2021年9月30日現在『速報』エンジェルス・大谷選手、5打数2安打1得点2盗塁! 『45本塁打25盗塁100得点のアリーグ初の記録』を達成!投手としては:9勝2敗、防御率:3,18、奪三振:156、試合数:23、と大谷翔平選手の大リーグでの活躍は心躍らせる。大谷選手の二刀流?或いは、武蔵の二刀流ではないが、上の絵は右手で半分、左手で半分描いた油彩。

 左手で絵を描く。右利きだが、左手で絵を描く。

 実は、もう10年も前から右手にペンダコならぬ、絵筆ダコが出来ている。痛くも痒くもないのだが、ふとした時に気になる。きょうはテレビのニュースを見ながらついついいじってしまっていた。そして普段より少し飛び出し、タコ主張している様にも思へた。10年も前から身体の一部と化しているのだが別に愛着はない。

 切除してしまおうと急に思い立った。

 爪切りを用意した。オキシフルも用意した。それにメンソレータム。バンドエイド。

 右手だから左手に爪切りを持った。出来るだけ根元まで押し込んでパチンと切除した。いや、爪ではないのでパチンとは言わない。でも爪切りだから簡単に切除が出来た。血が少し滲み出てきたがそれ程でもない。オキシフルで消毒をして、メンソレータムをたっぷりと塗った。思った程は痛くはない。四角いバンドエイドがあったので、それを貼った。左手でテープを剥がして患部の真ん中に貼ったつもりがかなり横っちょにズレて貼ってしまった。左手は右手に比べてかなり不器用なのが判る。仕方がないが血が少し滲み出てきている。

 概ね旨くいったように思う。でもほんの少しだがいつまでも血が滲み出ている。水仕事は出来ない。

 油彩を描こうとしたが絵筆がバンドエイドに触る。

 それで左手に絵筆を持った。

 左手で油彩を描くのは初めてではない。気が向けば時々はやる。いや、気が向かない時に時々はやる。

 自分では思いもよらないところに絵筆が向かったり、思いもよらない線が現れたりする。気に入らなければ消せばよい。それが面白くて時々は左手に絵筆を持つ。

 絵筆も真っ新な物よりも使い切って捨てる寸前の様な既に只の棒の様な絵筆を使う。それもまた面白い。

 ラウル・デュフィは右利きだが常に左手で絵を描いた。右手は器用すぎて面白味がないので左手で描いたのだそうだ。ラウル・デュフィの絵は面白くてそれがうなずける。

 好きな画家のひとりだ。

 僕は器用でもないし、巧くも描けない。下手くそだ。別にラウル・デュフィの真似をしているわけではない。

 右手ではその下手くそがもろに現れる。左手なら誤魔化しが効く様な気がする。誤魔化すために油彩を描く訳ではないが、油彩は何でもありなのだ。

 ラウル・デュフィは左手で描いたが、白髪一雄さんは足で描いた。カルバン・クラインは女体に青い塗料を塗ってキャンバス上を泳がせた。ポロックは絵の具を垂らした。

 どれも面白い。好きな画家ばかりだ。

 切除した筈の絵筆ダコがもし再び現れたら、その絵筆ダコで描いてみようかと思う。憎しみを込めて。いや、愛着を込めて。

 

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 9月1日の今日も霧だ。お城もトロイアもサド湾の水面も見えない程の濃霧。下界は濃霧なのに上空は晴れ。陽射しが強い。そして部屋の中は蒸し暑い。降水確率26%の予報。たぶん降らないのだろう。

 8月28日に雨が降った。ほんの少し、傘が要らない程の霧雨。

 その前は7月26日と25日。その時も傘が要らない程の霧雨がほんの少し。

 そして更にその前は6月21日に一時雨。20日に雨のち快晴。19日に曇り時々晴れ一時雨。

 夏に入ってからは1か月に1度、こんな感じで殆ど降ってはいない。霧の日も何度かはあった。

 でも例年なら夏には全く降らない。雲一つない快晴、降水確率0%の日が数か月も続く。空気はカラカラに乾燥し、溜池の底が現れ、赤土にひび割れが生じ、牧場の羊や牛が途方に暮れる。

 イベリア半島のポルトガル、アレンテージョで毎夏心配される渇水のニュース。それがこの夏はあまりなかった様に思う。イベリア半島に潤沢に水があることは良いことだ。

 地球上で一番砂漠化がすすんでいるのがイベリア半島だそうだ。

乾燥したポルトガル風景

 毎年起こる山火事はそれを加速している。でも今年2021年に限っては少ない。そういえばセトゥーバルでも40℃に達する日が1度あっただけで、それ程の猛暑はなかった。

 夏に霧雨とは言え雨が降ったのも異常気象なのかもしれない。

 大阪に住む友人から8月21日にメールが届いた『この頃、梅雨の様に雨が続きます。先日は布団を干していて濡らしてしまいました。』大阪は台風の影響もあるのだろう。雨ばかりであるらしい。

 イベリア半島には殆ど降らないがイタリアでもドイツでもベルギーでも降り過ぎての洪水に見舞われ被害が出た。ハイチでは地震の後、追い打ちをかける様にハリケーンによる洪水。アメリカのカリフォルニアでは今年も大規模火災で過去最悪だそうだ。一方、フロリダでは洪水被害。

 グリーンランドでも雨が降ったそうである。グリーンランドの雨は史上初めてだとか。空から落ちてくるのは今までは雪でしかなかったそうだ。過去最悪とか初めての観測などの言葉も最近は頻繁に耳にする。

 地球の温暖化は想像以上に進んでいる。温暖化により異常気象が起こり、どか雨が降り、被害が出る。

 僕はどちらかと言うと雨は嫌いだ。特に日本の梅雨の様な高温多湿には耐えられない。高温多湿アレルギーなのだ。そんなアレルギーがあるのかどうかは知らないが、子供の頃にはそんな時期に蕁麻疹が体中に出て、顔は腫れあがり、喘息になった。

 それがヨーロッパに来て身体の調子はすこぶる良い。気候風土が身体に合っているのかもしれない。

 南米の旅行中はずっと調子が悪かった。リオから南下しアルゼンチンの最南端まで行き、チリから北上、赤道直下のエクアドールではかなり辛かった記憶がある。コロンビアまで来た頃にはいよいよ体調が悪化、顔にも蕁麻疹が出ていた。ボゴタのツーリスモで医院を紹介してもらって診てもらったことがある。インドネシアでもあまり良くはなかった。

 ヨーロッパに高温多湿と言う時期はない。夏は乾燥し、雨季は冬だ。寒いのも苦手だが寒い時期の多湿はそれ程苦にはならない。かつて4年余りをストックホルムに暮らした。その時も体調は良かった。

 高温多湿の極であるサウナなどは苦手かというとそうでもない。サウナは好きだ。サウナに入って蕁麻疹が出たことはない。

 ポルトガルの雨季と言っても日本程は降らない。クルマのワイパーも殆ど使ったことがない。雨の日は出掛けないことにしているからだが。

 晴耕雨読と言うけれど、雨の日の読書は暗いので眼を悪くしてしまう。読書も晴れた日の方が好きだ。雨の日はキャンバス張りに充てている。湿度が高いと張り易いからだ。

 自然は巧く出来ている。自然と巧く付き合えたら良いのにと思うが、要らないところに降り過ぎて、必要なところには一滴も降らない。地球規模では整合性が取れていない。

 昼間は晴れて、寝ている夜に少しずつ降ってくれれば、と自分の都合の良いことを考える。以前、中国で人工的に雨を降らせる実験が行われたと思うが、立ち消えになったのだろうか?

