2025年10月4日(土曜日)曇り。31℃~23℃。降水確率40%。湿度91%(9:00)。北西のち南西の風1~4m/s。
BSで映画『南極物語』を観る。見ながら昨日買って来た、いなり寿司で昼食。見終わってから『宮崎市美展』に搬入。帰り『鮮ど市場』で買い物。14:45帰宅。
2025年10月4日(土曜日)曇り。31℃~23℃。降水確率40%。湿度91%(9:00)。北西のち南西の風1~4m/s。
BSで映画『南極物語』を観る。見ながら昨日買って来た、いなり寿司で昼食。見終わってから『宮崎市美展』に搬入。帰り『鮮ど市場』で買い物。14:45帰宅。
2025年10月3日(金曜日)晴れ時々曇り。27℃~19℃。降水確率10%。湿度76%(8:27)。北のち北東の風1~4m/s。
14:00このはな温泉福祉風呂予約。午前中は大リーグ観戦。温泉は16:00に切り上げ帰り『業務スーパー』で買い物。17:00帰宅。
https://ameblo.jp/arrabida/ 武本比登志『端布画布』
https://ameblo.jp/takemotomutsukoie/ 武本睦子『ポルトガルのえんとつ』
2025年10月2日(木曜日)晴れ。29℃~21℃。降水確率10%。湿度85%(8:25)。北西のち北東の風1~4m/s。
10:00から山本由伸先発大リーグ観戦。午後から徒歩で『コスモス』に買い物に。明日の『福祉風呂』予約。
Gooブログから当アメブロに引っ越しました。
https://ameblo.jp/arrabida/ 武本比登志『端布画布』
https://ameblo.jp/takemotomutsukoie/ 武本睦子『ポルトガルのえんとつ』
2025年10月1日(水曜日)曇りのち晴れ。29℃~22℃。降水確率40%。湿度81%(8:25)。北西のち南東の風1~4m/s。
午後13:30から運転免許証更新のための高齢者講習と認知症テストを『宮崎ドライビングスクール』に自転車で行く。認知症テスト、高齢者講習共に合格。17:00終了。17:20帰宅。お宮さんにポストカード投函。国勢調査の封書投函。
gooブログは当『アメブロ』に引っ越しをしました。
https://ameblo.jp/arrabida/ 武本比登志『端布画布』
https://ameblo.jp/takemotomutsukoie/ 武本睦子『ポルトガルのえんとつ』
ポルトガル淡彩スケッチ番号、油彩番号はgooブログから引き継いでいます。
2025年9月30日(火曜日)晴れ時々曇り。27℃~21℃。降水確率10%。湿度84%(8:39)。北のち東の風0~4m/s。
蚊取り線香を2本点けて庭のニラ採取。
https://ameblo.jp/arrabida/ 武本比登志『端布画布』
https://ameblo.jp/takemotomutsukoie/ 武本睦子『ポルトガルのえんとつ』
『スキヤキ』などとカタカナで書いたなら、坂本九の『スキヤキソング』を思い浮かべる。『上を向いて歩こう』の英語名だ。
スキヤキは漢字では『鋤焼き』と書くが、一般的にはあまり漢字は使わないで『すき焼き』などと書く。鋤は農具の鋤であるらしいが、語源にもう一つ、納得が行かないからか、漢字が難しすぎるからか一般的にはあまり使われないのだろう。

