外出をする機会がめっきりと減った。

 メルカドにも行かないし、野の花観察にも行かない。

 出掛けるのは毎週日曜日に開かれる露店市くらいのもので、その時は運動がてら2時間ばかりも歩く。

 それ以外には日々の食料の買い出しに週1くらいで、あちこちのスーパーには出掛ける。

 『コンチネンテ』であったり『リドゥル』であったり、又は『ジュンボ』であったり、最近は『アルディ』にも時々は行く。シメジ茸など珍しい物が売られていたりするからだ。その他にも『インターマルシェ』や『ピンゴドース』『ミニプレソ』などというスーパーもこのセトゥーバルにはあるが殆ど行かない。

 露店市と週1のスーパー以外は引き籠りオタクである。

 ゴミ屋敷状態の家の中で、本を読んだり、パソコンのキーボードを叩いたり、裁縫をしたり、けん玉を放り投げたり、洗濯物を干したり片づけたり、パンを使った糠味噌をいじくったり、ベランダの韮と月下美人に水を遣ったり、水平線を眺めたり、描きかけの油彩の前に座ったり。

 露店市の日曜日に雨でも降ろうものなら、日曜日にも引き籠りになってしまう。

 その分、描きかけの油彩キャンバスと対峙する時間は増える。

 家に引き籠って、昼食が終わった13時からはテレビのニュースを観る。短い時でも1時間、長くなれば1時間半のニュースである。

 夕食が終わった18:00過ぎ、17:30頃から既に始まっているテレビのニュース情報番組『ポルトガル・ディレイト』を番組終了の19:00まで観る。

 19:00に情報番組が終わればチャンネルを替えテレビ映画鑑賞の時間となる。入浴を挟んで前後就寝までほぼ毎夜2本を観ることになる。

 その夕方の情報番組『ポルトガル・ディレイト』で全国のお祭りや展覧会の情報がある。情報はあるが、いつからいつまでなどという情報を見逃す。

 かねてから観たいと思っていたアメリカのストリートアーティスト『キース・へリング』の展覧会情報があり、ついでもあって、情報番組を観た次の日に出掛けた。次の日なら間違いはないだろうと勝手に思ってしまったのだ。

 初めての道で、苦労して到着したものの始まるのは5日後からであった。そんな時に限って友人を誘って行ったものだから、友人には悪いことをしてしまった。

 諦めきれずに1週間後に再び出掛けた。

 南アレンテージョ地方の中心都市ベジャで観てみたいと思った彫刻家の展覧会があった。その他にもいろんな展覧会情報があって、その内どれがどれかが判らなくなってしまう。これはボケ始めている証拠かもしれない。

 とにかく久しぶりにべジャに行くのも悪くはない。スケッチもしたいところだ。日帰りでも可能な距離だが、折角だから1泊くらいはしてもよい。

 ブッキングドットコムでホテルを検索してみる。既に雨季に入っているので天気も気になるところだ。オフシーズンのアルガルベ地方などに比較すると、ベジャのホテル価格は高止まりのままだ。なかなか行く決心がつかない。

 それでもコーヒーを飲み終わった後、パソコンを開け、天気予報をみて、明日、月曜日から行こうかと言う話になった。ブッキングドットコムでホテル検索をしてみると、良さそうだと思っていたホテルがあいにく満室になっている。

 念のため当日のホテルを検索してみると、未だ空室がある。天気は今日の方が良い。それに日曜日なので大型トラックが少なく走りやすいだろう。それで急遽、今から、ベジャに行くことにし、ホテルの予約を入れた。

 それから大急ぎで荷造り。1泊分の下着、パジャマ、夜は冷えそうなので薄いセーター、洗面道具、薬、ミネラルウォーター、ビスケット、のど飴、スリッパ、スマホ、デジカメ、充電器、スケッチブックと鉛筆。1泊分でも5泊分でもあまり変わらない荷造りである。

 でもこの時点で、ベジャでは誰の何の展覧会があるのかが混乱して判らなくなってしまっていた。それでも『ベジャのお城の中』という情報だけは頭の中にある。

 出発は11:03になっていた。

 キノコの森があるガンビアも横目で通り過ごし、水田が黄金色に輝いているアルカサル・ド・サルも過ぎ、松林の中を走るグランドラまでの悪路も今回は綺麗に舗装し直されて快調に走る。

 昼時だが未だお腹は空かないが、この町を過ぎれば、ベジャに着くまで殆どレストランはないだろうし、ベジャに着いてからだと、昼食時間帯は終わってしまうだろう。

 グランドラの出口付近に良さそうなレストランがあったので入ってみることにした。日曜日なので町の人達で一杯だ。そして料理が出てくるまでにかなりの時間を待たされた。待っている間のガーリック・オリーヴ油に浸して食べる焼き立てのアレンテージョパンが旨かった。料理もまあまあで満足の昼食で満腹になった。

 グランドラからは国道IC1から外れて内陸部に入る。以前には無料だった高速道が有料になっている。有料を避けて一般道を走りたいところだがその入り口が判らない。

 高速道入り口の標識を入っても一般道と別れることもあるので、その道に入ってみた。ところが一般道とは別れずにそのまま高速道に入り、切符を取るゲートになった。

 これは仕方がない高速道を走るしかない。

 他のクルマに従い走っていると、いつの間にか140キロものスピードが出てしまっている。それでも他のクルマは我がシトロエンをビューンと追い越してたちまち見えなくなってしまう。

 高速道はそれ程長くはなく出口の料金は1,45ユーロであった。

 でも高速道を降りた最初のロータリーでブレーキに異常を感じた。スピードを出し過ぎてブレーキに異変をきたしたのだろうか。

 それからは慎重に走らせたが、ブレーキは異常なままだ。

 ベジャに到着し、早速、お城を目指した。ベジャは何度も訪れている町だが久しぶりだ。『レオノール王妃博物館』の裏手の路上に空きスペースがあったので駐車した。日曜日なので駐車料金は無料だ。レオノール王妃博物館は見応えのある博物館で何度観ても良いと思うが今回は先ずお城の中の美術館だ。

 以前にこのレオノール王妃博物館前の路上で映画のマノエル・ド・オリベイラ監督がディレクターズチェアーに座りメガフォンを持っての撮影中に出くわしたことがある。博物館の前庭をレトロな服装をした男女が通行していて、クラシックなクルマが置かれてあった。多分、オリベイラ監督の遺作となった映画で、オリベイラ監督が亡くなってしまった今となっては我々にとっても貴重な経験だ。

 その角を曲がり狭い露地をお城の方向に行くと剥がされた『ジョルジュ・ヴィエイラ美術館』の看板跡が見えたので、その隣の雑貨屋さんで聞いてみた。そうすると「お城の中に移転しましたよ」との答えが返って来た。

 そうだ、このべジャには『ジョルジュ・ヴィエイラ』を観に来たのだ、と思い出した。いや、我ながら可成り危ない。

 お城に着くと、あの情報番組『ポルトガル・ディレイト』でやっていたそのままの美術館があった。そして代表作のモニュメントが入り口の壁に貼られていた。そうだまさに観たいと思ったのは『ジョルジュ・ヴィエイラ美術館』だったのだ。

 

お城の中の『ジョルジュ・ヴィエイラ美術館』2階部分と1階はツーリスモと右側にカフェ。

 美術館の1階が『ツーリスモ(観光案内所)』になっていたので、街の地図を貰い、ホテルの場所を教えてもらった。

 そして「上の『ジョルジュ・ヴィエイラ美術館』は何時までですか?」と聞いた。

 階段を上がろうとすると、一人の女性が付いて来て一緒に階段を上がった。そして入り口で、その女性はニコリと微笑み「これが鍵よ」と言って、美術館の鍵を開けてくれた。

 テレビの情報番組で紹介されたにも拘わらず、あまり入場者は居ないのだろうか。下の『ツーリスモ』で希望をしない限り、普段入口は閉ざされているのであろう。

 一緒に階段を上がって来て鍵を開けてくれた女性は受付の椅子に座り「入場は無料です。どうぞごゆっくりご覧ください。写真も撮っても良いですよ」と言ってくれた。

 作品数は少ないけれど、テレビで観るのより現物は更に良く面白く感じた。僕は迂闊にも今まで『ジョルジュ・ヴィエイラ』の名前を知らなかった。

 1922年、リスボンで生まれ、1998年エヴォラで亡くなっている。このべジャとはどんな関りがあるのかは判らないが、1970年の大阪万博にも出品している。どうやら世界的に活躍した彫刻家の様で、ピカソのデッサンや彫刻の流れを感じる。

 受付付近に2冊のカタログが置いてあった。作品集ともう一冊はデッサン集である。デッサン集は装丁が立派で如何にも高価そうに見えたが、作品集はそれ程でもないので、作品集だけでも、折角なので買いたいと思って価格を聞いてみた。受付の女性は書類をめくり価格を調べてくれた。33ユーロ何某という。思っていたよりも少し高い。印刷数が少なくなれば高価につくので仕方がないが、思い切って買うことにした。デッサン集も欲しいと思ったが、これ以上の出費は無理だ。だが、念のため聞いてみた。今度は書類を見ても判らない。見本のデッサン集の最初のページに鉛筆で価格が書いてあって、18ユーロ何某。装丁が余程立派なのに、装丁の簡単な作品集の方が高いのはおかしいと係の女性も思ったのだろう。作品集の最初のページも確かめると15ユーロ何某と書いてあった。33ユーロ何某は2冊分の価格だったのだ。そして2冊ともを購入した。

 美術館を出てお城のスケッチをしていると、暫くして係の女性も美術館の鍵をかけて階段を降りてきた。スケッチをしていた僕に気が付くと、手を振って笑顔で挨拶をしながら『ツーリスモ』に入って行った。

 お城からクルマに戻る途中に少し雨が降りだした。MUZを軒下で雨宿りさせておいて、僕が1人小走りにクルマまで戻った。クルマでレオノール王妃博物館の周りを1周して少し下った道に目指すホテルがあった。最初にクルマを停めた場所からホテルまでは1分の距離だ。でもホテルから道を挟んだすぐ前にも駐車スペースがあって、横断歩道を渡ってホテルまで10秒だ。

 クルマからバッグを出しているのをホテルの前でフロントの人らしき女性が煙草を吹かせながら見ていた。「先程予約を入れたのはあれか」などと思いながら見ていたのだろう。

 部屋の窓から自分のシトロエンが真ん前に見える。ホテルの前は道を挟んで公園になっていて、公園の更に向こうにポウサーダがあった。そのポウサーダの前に『ジョルジュ・ヴィエイラ』の大きな作品があるのが部屋の窓からも見えた。

 お昼をレストランで食べるとお腹が空かなくて夕食は殆ど入らない。ワインとつまみ程度を部屋でテレビを観ながら食べるくらいが丁度よいので最近はそうすることが多い。

 ホテルの部屋でちょっとだけ休憩をして、スーパーに買い物に行くことにした。

 フロントで『リドゥル』は何処にありますか?と尋ねると、大まかに道順を教えてくれたが、一方通行などがあるので難しそうだ。でも何とか行けるだろうと思いクルマを走らせた。

 こういった大型スーパーは大抵が町の出入り口付近にある。

 直ぐにフロントの女性が教えてくれた道順が判らなくなったが『コンチネンテ』の標識があった。『リドゥル』ではなくても『コンチネンテ』でもまあいいか、と思い標識通りに行ってみた。

 大きな新しく出来たばかりと言った『コンチネンテ』である。ワインとスライスチョリソ、ブドウなどを買い、ホテルに戻った。ホテルのフロント前を通過するときには『コンチネンテ』のエコバッグを抱えていた。

 フロントの女性は『リドゥル』は止めて『コンチネンテ』にしたのだろう。と思ったらしい。

 次の朝、朝食後、チェックアウトを済ませてから、「クルマの調子がおかしいので、見てもらいたいのだが、この町に『シトロエン』がありますか?」と聞いてみた。

 「えーっと『シトロエン』は知らないわー。修理工場の『ローディー』なら知っていますけれど。」というので「『ローディー』でも構わない。何処にありますか?」と聞いた。

 「昨日、『コンチネンテ』に行かれたでしょう。その裏手に『インターマルシェ』がありますが、その中です。」という。

 『コンチネンテ』の裏手に『インターマルシェ』があったかなー、と思いながら、昨日の『コンチネンテ』までクルマを走らせてみた。その辺りをぐるぐる回ってみたけれど『コンチネンテ』以外にはガソリンスタンドと『バーガーキング』があるだけで他には何もない。

 更に外れたところに集落があったので行ってみた。歩いていた老人に『ローディー』は何処にありますか?」と聞いてみると、如何にも面倒くさそうに足早に歩きながら「『ローディー』は『インターマルシェ』の中だがね~」などという。それはホテルフロントの女性と一致しているので正しい。でもこの老人の挙げた腕には刺青が施されていていかにもやばい老人のように見えた。その隣では犬ではなく黒ヤギが我々を見上げ笑っていた。どうやらジプシーの集落に入り込んでしまった様だ。

