自動車学校という名前で何でも南延岡にあるらしい。

 受験代も必要だし、交通費もバカにはならない。MUZはこの数十年、ペーパードライバーで全く運転はしていない。運転にも自信がない。考えた挙句、この際、免許が無くても構わないかなと思い、高齢者講習には行かないことにした。

 延岡市まではJR普通乗車券だけで、片道1,600円、更に特急料金は900円、更に特急指定席なら1,400円。特急自由席片道合計=2,500円。指定席なら=3,000円。往復で1番安い鈍行=3,200円から1番高い特急指定席=6,000円と言うことになる。

 明日は幸いにも午後からと言うことであった。急いで行くことはない。『乗り鉄』気分になり鈍行で行くのも悪くはない。

 時刻表を見てみると講習が始まる1時間半前に到着する乗り換えなしの鈍行がある。近くまで行ってから先ずはお昼を食べてと思って一人で出掛けた。

 その日はあいにくの雨の天気予報が出ていた。南宮崎駅までは自転車で行ったが、殆ど降らなかった。

 たまには列車の旅も良いものである。2両編成でワンマン列車というものらしく駅によっては、ドアの開閉は最前部だけになり運転手が切符の回収などもする。人の乗り降り、車内アナウンス、途中の駅々の様子、かつては走りなれた国道と並行して走り、それを走るクルマ、車窓を流れる風景、時折望める日向灘などを楽しんでいると、あっという間に南延岡駅に着いてしまった。

 駅の改札で旭興自動車学校への行き方を尋ねた。駅前の道を真っ直ぐ15分だそうである。

 南延岡駅を出てすぐのところにトンカツのチェーン店があったので、お昼はここでも良いな。と思いながら旭興自動車学校を目指した。先ずは何処にあるかを確認してからのお昼が望ましい。トンカツ店まで引き返してくる時間もある。

 駅から10分程歩いたところで旭興自動車学校という大きな看板が見えた。その筋向いに全国チェーンのファミレスがあったのでそこで昼食ということにした。丁度お昼時だが殆どが子供同伴の家族連ればかりで、騒々しくもあった。そしてビジネスマン風の人やお一人様は僕以外にはいなかった。安かったが旨くもなかった。

 30分前にファミレスを出て旭興自動車学校に向かった。受付にその旨を言うと「ソファーに座って暫くお待ちください」とのことで、下らないテレビを観ながら待っていた。もう一人高齢の女性が座っておられたが、同じ高齢者講習を受ける人なのかも知れないな、などと思っていた。その内新聞が置いてあるのに気が付いて新聞を読み始めた。

 懐かしい宮崎日日新聞である。宮崎に住んでいた時にはこの新聞をとっていたし、宮崎県では大手全国紙新聞ではなくこの新聞をとっている人が多かった。絵を描き始めてからは良く取材もしてもらったし、本社文化部にも何度も行ったことがある。記者やカメラマンにも知り合いが居る。

 そんな新聞を読んでいると、13時の5分前に教官らしき人から「高齢者講習の方はこちらの教室にお入りください」と呼ばれた。

 受講者は総勢6名である。教官は2人。交通に関するありきたりの講習があり、目の検査である。受講者の僕以外はお互いが顔見知りらしく、少し前に認知症テストというのを済ませてきている人たちであった。つまり75歳以上の方たちばかりで、75歳になれば更に認知症テストというのも必要になるらしい。それを終えての高齢者講習で、そんな中に僕が割り込んで入らせて貰った格好なのだろう。

 アンケート用紙への記入などが終わったら、運転実技講習である。

 受講者は男性4名。女性2名であったが2台のクルマに分かれて3名づつ、僕は女性2人と一緒のクルマに乗っての実技ということになった。何れも何十年も運転をしてきた人たちばかりであろう。

 僕が最初である。初っ端にウインカーを出さなければならない時にワイパーを動かしてしまった。試験官は僕が外国に住んでいるのが判っているから「外国は反対じゃからね~」などと言う。試験場の外回りから車庫入れを済ませ、又外回りからエス字カーブである。案外と狭いエス字だが一応難なくこなすことができた。後部座席に乗っていた一人の女性は「やはり男の人は運転がお上手ね~」などとお世辞を言ってくれる。

 お世辞を言った女性も初っ端にウインカーを間違えてしまった。教官は「武本さんの真似をせんでもええっちゃが」と宮崎弁である。「それとも外車に乗っとりやっとな?」「はい、フォルクスワーゲンです。」「皆、お金持ちじゃな~。」などと言って和ませる。

 三人目の女性はエス字カーブで脱輪してしまって「きゃ~、落ちた~」と奇声を発した。最初から待合室で居た人だ。教官は「気にせんでもええ。そのまま走って。でも崖だったら皆、死んどったわな~。ハハハ。」

 そんな雰囲気で無事高齢者講習を終え、終了証書を手にした。

 高齢者講習や認知症講習というのは、最近になって高齢者が運転する事故が増加しているからなのだろう。ハンドルの切り損ないで崖から落ちた。という話はあまり聞かないが、高速道路の逆走や歩行者の列に突っ込む。という悲惨な事故も時々は耳にする。

 今朝のニュースでも『90歳女性、4人はねる=歩行者1人が死亡―神奈川・茅ケ崎・2018年5月28日午前11時ごろ、神奈川県茅ケ崎市の国道1号で、同市の女性(90)が運転する乗用車が歩行者4人をはねた。県警茅ケ崎署によると、はねられた4人のうち女性1人が死亡した。残る3人のけがの程度は不明という。同署によると、運転手の女性もけがをしたほか、事故を目撃した2人も気分の悪さを訴えて病院に搬送された。乗用車は赤信号の横断歩道に突っ込んだという情報もあり、同署が事故時の状況を調べている。』と言うものだ。

 高齢者講習はきっちり時間通り終わったので、予定をしていた鈍行列車には急げば間に合う。少し細かい雨が降り始めていたが、リュックから折りたたみ傘を出すほどでもない。

 帰りの列車は途中通学の学生たちで結構一杯になった。でも降りたり乗ったり、であまり長距離ではない。向かいの席に大きなトランクを横に置いた中国人の老夫婦と若夫婦といった感じの家族連れ旅行者が僕より先から座っていたが、たまにお互いに喋りあっているくらいで、海岸線を走っていても風景を見るでもなし、ず~とスマホをいじくっていた。一体何の旅行なのだろうと思って僕は見ていた。列車の中でのスマホなら事故には繋がらないが、クルマを運転しながらのスマホもよく見かける。

 夕方、明るいうちに家に帰りついたが、これで終わったわけではない。明日は事前更新と国際免許である。

 次の日も雨の予報が出ていた。午後からは激しく降るとの予報である。自転車は無理かもしれないと思って、試験場行きのバスの時刻も調べておいた。

 朝起きると今にも降りそうであったが、未だ降ってはいなかった。バスで行くよりも往きが降らなければ自転車の方が便利に違いない。帰りはぬれねずみになろうが、風呂に入ればそれで済む。

 自転車に乗り、午前中の受付に申し込むことにした。途中、霧雨程度は落ちてきたが試験場までは急いでおおよそ20分の道のり殆ど濡れずに済んだ。

 高齢者講習の修了証書など必要書類を提出して、免許証用の写真を撮影するだけであった。高齢者講習は既に受けているから普通の講習は必要がなかった。そしてすんなりと更新免許証と国際免許証を手にすることが出来た。

 ポルトガルに戻る前日であった。ぎりぎりセーフである。

 3年後の次回はどうすれば良いのだろう?という疑問が生まれた。今回は初めてのことで、急遽講習を受けるための手伝いを警察官の方のお骨折りで何とか間に合ったが、次回はそうは行かないだろう。免許証を受け取る時に少しそのことを聞いてみた。そうするとまた先日に通された高齢者講習に詳しい小部屋に案内された。先日とは別の人であるがやはり定年退職間近といった感じの警察官が対応してくれた。

 「今回は初めてのことで知らなかったものだから、こちらの警察官の方々が一生懸命になって高齢者講習の場所を探して申し込みまでして頂きましたが、次回はそうもゆかないでしょう?」というと、その警察官は、いかにも警察官らしく柔道家といった体格で、相撲の元大関琴風(今の尾車親方)と似た容貌に、大きな頭を捻って考えあぐねた末に、満面の笑顔を見せて「次回も一生懸命電話を掛けて何とかしますよ~」と言ってくれた。

 明日ポルトガルに戻るためにやり残したことはないだろうか?などと思いながら自転車を走らせたが、雨は未だ落ちてはこなかった。

 そして今、僕のポケットの中には少々嵩張る国際免許証が入ってその存在感を誇示している。ポルトガルの免許証は更新しないでおこうか、などとも思っている。VIT

 

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 2~3泊の旅や、往復100キロ程度の日帰りの旅でもお昼は外食と言うことになる。往き慣れたコースなら決めている食堂もあるが、そうでない場合は適当に流行っていそうな食堂に入るか、或いは店の前に出されてある黒板などの今日のメニューを見て決めることになる。黒板にありきたりのメニューしかない場合は他をあたる。最近僕は『豆の煮込み料理』などが書かれてあると、流行っていなくても決めてしまうことが多い。いつの頃からか豆の煮込み料理が好みになっているのだろう。

 子供の頃は豆料理など好きにはなれなかった。子供のくせに甘ったるい料理が苦手だった。父が大豆と昆布を甘ったるくした煮豆を箸で一粒づつ摘まんで旨そうに食べていたが「あんなものよく食べるもんだ」と思ってみていた。母が父のために欠かさず大豆の煮豆を作って年中常備してあった様に思う。エンドウ豆が出始めの季節に決まって出てくる『豆ごはん』も僕は苦手だった。でも豆だけ除けたりまではしなかった。

 

「Ervilhaエルヴィーリャ」エンドウ豆とチョリソ、赤ピーマンなどが煮込まれフライドエッグが載せられている。緑色はコエントロ(コリアンダー)。

 日本では大豆を使った豆腐、納豆、味噌、醤油などしらずしらずに豆は食べてはいるのだが、豆そのものの豆料理は最近あまり食べない様に思う。小豆を使った回転焼き、三笠焼、アンパンとぜんざいそしてお節料理に黒豆は欠かせないが。

 一方、ポルトガルの郷土料理には豆そのものを使った豆料理が多くある。豆や野菜がたっぷり入った『ソッパ・デ・ペードラ』も僕は大好物だ。キャベツなどの野菜くず、豚の脂身、チョリソ、それにうずら豆などが具沢山に入り、それとパンがあれば他には何もいらない。

 バカリヤウとひよこ豆を煮たものはポルトガル料理の定番で、露店市の食堂でも露天商、靴屋の親父連合が毎週決まって4人でテーブルを囲んでそれを食べている。

 ポルトガルには季節に出始めるエンドウ豆やそら豆の他にも乾燥されたひよこ豆、うずら豆、白インゲン、赤インゲンなどが売られているが、それらの薄塩で茹でられた瓶詰めなどもあり、安価で煮込み料理などには手軽に使うこともできる。

 

「Feijoadaフェイジョアーダ」インゲン豆と豚のくず肉、チョリソ、アリエエイラなどを長時間煮込んだもの。

 僕はニューヨークに居る時にはマクロバイオティック・レストランでコックをしていた。メニューの天ぷらや焼き魚、野菜煮込みの他に小鉢として煮豆を必ず付ける。確か5種類ほどの乾燥豆が常備してあって大豆やうずら豆など毎日日替わりで豆を煮込む。それは豆の単品だけを塩味だけで煮込み、仕上げの香り付けに少し溜り醤油を垂らしたがシンプルなものだった。営業が終わって明日の豆を水に浸けてから帰り支度ということになっていたがそれも僕の仕事だった。

 クリント・イーストウッドが西部劇の中でフライパンのそのままで煮豆を旨そうに食べたりするシーンがよくある。尼僧姿のシャーリー・マクレーンに食べかけのフライパンを突き出し「お前も食べるか」とクリント・イーストウッドが言う。シャーリー・マクレーンは「いらない」などというシーンもあった。『ローハイド』では料理人のウイッシュボンがカウボーイのために煮豆を作る。カウボーイたちは「きょうも煮豆かよ~」とウイッシュボンに不平をいい「たまにはステーキを食わせろよ。これだけ牛が居るのによ~」などと軽口を発する。

 ホウレン草を嫌いな子供が多いので、何とか食べさせようとホウレン草の缶詰会社が考え出したのが漫画の『ポパイ』だと聞いたことがある。その漫画やアニメを観た世界中の子供たちはホウレン草の缶詰に憧れを持った。尤も日本では缶詰のホウレン草などお目にかかる機会はなかった。生のホウレン草と缶詰ではイメージは異なる。ポパイを観た世界中の子供たちと同様に西部劇を観て豆の煮込みに憧れを持った人も多く居るのではないのだろうか?