 現代は僕たちが子供の頃には考えられないような進んだSFの世界になっている。あと、ほんの少しで必要な時、必要な場所に、必要なだけの雨を降らせることが出来る世の中が来ることだろうと思う。

 でもそんな人工的な雨よりも、美しい海に潤沢に珊瑚が育ち、保水力のある豊かな森の緑深い地球になれば、きっと必要なだけの雨降りになるのではないのだろうか。VIT

 

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 セトゥーバル半島の西の端にエスピシェル岬がある。古い教会があり、教会とは別の岬に灯台がある。春にはその広い台地に無数の野の花が次から次に咲き、野の花の観察に行く。

エスピシェル岬灯台と大西洋の水平線

 灯台の正門のところにクルマを停めると直ぐに犬が門の傍までやってくる。大型犬だが優しい目をした可愛い犬だ。犬種は知らないがたぶん猟犬なのだろう。

 犬に挨拶をした後、その辺りを歩き回るのだが、結構な広さがあり、普段の運動不足解消にはもってこいだ。既に数えきれない程訪れているがたいてい初見花が見つかるし、花を撮影するのに、空と海と崖をバックに良い写真が撮れるので楽しみはおおきい。

 コロナ禍に入ってからもその規制の合間を見つけて何度かは訪れている。規制は時々により厳しくなったり、ならなかったりころころと変わる。セトゥーバル市から一歩も出られないこともあるし、自治体を跨ぐ移動の禁止だとかいろいろだ。罰金を取られたという話も聞く。

 僕はお城の鐘楼や大阪の通天閣など高い所に上るのは好きだが、いままでにたぶん灯台というところには上ったことがない。そして灯台など単独での高い建造物を描くのは苦手だ。

 高校生の時、友人が灯台の絵を描いた。友人の地元、堺市の灯台だ。木造でレトロな感じで絵も良かった。その灯台が建っている場所は陸地の中にあり、もはや使われていない灯台だった。埋め立てられ海岸線がどんどん遠くに離れ古い灯台だけが取り残されたのだ。

 灯台など高い建造物を描くのが苦手なのは空が広くなってしまうからだ。僕の絵は空を極力抑え、全く描かないか、描いても1割程度。

ロカ岬灯台

 ポルトガルにはエスピシェル岬灯台の他にも、ロカ岬やサグレス岬にも灯台があり、そこでもまた違う花の観察が出来るがコロナ禍以来そこへも行くことは出来ないでいる。

 ロカ岬はヨーロッパ最西端、いやユーラシア大陸最西端と言うことになり、観光客の絶えることがない。

 サグレス岬もポルトガルの西南の端っこになりかつてエンリケ航海王子が航海学校を開いたところで、それが大航海時代の先駆けとなった重要な岬でもありそこも観光客が多い。

 でも今は静かさを取り戻し本来の美しい岬であるに違いないが行くことが出来ない。

 ポルトガルの海軍大学を卒業すれば最初の勤務は大抵が僻地の灯台守だそうだ。

 アルガルベ地方の中心都市はファロ(Faro)という。語源を調べてみると『灯台のある場所』と言う意味らしい。ファロにも数えきれないくらい訪れているがファロの灯台は未だ見ていない。

 先日、マイケル・ファスベンダーとアリシア・ヴィキャンデルそしてレイチェル・ワイズ主演の灯台守の映画『光をくれた人』(The Light Between Oceans)2016年の映画を観た。

 この映画も3度目か4度程は見ているが、哀しい映画だ。第1次世界大戦に4年間従軍した主人公が戦争の終わりと共に孤島での灯台守勤務を志願した。やがて島の対岸の拠点町に住む地元の女性と恋に落ち結婚し、二人の楽しい灯台守生活が始まった。直ぐに妊娠したものの流産してしまう。2度目の妊娠も流産となった。そんなある日、小さな手漕ぎボートが漂流しているのを発見する。ボートには既に死んでいた男性と元気な女の子の赤ん坊が乗っていた。男性を埋葬し、赤ん坊をルーシーと名付け、自分たちの子供として育て始める。

 映画の詳しい内容をこれ以上は書かないが、美しい風景と俳優たちの演技力は見応えがあり良い映画だと思う。マイケル・ファスベンダーとレイチェル・ワイズの実力派演技は勿論だがアリシア・ヴィキャンデルの演技も魅力的だ。アリシア・ヴィキャンデルはスウェーデン出身の女優だ。

 僕は20歳代の頃に4年半をスウェーデンに暮らしたこともあり、スウェーデン人の俳優にはいつも注目して観てしまう。スウェーデン出身の女優にはグレタ・ガルボやイングリッド・バーグマンを筆頭に、その他にも多くのハリウッドで活躍する女優が居る。最近ではレナ・オリンとこのアリシア・ヴィキャンデルに注目だ。

 灯台守と言えば母を思い出す。僕が未だほんの子供の頃に母はよく鼻歌で歌っていたものだ。

おいら岬の灯台守は 妻と二人で沖行く船の 無事を祈って灯をかざす 灯をかざす

冬が来たぞと海鳥啼けば 北は雪国吹雪の夜の 沖に霧笛が呼びかける 呼びかける

離れ小島に南の風が 吹けば故里思い出す 思い出す

星を数えて波の音きいて 共に過した幾歳月の よろこび悲しみ目に浮ぶ 目に浮ぶ

『喜びも悲しみも幾歳月』というタイトルの映画の主題歌だそうだ。1957年。160分の映画で監督・脚本は木下惠介。主演は高峰秀子と佐田啓二。主題歌は若山彰が歌っている。

 いや、母だけではなく日本中で口ずさまれた歌だ。判りやすい歌詞と歌い良いメロディ。

 昭和7年(1932年)から25年にわたり戦前・戦中・戦後を通して日本各地の灯台で船の安全を守り続けた灯台守とその妻の半生を描いた長編作。残念ながら僕はこの映画は観ていないと思う。母は観たのであろうか?

 正確な歌詞を書くために検索をした。これについてもいろいろと書き込みがある。『僕は最近まで長いこと<オイラ岬>という所があるのだと思っていました。』には笑ってしまった。

 ほんの子供の頃、母に連れられ何度か映画館に行った記憶がある。グレゴリー・ペックであったり、大川橋蔵であったり、美空ひばりであったり。映画館から出て帰り道、母はこんなことも言った。「大川橋蔵かっこ良かったな~。比登志も映画俳優になるか~」「なるんやったらそれの勉強させたるで~」と冗談とも本気ともとれない話であったが、僕は人一倍人見知りをする性格だし、とうていその様な華やかな世界は無理ではあった。

 近所には漫才師に三味線を教えるお師匠さんが居られたが、まさか僕に三味線を習わせる積りでもあったのだろうか?

 灯台守の映画『光をくれた人』の子役が又良い。フローレンス・クレリーという女の子だがその自然な演技、あどけない可愛らしさはこの映画のハイライトで心を打つ。

 僕は今、海外に暮らしている。そしてコロナ禍の下、人との交流は殆どなく、大西洋の水平線と沖行く貨物船を見守りながらの蟄居生活は灯台守の生活の様なものなのかもしれない。VIT

エスピシェル岬灯台

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 2021年4月28日(水)COVID-19のワクチン接種をした。

 4月14日(水)にアヌンシアーダ保健所で申し込みをしていたものだ。

 ポルトガルでは昨年12月頃からワクチン接種が始まっていて、最初は医師や看護師など医療関係者からで、次に学校の先生や公務員、それから高齢者の順。

 アソーレスに住む幸さんからは「4月6日(火)に済ませました。」というメールを頂いていた。アソーレスは本土より随分と早い様だ。

 4月11日にリスボンに住む弘子さんからメールが届いた。弘子さんは大学で日本語を教えておられる学校の先生だから早いのだろう。「武本さんたちも保健所に行って、申し込みをしておいた方が良いですよ」とのことで、そのメールには『ワクチン接種必要事項』がポルトガル語で書かれてあった。氏名、生年月日、健康保健番号、と携帯電話番号など10項目ほどを記入するのだ。

 それを記入し、プリントしておいた。全て保険証書に記載されてあったのを書き移すだけだ。

 実はそれまではワクチン接種はどちらでもよいなどと思って消極的であった。アストラゼネカワクチンでは事故のニュースも頻繁に出てくる。

 4月13日(火)にMUZが「明日は保健所に行こう。」と言って積極的だ。

 雨模様の4月14日(水)に意をけっしてアヌンシアーダ保健所に行ってみた。駐車場から傘をさしたが傘が要る程でもない。入り口の外に5~6人の人が順番待ちをしていた。

 ガードマンが近寄って来て「ご用は何ですか?」と尋ねてくれた。用意していた紙を見せながら「COVID-19ワクチン接種の申し込みをしたいのです」と言った。

 受付のカウンターを指さしながら「あの人が終わったら次に行ってください」と指示してくれたのでMUZが先に行った。ガードマンは僕にも「その後続けて行ってください。」と指示してくれた。表で順番待ちをしている人は別の用件なのだろう。

 受付でプリントしていった紙を見せた。無言で申し込み手続きをしてくれて、その紙に『受け付けました。あとは電話を待ってください。』と手書きしてくれた。紙をプリントしていって良かった。楽に済んだと思った。

