11月26日にようやくインターネットが繋がりました。ポルトガルを引き上げたのが9月24日。それからの2か月間は何となくボケっと過ごしていた様な、忙しく過ごしていた様な、地に足が着いていなかった様な、訳の分からない夢の様な時期を過ごしていた様な、でも夢ではなく現実。その間、帰国後1か月が過ぎたところではたと思いつき、友人知人たちに帰国報告のハガキをお送りしました。宛名不明で戻って来たのも10通ほどがありました。ここにその文面を書いてみたいと思います。

 『ご無沙汰しております。お元気ですか。当方は二人ともなんとかやっています。実はこの2024年9月24日に帰国しました。1990年9月16日から暮らしたポルトガルから引き揚げ完全帰国を果たしました。もうポルトガルには戻りません。

 ポルトガルに移住した1990年当初には5年も住めれば良いかなと思っていましたが、5年が10年、10年が20年、気が付けば34年です。

 10年ほど住んだ頃から70歳くらいになれば帰国しようかなとは漠然と思い始めていましたが、その帰国をするべき頃からコロナ禍でした。でもコロナ禍で自宅に閉じ籠りの生活に実は快適さを感じていましたし、私たちが老人と言われる世代の仲間入りをしたのと同時にコロナ禍でのセトゥーバルの人々の思いがけぬ親切にも多々触れることにもなり帰国は遠のいた感は否めません。ますますセトゥーバルでの生活が気に入ってしまったのです。

 でも今の年齢を考えると、健康に自分の足で歩けるうちに帰国するのなら今しかないとも考え、一念発起して、急遽帰国の道を選びました。この歳になっての帰国(引っ越し)は想像以上に大変なものでした。そしてそれでも何とか帰って来ました。

 心残りなのはポルトガルでの油彩は完成には至っていませんし、淡彩スケッチのブログも3403景で中断したままです。

 セトゥーバルでの生活と宮崎の生活のあまりにもの違いに戸惑いも感じていますが何とか始動しています。油彩100号も描き始めました。

 34年間のセトゥーバルでの生活で溜りに溜まったゴミは殆どを捨てましたが、それでもどうしても捨てきれないゴミは段ボール箱20個分にもなり、仕方なく船便で送りました。それが1月頃には到着する予定です。狭い宮崎の自宅にどのように収納するのかが今からの課題です。

 今は時差ボケがそのまま慢性化した如く気分ですが、一刻も早く宮崎の気候、気圧に慣れていきたいと思っています。今後とも変わりませぬよう、お付き合いの程をお願い申し上げます。』

 このはがきを郵送してからさらに1か月が過ぎました。宛先不明で戻って来たハガキもありますが、お返事を下さった方もありますし、電話を下さった方も、都城から会いに来てくださった方、そして大阪からわざわざ飛行機に乗って会いに来て下さった方も居て、それぞれ恐縮しています。

 暑すぎる秋を過ごし、急に冬がやって来ました。宮崎にずっとお住いの方も戸惑っておられるようですが、我々にとっては尚更です。インターネットも繋がり、昨日は新車が我が家にやって来ました。でもいまだに、どこからどう手を付けて良いのやら、何だか宇宙遊泳をしているが如く、地に足が着いていません。 武本比登志

 

 

 

 そうなんです。完全帰国です。

 今月、2024年9月23日、月曜日、早朝6:15リスボン発ミュンヘン経由羽田行きの便で完全帰国です。そして帰国先は宮崎市内城ケ崎です。

武本比登志油彩「エルヴァスの家並」F20-油彩画像と文章は関係ありません。

 34年前の1990年9月19日、水曜日、モスクワ経由リスボン着。「快晴、安宿からの夕陽と赤瓦の屋根が美しく早く絵を描きたいと思ったものだ。」と書き記しています。その3日後からセトゥーバルに住み始めて34年もの歳月が過ぎてしまいました。

 34年もの歳月ですから、当時、私たちも若かったのです。40歳代の前半でした。

 これ程長く住むとは思いもしなかったのですが、トランク一つでやってきました。

 その前々年にバリ島で買った水牛皮のトランクです。

 最初は1~2年も住めれば良いかな。と思っていました。

 それが、5年が10年、10年が20年。そして34年です。

 絵が描きたくなって、その目的のためにやって来ました。そして猛烈に絵は描きました。

 枚数だけは誰にも引けをとらないと思っています。

 絵を描くことが目的ですから、他には何も考えませんでした。

 ポルトガル語を勉強して世間に溶け込もうなどとは一切思いませんでした。

 それは最初に住んだスウェーデンの教訓からです。

 1971年、未だ20歳代の前半にストックホルムで4年余りを暮しました。

 語学学校に通い、ストックホルム大学でも語学を学びました。予習復習を怠りなく、一生懸命にスウェーデン語を勉強しました。その4年余りは全くのスウェーデン語浸けでした。

 でもストックホルムから一歩離れるとスウェーデン語は殆ど忘れてしまいました。語学の才能が全くないのを身に染みて感じました。でもそれはそれでとても充実した4年半で、私たちの人生において重要な位置を占めていることに違いはありません。

 絵を描きたいと思ってやってきたポルトガルでは最初からポルトガル語を学ぶということは敬遠していました。

 絵を描くことに時間を費やしたいと思ってやって来たのです。ポルトガルにとっては失礼な話ですが、絵だけ描くことが出来ればそれでよいと思っていました。

 そしてその通りにやって来ました。モティーフを求めてポルトガル全国を歩きました。エスキースを描き、それを油彩にしてきました。膨大な数に上りました。

 34年間には、日本全国で数えきれない程の個展を催して頂きました。パリの公募展にもポルトガルをモティーフにした絵を出品してきました。

 34年より以前、ストックホルムからニューヨークに暮らし、ポルトガルに住み始める前は宮崎県の山の中で13年を過ごしました。

 山の中と言っても国道10号線が走っているその沿道でしたが、四季折々、山の美しさを感じることが出来る場所でした。水源林としての照葉樹に覆われた山で、照葉樹の間には野性の山桜、藤、藪椿、そして香り高い白花沈丁花。エビネランの名産地でもありました。

 国道10号線沿いですので長距離トラックも走りますし、宮崎市と都城市の丁度中間でしたのでクルマは多く走っていました。

 でも一旦、クルマが途切れると、猪は庭を横切りますし、山猿の群れが飼い犬にちょっかいを出しに来ます。遠くで鹿の声も耳にしました。アカショウビンは我が家のガラス窓に激突し気絶する姿も2度ほどありましたし、庭を取り巻くせせらぎではカジカガエルがいい喉を聞かせてくれました。季節には蛍の乱舞もありました。

 それはそれでとても気に入ってはいたのですが、ポルトガルに住むと言う段になって、それとは正反対の場所を望んでいました。

 出来ればリゾート地ではない港町。大きすぎず、小さすぎず、生活臭のある庶民的な町。クルマがなくても何でもできる街なか。と漠然と思っていたのです。第1候補にセトゥーバルを考えていました。

 そしてその第1候補地ですぐに部屋が見つかったのです。それも下町の小さな広場に面した、アーチ窓のある、天井の高いレトロな建物で、台所には太ったサンタクロースでも列をなして入って来られそうな大きな煙突が被さっていました。私たちには理想的でした。

 その下町の家で2年間を過ごしました。そして今の丘の上の家に引っ越してきて32年で併せて34年です。住めば都と言いますが、よくぞいいところを選んだものだと思っています。住めば住むほど気に入っていると言っても過言ではありません。

 ポルトガルでの34年を一言では括れません。時代も代わりました。通貨もエスクードからユーロです。スペインとの国境線は1,215キロメートルだそうですが、その検問所は全てなくなりました。趣はなくなった、と思われがちですが、それ以上に便利になりました。

 時代に惑わされず、その時代その時代で最善の選択をして来たつもりです。こうしておけば良かった、などと言う後悔は一切ありません。

 地域に溶け込もうなどとは思っていなかった。ポルトガル語を学ぶことは敬遠していたと言っても地域の人達とのカタコトのポルトガル語での挨拶は怠りませんでした。

 コロナ禍になって、私たちも老人と言われる年齢になって、セトゥーバルの人々の親切を身に染みて感じています。セトゥーバルで良かったなと改めて思います。

 それに天気が良い。高温多湿の日本とは違って、乾燥しているので気温が高くても爽やかなのです。エアコンも要りません。海の見えるところに住みましたので尚更です。

 定年退職後5年間の限定で日本人ご夫妻がリスボン郊外に住んで居られました。5年が来るのを待ち遠しくしておられたのが印象的でしたが、帰国する間際に「天気だけは持って帰りたい」と名言を吐かれました。本当にその通りだと思います。

 我が家は、それに加えて部屋は南向きなので夏は涼しく冬温かい。

 私たちは天気だけではありません。このセトゥーバルの生活を、ここに来て増々気に入っているのです。その一番気に入っている生活を方向転換して完全帰国です。一番いい時に完全帰国です。

 この選択も最善のものになるのだと確信しています。

 あと22日。精々楽しみたいと思っています。

 長い間、本当にありがとうございました。

 と書く前の8月26日未明5:10地震で目が覚めました。震源はセトゥーバル県シネス沖60キロ。シネスのお城の岸壁のところにはヴァスコ・ダ・ガマの立派な銅像が建っています。そして遥か沖合を見晴るかしていますが、その辺りが震源です。マグニチュード5,3。我が家では震度2程度かの横揺れが2秒ほど。恐らくポルトガルに来て初めて?の経験です。幸い物が落ちるなどの被害はありませんでした。

 日本は地震列島。少し前8月8日には日南市で震度6弱の地震。南海トラフとの関連が叫ばれています。ポルトガルの震度2程度などは笑ってしまう。と言う人が居るかもしれませんが、人類史上被害が最も大きかったのは1755年11月1日に起こったリスボン大地震です。津波による死者1万人を含む、5万5,000人から6万2,000人が死亡したと言われています。

 日本列島を襲うのは地震だけではありません。今度は8月28日、台風10号による竜巻と思われる突風が宮崎市の城ケ崎で屋根瓦を飛ばし、多くの家のガラスが割れ、電柱が倒れ電線が垂れ下がり停電の被害をもたらしたと言うニュース。

 宮崎市城ケ崎は私たちの帰国地です。まさにピンポイントのニュースです。

 インタネットのニュースを見ると何やら見覚えのある町並、そして見覚えのある看板。グーグルマップで検索してみると、わが家から直線距離100メートルの赤江大橋南詰め交差点の映像です。

