ポルトガルに住んでこの9月で丁度30年。1990年9月19日、トランク一つでリスボン空港に降り立ち、3日後からセトゥーバルの下町に飛び込みで部屋を借りたのが始まりでした。当初はこれほど長く住むとは思わなく、せいぜい1年か2年。それが2人ともポルトガルの気候風土が余程身体にあうのか、5年が10年になり、気が付けば30年です。

 パソコンを始めたのが20年程前、すぐにサイトを立ち上げましたが、サイトは10年程で立ち消えになり、ブログに移転。ブログに淡彩スケッチを掲載し始めて1000景に達した時に、マサゴ画廊から淡彩スケッチの個展をやりませんか?とのお誘いがあり、2017年にやらせて頂きました。実はその以前から長居の『ギャラリーキットハウス』からお誘いはあったのです。

 そして今回、2020年9月は大阪芸大同級生がオーナー、長居の『ギャラリーキットハウス』です。2020年9月1日現在2192景。その中から40景の展示です。

武本比登志ポルトガル淡彩スケッチ、2192景『ペニシェの町角』

 そして大阪芸大同級生、ワイフである睦子との初めての2人展。大学で同級生になってから一時も離れず、一緒に世界中を旅し、同じものを食べ、同じものを見てきましたが、生まれ育った環境の違いからか生み出される作品は随分と違います。

 睦子は『ポルトガルの野の花』という植物事典風のブログを作っています。そしてそれを抽象表現した絵を描いています。

武本睦子『リナリア・アメジステア』

 睦子は南九州、都城生まれで、僕は大阪、東住吉生まれです。都城弁と大阪弁、言葉も通じず、遠く離れた国際結婚の様なものですが、実は4世紀末にも大和の仁徳天皇は都城から日向髪長媛をお妃として迎えています。髪長媛は大和に養蚕技術を伝え、蚕(かいこ)の餌となる桑を植えました。後に桑津という地名が生まれた由縁はそこにあり、実家近くには髪長媛を祀った桑津神社があります。そして僕は桑津小学校の出身です。

 睦子と出会うずっと以前、僕が小学生の頃、長居といえば僕たち悪餓鬼の遊び場でした。未だ地下鉄もここまではなく、公園も整備されていなく広大な競馬場の跡地。そんな光景が頭を過り何か縁を感じます。

 僕は桑津小学校に通っていましたが、桑津小学校高学年の時、久保田君と同じクラスになりました。我が家からほんの1分のところに久保田君の家があり、すぐに親友になりました。久保田君は背も高くハンサムでカッコよく、野球なども上手でした。僕たちはせいぜいグローブとバットを持っていれば良い方でしたが、久保田君は上下のユニフォームまで着ていました。そして自転車を持っている仲間が悪餓鬼として久保田君の周りに集まりました。久保田君は一人っ子で両親から何でも買ってもらえる状況でしたが、僕はそんなのを随分羨ましく思って、僕も一人っ子に生まれたら良かったのにな、などと思いました。僕は兄と妹が居る3人兄弟の真ん中です。久保田君のお母さんも美人でした。家に行くとお母さんが内職をしていました。図書館の本にビニールカバーをする内職です。本に合わせてビニールを電気ごてで貼り付けていくといったものでした。お母さんに挨拶をすると恥ずかしそうにした笑顔が印象的でした。

 ある日、久保田君が情報を仕入れてきました。西田辺のお店で『飛び出しナイフ』が売っていると言うものでした。その頃は西田辺が地下鉄の終点駅でした。早速、2人は自転車で見に行きました。刃渡りの長いのと短いのと2種類が売られていましたが、久保田君は長い方を買いました。そして僕は短い方を買いました。飛び出しナイフと言うのは鉛筆を削る訳でもなく、リンゴの皮を剥くわけでもありません。喧嘩に使う道具なのです。こんなものは不良しか買いません。これで喧嘩でもしようものなら大変なことになってしまいます。即、少年鑑別所行です。でも僕たちは喧嘩などしたこともなければ脅しに使う訳でもありません。何となく持ってみたかったというだけの物です。

 自転車を持っている悪餓鬼グループでたびたび長居まで遠出をしました。広大な競馬場の跡地では馬を見たことはありませんでしたが、柵の中には砂地があり馬の肥爪の跡などが残っていました。競馬場跡地には見渡す限り人影はありませんでした。僕と久保田君は樹木の幹に向かって飛び出しナイフを投げて遊んだりしました。ナイフは研がなければ切れない代物でしたが、研ぐことまではしませんでした。

 他の悪餓鬼の一人が何処からか捨てられていた反物の芯を見つけてきました。反物の芯と言っても丸い筒ではなく、平たい物です。紙が貼られていましたが紙を破ると梯子段状の木の桟になっています。それをその拾ってきた友人が梯子段代わりにして樹に上ろうとしました。桟はあっけなく外れ釘が足の脛を深くざっくりと切ってしまい、血だけではなく肉までも見えていました。何とか皆で協力して止血は出来ましたが、久保田君も僕も青ざめてしまいました。飛び出しナイフで脛を切ったわけではないのですが、無関係には思えませんでした。それ以来飛び出しナイフは2人とも引き出しの奥深くに仕舞ったままになりました。

 その同じ悪餓鬼グループの6~7人が子供用自転車で二上山まで行ったこともあります。二上山で地元の悪餓鬼グループから喧嘩を売られました。僕たちの中で一番大きかった久保田君に自分たちのナイフを持たせ、これでかかってこい。と言うものでした。相手はたったの3人です。同じ小学6年生だと言っていましたが、その内の一人は相撲取りほども大きくて、僕たちはビビってしまいましたが、久保田君は落ち着いた様子で喧嘩にはなりませんでした。そしてそれを見ていた大人の人が知らせたのでしょう。地元の警察で事情を聞かれました。地元では誰にでも喧嘩を売る悪評の悪餓鬼だったらしいです。警察にその大きな悪餓鬼の写真もあり「こいつやろ」と聞かれました。警察で卵丼をご馳走になり、お土産に森永ミルクキャラメルを一箱ずつ頂き「きょうは遅くなったから電車で帰りなさい、自転車は警察で預かっとくから又後日取りに来なさい」と言う優しいお巡りさんでした。久保田君も僕も飛び出しナイフを持っていなくて良かったなと思いました。

 久保田君は絵も上手でした。久保田君を中心に悪餓鬼の数人で『漫画クラブ』も作りました。僕などは鉄人28号の絵などを描いて満足していましたが、久保田君は何か自分で作ったストーリー物も手掛けている様でした。

 小学校6年生の2学期だったと思いますが、その頃大阪に建ち始めた長居の公団住宅に久保田君一家は引っ越して行き、長居小学校に転校してしまいました。その後の千里ニュータウンとか泉北ニュータウンと言われるものと同様の鉄筋コンクリートで、その頃では全く耳新しいシステムキッチンにユニットバスなどというモダンな造りでサラリーマンの憧れの的と言われた住宅なのだと思います。長居はその先駆けでした。入居するには抽選に当たらなければなりません。久保田君も嬉しそうで鼻高々だったのだと思います。久保田君は何をしてもかっこいいなとも思いました。

 長居だから僕たち悪餓鬼のテリトリーの筈ですが、学校が替われば急速に久保田君とは合わなくなりました。久保田君は長居小学校でも、また悪餓鬼のリーダーになっていたのでしょう。その後、何処の中学に行ったのか、どこの高校に行ったのか、全く知りません。でも久保田君は漫画を続けていたことは確かで、引っ越して行ってすぐに『漫画王』のコンクールに応募して特選に選ばれ雑誌にもその4コマ漫画と久保田君の名前が載り皆を驚かせました。でもお祝いの言葉もかける術も知りませんでした。

 僕の実家から1分のところにあった久保田君が住んでいた家はずっと空き家のままでした。2階建て三軒長屋の真ん中でしたが、やがてその両隣も空き家になりました。その三軒長屋の隣にあった庭付きのお屋敷も空き家になりました。僕はその家の前を通るたびに久保田君のことを思い出していました。僕が中学の時も高校、そして大学に通っていた時も、ストックホルムやニューヨークから6年ぶりに帰ってきた時も空き家のままでした。それから宮崎に13年間住み毎年1度は実家に帰って来ていたのですが、その時にも変わらず空き家のままでした。でも少しずつガラスが割れたりして荒れ果てているのが判りました。そしてポルトガルに住み始めてからも毎年帰国し実家には立ち寄りますが、未だ空き家のままでした。久保田君が引っ越して行ってから指折り数えると55年は経っていると思います。

 そしてほんの数年前にその三軒長屋とお屋敷はすっかり取り払われ更地になり、アスファルトが敷かれ小さな月ぎめ駐車場へと変わりました。

 先年まで久保田君の家はずっと変わらずにありましたが、長居は随分と変わりました。見渡す限り人影はなく、僕たちが飛び出しナイフを樹木に向かって投げた辺りは長居公園のメインゲイトとなり今では人通りの絶えることはありません。地下鉄と同時にまっすぐで広い道路も通り、背の高いマンション群が建ち夜にはネオンが灯ります。影も形もなかった長居競技場は大阪国際女子マラソンのゴール地点で、ポルトガルでもその映像を観ることができます。

 そんな長居での夫婦二人展です。

 久保田君は今も長居に居るような気もします。まさかその時の桑津小学校での悪餓鬼の一人が長居で夫婦二人展をやっているとは思わないでしょうが、マンションの最上階ペントハウスから遥か二上山などを眺めては、僕と同じ様なことを思い出し、感慨にふけっているかも知れません。