 『コンチネンテ』に戻って、駐車場のところに突っ立っていた中年男に「『ローディー』は何処にありますか?」と尋ねてみた。「『ローディー』は『インターマルシェ』の中じゃがね~」と同じ言葉が返って来た。「それではその『インターマルシェ』は何処にありますか?」と更に突っ込んで聞いてみた。中年男は口籠ってしまった。道を教えるのが苦手な様子で、とにかくこの周辺ではなさそうである。

 大体この程度の街になると同じスーパーが2軒や3軒があるものである。とその時に気が付いた。

 ここはベジャの北の入口付近。そう言えば昨日、ホテルフロントの女性が教えてくれた『リドゥル』はべ―ジャの南側になる筈だった。そしてその周辺には大型スーパーの何軒かが固まってあるのだろうとも思った。南側と言うことは『カステロ・ヴェルデ』方面に行く道沿いに違いない、と思い。

 その中年男に「カステロ・ヴェルデに向かう道ですか?」と言ってみた。男は「そ、そ、そう、そ、その通り、お、俺も今、それを言いたかったのだっ。」と口ごもりながら言った。

 後は、『カステロ・ヴェルデ』の道路標示に従ってクルマを走らせるとたぶん着く。

 お城の尖塔を左手に見ながら、先ず、エヴォラ方面への道も通り過ぎ、リスボン方面への道も過ぎ、更にカステロ・ヴェルデの標識を見逃さない様に、ベジャの街を大きく半周すると、先ず『リドゥル』の看板があって、次に『コンチネンテ』があった。ホテルフロントの女性は、昨日我々はこの店で買い物をしたものだと思っていたのだ。そして『コンチネンテ』の裏手に『インターマルシェ』があり、その中に『ローディー』が確かにあった。

 『ローディー』の前にクルマを停め、他のクルマの修理中で忙しそうにしていた、初老の修理工、多分店長だろう。その人に「ブレーキがおかしいので見て頂けますか」と言ってみた。修理中のクルマを一旦中止して、すぐに僕のシトロエンを見てくれた。ブレーキを踏みこんで、「判りました。1時間で修理ができますから、申込用紙にサインをしてください。」

 これで一安心である。難しい故障ではなさそうで良かった。1時間で済まなくても半日掛かっても実は構わないのだが。

 スケッチをするつもりで、街の中心付近まで歩いて出かけた。

 街の中心部、昨夜泊まったホテルのすぐ側に『ピンゴドース』があった。

 フロントの女性に『リドゥル』の場所を尋ねたので、その場所を教えてくれたが、「どこにスーパーがありますか」と聞けば、多分、この『ピンゴドース』を教えてくれた筈だ。

 お城の尖塔は隠れてしまってどこからも見られないが、スケッチの場所は多い。

 修理は1時間とのことであったが、1時間半ほどしてから戻るつもりであった。

 上って来た道とは違う道を降りて行った。その道にもスケッチの場所は幾つもあった。でも放射状になっているので随分と遠回りになってしまった。

 『ローディー』にたどり着いたのは2時間が経っていた。

 でもクルマは工場内のジャッキで持ち上げられたまま未だ直ってはいなかった。店長の姿は見あたらなかったが、3人の修理工が僕のシトロエンに係っていた。

 若い修理工に「故障は難しいのか?」と聞いてみると。「いや、簡単さ」と言った。

 それでも未だ終わってはいない。『ローディー』が見えるカフェに座ってコーヒーを飲みながら待った。

 『インターマルシェ』のカフェの周辺にはいくつもの子供用乗り物が設置されている。SL機関車。宝物を一杯積んだ海賊船。それに顔のある自動車。小さな女の子が海賊船によじ登った。コーヒーを飲んでいた祖母らしき人が子供のために海賊船にコインを投入した。子供は何故こういった乗り物が好きなのだろう。などと思いながら子供のはしゃぐ姿を眺めていた。

 それから30分が経ってようやく修理が終わった。徹底的に見てくれたようで安心だ。多分、ブレーキオイルが切れていただけなのだろうが、伝票を見るといろいろとチェックをしてくれている。修理代金を払い、家路についた。ブレーキは快適に効く。

 高速道は走らずに一般道ばかりを走った。それでも100キロ前後のスピードだ。

 月曜日なので昨日とは打って変わって大型トラックが多い。登坂車線では他のクルマに倣ってトラックを追い抜く。前のクルマが急ブレーキをかけてもこちらのブレーキも良く効くので大丈夫だ。

 西日に突き進むこともなく、家に帰りついたのは17:00。

 我が家のベランダからの夕焼けが美しい。

 そして、又、引き籠りの日々が始まる。

 ブレーキがかかったままになっている描きかけの油彩キャンバスとの会話でも、せいぜい楽しむしかないか…。VIT

 

 

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 ポンタ・デルガーダに住むYSさんから『文芸春秋』が送られてくる。

 大西洋の真ん中に浮かぶアソーレス諸島。9島からなるその中で一番大きな島がサン・ミゲル島。そして、その中心都市がポンタ・デルガーダである。

 僕は今までにアソーレス諸島には残念ながら行ったことがない。観光案内の写真などを見る限り、水蒸気が豊富で緑豊かな土地の様に見える。紫陽花が年中咲き乱れ、そして温泉が沸く。まさにパラダイスである。

 実は緑豊かな土地は僕の絵にはなりづらい。僕は赤茶色の絵を好んで描いて来た。

 イベリア半島は砂漠化が進み、緑がどんどん失われている、と言われている。でもポルトガルはスペインのカステーリャ地方などに比べると実は緑が豊富なのだが、僕はその緑を排除した、そんな赤茶色のイメージで描いて来た。

 そんな訳で、ポルトガル全国、マデイラ島も含め至る所を描いて来たが、より緑が豊富なアソーレス諸島にだけには行っていない。

 そのアソーレス諸島は世界地図を見ても世界の辺境の地、と言えるのかもしれないが、そのポンタ・デルガーダに一人の日本婦人が住んでおられる。ご主人はフィンランド人であり、日本語もお上手に話されるが、日常会話は英語だそうだ。

 イニシャルはYSさんとしておこう。そのYSさんがこのところ毎月セトゥーバルの我が家まで『文芸春秋』を郵送して下さる。『文芸春秋』は日本から定期購読をされているそうで、アソーレスに住まわれる前はポルトガル本土にも長く住まわれていて、その以前から『文芸春秋』は欠かしたことがないそうだ。そのお2人が最近になってペンションを始められた。

Apartamento Sol e Praiashttps://www.apartmentazores.com/

 昔は海外に住むということになれば、日本の活字が恋しくなる。

 活字が恋しくて持参した1冊の辞書を隅から隅まで繰り返し読み、英語がかなり上達した、という友人もいた。

 スウェーデンに住んでいた時には日本航空の事務所に1週間遅れの新聞を読みにたびたび出かけたこともあるし、パリの日本大使館で数日遅れの新聞をむさぼり読んだこともある。

 今では新聞雑誌はなくてもインターネットで幾らでも活字は読むことが出来るので、活字が恋しくなるということもそれ程はない。

 でもやはりパソコンで見る文字よりも、紙に印刷された活字は格別だ。

 最近は『活字離れ』などと言われ、本を読む人が減っているそうだ。でも帰国した際に大阪の地下鉄などに乗ると、吊革にぶら下がりながら文庫本を手に読んでいる人もよく見かける。大多数の人はスマホを操作しているが…。それはポルトガルでも同じだ。

 僕は1968~1969年頃、関西フォークの音楽専門誌『フォーク・リポート』というものの編集に携わっていたことがある。創刊号がオフセット印刷だったのだが、発起人の一人、西岡たかしさんがオフセット印刷では気に入らなくて、本格的な鉛の活字を使った印刷の雑誌を作りたいと希望されていた。そして僕に「鉛の活字印刷で製本が出来る印刷会社を探してこい。」ということになって、実家の近所にあった印刷製本会社を紹介した。

 第2号からは鉛の活字印刷で中綴じ本になった。その『フォーク・リポート』を何年、何冊作ったかは忘れたが、僕は主に表紙、イラスト、レイアウトそして校正などもした。その時の編集長、村元武さんにはいろいろと教わったし、随分勉強になった。そして今も親しくさせてもらっている。村元武さんはその後も今もずっと出版会社を経営しておられる。

 その『フォーク・リポート』の頃に話題になった雑誌で『話の特集』というのもあったし『フォーク・リポート』の後続で『ニュー・ミュージック・マガジン』というのも出版された時代だ。勿論、フォーク・リポート誌は関西フォークの台頭と共に一世を風靡した雑誌である。

 僕は『フォーク・リポート』と同時に美術大学にも通っていて、展覧会にも出品していたのだが、その印刷会社で大小の意味のない漢字活字ばかりを羅列した100ページばかりの本を印刷中綴じ製本にしてもらって京都府立美術館の一室の床と壁に300冊を並べたことがある。なかなか評判は良くて、他のグループなどからも出品の誘いが幾つかあったのだが、海外渡航が決まっていた時期とも重なり、それは一発きりでそれっきりになってしまった。

 東京での一人暮らしの時は本をよく読んだ。高円寺の古本屋の店頭に岩波の名作童話本が並べられていて、それまでに読まなかった童話を片っ端から読んだ。それと下宿の隣の部屋に東京経済大の学生が住んでおられて、読み終わった時代小説の文庫本をかなりの数頂いて、それも読んだ。

 スウェーデンに住み始めて数年が経った頃に日本に居る友達に資金を送って文庫本の古本を少しずつ郵送してもらったことがある。海外文学や司馬遼太郎などの時代小説も多く含まれていた。少しずつでもかなりの量になり、それで面白半分で、在住日本人を対象に『貸本屋』を始めた。それをまた面白半分に文庫本を借りに来てくれるお客も居た。スウェーデンを引き上げる時、その文庫本は『ストックホルム日本人会』に纏めて買って頂いた。

 日本に帰国した時は仕事が忙しくてあまり本は読めなかった。本は日本でより却って海外生活での方が読む時間が出来るし、落ち着いた時間があるので頭に入りやすい様な気がする。それが海外文学なら行ったことがある場所なども登場して親しみを持って読むことが出来るので尚更だ。

 ポルトガルでは毎年各地で大規模な『本市』が開かれていて、どこも賑わっている。ポルトガル人は喋ることも好きだが本も好きな民族の様だ。そしてポルトガルの印刷の歴史は250年だそうだ。

 宮崎で飲食店をしていた時は、店に置いていて一定期間を過ぎた月刊誌をメキシコで飲食店をしていた友人に送っていたことがある。友人と言っても画家で高校美術部の後輩であるが…お客の殆どはメキシコ人だと言っていたから日本語の活字は判らなかったのだろうけれど「写真だけ見てお客も喜んでいます。」と友人は書いてよこした。

 高校生の時には美術部にいた。顧問の先生が中心となって『NACK』という機関誌を作っていた。主に顧問の先生が手慣れた鉄筆で蝋紙に文字やイラストを書いて、生徒たちが謄写版で印刷し、表紙には木版画を摺り、ホッチキスを使い、糊張りし、製本したものだ。自分でも鉄筆を使って書いてみた。自分が書いた文章が謄写版印刷されることも嬉しかったし、本になるのが嬉しかった。

 増して活字になるなどとは考えられない時代であった。

 その頃から比べると、本当にSFの時代である。

 ワープロの時代も過ぎて、今やパソコンで難なく活字が出てくる。

 誤変換などという副産物もある。思いもよらない面白い漢字が出て来たり、理解に苦しむ誤変換などもあり、思わず笑ってしまうこともある。

 でも『文芸春秋』など、昔ながらの紙に印刷された活字には紙の匂い、インクの匂いと共に特別の思いが潜んでいる。

 ポンタ・デルガーダからセトゥーバルまで、幾度かの海を渡って来た、分厚く、活字の一杯詰った『文芸春秋』。それを小脇に抱えた郵便配達夫がマンション入り口のベルを押し、玄関ホールにある郵便受けには入りきらない分厚さの為、4階の我が家まで階段を昇って来てくれる。そして郵便配達夫は我が家の前で2度目のベルを鳴らす。4階もの階段を昇って来たにも拘わらず、少しの息切れもなく、清々しい笑顔で「この荷物はあなた宛てですね」と言って『文芸春秋』を手渡してくれる。「コーヒーでも」と言ってチップを手渡したいところだが、あいにく素早くは小銭が出てこない。

 1冊の『文芸春秋』が日本からポンタ・デルガーダに送られ、そして、セトゥーバルの我が家で2人がむさぼり読み、更にその後、リスボンのHGさんのところへ行くことになった。HGさんはリスボンの大学でポルトガル人に日本語を教えておられる。ポルトガル人も『文芸春秋』を手にする時が来るのだろうか?

