ヴァイデンを観るために-パリ、ボーヌ、ディジョン旅日記- (上)へ

 

2010/11/11(木) 曇り時々雨 / Beaune-Dijon

 ボーヌ近代美術館は残念ながら工事のため閉鎖されていた。


20.ボーヌのオテル・ド・ヴィレの菊飾り


21.オテル・ド・ヴィレの中庭

 今回の旅で唯一予約をしていないのが、ボーヌからディジョンへの切符だけだ。列車にしてもバスにしても良いと思っていたが、バスの姿が見えなかったので列車にした。
 先日、来る時は各駅停車だったが今回は途中の駅には殆ど停まらない。たかだか30分たらずの道のり。
 ディジョンは駅前のホテルに予約を取っている。機能的なビジネスホテルだ。


22.ディジョンのホテル


 駅前のインフォメーションで「ふくろうの道案内」を購入。早速、美術館に行ってみたがあいにく祭日で休館。11月11日は第一次世界大戦の戦勝記念日だ。
 サロン・ドートンヌやル・サロンでフランスに来るとたいていこの日とぶつかる。そう言えばボーヌを発つとき胸に勲章をたくさん着けた古い軍服を着たおじさんとすれ違った。
 ディジョンを2日間取っておいて良かった。
 「ふくろうの道案内」とは各国語で作られたディジョンの観光冊子で日本語版もある。道にも同じ番号、矢印のプレートが埋め込まれそれに従って歩けば、主たるポイントを見逃すことはない。それに従って歩くが雨で傘が手放せず思うように写真が撮れない。
 でもかつての一眼レフに比べれば片手でも写真が撮れるデジカメは素晴らしい。
 途中のマルシェはかなり大規模でブルーの鉄枠とガラスのアールヌーボー建築が美しい。
 昼食はマルシェ前のブラッセリ。今日の定食には前菜に牡蠣が6個付ずついている。それと羊のステーキ。


23.牡蠣を半分食べてしまってから撮影


24.ディジョンのマスタード


25.ポワソン料理


26.羊のステーキ

 

2010/11/12(金) 曇り時々雨 /Dijon

 

 昨日は休館だったディジョン美術館へ。
 ここにもヴァイデンの「天使」と「聖マリア」「聖人の肖像画」の小さいが素晴らしい作品があった。


27.ヴァイデンの作品


28.ヴァイデン作の聖人肖像画


 本当にヴァイデンの駄作というのは観たことがない。
 それにロレンツオ・ロットの秀作。イコンの数々。
 ルーブルに移されたといえやはりかつてのブルゴーニュ公国。良い作品がまだまだ残されている。
 1階の古いものから順次2階、3階へと観ていくうちに未だ11時半だというのに追い出されてしまった。昼休みだ。逆に1階2階は昼休みなしで、それなら3階から観れば良かったのに…。
 朝食はたっぷり食べるのであまりお腹が空かない。
 もう一軒のマニン美術館も昼休み。
 美術館カタログを先に買って一先ずホテルに置きに帰ることにし、一休みしてから遅めの昼食を摂る事にした。
 MUZは「寒いし風邪気味なので温かいシュクルートが食べたい」などと言っている。
 マルシェの周りにはたくさんのブラッセリ・レストランがある。
 表の黒板に今日のメニューが書かれている。昨日入ったブラッセリの今日のメニューは何とMUZが食べたいと言っているシュクルートである。
 でも昨日と同じブラッセリではどうも…。と思う。
 ずっと見て歩くと、ここディジョンの郷土料理「コック・オ・バン」(鶏の煮込み)をメニューに出しているところがあったので迷わずそこに入った。コック・オ・バンならシュクルート以上に温かいに違いない。

 若者や中高年のお客で一杯で流行っている店である。前のお客が出たところを片付けてもらってようやく座った。
 これは期待できる。と思ったのも束の間。「コック・オ・バン」は売り切れ。「ステーキかチーズ・バーガーなら出来ます。」とのことだったが後ろ髪を引かれる思いで出た。
 ウエイトレスは「ごめんなさいね~」と愛想が良い。フランスはパリから離れると感じの良い人が多い。あまりぐずぐずしても昼食を逃してしまう。

29.マルシェ前のブラッセリ

 仕方がないので昨日と同じブラッセリに飛び込んだ。通された席は昨日の隣。大急ぎでシュクルートを注文して…気が付くとお隣から日本語が聞こえてくる。NISSANのパリ駐在員の方で連休を利用してご夫婦でドライブ旅行とのことであった。少しの時間であったが会話も弾み楽しいひと時を過す事ができた。
  早速、パリからポルトガルまでメールも頂いた。

 ここではシュクルートの写真を撮り忘れてしまった。シュクルートは今までもたびたび食べています。
 MUZのエッセイ「アルザス・ロレーヌ旅の味」の下の方、ストラスブールのところにシュクルートについての写真と文を載せていますので良かったらご覧下さい。
 午後からは美術館の3階の残り。ミレー、テオドール・ルソー、クールベ、ドラクロワ、ジェリコーなど観るものが多い。それに珍しくモンチセリの作品が3点あった。ルオーの作品も良かったが、ヴィエラ・ダ・シルバの大作を含め多くの作品が展示されていた。ヴィエラ・ダ・シルバはポルトガル人画家だがポルトガルでもこれ程多くの作品をまとめて観たことがない。と言うよりフランスの地方美術館ではどこででも観るがポルトガルではほんの少ししか観ることが出来ないのが現状だ。
 ピカソや藤田嗣治などと同時代パリで活躍した女流画家でポルトガルでも人気が高い。
 藤田嗣治作品の多くが戦後の高度成長期に日本人愛好家にフランスから買い漁られたのとは違い、
 ポルトガル人愛好家はヴィエラ・ダ・シルバをフランスから買い漁ることは未だ出来ないでいるのかも知れない。


30.ヴィエラ・ダ・シルバの大作


31.モンチセリの作品


 古いブルゴーニュ時代の作品のみならず新しい近代の作品にも地方の美術館には見逃せないものが多くある。
 マニン美術館にはペーテル・ブリューゲルの秀作があった。
 只、宮殿の調度品などと一緒に絵画も展示されていて、2段掛け、3段掛けでキャプションはなく絵画だけ観るには少々観にくかった。でもここでも膨大なコレクションである。

 

2010/11/13(土) 曇り時々雨 /Dijon-Paris


 ディジョンからパリへのTGVからの車窓風景はうっとりするほど美しい。
 紅葉はもう過ぎていたが、空は明るい灰色で全てをパステルカラーに調合して牧場や畑の様々な緑はそのまま抽象絵画になってしまいそうだ。
 パリのホテルは先日と同じ、本来なら4人まで泊れる部屋だがその部屋を用意してくれた。バスタブはあるし広々とした屋根裏部屋である。
 この日もパリの美術館を予定していたが、少々疲れたので止めにした。
 又もやベルビルまで北京ダックラーメンを食べに行くことにした。雨模様で寒いしで温かいラーメンに触手が動く。リヨン駅からメトロで比較的簡単に行ける。


32.パリ・リヨン駅


33.ベルビルの北京ダックラーメン


 サンミッシェルに泊ればバスの便が良く殆どメトロは使わないで済んでいたが、リヨン駅からはバスが使いづらくメトロとRERばかりになってしまう。
 ラーメンで腹ごしらえしてサロン・ドートンヌへ。
 入場した時には詩の朗読が行われていたが、帰ろうと思う時にピアノコンサートが始まった。
 弦を直接引っかくなどの前衛的なピアノ演奏だったが面白かった。


34.真ん中の赤いのが僕の出品作


35.ドートンヌ会場でのピアノコンサート

 

2010/11/14(日) 曇り時々雨のち晴れ /Paris-Lisbon-Setubal


 植物園を予定していたが雨なので諦め、ゆっくり朝食を済ませ帰るだけ。
 RERの切符売り場には長い行列。自動販売機で買おうとも思ったが、列に並んだ。でもRERの空港行きの切符くらいは自動販売機で買える様にしておかないと…。以前にはカルネ(回数券)を買った経験はあるのだから。

 今回の旅では当初懸念していたストライキの影響が全くなくて良かった。
 リスボン行きのイージージェットは満席だった。通路を挟んで2人の席は別れた。
 でもその方が真ん中の狭苦しいのよりかえって開放感がありトイレにも立ちやすいし悪くはない。
 リスボンに着いて久しぶりに太陽を見た気がした。上着を1枚脱いだだけでは汗が収まらなかった程だ。


-Epilogue-

 