 宮崎の我が家は鉄筋コンクリート2階建てなので風には強いはずですが、窓を広く取っていますのでガラス窓が割れていないかが心配で祈るばかりです。その後、義妹から「窓ガラスは大丈夫でした。外から見える限りでは被害は無かった様だ。」と電話がありました。

 被害は無かったとは言え、そんな災害列島ニッポンにあと22日で完全帰国です。

 それでも宮崎市での今後の生活がどのようなものになるのか、今からが楽しみです。温泉も楽しみなのですが、勿論、絵は描き続けたいと思っています。

武本比登志

 

 実は10年前にも同じような文章を書いています。良かったらご参考までに。

132. 1990 年 9 月 19 日、水曜日から 25 年

 

 

 

 

 

 我が家はセトゥーバルで一番最初に朝日が当たる。

 と言っても東側には殆ど窓がなく、広―い壁になっているため、その壁に朝日が当たるのだ。

武本比登志油彩画「ポルトガルの町並」(F20)と文章は関係ありません。

 只、浴室の小さな窓だけは東側に開けられていて、そこからなら日の出も朝日も拝むことが出来る。

 それと北側と南側にあるベランダに出れば、どちらも東側にも向いていてそこからも日の出と朝日を拝むことも出来る。

 たいていは日の出前に目が覚める。レースのカーテンはそのままにし、カーテンを開ける。ベッドに横になりながら、ベランダの手すりの桟を眺めていると、そのアルミの桟の東側の面が茜色に照らし出される。日の出だ。

 それっとばかりに浴室に行き、日の出を拝む。

 居間も寝室も東側に広い壁があり、それをもしぶち抜いたならばセトゥーバルの街全体が見渡せ、朝日も煌々と降り注ぐのだが、建築基準上それは出来ないらしい。

 以前に知り合いになった人が建築中の家を買った。建築途中なので「こちらに窓を作りたい」と申し出たのだが、「建築設計基準上それは出来ない」と断られた。と言う話も聞いた。ポルトガルは結構、建築基準法に厳しいのだ。

 セトゥーバルは南にサド湾とトロイア半島、そして大西洋の水平線。

 東側にモンテベロの丘の住宅地と工場地帯。

 西には我が家もそこにあるのだが、アヌンシアーダの丘の住宅地とサン・フィリッペ城とそれに続くアラビダ山。

 そして北側にパルメラの丘とパルメラ城。

 それらが取り囲むようにしてセトゥーバルの中心市街地がある。

 モンテベロの向こう側の地平線から朝日が真っ赤な頭を覗かせる。日の出だ。

我が家の浴室から撮影した日の出(2024年7月19日6:25撮影)

 点から線になり、まあるい、まるでフライパンに卵を落とした如くぷるぷるっとした楕円形になり、そして全体が姿を現す。一瞬だ。

 まるで日の丸の如く真っ赤な時もあるし、プラチナ色に輝いている時もある。そして黄金色に燃えさかって、もう直視できない時もある。日によってそれも様々なのだ。

 別に宗教的な気持ちはないのだが、思わず拝みたくなる。

 それも二拝二拍手一拝をきちんとして、ごにょごにょと願い事を唱えたりする。

 真っ先に朝日が当たる我が家をことのほか気に入ってはいるのだが、アニマルズの『朝日の当たる家』は刑務所とか少年院を歌った歌だったのだ。それもアニマルズが最初ではなく、アメリカで古くから『Rising Sun Blues』として、歌われ続けてきた歌なのだ。

 男が歌えば刑務所か少年院として歌われ、女性が歌えばそれは娼館となる。

 

The House of the Rising Sun』The Animals

There is a house in New Orleans They call the Rising Sun

And it's been the ruin of many a poor boy

And God, I know I'm one

My mother was a tailor

She sewed my new blue jeans

My father was a gamblin' man

Down in New Orleans

Now the only thing a gambler needs

Is a suitcase and trunk

And the only time he'll be satisfied

Is when he's all drunk

Oh, mother, tell your children

Not to do what I have done

Spend your lives in sin and misery

In the House of the Rising Sun

Well, I got one foot on the platform

The other foot on the train

I'm goin' back to New Orleans

To wear that ball and chain

Well, there is a house in New Orleans

They call the Rising Sun

And it's been the ruin of many a poor boy

And God, I know I'm one

 

 高田渡は曲調を変え独自の節回しで歌っている。

朝日楼』詩・曲:高田渡

ニューオリンズに女郎屋がある、人呼んで朝日楼、

たくさんの女が身を崩す、そうさあたいもその一人。

母ちゃんの云うこときいてたら、今頃は普通の女、

それが若気のいたりで、博打打に騙された。

あたいの母ちゃん仕立て屋で、ブルージンなんかをこしらえる、

あたいのいい人吞み助さ、ニューオリンズで飲んだくれ。

呑み助に必要なものは、スーツケースとトランクだけ、

あの人の機嫌のいいのは、酔っ払っている時だけさ。

グラスに酒を一杯にし、じゃんじゃん飲みまわす、

この世で一番の楽しみは旅に出ることさ。

可愛い妹に云っとくれ、あたいの真似するなと、

ニューオリンズに近寄るな、あの朝日楼へ。

妹に後ろ髪を引かれ、汽車に乗ってくあたい、

ニューオリンズへ帰っていく、あの囚人の暮しに。

ニューオリンズへ帰ろう、命ももう尽きる、

帰って余生を送ろか、あの朝日楼で。

ニューオリンズへ帰ろう、朝日がもう昇る、

帰って余生を送ろか、あの朝日楼で。

 

 そして、決して囚人の暮しではなかった、この『朝日の当たる家』で30年余りを暮らした我々は、あと2か月足らずでお別れをしなければならない。

武本比登志

 

 

 

 笑福亭鶴瓶に『青木先生』という新作落語がある。母校、高校の先生を話題にした落語だ。

 生徒が授業中に、先生に愛憎を込めていわゆる大阪弁でいう『おちょくる』という行為なのだろうと思う。

 残念ながら僕は青木先生の授業は受けていない。でも僕が在校中も居られたはずだ。

武本比登志油彩と本文とは関係ありません。

 僕は笑福亭鶴瓶より5歳程年上、面識はないが、僕の方が先輩にあたる。ほぼ同世代、同じ高校、浪速高校、通称『浪高』に通っていた。青木先生は国語の先生だ。比較的マンモス高だったので国語の先生も沢山居られた。

 国語で僕が習ったのは長野先生、中島先生などが居られたが国語でも現代国語と古文などもあって、どちらがどちらか覚えていない。長野先生は3年生の時の担任で僕は個人的にもご迷惑をおかけした思い出がある。

 青木先生は戦後間もなく昭和22年の、お若い頃から浪高に居られた様だが、笑福亭鶴瓶の居た頃には70歳近いご高齢になっておられて、その事がおちょくる題材になっている訳だけれど、母校にはご高齢の先生が多く居られた。長野先生も中島先生も何処か他の学校を定年退職されてから浪高に再就職を求めて入られたのかもしれないが、そういった先生が多く居られた。

 長野先生は先生の有志を集められて俳句の同好会などもやっておられて、授業も担任も受け持っておられたのだが、学校ライフを楽しんで居られる雰囲気もあり温和な先生であった。

 中島先生もご高齢の国語の先生だが大阪府下の田舎の町で町会議員もしておられたという噂もあった。いや、噂だけではなくいつも背広の胸には町会議員の金バッチが光っていた。

 その僕たちの時代には中島先生がおちょくる対象になった。

 「中島先生、ニッポンとニホンはどちらが正しいのですか?」などと通常の授業に飽き飽きした生徒が質問をする。中島先生は得意になって「そりゃあ、ニッポンと言わなきゃあかん。ジャパンは蔑んだ言い方だ。」などと答える。ニッポンとニホンという質問の筈なのに、ニホンはどこかに飛んでしまってジャパンに置き換わっているのだ。それを延々と1時間でも得意になって話し続ける。それが面白くて次の授業でも同じ質問をするのだ。又、得意になってニッポンとジャパンの話を延々と話し続ける。その話は他のクラスにも伝播する。

 それが何回か続くと「えっ、その話はこのクラスでは前にしなかったか?」などと、町会議員がにやっと笑われようやく気が付かれる。その先生の綽名は『ウイッシュボン』であった。

 その頃、テレビでやっていた『ローハイド』のウイッシュボンに感じが似ていたからだ。ウイッシュボンは西部劇ローハイドの炊事係でカウボーイたちから慕われる叔父さんだが若いカウボーイたちからおちょくられる対象になっていた。

 ウイッシュボン先生が言われていた「ジャパンは蔑んだ言い方。」と言うのは正しくないのだと思う。

 ジャパンを検索してみると、中国語のjih pun(日本)(読みは「ジープン」)に由来し、文字通り「日の出」「日出ずる国」を意味し、日本語のNippon(日本)と同義なのだ。 この中国語は、jih(日)(「日」の意味)とpun(本)(「起源」の意味)が合わさった言葉で、もともと中国の南方の人は「ニッポン」に近い発音をしていた。

 そこから、シナの商人たちがポルトガルの船乗りに言い移しで伝えたのが、ポルトガル語のJapão(ジャパン)となり、スペイン語のJapon(ハポン)になる。 そして、フランス語のJapon(ジャポン)や英語のJapan(ジャパン)につながったという説。 ジープン或いはニッポンという発音が、違う言語の間で訛っていき、ジャパンにたどり着いたということなのだ。

 マルコ・ポーロが東方見聞録の中で日本のことをZipangu=ジパングと言い表している。彼は日本を訪れたことがないため、ジパングは全て想像と伝聞によって作られた。 彼に日本の話を伝えた人物は中国の商人だった。 かつて日本は中国との交易で、支払いに砂金を使っていたという説もある。現在はイタリア語で日本はGiappone(ジャポーネ)となる。(Wikipediaより)

 未だ日本国内で国の名前が確立されていない時代に、中国からはジープン(日出ずる国)と呼ばれていたと言うことになる。今では日本(リーベン)だが、ジャパンは決して蔑んだ国名ではないと言うことになる。

 太平洋戦争時代を描いたアメリカ映画にはよく「Jap=ジャップ」という文言が出てくるが、それは少々蔑んだ言い方なのかもしれない。「日本人野郎」と訳せるのだろうと思う。