 並ぶこともなくあまりにも簡単に申し込みが出来たので、本当に出来たのだろうか?と半信半疑でもあった。まあ、ワクチン接種は出来なくても、それより先にCOVID-19ウイルスの終息がしてくれればそれに越したことはない。などとも思っていた。

 ニュースなどを見ていると結構若い人がワクチン接種をしている映像などがある。もう我々の年代は過ぎてしまったのだろうか?などとも思って見ていた。まあ、それならそれでも良い。とも思っていた。

 でも申し込みには固定電話ではなくスマホの番号での申し込みだ。

 実はスマホに電話が掛かってきたことは殆どない。電話の取り方も判らないのだ。

 スマホは毎日使っているが検索をしたり、弘子さんからのSNSを見たりで電話を受けたことがないのだ。

 4月26日に練習をしてみた。固定電話からスマホに電話したのだ。スマホ画面に表示があってスライドしてから話すのだ。と言うことが判った。

 スマホの練習をしたその翌日、4月27日(火)丁度お昼のニュースが始まろうとする13:00にスマホの電話が鳴った。MUZが電話を取った。女性の声で「明日9:10からワクチン接種です。ヒトシ・タケモトです。」との内容だった。MUZは「ヒトシは私の夫で、私の分ムツコはないのですか?」と聞くと「それは判りません。ヒトシだけです。」との返答であった。年齢が1歳違うので別の日になるのだろうか?と思ったが仕方がない。

 ニュースが終わろうとする14:30に再びスマホの電話が鳴った。やはりMUZが取ったが、今度は男の声で「明日、9:14からワクチン接種です。ムツコ・タケモトです。」9:10からと9:14とはえらく細かく区切ったな。と思ったが、ほぼ同時刻、同じ場所だから良かった。 

 場所はエディフィシオ・カイス 3。アヴェ二―ダ・ジャイム・レベロ 31番地で2人とも同じだ。

 2021年4月28日(水)ワクチン接種に8:10に自宅を出発。エディフィシオ・カイス 3がどの建物なのかは判らないが、アヴェ二―ダ・ジャイム・レベロ通りに間違いはないと思い、ヨットハーバー前に駐車。ここからなら歩いてもそれ程はない筈だ。

 フランシスコ・ザビエル像が建つ港の公園側には建物はないからその向かい側だろうと思っていた。セトゥーバルの中央保健所がそこにあるのは以前から知っていた。でも保健所はエディフィシオ・カイスとは別の筈だ。その周辺だろうと思って探したが見当たらなかった。保健所の前で2人が開門を待っていたので、聞いてみると、表通り迄招き出て「ここではなく先に黄色い建物が見えるでしょう。薔薇色の建物の向こう側、あれです。」と親切に教えてくれる。公園の先に黄色い建物があるが、あれは以前には海軍か海上警察の建物で一般の人は入られなかった場所だ。

 黄色い建物まで行ってみると既に30人程が列を作っていた。8:30到着。雨模様だが屋根の下なので傘は不要だった。2メートル間隔で列に並んだ。大きな燕が天井辺りを飛び交っている。我が家の周りで飛んでいる燕より一回りも二回りも大きい。その間にも続々と人が集まってきている。医師や看護師らしき人が私服で重そうな扉を開けて入って行き、そして閉める。次から次に大勢のスタッフだ。白衣に着替えたスタッフ3~4人が船着き場の方へ行って煙草を吸い始めた。吸い終わってまた重いドアを開け入った。

 9:00開門。列を作っていた人たちが入り口に殺到し、2メーター間隔はなくなる。1人のガードマンが入り口で大きな声をはりあげ「9:00予約の人だけが入り口に集まって下さい。それ以外の人は道を空けて下さい。」と指示。9:00予約の人が少しずつ30人程入る間、9:10予約は更に待たされる。最初から僕の後ろに並んでいた小母さんが僕の肩を突っつき「ガードマンの側まで詰めておきなさい。」などと言う。お陰で9:00予約の人が入り終えたところで、9:10予約の最初にガードマンは入れてくれる。MUZも一緒だ。9:14は聞き間違いなのだろう。そこでも10人程の列。順次中に入り申し込み用紙を渡される。僕たちが作って来た書類を書き写すだけだ。『持病はないですか?とか薬は飲んでいますか?』など10項目程のアンケートにチェックを入れた。最後の質問が判らないので係の人を呼んだ。「これは何ですか?」「それはノンにチェックを入れて下さい。」で、申込用紙を次の係の人に渡し、待合室で待機。

 少しは若い人も混ざっているが、殆どが同世代か、高齢者が多い。杖をついた人、椅子から一人では立ち上がれない人。そんな人に看護師たちは実に親切だ。

 そして指示に従い待合室を移動。ここで名前を呼ばれるのだが、後ろの空席に座ったので聞き取りにくいと思い、前の席が空いたので移動。僕の名前にはHが入っている。ポルトガル人にとってHの発音は難しいらしい。判るかなと少し心配であった。でも難なく「ヒトシ・タケモト」とはっきりと名前を呼ばれ接種ブースへ。椅子に座って上着を脱ぎ、左腕を出す。先程名前を呼んでくれた看護師がべらべら喋りながらファイザーワクチン接種完了。9:45。看護師はテキパキとして感じが良い。カードをくれたが先程べらべら喋ったことがほとんど書いてある。「もし具合が悪くなったら、このカードを持って最寄りの薬局に行きなさい」。

 接種ブースは10程もあり、流れ作業で行われ次から次に済まされていく。

 更に待機室で30分待機。看護師が粘着テープを上着に張ってくれる。粘着テープには、僕の場合『10:15』と書いてあって、その時間まで待機室で待機するのだ。

 待機室には50程の椅子。時間の来た人から順次出ていく。そして接種を終えた人が又入って来て、常に入れ替わっている。1人の若い看護師が見渡していて、体調に異常が出ないかを見張っている。その若い看護師は高齢者50人の注目を集めて幾分恥ずかしそうだ。でも50人の内半数はスマホに目を落としている。

 MUZもほぼ同時に完了。待機時間は『10:18』で3分遅れ。最初からすぐ後ろに並んでいた小母さん夫婦も完了。隣に座って笑顔いっぱいにほころばせ、僕たちに向かって「やったね!」と言わんばかりに親指を立てる。何だか同志の様だ。

 出口の扉が開きっぱなしだったので、燕も自由に出入りしていたが、海からの冷たい空気が入り込み身体が冷え切ってしまった。ワクチンを打ちやすい様にとジャンバーの下は半そでである。隣のご主人は待ちきれず25分で看護師に許可を貰い先に出て行ってしまった。奥さんは、「困った夫ね」と言う表情を作り、僕たちにウインクをして夫の後に従い出て行った。僕たちも30分が待ちきれず、29分で立ち上がった。出口専用口から外に出ると入り口にはさらに多くの人が行列を作っていた。

 以前には海軍か海上警察の敷地で一般の人は入られなかった船着き場にはベンチなど置かれ街路樹が植えられ綺麗な公園に様変わりしていた。天気が良ければこのベンチに座って海でも眺めていれば気持ちが良いのだが、その日はあいにく雨こそ落ちてはこないもののどんよりと曇り空。

 少し寄り道をし、帰宅は10:45。次回のワクチン接種は5月26日(水)9:06。MUZは9:05。細かく区切ったものだ。これでは最初の14分も間違いではなかったのだろう。

 ワクチン接種では実にいろんな人の親切に接した。COVID-19以来、欧米各地では東洋人に対する差別や嫌がらせが言われている。僕たちは極力外出は控えてきた事もあるが、今までそんなことを感じたことはない。そしてポルトガルで、セトゥーバルで良かったなと改めて感じた。

 帰宅してMUZが弘子さんにSNSで報告。大学の先生の弘子さんには早くに接種許可が来ていたそうだが、何と弘子さんは躊躇し未だワクチン接種は受けておられないそうだ。

 

 

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小さいながらも鮮やかな黄色が可愛い『黄花蜜蜂蘭 Ophrys lutea』2021年3月25日セトゥーバル郊外で撮影。

 ベランダの洗濯物を見ながらコーヒーを飲んでいる。1頭の蜜蜂が飛んできて、ベランダの手すりに止まって洗濯物を窺っている。洗濯物を花と間違える筈はない。巣別れの場所を探しているのかもしれない。やがて諦めて飛んで行った。

 この場所にはよく蜜蜂がやって来る。

 ニラに花が咲くとその蜜までも吸いに来る。

 アラビダ山には季節を問わず無数のローズマリーが咲いているが、たまには違う味を楽しみたいのだろうか?

