オリャオンを出て、ファロの大きなロータリーで右折。そこまでは簡単に行く。そのあと国道N125号線に入るのが少々ややこしい。以前はそのまま真っ直ぐに突っ切ってロウレの街中に入ってしまい、アルブフェイラ方面へ出るのに苦労をしたし、随分遠回りもした。何度もだ。

 前回はうまくすり抜けることができたのだが、どう行ったのかがはっきりしない。 確かその前夜のニュースでアルマンシルという町で麻薬組織のアジトが摘発されたと言う事件があった。普段、観光客にアルマンシルなど用のない地名だ。そのアルマンシル方面へ右折するのだった。

 標識はファロとアルマンシルとなっている。ファロは今、通過してきたばかりだから、それは違うと思って真っ直ぐに突っ切って、いつも間違っていたのだ。
 ファロとアルマンシルの標識で曲がって、ファロに曲がる道はやり過ごしてアルマンシルに向うとアルブフェイラ方面のN125号線に出ることができる。 こんな簡単なことがなかなか判らなかったのだ。でもアルマンシルなどという標識ではなく、アルブフェイラかラゴスという標識にしてくれれば観光客にでも判るのにと思った。実に不親切な標識である。それにこのあたりはアルガルベの幹線で田舎道とは違う。混雑する上、他のクルマは猛スピードで走るので僕だけのんびりも走ってはいられない。

 でも国道N125号線に入ってしまえばもうこっちのもの。アルブフェイラの看板を見落とさなければ間違うことはない。すぐにアルマンシル。それを通過して、やがてクワルテイラも通り過ぎ、ヴィラ・モウラを通り過ぎれば間もなくだ。
 白いアイリスが沿道のところどころに咲いている。
 アルブフェイラ左折の看板は今までも見落としたことはない。そこには小さくオーリョス・デ・アグアの看板も付いている。そのオーリョス・デ・アグア近くに今夜泊るホテルがある。

 うまくアルブフェイラへの道も左折できてやがてオーリョス・デ・アグアへ左折するロータリーに差しかかった。今日は全く順調に道を間違えることはなかった。これからはもう大丈夫だ。

 そう思って安心した途端、そのロータリーで警察の検問があった。僕のクルマが停止を命じられた。全てのクルマではなく抜き打ちで停めている様である。ポルトガルに住み始めて最初の頃、未だレンタカーで旅をしていた頃に1度検問に出あった。自分のクルマを持ってからは12年になるがこれが初めてである。何もやましいことはない筈だが、あまり気持ちの良いものでもない。

 エンジンを止めろと言う。長引きそうだ。先ず、車検証。次にドキュメント。滞在許可証に問題はない。そして運転免許証。10年間有効の免許が昨2011年の12月に切れている。その半年前の7月にACP(ポルトガル自動車協会)を通じて更新手続きをしているが、発行は未だである。その証明書をACPが発行してくれているが、それも3回目。2回目のはこの1月10日までだったので、引き続き発行してもらったばかりだ。それが3月10日までの期限。ACPの事務員も「これがたぶん最後ね。いくらなんでも3月までにはできるでしょう」と苦笑いしていた程だが、とにかく時間がかかりすぎる。

 ポルトガルは滞在許可証にしろ、運転免許証にしろデジタルに転換期でなかなかスムーズにはゆかない。
 テレビもこの1月12日で地上デジタルに変わった。我が家ではアンテナやチューナーなど買い換えずにそのままなので今はテレビのない生活だ。その代りパソコンで古い映画などを観て、ベッドに入ってからもジャズを聴いて楽しんでいる。
 アルガルベにはN125号線とほぼ平行してA22号という高速道路が走っている。昨年までは無料で、僕たちもそちらを走ることも多かった。
 ポルトガルの財政難から、幾つかの無料の高速道路が昨年(2011年)暮から有料になった。A22号はその象徴的な高速である。聞くところによると料金はそれ程高くはない。と言うよりいたって安い。でも有人の料金所を設けずに無人で前もって料金を支払うシステムらしくて、それが判りにくい。途中のカメラでそれを検知するらしいのだが、それが不評だ。そんな機械を壊したりの妨害もある。当然、多くのクルマは高速(A22号)を走らずに一般道(N125号)に流れる。

 高速の有料化では追いつかず、検問をして罰金を徴収、財政難を賄おうとしているのかも知れない。
 検問の警察官に自動車協会の再々発行の日付を示して、説明。警官はパトカーに免許証を持っていってパソコンに入力したのだろう。やがて敬礼と共に笑顔で全ての書類、証明書を返してもらってOK。感じの良い警察官で良かった。多少は緊張したのだが、思いの外、簡単に済んで、少々物足りなかった。
 後で考えたのだが、その前に僕はノンアルコールビールを飲んでいる。もしその時にアルコール検査をされれば、アルコールに弱い僕などはアルコール反応が出てしまったかも知れない。ノンアルコールビールと言えども少しはアルコールが入っていると聞いたことがある。でもアルコール検査はなくて助かった。

 そのオーリョス・デ・アグア行きの道に入ったあたりから、道端のいたるところでネットに入れたオレンジをぶら下げて売っている。5キロで1,5ユーロなどと驚くほど安い値段。美味しいのだろうか?と思いながらも買ったことはない。
 途中、インターマルシェに寄り、アルコール入りのビールとつまみを買って、やがてホテルに到着。チェックインを済ませ、ビーチへ。
 セトゥーバルに比べるとやはり気温は高い。1月だというのに半袖のTシャツ1枚に短パンといういでたちで散歩している人が多い。我々の様に厚着をしているのが恥かしい程だ。
 大きな夕陽が大西洋に落ちて行く様を眺め、完全に沈んでからホテルに引き返したが、未だビーチにはある程度の人たちが残っていた。シャンペンを抱えて乾杯している若い女性の2人連れも居た。波打ち際には手の甲程の大きなハマグリやもっと大きい帆立貝の貝殻がたくさん落ちている。
 ビーチからホテルまでの上り坂は人通りもなく、数羽のチャボがけたたましく鳴く以外は鬱蒼として薄暗くなると少し気味が悪い。そんな途中で強盗の検問にでもあえば有り金残らず吐き出すはめになりそうだ。そんな心配もよそに途中は誰とも会わなかった。道端には白いナデシコが10輪ばかり楚々と咲いていた。

 ホテルは空いているものとばかり思っていたが、ビュッフェ式朝食サロンはイギリスからのリゾート客で満員であった。殆どが老人だ。ロンドンあたりの自宅で暖房費を使うよりも余程安上がりに過すことができる筈だ。ホテルの中だけに居ても温水プールはあるし、卓球、ビリヤード、パターゴルフなど、更にサウナ、ジャグジー、自炊設備もあり、閑をもてあますこともなさそうだ。部屋のテレビは地デジの設備を整えたのだろう英語やドイツ語も映る。

 朝食の後、急遽、サグレス岬まで往復することにした。これだけ暖かいと新たな野の花が咲いているかもしれない、と期待したが、スィート・アリッサムやローズマリーなど6種類程、知っている花ばかりで新たな花は残念ながらなかった。でもあちこちでアーモンドの花が今を盛りと咲き誇っていた。

 昨年までならA22号の高速に乗るところだが、やはりN125号だ。
 ホテルを出てラゴアあたりのロータリーで渋滞になった。前方を見ると大掛かりな検問だ。22年も住んで昨日、2度目の検問に引っかかったところなのに、2日たて続けだ。
 でもそこでは証明書を見る様子はなかった。警察官が運転席を覗き見ているだけである。交通警官だけではなく、防弾チョッキを着けた警察官が何人もあちこち忙しくしていたところをみると、なにやら事件があったらしい。

 このところ、ポルトガルは事件が多い。都会のリスボン、ポルトそれにセトゥーバルも多いが、アルガルベは特に多発している。麻薬、強盗殺人、ATMの破壊など日常的だ。以前、世界中でニュースになったイギリス人リゾート客の女の子が行方不明になっている「マディーちゃん事件」もアルガルベの事件で未解決のままだ。一時は母親が犯人扱いされたこともある。
 その後も外国人が巻き込まれている事件も後をたたない。
 そんなこともあってか、アルガルベのリゾートホテルはどこも客が少なくなっているのだろう。安売り競争が激しい。
 結構な設備でシーズンオフには気の毒なほど安い。僕などもあまりの安さに釣られて羽を伸ばしに時々利用する。ホテル代は安いけれど往復のガソリン代の方が高く付くくらいだ。イギリスからならもっと安く感じるのだろう。おまけに天気はイギリスの春に匹敵する程も良い。飛行機もイギリスからならライアン・エアーやイージー・ジェットなどLCC(格安航空会社)がアルガルベのファロ空港まで運行している。
 そしてその人たちを狙った犯罪が後をたたない。でもホテルから1歩も出ないで閉じ籠っている限り、犯罪に遭う確立もなくなる。
 ホテルも気の毒だが、狙われる外国人リゾート客も気の毒だ。
 もっと気の毒なのは排気ガスの中で検問をしなければならない末端の警察官なのかも知れない。VIT

 

(この文は2012年2月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 モウラオンに着いたのは、まだ昼には少し早い時間だった。町の中心の公園脇駐車スペースにクルマを停めツーリスモ(観光案内所)の標識の方向に歩き出した。途中、そのあたりにもシュラスケリア(炭火焼食堂)の看板が幾つか目に付いたがアデェガ・ヴェーリャではなかった。
 ツーリスモは見つかったものの埃だらけのドアは閉ざされていて、もうしばらく前から使われていない様子だった。
 小さい町だから、ツーリスモに行けばすぐに判るだろうと思って、住所も電話番号も何も確認はしてこなかった。アデェガ・ヴェーリャという名前だけが頼りだ。でもそれが正式名かどうかも判らない。