 僕たちが小学生の時、飛び出しナイフを投げた筋向かいにあった長居小学校は明治時代の創立当初には追分小学校という名前でした。その辺りは江戸時代には、住吉方面と堺方面の追分(分岐点)で三軒の追分茶屋があったそうです。堺の商人、住吉詣り、それぞれの人々の休憩場所でした。三軒の茶屋は競い合って居心地が良かったと言います。一杯のお茶の筈がついつい長居をしてしまった。と言うのが『長居』という地名の由縁だろうと思います。

 長居での展覧会の名称は『ポルトガル淡彩スケッチ・武本比登志・武本睦子・二人展』です。僕も睦子もコロナ禍で帰国できずギャラリーには居ませんが、是非お出かけください。そして「長居は無用!」などとは仰らずに、同級生のオーナーさんとご歓談、お茶でも頂きながらごゆっくりとお寛ぎ、長居をしていってください。武本比登志

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『ポルトガル淡彩スケッチ 武本比登志・武本睦子・二人展』

2020年9月11日(金)― 23日(水)10:00-19:00(最終日は17:00まで)

9月17日(木)はお休み

Gallery キットハウス

〒558-0004 大阪市住吉区長居東 3-13-7 電話 06-6693-0656

詳細はこちら▼

http://plaza.harmonix.ne.jp/~artnavi/01-art/kit/200923-kit-takemoto.html

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 今夜も蒸し暑くて、まるで日本の夏の様だ。でも日本の夏はエアコンなしでは居られないから、それ程でもないのかもしれない。もう日本の夏など実は忘れてしまっている。

 日本の夏と言えばかき氷なども懐かしい。ポルトガルにもアイスキャンデーの様なものはあるが、かき氷はない。

セトゥーバル半島最西端、スターチスの原種が咲く断崖。ペンギンは居ないが断崖の壁には恐竜の足跡がある。(2020年7月31日撮影)

 アイスキャンデーと言えば、子供の頃、親父がよく『北極のアイスキャンデー』を買ってきてくれたのを思い出す。

 『北極』は大阪で一番の繁華街、難波の戎橋筋にあったアイスキャンデー屋だが、今もあるらしい。それは近所の駄菓子屋で買うアイスキャンデーとは一味も二味も違った美味しさだった。そして『北極のアイスキャンデー』のマークはペンギンである。

 ペンギンは涼しさの象徴的な生き物なのだろうが、北極にペンギンは居ない。南極周辺が主な生息地で、ペンギンの北限は赤道直下のガラパゴスまでで北半球には居ない。

 都城のかき氷は『白熊』と言ったが、白熊なら北極に居る。白熊は北極熊とも言う。その名の通り南極には居ない。それは自然界の生息地の話で『動物園』には北半球だろうが南半球だろうが両方ともに居る。

 涼しい筈の北極圏諸島のスバルバル島では2020年7月26日現在、21,7℃という史上最高気温を記録した。南極でも2020年2月には観測史上最高となる20,75℃を観測したばかりで、確実に地球温暖化は進んでいる。極地の氷は融け、世界各地で洪水が起こりやすくなっている。

 極地ばかりではない。7月28日、イラクの首都バクダッドでは何と最高気温51,8℃を記録した。これは勿論、観測史上最高気温ということになる。

 人間は39℃で心臓発作のリスクが生じ、40℃で大脳に危険が及んで、41℃で生命は危機に見舞われる、とされている。バクダッドでの51,8℃は想像を絶する気温だが、7月15日以来46℃超えがもう半月も続いての51,8℃だ。

 我々が住むセトゥーバルでも毎夏2~3回は40℃に達する日がある。エヴォラとベジャでは今日も40℃だ。

 二酸化炭素の排出量により地球を温室効果ガスが覆い、温暖化が加速しているといわれているが、ポルトガルでは毎夏、山火事が多発し、砂漠化が進んでいる。それでもポルトガルの山には油脂分の多いユーカリや松が経済樹として多く植えられている。それで尚更山火事が起こりやすくなっている。ユーカリは成長が早くパルプの原料となる。パルプは日本にも輸出されている。

 毎年春に帰国し、展覧会を催すのだが、そのついでに何処かここか楽しみに計画を練る。温泉に行ったり、動物園に行ったり、水族館に行ったり。今年は数年ぶりにお伊勢にお参りに行き、温泉に宿泊し、鳥羽水族館にも行く計画を立てていた。それがCOVID-19で帰国はしないので、全て無しになってしまった。ポルトガルに来て30年になるが帰国をしない年は今年が初めてである。

 僕も動物園や水族館は好きな方だが、MUZは焼き魚も好きだが、水族館がことのほか好きなのである。宮崎には水族館がないのが残念なのだが、動物園は立派なのがあり、昨年の帰国時には出掛けた。

 その前の年は兵庫県の王子動物園の筋向いの美術館で『美術家連盟展』というのがあって、それに出品した。そのついでに王子動物園にも入場した。ジャイアント・パンダが居ることでも有名な動物園である。

 ペンギンのプールの側面がガラスで覆われていて、ペンギンの泳ぐ姿が真近で見られるのが良かったと思う。そのガラスの前で小さな男の子が「ねえ、お母さん。ここは動物園なのに、何故ペンギンが居るの。」と言ってお母さんを困らせていたのが印象的だが、ペンギンは正しくは鳥類だ。鳥は動物園に居るべきだろうと思う。でもペンギンは水族館にも居るし、動物園にも居て人気は高い。泳ぐ姿はまるでマグロだが魚類ではない。歩く姿はよちよちとして可愛らしい。王子動物園には大勢のペンギンが居た。

 宮崎のフェニックス自然動物園にもわずかながらペンギンが居て、丁度餌やりパフォーマンスを見た。係の人がバケツに魚を一杯入れてきてペリカンと続いてペンギンに餌やりをするのだが、観覧者に見せて楽しんでもらう趣向なのだ。その時は10人ばかりの人が楽しんでいた。係の人は餌をやりながらいろいろと説明をする。ペンギンは宮崎でも卵を産んで繁殖をするそうである。僕は「増えているのですか?」と尋ねてみたが、係の人の明確な答えはなかった。熱帯のペンギンだそうである。温かい宮崎でも飼育できることを強調したかったのだろうと思うが、あまり元気がある様には見えなかった。

 僕たちはかつてアルゼンチンを旅したことがある。というより南米の旅をした。一つの国に約1か月ずつをかけ、ブラジル、パラグアイ、アルゼンチン、チリ、ボリビア、ペルー、エクアドール、コロンビア、そしてホンジュラス、グアテマラ、ベリーズ、メキシコと1年ほどもかけて旅をした。中でもアルゼンチンは移動距離も長く多くの日数をかけた。

 以前に確か『LIFE』のグラビアに出ていたアルゼンチンのペンギンの大繁殖地のことが頭に残っていて、是非この目で見てみたいとかねてから思っていた。

 ブエノスアイレスの観光案内所で尋ねてみてもそれは判らなかった。「ペンギンは南極でしょう」などと言う。ブエノスアイレスから南下した。

 その間、イザベル・ペロン大統領失脚の軍事クーデターなどにも遭遇し、一時は生きた心地はしなかった事などもあったが何とか南下していった。

 アルゼンチンの中程まで南下したところで再びツーリスモで尋ねてみた。あったのである『ペンギンの世界最大の繁殖地』があったのである。

 そこからまる1日の日帰りツアーで10人乗りのジープをチャーターして行くことが出来るという話まで出来上がった。10人乗りと言っても運転手が1人であと9人が乗ることが出来る。それを2人で借り切るのはいかにも勿体ない。僕たちはその時に泊ったホテルでペンギンツアーの勧誘を行った。最初に話しかけたのが、イギリス人で体育の先生を休職して南米旅行をしていた青年。その彼がその話に乗って積極的に勧誘をしてくれた。僕たち2人の後を追うようにもう2人の日本人男性バックパッカー来る筈であったが、やはり翌日に到着した。それにアルゼンチン人の夫婦。それで7人が揃ったところでジープの申し込みをした。出発の朝、もう1組のアルゼンチン夫妻が参加することになり、それでちょうど9人が揃った。

 ジープは道なき道を行く。ところどころ牧場の柵などがあり、運転手は柵を開けては通過しそして閉めては再び進んで行く。途中アルマジロが疾走していたりもする。

 やがて海岸に到着。いるわいるわ。足の踏み場がない、とはこのことである。気を付けて歩かないとペンギンの巣を踏み潰してしまう。勿論ペンギンは抗議の声を上げる。恐らく何万羽、見渡す限りのペンギンである。10人の人類に対し何万羽のペンギンである。ペンギンは子育ての真っ最中であった。そして餌取りに海に出かけたり、また戻ってきたりと、1日観察していても飽きることはなかった。

 運転手の誘いで次の日も1日かけて『ゾウアザラシツアー』となり、前日の全員が参加した。

 ペンギンの大繁殖地を見てみたいという執念は感動に変わった。そしてツアーに誘った皆が感動し喜んでくれた。

 遠い昔、僕たちは未だ20歳代、1976年の話である。昔の話ではあるが、僕にとっての感動は今でも昨日の事の様に蘇る。

 ペンギンはマゼランペンギンである。

 大航海時代マゼランの船団はこの海で飢えに苦しんでいた。何でも口にしたそうであるが、そんな中でペンギンは食材として非常にありがたかった、と書き残している。

 その後、我々はマゼラン海峡を越え、フエゴ島にも行った。南極以外では最南端である。

 アルゼンチナ湖では天気も良くエメラルドブルーにきらきらと輝く氷河を眺めていた。突然、巨大な氷河の先端が湖に崩落したのである。それが津波となって襲ってきたのから急いで逃げたことなどもあった。若かったから逃げられたのであるが、まるで地球の縮図を見ている感があった。

 それからは南米の西側を北上し、チリ、ボリビア、ペルーと旅し、エクアドールまでやって来た。是非ともガラパゴスにも足を延ばしたいといろいろと方法を考えていた。軍にも掛け合った。出来ることなら船で行きたいとも思っていたが、結局ガラパゴスは観光ツアーに参加しなければ行くことが出来ないという話になったので断念した。