 先日は蜂に刺された。

 夕食前に少しの時間が出来たので、本を読み始めた。昼間の陽射しは強かったのだが、陽が傾きだしたので少し寒さを感じた。

 上に重ね着するのではなく、下に重ね着をすることにし、全ての服を脱ぎ、ブリーフの上にアンダータイツを着た。そして又、全ての服を着た。

 棘でも刺さっているのか、チクチクとする。

 このアンダータイツは昨日洗濯をしたばかりで、タンスから出したものだ。

 先日は、野の花観察にパルメラのトレッキングコースを歩き、藪にも入った。その時の棘が洗濯をしても落ちないでそのまま残っているのであろうかと思った。

 服を全て脱いでみた。

 ごろっと黒いものが出てきた。一瞬ダニかと思い、大きく奇声を発してしまった。

 黒いものはレースのカーテンを這い上がり始めた。

 何と蜜蜂だ。

 そのまま窓を開けて逃がしてやった。

 洗濯物を干している時に内側に潜り込んだのだろう。蜜蜂はタンスの中で24時間も過ごしていたのだ。洗濯物を取り込む際には花粉や埃などを落とす様に、ぱたぱた叩いてから取り込むのだが蜜蜂も落とされまいと必死でしがみついていたのだろう。

 蜜蜂が飛んでしまったあとチクチクしたあたりを調べると小さく4か所も刺されていた。

 キンカンを塗って、ムヒを塗った。痛みも痒みも殆どなく、腫れることもなかった。

 『蜂の一刺し』という言葉がある。<命がけの発言>という意味だろうか。蜜蜂は命がけで刺す。刺せば自ら死んでしまうそうである。4箇所も刺したのだから死んで当然な筈だが飛んで行ってしまった。窮屈なアンダータイツの裏側で思いっきりは刺せなかったのだろうか。

 ダニやスズメバチでなくて良かった。

 僕は以前、宮崎に住んでいた時、スズメバチに刺されたことがある。蒸し暑い時期でもあった。熱中症気味もあったのかも知れないが、朦朧としながらも、クルマを走らせ15分離れた医院に行き診てもらったことがある。

 庭で草払いをしている時に突然首の後ろ側を刺されたのだ。その時は棒か何かで叩かれたほどの衝撃が走った。

 スズメバチは別棟の水道管の穴の中に巣を作っていた。

 スズメバチは蜜蜂とは違って刺しても死なないでその後も生きながらえるそうである。

 先日、『Mr.ホームズ名探偵最後の事件』(2015年。イギリス、アメリカ共同製作。104分。監督:ビル・コンドン。)という映画を観た。

 1947年、現役を引退し93歳になったシャーロック・ホームズ(イアン・マッケラン)は蜜蜂を育てる楽しみを得てイングランド南部サセックスという田舎で、家政婦のマンロー夫人(ローラ・リニー)とその息子ロジャー(マイロ・パーカー英語版))と暮らしていた。ロジャーも一緒になって蜜蜂の世話をしていたが、ホームズはロジャーの名前をたびたび忘れ痴呆が出始めているのが気に掛かっていた。

 広島の原爆跡に芽を出していた山椒の苗木をイギリス迄大切に持ち帰って来た。物忘れには『山椒』が良いと言われ、煎じ始めたところ気分が悪くなって倒れてしまった。ロジャーは一人で蜜蜂の世話をしていたが、ホームズが庭に出てみるとロジャーは顔が腫れあがる程、蜂に刺され気を失って倒れていた。救急車で病院へ運び何とか命は取り留めた。マンロー夫人は蜜蜂の巣箱にガソリンを掛け燃やしてしまおうとしたが、ホームズは蜜蜂ではなくスズメバチなのではないかと推理し、付近を捜したところやはりスズメバチの巣が見つかり、マンロー夫人と二人で燃やした。

 『シャーロック・ホームズ』自体が架空の人物で以上は物語なのだが…。

 宮崎に住む友人は、その又友人が趣味で飼育している蜜蜂が巣別れの兆候を示したとのことで、それを譲り受けて蜜蜂飼育を始めたと言ってきた。趣味としても楽しそうだ。

 ポルトガルの露店市には蜜蜂飼育の道具を専門に出している店もある。ポルトガルにも蜜蜂飼育を趣味としている人が多いのだろう。家の門のところに『自家製蜂蜜あります』などという張り紙も見かける。

 その蜜蜂を狙ってスズメバチが襲う。

 ポルトガルでも最近はスズメバチの被害がニュースなどでも取り上げられる。スズメバチはポルトガル語では Vespa asiatica ヴェスパ・アジアチカ(アジア蜂)または Vespa-gigante-asiatica ヴェスパ・ギガンテ・アジアチカ(アジア巨大蜂)などという。

 「アジアからはアジアチカといい武漢ウイルスといい、厄介な物ばかりが入ってくる。」などと思っているポルトガル人は居ないだろうけれど、アジア人の一員としての日本人にはアジアチカは有り難くない名前である。ちなみに蜜蜂はポルトガル語で Abelhas で全く違う名前である。

蜂に擬態した『鏡蜂蘭 Ophrys speculum』

 近年、日本でもスズメバチに襲われる事件は増えている。スズメバチが持つ毒液の毒性は強く、呼吸不全や心肺停止の原因にもなり、死に至ることもある。

 アジア以外にも毒虫はいろいろと居る。

 ギリシャの岩山で宝石の原石を探していた。裏返した石にサソリが引っ付いていたことがある。

 メキシコのピラミッドを見学して宿に帰って来た。バンガロー形式で茅葺屋根の宿であった。部屋に入って電灯を点けたところ、ベッドの上をタランチュラが這っていた。ピラミッドで買って来たポスターで叩き潰したものの、その夜には怖い夢を見てうなされた。

 目に見える毒虫も恐ろしいが、目に見えないウイルスも恐ろしい。

 何とか感染しないで1年が過ぎた。

 予想より遥かに早くワクチンも開発されたが、問題も多い様だ。アストラゼネカなどのワクチン接種によって複数の人が亡くなっている。我々にはいつワクチンの一刺しがあるのか、今のところ全く情報はない。出来ることなら100%の安全性が担保されてから、或いは一刺しをしなくても社会全体で終息ができればなどと思う。

 今、沿道ではコロナの花『シュンギク』の原種が満開の時を迎えている。

 シュンギク原種の学名はクリサンテムン・コロナリウム Chrysanthemum coronarium という。コロナなどと可愛い名前の筈が悪いイメージが滲み込んでしまった。

コロナの花シュンギク原種に止った蜜蜂

VIT

 

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人に踏まれながらも道端にひっそりと咲くゲラニウム・モーレ(ヤワゲフウロ/柔毛風露)

 現在、世界の人口は78億人だそうだ。

 更に1分に156人、1日で22万人、1年で8000万人が増え続けている。

 1年に6千万人が亡くなり、1億4000万人が生まれている。

 「えっ、いつの間に」という感覚だが、僕の中では世界の人口は56億人くらいだと思っていた。56億人の頃から思考が停止てしまっていたのだ。と言うより世界の人口が100年かそこらでそれ程変わるとは思っていなかったのだろう。56億なら1996年の頃か?