 ポルトガルに戻ってからの天気は連日晴である。
 僕たちがフランスを去ったその日から1週間のフランスの天気予報も晴れである。それが恨めしくもある。
 今までは予報で目的の日が雨でも当日になれば晴れることが多かった。そんな訳で我々は「晴れ男・晴れ女」を自負してきた。それが今回のフランス旅行でみごとに崩れ去った。
 雨と言っても僕たちはぽつりと降り始めるとすぐに傘を広げたが、フランス人や観光客などの半数ほどは傘をささず、それでも道行くことができる程の小雨ばかりであった。
 薬局の景品で貰った雨傘とシェルブールのスーパーで買った折りたたみ雨傘がこれ程役に立った旅もない。
 行列や工事中そして雨で予定の3分の2程しかこなせなかった旅となったかも知れない。
 旅人にとって雨よりも晴れるほうがありがたいに違いないが、雨に洗われた木々の緑と石畳の鮮やかさを愛でることが出来た旅にもなった。
VIT

 

(この文は2010年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

武本比登志のエッセイもくじへ

 

 

-Prologue-

 

 サロン・ドートンヌの搬入日が11月8日。それに合わせてのパリ行き。
 今までは画家誰かの足跡を辿る、というテーマの旅が多かった。そして少しずつ新しい、現代に近い画家が望ましいのではと思っている。
 一昨年はルオー、昨年はアンドレ・ドランだったから次はアンドレ・ドランと同時代のマルケかそれともデュフィか。
 でも日程のこともあるし、マルケならボルドーが外せないだろうし、デュフィなら又、コート・ダジュールか?
 距離と言うこともある。パリからあまり遠くへ離れるのも経済的な負担にも繋がる。
 いずれは企画をしたいと思っているが、クールベやドラクロワは時代が遡るので今回は「ちょっと」と避けたい。
 画家とは関係なく、フランスの地図を広げてみて1~2時間で行くことの出来る範囲。
 かつてのブルゴーニュ公国の首都、ディジョンが浮かび上がった。そしてもう一箇所ディジョンの南ボーヌという町である。ディジョンの北東にクールベゆかりのオルナンがあるがあえて避けた。
 ディジョンへは1974年頃行った記憶はあるのだがあまりの年月の隔たりに初めて訪れるのと同じだ。
 結局、今回はパリ3泊、ボーヌ2泊、ディジョン2泊、パリ1泊、全部で8泊の例年より1泊長い旅となった。
 かなり早いうちから全ての予約をネットで取っておいた。イージージェットの往復航空券。TGV。パリ、ボーヌ、ディジョンのホテル。予約をしてしまってからボーヌに重要な絵があることが判った。

 

2010/11/06(土) 晴れのち雨 / Setubal - Lisbon - Paris

 

 自宅を始発から一つ、1時間遅い6時発のバスで出発。リスボン空港であまり時間をもてあますこともなく、丁度良かった。
 パリに着くとやはり予報通り雨だった。
 サロン・ドートンに出品の100号の作品を預けムッシュ・Mのクルマでホテル近くまで送っていただく。
 今回はネットで見つけた初めてのホテルでディジョン方面に行くには都合の良いパリ・リヨン駅からすぐのところだ。
 今まで使っていたサンミッシェルより少し安いので不安だったが想像以上に良かった。良かったので [Booking.com] の口コミ評価で僕は10点満点を付けてしまった。
 グラン・パレで大規模な「モネ展」が開かれていると言うことは前もってインターネットで調べていたし、パリ在住の画家溝口典子さんから「モネ展は評判が良いですよ」というメールも頂いていたので、これは是非観なくてはと予定に入れていた。早速、メトロでモネ展が催されているグラン・パレへ。
 でも雨の中長い行列。しかも少しも前へ進まない。
 諦めることにした。いくら大規模とは言えモネはこれまでいやと言うほど観ている。いや「いや」、と言うことはないが、相当観ている。
 当初はモネを今年のテーマ…とも考えてみた。
 モネゆかりのジベルニーとルーアンやノルマンディ地方へは数年前も訪れているし、オランジュリーとマルモッタン美術館へもつい最近も訪れているので足跡を訪ねる旅は済んだも同然ではないだろうか?でも体系的に纏めることまではしていない。
 再びメトロで IKUO さんの店へ。ちょうど IKUO さんも居られたし、KEIKO さんもお元気そうな様子でゆっくり話すことも出来て良かった。

 

2010/11/07(日) 曇り時々雨 / Paris


 朝食を早くに済ませ歩いて1駅のバスティーユの朝市に出掛けた。ホテルからサン・マルタン運河がセーヌに注ぎ込んでいるところから運河沿いに歩く。
 寒いけれど雨にも降られず気持ちの良い朝の散歩だ。
 サクランボほどの小さな真っ赤な姫りんごだろうか?見上げる木にたくさん鈴なりに生っている。紅葉の残りと菊の植栽が美しい。
 フランスの朝市は見ているだけでも楽しい。場所によっても少しずつ個性があり見飽きることはない。
 きょうはパリの美術館は殆どが無料だ。
 バスティーユの朝市が途切れたところにメトロの入り口があった。メトロとRERを乗り継ぎオルセーに行った。
 ここでも行列があるかも知れないとも思ったが、それ程でもなかったし、どんどん進んでいる。
 上がっていた雨が少し降り始めたと思ったらすぐに傘売りが数人何処からともなく出現したがだれも買う人はいない。
 陳列の様子が様変わりしていた。上階は工事で閉鎖され、下の階に主だった絵が陳列され、作品数はかなり少なく、しかもぎっしりと陳列されていたからか?撮影は禁止になっていた。
 一角でジェロームの特別展が行われていた。Jean-Leon Gerome [1824-1904] は新古典派の画家で彫刻家でもある。当時台頭してきた印象派と対峙したサロン(官展)の大御所である。コルモンやカバネルなどと共にたびたび近代美術史に名前を馳せる人物で、印象派や後期印象派など当時の革新派、ゴッホやロートレックなどからすれば悪名高き?と言うことになる。
 でもデッサン力は勿論のこと色彩の冴えハイライトの使い方などさすがと言わざるを得ない。
 昼食はオルセーのカフェテラスで。と思っていたがここでも長い行列。諦めざるを得ない。
 小雨の中歩いてルーブルに。ルーブルには長い行列が出来ていた。入り口の整列枠をはみ出してガラスのピラミッドをすっぽり1周取り巻き更に裏側のルーブル・リボリ方向へと列は延びていた。


01.雨の中ルーブルは長い行列

 ルーブルでこれ程の行列を見たことがない。しかもあまり進んでいない。ここでも諦めることにした。
 ルーブル・リボリ駅からメトロでベルビルまで行き北京ダックラーメンで遅い昼食。ベルビルは昼食、夕食以外の時間帯でも食べられるから便利だ。
 午後からはポンピドーセンターにした。行列は全くなかった。
 ここもいつ来ても陳列替えがあり実験的な面白い構図のアンドレ・ドランやピカソ、ブラック、レジェなど新たな作品もたくさん観ることができた。


2010/11/08(月) 曇り時々雨 /Paris

 

 ホテルからバスティーユまで歩き更に一駅ほど歩くとピカソ美術館だ。
 バスティーユの朝市が今日もやっているかなと期待して歩いたがやっていない。この日の午前中は久しぶりにピカソ美術館を予定していた。前まで行ってみると閉まっていた。閉ざされた門には張り紙があり、2012年春まで工事で閉鎖とのこと。
 インターネットで何でも調べることの出来る時代。これは迂闊であった。
 途中カフェに立ち寄りながらルーブルまでゆっくり歩くことにした。
 昨日は長い行列で諦めたルーブルだったが、きょうは少しの行列で殆ど待たずに入ることができた。
 外は雨模様だし、ルーブルで丸1日過ごすのも悪くない。
 ルーブルに入ってもテーマを持って観る事が最近は多いが、今日は別にテーマはない。まあ、しいて言えば絵画を中心にというところか。
 シャルダンなどは今までに観たことのない作品が多く展示されていた。
 何人もの画家が模写をしているが観光客が多くて落ち着いて描くことが出来ないのではないだろうか。年々、パリの美術館の観客が多くなっている様な気がする。


02.ルーブルで模写をする人


03.ルーブルのルーベンスの部屋

 ドラクロワ、ジェリコー、クールベなど古い画家と現代の変なプリズム的な写真とを対比させた奇妙な企画の展示スペースがあった。昨年アングル美術館で観た企画と共通する様なもので、贅沢な企画だが、観ていてあまり良い気持ちはしない。昔の画家を冒涜している様にも見える。
 現代の学芸員の資質を疑ってしまう。そう思っているのは僕だけだろうか?
 久しぶりにモナリザとミロのビーナスも観たがモナリザなど以前とは陳列も変わってえらい人だかりに面食らってしまった。あれではジョコンダさんも赤面してしまわれる。

 

2010/11/09(火) 曇り時々雨/ Paris-Beaune
 

 雨ばかりで仕方がない。朝は市立近代美術館で過すことにした。美術館前にはまたしても長い行列。
 とりあえず一番後ろに並び、前の人に聞いてみると特別展の行列だとのこと。一番前の整理係りの人に更に聞いてみると、常設展の入り口は別だとのことでそちらに行ってみると、ガラ空き。

 今年の夏ごろだったか?この美術館からモディリアニなどの作品が数点盗難にあったことはニュースで大きく取り上げられた。さぞセキュリティは厳重だろうな。とは思っていたが、空港よりもオルセーよりも至って簡単で、上着を脱ごうとすると「そのまま通って」と言われた程であった。
 ここでも特別展のため、会場は縮小されていたが、今まで観たことのないルオー、スーティン、モディリアニなどがあって良かった。
 例によってデュフィの大壁画を観る。これを観るだけでも毎年この美術館へは訪れる値打ちがある。


04.デュフィの大壁画「エレクトリックシティ」一部


05.大壁画の一部 (おおよそ 1/100 か?)
 地階の会場でガザの写真展が行われていた。Kai Wiedenhöterというドイツ人フォトジャーナリストの個展で、目を背けたくなる様な場面も多く写真の訴える力に凄みを感じた。そして構図が一貫していて個性を感じると共にパネル1枚1枚の芸術性が非常に高い。

 

06.