 一方、ニッポンとニホンであるが、結果から言うとどちらでもよいのだろう。「にほん」という呼び方はせっかちな江戸っ子たちの早口によって生まれたとされ、「にっぽん」が「にほん」と簡略化されたという見方もある。

 只、単独でいう場合は「ニッポン」で、熟語で使う場合は「ニホン」が使いやすい様な気がする。「ニホンゴ=日本語」「ニホンジン=日本人」「ニホンショク=日本食」「ニホンガミ=日本髪」「ニホントウ=日本刀」「ニホンアルプス=日本アルプス」「ニホンカイ=日本海」「ニホンシュ=日本酒」「ニホンガ=日本画」「ニホンエイガ=日本映画」「ニホンケンチク=日本建築」「ニホンジカン=日本時間」「ニホンタイシカン=日本大使館」「ニホンシャ=日本車」等だが、勿論、「ニッポンシャ」といっても「ニッポンゴ」といっても差し支えないのだと思う。「日本晴れ」の場合は、「ニッポンバレ」の方が「ニホンバレ」よりいっそう晴れ渡っている感じがしないでもない。それに「ニッポンギンコウ=日本銀行」もニッポンギンコウだろうか、いや、どちらでもよい。僕には縁がない。

 日本食は和食ともいうが、日本の服、着物はニホンフクとは言わないで和服と言うし、日本の紙は和紙と言う。辞典も和英、英和などと言って英日、日英とは言わない。

 東京は「日本橋=ニホンバシ」だが大阪では「日本橋=ニッポンバシ」という。

 僕にとって大阪の日本橋は橋のイメージは全くなく、日本を代表する街というイメージも全くなくて、ただ単に猥雑な電気屋街と言うイメージだ。昔は小さな多くの電気部品専門店に混ざって古道具屋も多くあった。西岡たかしさんはそこで古い壊れたヨーロッパ製のオートハープを買われた。それをご自身で修理をされ使っておられたが、「遠い世界に」のレコーディングにも使われている。僕も古いフラットマンドリンを買ったが、使わないまま今も埃をかぶって眠っている。その古道具屋でSPレコードも買った。アインシュタインのバッハのハープシコード演奏で絹貼りの10枚組アルバムだ。たぶん、今では貴重なものだと思う。

2024年夏至の頃のセトゥーバルの日の出(我が家のベランダから6:10撮影)

 今年はオリンピックの年だそうだが、何か盛り上がりに欠ける。

 オリンピックの応援で「ニッポン、チャチャチャ。ニッポン、チャチャチャ。」は勢いがつくが「ニホン、チャチャチャ」では何とも締まらない。VIT

 

 

 

 

 

 最近のアメリカ映画などを見ていても瓶のビールは捩じって開けている様で、センヌキはもはや使ってはいない。日本でもポルトガルでも瓶のビールには昔ながらのセンヌキは今でも使う。尤も日本では瓶ビールより缶ビールが主流で、瓶ビールはお店などでは使われているが家庭ではやはり手軽な缶ビールなのだろう。アルミ缶ならリサイクル箱に捨てるだけで済むがビールの瓶を返すには手間がかかる。

 ポルトガルのスーパーで売られている1リッターのビール瓶はワインの瓶と同様、ガラスのリサイクル容器に捨てるようになっていて、蓋も捩じり式で繰り返し栓が出来る様になっている。だからその様なものが主流になり、時代と共にセンヌキなるものの存在はなくなってしまうのかもしれない。

 僕は昔、1965年、東京オリンピックの翌年だったと思う。東京国分寺駅前のキャバレーでボーイのアルバイトをしていたことがある。お店の名前は『フレンド』。大きなフロアーの真ん中には池と噴水もあった。噴水の上にはミラーボールが回っていて、池の周りはダンスホールになっていた。その周囲に多くのボックス席があり、ホステスさんに取り囲まれるように男性客がいた。

 ボーイは3~4人いたが、間隔を空けて、そのボックス席から少し離れたところで突っ立っている。突っ立っているだけの仕事だ。右手にはセンヌキを持って突っ立っているだけ。何の変哲もないセンヌキだ。時折、ホステスさんから呼ばれる。「ボーイさ~ん」などと呼ばれる。つつつとボックス席に近付く。ホステスさんは「ボーイさん、おビール1本お願い」などと注文をする。ボーイはバーカウンターからビール瓶を持って来て、ボックス席の前で、勢いよくビールの栓を開けるのだ。「シュッパァ~ン」という景気の良い音を鳴らす。それが腕の見せ所でもあった。左手にタオルを持ちよく冷えたビール瓶をそれに包んで胸の高さまで持ち上げる。センヌキを持った右手は腰より下。1メートル程も離れたビールの栓に一直線にヒットさせ景気の良い音をお店中に鳴り響かせなければならないのだ。

 岡山に内山工業という明治半ばに創業の古くからの企業がある。何でも創業当時はビールの王冠製造から始まったらしい。王冠の裏にはコルクが使われていた。僕が子供の頃にも王冠の裏にはコルクが張られていた。そのコルクを剥がし、王冠をシャツなどに貼り付け裏に再びコルクを付けて遊んだりもしたものだ。そのコルクを調達するために内山工業はポルトガル北部の町ヴィアナ・ド・カステロに工場を作ったのだと思う。その工場は今でもある。尤も今では王冠の裏にはコルクは使われていなくて、樹脂製に代わっているが、ヴィアナ・ド・カステロの工場はそのまま操業は続けられていて、企業としての人気は高い。今では王冠だけではなく製品の広がりも多いそうだがその製品の世界シェアは何と3割にもなると言う優良企業だ。

 僕が最も尊敬する恩師が『センヌキ』先生と言う渾名だった。外見と内実の両方がうまく合致した渾名で、誰が付けたのかは知らないが実に巧く付けたものだと感心していた。外見は少々出っ歯で、そこからも由来しているのだが、何事にも先ず率先してやってみると言う性格もあって、先ず扉を、栓を開けてくれる、何でも出来る人でもあった。

 美術部では不定期に機関誌『NACK』というのが作られていて、その冒頭部分に『A Cup Opener』というコーナーがあり、気の利いた文体に、レイアウトとイラストがお洒落で、ご自身でもセンヌキという渾名は気に入られていた様だ。『NACK』のロゴマークはアルファベットを組み合わせて横に倒すとピカソの牛の頭蓋骨になる。

 僕たちの美術部の顧問ではあったが、美術部以外にも山岳部とラグビー部も兼務しておられた。兼務と言っても只名前だけの顧問ではなく、生徒と一緒に山にも登られるし、プロテクターにジャージ姿でラグビーボールを抱えて生徒と一緒になって運動場中を走られる。だからと言ってそれ程身体がデカいわけでもなく、どちらかと言えばやせっぽちで華奢なタイプだ。繊細なのにず太いのだ。ず太く見せようと努力されていたのかもしれない。

 生徒の部活動の顧問以外にも先生同士での俳句の同好会にも参加されていて、独自に俳句に木版画をドッキングされて面白い表現をされていて、それが出版社の目に留まり1冊の素晴らしい本にもなっている。俳句・俳句版画集『蛍雪の窓』藤井 水草両 著

 僕はこの恩師と出会うことによって僕自身が知らず知らず随分と変わっていったのだろうと思う。その頃の母の口癖は「藤井先生のお陰や」だった。そのセンヌキ先生の本名は藤井満先生と言われる。

 僕は戦後間もない食糧難の時代にこの世に生を受けた。出産の付き添いに福岡県遠賀郡からわざわざ大阪まで母の姉、僕からすれば叔母さんが手伝いに来て下さった。夜行の蒸気機関車に揺られて。その間には途中、広島の惨状なども目にされてのことだった。

 僕は何とか無事に生まれた。でも叔母さんの第一声は「この子は生きられんよ」だったらしい。鳴き声も弱弱しく、痩せっぽちで目と鼻と口だけが大きくてとても異形であったらしい。

 でも生を受けてからは母の胸にしがみつき母乳をむさぼり飲んだのだと言う。その結果、母も僕もカルシューム不足は慢性的な事態になってしまい、共倒れも懸念された。僕はその頃から『和田カルシューム』という栄養補助剤が手放せなくなっていたし、ビタミンなどのいろいろな栄養剤を常用しなければならないほどであった。僕の子供の頃は酷いアレルギー体質で、身体中に蕁麻疹が出て、いつも四谷怪談の『お岩さん』状態だったし、喘息気味で、おまけに骨折はしょっちゅうで、怪我などをしてもなかなか血が止まらなかった。近くにあった『淀井病院』の常連患者だったが、お医者様は「中学生くらいになれば自然に良くなりますよ。」と言って頂いていたが、中学生になってもお医者様が言われた様にはゆかなかった。それが高校生になって美術部に入って、母に言わせると見違えるような変化が起きた。と言うのだ。「この子は生きられんよ」と言われた子供がまがりなりにでも高校生にまでなったのだから。そして高校美術部の顧問「藤井先生のお陰」という訳である。

 それから今までの実に長い人生でその時からの、センヌキ先生を含めた仲間たちは人生の支えになっていった。

 幾つかのセンヌキが手元に残されているのだが、もはや開けるべきものは何もない。

 何処の家庭でも台所の引き出しには2個や3個のセンヌキが転がっている。でもあと数十年もすれば「はて、この道具は何に使うものなのだろう?」などと言われる日がやってくるのかもしれない。武本比登志

 

 

 宮崎での楽しみの一つは何といっても温泉。他にすることがないのだ。インターネットにアクセスできる環境にないし、油彩を描く環境も整ってはいない。レコードは一杯あっても聴くオーディオがない。久々に日本のテレビを観たり、自転車で走り回ったりは出来る楽しみはあるのだが…。

画像はポルトガルの家並を表現した油彩で文章とは関係ありません。

 実はポルトガルにも温泉はある。シャーベスなどは70度もの熱いお湯が出る。白衣を着た係の人がコップにお湯を注いで手渡してくれる。胃に良いのだそうだ。そんな温泉もある。でも日本の温泉とは少し違い、温泉療養施設といった趣のところが多い。温泉場にはホテルもあるが普通のホテルと何ら変わらない。只、お湯が多少ぬるぬるしていたりするので温泉の有難みを感じる。

 でもやはり日本の温泉が良い。帰国中宮崎ではほぼ毎土曜日には温泉と決めていた。路線バスで行く。平日はバスの便が悪く、土日に限る。土日にしか行くことが出来ない。たいてい土曜日と決めていたが、土曜日に用事がある時は日曜日に順延する。とにかく週一回だ。