『武本比登志の油彩F30』画像と本文は関係ありません。
僕たちの世代にとって子供の頃はやはり『すき焼き』はご馳走であった。肉がご馳走であったのだろう。でも僕は肉よりも端役の『麩』が一番好きな子供であった。母が「今夜はすき焼きやで~」などと言うと、僕は真っ先に麩を水に浸す手伝いをしたりもした。
すき焼きは家族で、(火にかけた、と言ってもその当時カセットコンロなどはまだない時代で、ゴムホースを引っ張って来て、ガスコンロに乗せた)すき焼き鍋を囲みながら肉やネギ、シュンギク、白菜などと共に、砂糖を足したり、醤油や味りんを足したり、又、水を加えたりするのだが、甘くなりすぎたら、醤油を加え、味が濃くなりすぎたなら水を加えるのだが、水の代わりに水を沁み込ませた麩を入れたり、シラタキや野菜を入れて調節をしたりもする。
僕が未だ幼少の頃、わが家では豚肉ですき焼きをすることも多くあった。父が牛肉よりも豚肉が好きだったのか、豚肉の方が安価だからか、それは今では判らないがたぶん後者だ。
台所の隣の3畳のお茶の間に丸い折り畳みが出来るちゃぶ台があった。そこで家族全員で食事をしていたのだ。そのちゃぶ台の真ん中にガスコンロが設置された。それに重い鉄のすき焼き鍋が乗せられ、火が点けられ先ず豚肉が入れられる。豚肉を入れるのは父の役目であった。
「油が飛び散って、顔に当たったら熱いから端に下がっときや~。」などと父は子供たちに言う。僕たちは3畳のお茶の間の壁いっぱいまで下がり、座布団などでガードして、父の動作を見守る。未だテレビなどのなかった時代だ。すき焼きが出来上がると、父は酒を呑みながら子供たちがすき焼きをほおばるのを見守っていて、自分ではあまり箸はすすんではいなかった。と言う印象がある。
思い出すのは東京芸術大学に見学に行った時、遠い昔1967年頃の話だが、その学生食堂で昼食を摂った。忘れもしない『すき焼き定食』であった。幾らであったかは忘れてしまったが、学生食堂なので安かったことだけは覚えている。もう一度東京芸術大学に来たら、又、食べたいと思ったし、それに僕にとっては珍しかったことは確かだ。校庭では空手部が空手の型のデモンストレーションをしていて、それも珍しかった。
2度目に行ったのは入試の時で昼食はどうしたのかは覚えていない。いつも通りの様にはデッサンが描けなくて焦っていたのだけは覚えている。それ以来残念ながら東京芸術大学の門をくぐったことはない。
スウェーデンに住んでいる頃、1971~1974年頃にはよく『すき焼き』をした。日本人の友人たちが集まればすき焼きにすることが多かった。
もちろんビールなどのアルコールが入る。すき焼き鍋(と言ってもすき焼き鍋はないから普通の鍋)を囲みながら誰でもが勝手に肉を入れたり、野菜を入れたり、だが残念ながらコンニャク、シラタキ、豆腐、それに麩などはなかった。肉とネギ、白菜だけが主な具ではあったと思うが、それでもすき焼きであった。
肉や野菜だけではなく、誰でもが砂糖を入れたり、醤油を足したり、水を足したりもする。ある程度酔っ払いながら「これちょっと甘すぎるのと違うか?」と言いながら醤油を足す。すぐさま「これ辛いな~」と言っては砂糖を足す。また誰彼ともなく水を足す。
実は皆、日本人には違いないのだけれど故郷によって舌の違いがあるのだ。関東の人と関西の人では随分と味覚に違いがある。
僕たちがスウェーデンを去る時にパーティをした。すき焼きの材料を大量にそろえて、当時の日本レストランのコックであった友人が調理を担当してくれた。皆ですき焼き鍋を囲むのではなく、紙のお皿にご飯と共に盛り付けたワンプレート定食方式にしてくれた。余りにも来客が多すぎたのだ。スウェーデン人の友人たちも多かったが皆が美味しいと喜んでくれた。
スウェーデン語の先生は「デザート以外の食べ物に砂糖を使うのは世界広しと言えども、日本とスウェーデンだけです。」と言っていたのを憶えているが、本当だろうか?」尤もスウェーデン語の先生は語学の専門家だが料理の専門家ではないので疑いの余地はある。
パリでも友人宅ですき焼きパーティがあった。日本人が大勢集まった。僕は下ごしらえから手伝っていた。その友人の家主はパリジェンヌでたまたまその父親が遊びに来ていたのだが、パーティが始まる前に帰ってしまうと言うのでその家主は「父親の為にスキヤキを1人前だけ先に作ってくれませんか」と言う。僕はすき焼きなどは皆で鍋を囲む物で1人前だけなどは出来ないだろうと思ったが、その友人は「はい、いいですよ」と言って1人前だけ作って家主の父親に振舞った。まさに東京芸術大学学食の『すき焼き定食』或いはスウェーデンでのさよならパーティ時のワンプレートすき焼きの如しであった。
当時は坂本九のスキヤキソングが流行った直後の頃で世界中の人が『スキヤキ』とは如何なるものかと興味を持っていた時代だ。
その後、僕はニューヨークでマクロバイオティックのコックをした。肉も砂糖もご法度である。ニューヨークに居た1年間だけではなく、それからはあまり肉類は食べなくなった。砂糖も殆ど摂らなくなった。それ程厳格なマクロバイオティック主義者ではないけれど、どちらかと言うと菜食主義的な傾向にある。それに今も玄米を食べ、豆乳を飲んでいる。マクロバイオティックでの甘味はアップルジュースや天然の干し果物などから摂ることが多いが、その方が旨いと思う。
先日の大阪芸術大学美術科4期生同窓会に高校時代からの親友、米吉にも来て貰った。米吉はカカオの効能についての持論があり、周りの人たちに吹聴する。その時は砂糖の害悪についても述べ始めていた。(米吉はマクロバイオティック主義者ではなかったと思うのだが)それに対して同級生のK君が「砂糖は人間には欠かせない栄養素が詰まっている、必要な食品だ。」と反論した。そんな時に、主催者からデザートとしての『大学芋』が回って来た。米吉も1個手にした。K君は「大学芋は砂糖がたっぷり使ってあるやないか。それを君は食べるのか。」と勝ち誇ったように言い放った。米吉は「俺は他人には厳しく言うけれど自分自身に甘いねん」。横で聞いていた僕は大学芋をほおばりながら笑ってしまった。
『すき焼き』は我が家で先日、何年振りかにした。すき焼き鍋に赤さびが来ていて、先ず、錆を金だわしで洗い落としてから使った。カセットコンロもガスボンベも30年以上以前からあるものを使ったが立派に使うことが出来た。牛肉と白菜、春菊と豆腐にシラタキ、エノキタケも入ったが残念ながら麩の買い置きはなかった。
現代人は肉を食べるのなら、すき焼きなどよりも焼き肉の方が一般的なのかも知れない。或いはハンバーグやステーキ、牛丼なども手軽に食べられる。我が家では焼き肉はしたことがないし、ハンバーグもしたことがない。ホットプレートなるものもないのだ。外食でも焼き肉やステーキ、牛丼はあまり食べたことがない。そういえば最近は『かつ丼』を時々食べる。温泉の食堂には刺身の盛り合わせとチキン南蛮がセットされている定食がありそれをよく注文する。
先日我が家に来客があった。部屋を渡るのに腰を屈めなければならない位に身長が高かった。聞いてみると元バレーボールの選手だったそうで193センチだそうだ。何を食べたらそれ程にも大きくなったのかを聞いてみたかったが、聞かなかった。
日本人も大きくなったものだ。我々にはもはや手遅れだが食生活が大いに影響がありそうだ。