07.ガザの写真展

 午後のTGVでボーヌへ。ディジョンでTGVからローカル線に乗り換え。リヨン近くで事故があったらしくディジョンからの電車にダイヤの乱れ。30分遅れでボーヌに着き、道行く人に尋ねながらホテルに到着。
 ホテルは元修道院の一部と言うだけあって雰囲気は良くしかも現代風にリメイクされていて快適。


08.ボーヌのホテル


09.ホテルの寝室

 

2010/11/10(水) 曇り時々雨 / Beaune

 ビュッフェ式の朝食もグレードが高くて全てが美味しかった。ボーヌ名物のジャンボン・ペルシェなどもあり、試食できて良かった。そしてたっぷり食べ過ぎてしまった。
 早速、オテル・デューへ。入り口前のマルシェには小さな朝市が出ていた。


10.オテル・デュー中庭

 オテル・デユーとは「神の館」という意味だ。あでやかな屋根をもつこの病院は1443年、ブルゴーニュ公の大法官であったニコラ・ロランと彼の妻によって建てられた。今も15世紀当時の病棟がそのまま残されており、当時の教会や第二次世界大戦中も使われた病室、厨房、調剤室などを見学することができる。またこの病院が所有していたブドウ畑は当初1300ヘクタールもあったが現在58ヘクタールと縮小されてしまったとか。それでもグラン・クリュ(特級)のワインとして人気は高く、売り上げは建物の修復などに使われている。見逃せないのは、サン・ルイの間にあるロジェ・ヴァイデン作「最後の審判」の装飾屏風。-後略-(地球の歩き方「フランス」ダイヤモンド社より)
 ということでこの ロジェ・ヴァイデン Rogier van der Weyden [1399/1400-1464] の絵を観ることを今回の旅のメインテーマとした。
 ロジェ・ヴァイデンの作品はリスボンのグルベンキャン美術館にも小さいのが2点ある。
 以前にカーンの美術館で聖母子像を観て感激もした。
 今までに観たどの作品も素晴らしいものばかりで最も好きな画家の一人だ。特にヴァイデンの小品、肖像画には絶大な魅力を感じている。
 レオナルド・ダ・ヴィンチより更に53年古く、今、人気の高いフェルメールより233年も昔の画家だ。
 3人の画家に共通して言えることは描く人物(神)に崇高な気品が漂っていることではないだろうか。
 当初、古いからと敬遠したクールベやドラクロワどころではない、クールベより420年も、遥かに古い画家が今回の旅のテーマとなってしまった。ここまで古いと「まあ、ええか」と納得せざるを得ない。
 暗く閉ざされたサン・ルイの間ではヴァイデンの「最後の審判」に正に神々しいばかりの照明で作品を浮かび上がらせ観るものを圧倒する。
 今までに観たヴァイデンでは最大の作品だ。(215x560cm)
 代表作はルーブルやプラド美術館にもあるがこのボーヌの祭壇画も代表作の一つだ。
 観ているのは「ボンジュール」と笑顔で挨拶を交わした監視員のお嬢さんと僕たち2人の3人だけ。パリの美術館の行列、モナリザの人だかりが嘘のように感じる。

 


11.ヴァイデン作「最後の審判」中央部分。両端が1枚ずつ切れている。


12.下段左部分


13.下段右部分
 その他、タピストリもわざわざ行ってでも観る価値があると感じた素晴らしいものが数多くあった。


14.タピストリ
 ブルゴーニュ公国が繁栄した時代、この地にフラマン派の画家を招請し、たくさんの歴史的価値の高い絵画がこのブルゴーニュ地方で生れた。その多くはその後ルーブル美術館などに移されたが、少しはこの地に残されている。
 ホテル近くのブラッセリでブルゴーニュワインと共に遅い昼食。


15.ポワソンのテリーヌ


16.ミートボールのミートソースパスタ


17.ショコラタルト

 午後からはワイン博物館を見学。ブルゴーニュ地方といえばブルゴーニュワインとしても名高い。11月の第3週にはここボーヌでブルゴーニュ最大のワイン祭りが催され世界各地からバイヤーや観光客が集まるとのこと。我々にとってはそれと重ならなくてかえって良かった。
 ワイン博物館の展示もやはりセンスが良く見応えがある。各部屋には説明文のプリントが各国語で配され日本語までもがあった。ワイン好きの日本人観光客も多く訪れるのだろう。昔の樽造りの様子をドキュメントした白黒映画が上映されていて面白かった。


18.ワイン博物館


19.ワイン博物館の展示

 

087. ヴァイデンを観るために -パリ・ボーヌ・ディジョン旅日記-(下)-Paris-Beaune-Dijon-へつづく。

 

(この文は2010年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

武本比登志のエッセイもくじへ

 

 

 きょう、我が家は「おでん」だそうだ。

 おでんと言えば、先日インターネットで「父子草」という日本映画を観た。木下恵介の脚本で渥美清主演の古い白黒映画だ。
 戦争が終りシベリア抑留からようやく帰還したら、すでに戦死したものとし英霊として奉られ、妻と子供は弟の家族になっていた。故郷には帰る場所もなく飯場を渡り歩くハッパ現場の土木作業員、渥美清。危険な現場だから多少賃金は高く、羽振りが良い?
 そしてガード下で屋台のおでん屋を営む女将に扮する淡路恵子。それと親の反対を押し切って故郷から出てきて東大受験を目指す浪人生。屋台のおでん屋を舞台に3人の物語。

 例の寅さんシリーズが始まる前年の作。この映画が下敷きになったのではないか?と思える心温まる泣かせる内容だった。そして立派な反戦映画だ。なかなか昔の日本映画も良いもんだ。

 僕の子供の頃はあまり家でおでんを食べた記憶がない。最近知ったのだが親父がおでんを好きではなかったのだ。ちくわやはんぺんなど練り物、それに揚げには触手が動かないのだそうだ。或いは、親父は愛媛県新居浜市出身だ。あのあたりは特にちくわやはんぺんなど練り物の旨いところだ。
 親父は「大阪の練り物なんか不味くて食えるか!」と思っているのかも知れない。そのせいだろうと思うがお袋はおでんを作らなかったのだろう。

 記憶にあるのはロールキャベツ、シチュー、グラタン、ムニエルなど洋風のものが多い。或いは又、親父は明治生まれの西洋かぶれ人間だったのかもしれない。

 友達の家に行くとよくおでんや煮つけなどの日本的な料理が多かったので、多少の違いを子供心に感じていた。誕生日に母はデコレーションケーキなども手作りしてくれていた。現代の様には材料が揃わない時代。生クリームを手に入れるのに苦労していたのを覚えている。

 子供の頃の僕にとっておでんはお祭りの縁日で買い食いするか、浜寺の水練学校の帰り、海の家で食べるのがイメージとしてあった。海で泳いだ後はかき氷やスイカなどより案外と温かいうどんやおでんが旨い。

 桑津神社の昼間の縁日で親友とゴボ天を買ったことを今でも鮮明に覚えている。
 「おっちゃんゴボ天ちょうだい」
 「アンチャン、ゴボ天今入れたばっかりや~、未だ煮えてへんわ~」
 「それでもええからちょうだい」と言って買い喰いしたヤンチャ坊主だった。
 そのゴボ天の味はいつまでも忘れられない。確かに味は浸みこんでは居なかったが、ゴボ天の油がまだ抜けていなくてゴボウにも歯ごたえが残り、子供心にそれはそれで格別旨かった。確か、おでんが一つ5円か10円の時代だ。
 その頃、大阪ではおでんのことを関東煮(カントダキ)と言って多少濃いい味付けで甘辛かった。
 1つずつ串に刺してあって、縁日でも歩きながら食べるおやつにちょうど良かった。