 エクアドールは名前の通り赤道直下の国である。赤道直下で泳ぐのも悪くはないと思って、エスメラルダ海岸と言うところで泳いだ。赤道直下の海水浴場である。赤道直下の筈だがこれが5分と浸かっていられない冷たさなのだ。寒流が流れているのだ。ガラパゴスにも同じ寒流が流れている。この冷たさなら赤道直下にペンギンが居てもおかしくはない。やはりペンギンは寒い地域の動物なのである。

 南国宮崎フェニックス動物園のペンギンも実はかき氷やアイスキャンデーが食べたいのだ。氷の浮かぶ海でこそ、本来の姿なのだ。ペンギンの為にも次の世代の人類の為にも地球温暖化は何としても避けなければならない課題だ。

 70歳を超え、何とか戦争には参加しないで済んだ人生で良かったと思うが、最終章で思いもよらない新型ウイルス禍。多くの同級生、親友などがCOVID-19のことなど知らない内に逝ってしまっている。COVID-19の為に週一の買い物以外は殆どを家で過ごすことを余儀なくされている。元々家に居て仕事をする生活だから何も変わらない筈なのだが、案外と何をする気にもならない。この際、人生を反芻するにはよい機会かな、などとも思っているが、若かりし頃に実にいろんなことをやってきた事が、本当に良かったのだと感じている。VIT

 

『フェルディナンド・マゼラン』(1480年 - 1521年4月27日)は、大航海時代のポルトガルの航海者、探検家である。1519年に始まる航海でスペインの艦隊を率いた。マゼラン自身は航海半ばの1521年にフィリピンのマクタン島で戦死したものの、部下のスペイン人フアン・セバスティアン・エルカーノが艦隊の指揮を引き継ぎ、1522年に史上初となる世界周航を達成した。マゼランは1480年ごろにポルトガル北部ミーニョ地方ポルト近郊ポンテ・ダ・バルカの下級貴族の生れである。1519年8月10日、セビリアを出港、1520年10月21日、後にマゼラン海峡と呼ばれる大西洋と太平洋を結ぶ海峡に到達、11月28日に海峡から太平洋へ抜けることに成功している。

<フェルディナンド・マゼラン – Wikipedia>

 

『マゼランペンギン』鳥類、ペンギン科、ケープペンギン属。

学名:Spheniscus magellanicus、

別名:マゼラニックペンギンジャッカスペンギン

体長約70cm、体重約3.8kgでペンギンの中では中型。繁殖地は主に南アメリカの大西洋岸および太平洋岸。保護区となっているアルゼンチンのプンタ・トンボ(en:Punta Tombo, 南緯45度)が有名で、繁殖期になると50万羽ものマゼランペンギンが集まってくる。また、フォークランド諸島でも繁殖する。 巣は森の中や草原、裸の土地などにもあり、巣が掘りやすいところではトンネルを掘る。 成鳥は5-8月の殖期以外の時期は、遠洋を移動しており、めったに上陸しない。9-10月に繁殖地に戻り、10月に卵を2つ産む。抱卵期間は39-42日間で、雌雄が交代で卵を抱く。孵化後29日間は、警護期で片方の親鳥が必ず巣におり、ヒナを守っている。その後、巣立ちまでには40-70日かかる。 場所に対する忠誠度が高く、特定の個体が何年間も同じ場所に巣をもうける場合が多い。つがいの絆は強く、長く続く。 (Wikipediaより)

 

 

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 マンションの正面側にあたる我が家北側のベランダには幾つかのプランターが並べられていて、『月下美人』とニラ、それにサルサが育っている。

 月下美人は1997年にポルトガル在住日本人の方から小さな苗を頂いたものが大きく育ち、切り詰められ、株分けされて3株になっているが毎年たくさんの花を咲かせて楽しませてくれていて、今も6つの蕾が成長中だ。

ベランダで成長中の『月下美人』の蕾。お向かいの紫はジャカランダ。赤はブーゲンビリアそして夾竹桃。2020年6月30日、北側ベランダで撮影。

 花が終わった後の花殻は納豆御飯ならぬ、月下美人飯として頂く。オクラ程のぬめりがあり花の香りもほんのりと残り生卵を混ぜると絶品である。

 ニラも同様に日本人の方から数株頂いたもので、我が家では定期的に餃子を作るがその材料になる。ニンニクも白菜も使わないでニラと豚肉だけのニラ餃子で、食べると元気が出る。

 サルサとはパセリのことで、日本ではいわゆるイタリアンパセリとして売られているものだ。数年前にスーパーで買ったサルサに根が付いていたのでプランターに植えておいたのが、それも勢いよく育ち、スパゲッティーやピザに刻んでのせるが、使いきれない程の勢いで増え、花を咲かせ、種を付けた。その種をプランターに蒔いておいたのが、今また花を咲かせている。ベランダの植物は我が家では全て食材である。

直径3mmほどのサルサの花。2020年6月30日、北側ベランダで撮影。

 我々は毎年、春の2~3か月を日本で過ごす。展覧会のために帰国するのだが、その2~3か月は誰も水遣りをしない。北側のベランダで放ったらかしにされる。たまには雨も降るのだろうが、ベランダには屋根があるので、吹き込む分だけの雨だ。

 今年に限ってはCOVID-19のために帰国できないでずっとセトゥーバルの我が家に居るのでしっかりと水遣りは出来ている。

 昨年までの場合、2~3か月してポルトガルの我が家に戻って来るとさすがに傷んではいるが、水を遣ると息を吹き返す。鍛えられた根性の逞しい月下美人、ニラそしてサルサである。

 我々が留守の間でも月下美人は花を咲かせたのだろう。豪華な花は地上からも見えたらしく、ある日、マダレナ小母さんが「挿し木をしたいのでひと葉下さいな。」と言われた。葉はすぐに根付いたらしく、それをマリアさんに話したのか、マリアさんも「私も育てたいのでひと葉下さい。」というので、差し上げたが、さすがに留守がちの我が家よりも立派に育っている様だ。「この花は食べるのですよ」とは言わない。それは内緒である。

 先日、出掛ける前に我が家の真下に駐車している我が家のシトロエンを掃除していると、窓からマリアさんが顔を覗かせ挨拶を交わした。

 そのクルマを駐車している定位置のすぐ後ろ側に実はサルサが自然に生えていて結構大きく育っている。我が家のベランダから種がこぼれたのだ。サルサの株の中にはニラも一筋育っている。ベランダではニラも毎年花を咲かせ種を付ける。

 マリアさんに「これはサルサですよ。」と言うと、マリアさんは怪訝な顔つきで「本当?」と言った。それこそ誰も水も肥料も遣らないし、壁との隙間の僅かな石畳の目地のところに生えているのだからメルカドやスーパーで売られているサルサとは比べ物にならないみすぼらしさで雑草の如くだが、確かにサルサなのだ。それも数株が生えている。

 僕は「我が家のベランダで育てていて、その種がこぼれたのです。」と言った。

 マリアさんはそれで納得はした様だが、決してちぎって使うことはしないだろう。何故なら、近所の犬の散歩コースで多分におしっこが掛かっているに違いない。

 この場所は市から委託された清掃人が定期的に掃除と草刈りにやって来るが、我が家のクルマが壁際に駐車されているのでサルサは残された格好になっているのだろうと思う。それでも今以上に育つと、たぶん切り取られる運命なのだろう。VIT

石畳の隙間に種がこぼれて育ったサルサとニラ。2020年6月16日、我が家の駐車スペースで撮影。

 

サルサ

セリ科、Apiaceae、オランダセリ属、地中海沿岸地域原産、

学名:Petroselinum neapolitanum、

和名:イタリアンパセリ、

英名:Italian Parsley、Flat Leaf Parsley、伊名:Prezzemolo、葡名:Salsa、Salsinha、

 

 

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 別にCOVID-19 に感染したわけではないが、COVID-19 騒ぎの後遺症で何をする気もしない。意を決してキャンバスを張ってみたが、11枚を張った途中でホッチキスが壊れてしまって、使い物にならない。せめて用意をした13枚を張りたかったのだ。木枠と切ったキャンバス2枚が残ってしまった。仕方がないので11枚の地塗りを始めているが、2枚分が心残りで、なかなか進まない。アトリエの外では COVID-19とは無関係にツバメやメルローが飛び交い、ジャカランダが満開になっている。

お向かいの庭のジャカランダとその奥にブーゲンビリア、そしてパルメラの城遠望。(2020年6月6日アトリエの窓から撮影)

 

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 こんな経験は初めてのことだ。

 帰国予定は2月29日であったが、熟慮した結果その10日前の2月18日に航空券のキャンセルをした。

 その頃は中国武漢で広がっていた新型コロナウイルスは横浜港に停泊の豪華客船『ダイヤモンド・プリンセス号』の乗客への対処などポルトガルのニュースでも連日取り上げられていた。

 その頃はまさかヨーロッパがこんな状態にまでなるとは予想はしていなかった。キャンセルをしたのはもし日本に帰っても今度はポルトガルに戻って来られなくなる恐れを感じたからだ。

 この際、いつもは居ない時期のポルトガルの野の花の観察をするのも楽しみであった。

 その後、あれよと言う間に、中国からイタリアにシフトしてきたのだ。そしてお隣のスペインでも爆発的な勢いだ。

 3月31日現在、新型コロナウイルスによる世界での死亡は3万8714人、感染は80万0049人、回復は17万0325人。イタリアの死者は1万1591人、感染は10万1739人。スペインは8189人の死者、9万4417人が感染。ポルトガルの死者は160人、感染は7443人。