 『文芸春秋』の活字が日本から遠く離れた地球の片隅で、僕の心を少し豊かなものにしてくれている。 VIT

 

 

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 露店市で子供がお姉さんに付き添われてアイスクリームを買っている。広~い露店市の丁度真ん中あたりの通路で移動式のアイスクリーム屋が商売をしていた。売っているのはジプシーの小父さんで、買っている子供もその広~い露店市の何処かで店を開いているジプシー露天商の子供だ。アイスクリーム屋の小父さんはヘラスプーンでコーンカップにアイスクリームを擦り付けている。これでもかと言わんばかりの大おまけの量だ。お姉さんの分までたっぷりの量である。その量にも驚いたが、その色に先ず驚いた。アイスクリームは何とエメラルドブルーなのだ。それもどぎついばかりの毒々しいエメラルドブルーだ。

 先日リスボンの中華食品店で酢漬けの生姜を買った。寿司を食べる時に一緒に食べる、いわゆる『ガリ』と言うものだ。ピンク色のものと色付けされていないものの2種類が売られていたが僕はピンク色のものを選んだ。1キロ入りの業務用で暫くは楽しめる。

 最近日本では回転寿司の『スシロー』などに行っても『ガリ』は無着色のものが置いてある。どうやら無着色の方が好まれる様だ。

 スーパーで『たくあん』を買おうと思っても真っ黄色のものより、着色されていない『たくあん』がよく売られている。

 梅干しなどでも毒々しい真っ赤なものより幾分薄い色が多く、日本では着色されていないものの方が最近は好まれる様だ。

 画廊のザンベジ女子は日本好みで「アリガトゴザマシタ~」などと変な日本語を使い、日本式のお辞儀をする。日本食も好きで、リスボンの中華食品店にも良く行くのだろう。中華食品店には日本食も多く売られていて、そこで真空パックの『たくあん』を買って来た。真っ黄色の『たくあん』1本を若い乙女が豪快に丸かじりして「美味しい、美味しい」と言っていて少々面食らったことがある。

 毎年帰国すると宮崎の家の近くの業務スーパーに行き、買い物をする。今年は紅ショウガを買った。1キロ入りで宮崎に居る間に食べてしまえるかと思ったがせっせと食べた。生姜は身体を温め、食欲をそそる。真っ赤過ぎる色が気になるが、本来は梅干しを漬けたあとの紫蘇を使って生姜を漬けるので、食紅などは使われていない筈なのだが、安定的な紅を出すために食紅が使われているのだろう。大阪では『たこやき』にも小さく刻んだ紅ショウガが入っているし、幅広の紅ショウガを天ぷらにして食べるが、僕はあれも好物だ。

 宮崎に住んでいた時は毎年、梅干しを漬けた。自分で植えた梅の苗木が大きくなりたくさんの実を付けた。花の時期にはメジロが集団でやってきて楽しませてくれた。梅干しに使う紫蘇も育てたこともあるが、害虫に食われてレース状の紫蘇になってしまった。それ以来、紫蘇はトラックで売りに来る移動式八百屋のハナちゃんから買っていた。

 紫蘇を漬け、良く揉んで梅の実に漬け込むとまるで毒々しい真っ赤な梅干しが出来上がる。勿論、食紅などは一切使わない。梅干しは最初の年は毒々しい真っ赤だが2年目からは黒っぽく色も味も馴染んでくる。

 ピンク色の『ガリ』は、新生姜を繊維に沿って縦に出来るだけ薄切りにし、60~70度の熱めのお湯をかけて、すぐに冷水にくぐらせると淡いピンク色に染まる。生姜には元来赤い色素があるからで、食紅などは使わなくても『ガリ』はピンク色に仕上がる。そして梅干しを漬けた時に出る梅酢に漬ける。

 宮崎ではカレー専門店をやっていた。独自の考えでバラエティーに富んだカレーを作っていた。その当時は業務スーパーという店はなくて、都城には飲食業専門の卸業者『成松』という店があって、そこで香辛料などを買っていた。

 『成松』ではカレーに欠かせないターメリックなども大袋で売られ山積みされていた。都城周辺地域にはそれ程のカレー専門店があるとも思えず、成松の店主に「なぜこれ程多くのターメリックが品揃えされているのか?」と聞いたことがある。成松の店主は「ターメリックは漬物業者が買っていくのですよ。あなたはこのターメリックを何に使うのですか?」と逆に聞かれた。漬物業者が『たくあん』を漬ける時に黄色の着色料としてターメリックを使っていると言うのだ。

 ターメリックは身体に良い。抗菌作用など様々な効能があると言われている香辛料だ。紫蘇にもポリフェノールなどが多く含まれこれにも抗菌作用があり栄養豊富な食材だ。毒々しい真っ黄色の『たくあん』も、毒々しい真っ赤な梅干しも毛嫌いする必要はなくどちらも身体に良い食品ということになる。

 スウェーデンに居た時にはコックをしていた。スウェーデン人のコックは1人も居なくて6人ほどいたコックは皆が外国人ばかりであった。シェフはギリシャ人のコンスタンティン。その他にオーストリア人、ポーランド人、ユーゴスラビア人、それにポルトガル人のルイスと日本人の僕。ソースを作るのはもっぱらシェフのコンスタンティンだが、コンスタンティンが他の仕事で忙しい時は他の誰でもが作る。

 ソースはマッシュルームソース、ブラウンソース、魚のソースそれにヴェルネスソースの4種類。それにマヨネーズ。肉料理用のブラウンソースにマデイラワインを垂らすと『マデイラソース』となる。ブラウンソースは肉料理用で魚のソースは魚料理専用だが、マッシュルームソースとヴェルネスソースは肉料理、魚料理の両方に使う。

 魚のソースが切れそうになったのでポルトガル人コックのルイスが作ることになった。魚の骨などを茹で煮汁を使う。それだけでは味が出ないので業務用魚のコンソメを使う。バターと小麦粉でとろみをつけ、白ワインでコクを出し、最後にほんの少し食紅を垂らす。そうすればサーモンピンクの美味しそうな魚のソースが出来上がる。筈である。

 ポルトガル人コックのルイスは何でも気前よくドバっと入れる。マデイラソースなどにも決められた量の2倍も3倍もの量のマデイラワインを注ぎ込む。魚のソースに入れる食紅はほんの少し、大量の鍋にでもほんの一筋ほどを垂らすのが決まりだ。それをルイスは気前よくどっぷりと入れる。かき混ぜれば毒々しいショッピングピンクのソースが出来上がった。

 出来上がりをチェックするシェフのコンスタンティンは「こんなの食べ物の色じゃないよ」と言いながらでもお客に出すことになっていた。ポルトガル人コックのルイスは豪快に「がはは」とわらうばかりであった。

 料理の名前は忘れたが、以下の様な料理だ。先ずお皿の周りにマッシュポテトを絞り出し袋から波型にデコレーションする。その真ん中にマッシュルームソースを乗せる。その上に小さな魚のカレイのフィレを指で丸めてロール状に茹でたものを4尾置く。その上に魚のソースを掛ける。更にその上にヴェルネスソースを掛け天火で焼き目を着け出来上がり。といった料理だから毒々しい魚のソースも殆どは隠されてしまう。

 肉料理に使うブラウンソースにもカラメルをほんの少し垂らすと美味しそうな色と照りが加わる。カラメルも着色料だが砂糖から作られるのでソースにコクも出る。

 毒々しいエメラルドブルーのアイスクリームは露店市の真ん中で異彩をはなっていたが、手渡された姉弟は嬉しそうに小走りに帰って行った。そのアイスクリーム屋も満足そうであったが、それを仕込んだ職人も「がはは」と笑いながらアイスクリームをかき混ぜていたのに違いない。でもあの毒々しいエメラルドブルーは着色料ではなくてたっぷりのブルーベリーが混ぜ込まれたアイスクリームで、それは真っ黄色のタクアン、真っ赤な梅干し同様、自然の色だったのかも知れない。VIT

 

 

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 久しぶりにポルト・デ・モスが描きたくなって出掛けた。セトゥーバルの北約200キロ、それ程観光地と言うほどでもないのだが、観光資源は豊富にある。そして訪れるたびに違う表情を見せてくれる。

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 「ヨーロッパは古い町並みが残っていていつまでも変わらない」などと良く言われるが、実は残すものと、新たなもの、そして修復するものをきっちりと分けた都市計画があるのだろうと思う。

 セトゥーバルも僕たちが最初に来た時とは随分と変わってしまった。かつては荒地だったところに15階建て程のビル群が建ち並び、それも既に古びて昔からその場所に存在していたかの様な表情を見せている。古いオイルサージンの工場跡が博物館に利用されているし、かつてはコルク樫の林だった町外れには大型ショッピングモールや高速道が整備されている。

 それとは対照的にローマ時代の道が残されていたり、いつの時代のものなのか、廃墟が多く存在する。

 ポルトガルには、古代ローマ時代、ムーアの時代、レコンキスタの時代そして大航海時代の遺産としての城跡が至る所に存在し、その殆どが廃墟となっている。

 ポルト・デ・モスの城はポルトガルの城には珍しくサップグリーンのとんがり屋根があり、特徴的な美しい城だ。

 ポルト・デ・モスの城も最初に行った1991年には、サップグリーンの屋根を支える城壁の中はガランポンの草地だけで何もなかった。次に行った時にはその中が博物館にリメイクされていて驚いた。

 フランスでもドイツでも地方都市は美しい。コロンバージュ(木骨煉瓦作り)の家並などを歩くと、グリムやアンデルセンの世界に入り込んだかのような楽しさを感じる。でも考えてみると、そんなコロンバージュの家並も、第2次世界大戦で一旦は瓦礫の町と化していた筈である。それが元の姿にリフォームされ美しさが取り戻されている。

 メキシコのパックツアーに参加して帰って来たばかりの人から話を聞いたことがある。「現地ガイドの話では、『皆、偽物ばかりですよ。』と言っていてがっかりしましたよ。」と言うものであった。マヤのピラミッドも偽物だと言うのだ。

 確かに当時のままの姿ではないのかも知れない。遺跡を修復して今の形、言い換えれば元の形に戻しているのだと思う。メキシコ人現地ガイドはあまり日本語の使い方を知らなかったのではないのだろうか?確かに『偽物』などと教えられればがっかりもするだろう。

 ポルト・デ・モスの城も1960年頃までは殆どが瓦礫で、その頃には特徴的なサップグリーンのとんがり屋根はなかった。1960年代から少しずつ修復工事が行われて今の美しい形になっている。中世の昔のままとは言わないまでも、ある程度は資料や記録に基づいて再建されているのであろう。

 僕が最初に訪れた1991年頃とその10年後に訪れた時には更に修復工事が行われたことになる。

 僕も絵を描いていて、時にはスランプに陥ることがある。でもスランプを感じたら直ちに原点に立ち戻ることを心がけている。僕は当初、『丘の上に聳える古城とそれを取り巻く赤瓦と白壁の町並』の様な風景を描きたいと思っていた。それはスペインでもイタリアでも南フランスでも実は良かったのかも知れない。でもたまたまポルトガルを選んだ。それが良かった。

 僕のポルトガルでの原点はオビドスにある。未だポルトガルに住み始める3年前の1987年、ヨーロッパのそんな風景を油彩にしたくて、油彩道具とキャンバスを抱えて1か月間のスケッチ旅行でポルトガルにやって来た。冬のポルトガルは雨ばかりであった。MUZがリスボンの安宿で風邪をこじらせてオビドスにやってきた。風邪は更に悪化し、オビドスの医者の診察を受けた。それから5日間は移動禁止を言い渡され、民宿に留まることになった。ようやく雨も上がり、僕は毎日、せっせと出掛けてはイーゼルを立てた。ポルトガルの風景画が数点出来上がった。

 そんな絵をもっと描きたくてポルトガルに住むことにした。

 今、オビドスを訪れると観光客の多さに驚かされる。銀座か心斎橋並みの人通りでイーゼルを立てるどころではない。

 住み始めて早い時期に訪れたポルト・デ・モスも気に入り、たくさんの油彩になった。ポルト・デ・モスもオビドスに次ぐポルトガルの原点と言っても良いのかも知れない。

 町のどこからでも見ることが出来る、サップグリーンのとんがり屋根のポルト・デ・モスの城。そしてそれを取り巻く赤瓦と白壁の家並は制作意欲をそそる。どこから見ても絵になる風景がある。決して巧くは描けないのだけれど、元気だけは取り戻せるモチーフである様な気がする。まさに当初、僕が考えていた原点の風景がここにある。

『ポルト・デ・モスの城』20景。

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 ポルト・デ・モスの『モス』とは風車に使う石臼のことだと知った。以下、『ポルトガル観光局』の記述を貼り付けます。

 

 『ポルト・デ・モス(Porto de Mós)という村の名は、ローマ人による支配の時代に起源があると考えられています。その頃船で航行が可能であったレナ川(Rio Lena)に面して、この地には港がありました。この港では、地方一帯の石切り場から切りだされた石臼(Mós)が船に積み込まれたり、降ろされたりしていたのです。