 僕は親父同様、絵を描くからか親父に似ているとよく言われるが、違うところも沢山ある。煙草を吸わないこと、酒に弱いこと、それに練り物が嫌いでないことなどが挙げられる。
 親父は100歳になろうとする今でもチェーンスモーカーだし、若い頃は浴びるほど呑んだ。

 最近、寒い季節になるとMUZは家でおでんをよく作る。
 ポルトガルに来て、最初の頃は何でも手作りに挑戦していたから、大量に買った鯵などをすり潰して魚団子なども作っていて、それをおでんに入れたりもした。
 最近はリスボンの中華食品に行けばおおよその材料は何でも手に入る。魚の練り物を丸めた「魚丸」それに「揚げ」これは日本の物とは少し形が違い、4センチ角のサイコロ型でおでんにはもってこいの形。そして田舎豆腐。
 それにメルカドで調達できるだいこん、じゃがいも、蕪、ゆで卵。そして日本から持参するコンニャク芋の粉末から手作りするコンニャクが入る。残念ながらゴボ天はないけれど、もう立派な?おでんである。カツオだしがよく効いた淡味のおでんだ。それに練りがらしをたっぷりつけて…。

 おでんにまつわるはなしはこれでおしまい。

 1年ほど前だったか、文章においても、人生においても信頼しているある女史から「武本さんもこの頃、昔のことを書くようになったね~。もう歳な証拠やね~。」などと言われてしまった。今回も性懲りもなく昔のことを書いてしまった。VIT

 

(この文は2010年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 まだ、ポルトガルに住み始める以前、ファロからラゴスへのバスの乗り継ぎのため、ほんの小1時間程たち寄った町がアルブフェイラであった。
 その20数年前に立ち寄って以来、近くは幾度となく通過しても決して立ち寄ることはしなかった。それはどんな旅行ガイドブックにも大きく取り上げられる、ポルトガル屈指のリゾート地だからである。リゾート地というのは僕にとって敬遠の対象語なのだ。

 僕たちの旅はその様なリゾート地とか観光地といったところは極力避けての旅が多い。行楽客などが決して行くことがない、なんでもないひっそりとした古くからの町角といったものが僕のモチーフになってきたからである。

 インターネットを始めて、そして数年前から複数のブッキング・ドット・コムなどという各国ホテル予約サイトからのメールがしょっちゅうパソコンに届く様になった。それを、暇つぶし、遊び半分に眺めていた。これが安いのだ。飛び込みで行く田舎町のペンションよりも安い。オフシーズンになれば、3星、4星のリゾートホテルが信じられないほど安くで泊ることができる。
 2年ほど前から1度試しに泊ってみるのも悪くはないかな、などと思い始めていたのだが、この程出掛けてみることにしたのだ。

1.アルブフェイラのビーチ

 9月下旬ならそれ程混雑はしないだろうし、天気も良さそうだ。
 ビーチに至近距離の3星リゾートホテルが1泊2人ビュッフェ式朝食付きで30ユーロ。それを2泊予約した。
 インターネットで地図を検索。ストリート・ビューで付近の町角を見ることもできる。
 ホテル近くにはなるほど、ネオンがけばけばしくまるで小ラスベガスの雰囲気がある。「失敗したかな」とも思ったがまあ何ごとも経験である。

 セトゥーバルの自宅から約4時間の道のり。
 ホテルにはすんなりと到着。チェックインを済ませ早速、ビーチに出てみる。ひっそりどころか大勢の人たちがパラソルの下で甲羅干し、海で泳いでいる。

 ビーチ沿いに波打ち際を歩いて町まで2キロ。
 町にはアイリッシュパブやピザ屋が目立つ。フィッシュ・アンド・チップスなどと書かれた看板さえもある。イギリス人がこれを見たら落ち着く…のであろうか?

 裏通りに雰囲気が良さそうなアデガがあったのでそこで昼食をとることにした。
 アルガルベ料理のカタプラーナとマグロの煮込み。マグロはそれほど悪くはなかったが、カタプラーナは今まで食べた中で最悪。
 お客のほとんどがイギリスからのリゾート客。英語が飛び交う。イギリス人好みにアレンジされているのであろうか?信じられないカタプラーナであった。

2.これは帰りのポルティマオンで口直しに食べた美味しいカタプラーナ

 ホテルの部屋は安いので期待はしていなかった。
 海とは反対側で古くじめっとした薄暗くかび臭い狭い部屋を覚悟していたが、想像に反して広々として、窓を開けると波が岸壁に砕け散る潮騒の音までが聞こえる程で、海を望むベランダも広く、ガーデンテーブルと2脚の椅子が置かれ、大理石の風呂もゆったり、申し分なかった。
 おまけに小さなコンロと流し台、冷蔵庫。食器棚にはひと通りの食器と鍋までも備えられていて、1~2週間の長期滞在にも便利に考えられている。

3.ビーチからホテルへ戻る道

 ホテル内には何でも揃うコンビ二もあるし、広いプールとは別に屋内プール、卓球台、ビリヤード、パターゴルフ場、子供の遊び場、テニスコートからペタンクまで、そして毎晩野外ステージでは歌謡ショーと滞在客を飽きさせない工夫が随所になされている。まさにこれがリゾートホテルなのである。
 9月下旬だからもう空いているのだろうと思っていたが、百人以上も収容できる広い朝食ホールは連日満員。やはり英語が飛び交う。

 ホテルから町までリムジン・マイクロバスが出ているのでそれで旧市街や港を散策して2日目の午前中を過す。
 午後からは1日、ホテル下のビーチでパラソルと寝椅子を借りて過ごすことにした。快晴である。隣のパラソルにはやはりイギリスからであろう、老夫婦が分厚い細かい文字の本を携えてお互いに喋りあうこともなく読書三昧であった。
 もう既に寒いのかも知れないイギリスと比べれば、水着になって、寝転がって読書三昧。僕の目からみてもここはパラダイスに思えてくる。

 寝椅子とパラソルを借りて1日、2人で10ユーロ。
 でもパラソルを借りればビーチのレストランで食事をとると2割引、飲物は半額。それで元は取ってしまう。

 このビーチのレストランが昨日の街なかのアデガよりかえって安くて美味しかった。カタプラーナなどの凝った料理はなかったけれどイワシとスズキの炭火焼は新鮮でまずまずであった。

4.ホテル下のビーチ

 夕方からは波が大きくなりとても泳げないし、危険そうなので、ホテルに戻りプールで泳ぐことにした。直径25メートルほどもある大きな不定形のプールを老人たちがゆっくりと泳いでいる。僕は北島康介の気分で、老人たちを追い越して1往復を泳いだだけなのに息が上がってしまった。

 老人たち皆がプールから上がったのを見計らってか、2人のカップルがクロールで泳ぎ始めた。ゆったりと泳いでいるが2人とも実にフォームが美しい。しかもいつまでも止めない。20往復もしたであろうか?てっきり若者か中年のカップルだと思って眺めていたのだが、上がったところを見ると、70歳くらいの老婦人であったのに驚いてしまった。男性のほうは見えなかったが…同年代であろう。多分、元水泳選手なのかも知れない。
 寒いイギリスからすれば9月下旬でも泳げる、10月のインディアン・サマーの頃にも晴天下で泳げる。これもパラダイスなのかもしれない。
 ロンドンからならリスボンを経由しなくてもファロ空港にひとっ飛び、空港から30分のアルブフェイラである。

 昔、ストックホルムで暮らしていた頃「バケーションの期間をストックホルムの自宅で過すよりカナリアあたりへリゾートに行った方が安上がりだ。」などとよく話していたのを思い出す。全くその通りなのだ。

 日本人の旅行と言えば見聞を広めるためとか…何かを会得しなければ旅をした値打ちがない。
 或いは百名山を征服する…。とか、新たなる未知の世界を巡る…とか。とにかく、目いっぱい動き回る。

 でも欧米人は違うのだろう。気に入れば毎年、同じところ同じホテルにリゾートにやってくる。それが1週間、或いは2週間。すっかりホテルマンとも顔なじみ。日本人にはとても耐えられない。退屈してしまう。

 今回のアルブフェイラ滞在はたったの2泊3日であったが僕にはそれでちょうど良い。
 しかもあわよくばカラフルな漁船と折り重なったアラブ的な陸屋根の白い町並みでも絵に出来れば…などという下心と密かな期待も持って出掛けたくらいだ。鉛筆と小さなスケッチブックを忍ばせて…。
 やはり僕も勤勉?な、日本人なのだ。でも年に1度くらいは病みつきになりそうだ。
VIT

 

(この文は2010年10月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 何でも溜めこむのが好きな性分で、ポルトガルに住み始めた当初から、呑んだあとのワインラベルも剥がしては取っておいた。それを古い電話帳の間に挟んで…。
 みるみる電話帳は何倍にも膨れ上がった。
 膨れ上がった電話帳を見るたびに、僕の心はげんなりしてしまっていた。
 それは将来の「ゴミ屋敷」が幻影として僕の瞼に浮かび上がるからだ。それなら捨てればいいものを……それが捨てきれない。