01.モウラオンの城と町。

 今までもたびたび訪れたことのある町だが、以前は先ずお城を目指してそれからスケッチの場所を探していた。今回はスケッチよりもそのアデェガ・ヴェーリャで昼食を取るのが目的だ。

 昼食にはまだ少し早い時間なので、アデェガ・ヴェーリャをゆっくり探しながら1~2枚スケッチでもと思ったが、あいにくスケッチブックをクルマのドアポケットに挟んだまま忘れてきてしまった。鉛筆だけはいつも服のポケットに入っているのだが。

 アデェガとは造り酒屋とかワイン貯蔵庫という意味だが、ワインを呑ませる食堂にもその名前は使われる。ヴェーリャは古いという意味。<古い一杯呑み屋>と訳すことができるだろうか。

 その廃家のツーリスモからは上り坂になっていて、上にはお城しかない様なのでユーターンして別の裏道を歩いてみることにした。

 この町まで来る途中、クルマの車窓からも見かけたのだがクリスマス前なので、あちこちで壁の塗り替えをしていた。その裏通りでも主婦らしき女性と子供が壁を真っ白に塗っていた。
 それを監督する様な格好で、ハンティングを被り杖をついた老人が道の向い側でその様子を眺めていた。いかにもワイン好きな顔つきで鼻が赤い。その老人にアデェガ・ヴェーリャを尋ねてみた。それが的確であった。

 その場所からは少し離れていたにも拘らず、考える様子もなく即座に、目印まで正確に教えてくれた。「この道の突き当りを左に曲がって、しばらく行くと農協銀行の前に出る。それを右に曲がると、すぐに二差路に分かれているから、その左側の道を進むと数軒先の右側にあるよ」と言うものだった。日本語に直すと簡単だけれども、老人のポルトガル語で聞くと結構複雑に聞こえた。僕が頭の中で反芻して整理していると、繰り返し、繰り返し被せて教えてくれる。教えるだけでは物足りなく、今にも「一緒に行こう」と言いかねない雰囲気もあった。

 アデェガ・ヴェーリャのことはインターネットのユーチューブでその動画画像を見て知った。
 コーラル・デ・モンサラス(モンサラスのアカペラ男性コーラスグループ)のことを調べている内にどんどん進めて行くとアデェガ・ヴェーリャに行き着き、その動画が幾つも現れてきたのだ。
http://www.youtube.com/watch?v=J3nV2z9TREc&feature=related

 今回の旅はクリスマスの始まりにモンサラス教会とキリスト生誕の人形飾りの前でコーラスを奉納すると言う、コーラル・デ・モンサラスを見るのが目的だが、このモウラオンのアデェガ・ヴェーリャにもついでに行ってみるしかない。と言うことになった訳だ。

 20年程の昔、僕たちがポルトガルに住み始めた初めの頃、偶然にモンサラスに泊った。翌朝、隣町のモウラオン行きのバスの時刻をツーリスモで調べてもらっていたところ、それを聞いていた、同宿でポルトガル人の若いカップルが「僕たちはクルマだからモウラオンまで送って行くよ」と言うことで乗せてもらった。実は彼らは北の町ポルトに住む新婚旅行中のカップルだったのだ。「途中、サン・ペドロで少し陶器を見て行きたいので寄り道をするけれど、良いかな」。
 焼き物好きの僕たちには願ってもないこと。サン・ペドロの地名もその時初めて知った。
 一軒の窯元で大皿(直径33cm)2枚を買って、結婚祝いに1枚を彼らにプレゼントした。もう1枚はリュックで担いで帰ったのだが、今も我が家で愛用している。

 その頃に比べるとダム湖が完成し、ダム湖を跨ぐ新たな道路も出来、モウラオンへの道は随分便利になって、その当時なら30分は充分にかかっていたモンサラスからモウラオンへも今ならほんの15分で着いてしまう。

02.ブドウ畑の紅葉。

 家を朝9時に出た。モンテモールからエヴォラへの道すがらの葡萄畑はもう盛りは過ぎているとは言え、真っ赤に色づいた葡萄の葉が朝陽に映えて見事な紅葉を見せていた。もう半月早かったらもっと凄かっただろうなとも思った。なだらかな稜線まで続く赤葡萄の紅と白葡萄の黄色のコントラストはポルトガルでは他にあまり紅葉しない、紅葉の季節を楽しませてくれる。


 エヴォラからレゲンゴス・モンサラス、そして左手の山の頂にモンサラスの城と町を見ながら、新しい道を一気にモウラオンまで突っ走る。家から2時間半の道のりである。

 アデェガ・ヴェーリャには看板らしきものはなかったがすぐに判った。入り口近くのバーカウンターでは数人が立ち呑みをしていて、そのなかの1人に「ここはアデェガ・ヴェーリャですか」と尋ねたら「そうだ」と言いながら女将さんを呼んでくれた。

03.ワイン壺の置かれたアデガ・ヴェーリャの店内。

 女将さんに「昼ごはんを食べたいのだけれど」と言うと、すぐに席に案内してくれたが、随分奥まった、隠れるような場所に丁度2人分の小さなテーブル席があった。他は大テーブルばかり何十と席があったが全部予約済みらしく、既に前菜とパンとワインが並べられ用意されていた。
 バーで呑んでいる客と僕たちの他には未だ早いらしく1組の家族がテーブルについているだけであった。
 かなり広い店だが、古い大きなワイン甕がたくさん飾られていてその間を縫うように席が設けられているという具合だ。

04.チョリソなどの前菜。

 僕は運転があるのでノンアルコールビール。MUZは赤ワイン。「少し」と言ったのにバッソ(壷)に随分の量だ。前菜に2種類のチョリソ、この秋採れの浅漬けオリーヴ、生チーズ。これが旨かった。それに田舎のパン。これだけで既に満腹になりそうである。

05.フェイジョアーダ。

 メインは豆とチョリソの煮込み鍋。女将が「1人前でもまあまあの量ですよ」と言ったので1人前だけにしたが、これで充分の量で、旨かったが全部は食べ切れなかった程だ。

06.ソブレメーサ。

 ソブレメサ(デザート)は女将お勧め、この土地の甘すぎるお菓子。

07.僕の後ろの席の横顔は当時マデイラのジャルディン知事。

 食事をしている内に瞬く間に満席になった。前の円卓には猟師10人程のグループ。後ろの席には何とマデイラの知事、アルバロ・ジャルディン氏が座っている。そのグループ20人ばかりが2コーナーを占拠していた。今頃来ていたら絶対に席はなかった。早く着いて良かった。

 アルバロ・ジャルディン氏には次の日。帰りに寄ったエヴォラ美術館の裏道でもすれ違った。ドイツ人の知人に言わせると「もう何十年も治外法権の知事の座に居座り、独裁政権でまるでヒットラーだ。」と言っていたが、マデイラ島では大した人気で、舞台に立って歌も唄うし、お祭では大道芸人の様な衣装を着けて太鼓も叩く。怖い顔?に似合わずひょうきんなドクトルなのだ。
 マデイラ知事にとってもこのアデェガ・ヴェーリャは訪れたかった店なのか、或いはなじみの店なのかも知れない。

08.コーラスが始まる。

 食事をする前にも、している時も、そして終わって出ようとした時にも、あのユーチューブで観た動画と同じコーラスが沸き起こっていた。「コリアンダーとニンニクがたっぷりのパン粥で元気一杯さ~。イェイ」といった、この店のオリジナルソングなのか。

 その男性コーラスに、仕事に一段落をつけた、女将のコーラスも加わる。
 ゆっくりとコーヒーを飲んでから店を出たが、もう少しゆっくりしていれば、マデイラ知事もそのコーラスに加わっていたのかも知れない。
 元気を貰いに毎日でも通いたい楽しいアデェガ・ヴェーリャである。もう、ほんの少し近ければね。VIT

(この文は2012年1月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

 

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 10月末までは海水浴日和の猛暑続きだったのが、11月に入ると一変、雨、嵐が連日吹き荒れ、街路樹が倒れ、洪水。 石橋が流され古い家屋も倒壊。 各地で大きな被害が出た。
 こんな時に日本からポルトガルに旅行に来られるとポルトガルの印象は随分悪いものになってしまうんだろな~、などと思う。

 我々はずっと居るわけだから、それはそれで過しようがある。
 旅行は乾季。 雨期でも晴れ間を見計らって用事、買い物。 雨の日には外出は控える。 クルマだから構わない様なものだが、やはり雨の運転は鬱陶しい。 それに事故も多い。

 だから年間を通して殆どワイパーは使用しないが、それでも傷む(ウインカーと間違えて、ワイパーを動かしてしまうことが年に1~2度ある。 日本とは逆だからだ。)ので、車検の時に 「取り替えなさい。」 などと注意される。

 普通のスーパーなどでもワイパーは売られていて、今まではスーパーで買って自分で取り替えていた。 前回は少し型番の違うのを間違って着けてしまったのだろう。 キ~コキ~コと変な音がして失敗した。 それで先日、修理工場で運転席側の1本だけ取り替えて貰ったのだが、仕上がり具合を確かめるために 「ウオッシャー液を出して動かしてみろ」 と整備士から言われて、久しく使っていないものだから、そのウオッシャー液の出し方が判らなかった程だ。 恥をかいてしまった。

 晴耕雨読。 晴れた日には働いて、雨なら読書。
 僕は自宅で油彩を描いているので、晴れでも雨でも関係はない。 仕事はできる。 只、やはり乾季に比べると雨期は油絵の具の乾きが遅い。 それだけじっくり見ながらの制作になる。