 このポルト・デ・モスの地域には、数千年の昔から人が居住していました。その事実は、市立博物館(Museu Municipal)を見学すれば、大変よくわかります。ここにはさまざまな恐竜の化石や骨格と並んで、各時代の人類の暮らしの跡が収められています。例えば、研磨された石英の道具(石器時代・新石器時代)や、古代ローマ時代のコインや鉄製の槍などです。

 付近で最も高い地点に立つ城は、13世紀にサンショ1世(D. Sancho I)の命で再建されたものです。さらにその2世紀後には要塞を構えた宮殿に改築されました。その美しく、また大変珍しい姿は、今日でも目にすることができます。

 周辺には、アイレ・イ・カンデエイロス山脈自然公園(Parque Natural da Serra de Aire e Candeeiros)が広がっています。石灰石の斜面にはいくつもの穴が口を開け、美しい地下の洞窟が奥へとのびています。こうした洞窟には、中に入って探険できるものもあります。例えば、サント・アントニオ(Santo António)やアルヴァドス(Alvados)、ミラ・ダイレ(Mira d`Aire)の洞窟などがそれです。地上では、昔ながらの村々と石切り場の間にあるペドレイラ・ダ・ガリーニャ(Pedreira do Galinha)で、近年発見された恐竜の歩行の跡が見られます。また、古代ローマ時代の遺跡も残されています。その好例は、アルケイダォン・ダ・セーラ(Alqueidão da Serra)にある敷石の道です。 』(以上、『ポルトガル観光局』の記述より)

 

 ポルト・デ・モスからの帰り、その近くにある『オウレン』にも寄ってみた。オウレンも特徴的な城がある町である。

 オウレンの城へ上る道すがらではいろいろな野草が咲いていた。MUZが矢車草の一種の写真を撮っているとスコットランド人なのだろう、2人の若者観光客が、僕たちを追い抜き「この花はスコットランドの国花だよ」などと話しかけながら城へと登っていった。僕たちが城壁にたどり着く前に早くもその若者たちは下りて来て別れの挨拶を交わした。

 古い城壁の上では数人の男たちにより修復工事が行われていて、コツコツとハンマーの音が辺りに響き渡っていた。そして城壁の反対側ではやはり数人の女性たちが声高に世間話をしながら発掘調査をしていた。その横では野草のオレガノが群生し、地味な花を咲かせて良い香りを放っていた。

 城と町並が一緒になった風景を探そうと少し外れたところまで走った。古い農家の後方に城が聳えている場所を見つけてスケッチをしていると、その農家から小父さんが出て来て、最初は不審に思ったのか、話しかけて来て、クルマのナンバーを見たのだろう。「ポルトガルに住んでいるのか」「日本人だ」と言うと「この辺りも空き家が沢山あって、安いよ」とかと言って、最後には人懐こく握手を求めてきた。別のところでもスケッチを始めると、日向ぼっこをしていた小母さんが「うちの庭からならお城がもっと良く見えるよ」などと声をかけて来て、庭に招き入れてくれた。

 次にオウレンに行った時にはその城にはどのような修復がなされているのであろうか?楽しみである。

 そしてポルト・デ・モスと併せてたびたびは訪れたい町になった。武本比登志

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 『赤江大橋』は歩行者と自転車にとっては危険で、設計ミスと言わざるを得ない。花壇の位置を替える簡単な工事だけで解決はする筈だ。それを市役所の担当官に言ったのだが、僕の説明が下手で残念ながら届かなかった様だ。検証してみようとも思わなかった様だし、全くやる気がない。

 今年の日本滞在は当初の計画からは随分とかけ離れたものになってしまった。

 宮崎から大阪に行く寸前の3日前、宮崎の自宅のすぐ側、大淀川に架かる『赤江大橋』の歩道でMUZが転倒してしまった。

 大阪に行くには杖が必要だと思い、量販店にでも行って杖を買うつもりであった。当初は杖をついてでも大阪に行くことは可能だと思っていた。

 MUZは「老人用の杖は恥ずかしいのでウオーキング用のストックなら良い」と希望した。急いでスポーツ用品店までストックを買いに走った。

 それは気に入った様だったが、大阪に行く前日には顔も腫れあがり、歩くこともおぼつかず、飛行機には乗られない状態になってしまった。

 大阪での『大阪芸術大学美術科4期生同窓展』に昨年同様、2人で参加する予定であった。その期間中に和歌山の白浜に行くつもりでホテルとアドベンチャーワールドの入場券、大阪天王寺からの往復バスを予約していたのだが、急遽キャンセルをしなければならなかった。

 僕の大阪往復は全日空の国内線マイレージ予約をしていたのだが、MUZのマイレージは足りずにLCCのピーチ航空を予約していた。格安航空券だがピーチ航空は払い戻しが出来ないので、宮崎=大阪の往復航空券を捨てることになった。

 白浜の予約も寸前となり時期的にはかなりの率のキャンセル料が取られる。

 そしてホテルにキャンセルの申し込み電話を入れた。最初は「キャンセル料がかかりますよ」との事であったが、「仕方ありませんね」と言ったところ「キャンセルの理由は何ですか?」と尋ねられたので「妻が転倒しまして…」と言った。

 「それは大変でしたね。それではキャンセル料は結構です。」といってキャンセル料は取られないで済んだ。親切なホテルだ。

 僕は一人で大阪に行き、マサゴ画廊の『NAC展』とギャラリーキットハウスの『大阪芸術大学美術科4期生同窓展』の2人分の搬入だけを済ませ、搬出は兄に頼み、宮崎にとんぼ返りした。

 全日空のマイレージ予約は変更が利くので戻りの日程を早めた。

 僕が大阪に居る間は延岡に住むMUZの妹が医者の手配など面倒を見てくれていて、僕としては安心であった。

 宮崎に戻り杖をついて毎日大淀川の河川敷を散歩しリハビリに励んだ。

 今までもポルトガルではこんなことは1度もなかった。露店市でも2~3時間も歩く。野の花観察に藪や荒地でも何時間も歩く。

 宮崎での転倒は『赤江大橋』を渡り、川向こうのスーパーまで歩いて買い物に出かけた。いつもなら自転車で行くところだが、少し雨模様であったので、自転車が滑ると危険であるし、傘をさして散歩がてら歩いて出かけた。

 橋の長さは500メートル程、スーパーの『前田ストアー』までは合計1キロほどもあるだろうか?

 買い物を済ませた帰り道であった。旅行用で使わなくなったカートにエコバッグを括り付けてその1番下に重たい焼酎を入れた。そもそもその晩に呑む焼酎が切れてしまったので買い物に出かけたのだ。カートだからと大阪へ行くまでの2日分の食料を買い込んだ。買い物の一番上にモズクを置いた。モズクはパンパンに膨れたビニール袋に入っていて、さながら子供の手毬の様であった。飛び跳ねて落ちるといけないのでMUZが後ろを歩いて飛び出せば拾うということにした。

 勿論僕がカートを引くわけである。橋は緩やかなアーチ型になっている。クルマや歩いていてもそれ程勾配は感じないのだが、自転車だとかなりの坂を感じる。僕は歩きながら隣の『小戸の橋』を見ていた。

 『小戸の橋』はもう随分前から架け替え工事をしていて橋げたがすべて完成し、繋がるまではもう少しといったところまで工事は進んでいる。完成は来年の9月頃の筈である。『小戸の橋』の橋げたを見ながら、『赤江大橋』の頂上に達したかな、などと思いながらカートを引いていた。

 MUZは橋の登りでは前かがみで僕からは5メートルほどの後ろを歩いていた。それが頂上に達してそれを過ぎても前かがみのまま、そして僕に追突するほどに近づいている。足音がバタバタと僕の耳に達する。

 僕は「ここらでちょっと休憩をしよう」と言ったが、MUZは「止まれへ~ん」と言いながら、つつつとその先で前のめりに飛び込むように顔面から転倒してしまった。後ろから見ているとまるで北島康介がプールに飛び込むが如くにであった。傘の骨は折れたが、MUZは顔や手にかすり傷を負っただけで幸い骨には異常はなかった。

 『赤江大橋』は欄干側に花壇が設けられていて欄干を手すりとして利用することが出来ない。

 自転車で走っていても車道との間に花壇も手すりもなく、段差があるだけで、クルマが歩道に乗り上げることはないが、自転車が車道に転がり落ちそうな錯覚を起こし怖い。

 別の日、クルマで通過中にも『赤江大橋』の上り坂で自転車の婦人が転倒しているのを目撃した。スーパーでの買い物帰りらしく自転車のバスケットからは食料品が歩道に散乱していた。婦人には気の毒な話だが、食料品が歩道のみに留まらず、車道にまでも散乱していたら、通り掛かったクルマは咄嗟にハンドルを切るかも知れない。そうすると対向車に追突し事故は自転車のみでは収まらなくなってしまう。

 橋の下の河川敷は広い運動公園になっていて、放課後には少年たちがサッカーやソフトボールの練習に自転車で通ってくる。練習で疲れ切った後、河川敷から橋までの坂道を登って帰宅の途につく。或いは坂道から橋へ曲がり切れなくて、車道まで滑り落ちてしまわないか心配になる。車道を走って来たクルマは橋の終わりのところにある信号を、青信号の間に渡ってしまおうと結構なスピードを上げる。そこに自転車で曲がり切れなかった少年が飛び出して来たらどうなるだろうか?と心配してしまう。

 花壇が欄干側ではなく車道側についていれば問題はないのにと思う。『赤江大橋』は路肩も広くクルマにとっては広々として気持ちの良い橋だが、歩行者と自転車にとっては危険な橋、設計ミスと言わざるを得ないのではないのだろうか。いや、普通の状態では何でもないことなのだろうけれど、老人、弱者にとっては危険に感じる橋なのである。

 もし、花壇が市役所近くの『橘橋』などと同様に欄干側ではなく、車道側に設置されていたら、歩行者は欄干を手すりとして使うことが出来る。自転車は花壇で止まることが出来る。欄干を手すりとして使えていたら、今回の転倒は防げたろうと思う。VIT

 

 

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 日本に履いて帰る革靴を修理に出した。

 日本では良く歩くので踵がすり減るのだ。歩くのに癖があるのだろう。いつも踵の外側からすり減る。ガニ股なのかも知れない。もっとカッコよくモデルの様に歩くのを心がけねば・・・。

 ポルトガルでいつも履いている靴は日本には履いては帰らない。

 ポルトガルでは野の花の観察に行くことも多いし、野山でも瓦礫の上でもびくともしない、軍靴の様な、猪狩りの猟師が履く様な、頑丈なひも付き半ブーツの革靴を履いている。

 日本用はいつも別、同じ半ブーツだが、一昨年だったかに買って、昨年の日本に履いて帰って3か月ほどの日本滞在期間中に殆ど毎日履いていた。

 いや、宮崎では自転車なのでスニーカーを履いている。ポルトガルからの往き帰りと大阪でのみか、大阪では革靴で良く歩く。

 実家から近鉄線『北田辺駅』まで歩いて『天王寺駅』で市営地下鉄に乗り換え『淀屋橋』で降り、『マサゴ画廊』のある西天満まで行けばそれ程は歩かない。片道150円+230円=380円。

 それを近鉄電車も地下鉄も使わないで、今川沿い漆堤公園をJR大和路線『東部市場前駅』まで歩き、『天王寺駅』か『新今宮駅』でJR環状線に乗り換え、『大阪駅』で下車、曽根崎警察の裏手のお初天神通りアーケード街を歩き、お初天神にお参りし、西天満の画廊まで歩くか、淀君の菩提寺、太融寺の縁を通り真っ直ぐ南下し西天満の画廊まで歩けば、『北田辺駅』から乗るよりはもう少し歩くことになる。そして交通費は随分と安上がりだ。片道220円。

 『東部市場前駅』まで歩くよりもいっその事、JR環状線の『寺田町駅』まで歩いて『大阪駅』まで乗れば乗車区間は短くなり、料金も更に少し安くなる。そして歩く距離はもう少し延びる。片道180円。

 一度などは『寺田町駅』まで歩くつもりが、駅に行く信号が赤だったために、いっその事『桃谷駅』まで歩いてしまえ。と思ってもう一駅歩いた。途中、曲がるところが判るかなと思って、商店の親父さんに尋ねた。「ここ真っ直ぐ行ってアーケードの入口が見えたら入って行きなはれ。おっちゃんの足やったら、そやな、10分かな。」と教えてくれた。若く見られたのか、年寄りに見られたのか?それは判らない。でも寺田町駅から乗っても桃谷駅から乗っても料金は同じであった。片道180円。

 天王寺まで歩くこともよくある。日本一高いと言われる『あべのハルカス』の近鉄百貨店画廊にいくこともあるし、更に足を延ばし、『茶臼山画廊』に行くこともある。そしてその裏手にある『一心寺』にお参りすることもある。