武本比登志の油彩F30(画像と文章は関係がありません)
ポルトガルに居ても、日本で個展をするために、毎年2~3か月は帰国をしていたし、国内外の旅行も多かったので、とても犬や猫を飼うことが出来ると言う環境ではなかった。いや、犬や猫だけではなく観葉植物などでさえ育てることは出来なかった。
ポルトガルでの34年間はそういったものから無縁の生活であったのだ。
MUZなどは、ポルトガルで他人が犬の散歩をさせているのを見ながら「いいな~。羨ましいな~」などといつも言っていた。
住んでいたマンションのお向かいのローマンさんの家では2頭の小型犬を飼っていたし、わが家の二つ下のジョアキムさんの家でも猫を飼っていた。その猫は時折廊下で自由にさせていたものだから、隙あらば我が家に入り込もうとしたりしていた。猫が好む匂いがしていたのかも知れない。
海外に住んでいても最初のスウェーデンの終盤では我が家でも猫を飼っていた。
スウェーデン人の友人の友人宅で猫が生まれたのでいらないか?と言われたとのことでMUZが貰って来て、飼ってみたのだが、猫を飼ったのはその時の1度だけだ。
グレーの雉猫で未だ子猫だったが『次郎吉』と名付けた。我々は2人とも外で仕事をしていたものだから殆どは次郎吉1匹が家で留守番だ。仕事から家に帰って鍵を開けようとすると、遠くの部屋から、たたた、たたたっと玄関に走って来る可愛い足音が聞こえる。余程寂しかったに違いない。
それでも散歩に連れ出したこともないし、家の中だけで飼っていた。スウェーデンでは猫に猫用のリードを付けて散歩をしている姿をよく見かけたし、ウサギでもその様にしていたのを時折見かけた。
建物は大きなマンションの学生寮で我が家は確か4階だったと記憶している。学生寮と言っても、日本では考えられない夫婦や子供の居る家族用で、階下には住民なら自由に使える、卓球場や共同ランドリーやサウナもあった。
次郎吉は4階のベランダの手すりに乗って外を眺めるのが好きだった。猫と言へども落ちたりしたらひとたまりもない。危険だから止めさせようとしたが、次郎吉は聞かなかった。
そしてある日、案の定転落してしまった。見当たらないので下を見ると植込みのところでうずくまっていた。足の骨を折ってしまったのだ。
動物病院へ連れて行き治療をして貰った。ギブスを嵌められ頭にはプラスティックのバケツの底を抜いた様なものが被せられた。次郎吉は情けない顔をしていた。何度か病院へ通って完治した。
スカンジナビア半島の最北端ノードカップまで旅行した。クルマだから次郎吉を連れて行っても良いかなと思ったが、日本人の友人が留守番をしてくれると言うことになったのでお願いをした。次郎吉の餌やりと観葉植物の水遣りである。
ノードカップから帰って来ると次郎吉は居なかった。再び4階のベランダから遁走したのである。僕たちが出発して間もなくのことであったらしい。友人はあちこち探し回ったとのことであるが、見つからなかった。
宮崎の我が家のお隣でも猫を飼っている。たいていは自由にさせている様で、わが家の敷地内にも入ってくる様だし、目の前を横切ったりもするが、ある程度の距離をとって、近づこうとはしない。僕に警戒心を持っている顔つきだ。
ポルトガルに住む前の宮崎では大きな敷地に住んでいて、複数の犬を飼っていた。ポメラニアンの老犬『メリーさん』も居たし、どこからかやって来た雑種犬がたくさんの子犬を生んだ。雄たちは皆引き取られていったのだが、雌1頭が残った。黒白茶色の三毛だから犬なのだけれど『ミケーニャ』と名付けた。紀州犬の雑種も何処からか来て居ついていた。白かったので『ブランコ』と呼んだ。
徳島の友人宅で血統書付きの柴犬に子犬が産まれて、そのうちの1頭だけ貰い手がなかったそうで僕が貰うことにした。僕がメリーさんを散歩させているのを見て、その友人は「似合わない」と笑って柴犬を勧めた。クルマで大阪からの帰り徳島に寄って陸路とフェリーの長旅をして連れて帰った。長旅でクルマに酔ったらしくて、宮崎に着いても寝てばかりであったので『スリーピー』と名付けた。
『アギラ』と呼んでいた猟犬も居たこともある。メリーさん以外は全てMUZが名付け親であった
『アギラ』はある日、繋いでいた鎖から居なくなっていた。元の飼い主が連れて行ったのかも知れない。『メリーさん』と『スリーピー』は寿命を全うし、僕の手で埋葬をした。『ブランコ』はポルトガル移住を決めてから、鶏舎の番犬にと友人が引き取ってくれた。『ミケーニャ』は僕たちがポルトガルへ移住するのを察知してか、その寸前に姿を消した。不思議なことが多い犬であった。どれも家族の一員で思い出は深い。
34年間のポルトガル暮しを終え、もう宮崎に定住なのだから、猫でも犬でも飼おうと思えば飼うことはできる。
でも何だか他人が犬の散歩をしているのを見ても、羨ましいとも思わないし、MUZも飼いたいとは今のところ言わない。
猫や犬どころか、観葉植物を育てたいとも言わないし、大淀川の河川敷を散歩の途中、蟹の姿を見つけては、それだけで満足している様にも思う。
お隣の猫が一定の距離をとり目の前を横切って、僕に対して警戒心露わに睨みつけて過ぎ去っていくのを、僕は心の中で「ネズミを獲れよ~」などと言いながら、楽しんで睨み返している。VIT
年号が令和となって7年目だそうだ。早過ぎる。歳をとる筈だ。
『令和』と年号が改められた時、7年前は一時帰国中であった。
「本日、12:00より菅官房長官が新しい年号を発表します」とニュースが伝えていた。2019年4月1日だったと思う。コロナ禍(COVID19)より前だ。