 別に何をするでもなく、コレクションをしようと思うほどでもなく。何となく取っておいたのだが、膨れ上がった電話帳を眺めながら…電話帳のページをめくりながら…溜まってしまったワインラベルを横目で見ながら…ふと、考えたのだ。スケッチのコラージュ(貼り付けること)に使えば面白い効果が出るのではないか?…と。

 そう考え実行したのは1996年、14年も前の話である。
 14年前にワインラベルをコラージュした淡彩スケッチを描いてみたのだ。24枚を描いてスクラップブックに挟んでその電話帳の下に隠しておいた。電話帳を重しにしていたのだが、実は14年間その存在をすっかり忘れていた。

 そんなに長い年月とは思わなかったが、サインに年号が書かれているから14年も経っているのに間違いはない。
 よくも紙魚(しみ)に喰われなかったものだと感心するが大丈夫な様だ。

 先日、それを見つけ出したので、その続きをやってみようとこのところ試みている。
 鉛筆スケッチにワインラベルをコラージュする。そしてその上に淡彩をほどこす。スケッチは遠景などは止して建物の壁の部分の多い絵だけを選んでいる。



 ポルトガルの壁の古さを表現するのにワインラベルのコラージュは絶好だ。…と密かに思っている。
 葡萄牙(ポルトガル)だから葡萄酒にこだわっているわけである。と書くと呑むのが余程好きそうに聞こえるかも知れないが残念なことにいたって弱い。
 ワインラベルはモダンなデザインよりもオーソドックスなそれらしいデザインが良い。でもワインラベルにも艶のある紙などもあって、そんなのは水彩絵の具をはじいてしまうので、出来るだけ、ざらっとした艶なしのラベルだけを選んで貼っている。とにかく利用することによってひとまずゴミ屋敷の幻影からは逃れたのかも知れない…。と喜んでいる。

 高級なワインは殆どなく、ごく一般的な日常呑むワインばかりだが、買った店の親爺さんが言った言葉までも覚えていることもあるし、その香り、味も何となく覚えているものである。そしてアレンテージョの村の一角、スケッチした場面が蘇る。

 そのスケッチも結構な枚数が溜まったので、この程「コラージュ淡彩スケッチ」のページを作ってみた。自分のサイト内とはいえ発表の場があるというのは今後の励みにもなる。

 僕にとってそのスケッチは油彩を描く間のちょっとした息抜きだが、新たな境地とも言えなくもないし、14年前の心境にプレイバックした気分とも言えなくもない。
 常に過去を振り返ってみる。或いは原点に立ち返ってみるということは必要なことの様にも思える。
 展覧会に出品する油彩も僕の絵だが、こんなスケッチも僕の絵だ。
VIT

 

(この文は2010年9月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 知人から「今、グルベンキャンで、何だかどこかで観た事があるような絵ばかり描く画家の展覧会をやっていますよ」と教えて頂いた。「しかも美術館本館ではなく別館の地下の判りにくいところで」と。

 教えて頂いた次の日、日曜日に早速、グルベンキャンに出掛けた。
 久しぶりに美術館に行くのも悪くない。とちょうど思っていたところだ。
 連日、40度近くになる猛暑で家にいても暑いし、ビーチは人で溢れているだろうし、露店市も暑すぎて熱中症になっても大変。

 日曜日はリスボンの美術館はどこも無料である。しかしその別館の特別展は平日でもいつでも無料だとのことであった。


01.
 グルベンキャン美術館の敷地はリスボンの中心地にあるにも関わらず、広く、うっそうと茂った珍しい木々と池と小川などの公園になっていて、遊歩道とベンチが整備され、ところどころに彫刻などが配置され、野外音楽堂まである広大な場所である。
 休日にはリスボン市民の憩いの場ともなっていて、乳母車を押し散歩を楽しむ家族。木陰で本を読む人。芝生に寝転がり昼寝する人。お弁当を広げるカップル。


02.
 そんな中に美術館本館とは別に現代美術館の建物、そしてコンサートホールの建物などがある。グルベンキャン・シンフォニーはポルトガルでは一番権威のある交響楽団でもある。


03.
 美術館本館の受付に<Le Breton>というポスターが張ってあったので「このブルトン展はどこでやっていますか」と聞くとコンサートホールの方角を指差して「あっちです」と言うので行ってみた。
 途中の池ではカルガモの雛たちが観光客の関心を一心に集めていた。
 コンサートホールのあたりには標識や看板、ポスターなどがないので判りにくい。
 一階では別の展覧会が行われていて、その入り口に居た係りの人に聞いてみると「もう1階下です。」階段を下りるとスポットライトに照らし出された「LE BRETON」の文字があった。


04.
 あまり知らなかったが、今までもフランスの美術館で必ず観ている画家である。でも今までに買った美術館カタログを繰ってみたがあいにく出てこない。
 インターネットで調べると、英語版が出てきた。自動翻訳をし自分なりの解釈も加えてみたので、下記は間違った箇所もあるかも知れない。

ンスタント・ル・ブルトン Constant Le Breton(1895〜1985)

 コンスタント・ル・ブルトンは1895年3月11日、メーヌ・エ・ロワール県サンジェルマン・デ・プレでロワール漁師の家に生れる。ナントの美術学校に入学するが、1915年ダーダネルス海峡戦争に動員されて、学業は中断。
 休戦後パリに定住。書籍の挿絵木版画が評判になり、生活は安定する。
 その後、アンドレ・ドランとスゴンザックとの3人で友好を結ぶ。パリ独立展に出品。
 作風はコロー、シャルダン、マネ、ブーダンなどの影響を受けつつも当時台頭していたフォービズムの手法で描いたアトリエ室内風景、人物画、静物画、木立の風景、田園風景、河舟、海水浴場、パリの風景などどれも誠実で的確な描写力で評判を呼ぶ。アトリエ風景の自画像の中にフェルメールの作品写真とマチスと思われる裸婦などが一緒に描かれているのも興味深い。
 肖像画も評判になり、フランスの舞台俳優シャルル・デュラン、スウェーデン出身のハリウッドスター、イングリッド・バーグマン、イギリスのベアトリス王女など多くの有名人から制作依頼を受けた。
 フランスをはじめ米国、カナダ、イギリス、スイス、ドイツ、ギリシャなど多くの個人コレクションが残されている。
 1985年2月パリで死去。享年90歳。
 僕は昨年、アンドレ・ドランの足跡を訪ねる旅をしたばかりなのでいっそう興味のある展覧会である。多目的に使われるのであろう。こじんまりとした会場に、テーマ別に67点の作品が展示されていて、見応えのある展覧会であった。

 なるほど「シャボン玉を吹く少年」などはマネと同じ題材だ。
 でもマネの描く少年はいかにも育ちが良さそうなのに対し、ル・ブルトンの少年はワルガキ風なのが可笑しい。
 静物画の目線はシャルダンのそれとそっくりだがフォービズム風である。
 並木道の風景はコローと言うより、ピサロやシスレーの捉え方に似ている。と言うことはピサロやシスレーもコローの影響を受けていると言うことに気付く。
 海水浴風景を描くこと自体異例だが、ブーダンを意識していることは否めない。

 知人が言っていた「どこかで観た様な絵ばかり」と言うのは当っている。
 器用すぎるきらいがあるのかも知れないが、上記の誠実で的確な描写力という文言がうなずける。
 でも一口でフォーブ「野獣派」と片付けるがその河は一つではなく、幾つもの流れからなっていたのが伺われる。


05.
 帰りにはカタログも買った。なかなかまとめては観ることが出来ない興味深い展覧会であった。


06.
 昨年観た「ファンタン・ラトゥール展」といい、このル・ブルトンといい、グルベンキャンはなかなか渋い展覧会を催る。観覧者が少ないのが勿体ない。

 庭園を一回りして、ついでに現代美術館も観ることにした。
 常設展示とは別に、ポルトガルの女流現代作家、コラージュを駆使した、ポップアート的な膨大な作品群、アナ・ヴィディガウ<ANA VIDIGAL>の個展が行われていた。


07.
 ル・ブルトンに比べると大勢の観覧者がいたし、昼時はもう少し過ぎていたが、現代美術館のレストランには長い行列が出来ていた。
VIT

 

(この文は2010年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

 

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 今年は春の早いうちからポルトガルに戻って来られたので、それ幸いアレンテージョだのカーボ・エスペシェルだのトロイアだのパルメラだのとせっせと花見に出掛けた。
 その牧場風景はMUZのサイト「ポルトガルのえんとつ」先月号にフォトアルバムとして紹介されているとおり。でも写真では残念ながらその素晴らしさは半分も出ていない。