 『玉造駅』より更に先の上町1丁目にある額縁屋まで歩いて行ったこともある。かなりの距離で恐らく2時間以上はかかったと思う。額縁屋で1時間ほどの用事を済ませた後、帰りは、額縁屋の前を『杭全』行きの市バスが通っているので(杭全から実家はそれ程遠くはない)、市バスに乗ろうとバス停まで行って時刻表を見たが、バスは出たばかりなので、少し歩こうと思っている内に実家まで復路も歩いてしまっていた。無料。

 その前の年などは市バス1本で『淀屋橋駅』まで行くことが出来るので、急ぎ足30分の『玉虫』バス停まで歩き、小1時間を市バスに揺られ『淀屋橋』で降り西天満の『マサゴ画廊』まで通っていた。『大阪観光バスの旅』気分だ。片道210円。

 そのバスなら帰りは淀屋橋まで歩かなくても『大江橋』から乗ることが出来るのでバス時刻さえ調べておけば便利だ。往復420円。

 もっと安上がりに行くにはJR『寺田町駅』まで歩き、大阪駅まで乗らないで3つ手前駅の『京橋駅』で下車し、造幣局の前を通り、天満宮の前を通り、ついでにお参りでもし、更についでに『繁盛亭』寄席の看板でも眺め、南森町から西天満まで歩けば良いのだが、どれほど倹約になるのか一度歩いたことがあるが覚えていない。検索してみると=片道180円。

 とにかく大阪では『街角探検』の気持ちで歩くことを楽しんでいる。上方古典落語にはよく歩く話も出てくる。昔の人は歩いたのだ。勿論、江戸から上方まで皆が歩いた。

 僕は若い頃に50ccバイク、スーパーカブで大阪から東京まで走ったことがあるが、危険極まりない。大型トラックからの風で煽られ何度もこけそうになった。実際、箱根の上り坂で1度はこけた。江戸時代と現代とでは道が違う。

 でも今の市街地なら実家から西天満まででも歩道が整備されていて歩こうと思えば危険なく歩くこともできる。それは歩いたことはないが。

 ボロのママチャリ(自転車)ではたびたび走った事がある。大阪城公園を斜めに走り、片道40分の道のりだ。車道を走るがそれ程危険は感じない。歩けば4~5時間はかかるのだろうと思う。無料。

 そんなことをしているから靴が減る。

 日本用に買った革靴はひも付き半ブーツであるが、チャックが付いている。

 ポルトガルでは自宅ではスリッパで過ごしていて、出掛ける時に革靴に履き替える。一旦履くと帰って来るまで途中で脱ぐことはない。

 日本では途中で靴を脱ぐことが多い。

 長居にある大阪芸大の同級生がやっている画廊『ギャラリー・キットハウス』は、画廊には珍しくスリッパに履き替える。前庭があり、植栽を潜る様に飛び石を渡って画廊に入る。一旦、画廊に上がればスリッパで落ち着いてしまうので、なかなか腰を上げようとはしない。この画廊の良いところでそれが特徴なのだ。

 西天満の画廊『マサゴ画廊』の近くでランチを食べる。大阪でのささやかな楽しみの一つだ。ランチ専門の食堂というところではなく、夜には割烹になるところが、ビジネスマンの為にランチもやっている。テーブル席が満席になると、座敷に通される、当然、靴は脱ぐことになる。上り框などそういった店は大抵が狭い。そんな狭い場所でひも付き編み上げの半ブーツなど脱いだり履いたりは大変である。

 日本で絵描きの友人たちは大抵が革靴でもチャック付きを履いている人が数人は居た。

 あれは便利だと思った。

 ポルトガルでもチャック付きの革靴を探してみた。それが流行りなのか?あったのである。

 チャック付きの半ブーツを見つけて買おうとしたら、チャックは飾りのデザインだけで開け閉めは出来ない。結局は紐を結ぶ靴。そんなのがあること自体可笑しいが、あるのだ。その後、ちゃんとチャックの機能、開け閉めが出来る半ブーツの革靴を見つけて買うことが出来た。

 それを昨年は大阪で目一杯歩き減らした、という訳。

 それでこの程、下町の靴屋に踵の張替に出した。

 MUZの半ブーツも同じように踵が減っているらしく、2足を持って行った。何度も油彩にしている礼拝堂のすぐ傍の古くからある靴屋だ。

 入って行くとお客は居なくて、親父さんと女将さんが何やら深刻な面持ちでひそひそと話し込んでいた。何となくタイミングが悪い雰囲気である。

 「何の御用ですか?」と言うので、2足の靴をカウンターの上に並べた。

 今までも何度も修理に出しているが、それこそ5年に1度くらいのものだろう。馴染みというほどでもない。「お名前は?」と聞くので「タケモト」と言うと「判らないから書いてください」と言って、踵型の紙を出す。それを踵に貼り付けておくのだ。そして「1時間ほどで出来るから、それ以後に取りに来て下さい。」

 実は我が家の階下の部屋が1年ほど前から大々的にリフォーム工事で大工の空いた時間だけ少しずつやっているのか?1年も経つのに、時々は騒音がうるさくて堪らない。その日はそれから逃れたくて、修理の靴を携えて、家を出てきたのだ。だからそんなに1時間くらいで修理が終わってしまっては困るのである。工事人が帰る5時までは家に帰りたくはないのである。

 天気も良いので時間つぶしにビーチを歩くことにした。フィゲイラの広いビーチには20台ほどのクルマが停まっていた。釣りをする人、日光浴をする人、靴を脱いで波打ち際の散歩をする人。

 でもビーチは広いので人はまばら。数年前にリフォーム工事をした、レストラン・カフェは閉ざされていた。折角、海を眺めながらコーヒーでも飲んでゆっくりしようと思っていたのに。

 更に、海沿いの道を走り、ポティーニョのビーチへ。ここではカフェが開いていて、コーヒーとパスティス・フェイジョア(豆餡のお菓子)を食べた。

 広い砂浜には砂浜にしかない珍しい植物が自生していて、時々は訪れる場所だが、未だ珍しい花は咲いてはいなかったがいろいろと新葉が出ている。

 更に波打ち際をポティーニョのレストランが数件かたまってある場所まで歩いてメニューを見てみたが、あまり入る気がしなくてクルマまでUターンした。実はこのレストランは海に突き出した場所で、食事をしながら魚が泳ぐ姿なども見られる程なのに、以前に食べた時などは、明らかに冷凍の魚を出して来たのでそれからは行かなくなってしまったレストランなのだ。折角の場所なのに惜しい。

 クルマでセトゥーバルまで戻り『ミネイロ』で少し遅いめの昼食。ゆっくり食べ、デザートも食べ、デスカフェイナードも飲み、もう3時間も経っているので、そろそろ良いかなと思い、下町の靴屋へ。

 靴屋には先程とは打って変わって大勢の先客。いや、2人の先客。店が狭いので2人と我々2人の合計4人で満杯。

 先客の小父さんは修理に出していた靴を受け取り、新たに修理に出す靴を持って来ていた。そして足元を見ると又、同じようなタイプの靴を履いている。愛着があるのだろう。何度も何度も修理に出して繰り返し履いているのだ。

 思えば以前にセトゥーバルの下町には多くの靴(修理)屋があった。

 僕たちが最初に住み始めたジュンクエイロ通りにも靴屋があって何度かは修理に出した。親父さんが一人で通りから見える店先でコツコツと一日中靴修理をしている店だった。それがもう15年も前からは閉ざされたままになっている。

 ペドロの画廊の隣にも同じような靴屋があった。それもなくなってしまっている。靴屋だけではなく、下町の店は閉店してしまっているか、中華雑貨になってしまっているか、セトゥーバルの下町は寂しくなってしまっている。

 この礼拝堂横の靴屋も親父さんと女将さんがひそひそ話をしているのを見て、ひょっとして閉店の相談でもしているのだろうか?と心配したがそうではなさそうでほっとした。

 MUZの靴は出来上がっていたが、僕の靴は未だ今修理中であって「今、やっているからちょっと待ってください。」と言っている間にも次から次に常連客が訪れていた。そして靴屋の親父さんは急ぐ様子もなく、出来上がった靴のチャックにミシンオイルを垂らし、何度も上げ下げして、今度は靴にワックスを塗りピカピカに光らせてくれた。踵張替代金=10€(紳士靴)6€(婦人靴)合計=16€。

 後から入って来たお客も急ぐ様子もなく、僕たちの靴と親父さんの指先を眺めながら世間話を楽しんでいる。VIT

 

 2019年2月19日(火)にリスボン空港を発ち、約3か月間を日本で過ごし5月15日(水)にセトゥーバルに戻って来る予定です。その間のブログは更新しませんので次回は6月1日になるのかも知れません。大阪には3月1日(金)から3月20日(水)まで滞在し、それ以外は殆どを宮崎で過ごすことになります。大阪では下記日程でのグループ展だけですので気楽な帰国です。お近くの方は是非お立ち寄り下さい。また、宮崎で自転車に乗っている姿を見かけたらお声かけ下さい。自転車ですから急停車も可能です。武本比登志

 

2019年度出品展覧会

第8回 NAC

賛助出品:藤井満先生 

出品:吉田定一、呉景萬、田中昭雄、武本比登志

2019年 3月4日(月)~ 9日(土)

マサゴ画廊 11:00-19:00(最終日17:00まで)

〒530-0047 大阪市北区西天満 2-2-4

℡ 06-6361-2255 / 搬入3月2日(土)17:30より

搬出3月9日(土)17:00

 

第4回 大阪芸術大学美術科4期生同窓展

2019年 3月9日(土)~ 20日(水)

Gallery キットハウス 10:00-19:00(最終日17:00まで)

〒558-0004 大阪市住吉区長居東 3-13-7

℡ 06-6693-0656 /携帯090-3270-5326(岩尾和子)

搬入 3月8日(金)14:00 / 同窓会16:00

搬出 3月20日(水)17:00

武本比登志/武本睦子 出品参加予定

 

 

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 ポルトガルに移り住んでまもなく23年(2012年8月現在)になる。

 最初はセトゥーバルの下町アロンシェス・ジュンクエイロ通りの古い建物ドナ・ヴィアの家の3階、北側の部屋に2年ばかり居た。

 その後、この丘の上のマンションに移り住んだのだが、それも20年を越えたことになる。

 4階建てで一つの階に左右2軒、全部で8軒が一つの入り口から出入りする。郵便受けは玄関ホール内にあり、郵便配達人は8軒全てのベルを押して何れかの家庭から開けて貰う。部屋の玄関脇にインターホンがあり、そのボタンを押すと下の玄関ホールが開く仕掛けだ。エレベーターはない。玄関ホールにはポルトガルのアズレージョが施され、階段は桃色大理石で出来ている。と書けば余程の高級マンションかなと思われるかも知れないが、至って普通、むしろ中の下くらいの所得者住宅であろう。

 裏側の半地下に元駐車場があるが、それを酒屋が全部買い取って改装し倉庫として使用している。酒屋といってもビールやワインは扱わず、高級ウィスキーやブランデー専門で時折トラックが出入りしていたが、最近は倉庫も他へ移転したのかトラックの出入りはない。

 各家庭には先ず玄関ホールがあり、北側にベッドルームが3つあって、南側に居間と台所があり、東に風呂場、玄関ホールの側にトイレがある。

 ベランダは2畳ほどの小さいのが南と北にある。日本の様に洗濯物でベランダが占領されることはない。他のフラットも全く同じ広さだが、ベランダをアルミサッシで塞いで温室風にしていたり、二部屋をぶち抜いて広く取り部屋数を少なくしているところもある。我が家はその北側の2部屋をアトリエとして使用している。

 20年も経つといろいろと出入りもあった。我が家のお向かい4階の左は3家族目であるが、その他は最初からのところも多い。

 日本式に言うと1階の右側にマリアさんのご夫妻がずっと替わらずに住んでおられる。ご主人はヘビースモーカーでかなり足も弱りお歳を召されたが、マリアさんはクルマを古いシトロエンからホンダ・ジャズの新車に乗り換えて相変わらずお若い。

 その向いはロドリゴさん。最初はご夫妻が住んでおられて、その後、娘夫妻が一緒に住みだして、可愛らしいまるで天使の様な女の子がやがてつぎつぎに二人生れた。暫くは狭いところに6人が住んでいたことになる。数年後に若いご夫婦は近くにマンションを買ったらしく引っ越して行かれた。その後はロドリゴさんご夫妻もアレンテージョに農場を買ったとかで、行ったり来たりの生活がしばらく続いたが最近はめっきり姿が見えなくなった。それこそ半年に1度くらい顔を見るくらいで、アレンテージョの生活が余程快適なのか、めったにこの建物には帰って来なくなっている。1階の左は殆ど1年を通して空き家同然ということだ。