 それを受けてポルトガルの厳戒態勢は3月初旬から始まっていた。

 小さな国境は封鎖。幹線の国境も物々しく規制されている。物流トラックなどの出入りは出来る様だが、一般車両は検問されている。

 そして『外出禁止令』である。

 不要不急の外出は禁止である。スケッチにも行かれないし、野の花観察にも行かれなくなってしまった。

 ベランダから見る限り人通りもクルマの往来も極めて少ない。

 と言っても一応の外出は出来る。スーパーでの日々の買い物。銀行、郵便局も開いている。犬の散歩も可能だ。

 先日、銀行に行ったが、行員はガラス越しの対応だ。用件を聞かれて1人だけ中に入って用件を済ませる仕組みである。行員は勿論、マスクにゴム手袋姿である。

 スーパーでは入場制限が行われ、スーパーの周りを長い行列が取り囲んでいる。長い行列と言っても2メートルの間隔を開けての行列であるから自ずから長くなるのは必至だ。店内に何人と決められているのだろう。1人が出てきたら1人が入り、2人が出てきたら2人が入られると言う仕組みで、入り口でガードマンがものものしく指示を出す。買い溜めをしている人も居ない様だし、商品もほぼ変わりなく揃っている。

 我が家ではその以前からコメの買い溜めはしているし、非常食としての乾麺やクラッカー、ビスケット、缶詰類などの買い置きはあるので一先ずは安心である。

 テレビのニュースは新型コロナウイルス一色である。

 なかには家での過ごし方情報などもある。子供との遊び方、家の段差を使ってのジャズダンスなどの運動の仕方、インターネットで離れた人同士でコーラスとか、ポルトガルの民謡で掛け合い漫才の様な歌を離れた人とやりあうとか。なかにはベランダでマラソンを完走した。などと言う情報もある。

 マラソンと言えば東京オリンピックは1年延期である。当然だろうと当初から思っていた。

 野の花観察にも行かれないが、ビーチなども禁止だ。ここから見えるトロイアのビーチにも人影はない。天気の良い土日など、普段なら大勢の日光浴の人で賑わっている筈である。ビーチを警察官が見回っているニュースもある。

 3月28日(Yahooニュース)ではニューヨーク、マイアミ、シドニー、東京…命令や勧告を無視してビーチや公園に群れ集う人々。と言った記事も出た。コロナウイルスが世界中で拡大し続ける中、影響を受けた国や都市では抜本的な対策として、公共の集まりを制限し、社会的な距離をとることを推奨している。自宅待機が勧告され、不必要な旅行は制限されているにもかかわらず、公園、ビーチ、人気のハイキング・コースに人が群がっているため、より厳しい規制が必要になるかもしれない。とある。

 ポルトガル人は案外と真面目で規則は守られている様に思うので、今のところその必要はなさそうである。

 我々は普段から引き籠り状態であるから家に居ることにあまり苦にはならない。

 元々家で絵を描いて過ごしている生活である。

 でも家でばかリ居なければならないと言うのも長引くと苦になって来るのだろう。

 先日、『400デイズ』という映画を観た。宇宙飛行士志望の女性一人を含む若者4人が宇宙に見立てた地下の外部と遮断された設備で400日を過ごすと言うもの。想定されているのか想定されていないのか様々なトラブルが発生する。やがて幻覚などを観るようになり、いざこざが起こる。

 人はなかなか密室の中だけでは生きられない。

 我が家では幸い陽の光も差し込むし、野鳥の歌声なども楽しませてくれる。

 海外で生活していると日本に居ては感じない様なことも経験する。

 僕たちが最初に海外に住んだのは1971年のストックホルムであった。日本でアルバイトをして貯めたお金をドルに替えて持ってきた。1ドルが固定相場制で360円での両替であった。それが連動相場制になり1年程の間にみるみる下がり1ドル200円にまでなっていた。僕たちは若かったしスウェーデンでアルバイトをし、スウェーデン・クローナを稼いだのであまり苦にはならなかった。

 スウェーデンからおんぼろVWマイクロバスでイスタンブールまで旅行した。イスタンブール滞在中にキプロスが怪しい。というニュースを耳にした。急ぎギリシャ国境に向かった。国境の手前の往きにも泊まったキャンピング場に着いた。ここまで来れば大丈夫と思った。夜中じゅう、トルコ側からギシギシギシギシという音と共に戦車が走ってくる。朝、国境を超える時には100台くらいもの戦車がカモフラージュして国境線に集結していた。

 国境は超えられたが銀行も両替所も閉鎖でギリシャ・ドラクマはないままだが、出来るだけ国境からは離れたかった。ガソリンは少なくなり、食事もドラクマがないために出来ない。

 一方ギリシャ人たちは僕たちには構ってはいられない。自分の国が隣のトルコとの戦争になるのだ。国境から内陸に入るに従って、今度はギリシャ軍の戦車の車列でその度に道を譲らなければならないのだ。

 町のパン屋は焼き立てのパンを戦車に投げ込み、いかにもみすぼらしい老人までもが煙草を1カートン買い求め、1箱ずつ戦車に投げ込んで「頑張って来いよ」という訳である。

 夜になりドラクマがないことを言わずにホテルに泊まった。ホテルはスウェーデン・クローナで受け取ってくれた。お釣りをドラクマで支払ってくれてようやく食事にありつくことが出来た。食事に出ようとクルマのライトを点けた。途端に何処からか大声で怒鳴られた。空襲を受けると言うのである。ライトを消し暗がりの中走った。僕たちも戦争とはこういうものなのかと少しは感じることが出来たのだと思う。幸いその当時のキプロス紛争は1日で終わったが、紛争自体は今も燻っていて、何時再燃するとも限らない。

 同じ様な経験はアルゼンチンでもあった。1976年3月24日、イザベル・ペロンが失脚した時である。世界初の女性大統領である。アルゼンチンで人気の高かったエヴィータ(エヴァ・ペロン)の再来かと期待されたが経済政策に失敗し、僅か2年足らずで軍事クーデターにより失脚した。

 その時、我々はブエノスアイレスから南に下る夜行バスに乗っていた。突然バスが止められ乗客は全員下ろされバスに手をついてホールドアップさせられた。僕はゲリラか山賊だと思った。軍人は軍服の上に寒いものだから毛布を被っていて、皆が自動小銃を持っていた。殺されるかもしれないと思った。目的の町に着くまでに3度も同じような検問を受けた。隣にいたアルゼンチン人がこれは軍だから大丈夫だと言ってくれて少しは安心した。

 更に南下した。ペンギンの大繁殖地がある筈だとの情報があった。チャーターするジープは9人乗りだったので僕たち以外に7人を集めなければならなかった。ホテルの宿泊客を勧誘した。ペンギンの大繁殖地には僕たちも感動したが、誘った全員が喜んでくれた。

 その中の一人に教師を休職しイギリスから来た体育の先生がいた。その彼と暫く一緒に行動をして、イギリスからの移民のお宅などにも伺ってイギリス風のお茶とお菓子をご馳走になったことがある。その彼がその後、イギリス領のフォークランドに行くと言っていて別れた。フォークランドも初めて聞く名前でこんなところにイギリス領があるのかと思った。その10年後、フォークランド紛争が勃発した。鉄の女サッチャー首相が有無も言わせず大量の軍を投入した。

 今も世界では領土問題が数多くある。

 密室に閉じ籠っているとどうも悪い方に悪い方に考えがちになる。

 新型コロナウイルス以来ヨーロッパではDV家庭内暴力事件が増えているそうである。

 この新型コロナウイルスが端を発して、世界大恐慌が起こらないとも限らない。

 大恐慌になれば預金などは紙くず同然になるかも知れない。先日のヴェネズエラの様な事が世界で起こらないとも限らない。物価は100倍に跳ね上がる。1リッターの牛乳が50ユーロ。1キロのコメが100ユーロになってしまうのだ。たちまち預金は底をつく。

 家はあるからホームレスになることはないが、電気、水道、ガスなどが払えないからストップされてしまうだろう。いや、固定資産税も払えないから追い出されるかもしれない。

 大恐慌になれば、アメリカと中国との経済戦争が軍事衝突にもなりかねない。そしてイスラム圏諸国やロシアを巻き込んで第3次世界大戦に発展する可能性も懸念される。

 世界大戦ともなれば戦闘機か軍用機以外の旅客機は飛ばない。日本へは帰ることが出来なくなる。

 実は先月の3月28日(土)は『武本比登志ポルトガル淡彩スケッチ展』の展示日であった。

 そして2020年3月30日(月)からその展覧会は始まっていて、きょうは3日目。まさに今行われている僕の個展で4月4日(土)までである。

 個展は画廊の方々のお世話で何とか始まっている。

 僕の居ない僕の個展はこれまでにも3度ほどあった。画廊主催での個展である。

 大阪心斎橋のそごうでもあったし、梅田大丸画廊でもあった。鳥取のホテルでも催して頂いたこともある。何れも僕はポルトガルに居て観ていない。その時の案内状だけは今も僕の手元にある。

 是非、僕の代わりに見に行ってください。お願いします。マスクをしっかりとして。VIT

 

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 きょう3月1日、日曜日には既に宮崎の自宅に居る筈であった。

 当初の予定では2月29日(土)セトゥーバルの自宅で朝食を済ませた後、10時にタクシーを呼び、精一杯の荷物を持ちマンション階段を喘ぎながら下し、タクシーに積み込み、自宅前を出発、11時にリスボン空港に到着、搭乗手続きを済ませ、14:20発、フランクフルト経由、羽田経由で宮崎に3月1日、19:30着。宮崎空港からタクシーで10分。自宅に到着、風呂にも入り、ベッドに横になりながら久々の日本の、日本語のテレビでも観ていた頃なのかも知れない。

 それがそうではなくセトゥーバルに居る。

 