 ポルトガルの煮豆料理はソッパ・デ・ペードラと同様、様々な野菜や豚肉、チョリソなどと一緒くたに煮込まれているものが多い。或いはエンドウ豆やそら豆の出始めにはその豆をメインにしたものに少しのチョリソなどが入った物。或いは小さなエビのむき身に白インゲンを合わせたものなど、豆を使った郷土料理が数多くある。地方の食堂でそんな郷土料理に出会うとクリント・イーストウッドになった気分で食もすすみ、最後はパンでフライパンではないが、器を綺麗にふき取り口に放り込む。

 1キロの豚肉を生産するのに20キロの稲、麦、トウモロコシ、豆などの穀物が必要だと聞いたことがある。これから増々増え続ける人類の食糧問題も解決するには、ステーキや焼き肉などばかり食べるのではなく、直接、豆類などの穀物を食べる方が食糧危機を救えるのだろうと思う。VIT

 

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 明けましておめでとうございます。

 先日、ポルトガルテレビのニュース情報番組のなかで『フロシキ』に関するレポートがあった。「日本にはフロシキという便利でお洒落なものがあって、日本人はそれに何でも包んで持ち歩く」というものであった。そして日本人の僕でさえ知らない、様々な包み方が紹介されていた。「ポルトガル人は使い捨ての紙袋やビニル袋を使い、日本人に比べていかに資源の無駄使いをしていることか。日本の伝統文化はエコで素晴らしい。」と締めくくったレポートであった。

 でもそのレポートを見たポルトガル人が実際に日本に行ってみたならば、道行く人の誰も風呂敷など使っていないのを見てむしろがっかりするのかも知れない。それどころか日本の過重包装をみて驚くことは間違いなしだ。お菓子などは必要以上幾重にも包まれているし、スーパーの野菜でも魚でも殆どがトレーに乗せられている。

 風呂敷は ORIGAMI(折り紙)同様、そのまま FUROSHIKI と表されている。

 風呂敷の様な布は奈良時代から使われていた。日本だけではなくチベットや更にベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸を南下、グアテマラやペルー、ボリビアのインディオたちも昔から使っている。大きな民族織の布に何でも包んで背中に担いでいる姿はインディオの象徴でもある。何れにしてもモンゴロイド民族の伝統なのだろう。

 風呂敷という呼び名になったのは江戸時代になってからと言われている。諸説はあるものの、『各地で温泉や銭湯が流行り始め、侍が着物を脱いで他人の着物と一緒にならない様に、その布の上で脱ぎ、そのまま結んで区別しておいた。』のが風呂敷と言われる所以だという。今の銭湯や温泉の脱衣籠の様な役割だったのだろう。風呂敷には家紋なども施されるようにもなった。

 チャールス・ブロンソンの西部劇で三船敏郎が侍として共演した映画があった。侍の三船敏郎が流暢に英語を喋っていた。一緒に馬に乗ってアメリカ西部の荒野を旅するのだけれど、休憩場所で天然に沸いている温泉があった。三船敏郎は喜んで湯に浸かった。その纏めてあった着物、刀などをチャールス・ブロンソンは悪戯半分で隠してしまった。その時、風呂敷に包まれていたかどうかは忘れてしまったが、三船敏郎の「着物を返せ!」という台詞が日本語だったのが印象的であった。

 僕はポルトガルで額縁を包むのに風呂敷を使っている。風呂敷と言ってもネルのシーツを真四角に切ったものを幾つか用意していて、それに包んで持ち歩くことにしているだけのはなしだ。

 ポルトガルの額縁は箱などには入っていない。何かで包まなければならない訳だけれど、柔らかいネル生地で包めば傷はつかないし、結び目を持てば持ち運びにも便利だ。

 個展の時にもそれで搬入した。両脇に抱えられるから2倍の速さで運ぶことができる。画廊のペドロは僕のそんなやりかたを見て「テクノロジー・ジャパン」と評した。

 僕は一瞬首を傾げた。最も古臭い風呂敷をテクノロジーとはこれ如何に。確かに風呂敷は折り畳んで持ち運び、どんな大きなものでも、糊もガムテープもハサミも必要なく包むことが出来る。合理的な布だ。そんな合理性は日本人のDNAに組み込まれていて、最先端技術に生かされているのかも知れない。

 セトゥーバルの美術館でグループ展をした時にも、そのネル生地に30号の額縁2枚を包み搬入した。僕の作品が1番大きかった。搬出の時に、僕は美術館の床に大風呂敷を広げて30号を真ん中に置き、結び目を作った。大きい絵だから学芸員がクルマまで運ぶのを手伝おうと横で待ち構えていて、「クルマまで片方を持ちますよ」と言ってくれたが、僕が脇にひょいと担いだのを見て、その学芸員も驚いていたが「何と日本人はスマートなのだろう」と思ったのかも知れない。そんな感心した様な顔をして僕を見ていた。

 日本人も昔は風呂敷をよく使っていた。子供の頃、毎年1回、越中さんが大きな風呂敷包みを担いで家にやってくる。1年の内に使った置き薬の補充にやってくるのだが、母は越中さんが来るのを随分歓迎していた様にも思う。お陰でちょっとした風邪ひき、腹痛、怪我などは初期段階で治せた。おまけに置いて帰る紙風船を母はすぐに膨らませて歌を歌いながら手毬遊びをしていたのが懐かしく思い出される。

 僕は高校を卒業して天王寺美術館半地下のデッサン研究所に通っていた。そこには様々なアルバイトの情報が流れてくる。東京オリンピックの次の年、初めてサインペンと言うものが売り出された時で、その宣伝販売のアルバイトで高島屋の文房具売り場に立ったことがある。そのアルバイトは画学生にとっては最適とも言うべきもので、そのカラーサインペンを使って絵を描いて買い物客の目を引き付ける訳だけれど、未だその当時はマジックインクの黒、赤、青の3色しかなかったのが、その売り出したサインペンは12色もの色があった。今となっては当たり前のことだが当時としては画期的だったのだ。僕は出来るだけ満遍なく全ての色を使いカラフルなイラストを描いてそのブースに貼り付けた。それは買い物客よりも女店員に人気があって、「これちょうだい」と言って、僕の描いたイラストを持って行く女店員もたくさんいた。

 そんな画学生に最適なアルバイトばかりではない。呉服屋のアルバイトをしたことがある。デッサン研究所が終わった夕方からほんの少しの時間のアルバイトで、呉服屋からアルサロの楽屋とでも言おうか?ホステスが化粧をしたり着替えをしたりする場所だが、頭がつかえそうな天井の低いだだっ広い畳敷きの部屋だったが、両方に鏡がずらりと並んでいて、その前にホステスが何十人も座って化粧をしたり着替えをしたりしている。そんな場所だが、そんな中に梱り(こうり)に入って大風呂敷に包まれた荷物を届けるのである。そこに呉服屋から派遣されているおばさんが待ち構えていて、ホステスさんに着物を勧め買ってもらうのである。風呂敷の中身は着物の反物で、季節にあわせた様々な反物がぎっしりと詰まっていて、相当の重さもあったのかも知れないが、必死さの余り、あまり重さは感じなかった様にも思う。呉服店からミゼットに載せ、アルサロに着いたら従業員通用口から狭い通路を通り、又、狭くて急な梯子段の様な階段を登る。ちょうど越中さんのスタイルそのままである。その部屋ではたくさんのホステスが下着のままで或いは乳房も露わに化粧をしていて、僕などが入って行ってもお構いなしなので、僕の方が目のやり場に困ってしまう、という具合であった。1つのアルサロでの販売は1週間に1度位だったと思うが、毎日、別のアルサロにその梱りの入った風呂敷包みを運ぶことになる。そんなアルバイトであった。勿論、僕はミゼットを運転して風呂敷包みを運ぶだけで販売をしたりはしない。

 日本でも額縁を運ぶのに僕は風呂敷を使っている。尤も最近、実家には風呂敷などはなかなかなくて、インド綿の真四角に切られたテーブルクロスなどを買って来て使っているが、持ち運びには便利だ。ただ、縮緬などの風呂敷に比べてインド綿は破れやすい。昔はどこの家庭にも縮緬風呂敷の1枚や2枚はあった。

 落語の話ではないけれど、空き巣が家に上がり込んで先ず最初に探すのが風呂敷だそうだ。大風呂敷を畳の真ん中に広げ、そこに目ぼしい着物などを重ねていく。それを肩に担いで退散する訳であるが、たいていが唐草模様で、唐草模様は四方八方どこまでも延びることから縁起が良いそうで、風呂敷の定番であった。その唐草模様は元々はイスラムの模様で、ポルトガル人を介して日本に伝わったものらしい。空き巣は風呂敷も持たないで手ぶらで他人の家に侵入し、その家の風呂敷をも使う。とは究極のエコである。アラジンの魔法の絨毯ではないけれど、魔法の風呂敷である。

 そして『出来もしないことを言う。法螺を吹く』ことを『大風呂敷を広げる』とも言う。

 ポルトガルは本当に紙を無駄に使う。テーブルクロスにも使い捨ての紙。紙ナプキン。包装紙。紙箱。買い物袋。クリスマス時には大きなゴミ収集箱が紙くずで溢れかえる。

 セトゥーバル郊外にはパルプ工場があり毎日大量のパルプを生産している。日本からもそのパルプを買い付ける貨物船が定期的にセトゥーバルの港に入港する。パルプの原料はポルトガル全土で植栽されているユーカリの木で、ユーカリの枝を満載した大型トレーラーがそのパルプ工場に頻繁に出入りしている。そして山火事の原因の多くは燃えやすいユーカリの木なのだ。我が家からもそのパルプ工場の巨大煙突が見える。ちょうどそのあたりから初日の出が昇る。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。VIT

パルプ工場の煙突とセトゥーバル港の初日の出(我が家のベランダから撮影)

 

 

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『Dada Dada Dada Dada,スケッチだ!』加藤正雄著

 昨日『ゴードン・スミスのニッポン仰天日記』を読了した。読了したからといって取り立てて書くこともないのだが、この本は特別だ。もう15年も前になるか?加藤正雄が送ってくれた本だからだ。

 送ってくれた当初は外国人が日本のことを報告した本と言うのに殆ど興味がなかった。さ~っと一通りは目を通したもののそのまま放っておいた。当時は未だポルトガルに来てそれ程は経っていなかったからか、日本のことよりもポルトガルやヨーロッパのことに興味があったのは致し方のないことだろう。

 『ゴードン・スミスのニッポン仰天日記』は明治時代イギリス人が本国イギリスの新聞社宛にレポートをするために書いた日記である。また、ゴードン・スミスは大英博物館へ日本で採取した、哺乳動物、魚類、貝類などを標本として送ることもしていた。丁度日露戦争の時代、日本と英国は同盟国で日本は活気の漲る時代でもあった。日記は8冊にも及ぶが、イギリス本国で忘れ去られた存在になっていた。それが最近になって発見され、日本人の翻訳で1993年に出版された本である。勿論、当時、100年以上も昔のイギリスでは出版されてはいるのだが、当時のイギリス人が興味の対象とする部分と現代の日本人とでは興味の対象となるところは違う。

 加藤正雄が亡くなったという知らせは呉城さんからのメールで知った。2017年9月2日のことであった。今年2017年4月のNACKシニア展が僕にとっては最後になってしまった。

 NACKシニア展には藤井満先生の賛助出品が不可欠だと僕は主張していた。その作品をお借りするために奈良のご自宅に伺ったのだが、加藤正雄を誘った。加藤正雄は快く一緒に行ってくれた。と言うより、誘ったことを喜んでいたのは間違いがない。

 加藤正雄は数年も前から自宅でお母さんの介護をしていた。いろいろと聞かされていたが、大変そうで、良くやっているな。と思って感心もしていた。

 そして少し前にお母さんが倒れられ、救急車で病院に運ばれ、そのまま、病院の隣にある老人ホームに入所された。という話を聞いていた。毎日、必ず、見舞いに行くそうである。老人ホームは完全介護だから、見舞いに行っても、顔を見て話しをするだけで、介護の心配はいらない。自宅で介護していた時より、老人ホームに入られてからの方がお元気になられた様で、お母さんはその都度「何しに来た」と毒付かれるそうで、それを加藤正雄は嬉しそうに苦笑いをしながら話してくれていた。

 今までよく頑張って、手を離れたわけだから、楽になれて良かったなと僕などは思っていた。以前なら「介護があるから」と何処にも誘うことは出来なかったし、NACKシニア展の当番も他の人で賄いは付くので無理には来なくて良い様に皆で図らっていた。と言っても展覧会の当番は時間を拘束されるかも知れないが、楽しいものである。そして励みにもなるので、そのために催っていると言っても過言ではないのかも知れない。

 今年はお母さんが老人ホームに入られ介護はしなくてよくなったから皆がする程度の当番ならしても良さそうに思えたが、以前と同じように殆ど出席はしなかった。何故かは判らない。介護で気が張っていたのが急に不必要になり、気が抜けたとは考えられるが、何か以前の元気はなかった。