「武本比登志油彩」画像と本文は関係ありません。
一時帰国中の楽しみとしての温泉。その温泉行きのバス、宮交シティ12:35発に乗るために自宅は11:35頃に出発したので、菅官房長官の発表は見ることが出来なかった。
青島自然休養村センター『このはなの湯』に着いて先ず食堂に入り、豚ロースの生姜焼き定食を2つ注文した。食堂には大画面のテレビがある。生姜焼き定食を注文しながら食堂の小母さんに「年号は何となりましたか?」と尋ねた。小母さんは「レイワ」と応えられた。「どんな字ですか」とも聞いた。「ゼロの令に昭和の和です」とのことだった。ほんの先日のことのように思うが、あれから7年である。
平成31年(2019)5月1日から元号が令和となり、平成という一つの時代に終止符が打たれた。天皇ご自身のご希望での生前退位で天皇は上皇となられ、美智子さまは上皇后となられた。
その頃にはもうポルトガルに戻っていた。
平成は31年までであるから、平成の殆どをポルトガルで暮らしたことになる。
海外に居る時には西暦は判るのだが、和暦がなかなか判らなくて、ネットなどでわざわざ調べたりもしていた。
一時帰国中に何かに書き込む時、和暦で書かなければならないことが多くある。いちいち尋ねなければならなかった。
海外に住み始めてからは、丁度、年末年始頃に日本に居なければカレンダーがなかなか手に入らなくて不便をしていた。ポルトガルでは露店市などでも売られてはいるが、お粗末なものが殆どでわざわざ買う気もしなかった。
高校美術部の同級生が人気のイラストレーターをやっていて、繊維企業、電力会社、銀行などのカレンダーに毎年のように使われていて本人からポルトガルまで送ってくれたことも何度かある。
でもそんなカレンダーには勿体なくてメモなどを書き込むことが出来ない。同級生の作品なのだから。
ポルトガルには無料で頂けるカレンダーなどは日本の様には作られていないような気がする。いや、年末頃に中華レストランにでも行けば、もらえることも何回かあった。でも見難い物が多かったし、メモなど書き込むことも出来ない変に凝った物もあった。
それで毎年、手書きのカレンダーを作って使っていた。
昨年、後半に作ったカレンダーは何だか変なのだが暫くは自分でも気が付かなかった。予定を書き込むのに辻褄があわないのだ。よくよく見てみると1週間が6日になっていたのだ。余程慌てて作ったのだ。
そういえば、もう50年以上も昔の話になってしまうが、西岡たかしさんのお宅にたびたびお邪魔していた。西岡たかしさんの仕事場には水彩で描かれた、西岡さんお手製のカレンダーが壁に貼られていて「いいな」と感心していた。今でもその色彩、温かみのある筆使いなどを鮮明に憶えている。
50年以上も経ってそれを真似たわけではないが、僕の場合は仕方なく手書きしたのだ。
昨秋、34年間暮らしたポルトガルから2024年の9月に引き揚げ帰国を果たした。
久しぶりに過ごす日本での年末年始だ。
今年のカレンダーは100均でも買っていたのだが、その他にもたっぷりと手に入った。
寝室にも、パソコンルームにも、食堂にもアトリエにも廊下にも玄関ドアにも貼っている。
今時のカレンダーには親切に西暦と和暦が併記されている。2025年と令和7年の他に昭和100年と平成37年などと併記されているカレンダーも複数あった。
和暦年号は『大化』から『平成』までで247個。『令和』は248個目だそうである。
始まった頃には1~2年。或いは4~5年で目まぐるしく年号が替わっている。江戸時代までは生前退位が普通に行われていたらしい。
何しろ248個であるから、殆どの年号は知らない。
最初は飛鳥時代の『大化』(645~650)。
日本で初めて貨幣が作られた、和銅開珎の『和同』(708~715)。
天正遣欧少年使節団がポルトガル経由でローマ法王謁見に出発したのが天正10年で、『天正』は(1573~1593)。戻って来たのは天正18年であった。
関ヶ原の戦いがあった、『慶長』(1596~1615)。
島原の乱の、『寛永』(1624~1645)。
そして『元禄』(1688~1704)『享保』(1716~1736)『文久』(1861~1864)『元治』(1864~1865)『慶応』(1865~1868)などと続き。
『明治』(1868~1912)、『大正』(1912~1926)。
『昭和』(1926年12月25日~1989年1月7日)。『平成』(1989年1月8日~2019年4月30日)。そして『令和』となる。
日本の元号のうち最長は62年間使われた『昭和』。次いで40年以上続いた『明治』。室町時代に30年以上続いた『応永』、そして『平成』は4番目の長さだそうだ。
僕が未だ小学生の低学年の頃、昭和30年頃の話だが、クラスメートが言っていた言葉を思い出している。
「昭和の次は何となるか知ってるか?『平和』やど。」とそのクラスメートは得意げに話していた。僕たちは「そんな直接的な年号にはならへんやろ」と返していた。
それから70年程の年月が経過したことになる。
実際には昭和の次は『平成』となり、その次は『令和』となった。
やはり『平和』とはならなかったが、平成と令和の一文字ずつを取ると『平和』となるではないか。
小学生低学年の頃、そのクラスメートが言っていたのは当たらずとも遠からず。であるかな?。
明けましておめでとうございます。
ポルトガルでは運動不足解消のため毎週日曜日に開かれる露店市歩きを楽しんでいた。