セトゥーバル郊外の山道に寂しく2人寄り添って咲く、これでも蘭、その名もゲンナリア蘭。『学名:Gennaria diphylla』(2020年2月27日撮影)

 帰国のための航空券をインターネットで買ったのは2019年9月20日であった。例年の事なのだが、2月~3月頃に帰国する航空券を早々と秋口に買う。展覧会の日程は決まっているから、自ずから帰国日程は決まる。早くに購入しても構わない訳で、早くに購入すると良い席が選べる。それは2人掛けの席を確保するためだ。2人掛けと3人掛けではかなりの違いを感じる。他人が横に座ると気を使うし、落ち着けない。2人だけだと気を遣うこともなく落ち着くことが出来る。2人掛けだとエコノミークラスで充分、ビジネスクラスは必要がない。と言うことで早々と予約し航空券を購入する。普通なら変更はしない。

 そしてそれに沿って帰国旅程表を作成する。勿論、自分の展覧会を中心にして空いた時間などに日本国内の旅行なども考える。帰国中にしなければならない用事なども書き込む。

 断念に至ったのは言うまでもない『新型コロナウイルス』(COVID-19)である。

 航空券をキャンセルしたのは帰国予定の10日前。2月18日(火)のことであった。

 それまではさんざんと考えていた。

 同時に一方で帰国の準備も怠りなくやっていた。

 帰国に当たっては先ず、1年間に描いた30点程の油彩の荷造り準備が必要なのだ。キャンバスが木枠に張られている。それを外して巻く。帰国の1か月前に保護剤の『ヴェルニ』と言う液体を表面に塗る。1週間程度乾かしてから外していくわけだが一気にやるわけではなく少しずつである。先ずキャンバスの裏面の釘を外し、周りも間引きして半分ずつ外していく。その半分の状態の時に帰国断念の決定をした。

 毎日のニュースを見て考えていた。未だパンデミックには至らなくても収束の見込みもなさそうに感じていた。ピークは4月頃とのニュースもあった。4月なら丁度僕の個展の最中だ。

 MUZは数年前にヘルペスという厄介な病気に罹り、それ以来急激に体力が低下している様に思う。昨年は帰国中、宮崎で2度の酷い転倒をし、顔に傷を作り歯が2本折れた。飛行機に乗るのも年々辛くなってきている。機内食が喉を通らない。

 健康な人なら何でもなくても飛行機の密室の中、少しでもウイルスがあれば感染しやすい体質になっているのではないだろうか、などとも考えたのである。

 幸い今年の個展は油彩ではなく、淡彩スケッチの個展である。その他にはグループ展が2つ。油彩はグループ展用だ。

 淡彩スケッチの個展は画廊主催であって、2017年にも1度催らせて貰っている。僕が居なくても何とか出来るのではないか。いや、僕が居てもあまり役には立たない。と思い至ったのである。画廊の方には多大なご迷惑をお掛けすることになり、申し訳ない気持ちで一杯だ。

 そしてインターネットでキャンセルの手続きをしてみた。当初は全く戻ってこないと思っていた航空券代の約半額は戻って来るそうである。

 マサゴ画廊の方には快く応じて頂いた。

 マサゴ画廊には淡彩スケッチ40点余りを書留で郵送した。A4の画用紙なので嵩張らないし、荷造りは簡単だ。1週間で届いたそうで一安心である。額縁は前回もマサゴ画廊を通して作って頂いたから慣れておられると思う。

 ギャラリーキットハウスのグループ展『大阪芸術大学美術科4期生同窓会展』には油彩を出品する予定であったが、それにも淡彩スケッチの出品に切り替え、僕のスケッチ2点とMUZの絵2点の合計4点を兄に郵送した。それも届いたそうである。実家に置いてある額縁に入れて長居のギャラリーキットハウスに搬入してくれることになっている。

3月1日ギャラリーキットハウスから中止のメールが届いた。

 帰らなくなったと言ってもセトゥーバルの生活は緊張の連続である。日本人の僕たちはどうしても中国人に見られる。ポルトガル人にしてみれば東洋人は皆一緒で区別はつかない。それでなくても縫製工場などが中国にとって代わられ閉鎖倒産、ポルトガル人の失業者が相次いでいる。他方で中国にはポルトガルワインがおお売れ。中国からの観光客がポルトガルに押し寄せ、ポルトガルはかつてない観光ブーム。ポルトガル人にとっては複雑な心境なのではないだろうか。

 そして今回の中国、武漢から発した新型コロナウイルス。

 暫くは毎週恒例の露店市にも行かないことにし、スーパーに行くにも空いている日、空いている時間帯を狙って買い物をしているし、レストランなども遠慮する始末。

 ポルトガルでマスクをしている人など見たことがないのに、薬局ではマスクは売り切れ。スーパーの消毒用アルコールの棚も空っぽ。

 一方、野の花観察はあまり人と出会うこともなく、のんびりとくつろげるので、この際と思っておにぎりの弁当を作っては出掛けたりしています。

 展覧会『武本比登志ポルトガル淡彩スケッチ展』には40点を展示して頂けることになっています。僕は画廊に居ませんが、是非、僕のスケッチに会いに行って下さい。

 勿論、展覧会の他にも日本ではすることが、帰国中にしなければならないことが山ほどあったので、それを考えると頭が重く痛い3月1日です。武本比登志

<展覧会日程>

『第7回大阪芸術大学美術科4期生同窓会展』中止

3月13日(金)~3月25日(水)10:00-19:00(最終日は午後5時まで/木曜定休)

ギャラリーキットハウス 〒558-0004 大阪市住吉区長居東 3-13-7 電話 06-6693-0656

『武本比登志ポルトガル淡彩スケッチ展』

3月30日(月)~4月4日(土)11:00-19:00(最終日は午後5時まで)

マサゴ画廊 〒530-0047 大阪市北区西天満 2-2-4 電話 06-6361-2255

『NAC展』

4月6日(月)~4月11日(土)11:00-19:00(最終日は午後5時まで)

マサゴ画廊 〒530-0047 大阪市北区西天満 2-2-4 電話 06-6361-2255

 

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 マサゴ画廊の直さんからDMハガキが届いた。

 「印刷が出来上がったら70円切手を貼って1枚だけポルトガルまで送って下さい。」とお願いしていたものだ。それが昨日、印刷が出来上がって8日間で届いたことになる。

 8日間は早いと見るか遅いと見るかは人それぞれだろうが、自分の中では素晴らしく早いと思う。

 現在ではインターネットのメールなどを使えば一瞬で着くことができる。それから比べれば遅い。でもデジタルではなく、電波ではなく、現物が海を渡って、幾多の人の手をバトンされ、はるばるやって来るのだ。

 昨日午前中にセトゥーバルの郵便配達夫が『我らが聖母カルモ通り』(ルア・ノッサ・セニューラ・ダ・カルモ)の長い名前の長い上り坂を、多くの郵便物と一緒に革鞄に入れ、てくてくと喘ぎ喘ぎ上ってくる。郵便物を各家の郵便受けに入れながら、番犬に吠えられながら、頂上のイレーネ・リスボア通りに到着し、マンションのベルを押した。そして階下玄関ホールにある我が家の郵便受けに1枚のハガキを入れ、再び我が家のベルを押す。

 その前夜にはアヌンシアーダ郵便局で一晩を過ごしたのだろう。セトゥーバルに来る前には恐らくリスボンの中央郵便局か配送センターの様なところに立ち寄ったのだろうか。更にリスボンに来る前は、何処を経由して来たのだろう。東京からリスボン直行はありえないからヨーロッパの何処かを経由している筈である。ロンドン、パリ、ミラノ或いはフランクフルト、ヘルシンキ、又或いはモスクワやドバイなどと言うこともあるのかも知れない。ハガキに聞いてみることも出来ない。それに関してハガキはだんまりを決めぷいとあらぬ方向を見つめ、意地を張りすねている様にも見える。

 日本の美しい70円切手に消印が押されている。消印は 2020-01-16、18-24、OSAKA-KITA となっている。その他にオレンジ色の郵便局独特のバーコードの様なものが記されていて、専門家が解読すれば解るのかもしれないが、僕には知る由もない。

 『BY AIR MAIL』のシールが貼られているから飛行機に乗って来たのは間違いがない。

 大阪から恐らくは羽田に一旦行ったのだろうか?羽田には行かないで関空からかもしれない。或いは成田。

 羽田だとして、羽田までは新幹線、飛行機、それとも深夜トラック。

 いや、羽田の前に何処か東京の集荷センターの様なところで仕分けされたのだろう。それからどのようなルートを通ったのかは想像でしかない。

 地球を半周、ユーラシア大陸の東の端から西の端まで、人間なら24時間ほどで着くことができるが、この小さな1枚のハガキは8日間をかけている。その8日間をどのように過ごしたのだろうか?1人寂しく、暗い倉庫の中で寒くはなかっただろうか。他の封筒の下敷きになって重くはなかっただろうか。言葉は通じたのだろうか。たった70円しか貼られていないので(70円は正規料金で、直さんが払ってくれているので『たった』と言っては申し訳ないが)差別待遇は受けなかっただろうか。友達は出来ただろうか。嫌な目には遭わなかっただろうか。心細かっただろうな。などと思いを馳せながらしげしげと眺めてみる。

 幸い折れ曲がることもなく、汚れが付くこともなく、大切に扱われたのだろうと思う。

 更にしげしげと眺めてみる。

 DMハガキは3月30日(月)から4月4日(土)までマサゴ画廊で行われる『武本比登志ポルトガル淡彩スケッチ展』の物で、まぎれもなく僕の展覧会と言うことになる。

 ポルトガルに送って頂いたのは1枚だけだがマサゴ画廊には1000枚マイナス1枚の999枚が残されている筈である。そして恐らく今からの他の展覧会のDMハガキと同様、マサゴ画廊のカウンターに並べられ、或いは既に持ち帰られたお客さんもおられるかも知れない。もう逃げるわけには行かない。