 そんな合間は読書だ。 海外生活の良いところの一つに僕は読書を挙げる。 以前、スウェーデンに住んだ時もよく読んだ。 

 海外生活では雑用がないためか、一字一句が良く頭の中に入っていく。 フランス文学などは訪れた場所もたびたび出てくるし、次のフランス旅行では実際に行って確かめてみることもできる。 だからといって外国文学ばかりではなく、日本の時代小説なども好きでよく読む。

 コレットの 『青い麦』 のなかに 「兄はパンの端の部分が好きだから、そのところは兄に取っておいてやる」 といった文章があった。 10年くらい前に読んだ本だがそれ以来、僕はパンの端の部分の旨さに目覚め、それからは、先ず端から食べる様になった。
 大阪の実家で父の為にサンドウイッチを作ってパンの耳を切り落とし、後で食べようとタッパーに入れておいた。 兄がその耳を見つけたので 「食べてもいいよ~」 と言ったら、変な顔をされてしまった。
 剣豪小説などを読んでいる時、一旦休憩、と言うより仕事に戻るために、紐を挟んで本を閉じ、アトリエに向う。 その途中には怪しい者が居ないか玄関外の物音を窺い、アトリエに入っても腰に刀がないのが不安になり(これは嘘)匕首の代わりに思わずけん玉を手にしたりする(これは本当)。 CDラジカセとけん玉はアトリエの大切な僕の備品なのだ。

 ポルトガルに来た初めのころは毎年、帰国時に新しく出来たブック・オフ(古本屋)などに行って1年間に読む文庫本を30~50冊ばかり仕入れて持ってきていた。 大きな書店で注文して買った絶対読みたいと思う新本もあるし、成田空港の書店で待ち時間に買った本なども含まれている。

 長く住んでいるうちには在留日本人からも頂く。 ポルトガルから離れる人などから、大量に頂いたこともあった。 そんな中には読みたい本が多く混ざっている。

 文庫本ばかりでなく、分厚い文学全集などもあり当分は楽しめそうだから、最近は帰国中に自分で古本屋まで行って仕入れてくることも少なくなった。 我が家の本棚には何重にも積み重ねてぎっしりだ。

 心地好い陽射しの中、窓際でロッキングチェアーにもたれかかって読書。 これはたまらない楽しみだ。 でも1日中読書三昧ということはしない。 絵を描いたり、あれをやったりこれをやったり。
 今は雨期、天気は変りやすい。 アラビダ山の彼方で湧きあがった雲がやがて上空に差しかかり真っ黒に覆われてしまうと、文字が読みづらくなる。 にわかに雨。 雨が叩くガラス窓からは冷気が伝わってきて本を持つ手が凍える。 ヒーターの側に寄って明りを点けて、眼鏡をかけてまでして読書はしないことにしている。 眼を悪くしてしまう。

 そんな時はパソコンに向う。 電灯を点けて読書をすると眼を悪くすると言いながら、パソコンを長くすると余計に眼を悪くしそうだが…。
 キーボードの練習?と思って本の在庫リストを作ってみた。
 もしよろしければ古本屋をひやかすつもりで覗いてみてください。
 「武本文庫」
 何冊あるのか数えてはいないが、恐らくこの内4分の3は読んだ本だ。 繰り返し読んだ本も幾つかある。 今後も繰り返し読みたい本もある。 それに僕はどちらかと言うと遅読でじっくりと遡って読み返したりもする。 全集のカミュとバルザックだけでもそれぞれ読破するのに1年ずつもかかった。 残りの4分の1でも何年かは楽しめそうだ。
 
 遠くで稲妻が走り、雷が轟きだすと大急ぎでパソコンの電源を切る。
 ベランダの前の松の木が大きく揺れざわめく。 またどこかで被害が出なければ良いが、などと思いながらアトリエに向かい、暗がりの中で描きかけの絵を眺めてみる。 本を1冊読めば絵の印象は随分違ったものに見える瞬間がある。 本の続きを読みたいとはやる気持ちを抑え、絵を眺めながら、ラジオ体操をするか、けん玉の練習をするかくらいしか、そういう時は過しようがない。 VIT

(この文は2011年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログ転載しました。)

 

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 大阪芸術大学は僕たちの学年が入ってようやく1回生から4回生まで揃った開校4年目の新しい学校であった。
 僕が2回生の時だったと思う。授業や課題作ばかりではつまらない。絵を描くためにこの大学に入ったのだから、と仲間3人と僕の4人で大学事務所に掛け合った。「絵を描きたいから教室を一つ、専用で使わせてください。」

 できたばかりの大学だから当時はバラックの建物があちこちに点在し、そんな中に真新しい鉄筋のモダンな建物が混在していると言ったキャンパスで、仮設造りのバラックの教室には空き室があった様にも思う。
 あわよくばそのバラックの空き教室を使わせて貰いたい。と思って駄目元で交渉に臨んだのだ。

 回答は早い段階で来た。僕たちの要求が受け入れられたのだ。しかも思ってもいなかった、真新しい鉄筋の建物の一教室であった。バラックではない。本当はバラックの方が良かったのかも知れない。思いっきり汚すことができる。でも真新しい教室を使わせてくれるという大学側の好意に大いに感謝した。

 メンバーは1学年上の先輩、確か寺田さんと言ったと記憶している。それと僕と同学年の野口孝、野木井裕の4人。寺田さんは壁一面の大きな絵を描き始めた。野口も早速始めた。僕もベニヤ板1枚半(180x135cm120号程)のパネルをせっせと作り、次々に描きはじめた。野木井はいつもだかスタートは遅い。

 僕の当時のモティーフは工場やコンビナートなどのパイプやジョイントの部分などを画面いっぱいに抽象的に描いていくものであった。色はローズグレーと濃いグレーを基調にしたもので、そんな絵が瞬く間に10枚以上は出来上がっていった。出来上がったといってもどこに出品する宛てもなかった。もくもくと描く行為そのものが楽しかった。

 寺田さんは別として、野木井は浪速高校時代には美術部の1年後輩、野口は2年後輩。まさに浪高美術部のアトリエをそのまま大学に持ち込んだ雰囲気で楽しかったのだ。

 寺田さんは僕たち浪高美術部を知っていた。私学美術展も観ていた。絵を始めたきっかけは僕たちの浪高の1年先輩、六車隆一さんの私学展の絵を観て感化されたのだと言っていた。
 両人とも群像をモティーフにしていたが、勿論寺田さんの絵と六車さんの絵はかなり違っていた。六車さんの絵は明るく力強いが寺田さんの絵は暗く、ゴヤの絵を彷彿とさせる凄みがあった。
 六車さんも同じ大学の1期生だったが、残念ながらその時は既に卒業していた。

 ある日、僕のところに小演劇を演る。というグループから話があった。それは「パネルを貸して欲しい。」と言うものだった。もうすぐ大学の学園祭が始まろうとしている時期で、教室を使って演劇をするのに舞台と舞台裏(楽屋)を仕切るのにパネルを使わせて欲しい。とのことだった。僕がパネルをたくさん持っていると言うのを誰かから聞きつけて来たのだ。僕は描き終わった絵にそれほど執着はない。「どうぞ使ってください。」と言ってあるだけのパネルを全部持っていってもらった。勿論終われば帰ってくるパネルである。 

 演劇の当日僕も鑑賞に出かけた。驚いたことに僕の絵が舞台一杯に並べられていた。仕切りのパネルとして使うつもりが、その絵をそのまま舞台背景として使うことになったのだろう。当日まで僕には知らされていなかったので驚いたのだ。或いは当日になって急遽そうしたのかも知れない。パネルを繋ぎ合わせて楽屋と舞台の仕切りとして使っていることには違いがないが、絵を前面に出していたのだ。一箇所90センチほどの隙間を空け、そこに黒いカーテンをかけ、そこが舞台裏との通路としていた。その黒が、又、アクセントとして締まって効果的だった。 

 小演劇は共産主義的な内容であった。配役は男女4~5人で工場労働者が自分達の問題点を話し合っていくというものであったが、その当時は学園紛争が流行り始めていた時代で、大学にも民生系の集団が幾つかあった様に思う。最も左よりの内容にかかわらず、自分で言うのもおこがましいが舞台背景のお陰で、社会主義的な内容にも拘らず洒落た演劇が出来上がっていたと思う。それに色彩を制限して描いていたせいで、演劇の邪魔にもなっていなくて効果は抜群だった。
 演劇が終わって、配役の紹介などがあり、最後に舞台美術の紹介があった。「舞台美術を担当したのは、そこの客席に居られる武本さんです。」と僕の方を指差して紹介された。

 僕は展覧会に出品しようと描いた訳でもないし、もちろん舞台美術に使ってもらおうと描いた訳でもない。パネルとしてお貸ししただけだけれども、何かこの演劇にぴったりで嬉しかった。それに思わぬところで発表の場が与えられたことになった。
 出来れば写真にでも撮っておきたかったのだが、その当時は勿論デジカメなどはないし、カメラもモノクロが主流で室内での写真が難しい時代でもあった。残念ながらその演劇の写真もパネルの絵も記録は1枚も残っていない。

 僕はその後、音楽プロダクションのアルバイトが忙しくなったのと海外行きの計画が具体化されるに従って大学へは行かなくなった。そのパネルは持ち帰ることなく、そっくり大学に残したままになったが、恐らく燃やされたか、叩き壊されたか、いずれにしろ処分されたのだろう。

 実は最近、その頃の作品のイメージを僕は、絵にしている様に思う。モティーフは工場やコンビナートのパイプではなく、ポルトガルの時代を経た折り重なる町並みである。
 いろいろ紆余曲折はあるものの、長年に亘って、僕が追い求めている、僕の絵の方向性がそのあたりにあるのではないだろうかなどと考えながら制作にあたっている。
VIT