 バスは宮交シティを12:35分に出て『宮崎自然休養村このはなの湯』に到着はだいたい13時頃。バスだから正確にはゆかない。13時に着いて、帰りのバスは16:35分。3時間半もあるのは少々長すぎると当初は思っていた。

 着いてすぐに食堂に行き昼食。豚ロースの生姜焼き定食が旨い。920円だがなかなか値打ちがある。温泉代は330円。宮崎市民で高齢者の価格だ。普通は420円程。そして1回に1つスタンプを押してくれる。スタンプが10個貯まれば1回が無料になる。回数券もある。10回分の価格で11回が使える。

 食堂を出たところに血圧計がある。豚の生姜焼き定食を注文して出来上がるまでの間に血圧を測る。いつも少々高めだ。でも温泉から上がり再び計ってみると、確実に正常値になっている。体重計にも乗る、温泉に入る前と出てからだと1キロの体重が減っている。

 豚ロースの生姜焼き定食も毎回だと飽きる。いや他にもいろいろと定食や麺類などもあるので飽きることはないのだが、その雰囲気に飽きる。1人では寂しい。それでバスに乗る前に宮交シティ周辺のファストフード店で食べたりもする。自宅で食べてから行くこともある。ちょっと早い目の昼食になる。自宅から自転車で宮交シティまで行く。5~6分だ。雨の日は傘をさして歩く。20分かかる。それから12時35分のバスに乗る。

 バスは宮崎駅が始発で宮交シティは中間点、なのでそれもいつも5分程度遅れて来る。でもこのバスが良い。宮崎市民で高齢者は1乗車100円なのだ。何処まで乗っても1乗車100円。普通に払えば1500円もする距離でも100円。温泉まで30分ほどの距離だが1乗車だから100円。往復200円。高齢者には敬老パスがありあらかじめチャージしておく。チャージが1000円以下になれば1000円ずつ追加チャージする。チャージはバスセンター、バス車内、コンビニでも出来ます。と車内放送でしょっちゅうテープが流れる。

 温泉には毎日の様に来ている常連客が多い。毎回見る顔が何人も居る。でもその人たちはバスでは行かない。自家用車で行く様だ。毎土曜日にバスで行くのは僕と3人の女性だけ。帰りにも同じバスだがそれしかないから一緒になりいつも挨拶を交わす。もう10年通っておられると言う。

 当初、3時間半は長すぎると思っていたが慣れてくるとこの長さが良い。温泉には大浴場と源泉風呂、歩行浴、そしてサウナがある。露天風呂はない。大浴場は沸かし湯だと言う。源泉はほぼ体温程度。歩行浴も源泉だ。大浴場にはそれ程長くは浸かれないが源泉浴は何十分でもいける。気持ちが良い。でも4~5人で満員。皆ゆっくり入っている。僕もだいたい15分を目安に浸かる。お隣でいびきをかいている人も居る。気持ちが良くて寝てしまうのだ。

 ゆっくり時間があるので源泉浴も良いが、サウナが良い。1度には5分から長くて10分程度だが4度も5度も入る。サウナには5分計の砂時計があり、それの2回分を目安に入る。入る前には身体を拭き上げる。入口に消毒済みのスポンジマットが用意されているのでそれを持って入り座布団としてお尻に敷く。10分近くなると汗が噴き出す。出る時には立てかけてあるモップで座った後の汗を拭きとる。そしてスポンジマットを使用済みの容器に入れる。白衣を着た従業員の小母さんがそのマットの消毒に何回となくやってくる。大浴場の温度を計り。シャンプーやボディソープの追加。足拭きタオルの交換など。仕事は多い。サウナから上がって脱衣場に設置してある冷水器の水を飲む。格別に旨い。

 サウナと言えば僕は昔若い頃、スウェーデンに住んでいた時のことを思い出す。ストックホルムにいた後半にはストックホルム郊外のリンケビィという町の学生寮に住んでいた。学生寮と言っても家族向きで夫婦であったり、子供連れであったり用の学生寮であった。6階建て程であったと思うが地上階にはコインランドリーがあって、各戸で洗濯機は必要ではなく、非常に合理的であると思った。洗濯機用のコインは事務所で買うのだが、洗濯機、乾燥機、アイロンそれにシーツを畳んでプレスする道具がありこれは便利だと思って感心していた。今、町にあるコインランドリーのはしりだと思うが、学生寮にあって、勿論、その学生寮の住民だけしか使えない場所であった。

 その隣に卓球台などが置いてある50畳程の屋内運動場もあった。そしてその隣に更衣室とシャワー室、そしてサウナがあった。サウナは学生寮の住民は自由に使うことが出来るが、使いたい時間には名前を書いておく必要があった。

 僕はその屋内運動場を定期的に使っていた。2台の卓球台を隅に片付け、不動禅少林寺拳法の練習に使っていたのだ。師範の野口公彦さんに来て頂き、スウェーデン人のオーケ。フィンランド人のアレクシそして僕の4人で稽古をしていたのだ。更衣室で胴衣に着替え。終わればシャワーを浴びる。でもサウナは1度も使ったことはなかった。屋内運動場を使うにも更衣室を使うにも、シャワーを使うにも名前など1度も書いたことはなかった。大体殆ど誰も使わないのだ。

 でも1度、練習が終わってシャワーを浴びようとしたところ、誰かがサウナを使っている気配なのだ。そして入口には名前が書かれてあった。サウナから女性が顔を覗かせ、「どうぞ、良かったらご一緒に」などと言うではないか。それもスウェーデン女性の飛び切りの美人が。「いやいや、我々はシャワーだけで…」と師範以下皆はたじたじであった。

 今から思えばもっとサウナを利用しておけばよかった。こんなに気持ちの良いものもない。

 スウェーデンを引き揚げ、ニューヨークで1年を過ごした。ニューヨークでは働きづめでお金が貯まった。そのお金で南米を1年かけて旅をした。お金が貯まったからと言っても豪華な旅ではなく、極力に切り詰めた貧乏旅行だ。ニューヨークからリオ・デジャネイロに飛び、リオのカーニバルを堪能した後、ローカルバスや列車を乗り継ぎ、最南端のフエゴ島まで行き、それから北上した。一つの国ごとに1か月以上を費やした。誰もが行く観光地はもちろん、誰も行かない僻地にも貪欲に足を延ばし自然を満喫した。

 誰もが行く観光地、クスコからマチュ・ピチュまではローカル列車で行った。クスコを早朝5時発だ。8時発は観光客専用で途中は止まらないでマチュ・ピチュ迄直接行ってしまう。僕たちはその手前のアグア・カリエンテで泊まるつもりなのでその観光列車には乗れない。列車は1日に2本しかない。アグア・カリエンテに1週間泊った。駅がホテルだ。アグア=水、カリエンテ=熱い、熱い水。つまり温泉だ。駅から1分も歩けば小さいプールの様な露天風呂がある。入口のところで子供を連れた小母さんが料金を徴収する。昼間はあまり誰も入らない。バックパッカーたちは夜中に入る。小母さんがいなくなる夜中は無料になるのだ。そして混浴だ。そんなところに1週間滞在した。

 1日かけてインディオの道を上りマチュ・ピチュを観光した。途中、満員の観光バス何台もが僕たちを追い抜いて砂埃を舞い上げ走り去った。

 宮崎の路線バスは敬老パスで乗る人は居るが、いつもは空いている。経営は大丈夫かなと心配してしまう。それでも日本語アナウンスの他に英語と韓国語、中国語のアナウンスが流れる。今年四月にもダイヤ改正が行われ一部縮小になった路線などもある。温泉行だけはこれ以上なくならないでほしい。

 2024年6月からは温泉入浴料を値上げすると、張り紙があった。330円が420円になる。温泉は宮崎市営の施設であるらしい。値上げは僕にとっては痛いが、他所に比べればそれでも安いのだから仕方がないか。

 温泉から上がると館内にはいつもBGMとして心地よいジャズが流れている。VIT

 

 

 ニューヨークに住み始めてすぐに自転車を買った。1975年の話だ。太く重い鎖と南京錠も同時に揃えた。

 ニューヨークに行くことは駒ちゃんに予め手紙で知らせておいた。

 駒ちゃんは僕たち2人の為に仕事とアパートまでも決めておいてくれたのだ。

 僕には『SOUEN』と言うアップタウン91丁目にあるマクロバイオティック料理店のコックの仕事。MUZにはミッドタウン50丁目の『NAKAGAWA』。高級寿司店のウエイトレス。

 アパートはその中間、ウエスト75丁目42番地、地上階のワンルーム。1部屋だがキッチンもシャワーもトイレも付いているし、セントラルパークまで歩いて1分。ベーコンシアターにも徒歩10分以内。地の利は抜群だ。ジョン・レノンとオノ・ヨーコが住んでおられたダコタ館のすぐ裏手で、最寄り地下鉄駅はそのダコタ館が目の前のウエスト72丁目。

 駒ちゃんとはストックホルムで一緒だったのだが、日本からの船も一緒だったらしい。

 1971年7月、新潟港からジェルジンスキー号と言う元KGB長官の名を冠した船でナホトカ港まで大荒れの日本海を揺られた。船では2人だけの個室を与えられたものの、窓もない舳先の船底でこれでもかと言わんばかりに揺れた。ナホトカに着いた時には2人共ぐったりでこれでヨーロッパまでたどり着けるのかと不安な気持ちになった。それでも気を取り直して記念写真をとMUZにカメラを向けると5~6人のコサック人が一緒にどやどやと入って直立笑顔の姿勢を取ってくれた。その笑顔が僕にとっては何よりの励みにもなった。

 ナホトカからハバロフスクは夜行列車。ハバロフスクからモスクワはプロペラ機、モスクワからコースは別れ、ヘルシンキ行き、ストックホルム行き、そしてウイーン行きもあったが100人以上の若者たちが同じ船、片道切符でヨーロッパを目指したのだ。僕たちはストックホルム行きを選んだ。その中に駒ちゃんも居たことは後で知った。駒ちゃんから「一緒の船だったのですよ」と教えてくれたのだった。