『武本比登志油彩作品F30』本文とは関係ありません。
絨毯通り。工具通り。靴屋通り。衣類通り。家具通り。生地屋。帽子屋。バッグ屋。アクセサリー屋。荒物屋。それにチーズ屋。バカラウ屋。八百屋。パン屋。飴屋。アーモンドやクルミなどのナッツ屋。カセット屋。カナリアやインコなど観賞用の鳥。鶏、アヒル、七面鳥など食用の鳥。それらの鳥の雛。ペットとしてのウサギ。食用のウサギ。観葉植物や花の苗。野菜の苗などなど。珍しいのはワインを仕込む道具屋。アグアデンテ(蒸留酒)を仕込む道具屋。蜂蜜の道具屋。それに馬具屋と何でも揃う。何も買う当てもないのだが、見て歩くだけでも2~3時間は歩くことになり、知らず知らずに運動になる。
第1日曜日はアゼイタオン。第2はピニャル・ノヴォ。第3はコイナ。そして第4はモイタで全てセトゥーバル半島内。数えたことも聞いたこともないが、300店舗程はあるだろうか。出店している人はほぼ同じだが、少しずつは変化もあり飽きることはなかった。
食堂も沢山が出ていて、フランゴ(鶏)の炭火焼きかエントレメアーダ(豚の三枚肉)のサンドイッチ。たまにはショコフリット(大モンゴイカの唐揚げ)そして具沢山のソッパ(スープ)。露店市の昼食も楽しみのひとつだった。馴染みの店のジョアンはいろいろと親切にしてくれた。
日本に帰って来て、残念ながら露店市歩きはない。
運動不足解消には歩くことが一番だと思っている。近くのスーパーまで歩いて行っても距離は知れているのであまり運動にはならない。
我が家から大淀川の河川敷迄3分の距離だ。3分の距離だがその河川敷が広い。そこを歩けば運動にはなる。河川敷には6面ほどのソフトボール場。やはり6面ほどのサッカー場。それにゲートボール場などもある広い河川敷だ。