 僕たち夫婦がポルトガルにやってきた1990年頃には53億人ということになる。

 この30年で50%も増加したことになる。

 その前には38億人というイメージも持っていた。38億人なら1970年頃の世界人口だ。大阪万博の年でその翌年に僕たちは海外に住み始めていた。ちなみに1964年の東京オリンピックの年は32億人。

 最近は何処に行っても人が多いとは感じていた。昔はルーブル美術館やオルセー美術館に入場するのに並んだりはしなかった。それはLCC格安航空会社などが出て来て、旅行が頻繁になったからだと思っていたが、それもあるだろう。でもそもそもの人口が増えているのだ。

 僕たちが最初にヨーロッパや南米を旅行したのは1970年代だった。今と比べたら格段に人が少なかった。1970年の世界の人口は37億人だった。その頃から比較するとほぼ倍になっている。良い時期に旅行をしたものだと思う。

 そして最近は人の行かないところ、行かないところを選んで旅をしている。

 先日も運動不足解消のためにと思って近くのローマ道を歩いた。今までなら半日歩いても殆ど人と出会わなかったのだが、その日は自転車の4人とハイキングの女性2人、それに地元の人1人と出会っただけである。人が増えた、観光客が増えたと言っても居ないところには人は居ない。

 行列の出来るラーメン屋といつでも暇な支那ソバ屋の違いだろうか?僕たちはいつでも暇な支那ソバ屋を選んでいるだけなのかも知れない。

 商店街は洋の東西を問わず閑散としている。一方、郊外型ショッピングモールなどは人があふれている。

 僕は人口密度の高い大阪の下町で育った。戦後のベビーブームのはしりでクラスは4倍に増え教室はびっしり満員52人クラスのなかで学校生活を送った。1学年上は4クラスしかないところが一気に15クラスだった。

 僕が生まれたのは第2次世界大戦が終わった翌年の昭和21年だ。西暦では1946年。その頃の世界人口は20億人。その数字と比較してみると78億は驚くばかりだ。

 地球上には人類ばかりではない。人類だけが地球を独占して良い筈がない。

 先日は散歩の途中羊飼いと出会った。1頭の牧羊犬と200頭ばかりの羊を連れていた。その時はその辺りを見回しても羊が200頭、人類は僕たち夫婦と羊飼いで3人、犬が1頭で羊の数が圧倒的に多かった。でも羊は人類の為に飼われている家畜だ。

 羊たちが去った後、5頭ほどのフンコロガシがどこからか現れて糞を転がしていた。フンコロガシが地球にとって有用か否か僕は知らない。でもフンコロガシの賢明さに少なからず感動をし、頬が緩んだ。フンコロガシは何時でも後ろ向きだ。後ろ足で自分の身体よりも大きな糞を転がし、前足で大地を蹴る。行き先が見えない筈だが懸命に後進する。時折、糞が後ろ足から外れ、一瞬見失う。でもすぐに見つけ、又、糞を転がし続ける。

 人類の為に消えていった自然動植物は数知れない。宅地開発で土地を奪い。人類のエゴで農薬を使い自然動植物を殺し、人類のエゴで地球温暖化は加速している。現在も毎日消えゆく絶滅危惧種は多数ある。その一方で新種と言うものも現れる。ウイルスもその一つだろうか。

 今はコロナ禍でスーパーでも入店制限がある。何平米なら何人と決められているのであろう。非常事態宣言の規制が始まった頃はガードマンが入り口で厳しくチェックしていた。

 その内ガードマンが居なくなったなと思っていたら入り口に信号の様な器具が取り付けられている。赤の表示では暫く待たなくてはならない。出口から買い物客が出てくれば青に変わり入店できる。誰かが入店すれば又赤に変わる。

 素早く開発されたものだと感心しているが、コロナ禍が終息すれば取り外されるのだろうか?いや、案外とこれは常態化するシステムなのかもしれない。コロナ禍が発端となり、人類の増加に伴いスーパーにさえ行列しなければならない時代がやって来たのだ。VIT

写真右上がスーパー入り口の信号機「現在は7人が入店可能」の表示。7人が入店し誰も出て来なければ赤に変わる。

 

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2021年、新年あけましておめでとうございます。

セトゥーバル港の初日の出(2021年1月1日7:55ベランダから撮影)

 2020年は外出禁止令、県を跨ぐ移動禁止令など様々な規制、緊急事態宣言が発令されて、なかなか外出が出来ないでいた。

 明らかに運動不足だ。運動不足解消には歩くのが1番だと思っているが、部屋の中などせっせと歩いてもたかが知れている。第一歩く気がしない。それに物が占領して歩くこともままならない。

 その点『けん玉』は場所を取らず、結構な運動になると言われている。南極越冬隊昭和基地の隊員が運動不足解消のためにけん玉をしているそうである。ブリザードなどが吹き始めると外での活動が出来ない。屋内の活動に限られ運動不足になるのだろう。

 確かに中玉100回で身体が火照ってくる。でも僕はけん玉をしてもすぐに飽きてしまってそれ以上は続かない。とめ剣100回が連続で出来る様にでもなれば面白くなって続くのだろうがまだまだだ。

 実は油彩も運動になると僕は思っている。大相撲の横綱審議委員も務められた故中川一政画伯も「絵を描くことは相撲のぶつかり稽古と同じだ」と言われた程だ。

 アトリエは北側に面しているから寒い。でも描きはじめて暫くすると身体がほっこりと温かくなる。油彩を描けば確かに運動になる。だが、今はサムホールにしか掛かっていないのですぐに終わってしまう。終わってしまうというのは出来上がってしまうという意味ではなく1日に塗ることが出来る量は少ししかないという意味だ。もっとやりたいのはやまやまだが塗り過ぎると色が混ざって濁ってしまう。ある程度は日数を掛けて乾かしながら描く必要もある。身体がほっこりと温まるまではいかない。そういう意味で冬には大作を描く方が良いのだが2020年は何故だか消極思考であった。

 2020年はCOVID-19に明け暮れ、時間の経つのが早かった年である。2020年の帰国は断念したので1年を通してポルトガルに居たことになった。しかも旅行にも行かれず、セトゥーバルの我が家にずっと居た訳である。

 旅好きの僕にとって1年間に1度も泊りがけの旅に出かけなかったのは長い人生の中で恐らく初めてのことだ。

 家に居てもいろいろとすることはある筈だがなかなか手につかない。何もやる気が起こらない。1日があっという間に過ぎ去ってしまう。1週間があっという間に、1か月があっという間に、そして1年があっという間に過ぎ去ってしまった。

 それでも『ポルトガル淡彩スケッチのブログ』だけは毎日欠かさず掲載している。2020年の1月1日(元旦)1年前の淡彩スケッチは1948番であった。そして2020年の12月31日(大晦日)の淡彩スケッチは2314番である。毎日1景、我ながら几帳面に366景をこなしたことになる。何故、1年は365日なのに365景ではないのだろう?計算が変だがまあ追求しない。

 実はこのブログ『武本比登志ポルトガル淡彩スケッチ』は2010年12月30日に始めている。だから今で丁度10年が過ぎたことになる。えっ10年。僕の中ではせいぜい4~5年だと思っていた。この10年は実に早かった。

 日本に帰国していた時期は休んでいたので、年間270日程だろうか?2020年に限っては366日であるが、それに旅に出ている間はパソコンを触らないので休んでいたが、10年間で2314景をブログに掲載したことになった。平均すると1年間に230景。そして未だ暫くは続けるつもりだ。

 2020年のコロナ禍以前は春に2~3か月程日本に帰国し、数か所で個展をし、又、ポルトガルに戻って来て年に何回かはスケッチ旅行にも行く。それが2020年は皆無であった。

 コロナ禍以前でも、たまには旅行をしても運動不足になる。旅に出れば良く歩くがそれ以外はあまり歩かない。それで毎週日曜日に何処かここかで開かれる露店市に出掛けていた。露店市に行くと2~3時間はしらずしらずに歩くことになり結構な運動になる。それでも週一では足りない。運動不足を感じて週の合間、野山に野の花観察に出掛ける。これも急な山道や茨の生い茂った藪などを何時間も歩くので結構な運動になる。それが2020年は緊急事態宣言の合間を縫って数度行ったきりで殆ど出かけていないし、露店市には残念ながら一度も行っていない。

 2020年は明らかに運動不足であった。だからと言ってそれ程太ってはいない。筋肉が無くなっている分、むしろ痩せている様にも感じる。

 家の中に居てすることは山の様にある。3度の食事、洗濯は何とかこなしている。山の様にあるのは部屋の片づけと掃除である。これもある程度は運動になるのだろう。それはやらなければならないと思いつつ、困ったことにこれがやる気が起こらない。

 部屋の片づけと掃除から逃れつつ、南のベランダに出ては季節ごとの野鳥の声を聞きながら貨物船の出入り、港や大西洋の水平線を眺めたり、北のベランダから東側を見ては日の出を、北側ではパルメラ城に掛かる雲を眺めたり、西に沈む太陽と夕焼け空を確かめたりと忙しいことこの上ない。幸か不幸か我が家からの見晴らしは良い。アトリエからはパルメラの城、ベランダからはサン・フィリッペ城と二つの城が見える。そして見飽きることはない。