 田舎道を走っているだけでも感動もので満足なのだが、ところどころでクルマを停めて花の中に入ってみる。

 その時期はシャゼンムラサキが圧倒的に強烈で、その中にクリサンテムン(シュンギクの原種)の白と黄色。それに真っ赤なポピーやショッキングピンクのナデシコ。鮮やかなブルーのアナガリスやアンクーサ。でもそのような色鮮やかな花ばかりではない。そんな中に実に多くの種類が混生しているのに気付く。肉眼では見られないほど小さな花。葉っぱと同色緑色のトウダイグサの仲間。淡いピンクや優しい黄色のヒメキンギョソウ。そして様々なハーブの花が香ってくる。

 他の花の陰に埋もれるようにして1センチほどと小さくて清楚なブルーの花がひそっと咲いている。以前から時々見ていて、写真にも撮っている花だ。群生しているのではなく、ところどころにぽつりと咲いているのだが、何となく気になる花であった。



 家に帰ってインターネットで調べてみた。名前が判らないから花あわせで調べる。
 そうすれば学名はリヌム・ビエンヌ、亜麻科の1年草。なんと通名<リネン>だと判った。リネンとはリンネル亜麻である。
 こんな清楚な花からあのリンネルの繊維が取れるのである。正確には、花ではなく茎からであるが…。

 太古の昔から世界中で使われてきた繊維であるが、ポルトガルでも古くからリネンは貴重に使われてきたのがわかる。

 先日ある地域のお祭りでリネンを布にしてゆく工程が示されていた興味深い場面があった。乾燥したリネンの束を叩きつけて柔らかくする人。糸巻きで紡いで糸にする人。機織(はたおり)機で織る人。ポルトガルでは欠かせない繊維らしい。

 衣服は勿論のこと、下着、シーツやベッドカバー、ハンカチ、台所の布巾。パンを包む布。
 パンを作るのには欠かせない小麦を引くための風車の帆。それに大航海時代を支えた帆船の帆やロープ。それまでは帆船の帆は綿等であったのが、水にも強く腐りにくいリネンを使うことによって、航海距離は格段に延びた。大航海時代の後は、綿の品質も上がり再び綿が使われる様になったとのことだが…。

 油彩を描くキャンバスは基本的には亜麻地である。コットンのものもあるが、僕は亜麻しか使わない。

 又、リネンの種子をリンシードと言う。
 僕たちが昔から使っているリンシード・オイルは亜麻仁油と言い、この亜麻の実から抽出したものだ。油彩画には欠かせない溶き油なのだ。

 油彩画の溶き油としてはポピー・オイルとリンシード・オイルを使うのが一般的で、それらに松から採れるテレピン油で薄めて使う。

 ポピーはケシのことでこれも実から抽出する。
 ポピー・オイルは光沢があり乾くのに時間がかかり多少扱い難い。だが変色が少なく明るい色の溶き油として用いるがリンシードに比べると塗膜は脆い。

 リンシード・オイルはポピーに比べて乾きやすく扱い易く堅牢であるが時と共に黄変するというから濃色を中心に使用すれば良いとのことである。
 でもそんな微妙なことを考えてオイルを使い分けている画家は殆どいないのが現状ではないだろうか。
 ポピーとリンシードを混ぜてそれにテレピン油で薄める人もいる。
 ポピーやリンシードなど関係なく「油彩の溶き油」として混ぜられて売られているものもある。僕は使ったことはないが…。

 チューブに入った油絵の具は既にその様な使い分けがなされているらしい。
 明色や透明色はポピーで、濃色や不透明色はリンシードで練られている場合が多いらしい。だから色によって乾き易かったり乾きにくかったりするのだろう。
 そのあたりはメーカーによっても違うだろうし、或いは企業秘密な面もあるかも知れない。
 同じ色名でもメーカーによって随分違った色もあるし、乾き方もかなり違う。日本製とヨーロッパ製でも、又、かなり違う。

 そしてキャンバス地は白の顔料をリンシード・オイルで練ったもので地塗りされている。
 昔の画家は自分で地塗りをしていた。それによって独自のマティエールを作り出す。佐伯祐三もそうだった。
 僕も絵を描き始めのころ、本町の生地問屋で亜麻地を買ってきて、フランス製で粉末の<カゼ・アルテ>と言うのを画材店で買って、練って地塗りしたこともある。安上がりに出来たのだ。

 何れにしろ僕は油彩画を何十年も描いてきて、この歳になって初めてリンシード・オイルの原料であるリネンの花を…。キャンバス地になるリネンの花を…。偶然に発見することができて感動したこの春の出来事であった。

 僕が見た上記写真は天然のリネンの花だが、勿論、栽培され商業生産されているのは品種改良種の筈でその違いはあろうと思う。

 来春はちょうど下記個展のため帰国中で無理かも知れないが、再来年にはまたひそっと咲くリネンの花に出会えるのを楽しみにしたいと思う。
VIT

 

(この文は2010年7月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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 今、宮崎県では口蹄疫で大騒ぎの様子。
 数年前、僕たちが宮崎に滞在中にも口蹄疫で宮崎空港の入り口マットに消毒液が浸され、じゅくじゅくしていて、それを跨いで3階のギャラリーに通っていたのが思い出される。
 今回はその時どころではない。せっかく新たな宮崎名物になった<肉巻きおにぎり>もどこかへ吹っ飛んでしまったのではないだろうか。

 昨年は世界中で新型インフルエンザ。
 その前にもノロウイルスや鯉ヘルペス、豚コレラ、狂牛病などなどこのところ変なウイルス騒ぎが多い。お陰でポルトガルの我が家では牛肉はすっかり食べなくなったし、刺身や寿司など生魚を食べる回数がめっきり減った。パリに行っても生牡蠣は控える様になった。ウイルスだけではなく残留農薬問題、偽装表示などと食に関する心配は尽きない。

 数年前、カミュ全集を読破したのだが、その中に当然代表作「ペスト」も含まれていて、その小説の壮絶さに衝撃を受けたこともあってか、昨年の新型インフルエンザの時には、小説「ペスト」がオーバーラップして人一倍、用心深くなったのかも知れない。
 特に海外に住んでいると<自分の身は自分で守るしかない>という意識が強い。

 ウイルスが蔓延している半年間は一切外出をしなくても持ちこたえる食料などを備蓄することにした。これは常日頃必要不可欠なことの様にも思える。

 先ずは米。これは常に以前からある程度の買いだめはあった。勿論、水も5リッタータンクに15~6杯。それにスパゲッティ。インスタントラーメン。水道や電気、ガスなどが止まっても食べられる、クラッカーやビスケットも蓋付きの発泡スティロールにぎっしりと満杯。
 徐々に買い足したので、使う順番を間違えないようにマジックインクで日付を入れておいた。
 オイルサージンとツナの缶詰。それに桃の缶詰。これは体力が衰えた時、元気を回復するのに有効らしい。

 どうやら新型インフルエンザもカミュの「ペスト」程にはならなくて良かった。

 備蓄食料は順繰り少しずつ消化しなければならない。
 米は、やはりだいぶ味が落ちているが何とか食欲はあるのでそれをいま美味しく頂いている。5袋(2,5キロ)のスパゲッティの内、2袋のスパゲッティには穀虫が付いてしまった。虫を払い落として瓶に詰め替えたが、味に問題はない。
 大量のビスケットやクラッカーは少しずつ毎朝の朝食にしているのだがこれも味に問題はない。
 でもせっかくパンの美味しいセトゥーバルに住んでいるのだから、焼きたてのパンも食べたい。ビスケットとクラッカーの消費はほんの少しずつ徐々にである。

 思えばビスケットなどは久しぶりに食べている。
 僕が子供の頃、生まれ育った家から直線距離にして2~300メートルのところにビスケット工場があった。今川の漆堤まで歩いて川下に3ブロックほど行くとその角にビスケット工場があった。

 その前を通るとミルクと粉の混ざった甘い香りがいつも漂っていた。
 小学校からも課外授業として見学に行ったこともある。型に抜かれた生のビスケットがベルトコンベアを流れていくに従って美味しそうなビスケット色に焼かれていく。工場にはあまり人は居なくて全くのオートメーションの清潔な工場であった。

 中国人の経営で小学校の1学年上級生にその工場の1人娘が居た。美人で背がすらりと高くいかにも金持ちの娘らしくお上品な物腰で僕には近寄りがたい存在であった。
 その工場のあたりは僕の遊びのテリトリーでもあった。ある日、一人で今川沿いを歩いていると工場の入り口の前にその娘が一人で居て、ブドウの実に手をのばそうとしているところであった。工場の入り口にぶどう棚が作られていてちょうど美味しそうに色づいていた。僕がそこに通りかかったのだ。娘は僕を見て「このブドウ食べられるかしら」と僕にむかって言った。
 今まで話したこともない女子の上級生から話しかけられた僕は戸惑ってしまって、どう応えたのか。何かを言ったのか。何も言わなかったのか、忘れてしまったが、そんな思い出だけが鮮明に残っている。