河川敷サッカー場と『赤江大橋』の橋桁
夕方には少年野球チームや少年少女サッカーチームたちが本格的なユニフォームを着て練習をする。指導者もいる。友だち同士で自転車を漕いで来る少年少女も居るが、駐車場もあり父兄たちが送り迎えもする。ずいぶん遠くからもやってくる様だ。練習だけではなく試合が行われることもある。
野球やサッカーだけではなく、勿論、1人でもくもくとジョギングをやっている人も居るし、しっかり手を振って大股で歩くことをしている人。犬の散歩の人も居る。本格的な格好ではなくてもボール蹴り楽しんでいる親子。凧揚げを楽しんでいる家族。水際では釣りを楽しんでいる人も居る。思い思いに河川敷を利用しているようだが、ゴルフとスケボー、そしてバーベキューは禁止だそうだ。
川にはたぶんボラだろうと思うが大小沢山の魚影が見える。蟹の姿もある。MUZは捕まえたそうにしている。味噌が詰まっていそうだ。
今の時期はカイツブリや様々な鴨、そしてバン。カモメも居るし鵜も居る。

鵜が群れて杭に並んでいる。
ベンチもあり日向ぼっこでも気持ちが良いが、そこを我々も歩くことにした。ゆっくりだ。こんな寒い時期でも花が咲いていたりする。名前は知らない。季節外れのスミレも咲いている。

無残にも踏まれた浜大根の葉
野生の大根、浜大根が葉を広げている。歩道沿いのは無残にも踏まれていたりするが、それでも枯れたりはしない。春には大きく成長して、淡い桃色から白色の花を可憐に咲かせているのを毎年見ていた。