 読書三昧、パソコン三昧、これは身体が固まってしまい、運動にはならない。夜はテレビの映画三昧。俳優がジョギングしている姿、思いっきり走っている姿、追手から逃げている姿、敵と殴り合っている姿を観ても決して自分自身の運動にはならない。尚更身体が固まってしまう。サッカーの無観客試合テレビ中継を見てはゴールキーパーに文句を言ってみたり。と、これも運動にはならない。

 例年のことであるが、新年花火は我が家の台所窓から真正面に豪華に上がり特等席でシャンペンを飲みながらの鑑賞となるのだが、今年はそれも中止であった。

 週一回程度のスーパーでの買い物。せめて一番遠いところにクルマを駐車して少しでも歩けば良いものを、人間の性で一番近いところに停めて「いいところが空いてたな~ラッキー」などと喜んでいる。入店制限があり2メートルの間隔を空けて行列に並ぶ。並びながらせめて屈伸運動やら足踏みでもすればよいものを只突っ立っているだけでは運動にはならない。

 そしてイギリスと南アフリカで従来のコロナより70%感染力が強い変異種が見つかりヨーロッパ各地へ広がりつつあるというニュース。12月28日現在既に日本にも飛び火し24の国地域でも確認されている。発生当初思っていた通りの難敵である。

 12月31日現在の世界での感染者は8282万0052人、死亡は180万7331人、ポルトガルの死亡は6906人、日本での死亡は3243人。昨年末12月27日からポルトガルでもファイザーワクチンの接種が始まっているが、病院関係者からで、一般国民にまで行き渡るのはなかなかの様である。終息は未だ先の話なのかもしれない。

 そして当分帰国は出来そうにない。

 

 2021年が皆様にとって、そして私たちにとっても良い年になりますように。

 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。武本比登志

 

 

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カサブランカ駅

 夕食後、ポルトガル国内ニュース情報番組を19:00に終わるまでの少しの時間観て、すぐさま映画のチャンネルに切り替える。コロナ禍だからという訳ではなく、以前からその生活は変わらない。

 映画チャンネルは5つ程あるが、殆どがハリウッドかイギリスの映画でポルトガルでは英語のそのままで流し、ポルトガル語の字幕スーパーが入る。子供向けのアニメなどはポルトガル語に吹き替えられているものもある。フランス映画ならフランス語、イタリア映画ならイタリア語、スウェーデン映画ならスウェーデン語でポルトガル語字幕スーパーといった具合だが95%が英語の映画だ。従ってたま~にやるポルトガル映画では字幕は入らない。

 映画は同じものを繰り返しやる。観たい映画なら繰り返しが有難い。1回2回ではなかなか解らない。3回目くらいからようやく解りかけてくる。

 観た映画はパソコンで検索をして、内容を把握する。殆どの映画はWikipediaで掲載されているからそれで確認をする。

 只、今観た映画のタイトルが判らないと検索が難しい。名前を知っている俳優が出ていればそこから検索をする。それでもタイトルが判らないとどれなのかが判らない。俳優名、役名、そしてタイトルである。

 チャンネルを一旦他に回し、元に戻すと数秒の間、テレビ画面左下にタイトルが出る。但しポルトガル語のタイトルだ。日本でも洋画は日本人受けするタイトルが付けられる。

 例えばクリント・イーストウッドの(For a Few Dollars More)を直訳すると『もう数ドルのために』でポルトガル名もほぼ同じ『Por Mais Alguns Dólares』となるが、邦題は『夕陽のガンマン』だ。

 原語の直訳ではなくとんでもないタイトルになることもあるが、それはポルトガルも同じだ。

 オードリーヘップバーンの『Breakfast at Tiffany’s』はほぼそのままの邦題で『ティファニーで朝食を』だがポルトガル名は『Boneca de Luxo』で直訳すると『豪華な人形』となる。

 そのポルトガル語のタイトルを挿入して観ている映画が出てくれば良いが、何かの商品名であったり、ブラジルの知らない町のレストランか何かの店名であったりで袋小路に陥ってしまうことがある。そしてマイナーな映画はなかなか出てこない。

 ポルトガル語の字幕を見ていてもおやっと思うことがある。人の名前である。欧米の名前は聖人からとられた名前が多い。英語とポルトガル語では聖人の呼び名も少し違っている。ポルトガルの字幕スーパーは、映画にもよるが、人の名前までもポルトガル名に代えられていたりして字幕を見ていると混乱を生じる。逆に大航海時代のポルトガル人英雄マゼラン(Magellan)はポルトガルではマガリャンエス(Magalhães)という。

 地名でもそうだ。イギリスはレイノ・ウニド(Reino Unido)またはイングラテラ(Inglaterra)ともいう。スコットランドはスコシア(Escócia)。スウェーデンはスエシア(Suécia)、ドイツはアレマーニャ(Alemanha)でオランダなどはパイシェス・バイショ(Países Baixos)などと言うからわけが分からない。ニュージーランドはノヴァジーランディア(Nova Zelândia)だし、ニューヨークはノヴァイオルク(Nova Iorque)である。更にアメリカは(Estados Unidos)となる。尤もアメリカ国内で自分たちの国をアメリカなどと呼ぶ人は1人もいない。ユナイテッド・ステーツ(United States)だ。

 それは映画の字幕だけではなく、ニュース番組でも同じだ。先日の大統領選で現職共和党のトランプは負け民主党のバイデンが1月20日に就任式をし、ホワイトハウスに入ることになっている。

 ところが11月29日現在、トランプは「8000万票をバイデンが不正に得票している。私は大差で勝ったのだ。」などと発言、ホワイトハウス退去を撤回、なかなかすんなりとはホワイトハウスを明け渡す気がないらしい。

 そのワシントンのホワイトハウスをポルトガルでは直訳し『カサブランカ』と言う。日本ではホワイトハウスを『白い家』などとは言わない。ホワイトハウスは『ホワイトハウス』である。

 僕たちがポルトガルに住み始めた30年前、アメリカの大統領はジョージ・ブッシュ父で、ポルトガルはソアレス大統領の時代であった。セトゥーバルで最初に借りた部屋にはモノクロテレビがあった。そのモノクロテレビから『ブッシュ、ソアレス、カサブランカ』などと聞こえてきた。ブッシュ大統領とソアレス大統領がモロッコのカサブランカで会うのだろうか?或いはイングリッド・バーグマンとハンフリー・ボガートの映画『カサブランカ』のことをブッシュ大統領が何か言っているのかな?などと思ったものだが、よく聞いてみるとカサブランカはホワイトハウスのことなのだ、と判り納得したものだ。

 因みに映画のカサブランカ、つまりモロッコのカサブランカのスペルは (Casablanca) でホワイトハウスのスペルは(Casa Branca)である。

 セトゥーバルから真東直線距離おおよそ7~80キロにカサブランカというところがある。

 モロッコのカサブランカでなくとも、ワシントンのカサブランカでなくとも、ポルトガルにもカサブランカがあるのだ。駅前広場に10軒ほどの家があり、工場らしき建物が1軒あるだけで村とも言えない規模の場所だがそこに不似合いなほど立派な駅がある。セトゥーバルからとエヴォラに向かう線、そしてベジャへの線、3線の合流点の駅で、この駅で降りる人は殆ど居ないのだろうが乗換駅となり、立派なことの意味が納得できる。

 クルマでセトゥーバルからこのカサブランカに行く直接の道はない。一旦、北東方向に向かいモンテモール・オ・ノヴォを掠め、田舎道を南に下りアルカソヴァスを目指す中間にカサブランカはある。交通量も少なく、春には沿道は花盛りで野の花の観察などをしているとなかなか前へは進まない、のんびりドライブにはもってこいの道だ。

 第2波コロナ禍での非常事態県境を跨ぐ外出禁止令が早く解除され、野の花が咲き乱れる春が待ち遠しいものである。ポルトガルの春は早い。とは言え未だ12月になったばかりで少し気が早いだろうか。

 その前にカトリック国最大の祝日クリスマスがある。温かいポルトガルではエストレラ山にでも行かなければなかなか雪は見られないが、ホワイトクリスマスをナタール・ブランコ(Natal branco)。クリスマスをナタール(Natal)と言い、サンタクロースはパイ・ナタール(Pai Natal)、クリスマスツリーはアルボール・デ・ナタール(Árvore de Natal)である。11月初旬からコロナ禍とは言えクリスマス商戦(Compras de Natal)が始まり、ここから見えるルイサ・トディ大通りには大小2本のアルボール・デ・ナタールがまるで日本のパチンコ店の様に激しく点滅をしている。VIT

 