 子供の頃、雷は全く怖くはなかった。
 父は「うちはビスケット工場の避雷針に守られてるから大丈夫や」と言っていたからだ。ビスケット工場には煉瓦造りの高い煙突が聳えていてそのてっぺんに避雷針があった。

 <てなもんや三度笠>の頃だったと思う。「あたり前田のクラッカー」が流行りだした頃、そのビスケット工場はクラッカー工場に変身した。クラッカーの少し欠けたアウトレット品などが近所の人は安く買えた。

 その後、日清のチキンラーメンが流行りだすとラーメン工場へと変った。同級生の母親たちが大勢パートタイム従業員として働きだした。やはり欠けたインスタント麺が安く買えた。

 そしていつの間にか工場は跡かたなく姿を消し、今は小さく分譲され住宅になっていて当時の面影はない。

 今、ポルトガルで食べているビスケットもクラッカーも当時のままの昔懐かしい味がする。

 ポルトガルの人たちはティラミスの材料として使うことも多いのだろう。32枚入りが4本入ったのが1パック。かなりの量である。一番安価で基本的な素朴な丸いビスケット。
 そういったビスケットにはメーカーが違っても何故か必ず<MARIA>と書かれている。MARIAと刻印された回りには歯車の様な模様が施されている。
 ポルトガルではマリア[MARIA]。そしてフランスではマリー[MARIE]。

 マリー・アントワネットはヴェルサイユ宮殿で女官たちにビスケットを作らせたとか。

 その歯車の様な模様は何でもマリー・アントワネットのハプスブルク家の紋章だそうだ。フランス名、マリー・アントワネットのハプスブルク家での名前はマリア・アントーニアと言った。

 マリー・アントワネットの有名な言葉「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない!」"Qu'ils mangent de la brioche."

 いかにも貴族育ちの世間知らずで高慢な感じがしないでもない、がそうではない。
 食糧難の時代。当時パンにならない質の悪い小麦粉がたくさん採れた。それを何とか食料にするために卵やミルク、砂糖それに時にはドライ・フルーツなどを加えお菓子にしたと言う。それがブリオッシュなのだ。

 お菓子と訳されているがフランス語のブリオッシュ。それはビスケットではなく、ポルトガルのボーロ・デ・レイの様な物なのかも知れないが。

 マリア・アントーニアのビスケット。MUZは「美味しくない」と言うが、僕にとっては申し分のない味がする。

VIT

 

(この文は2010年6月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

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 毎年桜の時期に合せたかのように日本での個展があります。
 昨年は岡山で滞在したホテルの前の西川沿い図書館公園の枝垂桜が部屋の窓から眺めることができましたし、横浜でも運河沿いの桜並木を通って高島屋まで通いました。

 でも今年ほど日本の桜を満喫した年はいまだかつてなかった様にも思います。


01.
 宮崎空港ギャラリーでの個展が1ヶ月早い3月にあったこともあるし、その前に高校美術部OB展NACK展が40周年を迎えたのですが、それが1月下旬に展覧会があって、それに会わせての例年より随分早い1月中旬の帰国でした。

 40回NACK展も終えて宮崎に入ったのが2月初旬。あちこちの庭先では梅がまさしく満開でありました。高岡「月知梅」の花見に行ったのが2月21日。


02.「月知梅」の梅。
 個展が始まる前、霧島神宮の温泉地に向う途中、山之口あたりでの山桜もちらほら花を咲かせ始めていました。
 個展が始まってすぐの3月3日。堀切峠の山桜が見事に満開を迎えたのを義妹の運転するクルマで出掛けました。


03.「堀切峠」の山桜。
 宮崎空港ギャラリーでの個展が始まってからも、温かくなったり、異常に寒かったりでソメイヨシノはなかなか開花しなかったのです。
 自転車で空港までの間の公園や庭先にもたくさんソメイヨシノが植えられていますが、1分、2分咲きのまま、なかなか満開にはならなかった様です。
 宮崎空港横の特攻基地記念碑脇にも20本ほどの桜が植えられていまして、それを横目で見ながら自転車を漕いでいたのですが、やはりなかなか満開にはなりませんでした。それが個展の終盤に差し掛かる頃、あちらこちらで満開を迎えたのです。

 個展が終わった翌日の3月31日、友人の能面展が西都でありました。それを観に行ったのですが、そのついでに西都原古墳群の桜祭りに出掛けました。そこの桜と菜の花のコントラストも噂に違わず実に見事なものでした。女狭穂塚の前に特設された屋台の手打ちそばと草饅頭で桜祭りの雰囲気を堪能することもできました。


04.西都原。
 4月3日、今まで見たいと思っていた、宮崎神宮の流鏑馬(やぶさめ)にも出掛けました。流鏑馬会場にも桜がたくさん植えられているのは以前から知っていましたが、その時は既に満開は過ぎていて、花吹雪がそよ風に舞い散る様は息を呑む見事なものでした。


05.宮崎神宮の「流鏑馬」
 宮崎県立美術館前の公園の桜も満開を迎えていて、家族連れなどがお弁当を広げていたのをほほえましく眺めながら美術館の企画展を鑑賞しました。


06.「宮崎文化公園」
 宮崎駅裏、科学技術館横の公園では桜の下で焼肉パーティーの若者たちでぎっしり満員でありました。そこでは桜の花よりも焼肉の匂いが勝ち誇っていましたが、それも日本的で良いもんだと思いましたが、あのブルーシートは興ざめで、何とかならないものか?と思いました。せめて昔ながらのゴザ(畳表)を使うとか。芝生色のシートを売り出すとか…。

 大阪に向った飛行機から見下ろす大阪城公園の桜もランダムで見事でありました。
 大阪の実家の近くには今川という大和川からの支流が流れています。
 僕の子供の頃はメタンガスが噴出すドブ川でありましたが、最近は少し水も綺麗になっている様で、暇人たちが釣り糸を垂らしています。
 万葉の時代にはカイツブリが生息する美しい川だった様で万葉歌にも唄われている川なのです。
 その中洲は漆堤(うるしづつみ)という公園に整備されていて区民の憩いの場になっています。今、漆はありませんが、その代りたくさんの桜が植えられ現在では桜の名所になっている様です。
 殆どのソメイヨシノや枝垂桜は盛りを過ぎていましたが、2~3本のソメイヨシノは満開を少し過ぎたばかりで桜吹雪を惜しみなく散らして川面を桜色に染めていました。
 漆堤公園の一角には八重桜ばかりが植えられたところもあり、いろんな色の八重桜がどっぷり今が盛りと満開を迎えていました。


07.漆堤の「緑の八重桜」
 そしてニュースでは今日から造幣局の通り抜けが始まります。と流れていました。
 そんな中、ポルトガルへと戻る日になりました。
 関空へ向う車窓からも未だ名残桜がちらほらと咲いていたほどです。3ヶ月弱の日本滞在、本当にこれ程長い間桜を楽しんだ年はなかったと思います。


08.
 ポルトガルには桜はないのですが、1月下旬には桜にそっくりのアーモンドの花が楽しめますし、今年はもう過ぎてしまったのですが、ベイラ地方に行けば一面のサクランボの花を見ることができます。
 もう暫くすると街中を紫色に染めるジャカランダの季節がやってきます。そしてまさしく今、アレンテージョのお花畑が満開の時を迎えています。パソコンの前はこの位にして早く郊外へ出かけなければ…。
VIT

(この文は2010年5月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

 

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078. マチスとロダンそしてドラン -パリ・トロワ旅日記-(上)-Troyes- へ

 

2009/11/13(金) 晴れ / Paris


 今回の旅でのもう一つの楽しみはロダン美術館での「マチス、ロダン2人の出会い」という企画展だ。

 アンヴァリッドまでバスで行きロダン美術館に入った。
 もしかしたら入り口で行列しているかも知れないと心配していたが全く行列はなかった。

 タイトルを見ただけで、面白い企画だと思っていたが、観てみると想像を遥かに超えて面白い企画であった。


25.ロダン美術館


26.マチスとロダンのカタログ


 マチスはドランと一緒にフォーヴをやっていたと思うと、ほぼ同時期、ロダンと一緒に彫刻も作っていたのだ。
 勿論、今までもマチスのブロンズ彫刻は数多く観ている。でも案外とロダンとは結びつかなかった。
 同じポーズのクロッキーが何枚も並べて展示されているし、同じポーズのブロンズ像がある。
 彫刻はロダンの専門だからマチスはロダンの手ほどきを受けたのかとも思ったが、それだけではない。むしろロダンもマチスに引っ張られる様なクロッキーやブロンズ像を残している。ここでもお互いに影響しあっていたのが伺える。僕には想像のつかない発見であった。