 2階のポーリンさんご夫妻はご高齢だったけれど、最初にご主人が亡くなられて、暫くは奥さんが1人暮らしだった。その後、老人ホームに入っておられたが、数年前に亡くなられた。そこは近くに住む娘とパリに住む息子の持ち物になって売りに出されたがなかなか売れないらしく、しばらくはブラジル人の宗教家の家族が借りて住んだりしていたが、今は又、空き家で売りに出されている。

 2階の左はマダレナおばさんが今は猫と一緒に1人で住んでおられる。移り住んで来た当初はご主人のメルローさんと娘のアナモニカも一緒だったがアナモニカは彼氏が出来て結婚し、近所のマンションに引っ越して行った。すぐに可愛いい男の赤ん坊も生れて、時々はマダレナおばさんに見せに来る様だ。アナモニカ自身も最初は無職で嘆いていたが、やがて遠く離れたヴィアナ・デ・アレンテージョの税務署に職が決まり、せっせと辛抱して通っていた様だが、今はセトゥーバルの税務署勤務で、僕たちが税金を払いに行くと、奥の席から出てきて手伝ってくれる。奥の席と言う事は少しは出世しているのだろう。貫禄も付いてきている。

 3階の右側、つまり我が家のすぐ下の階にはフルナンドさんが居るが、最初から南アフリカと行ったり来たりで年の三分の一くらいしか住んでいなかった。大学教授で定年退職し、南アフリカでの勤務も終り、行くことはなくなった様だが、元々リスボンにも家があり、先日から不動産屋の張り紙がしてあって、売りに出されている。でも今も時々は立ち寄る様で、来れば声が大きいので階段じゅうに響き渡りすぐに判る。その下のポーリンさんの部屋も売りに出されているから8軒の内2軒に張り紙があることになる。

 3階の左はカフェを経営しているトニーさんの家だが、トニーさんは既に居ない。トニーさんの奥さんは数年前から足を悪くして階段の昇り降りが大変そうだ。当初はまだ子供だった孫娘がずっと一緒に住んでいるが、ポルトガル人女性の変貌ぶりには目を見張る思いだ。子供の頃の面影は全く消えて、向こうから挨拶をされても「あれっ、誰だろう」などと思ってしまうことがある。適齢期のはずだが未だ独身の様だ。

 4階、つまり我が家の向いは昨年からウクライナからのご夫婦と一人娘の3人が住んでいる。ご主人は大きな人で、奥さんのオルガは美人で愛嬌が良い。娘はまだ高校生だが身長はオルガより高い。以前の住民に比べればもの静かな暮らしぶりで、早朝には3人とも仕事と学校に出かける様だがドアの開け閉め階段の昇り降りなど殆ど物音がしない。土日は家にいるがそれも静かだ。MUZに言わせると洗濯物の干し方もポルトガル人と日本人もそれぞれ違うが、ウクライナ人も独特だそうだ。

 4階の向かいは初めはコエーリョさんのご家族で子供が2人居た。子供も大きくなって狭くなったと言って同じセトゥーバルの新しい大きなマンションに引っ越して行かれた。

 その後に入ったオートールさんご夫婦は生まれたての赤ちゃん連れで引っ越してきたが、その赤ちゃんも見る間に大きくなってやがてMUZの身長を追い越し、僕の身長までも追い越してしまった。又、コンドミニオ(管理組合)の会合の時など僕たちに英語で通訳もかって出てくれた。そのオートールのご家族も狭くなったと言って町の反対側に新しく建った広いところに引っ越して行ってしまった。

 管理人は8軒が1年ずつ交代ですることになっていたが、我が家は日本に帰る期間も長いので出来ないし、フルナンドさんもそうだ。ポーリンさんもいないし、ロドリゴさんもいない。仕方なく4軒で代わる代わりやってくれていたが、その内、オートールさんが管理費を免除という条件で一手に引き受けてくれた、が引っ越して行ってしまった。

 その後、2年前からは、ポーリンさんの娘の提案で管理会社に任せることにした。

 管理会社の仕事は皆から管理費を集めること。(管理費は酒屋も2軒分を支出している。)共有部分の電気代の支払い。階段や入り口ホールなどの清掃費の支払い。共有部分の故障修理などだ。そして年に1回、その収支報告。それは毎年、1月のある日、玄関ホールに皆が寄り集められて行われる。

 ところが今年はつい先日2回目が行われた。収支報告に続いて、建物を塗り替えようという提案だ。

 前回の塗り替えは未だポーリンさんがご健在な頃で、ポーリンさんの提案だったが、すぐに実行された。あれから10年以上も経っている。今回は建物の外壁全体で16,851ユーロがかかるらしい。酒屋も加わっているから、1軒につき1,685ユーロの支出だ。毎月の管理費の余剰金では賄えない。

 我が家は今のところ大丈夫だが、家によっては雨が浸み込むところがあるらしく、塗り替えによってそれは防げるらしい。でも1,685ユーロはどこの家庭も痛い出費だ。

 「雨が浸み込むのは南側だけだから南側だけの塗り替えにしてはどうか?」と管理会社からの提案もある。南側だけなら余剰金を加えて1軒に付き300ユーロの支出。「300ユーロなら良いだろう」と皆の意見が一致しそれに決定をした。

 7月から4ヶ月に亘って月々一軒につき普段の管理費とは別に75ユーロずつを特別に支出しなければならない。そして塗り替えは10月と決定した。筈である。

 そしてその管理会社に先日赴き我が家ではまとめて300ユーロを支払おうと申し出た。が「ちょっと待ってください」と遮られた。

 決定したと思ったのは早とちりなのか、或いは先日には欠席をしていたフルナンド教授あたりから異議申し立てがあったのか、まだ正式決定はしていないのだそうだ。

 マリアさんもオルガもマダレナおばさんもそれについては何も言わない。

 それにフェリアス(ヴァカンス)の時期だ。

 まあ、何か言ってくるまで閉じ籠っていることにしよう。

2012年7月24日 VIT(2012年8月号)

 

 

(この文は2012年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

 

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 このコーナー、2月にアップしてまもなく7月。5ヶ月の長きにわたってお休み。いざ、何か書こうと思っても頭の中から文章が涸れてしまっている。
 毎年日本に帰国している間の2~3ヶ月はお休みと決めているが、今年は特別長かった4ヶ月の日本滞在。元々、乏しい文章力、何処から手を付けてよいのやら、ホームページビルダーの使い方まで忘れてしまっておぼつかない。涸れてしまった井戸を回復するのにはどうすればよいのやら、とりあえずパソコンの前に座ってキーボードを叩きながら雨乞いのおまじないをするしかなさそうだ。

 日本から戻って1ヶ月。「えっ、未だ1ヶ月。」という感じだが、1ヶ月にしては実に密度の濃い1ヶ月であった。
 申請をしてまもなく1年も経とうとしているのに未だ再発行されていない運転免許証をめぐって2度、3度とACP(ポルトガル自動車協会)に足を運んだし、前もっては支払えないため延滞金を含む住居の固定資産税。クルマの税金の払い込み。車検。その指摘によるちょっとした自動車修理。デジタルに替わった為のテレビの買い替え。配線工事。

 それから画材を仕入れにリスボンまで1度、トラブルがあってもう1度。キャンバスロールを仕入れにリスボンの先のケルースのまだ先まで1度。そしてキャンバスを20枚ばかり張り、来年のNACKシニア展用の50号3点の制作開始。これは半ば。いや2分程度。おまけにアルコシェッテのアウトレットモールとピニャル・ノヴォの露店市。いやはや目まぐるしい。

 夏の猛暑枯れを前に未だ花が残っている内にと、アレンテージョ地方の農家ホテルに1泊旅行。日帰りではエスピシェル岬に2度。フェリーで渡って対岸のトロイア半島に1回。

 そして先日はルーゾで2泊。ルーゾに行くのはこれが初めて。22年もポルトガルに住んでいるのに初めて。(絵のモティーフがなさそうなところには興味がないからだが…)
 ルーゾとはポルトガルで1番有名な水の湧き出る産地。スーパーでも5リッターや1,5リッターのペットボトル入りのルーゾの水は必ず売られているし、レストランで水を注文すると、ガラス瓶入りのルーゾの水が出てくることが多い。(我が家ではいつも違う産地の水を買うが…)

 ルーゾにはブサコという宮殿のある大きな森がある。その森はポルトガルを代表する国立公園とも言われている。日本からの団体ツアー旅行には必ずと言っていいほどブサコの宮殿で1泊というのが定番。(だったのだが最近はそれほどでもなくなったのかも知れない。)

 そのブサコの森に、森に咲く花の探索に出かけたのだ。アレンテージョの沿道や牧場の花はほぼ終り。涼しい森なら未だ違う種類の野草が楽しめるかも知れないと思って出かけた。(この2~3年はこの時期、エストレラ山に出かけて山の花の探索をしたのだが…。)

 ホテルに着くと先ずブサコの森の地図をくれた。ルーゾのホテルに泊るということはブサコの森を歩くと言うことなのだろう。
 次の日には森の中心にある宮殿までクルマで行って、そこを中心にして探索するつもりで、その日はホテルから近場の森だけを歩いてみた。
 すぐに階段道になり、水がしみ出て石段もなかば崩れかかっている。植生はシントラによく似ている。ジキタリスやエリカは今が盛り、そして既に花は終わってしまっている陰生のスミレ。
 森の中に入るとやはり涼しい。念のためとリュックにはウインドブレーカーを2着入れてあるし、道に迷って遭難しても大丈夫な様にLEDの小さな懐中電灯。一包みのマリアのビスケットと板チョコ、飴玉、ナッツ類と干し葡萄を少し、それにペットボトルの水。
 涼しいといっても歩くと身体が火照ってくるのでウインドブレーカーは着ないまま、結局リュックの中身で使ったのは少しの水だけ。1年で1番陽の長い6月下旬。鬱蒼として薄暗いと言へども、いつまでも明るい。道に迷うこともなかった。

 ホテルには屋内プールもあるし、部屋にはジャグジー付きのバスタブも備わっている。数十もの部屋があるのに、泊り客は我々を含めポルトガル人とフランス人などの老人ばかり5~6組程。三ツ星でビュッフェ式朝食付き、2人で1泊42ユーロはこの時期としては安い。

 翌朝、朝食を済ませ、ホテルのフロントでブサコ宮殿までのクルマでの道を尋ねると丁寧に教えてくれたが最後に「歩くほうが気持ちが良いよ~」とのことだったので歩くことにした。メルカドでパンと2種類のハムを買って出かける前にサンドウィッチの弁当を作った。リュックの中味は昨日と同じ遭難対策常備品プラス、サンドウィッチ。

 森には標識などが殆どないので、地図と照らし合わせてもどこをどう行けば良いのか判りにくい。 
 途中、木々の間から谷下の方にアジサイらしい明るいブルーが見えたので行ってみた。池があり、その周りはアジサイが今が盛りと咲き、椿が残り花を付けていた。そしてヘゴが遊歩道にたくさん植えられている。姿も見えない野鳥が美しい声で、森に響く大きな囀りを聞かせてくれる。アジサイや椿、ヘゴなどは人によって植えられたものだが、そんな中、いろいろな野草が負けじと花を付けている。歩いて来て良かった。ホテルのフロント係りに感謝だ。

 宮殿よりさらに上の森の木漏れ陽の中で昼食にしたが、こんこんと水が湧き出ている。まる1日森の中を遊歩道からもそれて藪こぎもし探索したけれど、あまりこれといって目新しい花も見つからなかった。でも森林浴は気持ちが良い。この豊かな森が美味しいルーゾの水を育んでいるのだ。

 ホテルの部屋からはまん前にルーゾの水汲み場が見える。歩いて1分だ。その反対側のカフェテラスに座ってビールとトレモス(ルピナスの実の塩漬け)でちょっと一杯。
 水汲み場には5リッターのペットボトルをたくさん抱えた人々がひっきりなしに行き交っている。近くにクルマを停めて10個も或いは20個もの5リッタータンクを持ち帰る人もいる。水の落ち口は10程もあり、順番待ちをすることもなく、水は汲み放題、無料だ。我々もあらかじめ6リッター入りのタンクを用意してきた。
 湧き出している場所には綺麗な玉石が敷き詰められていて、こんこんと湧き出ている様子をピラミッド型のガラスを通して見ることもできる。決して涸れることはなさそうだ。水は汲みだせば汲み出すほど、水脈はそこに集まり流れをより太くするのだろう。

 文章でも絵画制作でもそれと同じ様に思う。書かなければ涸れてしまう。描かなければ涸れてしまう。描けなくても先ず、例えば赤を塗る。その赤が気に入らなければ違う赤を上に被せる。或いは赤の横に緑を置いてみる。人によっては青かも知れないし、黄色かもしれない。そこに人生観の違いが生じるし個性が生れる。そして次の色を乗せたくなる。さらにどうしようかと課題が生じる。そうして絵が生れてくる。先ず色をのせることから始まる。
 豊かな森を育てて涸れさせないことが大切だろうけれど、もし涸れてしまったら先ずそうする他ない様におもう。
 さて、涸れてしまった僕の頭の中の文章、文字を拾い集めることから始めることにしよう…。VIT(2012年7月号)