(この文は2011年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 明治44年生まれで今年100歳になる父は、ヘビースモーカーである。

 僕の周りを見回してみても煙草を吸う友人が実に多い。画家やデザイナーそれに音楽家など芸術家が多いからかもしれない。そしてそもそも、彼ら、彼女らはやめる気もない。

 僕は煙草は吸わない。昔から一切吸わない。生まれてから今まで吸ったこともない。
 妻は10年ほど吸った後、すっかりやめてしまった。やめてしまってから、もう随分と年月が経った。

 ちか頃は煙草を吸わない人が主流で喫煙者は肩身の狭い思いをしている様だ。
 一昔前なら「まあ、一服」と言って、勧めたり勧められたりしたものだ。「僕は煙草を吸わない」などと言うと「へえ~。変ってるね~」などと思われたものだ。今では勧めたり勧められたりという行為もなくなってしまった。

 数年前ポルトガルの法律が変って<屋内での喫煙は一切禁止>となった。カフェやレストランも屋内は禁止。違反をすれば莫大な罰金が科せられる。だがテラス席では構わない。テラス席は外という位置付けだ。それでお店ではこぞってテラスを充実してガラス張りなどにしてしまった。寒い冬の愛煙家のお客のためだ。ガラス張りにしてしまえば屋内と同じになってしまうと思うのだが、そこでは今のところ喫煙は許されている。

 スーパーやメルカドでも屋内だから煙草禁止。その出入り口付近では喫煙者がたむろして吸っているので、屋外といえども煙がもうもうとしている。その煙の間を縫って人々はスーパーやメルカドに出入りすることになる。嫌煙者は息を止めて通過する。ポルトガルでもやめる人は少ない様だ。

 僕は煙草を吸わないけれど他人の煙がそれほど嫌というほどでもない。近くで葉巻など吸っている人がいると、むしろ「良い香り」などと思うことすらある。

 昔の画家などはパイプだ。ゴッホに<パイプを燻らす自画像>というのもある。ベレー帽にパイプを持てば画家のイメージが出来上がる。

 父も昔はパイプを吹かしていた。アトリエには幾つかのパイプが転がっていた。普段は価格の安い両切り煙草の<しんせい>を吸っていた。子供の時には時々は煙草買いに行かされたが、<しんせい>といえば何か労働者の煙草というイメージで子供心に少し恥かしかった。そのしんせいをチェーンで吸う。

 今ではしんせいは発売中止になったのか、手に入らないためか、しんせいではない。暫くは缶ピースだったり10本入りの両切りのピースだったりしたが、それも入手が難しくなったのか、今ではフィルター付きのピースを吸っている様だ。そのフィルターの根元ぎりぎりまで吸う。実家に帰ると相変わらずもうもうと煙が充満している。

 父は長く日本民芸協団の理事をしていた。家の中には民芸陶器が所狭しと飾られている。その民芸陶器がニコチンで褐色に変色している。額縁のガラスもニコチンでべっとり、父の油絵が霞んで見える。
 兄などは「俺の方が副流煙で先に癌で死ぬかも知れへんな~」などと言っているくらいだ。

 でも煙草で本当に癌になるのだろうか?

 煙草は大昔から吸われている。紀元間もない頃、南米マヤ文化の時代には宗教儀式の道具として使われていた。煙は天上と繋がっている。煙の行方で戦のこと、天候のことなどいろんなことを占ったそうだ。又、病気は身体に取り付く悪霊のためで、それを取り除く治療用としても煙草が使われていた。煙草は火の神が宿る神聖なものなのだ。

 コロンブスがアメリカ大陸に到達した時、アメリカ・インディアンに鏡など装飾品を送った。インディアンは友好のしるしとして「まあ、一服」といって一緒に煙草を吸うことを勧めたという。

煙草の原種参照

 ヨーロッパに広まったのは15世紀、コロンブス以降だそうだ.。その後、ポルトガルから日本へ伝わったのだろう。煙草はいかにも当て字で、ポルトガル語で<TABACO>(タバコ)と言う。まあ、スペイン語でも<TABACO>だし、フランス語では<TABAC>、ドイツ語で<TABAK>、英語では<TOBACCO>だけど…。でも発音ではポルトガル語が一番近い。

 ちなみにオリンピックではいつも活躍をみせるトリニダード・トバゴはコロンブスが発見した。南米ベネズエラの沖合いのカリブ海に浮かぶ、沖縄本島の半分程の面積に130万人が暮らす小さな島国である。トリニダード島とトバゴ島からなり、トリニダードはリスボンにはその名の有名なレストランがあるが、ポルトガル語でカトリックの三位一体をあらわす。何でもトバゴ島の語源は島民が煙草を吸っていたからだという。

 <秋茄子は嫁に食わすな>と諺があるがナス科の食物は身体を冷やす。煙草もナス科で一時的に血管を細くし、血液の流れを抑制し身体を冷やす。頭も冷やし冷静になれる。だから落ち着いて考え事などをする時には有効なのだ。何か大切な決め事をする前に「まあ、一服」と言って煙草を吸った。
 たまに吸うからそれが有効で、しょっちゅう吸っている人にはあまり効果はないのかも知れない。とにかく吸い過ぎは良くないことは確かなようだ。

 大切な決め事をする前に「まあ、1本」と言って煙草ではなく、ナスを丸かじりするのも良いかも知れない。
 
 癌などの直接の原因は何か別のところにあるのは確かな様だ。喫煙による血液の流れの抑制によって癌の進行が早まるというのは考えられるのかも知れないが…。

 僕はジャズが好きでニューヨークに居た時は週に1回は必ずどこかのライブハウスに通った。新聞<ビレッジ・ボイス>を買ってプログラムを眺めては毎週どこに行くかを決めていた。
 ジャズメンと煙草も良く似合う。舞台で煙草を吹かしながらの演奏があたりまえで、お客も煙草が手放せない。ライブハウスの中はいつも紫煙が充満していた。

 ニューヨークではマクロビオティックのレストランで僕は働いていた。新進の若いジャズメンやダンサーなどが毎日の様に食事に訪れる店だった。マクロビオティックとは玄米を中心とした健康食で、そこのオーナー氏は人一倍健康には気を使う人だった。

 煙草は細巻きの葉巻を吸っていた。「煙草はあの紙が良くないのだ。」と言うのが彼の持論で「煙草にカビが来ないように紙に DDT が仕込まれている。それが良くないのだ。」と言って紙巻きは吸わず、細巻きの葉巻ばかりを吸っていた。彼もジャズが好きで一緒にジャズライブに出掛けたこともあるし、店でジャズライブを催したこともある。明るい性格で体格も良く健康そのものという人だったが、憧れのポルシェを手に入れアメリカのハイウエーで交通事故を起こして惜しくも若くして死んでしまった。
 僕は葉巻の香りを嗅ぐたびにその彼の笑顔を思い起こす。

 子供の頃、近所の友人の家に行くとおじいさんが煙草盆(火鉢)の前に座り、日本手ぬぐいを繋ぎ合わせた浴衣を着てキセルを美味しそうに吹かしていた。ニコニコとして僕たち小さな子供にも「おこし~」などと言っていた。ほんの少し以前の話だが、今では落語の世界にしか登場しない場面の様だ。その落語では圓正などは実に粋にキセルを吸った。

 煙管(キセル)はキセル乗車の語源だが、いまの若い人にはその語源がわからないのかも知れない。そもそもキセル乗車自体、する人は居ないのだろう。携帯電話をかざして乗車する時代だ。

 数年前、ちょうどシェルブールに居た時に大阪の妹から初めて携帯に電話があった。「父が倒れた」との知らせだった。パリからポルトガルへ帰る飛行機の切符を捨てて、急遽日本へ帰った。

 父は手術を終え入院中だったが、毎日病院へ見舞いに通った。父の言動は明らかにおかしくて「もうこれはボケてしまった」と思った。今後の介護などどうなるものかと不安ななか何とか退院して家に戻った。

 いつもの場所に座り、煙草に手が伸びて吸い始めた。入院中は勿論一服も吸っていない。そして吸い終わった途端、顔つきも変り何だかまともなことを明快な声で喋りだしたのだ。明らかに頭がはっきりした様子だった。
 「何や、比登志、帰ってたんか~?」
 入院中のことは全く覚えていない。まるで倒れる前にタイムスリップし、その続きの生活を始めた様だった。
 「うん、帰ってたで~。久しぶりの煙草、旨かったやろ?」
 「あい、煙草な~。やめなあかんな~」
 決してやめる気はないのに、時々、父がポツリと発する言葉である。100歳の父がいまさら喋る内容かぁ~と笑ってしまう。   VIT

 

(この文は2011年9月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログ転載しました。)

 

 

武本比登志のエッセイもくじへ

 ポルトガルの運転免許の有効期限は10年である。
 10年前に日本の免許証から書き換えて10年が経った。

 以前はポルトガルの免許は無期限だったらしい。だから80歳くらいの老人でも18歳の写真のままで乗っていたそうだ。それはあんまりだ。と言うことで、10年になったのかも知れない。

 かつて持っていたスウェーデンの免許証も10年だった。
 ポルトガルの法律も最近いろんな面で変りつつある。
 他のユーロ諸国に歩調を合わせてのことなのか…。

 運転免許の更新が法律改正に伴なっていろいろと変化していて、知らずに今まで通りだと思っていたら複雑に随分と違って、困っている人がかなり居ると聞かされていて、いささか緊張していた。