 1枚のDM 案内状ハガキはこうしてセトゥーバルの僕の手元にあるが、その展覧会の絵は既に2000枚もあるうちのたった40枚を選んで展示するだけで良いのだが、まだまだという気持ちはいつものことで、帰国するぎりぎりまでの作業となり、今朝もワインラベルを貼ったりして作り続けている。

 前回2017年に開催させて頂いて3年ぶり2回目となりますが、今回はどんな展覧会になるのか楽しみです。出来るだけ多くの人にお越しいただきたいと願っています。

 来る3月30日(月)から4月4日(土)までの間。僕は出来るだけずっと画廊にいるつもりでいます。マサゴ画廊で、どうぞお目にかかれますよう、心からお待ちしています。武本比登志

 

 

 

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明けましておめでとうございます。

2020年が皆様にとって、そして私たちにとっても良い年になりますように。

2020年1月1日(元旦)7:55。我が家の北のベランダから撮影の初日の出。

 早いもので、と言う常套句を使わざるを得ない程、本当に早いもので、1990年の9月にポルトガルのセトゥーバルに住み始めて今年で30年になろうとしています。

 私たちも未だ40歳代前半でした。当初は5年ばかりも住んで少し絵が描ければ良いかな~。と思ってやってきましたが、5年が10年、10年が20年と長引き、間もなく30年です。30年もよく続けて来られたものだと自分自身でも驚きです。30年は少し長すぎた感が否めませんが、とても充実した30年であったかなと満足しています。

 30年と言っても丸々30年ではなく、毎年3か月足らずを日本に一時帰国して個展を催しました。1年の内9か月をポルトガル、3か月が日本というサイクルです。パリの展覧会にも出品してきました。旅もたくさんしました。

 そして、たくさんの絵を描きました。それを仕事としたのですから、毎日、絵筆を持ちますので、たくさん描いて当然なのですが、思っていた以上に描いたとは思います。でも絵とは難しいもので、何年経っても何百枚描いても、何千枚描いても、これで良し、と言う絵は未だ生まれていません。才能が無いと言われればそれまでなのですが、自分自身で目指す絵の方向性、などはもやもやとしたものがずっと当初からあるにはあるのですが、それに到達しないのです。

 最近は自分でも年齢を考える様になりました。そして自分の目指す絵は残念ながら未完成に終わるのかな、などとも思います。

 ポルトガルはたくさんのモティーフを提供してくれました。全国を歩き回って貪欲に絵にしてきました。ポルトガルの風景を油彩にするのですが、写生ではありませんので、自分の身体の中で消化したものを絵筆を伝ってキャンバス上に吐き出すといった行為なのだろうと思います。

 自分自身の全てがそのキャンバスの上に現れるとそれで構わないのだと思うのですが、それが納得のいく画面にならないのです。全てが自分の責任です。もう少し、もう少しと思いつつ、どんどん目標は遠ざかって逃げて行ってしまいます。いや、目標はどっしりと不動なのかも知れませんが、自分が近づくことが出来ないのです。

 数年前からはそれも諦め気味で「まあ、仕方がないか」などと思い始めています。

 当初は油彩を描くためのエスキース・スケッチを先ず描くことにしていました。それを油彩にしてきましたが、それが1000枚程も溜り、数年前から油彩とは関係なく、ブログに載せるための淡彩スケッチ、毎日1景の掲載をし始めました。それが間もなく2000景に達しようとしています。ブログに載せて皆様に見て頂くのですが、比較的上手に描けた時も、見るに堪えない下手糞な時も全てを掲載しています。当初は絵の写真撮影も巧くはいきませんでした。濃く焼き過ぎたりもしましたから、今見ると恥ずかしい限りです。

 全体を通してはあまりにも下手すぎます。でも油彩とそれのエスキースだけの時よりも何か膨らみを感じながら描いています。もっと早くブログ掲載を始めれば良かったかな、などとも思っています。

 今年9月で30年と書きましたが、ポルトガルの滞在許可も確か10年前からか「パーマネント」(永住権)となっています。それでも我々の場合は5年ごとに更新手続きが必要で、その更新が先日あり、何の審査もなく、また2020年2月から5年間が頂けました。

 でも年齢も年齢。今までのことを考えると、この先の5年は瞬く間でしょう。その5年以内の早いうちには帰国をと考えています。

 帰国まで何枚の油彩、何枚のスケッチが描けるのかは判りませんが、せいぜい描きたいと思っています。今、描けば次の課題は必ず見えてきますし、今日描けば明日の課題は自ずから教えてくれています。それに従って絵筆を動かすだけの作業です。いつまでもそんな作業を続けたいとは思っているのですが。30年はあまりにも長すぎました。2020年は一つの区切りでしょうか。そろそろ帰国のための行動を起こさねばなどと思っています。

 気に入らなくなったから帰ると言うものではありません。セトゥーバルの生活自体は尚増々気に入ってはいるのです。でも元気な内に、自分の足で歩けるうちに、と思っているだけです。

 30年前はトランク一つでやってきました。その時の空気感、細かな所作まで、昨日のことの様に覚えています。そして時代も変わりました。ポルトガルという国の良い時代、セトゥーバルという町の温かく包んでくれる環境の30年を過ごせたものだと感謝しています。

 絵を描くための道具の他に衣食住のありとあらゆるものが30年の間に山の様に溜まりました。何でも取っておくという厄介な性格がゴミの山を作りました。将棋の山崩しの如く、何処からどう手を付けて良いのやらですが、出来ることならトランク一つで帰りたいと思います。

武本比登志

 

 

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ルイサ・トディ大通り公園の蚤の市とクリスマスツリー

 夕食を済ませた後、少しばかりのニュース情報番組を観、その後は就寝まで入浴を挟んでテレビの映画鑑賞となる。ほぼ毎夜2本。ハリウッド映画が8割を占めるのだろうか?その中には観なくても良かったと思う映画が半数、それも繰り返しやる。観なくても良かったと思った映画でもそれしかなかったら再度それを観る。仕方なく観ていても、細かい小道具、背景や俳優の演技、俳優が徐々に年老いてゆくメイクの技、BGMなど、今までは見過ごされていた物が観えてくることもある。

 この時期になるといわゆるクリスマス映画をよくやる。雪景色の町角のドアにはクリスマスリースが吊るされ、建物はイルミネーションで縁取られ、暖炉の燃えさかる天井の高い、螺旋階段のある居間にはクリスマスツリーが飾られていたりする。ハリウッド映画を観ながらアメリカとポルトガルでは随分と違うなと感じる。

 セトゥーバルでも11月も中旬になると、我が家の台所の窓から見えるルイサ・トディ大通り公園に巨大なクリスマスツリーが姿を現す。セトゥーバル市が設置するものなのだろうが、長いルイサ・トディ大通り公園の2箇所にある。一か所は市の中心ボカージュ広場に近いところ。もう一箇所はアヌンシアーダ郵便局とメルカドの中間、ジャカランダ並木のあたりだろうか?

 どちらも近頃は簡単にできる鉄骨を組み建てて、それにLEDの電飾ランプを巻き付けるだけのもので昼間に見るとまるで趣がない。それどころか歩くのに邪魔になってしようがない。ボカージュ広場に近いクリスマスツリーなどは巨大すぎて、基礎部分など大通公園の石畳部分の幅を一杯に使っているので、通行する歩道が人一人しか通れなくなる。それにまるで工事現場の足場の横を通る様な気分だ。夜になれば電飾が光るのでクリスマスツリーなのは判る。

 家庭用のクリスマスツリーは大型スーパーの特設売り場やインテリア雑貨店、中華雑貨店などでプラスティック製の物が売られ、そんなのが主流になっている。

 以前にはクリスマス前になるとメルカドの前に松の木を山積みした2トントラックがやってきて人々が買い求めていた。クリスマスツリーは樅ノ木ではなく松の木でも良いのだ。と思いながら人々が選んでいるのを見ていた。

 我が家の下の水道タンクの周りの空き地には松の木が実生する。何処からか鋸を片手に小母さんがやって来て、手ごろな大きさになった松の木を切り取ってゆく。それも例の9.11以来空き地にフェンスが巡らされ入られなくなったのと、定期的に作業員がやって来て綺麗に草刈りをしてしまう。松の木は全て刈り取られてしまった。

 フェンスが張り巡らされたお陰で犬の散歩にも入られなくなったので、フェンスの外周りが散歩コースになってしまった。草刈り作業員以外は犬も誰も入られないので、今や猫のオアシスとなっている。松の木は全て切り取られたが、トウゴマだけは刈り取っても、刈り取っても生えて草刈り作業員の手にも負えないのか放置され、枝を張り大木化しつつある。そのトウゴマの下が猫の住み家となり、子育てをしている様子で、そのトウゴマの枝が、子猫たちの遊び場所となっている。

 猫が寝静まった夜に、もう少し上に目を転じると、各家々の窓がLED電飾で飾られているのが見える。見様によっては日本のネオンサインやパチンコ屋の電飾を懐かしく思い起こす。

 ハリウッド映画などを観ていると、大規模なクリスマスツリー専門業者が市を建てる。人々は自分の気に入った物を買い求め、クルマの屋根に括り付けて持ち帰り、部屋や前庭に設置し、飾り付けを施す。

 クリスマス後に使い終わったクリスマスツリーが通りに山積みされている映像などもある。自治体は処分に頭を悩ますそうだが、ポルトガルではそんなことはないが、例年ゴミ箱はクリスマスプレゼントの箱や包装紙で溢れ返る。

 映画と言えば11月28日にパリに住む映画メイクアーティストの薮内綾さんからフェイスブックのお知らせが届いた。薮内綾さんはパリで生まれ育ち今もパリにお住いだが、ハリウッド映画などのメイクの仕事で世界的に活躍されている方だ。フェイスブックでは日本人のエキストラを募集とのことで、何でもパリでクリスマス飾りのあるうちに撮り終えたいそうだが、来年のクリスマス封切りの映画だろうか?