 加藤正雄はNACKシニア展の世話役をしてくれていた。発起人の一人だし、最初は六車隆一さんと一緒に世話人をしてくれていたが、六車隆一さんが亡くなってしまってからは一人でするしかなかったのだろう。僕は海外で出来ないし、あとは皆、先輩ばかりでやはり一番若い加藤正雄がするしかないのは皆の暗黙の了解でもあったのだろう。それは介護をしながらでもそれ程負担もなくすることは出来たのだと思う。

 今年のNACKシニア展の搬出日。加藤正雄は先輩、呉城さんのクルマで一緒にやってきた。それは毎回同じで不思議ではない。加藤正雄と呉城さんは同じ堺市でそう遠くはないのだろう。僕は呉城さんのお宅には伺ったことはないので判らないが。

 その搬出の日、藤井満先生の作品を宅配便で送り返すためにマサゴ画廊近くのコンビニまで加藤正雄と一緒に行った。送料を会費から支払うためでもあった。

 搬出は素早く済ませることができた。僕には兄が軽トラで迎えに来てくれていたので、「お先に」と言って先に帰った。田中さんも吉田さんもそれぞれの片付けが終わった順に別々に帰った。加藤正雄も作品の梱包は素早くできていたのだと思う。呉城さんのクルマに乗せるだけである。慌ただしい時であったが、それが加藤正雄とは最後になった。

 ポルトガルに戻って、例年ならすぐにでも加藤正雄は手紙をくれる。何も別に用事がない時は加藤正雄が先に手紙をくれて僕が返事を返すというのが通例であった。加藤正雄の手紙はいつも新聞の折り込みチラシ片面印刷の裏に乱雑に書きなぐった手紙だ。どこから読んでも構わない内容だから良いのだが、航空郵便の送料を考えると、もっと薄手の紙に小さな字で書いた方が安上がりな訳であるが、そういったことには頓着しない。チラシの表の広告も楽しめると思っているのかも知れないが、最近はパチンコ屋の広告などが多く楽しむまではいかない。そんな手紙が今年は全くなかった。加藤正雄はインターネットをしないから僕が海外に居る時には郵便が唯一の連絡手段だ。

 9月になり9月号のブログと『セトゥーバルだより』を配信した後、そろそろ加藤正雄に手紙でも書こうかなと思っていた。

 そんな矢先、呉城さんからメールが届いた。それには『加藤正雄に出した郵便も届いていない様だし、電話も通じない。だから加藤正雄の自宅まで行ってみた。』そうである。そうするとご近所の話で、「1か月ほど前、自宅前で倒れて、救急車で病院へ、そのまま帰らぬ人になってしまった。」とのことで、その日のうちに僕にメールをくれたものである。それが9月2日であった。

 加藤正雄は高校の美術部の同級生で1年生からずっと一緒だった。同じクラスになったことはなかったが、15クラスほどある中でいつも隣あたりのクラスにいた。美術部には僕たちの学年は多かった。上級生の3年生は3人。実質来ている人は加賀谷さんの1人だけ。2年生は新井、六車、田中、村上さんの4人。1年生の僕たちは、上久保、柴村、小笠原、山根、辻、福岡、波多野、摺出寺、米谷、そして加藤正雄と僕。その他にも早くに辞めた人も2~3人は居たので10人以上は居た。1学年下はまた市村、野木井、相野の3人だけであった。

 高校のクラブ活動は運動部ではないけれど、何か一致団結して事に当たる。という気風が漲っていた。写生にも一緒に行くし、展覧会は他校との交流試合の様な気持ちで臨んだものだ。ところが加藤正雄だけは違った。美術部の皆とは一緒に行動はしない。スケッチにも一人で行くし、展覧会にも出さない時が多かった。合宿には参加しない。それでも一人で黙々と絵を描いている。それが加藤正雄であった。でもそれが個性を大切にする本来の絵描きの姿なのだ。と後になって皆が気付いたのかも知れない。

 卒業してから僕などは高校へは全く行かなかったのだが、加藤正雄は現役時代とは打って変わって、高校美術部に顔を出すようになっていた。そして顧問の藤井満先生、後輩、先輩、皆の橋渡し役になっていた。

 僕たち美術部出身者は美術大学に進学する人が多かった。武蔵野美術大学、多摩美術大学、そして大阪芸術大学、あるいはデザイナー学園など。でも加藤正雄は近畿大学政経学部である。

 大学を卒業してからは藤井満先生の紹介でテキスタイルデザインの工房に入った。ちょうどその頃、僕は大阪芸術大学に行きながら高石事務所、後の音楽舎、別名アート音楽出版、別名URCレコード(株)でアートディレクターとして働いていた。月刊誌『フォークリポート』のレイアウトなどもする。僕も表紙やイラストを描いたが、加藤正雄にも毎月1枚のイラストを描いてもらっていた。加藤正雄の工房と近かったらしいから、しょっちゅう僕の事務所に遊びに来ていた。

 僕はアート音楽出版でアートディレクターとして働いていたが、結婚してヨーロッパに行く準備も進めていて、その頃には布忍というところのぼろの長屋にMUZと暮らしていた。そこにも加藤正雄はしょっちゅう遊びに来ていた。大和川を越えた大阪の郊外と言った場所だが加藤正雄の住む堺市とは直線距離でほんの近くだったのだろうと思う。電車でなら一旦天王寺まで出て長3角形の2辺を行くので随分と時間もかかるが、自転車ならすぐの距離の筈だ。土曜日の夜などは必ず決まって自転車でやってきた。我が家で一緒にテレビの『トム・ジョーンズ・ショー』を観るためである。加藤正雄も僕もMUZもトム・ジョーンズが好きな訳ではなかった。その歌と仕草に滑稽さを見出して殊更大喜びをするためであった。

 加藤正雄の工房は『安藤テキスタイル工房』と言った。安藤さんは藤井満先生と確か同期の人で僕も何度かお会いしたが、気さくでとても柔和な人でテキスタイルデザインの仕事以外にプロの狂言師でもあった。その頃は入場券を頂いてよく能、狂言を鑑賞させてもらいに出かけた。

 ところが加藤正雄はテキスタイルデザインでは満足ではなかった。イラストレーターになりたいと夢を持っていた。実はフランスの画家にはテキスタイルデザイン出身の画家がかなりいる。ルノワールもそうだし、マチスもそうだ。確かデュフィもそうだ。画家としての基礎がテキスタイルデザインの中にあるのだと思う。でも加藤正雄は安藤テキスタイル工房を辞めた。

 僕はストックホルムに住んだ。加藤正雄はよく手紙をくれた。僕も返事を書いた。手紙には書き易い相手と書き辛い相手がいるが、加藤正雄ほど書き易い相手はない。要するに、いわゆる乱筆乱文で一向に構わないのだ。お互いに気にしないからだと思う。加藤正雄に出した手紙は藤井先生に渡り編集され『NACK機関紙』に掲載されたこともあった。

 その頃か加藤正雄は『月刊プレイボーイ』のイラストの仕事にありついていた。イラストレーターとしての夢は叶いつつあったのだと思う。でも東京での一人暮らしに耐えられなくなったのか、大阪の実家にすぐに舞い戻っていた。

 暫くして加藤正雄はストックホルムにやって来た。僕はそろそろニューヨークへ行こうと思っていた頃で、ストックホルム大学も終わり、アルバイトに専念していた頃だったと思う。加藤正雄にもアルバイトを勧めた。でもあまり気乗りはしていなかった様だ。

 毎早朝にはフィンランド人、スウェーデン人と少林寺拳法の練習をしていたのだが、加藤正雄にも参加させた。まるで高校のクラブ活動を引きずっていた感があったのかも知れない。加藤正雄は「僕はやるのならボクシングの方がやりたい。」と言っていたくらいだから、少林寺拳法もあまり気乗りではなかったのだろう。

 そして僕はヨーロッパの最後にスカンジナビア半島最北への旅を計画していたのだが、加藤正雄も誘った。オスロまでは一緒に行ったがそれより北へは行きたがらなくなって、一人ストックホルムのマンションに戻った。僕たちが戻るまで待っているものと思っていたが、戻った時には加藤正雄は日本へ帰ってしまって居なかった。

 虫の知らせがあったのかも知れない。日本に戻って生死を分ける大病をした。手術は巧く行きその後は元気を取り戻していた。

 僕たちはニューヨークで1年暮らした後1年を南米旅行にでかけた。日本を発って6年後に日本に戻りMUZの故郷の宮崎で飲食店をすることになった。

 そこにも2度ほど加藤正雄は遊びに来た。いや、僕たちが住む高城町のすぐ傍に加藤正雄がデザインを請け負っていたゴム関係の会社があってそれの出張で来たと言っていたのだが、僕たちの店に入り浸ってレコードを掛けたり、おしぼりを巻く手伝いをしたりしてとても会社の出張とは思えなかった。

 高校美術部のOB展が1971年から続いていた。僕も宮崎から帰省のついでにと思い毎回参加した。加藤正雄はもちろん殆ど皆勤賞で参加していた。

 大阪に戻ってからの加藤正雄の仕事はイラストレーターではなく、地味な堅いところのパンフレットなどのグラフィックデザインの仕事が多かった様で、ようやく喰える程度の仕事だったのだろうと思う。

 僕が宮崎を引き上げてポルトガルに移住した頃からだと思うが、加藤正雄はスケッチにのめり込んでいった。僕などから見れば到底絵にならないところだと思うのだが、地元堺や大阪の臨海工業地帯などを好んで描き始めた。加藤正雄の自宅から自転車で行くことができる範囲なのだが、6号サイズのスケッチブックを見開きにワイドにして描く。

 それは絵にならないどころか加藤正雄は面白い絵にしてしまう。そこにも強烈な個性が窺い知ることができる。イーゼルは使わない。地べたにスケッチブックを置くか、適当な台、例えば橋の欄干とか、などに直接べたっと置いて描き進める。したがって鉛筆の線は力強い。初日は鉛筆だけだそうで、2回目、3回目に彩色を施すと言っていたから、何日も掛って1枚のスケッチを仕上げるのだろう。

 僕などは油彩のエスキースとしてスケッチを描くけれど、加藤正雄のスケッチはそのものが個性溢れる作品なのだ。

 それは後に『Dada Dada Dada Dada,スケッチだ!』という本になった。スケッチに飽きたりするとその裏面に、その時の気持ちなどを綴る。落書き的な日記と言えるのかも知れないが、それが面白い。ジャズのこと、その時に出会った人のことなど、本にはその裏面の記述なども印刷されてやはりユニークな本が出来上がっている。

スケッチの裏面。

 高校の同窓会展NACK展には初めは独自の抽象的な油彩を出品していたが、NACKシニア展が始まった、6~7年前からは、スケッチの出品であった。「油彩の道具は他人にあげてしまった。」と言っていた。

 スケッチブックから1枚ずつ外すのは嫌がって展覧会に出品する作品も額縁の中にスケッチブックが1冊丸ごと入ったものでかなりの重量があった。NACKシニア展などにはいつも3点の出品だったが、額縁の中には何十枚かのスケッチが隠されていたことになる。そんなスケッチブックが何冊存在するのか僕は知らない。何年も描き続けていたから恐らく相当の冊数に上るのであろう。

 加藤正雄が亡くなったという知らせを受けて、僕は呆然としている。未だ信じられない気持だ。その2年前、六車隆一さんが亡くなって、その気持ちの整理がつかないまま、相次いで加藤正雄を失ってしまったことになってしまった。

 そして加藤正雄からの膨大な手紙を読み返している。

スケッチの裏面。

 そうして加藤正雄が送ってくれた『ゴードン・スミスのニッポン仰天日記』を読み始めたのだ。今回は小さい文字の注釈なども丁寧に読んだし、ゆっくりと加藤正雄のことを想いながら読みすすめた。読み始めた途中から、加藤正雄は僕に「お前も日記を公開しろ!」と言っている様な気がし始めたのだ。僕の日記は絵のことについては多分に企業秘密的なところ?もあるし、その他は自分自身の記録で、加藤正雄の日記とは違い、何も面白いことはないのだが…。10月の末日から今のところ欠かさず、毎日掲載している『ポルトガル淡彩スケッチ』のページに載せはじめて1か月が過ぎたところだ。

http://blog.goo.ne.jp/takemotohitoshi

 加藤正雄は生涯を独身で通した。加藤正雄を理解できる人は少数派だったろうと思う。僕も近しいところに居ながら100%理解できていたとは言えないのかも知れない。加藤正雄とはず~っと仲が良かった訳ではない。しばしば特に若い頃などは絵画に関しては意見の違いなどで議論し、衝突もした。美術に対して音楽に対しての好みも少しは違っていた様にも感じる。お互いに我の強さも際立って<水と油>或いは平行線的なところもあったのだと思う。

 そしてそれを超越した無二の友人であり、良きライヴァルでもあった。手紙を書いても送る相手が居なくなってしまった寂しさを感じている。

 僕には何の挨拶もなしに、あまりにも早く逝きすぎだぞ。

VIT

『Dada Dada Dada Dada,スケッチだ!』加藤正雄著 裏表紙。

 