 10年前、日本の免許証から書き換えるのにACPが代行でやってくれると言うので、ACPに入会した。
 ACPとはポルトガル自動車クラブのことで、日本のJAFにあたる。

 毎年高い会費を納めているが、万が一の事故、故障の時にも電話1本で対処してくれるので安心だから、そのまま10年間、会費を払い続けている。
 毎月面白くもないポルトガル語の冊子が送られてくる。

 1度は郊外の田舎道で故障をしてしまい、ACPに入っていたお陰で随分と助かったこともある。
 日本に帰っている2~3ヶ月の間、クルマは放ったらかしなので、一応バッテリーは外してから帰国するが、うっかりとした時にはバッテリーが上がることもしばしばあった。そんな時も電話1本で対処してくれて、助かっている。

 免許証の期限は今年の12月である。
 半年前から手続きが出来るというので、先月、緊張してACPの事務所に行ってみた。
 事務員は僕の免許証を眺めて「これは大丈夫。変更になった法律には該当しないから」と自信満々だった。
 そして「未だ期限には少し早いから来月に入ったら又来なさい。顔写真を持って。」と言う事だったので、その来月、つまり7月に入って早速行った。顔写真1枚を持って。

 いろいろ書類を作ってくれて、あとは健康診断が必要だと言って、その診療所の予約もしてくれた。事務所から表へ出てきて「番地は判らないけど、あの辺りよ」と指差す。
 帰り、確かめに行ってみたがその辺りには美容院とマッサージサロンしかない。その前をうろうろしていたら中からおばさんが出てきて「確かにここです」と言ったのでそのまま帰った。

 予約の前日は丁寧に身体を洗い、その朝は新品の下着にはき替え早々に昼食も済ませ、予約時間に遅れない様、早い目に出掛けた。
 駐車スペースがすぐに見つからないかも知れなかったし…。でも予約は3時10分だったが、その場所に着いたのは3時5分前の予約より15分前であった。

 扉ははたして閉まっていた。1時から3時までは昼休みだ。と思っていたら、扉が開いた。
 中から男が出てきた。予約の書類を見せると「中で座って待ちなさい」と言う。どうやら医者ではなくマッサージ師の人らしい。
 3時ちょうどにチャイムが鳴った。マッサージ師が扉を開けると男が入ってきた。そしてマッサージ師は僕のことをその男に耳打ちしている。どうやらそれが医者の先生らしい。

 奥に引っ込んだかと思うとすぐに白衣に着替えてきて「どうぞ、こちらへ」と小部屋へ案内してくれた。

 デスクを挟んで事務椅子が2つあり、診療台もある。或いはマッサージ台とも見える。この医者は週に1回か2回この場所を借りてACP専属の健康診断を行っている。と言ったところだろう。と思った。

 書類にペンを走らせながら、簡単な問診。
 「医者にかかってないか?」とか「薬を常用していないか?」と言ったことと血圧検査、それに聴診器。「大きく息を吸って~。ハイ、吐いて~」と先生も同じに息を吸ったり、吐いたり。「私の声が聞こえますか?」と「目は大丈夫ですか?」それで終り。視力検査はなし。

 僕の緊張が嘘のようだった。これだけで後はACPが全てをやってくれるのだろうか?
 診断を終えて待合室に出ると他に3人の男女が待っていた。そして医者は「お次の方~」とか細い声で言った。

 10年前にポルトガルの免許に書き換える以前は、毎年日本から国際免許を取ってきていた。スウェーデンでも国際免許を取ったこともある。
 スウェーデン以外のヨーロッパを運転するのに必要なのだと思ったからだが、一度も提示を求められたことはなかった。

 ポルトガルの免許を取って10年になるが、それも1度も提示を求められたことはない。ヨーロッパでは免許証よりも保険と車検証の提示を先ず求められる。だからと言って無免許と言うわけにもいかない。フランスなどでレンタカーをする時には必要だし、身分証明書代わりに使うこともある。

 先日、ゴルフの石川諒は国際免許で日本を運転していて無免許運転で捕まった。
 アメリカで取った免許の国際免許だが、免許を取得してからのアメリカでの滞在が3ヶ月に満たなかったための国際免許の無効を告げられたのだそうだが、複雑な成り行きで石川諒がいかにも可愛そうだ。
 アメリカが発給したと言うことは、日本以外の外国ではそれで運転は出来るのだろう。日本だけ例外ということになる。そんな法律が意外と多い。

 僕はポルトガル以外でもスペインやフランスなどヨーロッパではそのままポルトガルの免許証で運転している。

 日本の免許証も英語を併記すれば外国でも通用するのではないのだろうか?

 僕は日本の免許は2種以外は全部持っていて、大型、大型特殊、牽引そして大型2輪もある。
 10年前、それをポルトガルの免許に書き換える時に目の検査に引っかかってしまい、「大型の場合普通車より厳しく眼鏡が必要」と言われてしまった。

 ポルトガルで眼鏡を買うには先ず眼科医の予約をしなければならない。その処方箋を持って眼鏡屋に行って眼鏡を買う。そしてそれから予約を取りなおしてまた検査。と言われた。
 そんなに大変なら「それなら普通車だけでいいです」と言ったので、ポルトガルの免許は普通車と2輪だけとなっている。

 でもそもそも日本でもどこでも大型などに乗ったこともないし、ましてや大型特殊、牽引も試験場で受かって以来運転席に座ったこともないのだから、必要は全くないのだ。
 もしも喰えなくなった時にはこの免許がきっと役に立つかも知れない。とも思わなかった。
 何となく試験場に受験仲間が出来て通っている内に受かってしまったのだ。牽引にしても大型特殊にしても3回目のまぐれで受かったものだから、「いま、運転してみろ」と言われても無理かも知れない。大型特殊とはブルドーザなどの重機で牽引とはトレーラーだ。

 日本では兄のクルマを借りるかレンタカーをしてたまに運転するくらいだが、4年に1度の更新を欠かすことはできない。本来なら5年に1度だが、誕生日の頃には日本に居ないから事前更新ということになる。それで1年分が短くなる。

 僕は昭和40年4月8日、18歳で初めて普通車の免許を取った。
 鳳自動車学校というところだった。当時、自動車学校が雨後の筍の様に乱立してきた時代で、その中でも鳳自動車学校は比較的大手であった。ピンクに塗られた少し旧型で観音開きのトヨペット・クラウンが授業で使う車であった。

 今の様な単位制ではなく、小学校の様にクラスが決められ、同じクラスの人とは決められた時間に、同じ授業を受け、同等に上がって行き同時に卒業して、免許取得という仕組みで、 余程の落ちこぼれでない限り同時に免許取得が出来ることになっていた。クラスは20名位だったと記憶している。その中で僕が1番年下だった。

 僕の前期は落ちこぼれ寸前の惨憺たるものであった。
 先ず、入学して点呼を取られた時、僕の名前に誤字があった。<比登志>と書くところを<比登子>と書かれてあった。教官はあからさまに「なんや、男かァ!」と不満そうであった。
 実技初日、開始早々に僕は他のクルマに追突してしまった。教官が座る助手席にもブレーキが付いているのだが、その教官にブレーキを踏ませる暇がなかった程すぐの出来事であった。2台のピンクの車体がへこんでしまったのだ。校内事故である。そのことが後を引いてか。僕の成績は惨憺たるものであった。

 同じクラスで1歳年上の樽本さんなどは、真剣に僕のことを心配してくれたものだ。その樽本さんは今、どこでどうしているだろう。などとふっと思うことがある。
 でも後期には皆に追いつき、そこそこの成績で他のクラスメートと一緒に見事免許交付までこぎつけたのだ。それには鳳自動車学校の校長先生までもが喜んで下さった。

 18歳で免許を取らせてくれた父母と鳳自動車学校には感謝している。
 クルマの免許があるとなしとでは見る世界も広がりも違う。
 もしその時、受かっていなかったら、僕の人生も随分違ったものになっていたのかも知れない。

 その後、数え切れない回数、免許の更新を行ってきた。その時を忘れて、失効してからの更新もある。
 
 そしてポルトガルでは10年目にして初めての更新。
 さて、簡単すぎたポルトガルの更新手続き、本当に新しい運転免許証が僕の手元に届くのだろうか?  VIT

 

(この文は2011年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログ転載しました。)

 

 

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 日本からポルトガルへ戻って、車検を受けたり、固定資産税を払ったりその他にも諸々の雑用を早々に済ませて、未だ野の花が残っている内に小さな旅に出ようと思っていた。
 ところが今年は野の花の咲くのが早かったらしく、パルメラの野原にも殆ど目ぼしい花は残ってはいない。
 これは標高の高いエストレラ山地方へ行くしかない。でもエストレラ山には一昨年にも行ったばかりだ。しかも同じ時季に。
 そこで、前回に訪れたコースとは違うルートを考えて計画を練った。
 以前から行ってみたいと思っていたピオーダンとテルマス・デ・モンフォルティーニョをコースに盛り込んだ計画にした。

 

201112 Setubal - Arraiolos - Estremos – Covilhã

 