 パリもシャンゼリゼ大通りなど街路樹にイルミネーションが施され毎年の如く映像になる。そしてエッフェル塔もイルミネーションされ世界最大のクリスマスツリーとなる。

 クリスマスツリーの起源はキリストとは関係なく、17世紀頃に北欧ドイツあたりで始まり世界に広まったと言われているが、ゲルマン民族には古く、以前からからその様な風習があったらしい。

 リスボンのコメルシオ広場のクリスマスツリーもルイサ・トディ大通り公園の物と同じ様式だが規模は格段に大きい。高さ30メートルで何でも2ミリオン個のLEDが使われているとか。

 そして我が家のクリスマスツリーもLED電飾で様々な光り方を見せる。ドアにはクリスマスリースを吊り下げるし、毎年、ポルトガルのクリスマスケーキの『ボーロ・レイ』は買い求め、たっぷりのアグアデンテ(葡萄の絞り粕から採れる焼酎)を振り掛けて頂く。赤と緑が鮮やかなポインセチアを飾り、赤いキャンドルなども毎年用意するが、今年は金色にした。

 でもこのところクリスマス当日にはアルブフェイラのホテルで過ごすことが多い。ホテルの前庭の椰子の木々には螺旋状に電飾モールが上り。趣向を凝らしたプレセピオと数箇所に設置されたクリスマスツリーが楽しませてくれる。VIT

 

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 外出をする機会がめっきりと減った。

 メルカドにも行かないし、野の花観察にも行かない。

 出掛けるのは毎週日曜日に開かれる露店市くらいのもので、その時は運動がてら2時間ばかりも歩く。

 それ以外には日々の食料の買い出しに週1くらいで、あちこちのスーパーには出掛ける。

 『コンチネンテ』であったり『リドゥル』であったり、又は『ジュンボ』であったり、最近は『アルディ』にも時々は行く。シメジ茸など珍しい物が売られていたりするからだ。その他にも『インターマルシェ』や『ピンゴドース』『ミニプレソ』などというスーパーもこのセトゥーバルにはあるが殆ど行かない。

 露店市と週1のスーパー以外は引き籠りオタクである。

 ゴミ屋敷状態の家の中で、本を読んだり、パソコンのキーボードを叩いたり、裁縫をしたり、けん玉を放り投げたり、洗濯物を干したり片づけたり、パンを使った糠味噌をいじくったり、ベランダの韮と月下美人に水を遣ったり、水平線を眺めたり、描きかけの油彩の前に座ったり。

 露店市の日曜日に雨でも降ろうものなら、日曜日にも引き籠りになってしまう。

 その分、描きかけの油彩キャンバスと対峙する時間は増える。

 家に引き籠って、昼食が終わった13時からはテレビのニュースを観る。短い時でも1時間、長くなれば1時間半のニュースである。

 夕食が終わった18:00過ぎ、17:30頃から既に始まっているテレビのニュース情報番組『ポルトガル・ディレイト』を番組終了の19:00まで観る。

 19:00に情報番組が終わればチャンネルを替えテレビ映画鑑賞の時間となる。入浴を挟んで前後就寝までほぼ毎夜2本を観ることになる。

 その夕方の情報番組『ポルトガル・ディレイト』で全国のお祭りや展覧会の情報がある。情報はあるが、いつからいつまでなどという情報を見逃す。

 かねてから観たいと思っていたアメリカのストリートアーティスト『キース・へリング』の展覧会情報があり、ついでもあって、情報番組を観た次の日に出掛けた。次の日なら間違いはないだろうと勝手に思ってしまったのだ。

 初めての道で、苦労して到着したものの始まるのは5日後からであった。そんな時に限って友人を誘って行ったものだから、友人には悪いことをしてしまった。

 諦めきれずに1週間後に再び出掛けた。

 南アレンテージョ地方の中心都市ベジャで観てみたいと思った彫刻家の展覧会があった。その他にもいろんな展覧会情報があって、その内どれがどれかが判らなくなってしまう。これはボケ始めている証拠かもしれない。

 とにかく久しぶりにべジャに行くのも悪くはない。スケッチもしたいところだ。日帰りでも可能な距離だが、折角だから1泊くらいはしてもよい。

 ブッキングドットコムでホテルを検索してみる。既に雨季に入っているので天気も気になるところだ。オフシーズンのアルガルベ地方などに比較すると、ベジャのホテル価格は高止まりのままだ。なかなか行く決心がつかない。

 それでもコーヒーを飲み終わった後、パソコンを開け、天気予報をみて、明日、月曜日から行こうかと言う話になった。ブッキングドットコムでホテル検索をしてみると、良さそうだと思っていたホテルがあいにく満室になっている。

 念のため当日のホテルを検索してみると、未だ空室がある。天気は今日の方が良い。それに日曜日なので大型トラックが少なく走りやすいだろう。それで急遽、今から、ベジャに行くことにし、ホテルの予約を入れた。

 それから大急ぎで荷造り。1泊分の下着、パジャマ、夜は冷えそうなので薄いセーター、洗面道具、薬、ミネラルウォーター、ビスケット、のど飴、スリッパ、スマホ、デジカメ、充電器、スケッチブックと鉛筆。1泊分でも5泊分でもあまり変わらない荷造りである。

 でもこの時点で、ベジャでは誰の何の展覧会があるのかが混乱して判らなくなってしまっていた。それでも『ベジャのお城の中』という情報だけは頭の中にある。

 出発は11:03になっていた。

 キノコの森があるガンビアも横目で通り過ごし、水田が黄金色に輝いているアルカサル・ド・サルも過ぎ、松林の中を走るグランドラまでの悪路も今回は綺麗に舗装し直されて快調に走る。

 昼時だが未だお腹は空かないが、この町を過ぎれば、ベジャに着くまで殆どレストランはないだろうし、ベジャに着いてからだと、昼食時間帯は終わってしまうだろう。

 グランドラの出口付近に良さそうなレストランがあったので入ってみることにした。日曜日なので町の人達で一杯だ。そして料理が出てくるまでにかなりの時間を待たされた。待っている間のガーリック・オリーヴ油に浸して食べる焼き立てのアレンテージョパンが旨かった。料理もまあまあで満足の昼食で満腹になった。

 グランドラからは国道IC1から外れて内陸部に入る。以前には無料だった高速道が有料になっている。有料を避けて一般道を走りたいところだがその入り口が判らない。

 高速道入り口の標識を入っても一般道と別れることもあるので、その道に入ってみた。ところが一般道とは別れずにそのまま高速道に入り、切符を取るゲートになった。

 これは仕方がない高速道を走るしかない。

 他のクルマに従い走っていると、いつの間にか140キロものスピードが出てしまっている。それでも他のクルマは我がシトロエンをビューンと追い越してたちまち見えなくなってしまう。

 高速道はそれ程長くはなく出口の料金は1,45ユーロであった。

 でも高速道を降りた最初のロータリーでブレーキに異常を感じた。スピードを出し過ぎてブレーキに異変をきたしたのだろうか。

 それからは慎重に走らせたが、ブレーキは異常なままだ。

 ベジャに到着し、早速、お城を目指した。ベジャは何度も訪れている町だが久しぶりだ。『レオノール王妃博物館』の裏手の路上に空きスペースがあったので駐車した。日曜日なので駐車料金は無料だ。レオノール王妃博物館は見応えのある博物館で何度観ても良いと思うが今回は先ずお城の中の美術館だ。

 以前にこのレオノール王妃博物館前の路上で映画のマノエル・ド・オリベイラ監督がディレクターズチェアーに座りメガフォンを持っての撮影中に出くわしたことがある。博物館の前庭をレトロな服装をした男女が通行していて、クラシックなクルマが置かれてあった。多分、オリベイラ監督の遺作となった映画で、オリベイラ監督が亡くなってしまった今となっては我々にとっても貴重な経験だ。

 その角を曲がり狭い露地をお城の方向に行くと剥がされた『ジョルジュ・ヴィエイラ美術館』の看板跡が見えたので、その隣の雑貨屋さんで聞いてみた。そうすると「お城の中に移転しましたよ」との答えが返って来た。

 そうだ、このべジャには『ジョルジュ・ヴィエイラ』を観に来たのだ、と思い出した。いや、我ながら可成り危ない。

 お城に着くと、あの情報番組『ポルトガル・ディレイト』でやっていたそのままの美術館があった。そして代表作のモニュメントが入り口の壁に貼られていた。そうだまさに観たいと思ったのは『ジョルジュ・ヴィエイラ美術館』だったのだ。

 

お城の中の『ジョルジュ・ヴィエイラ美術館』2階部分と1階はツーリスモと右側にカフェ。

 美術館の1階が『ツーリスモ(観光案内所)』になっていたので、街の地図を貰い、ホテルの場所を教えてもらった。

 そして「上の『ジョルジュ・ヴィエイラ美術館』は何時までですか?」と聞いた。

 階段を上がろうとすると、一人の女性が付いて来て一緒に階段を上がった。そして入り口で、その女性はニコリと微笑み「これが鍵よ」と言って、美術館の鍵を開けてくれた。

 テレビの情報番組で紹介されたにも拘わらず、あまり入場者は居ないのだろうか。下の『ツーリスモ』で希望をしない限り、普段入口は閉ざされているのであろう。

 一緒に階段を上がって来て鍵を開けてくれた女性は受付の椅子に座り「入場は無料です。どうぞごゆっくりご覧ください。写真も撮っても良いですよ」と言ってくれた。

 作品数は少ないけれど、テレビで観るのより現物は更に良く面白く感じた。僕は迂闊にも今まで『ジョルジュ・ヴィエイラ』の名前を知らなかった。

 1922年、リスボンで生まれ、1998年エヴォラで亡くなっている。このべジャとはどんな関りがあるのかは判らないが、1970年の大阪万博にも出品している。どうやら世界的に活躍した彫刻家の様で、ピカソのデッサンや彫刻の流れを感じる。