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 我が家のある地区ではしょっちゅう工事や何かが行われていて、騒音の絶えることがない。ブルドーザーの音。芝を刈る音。チェーンソーの音。救急車やパトカーのサイレン。列車の音。船の汽笛。でもいずれの騒音も遠くから丘を昇ってくる様な騒音で気になる程でもない。むしろ生活音と言ったものだろう。そして夜は夜で近所にうるさ過ぎる犬が居て、夜中じゅう吠えている。夜、寝静まった頃になるとごみ収集車がやってきて、がらがらがら~と騒音をたてる。

 ごみは普通の燃えるゴミの容器が3つ。それの他に分別用、紙専用が2つあり、ガラス専用、プラスティック専用が一つずつ、それぞれ専用のトラックが収集にやってくる。背丈ほどもある高さと幅、奥行きも1メートル以上はある大きな容器だが、トラックの運転手が1人でクレーン操作をする。

 その場所は市水道局の向こう側にあり、我が家の南側のベランダから南西下方向50メートル程のところに見える。

 その辺りで先日は大規模に道路を掘り起こしての工事があった。水道管の老朽化で新しいのに付け替えた様だ。舗装も終わり、歩道の石畳も終わって、全て終わったな、と思っていたら、又、工事のクルマがやって来ていた。

 気にも留めないでアトリエに戻り油彩を描いていた。絵にひと区切りが終わって南のベランダに来てみると、両方の車線とも、綺麗に横断歩道が出来上がっていた。横断歩道を作るのには騒音はなかった。ペンキを塗るだけである。そしてもう既にクルマが横切っている。素早く乾くものなのだ。それだけ絵を長く描いていたということだろうか。油彩はなかなか乾かない。色によって違いがあるが、早くて48時間、乾きの遅い色だと1週間もかかる。僕が好んで使う赤色系統は特に乾きが遅い。

 

新しく描かれた横断歩道とゴミ収集車

 こんな住宅地に、まさか横断歩道が必要だとは思わなかったが、あったほうが良いのだろう。見ているとゴミを捨てにしょっちゅう人が横断をしている場所だ。その真ん中には中央分離帯があり、そこは近隣住民の駐車スペースとなっている。早速、乳母車が通っているが、横断歩道とは違うところを横切っている。歩道は石畳で横断歩道の中央分離帯にも石畳があるので、それを避けて平坦なアスファルトの車道のみを斜めに横切っている様だ。

 ポルトガルには日本ほど信号機はない。最近は信号機が少なくなって、ロータリーが増えている。日本でも昔はあちこちにロータリーがあったが、殆ど全てが姿を消してしまった。ポルトガルではそのロータリーがどんどん復活している。

 ロータリーは便利だと思う。クルマも人もあまり待たなくて済む。道を間違えても次のロータリーまで行き引き返してくることもできる。又、道が確認出来るまでロータリーをぐるぐる何回でも周ることもできる。

 そして信号機のない横断歩道も多くある。横断歩道で人が渡ろうとするとクルマは必ず止まる。

 宮崎でもたまに信号機のない横断歩道がある。そこで渡ろうとして待っていても一向にクルマは止まってはくれない。少しばかり横断歩道に踏み出して渡ろうとしても止まらない。止まるどころか大きく右車線にはみ出して、歩行者を睨みつけながら通り過ぎるクルマもいるくらいだ。危なくてしょうがない。とにかく日本のクルマは信号機がないところでは止まらない。信号機のない横断歩道自体滅多にないものだから止まる準備が出来ていないでいる。そして日本人には歩行者優先という意識は薄らいでいる様に思う。

 日本人はクルマに対して遠慮しすぎだ。小学生が下校時に横断歩道を渡っている。クルマに待たせない様にと走って渡る。あれは危ない。右左確認しながらゆっくり渡るべきだ。そして渡り終えると待ってくれたクルマに対してお辞儀をする。大人からその様に指導されているのであろう。それは良いことだと思うが、あれには感心する。

 ポルトガル人で急いで渡る人はいない。歩行者優先だから当然なのである。そして半分渡ったところセンターラインのあたりで必ず反対車線を確認する。クルマを決して信用はしていない証拠だ。でもそれが必要なのだと思う。そして渡り終えてちょっと片手を挙げたりして会釈を返す人もいる。感じが良いと思う。信号機のある横断歩道ではそうはいかない。

 日本では反対車線のクルマの陰から歩行者が走り出してくるのを警戒して徐行する。でもポルトガルでは走り出す人はいないからそこまで神経を尖らせる運転手も居ない。日本の方が危険だと思う。もしポルトガル人が日本で運転をすれば必ず人身事故を引き起こしてしまうのではないかと思う。

 ロータリーが増えているのと同時に信号機のない横断歩道も今後増えていくのかも知れない。

 

セトゥーバルで恐らく1番大きな、信号機の付いた横断歩道。

 勿論、信号機のある横断歩道も多くある。でも信号が赤でもクルマが来ていなかったらどんどんと渡る。セトゥーバルのメルカド近くの横断歩道などは団体で渡る。とにかく歩行者優先なのだろう。クルマが来ていないと分かれば、お巡りさんだって赤信号でも横断歩道を渡る。お巡りさんが赤信号で渡るものだから、僕たちも一緒になって渡る。でもお巡りさんは僕たちに注意をしない。クルマが来ていないと判断できれば渡っても良いのだろうか。

 我が家の南のベランダから見える道は『ルア・デ・ノッサ・セニョーラ・ダ・カルモ』という長い名前が付いている。『我らが聖母カルモ道』とでも訳せるのだろうか。だらだらと長い坂道だが、道の始まりの角に小学校があり、横断歩道が2つある。そして更に下から昇ってくる道と交差し、それを過ぎたところにも横断歩道がある。下から昇ってきたクルマは右折してすぐの横断歩道だから運転は慎重にしなければならないところだが、この横断歩道は割合横断する人が多い。一旦止まってギアをローに入れなおして、サイドブレーキをかけ、発進することになる。

 我が家から見える新しい横断歩道までの間に、もうひとつ横断歩道がある。合計5つになったが何れにも信号機はない。そこにもゴミ箱のスペース、そしてバス停があり、横断する人も多いのだろう。でも曲がってすぐの横断歩道ほどではない。

 その横断歩道では時々、犬が横断しているのを見かける。放し飼いにされているのか、元々、野良犬なのか。セトゥーバルにはそういった自由にしている犬が居る。そんな犬が実に賢い。道を斜めに走ったりはしない。道を渡るのに横断歩道を使う。横断歩道の真ん中を通る。人が渡るときは歩調を合わせる様に一緒に渡る。決して走ったりはしない。クルマも犬を跳ねたくはないから、一時停車する。停車して待ってくれたからと言って前足を挙げて挨拶をしたりはしない。

 信号のある横断歩道で犬は青信号になってから渡る。犬は色盲だと聞いたことがある。青も赤も判らないのかも知れないが、クルマが止まるのを待ってから横断するのであろう。犬もどこまで解っているのであろうかと感心するが実に賢い。

 我が家の近辺には猫が多い。先日も水道局の空き地で子猫が6匹も生まれているのが確認できている。子猫も大きくなれば親離れしてどこかへ行ってしまう。そしてそのまま居残っている猫も居る。

 猫は道の縁ぎりぎりを通る。そして目的地まで斜めであろうが一目散に道路を横切る。猫が悠然と横断歩道を渡っているのは見たことがない。

 横断歩道といえばビートルズの『アビイ・ロード』を懐かしく思い浮かべる。それが発売された1969年頃、僕はアート音楽出版、別名音楽舎、別名URCレコード(株)に居て、レコードジャケットのデザインやコンサートポスター『フォークリポート』という雑誌の表紙、イラスト、レイアウトなどをしていた。

 『アビイ・ロード』のレコードジャケットは仲間内でも話題となった。先頭を歩く白いスーツ姿のジョン・レノンは牧師。黒いスーツのリンゴ・スターは葬儀屋。素足のポール・マッカートニーは死者。そしてジーンズ姿のジョージ・ハリソンは墓堀人。アビイ・ロード・スタジオのすぐ前の横断歩道で撮影したらしいが、ポール・マッカートニーのアイデアだそうだ。

 アビィ・ロード・スタジオは多くの名盤を生み出しているスタジオだ。エイミィ・ワインハウスがトニー・ベネットとデュエットで歌った『Body and Soul』はエイミィ・ワインハウスの最後の録音となって話題となった。

 ビートルズのアビィ・ロードが発売された、ちょうどその頃、東京から遠藤賢司が大阪事務所に遊びに来ていて、僕とMUZは遠藤賢司の写真を撮影しておこうと外に連れ出した。何れレコードジャケットやフォークリポートに使えるかも知れないと思ったからだ。横断歩道を幾つも渡って、気が付けば、古いレトロなビルが多く残る、堂島あたりまで来てしまっていたのを覚えている。その時の写真は確かフォークリポートには使ったと思うが、僕は遠藤賢司のレコードには携わらなかったのでレコードには使っていない。東京事務所制作で作ったのだと思う。その後の活躍は耳にしていたが、これを書いている10月25日に遠藤賢司が亡くなったというニュースが飛び込んできてしまった。ご冥福をお祈りしたい。

 最近、日本ではスクランブル交差点などという横断歩道が流行っていて、宮崎などにもお目見えしている。日本発の方式ではないらしいが、海外では日本的な風景の一つとしてスクランブル交差点を人々が一斉に動き出す映像が紹介されたりもする。

 そして最近の横断歩道にはLEDが埋め込まれたところなどもある。緑とか赤とか、まるでクリスマスのイルミネーションの如く美しいがそれに見とれていては危ない。何気なく赤とか緑とか書いたが、あれは信号と連動しているのであろうか。

 セトゥーバルには昔から白い石と黒い石を組み合わせた石畳横断歩道などもある。人や犬が渡っていなくても停まりたくなる横断歩道である。VIT

 

白い石と黒い石を組み合わせて造られた横断歩道。

 

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毎朝、自宅で飲む深煎り濃めでたっぷりのコーヒー。器はポルトガルに来てすぐにリスボンの珈琲専門店で買った英国ダッチス製(Duchess)のコーヒーカップ。もう既に30年近くも使い続けていることになる。絵柄は野草。

 僕の人生の内で初めてコーヒーを飲んだ日。それ程大げさに騒ぎ立てることもないのだが、それは全く覚えていない。人生の中で初めてビールを飲んだ日も覚えていないし、初めてウイスキーを呑んだ日も覚えていないのと同様に覚えていない。

 コーヒーは、或いは家にインスタントコーヒー、ネスカフェでもあり、それを飲んだのが始まりだったのかも知れない。インスタントのネスカフェも出始めだったと思うが、家庭でインスタントではないコーヒーを飲む家庭は殆どなかった時代であったと思う。

 中学生や高校生では喫茶店には行くことは出来なかった筈だ。高校生で喫茶店にでも入ろうものなら停学処分も覚悟の上だ。

 僕が高校を出て東京に居た頃の喫茶店のコーヒーはその当時、80円程であった。上野の美術館へ行った帰りには秋葉原の中華料理店にいつも寄っていて、秋葉原のラーメンが1杯50円、ワンタンが1杯40円で、40円のワンタンと50円のライス(ワンタンより白飯の方が高かった。)で計90円で腹一杯にし、下宿先まで帰ったのを覚えている。50円のラーメンと80円のコーヒーでは当然ラーメンを選ぶ。

  

ブラジルとアンゴラ。我が家で買ったデルタコーヒー250g入りの空き袋

 高校を出て東京に行く前には道頓堀のジャズ喫茶『ファイブ・スポット』で喫茶バーテンダーのアルバイトをしていた。毎日、忙しくて朝から晩までコーヒーを点てていた。未だ、コーヒーの味も判らないのにお客様に出すコーヒーを点てていたのだ。

 普通の喫茶店で60~80円のコーヒーがファイブ・スポットでは120円もした。その界隈では一番高いコーヒーを点てていたことになる。1回に15杯分ずつ点てる。布フィルターのドリップであった。大きなホウロウ引きポットに布フィルターを輪ゴムで止める。それに15杯分のコーヒー豆の粉を入れる。15杯分の量った水を入れた小さいほうのホウロウ引きのポットのお湯が湧いたら、布フィルターの上から少しずつ注ぎ入れる。注文が来たら小鍋で温め直してコーヒーカップに注ぐ。

 でも自分でゆっくり味わって飲んだ記憶はない。味を見るのは木村社長の役目であった。毎朝、必ず店に現れてバーテンダーの居るカウンター近くに席を取り、コーヒーを注文する。ボーイは伝票を切る。木村社長は無表情にもコーヒーを楽しんでいる様にも見えた。木村社長は120円のお金を払って店を出てゆく。店長の中野主任は顔をこわ張らせながらも120円を受け取り「有難うございました。」と言いながら木村社長を見送る。尤も大音量のジャズ喫茶であるから「有難うございました」も半ばかき消されている。木村社長が姿を見せるのは1日1回、その時だけであった。