 先月、僕が書いた「モントーバン旅日記」の中に『マチスはドランと共にコリウールに滞在し、地中海の輝く太陽の下でフォーヴをやっていた同じ年、パリに戻ってアングルの「黄金世代」からヒントを得てフォーヴの実験的な絵を描いている。それはやがてマチス生涯のテーマとなった「ダンス」へと繋がっている。』と書いたが、何とロダンはそれよりも10年以上も前にその同じアングルの「黄金世代」からのダンスのスケッチを描いていた。
 会場でロダンのクロッキーを観てスケッチしている人がいた。


27.ロダン美術館展示室、絵画はゴッホ{タンギー親父」とルノワール


28.ロダンの「バルザック」とアンヴァリッド


 トロワの2日間はものすごく寒かったがパリに来てからは暖かい。
 ロダン美術館の庭にあるカフェテラスで昼食。屋外のマロニエ並木の下なのに全く寒くはない。スープが旨かった。

 常設会場もひと通りじっくりと観た。
 思えばロダン美術館に来たのは実に久しぶりだ。パリには行きたい美術館が多すぎて毎年来るたびに複数の美術館を訪れるがロダン美術館はすぐ側を通ってもなかなか入らなかった。
 全集のバルザックを2年間もかかって先日読み終えたばかりなので、ロダンのバルザック像の前で記念撮影。

 再び82番のバスに乗り予定はしていなかったパリ市立近代美術館に昨年に引き続いて行った。ここのアンドレ・ドランをもう一度観たかったのだ。

 先月に行った「コリウールの鐘楼」の絵がここにある。
 ドランは作品傾向が様々なので展示はまとまってではなく、散り散りに掛けられている。別々の部屋であるがある程度の点数が展示されていた。


29.ドランの「コリウールの鐘楼」の前で子供たちの課外授業


30.パリ市立近代美術館カタログ

 

2009/11/14(土) 曇り時々雨 / Paris


 インターネットで検索すると、今、パリでは「マチスとロダン2人の出会い」以外にグランパレで「後期ルノワール展」と、ルーブルで「ヴェネチア絵画展」が開催されている。でも今回、その2つは観ないことにした。

 朝からモンパルナスに行き、露天のマルシェ(市場)を見る。
 フランスのマルシェは飾りつけが素晴らしくて見ているだけで楽しい。
 八百屋でゴボウを見つけた。ポルトガルでは見たことがない。

 このゴボウはミレーを多く所蔵するシェルブールのトマ・アンリ美術館で展示されていたGuillaume FOUACE(1837-1895)の静物画にも描かれていて「おやっ!」と思ったことがある。だから昔からあったのだろう。

 フランス人はゴボウをどのようにして食べるのだろうか?
 以前にもリヨンのマルシェで同じものを見つけたが旅の前半で買えなかった。今回は明日ポルトガルに戻る。絶好のチャンス。1束が1キロ、8本ほどが縛られて5ユーロ。それを買ってしまった。


31.ゴボウもどきとカボチャ


32.モンパルナス露店市のパン屋


 昨日、ロダン美術館が良かったので、今日はブールデル美術館に入るつもりでモンパルナスに来たのだ。
 ブールデルはロダンの弟子というか、15年程、ロダンの下で荒彫りなどの制作にあたっていた。

 先日アングルを観にモントーバンまで行ったが、ブールデルもモントーバンの生まれで、モントーバンのアングル美術館1階第1室はブールデルの展示室になっていた。そこには「弓を引くヘラクレス」もあったし、ファサードにはブールデルの巨大なブロンズ像が建っていた。

 「弓を引くヘラクレス」を完成させた1909年頃よりブールデルはパリのグランド・シュミエールで彫刻指導も始めるが、その生徒にジャコメッティとヴィエラ・ダ・シルヴァが居た。
 フランスに於ける近代美術ではおおよその芸術家たちがどこかで繋がっているというのも興味深い。

 ゴボウを下げてブールデル美術館に入るのも気が引ける。
 モノプリがあったので折りたたみバッグでもあれば買おうと思ったが適当な物が見つからなかった。C&Aの袋を提げた人とすれ違ったのでそちらに行ってみた。折りたたみではないが、ズック生地で男性用の使い良さそうなメッセンジャーバッグがあったのでそれを買ってゴボウと傘を入れた。中にはいかにもノートかスケッチブックでも入っていそうで誰もゴボウが入っているとは想像もつくまい。

 ブールデル美術館は入場無料である。
 庭には大小たくさんのブロンズ像、それにアトリエも見学する事ができる。展示室には大理石彫像、デッサン、油彩。ロダンともブールデルとも交流が盛んだったというカリエールの油彩なども展示されていた。

 ブールデルの作品にはロダンやカミーユ・クローデルの影響を感じる作品も無きにしも非ずだが、むしろロダンからの流れを極力避け、古代ギリシャ彫刻や神話、或いはセザンヌの造形理論、そしてジャポニズムなどから多くを学ぼうとしたと言われている。
 それがアール・ヌーボーにも少なからず繋がっていく。
 美術大学の学生たちだろうか?数人の若者がスケッチブックを広げて彫刻のスケッチを始めた。


33.「自由」「勝利」「力」「雄弁」ブールデル美術館前庭


34.ブールデルのアトリエ


 初めて来たがモンパルナス駅からも歩いてすぐだし、結構見応えのある充実した美術館である。日本語のカタログがあったので買った。それもメッセンジャーバッグにすっぽり入った。


35.ブールデル美術館カタログ


36.「瀕死のケンタウロス」のある美術館中庭とアトリエ


 夜7時を過ぎてからIKUOさんの自宅に向った。歩いて10分もかからない。
 買ったゴボウに鼻を近づけてもゴボウの香りがしないので、IKUOさん家に持って行き、パリ在住の方たちにゴボウを見てもらったが、どうやらゴボウではないらしい。「瓶詰めも売られています。」とのことだった。
 IKUOさんの家では日本語での会話がはずみ、いつも時間があっという間に経ってしまう。12時近くにホテルに戻る。

 

2009/11/15(日) 曇り /Paris - Lisbon – Setubal


 今回のパリはバスばかりを利用して一度もメトロは使わなかった。いや、着いた時、北駅からサンミッシェル・ノートルダムまでだけ使った。バスとメトロ両方に使える切符カルネ(回数券)をいつも無くなった時点で最寄の駅で買う。今回はイエナ駅のメトロ切符売り場で買った。切符売り場には人がいたが案内だけで売ることはしない。
 「私は売ることが出来ないので自動販売機で買って下さい。」とのことだ。日本の地下鉄の自動販売機の様に簡単ではないがいろいろやってみてようやく何とか買うことが出来た。「意外と便利じゃん」などと高をくくっていた。

 ドゴール空港まで行くのにリュクサンブール駅で切符を買おうとするともう既に全くの無人駅になっていた。先日と同じ自動販売機だが、カルネなら買えたがドゴール行きがどうしても判らない。仕方がないのでパリ市内切符を2枚だけ買った。
 RERの中で車掌が来れば精算すればよいと思ってドゴール行きのRERに乗った。ストが回避されていて良かった。ドゴール空港駅まで車掌は一回も来なかった。アコーデオン弾きや寄付金集めはひっきりなしに来たが…。出口に精算機があるだろうと思っていたが、それもなかった。
 自動改札口の横の扉が大きく開放されていた。観光客たちは少し後ろめたそうな表情でその開放されたところを通過していた。それも何十人も。
 そう言えばリュクサンブール駅も開放されていた。
 僕たちはまじめに切符を使って自動改札口を使ったが…。僕たちと同じように切符が買えなくて、同じような気持ちでこのRERを利用していた人が殆どだったのではないだろうか?

 空港のセキュリティーの列に並んでいるところに[100cc以上の液体は持ち込めない]と書いてある。僕はうっかりメッセンジャーバッグの中に1リッターの水が入っているのを忘れていた。メッセンジャーバッグには何でもすっぽりと入ってしまう。まあ、言われてから捨てればいいかと思っていたら、モニターを監視している女性は他の係官とお喋りに夢中でモニターに眼は行っていなかった。1リッターの水はそのまま持ち込んだ。
 ゴボウもどきも土が付いているので引っかかるかな?と心配していたがそれも大丈夫だった。

 リスボンのオリエンテ駅でセトゥーバル行きのバスを待っている時に少し雨が降り始めた。旅行中は1度も傘を開くことはなくラッキーであった。A型インフルエンザも僕たちにはどうやら近寄って来なかった様だ。一応マスクは用意していたが旅行中マスクをしている人は一人も見なかった。

 家に帰ってゴボウもどきを早速料理してみた。処理をするのに松脂の様なものがべたついて大変な作業になった。キンピラにしてみたがやはりゴボウの香りはなく、それでもしゃきしゃき感がありそれはそれで美味しかった。搔き揚げテンプラにしたらしゃきしゃき感もなくなり、もうそれはじゃがいもと変らない。次にパリで見かけても2度と買っては帰らないだろう。

VIT

 

(この文は2009年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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