 家を比較的ゆっくりの出発だ。
 殆どの花が終わっているのに、セトゥーバルを出たあたりから沿道のところどころにチコリの鮮やかなブルーが目立つ。
 アライオロスを過ぎたところの時々寄るドライヴインで最初の休憩。ドライヴインの空き地では水撒きをする為にか、野の花が綺麗に残っている。アナガリス・モネリとシャゼンムラサキの群生が美しかった。
 もう少し走ったところでも濃いピンクの花が目に付いたのでシレネかなと思って停まってみると、ベニバナセンブリの群落であった。しかもその中に珍しい白花を見つけた。その他にもいろいろと咲いている。初めて見る花もある。これは期待できる。
 花を観賞しているところで、白バイの先導で自転車競走の一群が通り過ぎるのを見送った。恐らく100人以上の一群だろうが一瞬だ。
 やがて道は立派な高速になったが、フンダオンの手前から高速を下りて田舎道を行く。このあたりはサクランボの産地であるから、その様子を見ようと思ったのだが、以前見かけた時とは違う道に入ってしまったらしく、あまりサクランボの木は見かけない。
 でも今日がたぶん最終日だろうと思っていた「セレージャ(サクランボ)祭り」に迷いながらも巧く入り込んだ。それを充分見学した後でも、予定していたコビリャンのホテルに明るいうちに到着。

 

13 Covilhã – Piodão

 

 ビュッフェ式朝食を済ませ、フロントでピオーダンへの道を訊ねて出発。フロントのおじさんは細かいところまで教えてくれて的確だ。尋ねて良かった。「ほんの1時間で着きますよ。」とえらく簡単に言ってくれる。
 今日は楽勝だ。途中ゆっくり野の花探索ができるし、スケッチもたくさんできそうだ。

 ピオーダンはかなりの秘境らしく、最近ポルトガル人の間で評判の土地だ。
 ピオーダンにはホテルはイナテルの1軒しかなくそこを予約している。イナテルは半分官営的な宿舎で以前のエストレラの旅でもマンテイガスというところで泊った経験はある。その時も悪くはなかった。今回の旅では一番宿泊料の高い62ユーロである。朝食付き2人の値段でこれが1番高いのだからポルトガルの旅は安あがりで助かる。

 コビリャンのホテルのフロントのおじさんが教えてくれたウニャイスで休憩。水が豊富で古い水車小屋があった。無理やりスケッチをしたがあまり面白くない。黄色のヒメキンギョソウとジャシオネ・モンタナが大株で咲いていた。その後にも今回の旅ではジャシオネ・モンタナが今が最盛期といたるところで咲き誇っていた。

 1時間どころかもう随分と走っている。もうそろそろピオーダンかなと思ったところに標識があった。右もピオーダン、左もピオーダンである。どちらでも行けるのは、まあ、近い証拠。迷わず2人の意見は一致。少し下っている左の道を取った。


01.ウニャイスの町並み


02.右も左もピオーダンの標識

 ところが道はすぐに上りになり、しかもガードレールもない山道である。舗装はされているがガタガタ道である。2~30キロで慎重にのんびり走っているが後ろから追い越していくクルマもなければ、前からの対向車もない。もし対向車が来たら離合は出来ない狭さだ。ところどころで離合ができるふくらみはあるが、そこまでどちらかが下がらなければならないことになる。そのふくらみに停車して野の花探索だ。

 ムスク・マロウやカンパニュラが生き生きと見事に咲いている。停車時間が多かったせいか随分と時間がかかってしまった。やがてピオーダンに着いたのはお昼をかなり過ぎていた。

 ツーリスモでイナテルの場所を確かめて、というより、あれかなと思うところにそれしかなかったのだが、先ずは昼飯である。広場のまん前のカフェテラスで簡単に豚肉のビットークで昼食。
 昼食後、ピオーダンの村を歩き回るが、急な階段道の脇を水が勢い良く流れている。黒豚の子豚かなと思うような黒犬がわき目も振らずに水を飲んでいた。そんな水際にカンパニュラが美しく群生している。


03.ピオーダン全望


04.一心に水を飲む黒犬

 ピオーダンはポルトガルには珍しく黒いスレート石で屋根が葺かれ家の壁も黒っぽい石だ。それに扉がどこも同じ鮮やかな青色に塗られ独特の雰囲気を醸しだしている。
 ぱらぱらと観光客がやってくる様だが、本当にぱらぱらだ。広場に観光客相手のスレート石で家の模型を手作りして売っている露天が2軒あるがあまり売れている様子はない。

 イナテルにチェックインして部屋に入る。部屋からもピオーダン村の全貌が見える。そしてその遥か上方に先ほど自分たちがクルマを走らせてきた道路も見える。恐ろしげなところだ。例えばガラスのコップを型に砂糖をぎっしりと詰め、それを裏返しにして砂糖の山を作る。それに箸の先で横に一本線を引いた、そんな感じの道路だ。

 屋内プールで少し泳ぐ。イナテルのビュッフェ式夕食はワイン以外は恐ろしく不味かった。

 

14 Piodão – Seia

 

 遅い朝食時間の8時半になっても朝食室は未だ開かない。我々を含め数人がホールで待たされている。それから10分が過ぎてようやく扉が開いた。「遅れてごめんなさい」の一言もない。ビジネスマンが決して泊らない宿だから誰も文句は言わない。
 ビュッフェ式朝食は夕食に比べればまあまあであったが、今回のホテルでは料金が1番高い割には最悪と言わざるを得ない。

 昨日来た道とは別の道で引き返した。イナテルのフロントで道を尋ねたが、その入り口は判りづらく、難解であったが何とかパズルを解く要領で道を見つけた。

 このあたりにはピオーダンと同じ黒いスレートの村が点在しているがピオーダンよりさらに小さい。ピオーダンの特徴は白く可愛らしい教会を黒い家々が取り囲んで山の上まで伸びていっそう特徴を作っているところだろう。
 昨日の道の三分の一程で分岐点まで来てしまった。

 ヴィデからいよいよエストレラ山国立公園内の道路になるが、以前のエストレラ山の道とは随分と雰囲気が違う。やはり停まり停まりでゆっくり進む。前回は山頂を過ぎた付近で見事なエリカの群生地に感動したが、このあたりでもピンクや白のエリカが今が盛りとたくさん咲いている。

 きょうの予定地セイアに昼前に到着。ホテルにチェックイン。表は2階なのに裏から見れば6,7階の最上階である。

 早速お昼を食べにパン博物館へ向う。博物館併設のレストランは評判のレストランだ。前菜とデザートは食べ放題のビュッフェ式でメインディッシュはその日の魚料理と肉料理の両方が付く。
 僕たちが入った時には未だ少し空席があったがすぐに満席になった。比較的広い店内だが余程人気が高いのだ。前菜もメインも昨日とは打って変わって美味しかった。そしてウエイトレスやボーイもてきぱきとして感じが良く、もっと近ければたびたび訪れたいレストランだ。


05.パン博物館併設レストラン


06.パン博物館のショップ

 ひと通りパン博物館も見学して帰りにバン切りまな板と博物館製手作りクッキーをお土産に買う。
 食事の前には小学生の団体で大勢だったパン博物館はその時間になると、レストランに比べると空いていて殆ど僕たちだけであった。博物館は観ないで食事だけに来る人が殆どなのだろう。まあ、1度観ればそれで良いところだ。ポルトガル国内の地域のパンが模型で展示されていて興味深かった。本当に地域によっていろいろとあるのだ。

 僕たちもポルトガルに来てパンの美味しさに目覚めたと言ってよいのかも知れない。日本に帰って「このパン美味しいから食べてみ」と言われても、全く違うのだ。日本のパンはどれを食べても同じ、ポルトガルのパンに慣れてしまうと日本のパンの味が判らなくなってしまう。

 昼食はゆっくりたっぷりだったので夕食は町角のカフェでビールとつまみのトレモス(ハウチワマメ)だけ。

 

15 Seia - Gouveia - Folgosinho - Linhares – Covilhã

 

 今夜のホテルだけ予約はしていない。どこまで行けるかが判らなかったので、予約はしなかったのだ。明日のホテルはスペインとの国境にあるテルマス・デ・モンフォルティーニョにとってある。そこまで行くにはグアルダかベルモンテに今夜の宿を取れば楽勝なのだが、もっと先の先日泊ったコビリャンまで行けるともっと良いと思っていた。


07.ゴウヴェイアの教会前でエコを訴えるパレード


08.フォルゴシーニョの洗濯場

 先日のコビリャンのホテルは安くて良かったのだが、ネットで調べてみると、グアルダやベルモンテにはあまり安くて良さそうなホテルは少ない。その点、コビリャンは安売り競争をしているのかも知れない。といっても旅を急いでも仕方がない。見るべきところはしっかりと見ておきたいし、野の花も見逃せない。
 この辺りにも絵になる小さな村々が点在している。ただどこも黒い石作りの家々で、僕の絵の色彩が変ってしまいそうだ。

 グアルダからは高速に乗り一気にコビリャンに着いてしまった。同じクルマでも山道を30キロで走るのと高速を120キロで飛ばすのでは勿論違うはずだ。今まで地図上の小さな文字を追っていたのが、こんなに飛ばしてしまって良いのだろうか?と思ってしまう。

 コビリャンに着いて先日のホテルに電話をしてみた。料金はネット料金にはならなかった。でも普通料金よりは少し値引きをしてくれた。

 

16 Covilhã - Idanha a velha - Monsanto - Termas de Monfortinho

 

 今回の旅の締めくくりは温泉である。アルガルヴェ地方の温泉地カルダス・デ・モンシックにはたびたび出掛けていたが、昨年通ってみると、残念ながら愛用していたレシデンシアルが閉鎖されていた。しかたなく水だけ汲んで帰ったが、非常に残念である。そのレシデンシアルの風呂に入ると肌がすべすべになりポルトガルでの温泉気分が味わえたのに。
 テルマス・デ・モンフォルティーニョも温泉として有名なところらしく一度行ってみたいとかねてから思っていた。そして手ごろなホテルをネットで予約しておいた。