 ストックホルムでの日本人は皆が仲が良かった。ストックホルムを拠点にヨーロッパ中を旅しその情報を交換したり、ストックホルムでの生活そのものを謳歌したり、中にはアメリカ経由でストックホルムに暮らす日本人もいた。溜り場は Tセントラレン前の図書館。図書館ではレコードなども聴くことが出来た。殆どが20歳代前半で音楽の話題にも事欠かなかった。駒ちゃんは学生時代にはトランペットをやっていたという。

 数年して駒ちゃんはニューヨークに旅立った。僕は「ははぁ、ジャズだな」と思っていた。

 僕たちはストックホルムで4年余りを過ごし、ポーランドを旅した折にアメリカ大使館に立ち寄り、だめ元でヴィザを申請したのだが、すんなりと取れてしまったのでヴィザ有効期限が切れる半年以内にアメリカに向かったのだった。

 ニューヨークに着いて先ずは駒ちゃんが働く寿司店『SAKURA』に立ち寄って寿司で腹ごしらえをした。そこでアパートと仕事のことを教えられて驚いたのだった。駒ちゃんは僕たちを驚かそうと思ってそれまでは伏せていたのかもしれない。兎に角有り難かった。暫くは何処か安ホテルでもと思っていたのだが、その日からアパートに住めることになったのだから。

 そしてマクロバイオティック料理店『SOUEN』のオーナーのタキさんは僕たちの為に弁護士を雇って<H2>と言うヴィザとMUZの為に<H4>のヴィザを取得してくれたのだ。H2は特殊技能保持者つまり日本食のコックなどに与えられるヴィザでH4はその妻に与えられると言うものであった。

 不法滞在、不法就労ではなく正規のニューヨーク市民になれたのである。

 ニューヨークでは1日中仕事に明け暮れるという生活だった。休みの日には美術館に行ったり、2本立て1ドルの映画を観たり、自転車でマンハッタンを隅から隅まで乗り回したり、いや、イーストにはあまり行かなかったし、ハーレムにも行かなかった。主にSOUENのあったアップタウンからヴィレッジやソーホーのあるダウンタウンまでか。未だ建設途中だったワールドトレードセンターの80階までは上ったこともある。そして夜には必ずジャズライブに通った。でもMUZとも駒ちゃんとも休みの日が異なるので一緒と言うことは殆どなかった。

 僕はジャズライブに通っていたが、駒ちゃんがジャズライブに通っていると言う話は聞かなかったし、トランペットを吹いていると言う話も聞かなかった。仕事は一生懸命やっていて『SAKURA』のオーナーからは信頼されている様だったし、僕のオーナーのタキさんなどからも「駒ちゃん、駒ちゃん」と可愛がられていたが、休みの日には中国人の闇賭博場に日参していると言う噂もあった。いや、噂だけではなく本人からもその話は聞いていた。

 先日ジョセフ・ゴードン=レヴィット主演の『プレミアム・ラッシュ』という映画を観た。

 『プレミアム・ラッシュ』(Premium Rush)2012年。アメリカのアクションスリラー映画。91分。監督:デヴィッド・コープ。“人と車が激しく行き交うニューヨーク。究極のテクニックで大都会マンハッタンを疾走するバイクメッセンジャー、ワイリー(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、ある日、知り合いの中国人女性ニマ(ジェイミー・チャン)から1通の封筒を託される。だが、これが悪夢の始まりだった。中国マフィアの闇賭博に身を染めた悪徳刑事マンデー(マイケル・シャノン)。闇賭博の負債をカタにそのニマの封筒を奪うことを中国マフィアから託されたことで、その執拗な追跡、背後にうごめく裏組織の黒い影、そしてニマを苦しめる政府からの弾圧…この封筒にはいったい何が隠されているのか、そして事件に巻き込まれたワイリーはこの危機を切り抜けることができるのか!”と言った映画。

 映画は現代のマンハッタンで、僕たちが過ごした1970年代とは少し違う。バイクメッセンジャーと言う仕事もなかった様に思うし、携帯もない時代。でも闇賭博は確かにあったし、自転車は映画同様、車道を走っていた。僕もクルマの間をすり抜けてマンハッタンの車道を走った。でもマンハッタンでも日本でもクルマの間をすり抜けたり、センターライン側を自転車が走るのは違反行為だ。自転車は歩道側、或いは路肩側の車道を走らなければならない。

 でもマンハッタンの歩道側にはクルマが止まって荷物の上げ下ろしなどをしていて、なかなか真っ直ぐは走れないのでついついクルマの間をすり抜けてしまうことになるのだ。

 僕はその時、市バスに乗って窓から見ていた。パークサイドウエスト通りを初老の白人男性が自転車に乗ってセンターライン側を走っていた。それを見たパトカーの黒人警察官2人が「センターライン側を走っちゃ駄目だ」と大声で注意をしたのだ。初老の男は「判った、判った」と言わんばかりに右手を振りそのまま左折してしまった。黒人警察官はパトカーから飛び出し初老の男を自転車もろとも突き飛ばしてしまった。そこまでしなくてもと僕は思ったが、黒人と白人との確執は今も昔も存在しているのだ。

 2020年だったか、ミネアポリスで白人警察官が黒人を地面に膝で押さえつけ窒息死させた『ジョージ・フロイド事件』は大きな抗議行動へと発展し警察官3人が懲戒免職処分になったが、その逆もあり得るのだ。

 そして70年代にもマンハッタンに自転車は多かった。

 SOUENでウエイターをしていた、デイヴィットもフランクも自転車通勤であった。僕もSOUEN前のブロードウェイの電柱に自転車を鎖で止めていた。後輪と電柱なら前輪だけが盗まれるし、前輪と電柱なら前輪を残して車体が盗まれるのだ。だから前輪と車体もろともを太い鎖で電柱に括り付けるのだ。

 僕の仕事は1人早朝からで、仕込みを一手に引き受けていた。日替わりの豆を煮たり、玄米を炊いたり、野菜をソテーしたり、天ぷら用の海老や野菜の下ごしらえをしたり、魚を下したり、デザートのアップルクランチを仕込んだりと言ったものだ。他の従業員はほぼ昼食時間の開店と同時にやってくる。行列の出来るマクロバイオティック料理店だったが、それでうまく機能していた。オーナーはタキさん。店長でマクロバイオティック料理指導はチカさん。ウエイターにデイビッド、フランク、ウエイトレスにヘザー・ブラウン、キャサリン。チカさんはウエイターにもなる。キッチンには僕の他にヤマちゃん、ミッちゃん、それに皿洗いに入れ替わり立ち代わり誰かがいた。たまにはタキさんやチカさんに連れられ中央卸売市場に魚の仕入れに行くこともあった。

 僕は早朝からの勤務なので自転車で通っていたのだが、帰りは仲間と一緒なので自転車を押して歩いて帰ることも多かった。

 自転車は映画でワイリーが乗っていたような快速車ではなく、車輪が小さくハンドルとサドルは上下できる当時としては流行りの自転車であった。男女兼用で、勿論、休日の違うMUZも休みの日には使う。一人でセントラルパークなどをサイクリングしていたそうだ。

 その当時ヘルメット義務などはなかった。警察官だけはヘルメットをかぶっていた様にも思う。マンハッタンにはパトカーの警察官も居たが、乗馬の警察官も、オートバイの警察官も、徒歩の警察官もそして自転車の警察官も居た。

 先日観たジョセフ・ゴードン=レヴィットの映画で悪徳警察官ではなくワイリーを追いかける天敵、自転車の警察官も居た。その警察官がかぶっていたヘルメットはこの程僕が『リドゥル』で買ったヘルメットにそっくりなのだ。出来たら、ワイリーがかぶっていた様なヘルメットにしたかったのだが。

 ニューヨークを一旦引き揚げ、南米旅行に行くことが決まった頃だったと思う。SOUENには皿洗いとして入って来たのだが、ポルシェに乗っていたアメリカ人から「マイアミにマクロバイオティックの店を出したいと思っている。来てくれないか」と僕にオファーがあった。その前から僕が一手に仕込みを引き受けているのを見ていたのだろう。僕に「豆腐の作り方を教えてくれないか」などと質問をしていた。僕は豆腐の作り方は知ってはいて、一応は教えたが、日本レストランのコックだからと言って豆腐を一から作るコックもあまりいないと思う。SOUENではコロンバスアヴェニューにあった田中豆腐店から仕入れていたのだ。

 チカさんは僕がマイアミに行くことについては「それは駄目だよ」と即答してくれた。その後、南米旅行中だったので、どうなったか僕は知らないが、風の噂ではチカさんが開店の指導にマイアミ迄行ったと言う様な話を耳にした。

 僕たちが住んでいたアパートはイタリア系のアメリカ人が持ち主であった。住人はそれぞれ仕事を持っていてあまり顔を合わせることもなかったが全館ほとんど日本人が暮らしていたらしい。『BENIHANA』の花形コックなども居た。自転車は玄関ホールに「この自転車売ります」と張り紙をしたのだが、その日の内に日本人が買ってくれた。1年余りを乗ったにも拘らず新品同様だったし、重く太い鎖と南京錠迄付いていたのだから。

 映画『プレミアム・ラッシュ』を観ながら、マンハッタンを懐かしく思い起している。

 SOUENのオーナー、タキさんはその後、ポルシェに乗って交通事故死したという話は聞いた。僕たちの頃にはVWのステーションワゴンの地味なクルマに乗っておられたのに。昼食時間が終わって夕食時間までは一旦店を閉める。その間に僕を色んな店に珈琲を飲みに連れて行って下さった。その時の満面の笑顔は今も忘れられない。

 皆が同時に休みの時も何度かあった。ロングアイランドの先端まで船釣りに連れて行ってくれたこともあるし、ゴルフに誘われたこともある。セントラルパークでソフトボールをしたこともある。そして僕が誘って全員でジャズライブに行ったこともある。

 良いことばかりではない。黒人3人組のピストル強盗に襲われたこともある。それも3回も。一瞬の出来事で、その日の売り上げ全額を強奪されたのだが、3回共、従業員全員に怪我はなかった。

 その後音信不通になっている駒ちゃんはどうしているのだろう、などと思う。

 そういえば先日、ストックホルム時代の友人トニーさん、ワコさんご夫妻が神戸から宮崎まで会いに来てくださった折にも駒ちゃんの話題にものぼった。たぶん、マンハッタンで元気に過ごされているのだろう。

 出来ることなら今猛烈に会いたい人だ。そしてあの時のお礼を改めて申し上げたい気持ちで一杯だ。

 今から思うと、たった1年余りの短い期間だったが、あのマンハッタンでの生活は僕の人生にとって重要な位置を占めていることは間違いがないことなのだから…。

武本比登志

 