 その後、「大学に行きながらでも出来るのなら」と言って、母は南綿屋町にあった小さなおんぼろ喫茶店を買ってくれた。『ピッコロ』という名前だったが、そのまま使った。カウンターに5~6人と4人掛けボックス席が2つの小さな喫茶店であった。ジュークボックスが置いてあったがすぐに取り払いジャズを掛けた。その頃にはどんどんコーヒーを飲んでいたことになる。

   

ベトナム、チモール。各国の美女が民族衣装で登場。

 1970年の大阪万博ではインド館でカレーを食べ、ブラジル館でコーヒーを飲んだ。ブラジル館のコーヒーは薫り高く流石と思ったのを覚えている。

 海外に出る前、少しの間には昼はガソリンスタンドで仕事をし、夜は針中野駅前の『花時計』という喫茶店でバーテンダーのアルバイトをして渡航費用をせっせと貯めた。MUZも阿倍野の『木村屋』という老舗喫茶店でウエイトレスのアルバイトをして2人で渡航費用を貯めた。

 1971年からストックホルムに4年余りを過ごしたが、その時はコーヒーをよく飲んだ。スウェーデンはアメリカン風で軽く、ブラックで飲む人が多かった様な気がする。それで僕もブラックで飲み始めたのだと思うが、未だにコーヒーには砂糖は入れない。スウェーデンの多くはドリップマシーンであった。一度に何杯分が出来るのかは知らないが、大きなざる型紙フィルターにコーヒーの粉を入れ、スウィッチを入れるだけである。アメリカ映画のファミリーレストランなどと同じだが、それでも淹れたては美味しい。そのまま保温することになるから時間が経てばエグミが出て飲まれたものではなくなるが、淹れたては美味しい。

 ストックホルムではコックをしていた。朝の仕込みが終わり、お昼前のひと時はコック全員が集まってテーブルを囲みコーヒーを飲む。シェフはギリシャ人のコンスタンティン、副シェフはオーストリア人、その他に亡命ポーランド人やポルトガル人のルイス、そして日本人の僕。コックにスウェーデン人は居なかったが会話は当然スウェーデン語であった。

 スウェーデン語教室の帰りにも必ず生徒仲間とコーヒーを飲んだ。自宅でもコーヒーは飲んだ。珈琲豆専門店にでも行けばいろいろと銘柄なども売られていたのだろうが、普通のスーパーで買っていたのだがまあまあいけた。

 ヨーロッパ中をフォルクスワーゲン・マイクロバスの中で寝られるように自分で改造して旅をした。北から南に下るにつれて、コーヒーも替ってくる。スカンジナビアではドリップが主流だが南に下れば殆どがエスプレッソになる。ポーランドのコーヒーも変わっていた。KAWA(名前は忘れた)と言ったかと思うが、ガラスコップにコーヒーの粉を直接入れる。それに熱湯を注ぎ入れる。粉が底に沈んだら上澄みを飲む。簡単なので日本でもやってみたが、日本の粉では沈まない。挽きかたがちょっと違うのかも知れない。

 ニューヨークでもコックをやっていた。ランチは3時で終わり、後片付けを済ませ、ディナーの仕込みが始まる5時までは少しの時間が出来る。オーナーのタキさんは皆を近くのコーヒーショップに誘うことも良くあった。映画に出てくるようなカウンターの店で、やはり味はアメリカンでマグカップにたっぷりであった。スタバなどは未だなかった時代だと思う。

  

ポルトガルはヴィアナ・デ・カステロの民族衣装の美女。家庭用デスカフェイナードの空き袋。

 ニューヨークからリオデジャネイロに飛んだ。ブラジルは今のポルトガルと同じデミタスカップである。南米でもコーヒーはよく飲んだ。食事の後、コーヒータイム、1日に何杯も飲んだ。ただみたいに安かった。ブラジルからパラグアイ、アルゼンチン、チリ、ボリビア、ペルー、エクアドル、コロンビア、そしてホンジュラス、グアテマラ、ベリーズ、メキシコの12か国を10か月もかけて旅をした。

 アルゼンチンでは少しの間、イギリス人青年と一緒になって旅を共にした。アルゼンチンにはイギリス人のコミューンがあって、そんなところではコーヒーではなくティー(紅茶)を供す。他のヨーロッパの国々とは異なり、イギリスはティー文化なのだと思った。かつての植民地によって、趣向品の文化も異なってくるのだ。イギリス人旅行者はアルゼンチン在住イギリス人家庭でイギリス文化を味わい故国を懐かしむのだ。その彼は更に、アルゼンチン沖にありながらイギリス領のフォークランド島に行くと言っていたのでそこで別れた。我々はジブラルタル海峡を越え最南端まで行った。

 コロンビアの奥地の遺跡のある村に行った。コーヒー畑が広がっていた。そんなところに粗末な小屋があり、その入り口あたりには莚(むしろ)を敷き、コーヒーの豆が広げられ天火干しされていた。そして小屋にはコーヒーの張り紙がしてある。「ここでコーヒーを飲ませるのだ。」と思い、小屋(店)に入ってみた。そしてコーヒーを注文した。暫くして出てきたのが、お湯と黄色いネスカフェの大きな缶でテーブルの真ん中にでんと置かれた。

 最近はコーヒーの産地をあまり言わないのかも知れないが、コロンビア、ブラジル、グアテマラ、キリマンジャロ、モカ、マンデリン、ハワイ・コナ、ブルーマウンテン、などと言ってかつては味わったものだ。

 そして焙煎、ブレンドの仕方などでその違いを楽しんだ。大阪、南に福島珈琲店だったか名前は忘れたが老舗喫茶店があった。美味しいと評判であった。その頃はどちらかと言うと、深煎りの苦みの強い物よりも、浅煎りで薫り高いコーヒーが好まれ始めていたのだと思うが、福島珈琲店のコーヒーは苦みの強い深煎りであった。僕も深煎りコーヒーが好みで福島珈琲店のコーヒーは旨いと思った。ジャズ喫茶『バンビ』のコーヒーも深煎りで旨かった。

   

ケニヤとパプアニューギニア。シーカル・コーヒーの空き袋。

 宮崎では店をしていた。最初は『レストハウス・山あい』という名前のドライブインであったが建物もリフォームし『山あい珈琲園』という名前に変えメニューをカレー専門にし、ジャズをかけた。珈琲園という名前にしたが、珈琲の木を栽培していたわけではない。店内に背丈ほどの2本の鉢植えのコーヒーの木があったことはあったが、実が生るまでには行かなかった。そして紙フィルターのドリップからその頃流行り始めていたサイフォン方式に変えた。

 今、日本に一時帰国した折には、宮崎では自分で紙フィルターのドリップを点てている。大阪では実家の近くで幼馴染が喫茶店『英登(エイト)06-6713-0951』というのを経営していて、そこの御主人、マスターの淹れるコーヒーはサイフォンで薫り高く品格を感じさせる旨さがあり、もっぱらそのコーヒーを楽しんでいる。楽しんでいると言っても毎朝8時過ぎにモーニングサービスを食べに行くだけである。『英登』は毎朝6時からの営業だそうだがいつも常連客で賑わっている。コーヒーだけではなくパンも旨い。サンドイッチとサラダ、ゆで卵が付いてモーニングセットが350円と安い。実家では新聞を取っていないから喫茶『英登』で新聞を読むことになる。

喫茶「英登(エイト)」のモーニングセット

 世界中でコーヒーの消費量は増えているのだと思う。日本でも普通に家庭で淹れる様になったし、喫茶店の他にスタバの様な店も多くでき、マクドナルドやファミレスなどでも多く飲まれている。そしてコンビニでも手軽に淹れたてが安くで味わえる。むしろ昔ながらの喫茶店の経営は苦しそうだ。コーヒーだけではやっていけないからモーニングやランチをやらざるを得ないのだろう。コーヒーだけで勝負していた、マサゴ画廊の向かいの老舗喫茶店は昨年、閉店してしまった。

 ポルトガルのコーヒーは超深煎りである。デミタスカップに半分程、どろりとしたコーヒーが入ってくる。「シェイオ」(いっぱい)と言ってデミタスカップの上まで注いでもらう。それでもまだどろりとしていて日本のものより遥かに濃い。それをブラックで飲む。ポルトガル人ではブラックで飲む人は殆ど居ない。

 

ヴェラ・クルスとブレンド・コーヒー。何れも粗挽きのドリップ・サイフォン用。

 スーパーで買うパック入りのコーヒーも深煎りで挽きも細かい。勿論、細挽きのエスプレッソ用と粗挽きのドリップ・サイフォン用が売られているが、ドリップ・サイフォン用でも日本の挽きかたよりも細かい。それを我が家では紙フィルターでドリップにしている。お湯が落ちるのに時間がかかる。

 毎朝10時はコーヒータイムである。深煎りのコーヒーをたっぷりと飲む。でも1日に何杯もは飲まない。その時の1杯だけである。午後からコーヒーを飲むと眠られなくなる。

 いつの頃からかコーヒーを飲むと寝られなくなっている。最初は夜に飲むと駄目で、それから夕方、午後には駄目、と徐々に時間が早くなってきている。今は午前中なら大丈夫。というところである。それは紅茶でも緑茶でも同じだ。情けないことであるがしょうがない。コーヒー好きには残念なことには違いない。

 父も母も夜にでもコーヒーを飲んでいた。そして「平気だ。関係なく眠れるよ。」とも言っていた。だから遺伝ではないのだろう。父は浴びるほどの酒飲みで、母は全く駄目であった。酒に弱いDNAは母から受け継いでいる。でもカフェインとDNAとは関係なさそうだ。

 外食の時、食後にはカフェインレスコーヒーを飲む。ポルトガル語では「デスカフェイナード」と言って注文する。味は普通のコーヒーと全く変わらない。これなら眠ることが出来る。ポルトガルだけに限らず欧米諸国ではレストランでもカフェでも露店市の食堂でもどこにでもデスカフェイナードは置いてある。大きなレストランなどでは2台の豆挽き器が設置してあって注文によって使い分ける。2台がないところでは袋入りのデスカフェイナードの袋をちぎってエスプレッソの機械に入れ、他の普通のコーヒーと間違わない様にカップソーサーの上にその袋を乗せて、そのまま客に出すところもある。

  

カフェやレストランで使う1人前ずつ入ったデスカフェイナードの袋とそれを敷いたカフェ

 日本でもスタバなどはデカフェといってカフェインレスコーヒーを置いてあるらしいが、普通の喫茶店ではなかなか普及はしていない。コーヒー好きとしては午後からもコーヒーを飲みたい。もっと普及すれば良いのにと思う。

 よく「私はコーヒーを飲んでも夜は普通に眠れます。」とか「寝る前にもコーヒーを飲むけれど、私には関係ないわ。」とか言う人が居る。そんな人を羨ましいと思う。

 でも更に良く聞いてみると。「眠れない時は睡眠薬を飲みます。」などとも言う。結局自分では気が付かなくてもカフェインが効いているのだと思う。睡眠薬に頼るくらいならコーヒーを飲まない方がよっぽど良いに決まっている。

 知人のお宅や事務所、画廊などにお邪魔をしてコーヒーを出して頂くことがある。点てる前に聞いて頂ければ「眠れなくなりますから。」とお断りも出来るが、何も聞かれないで突然お出し頂くこともある。そんな時は折角淹れて頂いたコーヒーを飲まないわけにはいかない。心の中で「今夜は眠れなくても本でも読んで過ごすかな。」などと思いながら、美味しく頂く。嫌いなコーヒーではないから美味しく頂くわけである。夜寝る時には覚悟の上だから読みたい本と照明器具、ベッドスタンドなどを確かめてべッドに入る。そんな時に限って5ページも進まないうちに眠ってしまっていたりする。VIT

 

殆ど飲んでしまったエスプレッソ

 

コーヒーノキはアカネ科、Rubiaceae、コーヒーノキ(コフィア)属、Coffea、アフリカ原産、常緑多年草。

学名:Coffea、和名:コーヒーノキ、葡名:Cafeeiro、

アフリカ西部~中部からマダガスカル島と周辺諸島にかけて多数の野生種が自生。野生種の殆どが絶滅危惧種に指定されている。

コーヒーノキ属には4亜種66種以上があるとされている。

エチオピア原産のアラビカ種はブラジルやコロンビアで品種改良が進み、200以上の品種があり、多くが中南米で栽培されていて世界消費量の7~8割を占める。

コンゴ原産のロブスタ種は主に東南アジアで栽培され世界消費量の2~3割である。(Wikipediaより)

 

上記ブログを読んだ大阪に住む妹が早速下記のメールをくれました。

<初めて我が家で珈琲を飲んだのは私が幼稚園児か小学校低学年の頃かに、清太郎おじさんか外国航路の船医をしていてお土産に生のコーヒー豆を持って来てくれ、おかんがそれを鍋で煎りすりこぎで擂り、入れてくれたのが最初だったのでは無いかと思うのですが・・・。まあ小さい頃のことであやふやではありますが・・・。>(メールの一部抜粋)