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 税務署から督促状が来た。クルマの税金を払っていなかったのだ。

 例年なら日本からポルトガルに戻ってすぐに支払いに行く。今年はコロナ禍で帰国はしなかった。ずっとセトゥーバルに居たのだが、税務署も開いているのやら、閉まっているのやら判らなかったし、第一その頃は外出禁止令であった。督促状が来たのだから行かなくてはならない。税務署は開いているという証拠でもある。

いつでも空きがある水道橋横路上駐車は無料

 水道橋の横にクルマを停め、5~6分も歩けば『10月5日通り』の税務署に着く。いつも使う出入口は閉ざされて張り紙がしてあった。正面入り口だけが開いている様で、そちらに行ってみた。入り口の外で間隔を開けて5人が行列を作っていた。その後ろに間隔を開けて並んだ。スーパーと同じ1人が出てきたら1人が入られるという仕組みなのだろうと思って並んだ。

 暫くして税務署員らしき女子事務員が出て来て書類を見ながら名前を呼びあげた。僕の名前がある筈もなく、僕はすぐさま近寄って「税金の支払いをしたいのです」と言って督促状を見せた。税務署員は「きょうは予約の人だけしか中には入れません」と言った。前に並んでいた親父さんが「ムルチバンコ(ATM)では駄目なのか」と税務署員に聞いてくれた。「ムルチバンコでは支払いは出来ません。」「でも港の税務署支所なら予約なしで支払いはできますよ」と言った。

 一旦、クルマまで戻り、クルマをメルカドの裏手に移動させた。メルカドを通り抜けてルイサ・トディ大通りを散歩がてら歩くつもりであった。メルカドもいつもの入口は閉まっていた。正面入り口だけが開いて、入るのと出るのは違う入り口を使っていた。ガードマンが厳しく見張っていてマスクをしていない人は注意される。メルカドは空いていた。いつもの4分の1しか店が開いていない。よく買っていた老夫婦の店も出店していなかった。ぐるりとひと通り廻ってみたが金目鯛はなかった。時期が違うのだろう。

 このセトゥーバルのメルカド(公設市場)は数年前、ニューヨークで発行のある雑誌で『世界一魅力のあるメルカド』に選ばれたことがあるが、なる程、客観的に見てそうかもしれないな。とは思っていた。但し、今日の状態では魅力は全くない。

 メルカド正面の出口専用出口から出た。そこにもガードマンが立っていた。

 メルカド外側に面したカフェのガラス窓に『ヴィットリア・セトゥーバルのマスクあります』の張り紙があった。ヴィットリアのロゴ入り応援寄付金付きのマスクなのだろう。でもヴィットリア・セトゥーバルは先日2部リーグに落ちてしまったところだ。今年は本当に負けてばかりで勝った試合を見たことがない。以前から応援グッズを何か買いたいとは思っていたが、きょうは先ずは税金の支払いだ。

 東西に長いルイサ・トディ大通りの丁度中間あたりにメルカドがあり、港の税務署に行くには東に向かって半分を歩くことになる。

 税務署支所に着いたが、閉まっていた。ドアも閉まっている様だが、そこまで行くまでの鉄柵フェンスの入り口にも太い鎖と頑丈な南京錠が掛けられていた。散歩がてらとはいえ折角遠いところまで歩いて来たのにと思った。諦めきれずに暫くは港などを眺めていた。

 太った女性がやって来て「閉まっているのかい」と僕に尋ねてきた。「いや、分からない。」と答えた。女性は携帯で何処かに電話をし始めた。暫くすると中から税務署員らしき女性が現れてその太った女性とフェンス越しに話し始めた。太った女性は税務署に電話を掛けて呼び出したのだ。税務署支所はやっていたのだ。よく見ると入り口の横にインターフォンもあり、それで用件を話せる仕組みなのだ。太った女性の会話は結構長く続いた。複雑な話の様である。

 ようやくその話が終わったところで、僕はすぐさま税務署員に督促状を見せながら「税金を払いたいのです」と言った。「判りました」と言って建物の中に入ってしまった。やがて大きな鍵の束を携えて来て南京錠を空けてくれた。「一人しか入れません」と言った。僕だけが中に入ると、税務署員は再び南京錠を掛けた。厳重すぎる。厳重すぎてまるで刑務所にでも入る受刑者の気分だ。建物の鍵も開けてくれて中に入った。

 「そちらにどうぞ」という方向を見ると順番札を取るボードがある。それを取ろうとすると「いや、それは必要ありません。直接、支払窓口で支払ってください」と言われた。その先に支払窓口があり、女性が手招きしていた。督促状を見せると何も言わないでも何も見せないでも支払いは直ぐに終わり印紙の貼られた書類をくれた。金額は昨年とほとんど同じで追徴課税はなかった。

 先程の税務署員が出入口のところにそのまま居たので「終わりました」と言ったら鍵を開けてくれて、外のフェンスの南京錠も開けてくれて「あなたにとって良い一日でありますように」と言いながら送り出してくれた。日本語に訳すと大層な言葉だがポルトガルでは普通の挨拶だ。

 税務署支所の裏手にはバス停があるが、先程の太った女性はそのベンチに座って何やら深刻な面持ちで携帯に話しかけていた。

 その辺りにも美味しいレストランが並んでいて、久しぶりに外食もいいな、と思ったが昼食には未だ少し早い。

 セトゥーバルで最初に住み始めたのはこの界隈だ。何度も僕の絵になったポスティーゴ・デ・カイス(船着き場への潜り門)は工事中であった。その先も工事中であったので細い路地を抜けて懐かしいアロンチェス・ジュンクエイロ通りに入った。古い商店街であったのだが、その当時お世話になった電気屋も、店先でいつもとんとんと手を動かしていた靴修理屋も、肉屋も、流行っていて出入りの絶えることがなかったお菓子屋でさえなくなっていた。

 その先にはセトゥーバルで1番の商店街があり、以前には有名ブティックなどが勢ぞろいしていたのだが、その全てが郊外のショッピングモールに移転して空き家になっていた。市役所の裏手にあった老舗のカフェまでもが『タトゥー』の店に代っていた。

 元々寂れる一方であった下町の商店街は、一旦は観光景気でカフェやレストランにとって代わろうとしていた矢先のコロナ禍で見る影もない。

 メルカドの裏手にある食堂で『鯵の唐揚げとトマトライス』が本日の定食となっていてそれでもいいな。と思ったが表の陽当たりの良くないテラス席しか空き席がなく寒そうだったので止めた。

 一旦クルマまで戻り、すこし走らせ元木造造船所の前にクルマを停め、石段を上り、アラビダ山の登り口にあるレストランに入った。店の前の駐車スペースはすぐに満杯になってしまうが、石段の下には多くの駐車スペースがあり、この店は穴場である。ウエイターも炭火焼き調理も元漁師といった男ばかりでやっている店で、魚でも肉でもどれをとっても旨い。久しぶりに肉もいいなとは思ったが、冷蔵ケースをみて大鯵と黒太刀魚の炭火焼きにした。本当に久しぶりの外食だ。

 満腹になった後、晴れて税金を払い終えたクルマでアラビダ山のドライブウエーを一周した。頂上にクルマを停め、カイトが優雅に飛ぶ空とトロイアの海岸線を見晴らせる海を眺めながら、野の花を観察した。ラン科のスピランテス・スピラリス(ヨーロッパネジバナ)の20株ほどが咲いていたのと、アレクリン(ローズマリー)が早くも咲き始めていた。そのアラビダ山ドライブウエーもCOVID-19第2波緊急事態宣言で10月30日から70日間は外出禁止令が出され通行することが出来なくなっている。VIT

ヨーロッパネジバナとアラビダドライブウエーとトロイアの海岸線(2020年10月22日撮影)

 

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 このところ、我が家で家庭用電気器具の故障が相次いでいる。同時期に寿命(対応年数)を迎えたのかもしれない。

エスピシェル岬の断崖沖を行く小型漁船(2020年9月28日撮影)

 電熱天火が故障した。これは確か3台目で3台目が一番長く使った。焼き魚にも使うし、ピッザやドリアも焼く。そして朝食のトーストも焼く。焼き魚は台所の窓際にその天火専用の台を作っていてその上に電熱天火を乗せ焼き魚をする。天火だから元々煙は出ないのだが、焼き魚の匂いが外に出て部屋の中に残らない。そして美味しく焼ける。