 そこに行く前に何年ぶりになるだろうか?恐らく10年以上は経っているだろう。イダーニャ・ア・ヴェーリャとモンサントに寄り道をして行く。


09.イダーニャ・ア・ヴェリャの町角


10.モンサントの家

 以前に訪れた時はは寒い12月だった。
 イダーニャ・ア・ヴェーリャは大規模な発掘調査中であちこちが掘り返されていた。カフェに入ると暖炉の火がぱちぱちと爆ぜていたのを覚えている。

 モンサントでは一軒しかなかったポウサーダに大晦日に泊った。元旦の朝、窓を開けるとその晩に降った雪で風景は雪化粧に一変し印象的な出来事であった。

 今回は夏、6月の昼間の一番長い時である。イダーニャ・ア・ヴェーリャの発掘調査は未だ続いている様であったが、すっかり整備されて綺麗に生まれ変わっていた。
 村の入り口には観光バスが何台も駐車できそうな駐車場ができ、そこから鉄板の遊歩道を歩いて村に入る仕組みになっていた。でもその日は観光客は全くなく、村人は僕たちの訪問を怪訝そうに見ていた。
 古い教会の鐘楼の上にはコウノトリの家族が大きくなってしまったひな鳥に手狭そうだった。
 昔も訪れたローマ橋まで行ってみると、突然大音量のファドが聞こえてきたかと思うと、移動魚屋さんのクルマがのんびりと走ってきた。何だか日本と良く似た田舎の風景だ。

 モンサントでも入り口の駐車場にクルマを停めて歩いた。
 以前止まったポウサーダは民間のホテルに売却したらしいが、そのホテルも営業を止めている様子だった。
 遊歩道は以前より整備されていて、お城の裏側から登れる道がハイキングコースの様に出来ていて、その道を上ったが、岩山の花々が美しかった。鮮やかなピンクのシレネ(ナデシコ)の群落あり、黄色いキスティスの群落あり、可愛く矮小化したジキタリスがひっそりと花を付け、又、白いキンギョソウが岩の僅かな隙間に生育し、本当の天然のロックガーデンが見事であった。この長い道のりで真っ黒に陽焼けしてしまった。

 モンサントからペーニャ・ガルシアを横目でにらみテルマス・デ・モンフォルティーニョまでは僅かな距離である。その町自体は何だか寂れた感じを受けたが、ホテルは素晴らしく部屋も申し分なかった。早速、シャワーを浴びプールでひと泳ぎ、プールサイドで冷たいビールを飲んだ。


11.モンフォルティーニョのホテルのプール

 スペイン国境にあることもあるが、スペインからの観光客が殆どだったが、空いていた。スタッフもスペイン語訛りのポルトガル語で聞き取りづらかった。
 昼食はモンサントの麓のレストランでたっぷり食べたので夜はビールだけ。旅に出ると外食ばかりだから、量が多く、どうしても食べすぎるので夕飯を食べないことがよくある。
 プールとお風呂で肌はすべすべになっていた。やはり温泉成分があるのだろう。

 

17) Termas de Monfortinho - Idanha a Nova - Crato - Ponto de Sol – Setubal

 

きょうは帰るだけ。夜遅くに着いても一向に構わない。
 以前にはイダーニャ・ア・ヴェーリャには行っているが、イダーニャ・ア・ノヴァには行っていないから寄って行くことにした。

 テルマス・デ・モンフォルティーニョで温泉水を汲んでくるのを忘れたので、そのあたりの温泉を地図で調べると、モンテ・ダ・ぺドラという地がある。そこまで田舎道をのんびりと走ってその町の中心地に着いたので聞いてみると「今は出ていない。数年前に枯れてしまった。」と言う。この辺りも山火事が多かったので枯れてしまったのかも知れない。でも温泉の標識はそのまま残されている。

 そしてクラトのお城の下あたりで以前にもスケッチをしているが、そこで再度スケッチをしたくて寄ることにした。


12.クラトでスケッチ

セトゥーバルの我が家に戻ったのは未だようやく薄暗くなりはじめた頃だった。セトゥーバルの6月は10時になっても未だ明るい。
VIT

 

(この文は2011年7月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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  野の花を見にアレンテージョの牧場などに探索に行くと、一昨年あたりから、目がかゆくなり、鼻水とくしゃみが出る様になった。どうやら花粉症の症状だ。
 
 日本では杉の花粉が飛び散る真っ只中に居ても何ともなかったのが、ポルトガルの野の花に反応してしまった様だ。
 昨年はセトゥーバルの薬局で薬を買い求めて服用すると、ピタッと楽になったが、薬に頼るのもあまり気が進まない。今年の野の花探索はゴーグルとマスクの完全防備で行こうかなとも思っている。

 先日、花粉症対策としてバナナが有効だと聞いた。バナナには白血球を増やし、外敵に対し免疫力をつける効果があるとのことだ。どれ程効くのか半信半疑ではあるが、早速バナナを食べることにした。
 バナナなら好きな食べ物だし、安いので気軽に食べられる。別に騙されたと思っても害にはならないだろう。

 今までも毎朝のヨーグルトにりんごを混ぜていたのだが、それを聞いて以来、りんごに更にバナナを加えることにした。

 ポルトガルでバナナといえばマデイラ・バナナがある。少し小ぶりだが味は濃厚で身が固く旨い。スーパーやメルカドでは世界ブランドのチキータ・バナナなども売られているが、マデイラ・バナナはポルトガル国産として値段も少し高いが人気も高い。マデイラに行くとその中でもどこどこのバナナと言って銘柄があり、それもさすがであるが旨かった記憶がある。

 日本ではありふれたどこにでもある安いフルーツであるが、たかがバナナといって馬鹿にしてはいけない。
 セトゥーバルのメルカドではバナナだけで商売をしている店もあるくらいなのだ。だからと言って色んなバナナを取り揃えているといえばそうでもない。幾つかの房を棚に並べて、上からも少しばかりぶら下げている。よくあれで商売が成り立つものだと感心してみている。

 南米を旅行中、エクアドルやペルーでは、やはりバナナだけで商売をしている露天があちこちにあったのを思い出す。そこでは色んなバナナが売られていた。煮炊きに使う料理用で大きな緑の硬そうなのなども売られていたし、巨大な背丈ほどもある房ごとというか、枝ごと置かれていてさすが本場だと思った。
 ブラジルでは料理の添え物にバナナが盛られていたのをよく食べた。油で揚げるか茹でるかしたもので、じゃがいも代わりなのだがあまり旨いとも思わなかった。スープにも入っていた。

 インドネシアでは茹でたバナナがテーブルに置かれていて驚いたが、甘味が増して美味しいのだそうだ。でもその時は食べなかった。

 ポルトガルに来てからはもっぱらマデイラ・バナナの愛好者になったが、これを食べ始めると日本のバナナなどずわっとして食べられない。マデイラ・バナナは丸々と太って身が締まった完熟バナナだ。

 日本でも最近は完熟バナナと言ってスーパーでも売られているがあれもまあまあ旨い。
 子供の頃はバナナは今よりも高級品だった様な気がする。遠足のおやつに1本のバナナが入っていた。

 そんな子供の頃、お袋がバナナの叩き売りのさわりの部分を僕たち子供の前で披露していたのを思い出す。「このバナちゃん買ったなら~。どうの~こうの~」と言うほんのさわりだ。バナナのことをバナちゃんと言うのが子供心にも何だか可笑しかった。僕は本物のバナナの叩き売りは見たことがない。

 昔は…、昔といっても僕たちが生れる以前、戦前の話、昭和一桁台だと思うが、台湾が日本の統治時代の話。
 台湾バナナが門司港に陸揚げされていたそうで、バナナは未だ緑の内に採られ舟に載せられ、そして門司まで運ばれ日本各地へ汽車で送られて行く。
 門司で既に黄色くなってしまっているバナナはとても大阪、東京までは持たない。それを門司の地元で叩き売ってしまおうと言う物で、バナナの叩き売りが始まったらしい。
 お袋は福岡県の出身で子供の頃にはバナナの叩き売りを興味深く見ていたのだろう。お袋の姉、つまり僕のおばさんに言わせると、お袋は近所の男の子たちに混ざってゴム長を履いて泥んこになって遊びまわっていたおてんばな女の子だったそうだ。おばさんは女の子らしくおしとやかだったそうだが…。
 子供の頃のお袋が寅さんの様なバナナの叩き売りのまん前で身体を揺すって、手を叩き嬉しそうに見ている姿が僕の瞼に浮かぶようだ。
 あの頃はまったく興味はなかったが、もっとちゃんと母のバナナの叩き売りを聞いておけば良かったかなと今になって思う。

 そんな僕の子供の頃の家は前庭と後ろにも小さな庭のある大阪によくあった4軒棟割長屋の端っこの角家であった。今も実家はその場所にあるが、増築を重ねて様変わりしてしまっている。
 当時、僕もよくお使いにも行ったものだが、何かを配達してもらう時に、親父は「お店の人に必ず芭蕉の木のある家です。と言いや~」と教えたが、僕は「何丁目のバナナの木のある家です。」と言ったものだ。子供の僕には芭蕉という言葉は難しかったのだ。クラスの友達に芭蕉といっても必ず「バショーて何や」と言われたものだった。お店の人は「ああ、あの家」とすぐに判ったほど、バナナのある家は特徴的だった。前庭にバナナが密林の様に植えられていた。大きくはならなかったが時々は実も生った。ほんの5センチほどのバナナの実が生った。

 かつての名画の中にバナナを描いている絵は殆どない。ゴーガンがタヒチかマルケス島あたりで立派な赤いバナナを描いているが、その他の画家では思い当たらない。
 昔は輸送手段が限られていて熱帯から西欧先進諸国へは無理だったのだろう。その頃の画家たちはバナナを見たこともなかったのだろうと想像する。
 熱帯を空想で描いたアンリ・ルソーにもバナナらしきものが描かれているが、実物とは程遠い。そう思えばバナナの歴史は案外と浅いのだろう。
 マチスの時代になればバナナは既に珍しい物ではなかったように思うが、果物を多く描いているマチスの絵にもバナナは見当たらない。