そう言えばそういうことがあったと、このメールを読んで、思い出しました。妹が幼稚園児だとすれば、昭和30年頃のことと思われます。母がフライパンか何かで生のコーヒー豆を煎り、すり鉢と擂り粉木で挽いていたのをはっきりと思い出しました。それが最初だったかどうかは判りませんが、そういうことはありました。コーヒー豆をすり鉢で擦ると言うのも、果たして出来たのかな。と思いますが、それより方法はなかったのでしょう。その後、我が家にはコーヒーミルも買って置いてありました。コーヒーミルは僕たちもパリのバンブの蚤の市で赤い可愛いのを買って、ヨーロッパの旅行中はそれをずっと使っていました。今は宮崎に置いてあり時々は使っています。

 

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 ポルトガルに来て、すぐに買った扇風機の羽が割れてしまったので、買い替えた。昨年の話である。

 

買い替えた扇風機

 羽が割れてしまったその扇風機は未だセトゥーバルの下町、アロンシェス・ジュンクエイロ通り47番地に住んでいた時、家からほんの5分程の、クエベド駅の踏切を渡った新しいビルの1階に店を構えていた、いわゆる町の電気屋さんのショーウインドーに展示されていたものを買ったものだ。幾らであったかは忘れたが、扇風機とはこれほど安価なものなのか、と感じたことだけは覚えている。今ではその踏切もなくなり、線路の下を潜る道路が出来、立体交差になり、電気屋さんもなくなってしまっている。

 当時、ショーウインドーに展示されてあったと言ってもカッコよいものでも当時の最新式でもなく、要するに安価であったから買っただけの代物であった。それでも風の強さは3段階に切り替えができたし、首振り装置もあったし、ぜんまい式のタイマーも付いていた。買ったものの使うのはひと夏の内、10日くらいのものだったのかも知れない。そしてその安価な扇風機が26年も長持ちしたことになる。

 ポルトガルの夏の太陽は厳しく真夏の外出などは控えなければならないものの、陰に入れば涼しいし、部屋の中は窓を開ければ熱風が入って来て却って暑くなるけれど、窓を閉め切っていれば案外と涼しく殆どエアコンなども必要がないほどである。実際、我が家にはエアコンはない。だから扇風機程度で事足りる。

 だがその扇風機が曲者なのである。窓を閉め切って扇風機を使うわけである。強中弱の一番下の弱で使っても結構うるさい。そうして30分も使っていると、何だか次第に身体が熱くなってくるのを感じる。部屋の気温が上昇しているのだ。それは数年経ったある日ようやく気が付いたものだ。

 扇風機はモーターによって羽を回し、風を起こし涼しく感じさせる。だからスイッチを入れて暫くは涼しい。それが羽を回し続けることによってモーターが次第に熱を帯びてくる。気が付けば部屋中に熱気を撒き散らしていることになる。

 日本でなら扇風機を使う時、大抵は窓を開け放している。尤も網戸なるものを閉めてはいるが風は通り抜ける。モーターの熱も一緒に外へ出しているのかも知れない。いや、やはり日本製は優秀なのだろうと思う。音は静かだし、モーターに熱など生じさせない仕組みが出来上がっているのだろうと思う。

 今でも帰国の際、時々は扇風機を使う。真夏に日本に居ることはないが、5月頃でも暑い日があるので、少しは使う。それこそ、ポルトガルに移住するずっと以前、今から30年以上も昔に買ったものだ。点けているのを忘れるくらい音は静かで、モーターの熱など感じたことがない。それが当たり前だと思う。

 ポルトガルの扇風機では数年間も使い続けてからふとアイデアが浮かんだ。扇風機のモーターの上に冷凍庫で凍らせたおしぼり(小型のタオル)を乗せておくというアイデアだ。これは功を奏した。なかなか良いアイデアであった。おしぼりは3つ4つを凍らせておいて、氷が解けて乾いてしまえば次々に交換をする。モーターは熱くはならずに、気のせいか心持冷たい風を扇風機は流してくれる様に感じた。

 昨年、その扇風機の羽が折れて壊れてしまったのだ。それで仕方なく買い替えることになった。大型スーパーの電化製品売り場、そして日曜大工店。26年前の物とは違うだろうと思っていた。相当技術も進んで、モーターが熱くなる扇風機など、恐らく過去の物なのだろうと思っていた。

 

扇風機正面

 日本では最近はエアコンの弊害から扇風機が見直されているとか聞いた。エアコンは消費電力も大きいし、足元ばかりが冷えて使い続けていると身体に不調を来す。やはり夏は夏らしくある程度の暑さを感じるのが身体には良い。それで扇風機が見直されているとか。その扇風機もいろいろと様変わりした物が登場している。羽のない扇風機などもある。

 ポルトガルでもいろいろと店頭には並んでいた。でも意外と僕の条件に合った物が少ない。条件は第1に風の強さを3段階に調節できること。第2にタイマーが付いていること。第3に首振りが付いていること。特別な物はない。26年前の扇風機にも備わっていた条件である。それが現代の扇風機には意外と少ない。あちこち見回ってようやく決めたのが、何だか新しそうな扇風機であった。一応風の強さの3段階はついている。タイマーも30分、1時間、2時間、4時間と付いている。ゼンマイではなくプッシュボタン式である。首振りはないが羽の前面のパネルが回転し風の方向を変えるという方法である。モニターも付いていてベッドから起き上がらないで切ったり、点けたりと調節が出来る。モーターは薄い器具の中に隠されている。持ち運びにも軽い。これなら何だか最新式でまさかモーターの熱を撒き散らすことはないであろう。と信用して買った。

 出来れば日本製を買いたいと思ったが、最近は本当に日本製を見かけなくなった。以前ならサンヨーとかシャープなどの電化製品も売られていたが全くと言ってよいほどポルトガルにはない。そう言えば以前には良くあったオランダのフィリップ製の電化製品も近頃は見かけなくなった。昨年買った扇風機はメイド・イン・PRCと書かれているがどこ製なのだろう、東欧あたりかな、思ったら、何と中国製であった。People’s Republic of Chinaの略。

 以前の物同様音がうるさい。そして30分も使い続けると、残念ながら部屋の温度は上昇していることに気が付く。モーターが熱くなっているのである。そのモーターが器具の中に隠されているから凍らせたおしぼりを乗せることも出来ない。

 その扇風機を買った昨年は冷夏で殆ど使うことはなかった。

 今年は6月に記録的な猛暑がやってきた。セトゥーバルでも41度にもなった。その同じ日エヴォラでは44度であった。そして北の内陸の村では山火事が起こり大変な犠牲者を出した。6月でこれならこれからどうなるものか。と心配をしていたが7月は涼しすぎる日々が続いた。7月下旬になってようやく夏らしい暑さが戻ってきたと思ったら、また山火事である。そして我が家の側での火事である。1日で収まったが、その日は大騒動であった。テレビでも臨時ニュースを流し「セトゥーバルで火災。住宅に迫る恐れ、住民500人が避難」という見出しで大きく伝えた。僕たちも避難した。

その日の詳細報告 2017年7月26日

 我が家の最新式の扇風機ではおしぼり作戦は使えないので、それではなく、保冷剤作戦というのを思いついた。保冷剤とは四角いプラスティックの容器に青色の液体の入った物であるが、よくキャンプなどで使うあれである。それを4個、冷凍庫で凍らせている。

 

扇風機の後ろ側に保冷剤をぶら下げている。

 その1個を扇風機の後ろ側に紐でぶら下げておくという作戦である。解ければ交換する。カッコは悪いが我ながら良いアイデアだと思っている。でも保冷剤自体が不良品なのか早く溶けすぎる。VIT

 

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 昨夜、我が家は大変でした。夕食を摂っている時です。「何だか煙臭い」と思っていました。その内、雪の様な灰が降り出したのです。我が家から北側の牧場のあたりから出火したらしく、煙が上がっています。かなり離れていましたので、それ程は心配ではなかったのですが、炎も見えています。

牧場が燃えているのが見えるが、かなり距離は離れている。(我が家のベランダから撮影)

 やがて消防車のサイレンです。これで安心と思って高峰の見物をしていました。でも風の強さは尋常ではありません。窓ガラスを叩く音は台風並みです。そしてこちらがまともに風下に当たります。その内、あちこちに飛び火しているのも見えました。ホテルからは宿泊客が走り出てきています。炎が丘を駆け上ってきている様です。

お向かいのお屋敷に入り込んで消火活動を始めようとする消防車。かなり煙が立ち込めている。(アトリエから撮影)

 我が家の前にも消防車が2台とパトカーも1台やってきました。ホテルの裏に回って消火活動が始まりましたが、ますます火は勢いを増しています。我が家の窓に当たる灰も白いのではなくもっと大きな黒いのが大量に当たる様になりました。警察は規制線を張っていますが、我が家の建物の前は人々でごった返しています。

 婦人警官がお向かいのお屋敷のドアを叩いています。避難を呼びかけようと思ったのでしょう。でもお留守の様でした。男たち5~6人がお屋敷に走りこみました。物置小屋を開けようとしましたが鍵がかかっています。窓をこじ開け、窓から侵入し、ホースを取り出しました。そして裏の方に放水している様子ですがここからは見えません。

 若者が走り出し、黄色い叫び声を上げました。どこかに飛び火した様です。裏の松の木を見ても大丈夫でした。北東側のお隣の間の灌木に火が付いた様で、そこから煙が立ち始めました。

 マンションのお向かいが我が家をノックして「避難した方がよいよ~」と促してくれました。その前から、昨年の教訓から服を着替えて靴を履き、貴重品の入ったリュックを担いでいました。避難しようと思いましたが、避難する前にベランダから風呂桶に貯めておいた水をバケツに汲んで、5杯も6杯も放り掛けました。灌木の火は消えた様でした。下に居た若者にもどっぷりと水は掛りましたが、若者は「良くやった~」と言わんばかりに白い歯を見せ親指を立てました。

 それからクルマで非難しました。マンションの住民は既に全員が避難を終えている様でした。家は燃えてしまうかも知れないという不安は残りました。でも命はこれで大丈夫です。

 町に降りていくとあちこちで交通規制がされていました。町の中心のボンフィム公園に行きクルマを止めておいて我が家が見える別の水道橋の公園のところまで歩いて行きました。そこには火事を見ている家族づれが何組もいました。我が家がシルエットになって黒々と見えます。

公園から見たホテル(右)と我が家のマンション(中央)(水道橋のある公園から撮影)

 我が家の下の方にも飛び火して炎が大きくなるのが見えた時、家は駄目かも知れないと思いました。でもやがて一瞬に消えるのが見えました。消防士が気づいて消火したのでしょう。

 かなりの時間、その場所で見ていましたが、小水がしたくなったので、カフェに入りました。カフェのテレビがその火事の模様を臨時ニュースで伝えていました。野次馬だと思っていた住民たちが、消防士の指示でホースを運んだり、はしごを運んだりとボランティア活動をしているのが映像にありました。でも映像は同じものを繰り返すばかりでした。カフェのテレビと後ろを向けば実際の黒々とした煙が同時に見えます。カフェでコーヒーを飲み、小水をして再び我が家が見える場所まで戻りました。

 既に火事を見ている人は1人だけになっていました。煙も幾分少なくなってかなり収まったと思ったので帰ろうと思いクルマに乗って帰ろうとしました。でも家の近くには交通規制がまだされていて、近づけませんでした。先程の公園は薄暗いのでもっと明るい港近くまで行って交通規制がなくなるまで待機していようと思いましたが、今夜は規制が取れないかも知れないと思い直し、その港の前にあるホテルに部屋を取ることにしました。

 私たちの前にも3人の家族連れがチェクインしていましたが、部屋着のままで、荷物も何も持っていませんでしたから、恐らく避難して来た家族なのでしょう。

 部屋に入ってみると南向きの港の見える部屋です。普段なら1番良い部屋なのでしょう。でもすぐにフロントに引き返し「反対側の部屋に替えてください」と言いました。最初は「もう満室でありません」と言っていましたが、「私たちの家のすぐ側が火事で部屋からその様子を見たいのです」というと、もっと上階の北側の部屋に替えてくれました。我が家は角度が少し違い直接は見えなかったけれど煙がもうもうと上がっているのが見えました。まだまだ鎮火には時間がかかりそうだと思いました。拙速にホテルを取ることにして良かったなと思いました。

 真夜中のニュースでもセトゥーバルの火事は取り上げられていましたが、昨夜は全国で10か所の山火事だそうです。その夜はぐっすりと眠りました。気疲れがあったのでしょう。朝は起き辛かったです。

 朝にもうっすらと煙は上がっていました。ホテルは朝食付きなので、7時半からゆっくりと朝食を摂りました。でも早く帰って確かめてみたい気持ちがありましたので、すぐにホテルを出ました。ホテルは12時まで使える筈ですので、チェックアウトをする時に、「もし規制線が張られていて帰れなかったら戻って来て12時まで部屋を使って良いですか」というと「13時まででも良いですよ~」と言ってくれました。