 

(この文は2012年7月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

 

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 父、武本憲太郎は今年(2012年)5月28日100歳5ヶ月と10日の生涯を閉じました。

 最後は自宅で兄の介護の元、眠るように息を引き取ったそうです。

「新居浜のでべら」武本憲太郎・油彩・サムホール

 明治44年12月18日、武本幸三郎と君代の5男として愛媛県新居浜市に生れました。兄は4人、姉は2人。7人兄弟の末っ子です。すぐ上の姉は未だ103歳を越えても元気で居ます。

 何でも岡山県の山あいには今も武本姓ばかりが住む小さな村があると聞いたことがありますが、武本家の先祖で判っているのは1700年代に尾道に住む福山藩士、竹ノ内小十郎の子、嘉平太が尾道、向島で塩田を営み、その際、竹ノ内から武本に改名したという記述が残っています。

 僕の祖父、幸三郎は先祖が作った財産で金貸業を営んで居た様で、そのかたに美術品を集めるのも仕事で目利きもあったようです。趣味も兼ねていた様にも思います。

 父の4兄のうち2人が医者でしたが、祖母の家系には医者が多く、先祖は今治城のお抱え医者をしていた様で、祖母自身も薬剤師の免許を持っていました。新居浜の屋敷の玄関土間には大きく立派な薬箪笥があったのが印象的でした。

 お屋敷は広く蔵もありましたが、蔵とは別に神社の近くにあったことからか、庭の一角には地車(だんじり)が収まっている黒く塗られた大きな地車(だんじり)車庫もありました。

 祖父が亡くなった後の祖母の晩年は大きな屋敷に1人住まいでお琴の先生をしていました。生徒さんの出入りも多く、座敷にはお琴が幾つも立てかけてあったのを覚えています。

 父は子供の頃は剣道少年でありましたが、祖父が集めた美術品に囲まれても育ち、美術好きの少年でもありました。父と祖父はそんな家系にあって、異端児だったのかも知れません。父は小学校の頃から絵を描くのが好きで上手で、先生から教室の黒板にチョークで虎を描かされた、と言う話も聞いたことがあります。

 画家になりたくて、親戚中の反対を押し切って東京美術学校(現東京芸大)を受験しましたが、失敗に終わりました。滑り止めの為受験した日大芸術学部には合格しましたが、反対を押し切ったため仕送りもなく授業料が払えずすぐに中退となりました。当時は未だ武蔵野美大も多摩美大もない時代でした。

 就職試験ではいろいろと受けたそうですが、公務員の大阪府庁なら絵を描く時間が取れそうだということで、そこに入りました。最初は守口保健所勤務だったそうで、その頃に知り合った人たちとはその後も長く付き合っていたようです。

 大阪府庁の美術部に入り、中ノ島洋画研究所に通い本格的に絵を描き始めます。講師には鍋井克之、国枝金蔵、古家新などが居ました。古家新が会員だった戦前の二科展に父は何度か入選しています。

 軍の召集では未だ戦禍がそれほど激しくなる以前でしたので、大連あたりに赴きましたが、何冊かのスケッチブックも残しています。父はあまり戦争での話はしませんでしたが、死ぬ思いもしたそうで、戦友たちのお陰で生きて帰ってこられた、と言っていました。

 未だ戦時中でしたが退役してやがて母、千登瀬と結婚をしました。母は父より13歳も年下です。地方公務員なので大阪以外への転勤はなく、それからはずっと大阪生活です。僕の兄は昭和19年生れです。僕は戦後の昭和21年生まれ。妹は昭和24年で兄妹共が大阪生れです。

 僕が物心ついた頃には父は大阪府庁で通商課の観光係というところで係長をしていました。既に部下が何人かいましたが、僕が知る主な仕事は外国人むけの観光パンフレットなどを製作していました。

 父は戦後は古家新などが創設した行動展に出し始めました。まもなく会友にはなりましたが、府庁の仕事の方が忙しくなりなかなか制作の時間が取れないのも悩みでした。それでも画家仲間とスケッチ旅行にはしょっちゅう行っていた様です。

 行動美術の仲間にはパリで住み絵だけで生活が成り立っている画家も居て、とても羨ましがっていました。絵を描く時間がなかなかとれないと言っても、僕の子供の頃の僕の家は油絵の具のポピーオイルの匂いで満ちていました。友人の家が大根の煮る匂いがするのに対して、僕はポピーオイルの匂いのする我が家が気に入っていました。

 その頃の公務員は薄給で、父も絵の具代を賄うため半ドンの土曜日には自宅で近所の子供たちを集めて児童画絵画教室をしていました。僕もその生徒の一人でした。

 行動展の関西支部やその他の会などが集まって創造美術と言うのも立ち上げたのもその頃ではなかったかなと思います。そんな行動美術や創造美術が会員たちに児童画教室を推進していた様で、天王寺美術館で催される展覧会には必ず児童画展が併催されていました。

 府庁では通商課観光係に移ってからは父の場合全く移動がなかった様です。外郭団体には大阪工芸協会などもありました。

 そんな関係からか父は日本民芸協団の理事にもなりました。日本全国、時々は九州や沖縄などの民芸陶器の故郷を訪ねる旅にも参加しています。そして国内に留まらず、海外の民芸陶器や織物などを訪ねたりもしています。アジアや中東、南米などにも及びました。そしてその先々でスケッチを描いています。

 府庁から出張でヨーロッパへ行った事もありました。父の海外旅行は50カ国に及んでいます。

 僕が20歳代の頃には4年半をスウェーデンで過しましたが、その時にも出張の途中、父はストックホルムの我が家を訪ねてくれています。

 僕は40歳を越えてからポルトガルに住み始めました。その翌年にサロン・ドートンヌに入選をしましたが、それを観るためという名目で80歳になった父がパリとポルトガルに訪ねてくれました。そしてポルトガルで1ヶ月を過しました。パルメラで一緒にスケッチブックを広げたのは今では懐かしい思い出です。その頃は未だ下町の古い家に間借りをしていましたが、その後移り住んだ今のマンションのアトリエからはそのパルメラの城を望むことができます。

 僕はポルトガルに住み始める前は宮崎の妻の両親が経営をしていたドライブインをやり始めました。

 妻の両親とも学校の先生でしたが、多くの人を雇ってドライブインとビジネスホテルを経営していました。少し手を広げすぎたのか手が回らなくなり、僕たちが手伝うことになったのです。

 そこにも父はたびたび訪れてくれました。美しい澄んだ水を使っての鯉料理やそうめん流しを出す店でした。父はその鯉のあらいを美味しそうに食べてくれました。僕も鯉料理が得意になりました。

 僕は一日中忙しくて父とゆっくりする時間もありませんでしたが、父はそのあたりに出かけては油彩の風景画を仕上げて帰ってきました。僕などはとても絵になる様なところではないと思ってスケッチにもしませんでしたが、父の手に掛かると立派な油彩作品になっていました。そしてスケッチの帰りや庭からも野草を摘んできては生け花を生けて店に飾ってくれましたが、それは見事なものでした。
 父はこんなことも言っていました。「花屋で買うてきたバラでは絵にならん。茎が揃うてて面白うない。やっぱり、庭で自分で育てたバラでないと面白い絵にはならん。」

 そう言えばスウェーデンでも一緒にスケッチをしましたが、僕は「えっ、そんなとこ絵になるのん」と言ったのを覚えています。ポルトガルでも一緒にスケッチブックを広げましたが、不思議と同じ場所に立っても描く方向が違ったりします。

 僕は父から絵のことについて有言、無言でいろんなことを学んできましたが、やはり育ってきた時代、環境が違うのか、微妙に捉え方が違うのが面白いところです。

 父の風景画で一番新しいのはポルトガルの絵かも知れません。ポルトガルから帰って何年もかけてポルトガルのスケッチを元に油彩を描いていた様に思います。

 僕はポルトガルに移り住んでからは毎年何箇所かで個展をしています。父は日本国内での個展、その殆ど全てを観に来てくれました。個展の準備は宮崎の自宅でするか、実家(父の家)でするかです。準備の途中で備品が切れたりもします。「あっ、セロテープ切れてしもた~。」などと発すると、父はすぐさま自分の自転車を出して買ってきてくれたりもしました。90歳を過ぎた父がです。

 父が94歳の時だったか、僕たち夫婦がパリのサロン・ドートンヌの合間を縫ってミレーの生れ故郷を訪ねる旅をした時、その途上、小雨が降るシェルブールの町角をホテルに戻りかけたところ、日本に居る妹から携帯に電話が掛かりました。それは父が倒れたと言う知らせでした。パリからリスボンに戻る切符をキャンセルして急遽日本へ帰りました。

 手術は巧くいって一時は元気を取り戻したましが、歳も歳、徐々に弱っていった様に思います。
 99歳になった昨年の夏にも倒れました。兄からの電話で「覚悟しておいてくれ。」とのことでした。その後の電話では「少し回復をした。でも意識のあるうちに一度帰ってきてみてはどうか。」とのことでしたので、1ヶ月ばかり帰国することにしました。そして父との時間をゆっくり過すことができました。野田総理からの100歳を祝う表彰状も届き、僕の手で壁に飾りました。

 今年はポルトガルに移り住んでから1番長い4ヶ月ばかりを日本で過し、5月24日のフランクフルト経由の便でようやくポルトガルの我が家に戻ってきました。戻って2日目に兄から電話がありました。父が亡くなったという電話でした。

 その後、妹からメールが届きました。以下、一部を抜粋します。

 「亜基良兄から聞かれたことと思いますが、父は5月28日の午前0時過ぎに、眠るように亡くなっていたそうです。1時間ほど前には話もしていたとのことで、父は自分が亡くなったことに気づいていないかもしれません。兄は父があまりに静かなので様子を見ると息をしていなかったそうです。すぐに心臓マッサージをしながら田島先生に連絡をしたというのを聞いて、まだ生かそうとしていたのかとあきれましたが、兄には黙っていました。兄でなく私が当番だったら、きっと朝まで気付かなかったことだろうと思います。」
 兄と妹の介護には感謝をしたいと思います。
 そして兄の娘たち、看護婦さん、ヘルパーさんたちと多くの人たちに囲まれての最晩年でした。
 でもよく100歳までも長生きをしてくれました。

 僕と父との最後の会話は、ポルトガルに戻る前日でした。父はいつものようにベッドに座ってうたた寝をしていました。手も足も布団から出ていましたので、手足をさわると冷たかったので、さすってやりました。父は「おかあちゃんの手は温うて気持ちええわ~。」と嬉しそうに言いました。僕は「おかあちゃんと違うで~。比登志やで~。」と応えました。父は照れ笑いの様に「ほっ、ほっ、ほっ」と声を出して笑いました。父はその時、どうやら母の夢を見ていたのかも知れません。僕は父の母との夢の時間を打ち破ってしまったことに多少の後悔をしています。

 母は10年も前に亡くなっています。今頃は天国で母との再会に喜んでいるのかも知れません。  

2012年6月12日、ポルトガル、セトゥーバルにて
武本憲太郎の次男、武本比登志筆

 

(この文は2012年6月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

 

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明けましておめでとうございます。

 

2019年1月1日 (7:55)我が家のベランダから撮影の初日の出

160. アルガルベ地方小さな旅日記

 例年ならクリスマスにあわせてアルガルベ旅行をするところだが、今年は少し早めた日程になった。元々は油彩を描くためのモティーフを求めてポルトガル全国至る所に出掛けてはスケッチを描いてきた。年間50枚ほどの油彩を描くためのエスキースであるからそれ程は必要ではなかった。それでも長年にわたってのスケッチ、それが800枚1000枚と溜まっていく。

 数年前に思い立ってスケッチに淡彩を施し『ポルトガル淡彩スケッチ』というブログを始めた。それと一緒にメモ程度の日記を掲載している。これは毎日であるから、帰国で居ない時、旅行で居ない時は除いても年間200枚程のスケッチを掲載していることになる。それが先日で1600枚を超え2018年大晦日で1668景となった。

 当初は油彩用に描いたスケッチを描き直して淡彩を施していただけが、それでは間に合わなくなってしまって、今は淡彩スケッチを描くためのスケッチが必要ということになっている。

 今までもおおよそ他人の行かないところまで貪欲に足を延ばし描いてきた。でもまだまだ行っていないところも多いし、一度は描いたところでも立ち位置を1メートル2メートルずらすと、もう違う絵が出来上がってくる。