 

 

 

 

 朝食をとり一仕事を終えたところでコーヒータイムとなる。

 コーヒータイムにはたっぷりのナッツが付く。

セトゥーバル半島先端エスピシェル岬に自生するピスタチオの野生種

 アーモンド、クルミ、マカダミアナッツ、カシューナッツ、それにピーナッツ。たまにはピスタチオがあったり、ヒマワリの種があったり、柿の種があったりする。いや柿の種はナッツではない。おかきだ。それに必ず一片の料理用チョコレートを付ける。チョコレートはカカオナッツが原料だがナッツとは言はない。

 コーヒーはポルトガル式のデミタスではなく日本式にドリップで大きなコーヒーカップにたっぷりと入れ、海などを眺めながらゆっくりと味わう。砂糖もミルクも入れないでブラックだ。ブラックなので、お酒ではないが少しのあてがあれば幸せな気分になる。

 今年の初め宮崎に一時帰国した時に神戸からストックホルム時代の古い友人が遊びに来てくれた。自宅に立ち寄ってくれた時にコーヒーでも出そうと思って『ドン・キホーテ』でナッツでも用意しておこうと思って買い物に行った。すぐ通路の目立つところにミックスナッツがあったのでそれを買った。でも友人夫妻は僕たちの金婚式祝いにケーキを買ってきてくれたので、ナッツは開封せずじまいになってしまった。それをそのままポルトガルまで持参した。そして食卓にその袋がある。買う時は気が付かなかったのだがコピーが凝っている。

 『お酒に合うナッツの要望が多かったので ナッツを愛しすぎた担当者が 自慢の『黄金比率ナッツ』をベースに 複数の胡椒をミックスし味付け 濃厚なのに手が止まらなくなる自信作 ド 情熱価格 黒胡椒ミックスナッツエクストラEX』という長たらしいコピーだがいつもついつい全文を読んでしまう。

 僕はナッツ類の中ではカシューナッツがいい。

 カシューナッツと言えば昔、南米を旅行中にイギリス人で友人になった彼がエクアドールあたりだったか?盛んに「カシューナッツ、カシューナッツ」と騒いでいたのを思い出す。その辺りがカシューナッツの産地だったのだろう。原産地なのかもしれない。やはりいつも食べている食品を原産地の物との違いを味わいたのだろう。僕たちもエクアドールのカシューナッツを食べてみたがいつものと何ら変わりはなかった様に思う。

 アーモンドの原産地はトルコあたりと聞くが昔から南ヨーロッパにもあった。

 ゴッホがアルルで描いた『巴旦杏』は名画のひとつだが、弟テオの子供、それも名親のゴッホの名前ヴァンサンと名付けられた赤ん坊の寝室にその『巴旦杏』の絵はずっと飾られていたと言う。

 巴旦杏はアーモンドのことである。アーモンドは住んでいるセトゥーバルの郊外の沿道などでも毎年1月には花を楽しませてくれる。まるで桜の花にそっくりで春の到来を告げる花でもある。露店市では殻付きのアーモンドなども売られている。

 ポルトガルではアーモンドをそのままではなく粉にしてクッキーを焼いたりもする。贅沢なクッキーだ。

 ピスタチオの原種は我がセトゥーバル半島の先端エスピシェル岬に沢山自生している。食べるには少し小さすぎるが、それでも松の実くらいにはなるのだろう。野鳥の餌だ。

 クルミもトルコあたりが原産と聞くがヨーロッパには古くから栽培がされているし、野生種もあるようにも思う。メイエ村のイクオさん宅の庭にはクルミの巨木があった。庭で取れた小さなクルミをワインの充てに出して下さったが味は濃厚で旨かった。

 クルミも露店市では殻のまま売られている。クルミを殻から開けるにもアーモンドを殻から開けるにもくるみ割りが必要だ。

露店市で売られているアーモンドとクルミ

 我が家でもくるみ割りの道具は幾つかがある。

 くるみ割りと言えば、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』がすぐに頭をよぎる。昔、僕が未だ子供の頃、父はいち早くステレオを買った。同時に何枚かのクラシックレコードを揃えたのだがベートーベンの『運命』と共にチャイコフスキーの『くるみ割り人形』と『白鳥の湖』もあった。

 クルミはロシアにもあったのだろうか?とも思ったがチャイコフスキーの『くるみ割り人形』の原作はドイツの童話『くるみ割り人形とネズミの王様』だそうである。

 ナッツで一番ポピューラーなのはやはりピーナッツであろう。ピーナッツは木の実ではなく土の中に出来るとのことであるが僕はこの歳になっても栽培されている姿を未だ見たことがない。露店市やスーパーで売られている、殻に入ったピーナッツ或いは殻から出されたピーナッツしか知らない。

 昔、宮崎でお店をしていた時にはコーヒーに殻付きのピーナッツをつけていた。ウエイトレスからは「掃除が大変」と言われていた。やはりあちこちと散らかるのだ。

 映画『エリン・ブロコビッチ』でジュリア・ロバーツが署名を集め回っている先のバーに立ち寄った時、そこで飲んでいた何となく胡散臭いお客が重要な証言を話し始めた。もう夜で早く帰宅して子供たちに夕食を与えないといけない時間だし、本人もお腹が空いてくるし、でも重要な証言を聞き逃すわけにはいかない。夕食代わりに殻付きのピーナッツをむさぼり食べながら証言をメモするジュリア・ロバーツのその殻を割る指先は印象深い。これだけでもアカデミー賞級である。

 ナッツとは言えないのかもしれないが乾燥したグリーンピースがある。

 子供の頃、家族で海水浴によく行った。明治生まれで村上水軍の血を引く父は海水パンツの内ポケットに、その硬いグリーンピースを数粒忍ばせていた。父に言わせると「遭難した時の非常食になる」そうである。海水で適度にふやけて柔らかくなり、塩気が付いて旨くなる。万が一遭難しても非常食があれば落ち着いて行動できる。と言っていたが海水浴から上がってそのふやけた青豆で一杯やるのが楽しみの一つだったのだろう。武本比登志

 

 

 

 

 ベランダに折り畳み寝椅子を広げて寝転がる。お隣の庭のゴムの木の先端が空に向かって伸びているのが見える。

空に向かって伸びるゴムの木(我が家のベランダから撮影)

 ポルトガルに住み始めてこれ程、外出の少ないことはなかった。年齢的なこともあるのだろうけれど、コロナ禍で自宅に居ることの、案外と快適さを身に沁み始めたのかも知れない。

 最初の10年間は列車やバスを使ってそれこそ貪欲にポルトガル国内を歩き回ってスケッチをした。

 10年経ってクルマを買った。列車やバスでは行かれなかった小さな村々迄出かけた。スケッチ旅行の傍ら野の花やきのこ観察に楽しみを見いだし、それをブログに纏めた。

 30年経ち年齢も年齢、健康のこともあるし、そろそろ帰国をと思っていた矢先、コロナ禍だ。スーパーの買い物とワクチン接種以外全く外出はしなかった。

 コロナ禍が終わってもスーパーへの買い物と週一の露店市歩きくらいで、外食も殆どしなくなったし、野の花観察にも行かなくなった。

 家にばかり居るのだ。それが案外と心地良い。家に居ても陽当たりも良いし、見晴らしは抜群。地平線からの日の出も拝むことが出来るし。水平線を行く貨物船を眺めたり、戦闘機の飛行訓練を眺めたり。渡船やフェリーの行き来。貨物船の出入港。ヨットやレジャーボート。湾にはイルカウオッチングの船も、でもイルカは双眼鏡を使ってもここからは無理。

 先日は毎年、セトゥーバル湾で行われる漁師の祭りを家のベランダに居ながらにして見学することも出来た。漁師の祭りには花火もあった。年始め恒例の花火も我が家からが特等席だ。ベランダからの眺めは飽きることがない。

 家に居る1日は、先ず日の出を拝む。そして朝食。パソコンを開いてメールなどのチェック。それからサド湾を眺めながらコーヒータイム。再びパソコンを開いてラジオ体操第1と第2。北のベランダに置いてあるニラ、パセリ、月下美人への水遣り。油彩を少し。瞬く間に昼ごはん。テレビのお昼のニュース。ブログの掲載。何をする暇もなく夕食。夕食後はテレビの映画。入浴を挟んで映画をもう1本。

 アソーレスに住む幸さんが『文藝春秋』を送って下さる。隅から隅まで読む。面白い。僕は最初の頁から順番に全て飛ばすことなく読むようにしている。でもあまり夢中になって読み過ぎると他のことが何もできなくなってしまうので、時間を見ながら切りの良いところで毎日少しずつの楽しみにしている。

 夕食前後の南のベランダが日陰になる頃などは絶好だ。ベランダに折り畳み寝椅子を出して読む。寝椅子は南向きには置かれないので東向きだ。

ゴムの木とセトゥーバルの街並

 文藝春秋を読みながらふと顔を上げると、お隣の庭から生えているゴムの木の先端が見える。大きくなったものだ。我が家は日本式に言えば4階の高さ。南側の裏は5回の高さがある。ゴムの木は5階の高さまで迫ってきている。

 お隣のオーナーは庭木の剪定をあまりしない人の様だ。それこそ放ったらかしだ。松の木もそのままだし。ブラジル松も葛が絡み付いたまま伸び放題。ジャカランダも手つかずで、ゴムの木は広がり放題。庭木は放ったらかしだがクルママニアの様だ。用途に応じて何台ものクルマを使い分けている。誰もが振り返るスーパーカーもある。

 ゴムの木と言えば日本では室内用観葉植物の代表格だ。ポルトガルでも観葉植物だが、庭木や公園樹としても植えられている。やはり日本よりは少し温かいのだろう。冬でも葉が落ちないどころか、冬でも成長している。公園のカフェテラスで大きな影を作っていると思えばゴムの巨木だったりする。日本でも宮崎あたりなら露地でも生き続けるのだろうが、それ程の巨木は見たことがない。

 指宿で観葉植物の栽培をしている大村さんと知り合いになった。観葉植物と言っても家庭用ではなく事業所用で大型専門であった。一度指宿迄遊びに行ったことがあるが広い温室に指宿の温泉が暖房になっているとのことであったが、温かいところで暖房が要るのだろうかと思った。温泉は無料だが水道水にはお金を払っていると言っていた。羨ましい限りだ。風除けに温室が必要だとのことであった。とにかく他所の2倍も早く成長するそうだ。やはりゴムの木が多かった。それをトラックに満載して東京や大阪の大都市まで運んで行く。高度経済成長期、ビルなどに観葉植物の需要が多かったのだ。