 家にはすんなりと帰ることが出来ました。マンションの住民は未だ誰も戻ってきていない様子でした。屋内の筈の階段にも灰が一杯積もっていました。ベランダにも一杯です。ベランダを掃除していると我が家から見える空き地で煙が少し上がっているのが見えました。これは自分で消火した方が早いな。と思いましたが、我が家からは断崖になっていて直接行くことは出来ません。6リッターの水タンクを2人で4本階段を持って下り、クルマに乗せて、大回りしてその場所に行きました。煙が上がっているのは、昨夜、下の公園から見ている時に燃え上がって、一瞬に消火された場所だと思いました。その煙に6リッターの水4本、合計24リッターを全部撒きましたが一向に煙は消えません。

 家に戻って再びベランダから様子を見ていましたが煙は同様です。きょうは風は穏やかですが、強風が吹くとまた火が付くかも知れません。ホテルの先の牧場でも煙はあちこちで未だ上がっています。ヘリコプターが何回も何回もサド湾の水を汲み上げては消火活動をしています。ホテルには消防士の姿も見えました。テレビが消防士に取材をしていました。ホテルに行ってみると、そのあたりは真っ黒です。ホテルのすぐ側まで火が迫っていたのが判りました。そしてお向かいのお屋敷の垣根が少し燃えた後がありました。昨夜、お屋敷に侵入した男たちがこれを消火したのだと判りました。消防士に我が家の下の煙のことを言ってみることにしました。テレビ局は目の色を変え「火は大きいのか」と私に聞きました。「いや煙がほんの少しです」と言うと、テレビ局は興味を失ったようでした。

 でも消防士は3人が小さな消防自動車に乗りすぐに出動してくれました。我が家の前でガレージへ入る道に入ろうとするので、「ちがう、ちがう」と言って「大回りしなければ」と言いました。そして私も道案内するために消防自動車に乗り込みました。現場まで案内すると煙はかなり少なくなっていました。消防士は「これかね」と言いながら大きな岩を靴でどかして土を踏み固めました。そうすると煙はすぐに消えました。ああそうか、水を掛けるばかりではなく、土を踏み固めれば良いのだ。と思いました。

 その後、午後からはやはり風が強く吹き始めました。我が家の西の方で又、煙が上がりました。風向きは我が家とは違う方向なのでその煙は心配ではありませんでした。消防車がすぐにやってきましたが、煙はますます大きくなり、炎まで見え始めました。一旦、消火したと思ってもなかなか完全に鎮火は難しいものです。消防車が次々にやってきます。ヘリコプターも又、出動です。

消火活動をするヘリコプター。散水を終えてサド湾に水を汲みに行く途中。町の中心と下はボンフィムサッカー場。(我が家のベランダから撮影)

 火事場とサド湾を何度も何度も往復しては水を撒いていましたが、なかなか消えるものではありません。ようやく鎮火したのは夕方近くなってからです。

 私たちにとっては、昨年に引き続いて命が縮まった一日でした。VIT

 

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 村元武さんがたて続けに2冊の本を上梓(じょうし)された。

『プレイガイドジャーナルへの道1968~1973』と

『プレイガイドジャーナルよ1971~1985』

 それはぷがじゃ(プレイガイドジャーナル誌)出版に関する貴重な証言で興味深い。1冊目には僕の名前も度々登場する。僕はぷがじゃには携わっていない。勿論僕の名前はぷがじゃ以前のフォークリポート時代のものである。村元武さんと初めてお会いしたのは1968年頃だったと思う。

 村元武さんとのことを書くにはもう少し古い話から書かなければならない。

 僕は高校時代は美術部で油絵ばかりを懸命に描いていた。年に2回の展覧会が大きなイヴェントで、高校には勉強をしに通うのではなく油絵を描くために通っていた感が否めない。

 高校に入った当初は全校生徒は丸刈りであった。それがすぐに先輩たちの長髪運動によって丸刈りでなくても良くなり僕たちはその恩恵にあずかった。僕は美術部なので絵描きを良いことにそのまま散髪にも行かないで伸ばし放題にしていた。

 ある日、あらゆる西洋音楽に精通していた友人が「武やん、ビートルズみたいやな」と言った。僕は武やんと呼ばれていた。いや今もそう呼ばれている。

 まだビートルズを知る人は殆ど居ない時代である。僕も初耳であった。「ビートルズてなんや」と言ったのを覚えている。その後、ラジオの深夜放送などで度々耳にするようになって、すぐに爆発的に誰でもが知る名前になった。

 東京オリンピックの前の年である。油絵ばかりも良いが一つ記念になることをしようと思い立ったのが、高校2年生、1963年の高校文化祭であった。1年後1964年、「3年生になったら文化祭では僕たちでビートルズをやろう」と言うことになってバンドを組み始めた。すぐにメンバーは集まった。

 でもビートルズのレコードはまだドーナツ版『ラブ・ミー・ドゥ』が1枚しか出ていない時代である。半年後、待ちに待って初めてのLP盤『ミート・ザ・ビートルズ』を手にした時は「よし、いよいよだ」と思ったものだ。そしてそのLP盤全部を自分たちの物にしようと思った。思ったのは良いけれどギターの一番巧い田中繁でさえ、プリーズ・プリーズ・ミイなどの譜面起しはお手上げ状態だった。ツイスト・アンド・シャウトやミスター・ポストマン、シー・ラブズ・ユーなどは何とか出来そうだったが、難しい曲が多すぎた。今までのプレスリーなどとは全然違うのだ。勿論、ビートルズの楽譜などはどこを探しても売られてはいない。

 天王寺にあった楽器店を通じて譜面起こしをしてくれそうな人を紹介してもらった。それが西岡隆さんだった。

 譜面起こしだけではなく高校の講堂まで出向いて頂いて歌唱指導もしてもらった。西岡隆さんは音楽だけではなく絵も描かれるし、デザインもされる。その頃は、アルバイトでジュエリーデザインをしておられた。

 高校に来てもらった帰りには美術部のアトリエも見て頂いた、その時はちょうど高校展に出品の前でベニヤ板3枚ほどの描きかけの大きな絵がたくさん並べられていた。僕と西岡隆さんとはすっかり意気投合していろいろな話をして頂いたが、その後の人生で西岡隆さんの影響は計り知れないほど大きい。

 ご自宅にもよく遊びに行った。西岡隆さんは楽器ならなんでもこなされる。手作りのバンジョーなども弾いてくれた。歌はハンク・ウイリアムスやカーター・ファミリーなど英語の歌だ。僕は一人で聴くのは勿体ないと思い、時々は女子の友達なども誘い出かけた。イノ子やメガネなどだ。イノ子は弾き語りでギターも弾けた。その友人関係でフー子ちゃんも居た。フー子ちゃんは歌もギターも上手なのは知っていたが、イノ子やメガネはたびたび西岡隆さんのご自宅に誘ったがフー子ちゃんを誘うことはしなかった。フー子ちゃんの自宅は遠いからだ。

 女子の友達をたびたび誘って行ったからか、女の子にも判りやすくと思われたのか、西岡隆さんは日本語の歌を作られていた。それが『遠い世界に』や『雨よいつまでも』だった。『遠い世界に』を初めて聞いたのは恐らく僕だ。

 文化祭のビートルズも無事終ったが、そのままバンドを引きずって数度のダンスパーティなどを催したりして、僕は進学も就職も念頭になく、何となく卒業ということになってしまっていた。

 卒業と同時にバンドは解散。バンドのメンバーたちも同様でそのままプロのバンドマンになった人も居るが、仕方なく急遽、自衛隊に入隊した友人も居た。

 僕は天王寺美術館の地下にあったデッサン教室に籍を置いたがガランとしたところで他には誰もいず、何となく不安な日々を送っていた。そしてジャズが好きだったこともあり、道頓堀にあったジャズ喫茶『ファイブ・スポット』で喫茶バーテンダーのアルバイトをしていた。

 ある日、元バンドのメンバー田中繁がファイブ・スポットにやってきて「今夜、ダンスパーティで演奏するから歌いに来ないか」と誘ってくれた。仕事が引けてからその会場に向かい2~3曲を歌った。そのロックバンドのリーダーは田中繁でサイドギターはイノ子が担当していた。

 そのロックバンドの合間にその頃流行りかけていたアコースティックのフォークバンドの演奏があった。PPMスタイルのバンドである。そのボーカルにフー子ちゃんが居た。中川砂人さんがギターを弾いていた。中川砂人さんとお会いしたのはその時が初めてだった。僕はフー子ちゃんに「へぇー、いまこんなんやってるの」と言った。そして「こんなんやったら巧い人知ってるで~」とも言った。西岡隆さんのことである。それから暫くして西岡隆さんにフー子ちゃんと中川砂人さんを紹介したことになる。

 僕はその後、大阪芸術大学油彩科に入学していた。高校を卒業して2年後である。西岡隆さんとフー子ちゃん、中川砂人さんたちは『五つの赤い風船』という名前でヤマハライトミュージックコンテストで2位になった。と僕は風の噂で聞いていた。

 そして『五つの赤い風船』はプロとしての活躍が始まっていた。暫くたったある日、『五つの赤い風船』のメンバーたちと会った。その時、西岡隆さんから僕に「『五つの赤い風船』に入れへんか?メンバーがもう一人居てもええねん」という話があった。僕は大阪芸術大学に高い入学金を払って入ったばかりだし、何よりもギターは下手だし、プロとして歌を歌うことに自信がなかったのが本音だと思うが「僕は絵描きにならなあかんから、歌なんか歌ってられへんねん」と冗談を交えたつもりで断った。随分失礼な断り方だが、西岡隆さんと僕は若かったし何でも冗談を言い合える仲であったと思う。

 又、暫く経ったある日、西岡隆さんから電話があった。「歌はあかんでも、雑誌のレイアウトなら将来の美術の勉強にもなるし、やれへんか~」と話があった。西岡隆さんが所属する事務所で会員向けの月刊誌『フォークリポート』というのを出版するのにアートディレクターが必要だとのことであった。「それなら大学に行きながらでもできるし」と勧めてくれたが、それにも僕は自信がなかった。西岡隆さんは「僕が教えるから、言うとおりにやれば出来るがな~」との話だったので、僕はやってみることにした。事務所に行き、社長の秦政明さんに紹介されたが、入った時には創刊号が半分は出来ていた。

 そもそもこの月刊誌『フォークリポート』は西岡隆さんと松山猛さんが言い始めた雑誌らしく、僕が思うに西岡隆さんと松山猛さんの個性がぶつかり合い、意見がなかなか合わず、松山猛さんも東京で大手の魅力あるところからのオファーもあり、東京に行ってしまったため、僕にその仕事が回ってきたのだと勝手に思っているが違うかも知れない。

 でもいざ始めようと思っても、「僕が教えるから」と言っていた西岡隆さんはみるみる忙しくなっていき、全国を飛び回って大阪に居ることも少なく、何しろ年間180回ものコンサートをこなすほどになっていた。関西フォークブーム到来である。

 事務所ははじめ高石事務所といった。事務所には『帰ってきたよっぱらい』のフォーククルセダーズとそれから波状したはしだのりひこと『シューベルツ』、高石友也、岡林信康、高田渡、中川五郎、遠藤賢治、ジャックス、五つの赤い風船、六文銭、その後の『ハッピーエンド』などが居たし、その他、数えきれないほどの歌い手がいた。事務所はその後『音楽舎』と改めたが、僕の所属は『アート音楽出版』である。事務所は『音楽舎』『URCレコード』そして『アート音楽出版』の3つの名前を持っていた。

 僕は西岡隆さんの教えがないまま途方に暮れながらも何とかこなしていた。

 そんな時、労音で分裂があったらしく、労音から事務所に一人と編集部に一人が来てくれることになった。

 編集長として来てくれたのが、労音で機関紙などの制作の経験のある村元武さんである。秦政明社長から村元武さんを紹介された。

 僕は「しめた、助かった。」と思った。

 フォークリポートは西岡隆さんの意向でオフセット印刷ではなく凸版印刷で本格的な雑誌作りを目指していた。印刷会社は僕が当初に探してきた印刷会社であるが、創刊号は別の印刷会社でオフセットであった。オフセットとは違い、第2号からの凸版印刷はレイアウトにも制限がありなかなか難しいのが現実だ。

 村元武さんは僕より少し上の年齢だが、その当時は随分上に感じていた。なにしろ僕は未だ19歳そこそこだったし、僕は経験豊富な村元武さんに絶対的な信頼を置き始めていた。村元武さんは編集だけではなくレイアウトや写植の貼り方など、勿論、校正の仕方、何でも出来たし、教え方が巧かった。話し方はぼそぼそと耳を側立たせなければ聞き取れないほどで多くは語らないのだが、何事についても教え方が巧かった。