 受付付近に2冊のカタログが置いてあった。作品集ともう一冊はデッサン集である。デッサン集は装丁が立派で如何にも高価そうに見えたが、作品集はそれ程でもないので、作品集だけでも、折角なので買いたいと思って価格を聞いてみた。受付の女性は書類をめくり価格を調べてくれた。33ユーロ何某という。思っていたよりも少し高い。印刷数が少なくなれば高価につくので仕方がないが、思い切って買うことにした。デッサン集も欲しいと思ったが、これ以上の出費は無理だ。だが、念のため聞いてみた。今度は書類を見ても判らない。見本のデッサン集の最初のページに鉛筆で価格が書いてあって、18ユーロ何某。装丁が余程立派なのに、装丁の簡単な作品集の方が高いのはおかしいと係の女性も思ったのだろう。作品集の最初のページも確かめると15ユーロ何某と書いてあった。33ユーロ何某は2冊分の価格だったのだ。そして2冊ともを購入した。

 美術館を出てお城のスケッチをしていると、暫くして係の女性も美術館の鍵をかけて階段を降りてきた。スケッチをしていた僕に気が付くと、手を振って笑顔で挨拶をしながら『ツーリスモ』に入って行った。

 お城からクルマに戻る途中に少し雨が降りだした。MUZを軒下で雨宿りさせておいて、僕が1人小走りにクルマまで戻った。クルマでレオノール王妃博物館の周りを1周して少し下った道に目指すホテルがあった。最初にクルマを停めた場所からホテルまでは1分の距離だ。でもホテルから道を挟んだすぐ前にも駐車スペースがあって、横断歩道を渡ってホテルまで10秒だ。

 クルマからバッグを出しているのをホテルの前でフロントの人らしき女性が煙草を吹かせながら見ていた。「先程予約を入れたのはあれか」などと思いながら見ていたのだろう。

 部屋の窓から自分のシトロエンが真ん前に見える。ホテルの前は道を挟んで公園になっていて、公園の更に向こうにポウサーダがあった。そのポウサーダの前に『ジョルジュ・ヴィエイラ』の大きな作品があるのが部屋の窓からも見えた。

 お昼をレストランで食べるとお腹が空かなくて夕食は殆ど入らない。ワインとつまみ程度を部屋でテレビを観ながら食べるくらいが丁度よいので最近はそうすることが多い。

 ホテルの部屋でちょっとだけ休憩をして、スーパーに買い物に行くことにした。

 フロントで『リドゥル』は何処にありますか?と尋ねると、大まかに道順を教えてくれたが、一方通行などがあるので難しそうだ。でも何とか行けるだろうと思いクルマを走らせた。

 こういった大型スーパーは大抵が町の出入り口付近にある。

 直ぐにフロントの女性が教えてくれた道順が判らなくなったが『コンチネンテ』の標識があった。『リドゥル』ではなくても『コンチネンテ』でもまあいいか、と思い標識通りに行ってみた。

 大きな新しく出来たばかりと言った『コンチネンテ』である。ワインとスライスチョリソ、ブドウなどを買い、ホテルに戻った。ホテルのフロント前を通過するときには『コンチネンテ』のエコバッグを抱えていた。

 フロントの女性は『リドゥル』は止めて『コンチネンテ』にしたのだろう。と思ったらしい。

 次の朝、朝食後、チェックアウトを済ませてから、「クルマの調子がおかしいので、見てもらいたいのだが、この町に『シトロエン』がありますか?」と聞いてみた。

 「えーっと『シトロエン』は知らないわー。修理工場の『ローディー』なら知っていますけれど。」というので「『ローディー』でも構わない。何処にありますか?」と聞いた。

 「昨日、『コンチネンテ』に行かれたでしょう。その裏手に『インターマルシェ』がありますが、その中です。」という。

 『コンチネンテ』の裏手に『インターマルシェ』があったかなー、と思いながら、昨日の『コンチネンテ』までクルマを走らせてみた。その辺りをぐるぐる回ってみたけれど『コンチネンテ』以外にはガソリンスタンドと『バーガーキング』があるだけで他には何もない。

 更に外れたところに集落があったので行ってみた。歩いていた老人に『ローディー』は何処にありますか?」と聞いてみると、如何にも面倒くさそうに足早に歩きながら「『ローディー』は『インターマルシェ』の中だがね~」などという。それはホテルフロントの女性と一致しているので正しい。でもこの老人の挙げた腕には刺青が施されていていかにもやばい老人のように見えた。その隣では犬ではなく黒ヤギが我々を見上げ笑っていた。どうやらジプシーの集落に入り込んでしまった様だ。

 『コンチネンテ』に戻って、駐車場のところに突っ立っていた中年男に「『ローディー』は何処にありますか?」と尋ねてみた。「『ローディー』は『インターマルシェ』の中じゃがね~」と同じ言葉が返って来た。「それではその『インターマルシェ』は何処にありますか?」と更に突っ込んで聞いてみた。中年男は口籠ってしまった。道を教えるのが苦手な様子で、とにかくこの周辺ではなさそうである。

 大体この程度の街になると同じスーパーが2軒や3軒があるものである。とその時に気が付いた。

 ここはベジャの北の入口付近。そう言えば昨日、ホテルフロントの女性が教えてくれた『リドゥル』はべ―ジャの南側になる筈だった。そしてその周辺には大型スーパーの何軒かが固まってあるのだろうとも思った。南側と言うことは『カステロ・ヴェルデ』方面に行く道沿いに違いない、と思い。

 その中年男に「カステロ・ヴェルデに向かう道ですか?」と言ってみた。男は「そ、そ、そう、そ、その通り、お、俺も今、それを言いたかったのだっ。」と口ごもりながら言った。

 後は、『カステロ・ヴェルデ』の道路標示に従ってクルマを走らせるとたぶん着く。

 お城の尖塔を左手に見ながら、先ず、エヴォラ方面への道も通り過ぎ、リスボン方面への道も過ぎ、更にカステロ・ヴェルデの標識を見逃さない様に、ベジャの街を大きく半周すると、先ず『リドゥル』の看板があって、次に『コンチネンテ』があった。ホテルフロントの女性は、昨日我々はこの店で買い物をしたものだと思っていたのだ。そして『コンチネンテ』の裏手に『インターマルシェ』があり、その中に『ローディー』が確かにあった。

 『ローディー』の前にクルマを停め、他のクルマの修理中で忙しそうにしていた、初老の修理工、多分店長だろう。その人に「ブレーキがおかしいので見て頂けますか」と言ってみた。修理中のクルマを一旦中止して、すぐに僕のシトロエンを見てくれた。ブレーキを踏みこんで、「判りました。1時間で修理ができますから、申込用紙にサインをしてください。」

 これで一安心である。難しい故障ではなさそうで良かった。1時間で済まなくても半日掛かっても実は構わないのだが。

 スケッチをするつもりで、街の中心付近まで歩いて出かけた。

 街の中心部、昨夜泊まったホテルのすぐ側に『ピンゴドース』があった。

 フロントの女性に『リドゥル』の場所を尋ねたので、その場所を教えてくれたが、「どこにスーパーがありますか」と聞けば、多分、この『ピンゴドース』を教えてくれた筈だ。

 お城の尖塔は隠れてしまってどこからも見られないが、スケッチの場所は多い。

 修理は1時間とのことであったが、1時間半ほどしてから戻るつもりであった。

 上って来た道とは違う道を降りて行った。その道にもスケッチの場所は幾つもあった。でも放射状になっているので随分と遠回りになってしまった。

 『ローディー』にたどり着いたのは2時間が経っていた。

 でもクルマは工場内のジャッキで持ち上げられたまま未だ直ってはいなかった。店長の姿は見あたらなかったが、3人の修理工が僕のシトロエンに係っていた。

 若い修理工に「故障は難しいのか?」と聞いてみると。「いや、簡単さ」と言った。

 それでも未だ終わってはいない。『ローディー』が見えるカフェに座ってコーヒーを飲みながら待った。

 『インターマルシェ』のカフェの周辺にはいくつもの子供用乗り物が設置されている。SL機関車。宝物を一杯積んだ海賊船。それに顔のある自動車。小さな女の子が海賊船によじ登った。コーヒーを飲んでいた祖母らしき人が子供のために海賊船にコインを投入した。子供は何故こういった乗り物が好きなのだろう。などと思いながら子供のはしゃぐ姿を眺めていた。

 それから30分が経ってようやく修理が終わった。徹底的に見てくれたようで安心だ。多分、ブレーキオイルが切れていただけなのだろうが、伝票を見るといろいろとチェックをしてくれている。修理代金を払い、家路についた。ブレーキは快適に効く。

 高速道は走らずに一般道ばかりを走った。それでも100キロ前後のスピードだ。

 月曜日なので昨日とは打って変わって大型トラックが多い。登坂車線では他のクルマに倣ってトラックを追い抜く。前のクルマが急ブレーキをかけてもこちらのブレーキも良く効くので大丈夫だ。

 西日に突き進むこともなく、家に帰りついたのは17:00。

 我が家のベランダからの夕焼けが美しい。

 そして、又、引き籠りの日々が始まる。

 ブレーキがかかったままになっている描きかけの油彩キャンバスとの会話でも、せいぜい楽しむしかないか…。VIT

 

 

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