 宮崎に住んでいた時にもゴムの木は身長以上になった鉢数鉢を育てていた。宮崎と言っても標高の少し高い地域で霜も降りたので地植えは無理であった。

 ゴムの木の巨木を最初に見たのはリオ・デ・ジャネイロであった。リオで動物園に行った。ゴムの木の巨木が珍しいと思い眺めていた。幹が動き出したので後ずさりした。何と幹に大きなニシキヘビが絡みついていたのだ。

 セトゥーバルの公園などでもゴムの大木がある。リオ・デ・ジャネイロのイメージがいつまでも離れず、幹にニシキヘビが居ないか恐る恐る見てしまう。

 そういえば、アンリ・ルソーの絵でゴムの木などの熱帯ジャングルの間から大蛇が首をもたげている絵があった。

 明治生まれの父は植物が殊のほか好きであった。生まれ育った新居浜の屋敷にはいろんな珍しい植物を植えていたそうだ。従妹の淳子さんの話では「憲叔父さんは未だバラなどが珍しい時代から育てていたし、新居浜の庭には珍しい植物がいろいろありましたよ」と言っていたくらいだ。

 父は太平洋戦争中の末期に兵役から戻って、大阪の地方公務員になった。母と結婚をし北田辺にアパートを借り暮らし始めた。1階にもアパートがあったのか大家さんの自宅だったのかは判らないが父と母の部屋は2階であった。兄はそこで昭和19年に生まれた。2階には2世帯が暮らしていて、あとの1世帯には犬養孝さんと言う方が住まわれたそうだ。その翌年の昭和20年、大阪では度重なる大空襲があった。B-29からの焼夷弾である。1歳に満たない赤ん坊を抱えて母は大変だったろうと思う。そしてそのアパートは爆撃により全焼した。アパートの門柱の上に父は斑入りのゴムの木を飾っていたそうだがゴムの木だけが、まるで門松のように青々と生き残っていたそうだ。

 父母も赤ん坊の兄も防空壕に隠れたのか、或いは安全なところを求めて逃げ惑ったのか。その辺りは聞いてはいないが、何とか無事であった。その後、戦争が終わってしばらくは、その近所に仮住まいしたことになるがそこで僕が生まれた。そして今の西今川町に家を見つけた。やがて妹が生まれることになる。僕が物心ついてからの家はずっと西今川町であった。最寄り駅は何れも同じ北田辺にある。

 西今川町は今川の西に沿った1丁目から4丁目まである町である。今川は遠い昔、息長川と呼ばれ万葉集にも歌われた鳰鳥(カイツブリ)も生息した美しい流れだったとある。最近になって地元の郷土史家、三津井康純氏の長年の調査により明らかになった史実である。

 万葉集などで歌われている息長川は今川の古い名前であった。

 “鳰鳥(におどり)の 息長川は 絶えぬとも 君に語らむ 言(こと)尽きめやも“(馬史国人)<万葉集4458番>

 “まだ知らぬ旅寝に 息長川と契らせ給うより ほかのことなし”(紫式部)<源氏物語・第四帖夕顔の巻>と歌われている。

 そして出所の判らない歌をもう一首

 “百済(くだら)野の 息長川の 都鳥 とふべき人は 昔なりけり(国香?)<拾遣?>

 百済と言う地名は西今川から10分も歩けば着くことが出来る地域で、その昔から渡来人の町だったのだろう。

 それが大和川の度重なる氾濫により1704年(宝永元年)の大和川付け替え工事により息長川の水源が絶たれてしまった。そして名称も今川となった。宝永年間には現代の川、つまり今川になってしまったわけである。僕が子供の頃の今川は各家庭からの排水が流れ込み、メタンガスが発生するまさにどぶ川であった。

 各家庭にテレビが普及し始めた頃、テレビに時々、犬養孝さんのお姿があって、父は「この人や、この人や。北田辺で同じアパートに住んでいたのはこの人や!」と喜んでいた。犬養孝さんもご無事であったのだ。犬養孝さんは万葉集の研究者としての第一人者で度々テレビにも登場していた学者の先生になられていたのだ。

 生れたばかりの兄は犬養孝さんにも抱いてもらったそうだ。母も懐かしそうにそう話していた。

 そのせいなのかどうなのかは知らないが、兄は今でも万葉集のポケット版を持ち歩いている。我が家ではお正月には毎年、百人一首を楽しんだ。読み手は母で、朗々と詠い上げた。父はお屠蘇を飲みながら見ているだけ。取り手は子供たち。勿論、一番上手なのは兄である。僕もそこそこには出来るが兄には叶わない。

伸び放題無限に枝分かれした1株のゴムの木

 寝椅子に寝転がってゴムの木を眺めながら、そういえばゴムの木にはあまり野鳥は止まらない。その隣の松には今も野鳥が止まっている。

 暑くて眠られない真夜中、夕方からそのままにしておいた寝椅子に横たわって星空を眺めながら

 “あしびきの 山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む”(柿本人麻呂)<小倉百人一首>などと言ってみると、黒々としたゴムの木がざわざわと音を立てる。武本比登志

 

 

 

 

 これ程1台の同じクルマに長く乗ったことはかつてなかった。

 何しろ2000年の5月にシトロエン・サクソがモデルチェンジしたのを機に新車を買って今年で23年にもなってしまった。

自宅前の路上に駐車中の我が家のシトロエン・サクソ(2023年7月30日撮影)

 ポルトガルに住み始めたのは1990年9月。2000年までの10年間はクルマなしの生活だった。買い物に行くにもスケッチ旅行をするにももっぱら公共交通機関を利用した。ポルトガルは日本などと比べると交通費は圧倒的に安い。市内バスであったり、路線バスであったり、列車であったり、渡船であったり。そしてそんな生活を楽しんでいた。10年の内の終わりの方では時々レンタカーもした。

 そして2000年5月になってようやくクルマを買った。当時、ルイサトディ大通り公園でシトロエンの新車キャンペーンをしていてその中から選んだ。

 パリの展覧会に出品をしていたので、フランスまで走ることも多くなるかもしれないと思い、あまり目立たない様にとありふれたフランス車がいいと思った。そしてありふれた白にした。

 1100ccの小型車でヨーロッパではどこででも多く走っているクルマだし、シトロエンのサーヴィスステーションも多いから安心だと思った。

 それまではパリの展覧会には飛行機で行っていたのだが出品作をクルマに載せて行ければ便利になるとも思った。だが結局それはこの23年間で1度もなかった。飛行機で行く方が却って安上がりで便利なのだ。

 フランスにクルマで行ったのは1回だけ。それもスペインからピレネーを超えたフランスの南西部モントーバン、トゥルーズ周辺のみ。スペインにも3~4度は入ったがポルトガルの国境から僅かなあたりだけ。

 23年間の殆どはポルトガル国内のみということになる。走行距離は12万4500キロほど。23年間にしてはそれ程多くはない筈だが、地球を3周した距離だ。

 ポルトガルに住み始めてからも毎年春の2~3か月程は日本に帰国していた。毎年何処かここかで個展があったからだ。その間クルマは自宅前の路上に置きっ放しにしていた。マリアさんの寝室の真ん前で、マリアさんは「私が見ているから」と言ってくれていたので安心はしていた。尤もバッテリーは外しておいたので戻って来てバッテリーを取り付けるとエンジンは1発で掛かった。

 ポルトガルに戻ってすぐの時期5月に車検がある。10年を過ぎたクルマは毎年だ。戻ってすぐにオイルチェンジし車検場に持って行くとたいていは1発で合格した。23年の間にはバッテリーも4~5回は換えているし、タイヤも3回くらいは換えている。確か1回は不合格の時があってその時はマフラーを換えたのだったと思う。そして点検整備とオイルチェンジは毎年している。あまり故障らしい故障はなかったしパンクも1回だけ。

 このコロナ禍で2020年、2021年、2022年の3年間は帰国が果たせなかった。そして今年2023年は4年ぶりにようやく帰国が叶った。羽田の税関では陰性証明書やワクチン接種証明書など書類検査が厳しかった。そしてポルトガルに住み始めて1番長い4か月を日本で過ごしたことになった。ポルトガルでは100人に1人くらいしかマスクはしていなかったが、日本では未だ着用義務があって全員がマスク姿であった。

 そして5月12日にポルトガルに戻って来た。車検の期限は5月17日だが少々なら遅れても大丈夫な様だ。例によってバッテリーを外しておいたのでエンジンは1発で掛かった。

 エンジンを掛けたまま4か月の汚れを雑巾で落としていた。エンジン音が異常に高くなったのを感じていた。運転席に座るとラジエーターの温度を示すゲージが高くすぐに赤ランプが点灯してしまった。こんなことは初めての経験である。

 走って5分ほどでガソリンスタンドがある。そこではあまりガソリンを入れたことがないのだが、時々はタイヤの空気を入れさせてもらう。今回は水だ。水をラジエーターに入れなければならない。ところが水の出し方が判らない。その日に限って整備スペースは閉まっている。聞く人も居ない。クルマに水タンクを積んでいるのを思い出してそれを入れた。直ぐには赤ランプは消えたが、又すぐに点灯した。

 買い物に行くつもりで出かけたのだが、これは整備工場に走る方が良いと判断しセトゥーバルの町の反対側出口にある『ローディ』まで走った。整備士もすぐに判ったらしく「ラジエーターを取り替える必要がある。きょうはこれ以上は走れない」という深刻な事態らしく、タクシーを呼び家に帰る羽目になった。

 ラジエーターを新品に代えて貰った。オイルチェンジもして貰った。併せて329,64ユーロ。

 税務署に行ってクルマの税金を払った。38,87ユーロ。期限は5月末日までで期限前だから追徴課税はない。昨年、一昨年はコロナ禍で税務署は入場制限をしていて、予約をしてのみしか入れなかったのに追徴課税25ユーロずつを纏めて取られてしまった。

 そして車検に行った。車検場は空いていた。待つことはなく直ぐに始まった。そして今回も1発で合格をした。但し、右前のフォグランプが一つ切れているので取り換えておくようにという一言があった。車検費用は34,19ユーロ。