 事務所は大阪北区兎我野町、あの太融寺の裏手の裏びれた6階建ての小さなビル、山安ビルにあった。5階には山口組が入っていて金色の菱形の代紋が輝いていた。高石事務所は3階にあってフラットを全部使っていた。最初は編集部の部屋はホリプロの大阪事務所になっていて、ホリプロが引っ越して行った後、高石事務所がフラット全部を使うことになって、ホリプロ後を編集部が使うことになった。営業部とは別れ、別の個室があてがわれたわけである。そんな時、村元武さんが入ってこられたのであったと思う。

 山安ビルの筋向いにアカシヤという洋食屋があった。昼飯を食べによく行ったが、やはりたびたびでは飽きる。

 ある日の昼時、近くのビルの1階に暖簾がかかっていた。普段は割烹で昼間はやっていないところである。ランチでも始めたのかなと入ってみた。村元武さんと僕と後の僕の妻になる大学同級生の岡本睦子の3人である。岡本睦子も写真や校正などをアルバイトとして手伝っていた。その3人がフォークリポート編集部員であった。

 今では割烹がランチをやったり、喫茶店がランチをやったりは珍しくもないが、その頃は割烹がランチをするのは珍しかった。

 暖簾をくぐって3人は入った。「いらっしゃ~い」と愛嬌の良いずんぐりとした男が出てきた。いかにも板前さんだ。「なに~、しましょ~」と言う。村元武さんが「何が出来ますか~」と聞くと「さあ~」と言って首を傾げる。そして「何でも言うてみてください」という。村元武さんが「そしたら、かつ丼」。板前さんは「かつ、どん?」と微妙に間を空けて言った。「かつ、どん、とはどんなもんですか~?」と言った後「作ったことも食べたこともないのですが~。どんなもんですか~」と再び首を傾げた。今ではかつ丼を知らない人は恐らく皆無だろう。その頃は知らない人が居ても可笑しくはない時代であったのかも知れない。

 村元武さんはぼそぼそと説明し始めた「先ず、トンカツを揚げて、どんぶり飯の上にそれを乗っけて、別にスライスした玉ねぎを甘辛いだしで煮て、卵で綴じて、どんぶり飯とトンカツの上からぶっかける。そんなものです。」「はい~、やってみます。少々お時間を下さい。」と言いながら調理場へ下がった。「いや~、変なとこに入ってしもたな~。ランチは慣れてないんやな。まっ、ええか、この際ここで編集会議でも始めよか。」ととと、と思う間もなく、さすが料理のプロ、いかにも手際よく作られたのであろう。『かつ、どん』が3っつカウンターの上に並べられた。村元武さんの言葉にもなかった青ネギの笹切りなども飾られて、見るからに立派なかつ丼である。そして見栄えだけではなく、その旨かったこと、旨かったこと。本当に旨かった。

 もう一度入ってみようと思い、その後はたびたびその前を通ってみたが昼時に暖簾が出ていることは残念ながら二度としてなかった。

 それから半世紀が過ぎようとしている。が、その後、その時のかつ丼を超えるかつ丼には、僕は一度もお目に掛れていないでいる。

 村元武さんの教え方の巧さを物語っているエピソードとしては少々横に反れてしまったが、その頃に村元武さんから教わった数々のことは、僕の人生の中で生かされているのは間違いのないことである。そして僕と西岡隆さんや村元武さんとの交流は今なお続けさせてもらっている。

 労音時代、フォークリポート時代の僕。そしてぷがじゃの時代、更にその後の時代に村元武さんから教えを乞うた人は数多く居られるのだろうと思う。そんなことを思いながらこの2冊の本を読みたい。VIT

 

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 寒いのは苦手だ。この冬は何だか特別寒い様な気がする。先日のトランプ大統領就任式の日のセトゥーバルの気温は最低が0度、最高でも11度だから寒い筈である。冷蔵庫以下の冷え込みだ。その前の最低は3度だったから、トランプ大統領就任式の日がこの冬1番の冷え込みということになる。いや、ポルトガルに来て27年になるが、この冬が1番寒い様な気がする。テレビのニュースでも盛んに「寒い、寒い」と言っているからやはり異常な寒さなのだろう。

 それでも数年前から寝室を南向きの部屋に変えてからは随分と楽になった。我が家には北向きに3部屋、南向きに1部屋と台所も南向きにある。以前には南向きの1部屋を居間に北向きの1部屋を寝室にしていたのを、居間と寝室を一緒にしただけの話だ。何年も何年も北向きの部屋を寝室にしていたのは考えると随分と勿体ないことをしてしまっていたことになる。部屋の向きや造りによって随分と感じ方が違う。

 かつてストックホルムに4年間を過ごした。若かったこともあったが、それ程寒さは感じなかった。でも最低気温マイナス20度を体感している。部屋から見える窓の外側に寒暖計が貼り付けられてあった。窓は間の分厚い2重窓で部屋の中はセントラルヒーティングが利いているのでティシャツ1枚でも過ごせるくらいに温かい。外出をする時にはその外の寒暖計を確認してから外出をすることになる。バス停まで行くのに鼻から出る息が髭に絡まりその髭が忽ちのうちにパリパリに凍った。

 ストックホルムに住み始めて最初の年、ストックホルムから暖かい南のスペインあたりまで旅をするつもりで出発した。フォルクスワーゲンのマイクロバスの思いっきり古い中古車を買って、車内で寝られるようにどこででも料理が出来るように自分で改造をした。そして出発は11月。その年初めての雪が舞い降りてきた。初日は予行演習のつもりでストックホルムの美術館の駐車場で過ごした。ぐっすりと寝てしまっていたが、朝、起きてみるとニンジンがかちかちに牛乳がシャーベット状に凍っていた。よく凍え死ななかったものだと今思えばゾッとするが、若かったのだ。慌ててもう1枚布団を買った。その後もそのポンコツマイクロバスでヨーロッパじゅうを5万キロ走った。穴ぼこだらけのポンコツでどこからでも遠慮なく隙間風が侵入した。

 不動禅少林寺拳法を習っていた。寒稽古と称してそのストックホルムの雪の上で、胸のはだけた胴衣1枚、勿論、裸足で蹴りの稽古をした。足の感覚がなくなって自分では思わぬところでこけてしまう。師範は「辛抱して、辛抱して!」などと言うが、気持ちはあっても自由が利かなくなってしまう。勿論、修行が足りないからに他ならない。スウェーデン人やフィンランド人の弟子はこけなかった。情けないことに僕だけがこけた。さすがに師範は修行が出来ていたのだろう、こけることはしなかった。

 毎年、寒中水泳のニュースが流れる。見ているだけで凍り付く。ポルトガルの海水浴場だけではなく、ロシアやドイツの寒い地域のニュースも流れる。中には凍った湖や川の氷を叩き割って、或いはチェーンソーで切り取って、そこでの寒中水泳だ。よく心臓麻痺など起こさないものだと感心する。

 ヨーロッパ人は子供の頃から寒さに対しては鍛えているそうである。

 僕たちも毎年、クリスマスシーズンをアルガルベ地方で過ごす。温かいところだと言ってもやはり冬だからそこそこの寒さはある。僕たちは一応冬のいでたちである。地元の人たちも冬の格好をしている。でもイギリスやドイツあたりからやってきたリゾート客はティシャツ1枚に短パン姿で過ごして平気な顔をしている。僕ならすぐに風邪を引いてしまう。

 北欧の人たちにとって冬の暖房費は大変な出費になる。冬の間、自国で過ごすよりも、温かい地中海沿岸地方やその島々、或いはアフリカ沖のカナリア諸島やマデイラ島などのリゾート地で過ごした方が却って安上がりだという。

 『落穂拾い』や『晩鐘』で知られるミレーはノルマンディ地方シェルブールに近い寒村グリュシー村で生まれ育った。大西洋から容赦なく吹き付ける北風は厳しく、僕が訪れたのは未だ10月下旬であったが寒い土地であった。ミレーの生家は石造りの大きな家で底冷えがした。絵の売れなかった時代、ミレーに家族を温める薪を買うお金がなかった。そんな時、パリの万国博覧会に出品していた『接ぎ木をする農夫』が4000フランで売れた、との朗報が届いた。すぐにお金を送ってもらうように要請し薪を買うことが出来た。でもそれは同じ仲間バルビゾン派の画家テオドール・ルソーが身元を隠して困っているミレーを助けるために買った絵だったのだ。

「ミレーの生まれ故郷・グリュシー村を訪ねて」

 ストックホルムの後に住んだニューヨークも寒いところであった。舗道はカチカチに凍っていた。その凍った舗道の上にダンボールを敷き、ホームレスの老婆が座っていた。それを見て僕は大変なショックを受けたのを覚えている。同じ人の世の人生でこれ程辛い過酷なことがあってもよいものであろうかと思ったが僕には何もできなかった。

 でもその後、度々の自然災害、戦争、テロなどが頻発する時代になって、そんな過酷な境遇があたりまえになって動じなくなってしまっている。そしていつ自分自身がそんな状況に置かれることになってもおかしくはない。すこし前『自己責任』などという言葉が流行った。政治家が使う言葉ではないと思う。政治は立場の弱い人に寄り添った政治をしてもらいたいと願う。でも残念ながら流れは逆の方向に向かっている。世界のリーダーとなった、大富豪トランプに期待をしても無理な話だろうか。

 その後、宮崎に13年間を過ごした。南国宮崎の筈が随分と寒かった。住まいの周りを大淀川の支流が取り囲む様に流れていて、天然のクーラーとなっていた。夏はそれは涼しかったが冬は本当に寒かった。南国だからと我慢していたが、近くに住む札幌から嫁いできていた女性が「札幌より寒いわ」などと嘆いていたのが印象的であった。

 宮崎の今の帰国時の仮住まいも寒い。近くに大淀川が流れていて、住宅の下にもその水脈が流れているのだろう。庭には沢蟹が姿を見せる。その1階で過ごしていた時は本当に寒かった。今は2階に寝室を移している。それで随分と違いがある。

 大阪の実家も寒い。大阪平野の真ん中で、淀川と大和川の中間の比較的低い土地にあり、近くには駒川と今川という小さな川があるが実家はその中間にある。やはり地下には水脈が流れているのであろう。実家の1階、居間でテレビなどを観ているとしんしんと底冷えがする。それでも日本では石油ストーブなどを使うからその側に居る限り温かい。炬燵も有難い。

 ポルトガルでは普段は必要がないから、そんな暖房器具はない。オイルヒーターがあるだけである。ほんのりと部屋を温める。触っていても火傷をすることはない。例年ならそれで事足りるが今年は石油ストーブや炬燵が恋しい。

 セトゥーバルは気温が低いといっても快晴続きで南向きの部屋にいる限り温かい。太陽とは有り難いものである。太陽の当たっているところのみ温かいが陰の部分は放射冷却でかえって寒い。こんなことを書いている自分が情けない。とにかく修業が足りていないことに他ならない。

 高校生の頃、冬休みといえば、アトリエに籠って決まって制作であった。春の展覧会の絵を描くのである。兄や妹は冬休みになると待ちかねていた様に、いつもスキーに出かけていた。あんな寒いところに良く飽きもせず行くもんだ。と思っていた。

 絵を描くアトリエは北向きの部屋を使っている。アトリエには光線が安定している北向きが望ましい。絵を描く以外にアトリエで作業をしていると、忽ちのうちに身体が凍えてしまう。でも不思議なことに絵を描いている時には寒さは感じない。それどころか、徐々にほくほくと身体が温まってくる。少林寺拳法の蹴りの稽古をしているが如くにである。

 1月31日は雨、気温は最低が9度、最高は15度。2月になればセトゥーバルでは既に春で温かくなる。待ち遠しい。メルローも鳴きはじめている。でも今年は2月中旬に帰国である。例年より少し早い。日本では2月が一番寒い。いや、どうしよう。考えただけで風邪を引きそうである。

 そして実を言うと、『寒い』よりも『蒸し暑い』というのはもっと苦手なのだ。恥ずかしながら、要するに人間としての修業が足りていないだけに他ならない。

 『心頭滅却すれば火もまた涼し』という言葉があるが、『心頭滅却すれば氷の中での寒中水泳もまた温し』(字あまり)となるのであろうか。VIT

 

2017年度 帰国時出品展覧会日程

大阪芸術大学美術科4期生同窓展

2017年2月25日(土)~3月8日(水)

Galleryキットハウス

10:00-19:00(最終日17:00まで)

〒558-0004大阪市住吉区長居東 3-13-7

℡00-6693-0656

 

武本比登志ポルトガル淡彩スケッチ展

2017年3月6日(月)~11日(土)

マサゴ画廊11:00-19:00(最終日17:00まで)

〒530-0047大阪市北区西天満2-2-4

℡06-6361-2255 / 搬入3月4日(土)5時より

 

第6回NACKシニア展

2017年4月17日(月)~22日(土)

マサゴ画廊11:00-19:00(最終日17:00まで)

〒530-0047大阪市北区西天満2-2-4

℡06-6361-2255 / 搬入4月16日(土)5時より

 

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