2018年12月20日(木曜日)濃霧のち晴れ。降水確率4%。

 朝食を済ませ8:30出発。少し通勤ラッシュ。濃霧。天気予報を見てからホテルの予約を入れたのだが、予報に濃霧までは予測がなかった。先日からフロントガラスが曇る。設定が旨く出来ていないか、排気口にゴミが詰まっているのか。或いは故障か。フロントには風が出ているのに曇る。弱いのだろうか?濃霧はいっそう強くなったり、弱くなったりでグランド―ラあたりまで。グランド―ラのリードゥルでトイレ休憩。

 ミモザの少し手前の松の大木にコウノトリが集団で巣を架けているのを以前から見ていたのだが、一瞬で通り過ぎてしまい、一度は停車して写真を撮りたいと思っていた。それがこの程、クルマ助手席の窓からの撮影が実現。

01.松の大木はコウノトリの集合住宅

 ミモザのドライブイン『サン・セバスチャン』でコーヒー休憩。コーヒーx2=1,40€。バカラウ・コロッケx2=2,60€。合計=4€。ヴィザカードで支払い。ヴィザは5ユーロからとのことで、5ユーロのレシートで1ユーロの現金でお釣りをくれる。このドライブインは例年クリスマス・プレセピオが飾られていて見るのを楽しみにしている。今年のものは昨年のよりは少し小規模だが可愛らしい。

02.ドライブインのプレセピオ

 もう既にアルガルベ地方、メッシ―ネスのドライヴイン・ガスステーション『ペトロソル』で昼食。豚ステーキのタマネギソース和え、ポンフリ、サラダ=7€。バカラウ・ブラス、サラダ=7€。ノンアルコールビールx2=2€。フルーツサラダx2。合計=16€。

 アルブフェイラの『リードゥル』で今夜のツマミの買い物、茹で蟹(サパテイラ・グランデ)9,99€。チョリソパン=0,79€。ピザパン=0,79€。箱入り赤ワイン1Lt=0,95€。リンゴ800g=0,99€。ミネラルウオーター(ルーソ)1,5Lt=0,57€。合計=14,08€。

 帰る日(22日)にリスボンの中華食品店『陳氏超級市場』のアルブフェイラ支店で買い物をして帰ろうと場所を確かめに行く。住所付近には『陳氏超級市場』はなかったが別の中華食品店があった。多分『陳氏超級市場』は撤退して他の人が経営を引き継いだのだろう。置いてある商品はだいたい同じ、ついでにツマミなどを買う。レシートを貰っていないのか、失ったのか、支払金額不明。おおよそ6~7€。

 ホテルに14:30に到着。フロントにはチェックインする人で5~6組の列。部屋はA503。海も見えて良い部屋だが東向き。荷物を置き、ビーチを散策。泳いでいる少年もいた。ビーチのバーでビール、生ビールx1。ノンアルコールビールx1。合計=4€。別の道、ホテル・モニカ・イザベルの方からホテルに帰る。テニスコートの横で灌木に地味な黄色の5~6弁花。これは初見花。ホテルの正面入り口付近はブルー系のイルミネーションで飾られている。駐車場の10株程の椰子の木にもらせん状にイルミネーション。椰子の株元にはポインセチア。入り口を入るとプレセピオ。

 部屋のテレビで先日のセトゥーバル対ブラガの試合を観ながら蟹を食べる。映画は映らない。部屋は寒くて、暖房を入れ、風呂に2回入り、毛布を掛ける。星空、多くの漁火。ファーロ空港に降り立つ飛行機のライトが見える。そして潮騒の音。

2018年12月21日(金曜日)晴れ。降水確率0%。

03.ホテルの部屋からの日の出

 朝は真正面から日の出。7:50頃に朝食サロンに。初めは空いていたがやがて満席に。殆どが英語。ウエイトレスも英語。たっぷりと食べ、たっぷりと飲む。

 9:00出発。やはり『ズー・マリーン』は冬休み。寄り道スケッチをしながらサグレス岬を目指す。でもポルトガルの沿岸線はどこも都会化或いはリゾート化され、絵になるところは少ない。日本でいう寒漁村というイメージはない。寒村は内陸部にあり、僕のモティーフはそちらの方が多い。

 途中パールシャルという町に立ち寄り、少しスケッチをし『デ・ボーラ』でトイレ。ついでに店内見学、買い物。紙ナプキン=0,59€。シャンプー750ml=0,99€。ベニテングタケとマツカサのクリスマス・リース用飾り=7,99€。合計=9,57€。

 街を出ようとすると踏切線路、そして駅が見える。引き返し駅へ、撮影。丁度列車が到着、数人が乗り降り。ファーロとラーゴスを結ぶ線で1日に往復14本があるらしい。駅舎はレストランになっていて、コーヒーを飲む。コーヒーx2=2€。

 ラーゴスの手前でアンタの標識があったので行ってみた。綺麗に整備された『アンタ遺跡』で入場料が1人2€x2=4€。カタログ=1€。カタログも葡語の他に英語、仏語、独語、西語と揃っていた。初めて見る形のアンタだ。他にも2組3人の見学者。オリーブの木に小さな実が一杯成っていて道にもたくさん落ちていた。誰も収穫しないのか?勿体ない。

 サグレスの魚競り市場のレストランを目指したが休み。その手前のレシデンシアルのレストランも閉まっている。ベリッチェ岬のレストランも定休日。日本では金曜日は来ン曜日とか言って、お客は少なく定休日にしているところが多いとのことだが、ポルトガルでも金曜日はどうも定休日が多いようだ。

 アルガルベ地方では例年のクリスマス時期には既にアーモンドの花が咲いているのだが、今回は2~3日早いだけなのに一輪も見られない。

 サグレス岬の駐車場付近で野の花観察。やはりヴィオラ・ペルシシフォリア(桃葉スミレ)は咲いている。ロブレア・マリティマ(スイート・アリッサム)やアレクリン(ローズ・マリー)もたくさん咲いている。この岬のアレクリンは濃色が多い。しかし目新しい花はなし。

 ビラ・ド・ビスポの方角に帰ろうとすると『漁師の食堂』の看板。そちらに行ってみたがやはり定休日。その先にもう一軒レストランの看板。たくさんの商用車が路上駐車をしている。これは期待が出来ると入ってみる。入り口の黒板に今日のメニューは鶏の炭火焼き。冷蔵ショーケースには新鮮な鯵。これで決まり。鶏の炭火焼き=7,00€。鯵の炭火焼き=8,00€。生ビール=1,00€。ノンアルコールビール=1,50€。デザート2,5x2=5€。合計=22,50€。デザートを食べ終える頃には既に3時を回っていたので、ウエイターの小父さんはすぐに会計のレシートを持ってきた。「デスカフェイナードも注文しようと思っていたのに」と言うとデスカフェイナードを持ってきたが「もうレシートを切ってしまったのでコーヒー代金はいらない」という。なかなか良い店が見つかった。鯵などは新鮮で大きいのが7尾も付いていた。食べ切れないので持って帰ったが、ホテルでも食べられず冷蔵庫に入れておいて結局自宅まで持って帰った。日本人らしきカップルが居たが話はしなかった。旅行者だろうか?

 ホテルに帰る途中、ラゴアのジュンボGSでガソリンを満タンに。24,12Ltx1,369=33,02€。クルマの正面に大きな満月。ホテルに戻ったのは暗くなってから。部屋のテレビは映画もなし、サムスンで薄型テレビに代わっていたが画像が乱れ見にくい。エアコンの温度を上げる。

2018年12月22日(土曜日)晴れ。降水確率0%。

 7:50から朝食。今朝もたっぷりと食べ、たっぷりと飲む。アルブフェイラ出発前に中華食品で豆腐などの生ものも含め、買い物をして帰る予定なので、ホテルの冷蔵庫で1,5リッターのミネラルウオーター2本を昨夜から凍らせておいた。

 ホテルを9:00出発、チェックアウト時に鍵のデポジット10€を受け取り、先日撮った花を朝の光で撮る。

 アルブフェイラ、ベラ・ヴィスタ地区の中華食品店『Folhas Queridas愛の葉っぱ』へ。土曜日の朝だからか、中国人常連客で賑わっていた。大根2,02kgx1,95=3,94€。白菜0,8kgx1,95=1,56€。即席ラーメン(出前一丁)0,60x6=3,60€。焼きそば乾麺418g=1,95€。餃子皮200g=2,50x2=5,00€。醤油(万家香)1Lt=3,50x2=7,00€。豆腐500g=1,30x2=2,60€。牡蠣油907g=4,95€。キッコーマン醤油1Lt=7,25€。油揚げ=2,80€。合計=40,65€。サーヴィスで凝った来年のカレンダーをくれたが、見にくくて恐らく使えない。凍らせた水と一緒に必要な食料、それに鯵を保冷バッグに。

 当初はヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオで話題のプレセピオを見学して、カストロ・マリム経由で帰る予定だったが、少々疲れたのでIC1で。スケッチをするつもりですぐに横道にそれた。それたすぐにはいい場所があったが、その後はなかなかスケッチの出来るような村はなく、代わりにアルブツス・ウネドが綺麗に群生しているところで撮影が出来る。

04. アルブツス・ウネド(イチゴの木)の白い花と赤い果実。この赤い実から特産の焼酎ができる。

 途中風変わりな標識、ヘリコプターとタンクローリーが水を汲める場所。小さな池があった。こんな水溜り程度の池でもヘリコプターで水が汲めるのだ。2018年8月に1週間燃え続けたモンシックの山火事もここからそれ程遠くはない。そう言えばその時のモンシックの山火事でユーカリと共にこのアルブツス・ウネドの木がたくさん燃えてしまった、とニュースは伝えていた。赤く熟した実を口に含んでも甘酸っぱくて美味しいのだが、赤い果実は蒸留酒の原料となり、アルコール度数46度もの強い酒になり、アルガルベ地方の特産品ともなっている。

05.水汲み場の標識

 いっぱいの朝露を受けて、エリカ・アルボレアも咲き始めていた。それとカモミールとアブラナ科の小さな花が一面に花盛り。この辺りは低地なのか湿度が高い。

 あちこちにため池がある。その先の地道を奥へ奥へと行くとやがて行き止まり。イギリス人のコミュンがあった。こんな奥地の古民家を買って、キャンピングカーも交えてイギリス人が数家族で暮らしているのだ。イギリスなどと比べると物価は安いし、暖房費はいらない。余程過ごしやすいのだろうと思う。それに加え、英語を話すポルトガル人は増えている。

 道は水没して行き止まりになっていたので元来た道を引き返し、舗装道路を行く。行くがスケッチの出来そうな村には行き当らず、お腹も空き始めたので、アルモドバール方面行きの道に出る。ようやく店が1軒。クルマが停まっていた食堂風の店に入ったが「昼食はやっていない。3キロ先にあります」とのことで3キロ先の食堂に入る。ほぼ満席。空いていた入り口付近の席へ。黒豚のステーキx2。ポンフリ、サラダ、ノンアルコールビールx2。デスカフェイナードx2。合計=16€。この辺りはどこも安い。黒豚のステーキが2枚ずつもついてこの価格。

 アルモドバールはつい先日もスケッチをしたところだが、再度歩き回ってスケッチ。少し大きな町ともなると、どこもクリスマス・イルミネーションの飾り付けがあり、スケッチの邪魔になるが、仕方がない。

 アルモドバールに着くまでに思った以上に難行したので、IP2に乗って、べ―ジャ経由で帰ることにした。

 西日はすぐに沈み、空一面に広がった夕焼けが美しい。美しい夕焼け空を楽しみながらゆっくりクルマを走らせたいところだが、他のクルマの流れに沿って、それ程広くもない道路を100キロ前後での運転。やはりフロントガラスが曇り始めたが、左側の吹き出し口のスイッチがオフになっていた様で逆にすると、曇りはほぼなくなる。

 フェレイラ・デ・アレンテージョからカナル・カベイラそしてIC1に入りグランド―ラ。グランド―ラの『コンチネンテ』でトイレ休憩。夕方のコンチネンテは買い物客で一杯。カフェに席が空いたのでデスカフェイナードx2。パスティス・デ・ナタx1。「コンチネンテのカードをお持ちですか?」で出す。合計=1,60€。

 家に帰りついたのが19:30頃だったか。いつもの駐車スペースは塞がっていて隣のマンションの前へ。買って帰った中華食品などを冷蔵庫に入れ、風呂に入り、テレビの映画も観ないでぐっすりと眠る。

 帰った翌日はアルガルベで買って来たベニテングタケのクリスマス・リースの追加をぶら下げ、ボーロ・レイ(ポルトガルのクリスマスケーキ)にアルブツス・ウネドの焼酎をたっぷりと振り掛けクリスマス気分を味わうこととなった。

 ちなみにボーロ・レイを食べる日は1月6日である。

 あまり描くところがないように思った旅だが、それでもスケッチブックの1冊が埋まってしまった。VIT

 

 

 

「ポルトガル淡彩スケッチ・サムネイルもくじ」

https://blog.goo.ne.jp/takemotohitoshi/e/b408408b9cf00c0ed47003e1e5e84dc2

 

 

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