 ACPポルトガル自動車協会にも行き年会費を払った。54ユーロ。新しいポルトガル全国道路地図をくれた。その辺りは昨年までは駐車無料だったのだが今年からは有料になっていた。0,50ユーロ。

 自動車保険は毎年秋に自動引き落としにしているから問題ない。218,75ユーロ。

 それから暫くは近くのスーパーに買い物に行ったり、露店市に行ったりと普通に乗りこなしていた。でも何となく不安な気持ちが残っていた。

 モイタの露店市の駐車場の側に水道がある。先日半分程使ったタンクに水を満たした。タンクから泡がもくもくと噴き出した。タンクは台所洗剤4リッターのタンクを再利用したもので、座りが良くクルマに載せておくには格好のタンクだった。それにろくに濯がないで水を入れていたのだ。ウインドウォッシャーに入れるのなら洗剤が少々入っている方が良いと思っていたからだ。

 露店市歩きとスーパーへの買い物だけではどうしても運動不足になってしまう。

 ラジエーターを交換して初めて遠出をした。日帰りでコルーシェと言う町を目指してスケッチ旅行に出かけた。暑い日だった。でもエアコンは効いているのでクルマの中は快適だ。

 コルーシェよりも手前にカーニャという村がありそこでもスケッチをした。教会の前に駐車したが影がない。陽射しが強いので影を選んでのスケッチだ。教会の鐘楼にコウノトリが巣を架けている。電信柱の上にも軒並みにコウノトリが巣を架けていて、それぞれに2~3羽ずつが居る。アレンテージョ地方でも、セトゥーバル周辺でもコウノトリが増えている。

 9時から開いたカフェで休憩をしコルーシェを目指した。

 カーニャからコルーシェは交通量も少なくコルク樫の森の中の真っ直ぐな道が続く。100キロくらいは直ぐに出てしまう。

 コルーシェはテージョ川とは別のリスボンに流れ込む川の中流域に沿った町で闘牛が盛んなところだ。その闘牛場駐車場の木陰にクルマを停めた。何度かは来ているがあまり絵にしてはいない。とんがった白い屋根の特徴的な教会があるが、それ以外はポルトガルの何処にでもある様な町角風景を貪欲にスケッチした。町角には闘牛のポスターがべたべた貼られていて佐伯祐三の絵を彷彿とさせる。パステラリアでお昼を済ませた。観光客も暑いからかエアコンの効いたカフェなどに避難してビールを飲んでいる。

 そしてアルコシェッテ、モンティージョ周りで帰ることにした。アルコシェッテもモンティージョもショッピングなどでしょっちゅう来るところだ。アルコシェッテまでもコルク樫の森の真っ直ぐな道が続く。アルコシェッテでアイスクリームを食べて休憩した。

 モンティージョに入るところで夕方の渋滞になってしまった。なかなか街を抜けることが出来ない。

 そして新品に換えたばかりのラジエーターのゲージが上昇しだし、やがて赤ランプが点灯した。すぐにガソリンスタンドに入り水を入れた。相当の水が入った。モンティージョの出口辺りで修理工場がある筈だと思ったが見逃してしまった。一応ラジエーターのゲージは正常に保っているのでそのまま帰宅することにした。

 翌日、『ローディ』に行った。事情を説明した。どうやらエンジン・ヘッド・ガスケットというのが問題らしい。それを換えるには1250ユーロがかかる。でも2年間のギャランティ付きとのことだ。大金なので即決は出来ない。「少し考えてみる」といってその日は帰った。

 もう一度、遠出をしてみた。コルーシェよりは少し近場のアライオロスにした。お城があり、絨毯の産地として観光客も多い。トラック運転手相手の安くて旨い食堂があり、そこもしょっちゅう行くところだが、スケッチするところも多い。ここでも貪欲にスケッチをして、トラック食堂で昼食も摂って、絨毯博物館も見学して、そして何とか無事に帰って来た。ラジエーターのゲージが上がることもなかったが、走りながら何となく不安な気持ちはぬぐえない。

 いつも通りピニャル・ノヴォの露店市にも出かけた。何か後ろの方でコトコトと音がする。積んでいる荷物の音でもなさそうだし、半ドアでもない。停めてからマフラーを触ってみるとどうやらマフラーが揺れて後ろのバンパーに時々触れている音の様だ。でもあまり気にせずに走った。

 もう23年も乗っているのだから普通ならとっくに買い替え時は過ぎているのだが、あと2年でポルトガルは引き揚げて帰国しようとも考えているので、今更買い替えのタイミングではない。

 1250ユーロかけてエンジン・ヘッド・ガスケットを換えて、2年間を高いガソリンで走るよりも、この際ハイブリッド車に乗り換えれば、ガソリン代は安く済むだろうし、その方が良いのかもしれないと思い、トヨタのショールームに行ってみた。ハイブリッド車は1000cc程度の小型車はなくて1500cc以上だとのこと。それでも下取り価格も含めて計算してもらったが、買い替えるにはやはり負担が大きすぎる。

 買い替えは諦めて、その足で『ローディ』に行った。トヨタのショールームから『ローディ』までは1キロ足らずの距離だ。『ローディ』に到着する100メートル手前でマフラーが落ちた音がした。道行く人皆がこちらを見ている。マフラーが落ちて爆音を轟かせて走っていたのだ。『ローディ』の駐車スペースに停めてクルマの下を覗いてみるとマフラーが地面に着いてぶら下がっていた。ゴロゴロと引きずって走って来たのだ。爆音を轟かせながら。でもこれ程のグッドタイミングはない。遠出した時や郊外などで、もしマフラーが落ちていたらと思うとゾッとする。

エンジンから取り外された部品の山。床にはマフラーも。

 エンジン・ヘッド・ガスケットとマフラーを交換してもらうしかない。整備士主任は「高くつくけれど新車同様になるよ。2年間のギャランティ付きだしね」と強調した。整備には1週間程が掛かるとのことでタクシーを呼んでもらって帰宅した。1週間はクルマなしの生活だ。

 パンとバナナが切れたので徒歩でスーパーに買い物に出かけた。重い物は持てないので最小限の買い物だ。1週間程度の外出をしないのは普段の生活で何も変わることはないし、引き籠り生活はむしろ得意で快適なのだ。

 予定より早く5日目に電話が鳴った。直ぐにタクシーを呼びクルマを取りに『ローディ』に行った。整備士主任はいなかった。整備士副主任が対応してくれたが、何の説明もないままお金だけ払ってクルマに乗って帰った。『ローディ』では従業員が夏休みに入っている様で交代で休みを取り始めているのだろう。整備士の人数が少なかった。「1250ユーロかかるけど新品同様になりますよ」と言っていたが何となくそんな気がしない。支払ったのは予算の1250ユーロより少し安い1231,12ユーロだった。

 新品同様になる。と言うのはエンジン部分だけでその他は古いままだ。尤も洗車機は一度も使ったことがなく雑巾で拭くだけにしているので塗装は綺麗なままだ。町にはもっと古いクルマも多く走っている。我が家のクルマより新しいのでも塗装が剥げているクルマもある。いろいろだ。

 僕は昭和40年5月8日に免許を取って今までに様々なクルマに乗って来た。最初は発売されたばかりのカローラだった。思えば新車を買ったのはその時と今乗っているシトロエン・サクソ、それに軽のスズキジムニーだけ。それ以外は中古車だった。思いっきり古いフォルクスワーゲンマイクロバスでヨーロッパ5万キロを走破したし、宮崎に居る時もフォルクスワーゲンの古いビートル・ダブルバンパーに乗っていたこともある。ナナハンも中古車だった。普通車のスズキジムニーも乗った。お義母さんが買い物用にとコロナのステーションワゴンを買ってくれたこともあった。中古車でもそれなりに買い替えて乗って来た。だからあまり故障をしたという経験もない。

 昔、岡山の岡本さんと話していたことが頭をよぎった。「古いメルセデスを持っているが、このクルマは金食い虫じゃ~」と岡山弁で愚痴っておられた。一つ修理すると次から次に悪いところが出て来て切りがない。と言う話だった。古いメルセデスならクラシックカー的な楽しみもあるのだろうけれど、わが家のシトロエンは単なるポンコツだ。

 そういえば本拠地はニューヨークでポルトガルにも仕事場を持っておられ、一緒に展覧会をしたこともある彫刻家の新妻實さんはポルトガルにシトロエンを3台持っておられた。その内の1台は1946年型のまさしくクラシックカー。「単なる飾りではなく実際に走ることも出来る」と言っておられた。もう1台はシトロエンの2CV車。これも可愛らしいマニアックなクルマだ。そして3台専用の駐車場に収まっていた。ニューヨークではポルシェだと言っておられた。余程のカーマニアだったのだろう。

 次元の異なる話だが、何か我がポンコツシトロエンは単なる金食い虫になりはしないかと頭をよぎる。

 案の定、何か音がする。新品に換えた筈のマフラーの辺りだ。

 次の日に『ローディ』に行ってみた。「きょうは予約でいっぱいで、明日午後に来てくれ」と言われたので、その次の午後に行った。そうすると「今日ではない。明日午前中に来てくれ」と言うではないか。怒った。「確かに今日午後と言ったではないか」と言って怒った。それを見ていた英語の出来る整備士が副主任に向かって「俺が見てみるよ」と言ってくれた。整備士が夏休みで少ない上に故障車が多く、帰省客のパンク修理などと立て込んでいるのだ。

修理中の我が家のクルマ

 クルマに我々を乗せて周辺を走ってみてくれた。確かに音がする。さすがに整備士だ。すぐに判った様でマフラーを取り付けているクッションゴムが老朽化しているのだ。と言ってその部分を見せてくれた。間違いはなさそうだ。

 「何故、マフラーを取り替える時にこれを一緒に取り換えなかったのだ」と言ったら「確かにそうだ。でも俺はこのクルマの担当ではなかったのでね」と。そしてこれを取り替えるには16ユーロが掛かる。と言うのでやってもらうしかない。

 すぐに部品屋に電話をして「明日出直してくれるか、今日でも1時間45分待ってくれれば出来るけど」とのことだったので待つことにした。

 出来上がったので料金を払おうとしたら、副主任は大型シェードをおまけにくれた。16ユーロ。

 それからも買い物に行ったり、露店市に行ったりと毎日の様にクルマを使っているが、何となく不安は拭えていない。そしてその後遠出は未だしていない。武本比登志