 果物といえば季節感があるものだ。いちごなら春だろうし、スイカは夏、ぶどうやりんご、梨は秋、そしてミカンは冬。その他、びわ、桃、イチジク、サクランボ、柿とそれぞれの季節感がある。果物好きにとっては季節感を味わうのも楽しみだ。

 だがバナナに季節は残念ながらない。いつでも店頭に並んでいるし、年中価格もあまり変らない。いつでも食べられるという安直さからかかえって案外食べない。これは不幸の始まりだ。

 バナナが花粉症に有効か有効でないかは判らないが、でもメルカドに行くたびに1房のマデイラ・バナナを必ず買うということを僕の中で習慣付けても良いのかも知れない。何だかバナナ協同組合の推薦文の様になってしまった。VIT

(この文は2011年3月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 下敷きを買いたいと思って大型スーパーに出掛けた。鉛筆で字を書くときにノートの間に挟むあのセルロイドの下敷きだ。いやセルロイドなどとは大昔のはなしで今ではプラスティックなのだろう。

 大型店の文房具売り場を探してみたが見当たらない。
 ポルトガルの子供は下敷きを使わないのだろうか?鉛筆は売られているから鉛筆は使うのだろう。消しゴムも売られている。でも鉛筆よりボールペンを使うことが多くなってきているのかも知れない。ボールペンなら下敷きはあまり必要がない。勿論、文房具専門店にでも行けばあるのだろうが…。

 実は鉛筆でスケッチをするのに、このところ鉛筆の乗りが悪いと感じていた。紙質によっては鉛筆の乗りが異なる。紙はいくつも使ってみて自分にあった紙質のものをいつも購入して使っている。だから以前と同じお気に入りの紙で、しかも同じ鉛筆を使っているのに……。 

 これは湿度が関係する。

 ポルトガルの冬は雨季で湿度が高い。日本とは逆の現象だ。湿度が高いと鉛筆の乗りが悪い。乗りが悪いと余計な力を入れようとする。そうすると自分の線とは違う線が出たりもするから思うようなスケッチができない。少々大げさに聞こえるが案外と微妙な物なのである。

 スケッチをするのは乾燥している季節に限る。などとは言っておれない。描きたい時に描かなければならないのだ。時期を逃せば気は失せてしまいかねない。晴耕雨読などと呑気なことは言っておれない。

 雪景色を描くには雪の中にイーゼルを立てなければならないだろうし、雨模様を描きたいなら傘を差してまでスケッチブックを広げなければならないのだ。
 いや、安藤広重でもあるまいし、ゴッホでもない。そんな崇高なことは考えてはいない。
 只、鉛筆の乗りが悪いのを克服したいだけなのだ。スケッチブックの間に下敷きを敷けば解決できるだろうと考えただけの話なのだ。

 ところがその下敷きが見当たらない。だいたいポルトガル語の辞書を調べても下敷きに該当する単語が見つからない。

 大型スーパーの一角で1ユーロ・コーナーが特設されていた。日曜大工道具、台所雑貨、ペット用品そして文房具。もしかしたらと思ったが下敷きはなかった。

 でもMUZが良いものを見つけてきた。「これ、ええんとちゃう~」
 それはファイルブックである。A4サイズの書類をファイルできるファイルブックだが、表紙が分厚くて硬いプラスティック。この表紙を切り外せば立派な下敷きとして使えると言うのだ。
 色はピンク色しかない。表にはバービーが印刷されている。まさか僕がバービーグッズを買おうとは思わなかったがこれしかないので仕方がない。

 買って帰って表紙をカッターナイフで切り外した。表紙を外したファイルブックはそのままファイルブックとして利用できる。

 表紙をスケッチブックの下敷きとして使い始めたがこれがすこぶる具合が良い。それ程力を入れなくても鉛筆の乗りが良くなった。下敷きがあるとなしでは格段の差がある。すらすらと自分の線が引ける。お陰で乾季と同様の描き心地が得られた。

 スケッチブックの周りから少しはみ出したピンク色が最初は気になったがそのうち慣れるだろうと思っていたが…使えば使うほど、ますます気になりだした。
 描き終わって次に下敷きを移し替える時にはバービーが「ハロー」と微笑む。何だか照れくさくもある。 VIT


バービーの下敷き

 

(この文は2011年2月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

 

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 高校の美術部以来の友人で画家でもあり、ペットショップの経営者でもある男が、何でも新種の猫を作りだしたとかで話題になっている。
 それは毛のない猫で…ムケネコ(無毛猫)とも言うらしいが、毛のない猫は今までもスフィンクスという名で世界登録をされているとかで、それは少々耳が長いらしい。

 友人が作り出したのは耳が短くてそれより可愛いと言う。友人曰く。
 アポストロという名で品種登録を済ませたとか。アポストロとはポルトガル語で伝道師という意味だそうだ。
 そのアポストロに世界中から問い合わせが殺到して対応に追われ、絵を描く時間が取れないそうだ。大きい声では言えませんが、何でも一匹180万円もの値が付いているらしい。大量生産は出来ないのにそれ以上の注文だからその対応に忙しいとのこと。

 でもこの寒い時期に毛がないとは可哀そうに風邪を引かないのだろうか?と心配してしまう。
 まあ、この頃はペットにも服を着せたりもするから、心配はいらないのかも知れない。いっそ毛皮のコートなんか着せてみればとも思う。猫の毛皮など…。
 
 一方我が家の窓から見える水道タンクの空き地の野良猫たちは自由奔放に大量生産をしている様子。いつも子猫が産まれて小さいのがうろちょろ。産まれているけれど、トータル15~6匹以上は増えない。それ以上になると巣別れをしてどこかに行ってしまうのかも知れない。拾われて行くのも少しは居る。現に我が家の周りでは猫を飼い始めた家が目立つ。

 僕も猫など動物は好きだが何も飼えない今は時折水道タンクの空き地を眺めては野良猫の動向を見て楽しんでいる。

 猫党ですか?犬党ですか?と問われれば困ってしまう。

 日本にいた時、いつも犬は飼っていたが、猫を飼ったのはストックホルムに住んだ時だけ。
 「次郎吉」という名前をつけたが可愛い猫だった。外出から帰って玄関の鍵を開けようとすると、中から「たたっ、たたっ、たたっ」と足音が聞こえてくる。そして玄関にお座りをしてつぶらな瞳で見上げ出迎えてくれる。テレビが好きでとりわけ天気予報には夢中であった。

 晴れた日には、家の中より外が好きな猫で、ベランダの手すりに登っては下ばかり眺めていた。もっと散歩をしてやれば良かったと今になって思う。

 スウェーデンでは猫にも紐をつけて散歩をする人が多かった。猫用の紐も売られていた。

 散歩というと、その近所でウサギに猫用の紐をつけて散歩をしていた黒人の大男がいた。三毛の綺麗な毛皮の大きなウサギだった。なかなか歩こうとしないので大男はいつも往生していた様だ。

 セトゥーバルで最初に不動産屋に行った時、マンションではなく平屋を紹介してくれた。その不動産屋いわく「小さな庭も付いているからウサギくらいなら飼えますよ。」と言ったのが印象的だった。何故、犬とか猫と言わなかったのか。未だに謎のままである。
 或いは当時「日本人はウサギ小屋に住んでいる。」と広く言われ続けていた。それを不動産屋も知っていて、からかったのかも知れない。などと僻(ひが)み根性も少し頭をかすめた。

 高校美術部からの友人というと「じゃりん子チエ」のはるき悦巳もいる。じゃりん子チエの中にも小鉄という擬人化された可愛いい野良猫が活躍する。

 擬人画というと「鳥獣戯画絵巻」(国宝)がある。最古の漫画とも言われ平安時代末期、鳥羽僧正の作と僕たちは習ったが、どうもそれだけではなく、もっと時代が多岐に渡っているから、複数の作者であるらしい。

 鳥獣戯画絵巻の主人公は何と言ってもウサギとカエルである。その他にサルや鹿、蛇も登場する。猫は、というとほんの端っこに通行人程度に登場する。

 猫の絵というともっと新しいところで藤田嗣治が思い浮かぶ。竹久夢二の「黒猫」もある。日本画ではよく猫が描かれている。

 シャルダンの代表作「赤エイ」の中に毛を逆立て身体を丸め牙を剥き出し観る者を威嚇する猫が描かれている。珍しいモティーフだ。
 ジェリコーの猫の絵もポーズが面白い。ジェリコーはいろんな動物を習作しているが、動物を描くことにより自身のデッサン力を確認していたのかも知れない。

 昔から貴婦人の肖像画にはよく抱かれた犬や猫が一緒に描かれている。柔らかい犬猫の毛を表現するには画家のデッサン力の見せ所だ。

 その頃はムケネコは居なかっただろうが、居たとしてもムケネコを抱いて肖像画を描かせようとは貴婦人たちも思わなかったに違いない。

 友人・ペットショップの画家は暇ができたらムケネコ・伝道師の肖像を描くのだろうか?

 そう言えば、レオナルド・ダ・ヴィンチに「白テンを抱く貴婦人」という絵がある。今まで、何気なく観ていたが、考えてみればこの絵も珍しいモティーフだ。
 今にも逃げ出しそうな白テンを抱いている貴婦人の絵。なにしろ白テンは毛皮になればミンク同様だが、生きているあいだはイタチの仲間なのだから。 VIT

 

(この文は2011年1月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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