 昔はベランダで炭火を熾し焼き魚をしていたが消防署通達で禁止になったとかで、よそ様もベランダではやらなくなった。炭火を熾すのも面倒になっていたし、電熱天火でも充分だと思っていたが、それが故障した。

 ピッザを買い置きしているので早速電熱天火を買いに行かなければならない。4~5軒の家電量販店を回ったが同様の物は何処にも売られていなかった。もう流行らない電気器具なのだ。仕方がないのでミニオーヴンを買うことにした。ミニオーヴンといっても結構な大きさでしかも大中小の3種類が売られていた。一番小さいのだとピッザが入らないかもと思い中間を買った。ピッザは旨く焼くことが出来た。焼き魚はどうした物か焼き目が付かないし、どうも蒸焼き風になってしまってもう一つ旨くない。朝食のトーストも時間ばかりがかかって下手をすると乾パン風になってしまう。第一電気を食いそうだ。

 ハンドミキサーが故障した。以前には良く味噌を手作りしていて大豆を潰すのに使った。最近はマヨネーズを作る時に使うくらいだが、ニクロム線が焼ける匂いがし、煙が出て使えなくなってしまった。ガラス瓶に全ての材料を入れてからハンドミキサーを使えば一瞬にマヨネーズが出来上がる。ガラス瓶のままだから移し替える必要もなく便利に使っていた。買い替えようかとも思ってはいるが、マヨネーズを作ることくらいにしか使わないので普通のミキサーで作っている。でも移し替えるのが大変だ。

 電気掃除機が故障した。最近はコンピューター制御の『ルンバ』などが出回っていて、従来の掃除機を買う気にもなれない、と言ってもルンバはどうも我が家では馴染まないような気もして我が家に馴染むようなコンピューター制御掃除機が売り出されれば買いたいと思うがなかなか出そうもない。今はハンドクリーナーでやっているが吸い込みは悪い。そして従来の箒と塵取りで仕方なくやっている。

 電気ドライヤーが故障した。これもニクロム線が焦げる匂いがし、壊れてしまった。僕はドライヤーを使ったこともないし、使う必要もないが、MUZは必要なのだ。髪を洗った後は陽当たりの良い窓辺でうちわを使っている。

エスピシェル岬で獲物を協力して運ぶ4頭の蟻たち(2020年9月28日撮影)

 我が家にある電気器具の殆どは買い替えている。2台目、3台目というのもある。パリに住む日本人商社マンの知人は「ヨーロッパの電気器具は1年が寿命ですよ」などと言っておられた。1年ということはないにしても日本製より対応年数は短くて故障してしまう様な気もする。掃除機も何台か買ったし、洗濯機も2台目だが、これは案外と長持ちしている。テレビも地デジになったこともあるが何台目かだ。ミキサーも2台目。冷蔵庫も2台目。扇風機も2台目。プリンターも2台目。電子レンジも買ったが日本の物に比べるとあまり使い勝手が良くなく殆ど使っていない。正確には電気器具ではないかも知れないが、ガスコンロも2台目。

 ガス湯沸かし器が故障した。着火はし、お湯にはなるが、どんどん冷めて殆どぬるま湯になってしまい、入浴が出来ない。煙突に煤がたまってしまって燃焼が悪くなっているのかと思い、ダクトを外してみたが煤はたまっていない。ガス湯沸かし器自体一度も買い替えたことがない古いもので寿命かもしれない。

 電気器具は『オウシャン』が品数も揃っているし、一番安い様な気もする。その中でも一番安いもので充分だと思っていたが、店員は高い物を勧める。勧められれば何時もそちらを選んでしまう。取り付け費用込みで500ユーロ余り。製品は自分で持ち帰らなければならない。「取り付け日前には電話をしてから行きます。」とのことであったがこのコロナ禍の非常事態に来てくれるだろうか?と不安であった。

 家に帰ると、ガス会社からガス使用料の銀行口座自動引き落とし明細書DMが届いていた。開けてみると、何と、ガス湯沸かし器のキャンペーンというチラシが同封されていた。製品は『オウシャン』で見た物とは違ってはいたが、ほぼ同額。しかも使っているガス会社の製品だからガスには相うことは間違いがないし、と思い。『オウシャン』から買って帰ったガス湯沸かし器を再びクルマに載せ返却することにした。こういった量販店での返却は簡単である。書類作成に少々の時間はかかったが、係の人の愛想は良く気持ちよく返却出来たが、何と、10ユーロ札での返金で嵩張ってしまい、係の人も苦笑いであった。

 以前にも行ったことのあるガス会社の事務所はもぬけの殻であった。引っ越しをしている様で封筒の住所をグーグルマップで調べてみたら、街の反対側に移っていた。封筒には営業時間も載っていたので、その時間帯に着いたが閉まっていて短縮時間の張り紙があった。コロナ禍で営業時間短縮なのである。次の日に再びその短縮時間帯に着いたが、又もや閉まっていた。金曜日であったが、隣のドアで工事人が出入りしていたので聞いてみると「月曜日、月曜日」と素っ気ない。

 月曜日には開いていた。受付事務所は狭く、順番は表で待たなければならない。順番が来て、キャンペーンのガス湯沸かし器のことを言ったら喜んで対応してくれた。やはりお勧めは一番安いのではなく取り付け費用込みで500ユーロ余りがする。お勧めだから仕方なくそれに決めたが、書類作成に時間がかかる。その間、表では長蛇の列である。我が家ではガス使用料は銀行振り込みにしているが、その都度、事務所に支払いに来る人が多いのだ。書類も書き終わって「工事は明後日午後14:00から17:30の間でよろしいですか」ということになった。これなら具体的で安心だ。

 次の日、工事人らしき人から電話があった。「明日、午後からではなく11:00から取り付け工事をしたい。」と言うものであった。そして次の日は10:30に玄関のベルが鳴った。

 工事人2人でやってきて瞬く間11:00に取り付け完了である。お湯が出た。殆どなにも説明がない中、サインをさせられ慌ただしく2人は帰ってしまった。次の現場も午前中に済ませたいのだろう。古い湯沸かし器は台所の床に残されたままである。新しい湯沸かし器の段ボール箱の中に古い油まみれの湯沸かし器を入れゴミ捨て場まで自分で捨てに行った。途中、マリアさんと話し込んでいた、近所の若い男に繋がれていた小さな犬にけたたましく吠えられてしまった。

 その日は充分なお湯で入浴が出来た。以前の古いのとは違って元火というものがない。コックを捻るだけでお湯が出てくる。不安に思い、ガス湯沸かし器のガスの元栓を閉め、電源を抜いた。それをする必要はないのだろうけれど、それがいけなかったのだ。初期化してしまったのだろう。次の日はガスの元栓を戻し、電源を入れても、何度してもいろいろ試してみても着火しなくてお湯にはならなかった。仕方なく3つの鍋でお湯を沸かし入浴した。早速、故障かと思ったが、又もや金曜日である。土日は休みで月曜日まで待たなければならない。

 故障という一字は憂鬱の何物でもない。電気器具ではないコーヒーカップや御飯茶碗それに包丁まな板などはもう30年も使っているというのに。

 土曜日の朝、コーヒータイムにMUZがガス湯沸かし器の説明書を読み始めた。図解はあまりなく全てポルトガル語である。そんな中で『7秒間の長押し』という文言を見つけた。やってみると見事着火した。月曜日まで待たなくて、工事人に来て貰わなくて良かった。

 安心してコーヒーを飲んでから運動がてらエスピシェル岬まで野の花観察に行くことにした。途中コトビアの『アルディ』で昼食用のパンを調達である。クルマのドア鍵を閉めようと思ったが閉まらない。何度しても閉まらない。仕方がないので中から閉めて助手席から出て助手席のドアを閉めた。カーボ・エスピシェルに着いても同様にしなければならない。ドアキーの故障だ。又、月曜日には修理工場に行かなければならない。

 帰りにはアゼイタォンの『リドゥル』で買い物をした。今度はチェンジギアの頭のところの一部がぽろっとこぼれて床に落ちた。そういえば以前に欠けて瞬間接着剤で貼り付けていたところが再び外れたのだ。

 ドアの鍵は10回ほど試みてみるとカシャと軽い音がして鍵がかかった。家に帰ってからは2~3回でかかった。これはコツが掴めるのかも知れない。コツが掴めたら修理工場へ行かなくて済む。チェンジギアの頭の部分は再び糊で貼り付けるしかない。VIT

 

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