これは2011年3月大淀川河川敷で撮影の浜大根の群生

浜大根の花
今の時期には花はないが少しばかり芽を出しているといった状態だ。散歩の途中、抜いてみた。土が柔らかいので簡単に抜くことが出来る。小さな大根が付いている。せっかく抜いたのだから持ち帰った。

持ち帰ってきれいに洗って一晩干し、糠漬けにしてみた。
帰国して1か月程した頃から糠漬けを作りだした。近くの『まえだストア』で糠が売られていたからだ。
僕は若い頃から糠漬けは作っていた。いや、切らしたことがない。
東京で18歳時の浪人中一人暮らしで自炊をしていた。共同の台所で糠漬けも作った。種糠は大阪から母が持たせてくれた。
結婚後、ストックホルムに暮らした時にも糠漬けを作った。尤も糠は手に入らなかったので、パンの耳などで代用した。上手く出来た。
海外に住んでいると、日本では決してやらないことまでもやりたくなるものだ。
例えば『豆腐造り』『味噌作り』『納豆作り』『魚醤油作り』、イカのげそとワタ(内臓)で『塩辛』を作ったり、魚を磨り潰して『はんぺんてんぷら』に挑戦したりもしたし、梅の代わりにプラムを使っての『梅干し』を作った。プランターで紫蘇も育てた。
糠漬けはニューヨークでも作った。調理師の専門家から「旨く出来ている」と褒めてもらったこともある。
勿論、ポルトガルではずっと作っていた。パンの耳での糠漬けだ。
帰国して本当に久しぶり、何十年ぶり、本物の糠を使っての糠漬けである。ようやく塩が馴染みはじめたところだ。
それに大淀川の河川敷で引っこ抜いて来た野生の大根苗を漬けてみた。

浜大根の古漬け
浅漬けではなく、古漬け気味迄漬け込んでみた。
葉っぱも根っこも小さく刻んで、玄米ご飯に混ぜて食べた。旨い。

玄米ご飯に浜大根の菜飯
玄米ご飯に納豆を掛け、生卵を落とし、小さく刻んだ古漬け浜大根菜を混ぜた。これも旨い。

玄米ご飯に納豆卵掛け菜飯
このところ野菜が値上がりして糠漬け用までは回らない。どうしても未だポルトガルの値段と比較してしまうが野菜、果物の高いのに驚く。いや、野菜、果物だけではなく、肉、魚、米、タマゴ、牛乳、電気、ガス、水道など全ての物価が高い。
散歩の途中、無料の浜大根を毎日1本ずつ引っこ抜いてくることに嵌ってしまいそうだ。VIT

ハマダイコン(浜大根、学名: Raphanus sativus var. hortensis f. raphanistroides)アブラナ科ダイコン属の越年草。別名、ホソダイコン、ノダイコン、イソダイコンともよばれる。中国名は藍花子。野菜のダイコンよりも葉や根は硬く、強い辛味と香りを有し、同様に食用にすることができる。ビタミンCや食物繊維が豊富に含まれ、カリウムやカルシウムのミネラルも豊富に含まれていて、消化作用があり、胸やけに薬効があると言われている。(Wikipediaより)

11月26日にようやくインターネットが繋がりました。ポルトガルを引き上げたのが9月24日。それからの2か月間は何となくボケっと過ごしていた様な、忙しく過ごしていた様な、地に足が着いていなかった様な、訳の分からない夢の様な時期を過ごしていた様な、でも夢ではなく現実。その間、帰国後1か月が過ぎたところではたと思いつき、友人知人たちに帰国報告のハガキをお送りしました。宛名不明で戻って来たのも10通ほどがありました。ここにその文面を書いてみたいと思います。

『ご無沙汰しております。お元気ですか。当方は二人ともなんとかやっています。実はこの2024年9月24日に帰国しました。1990年9月16日から暮らしたポルトガルから引き揚げ完全帰国を果たしました。もうポルトガルには戻りません。
ポルトガルに移住した1990年当初には5年も住めれば良いかなと思っていましたが、5年が10年、10年が20年、気が付けば34年です。
10年ほど住んだ頃から70歳くらいになれば帰国しようかなとは漠然と思い始めていましたが、その帰国をするべき頃からコロナ禍でした。でもコロナ禍で自宅に閉じ籠りの生活に実は快適さを感じていましたし、私たちが老人と言われる世代の仲間入りをしたのと同時にコロナ禍でのセトゥーバルの人々の思いがけぬ親切にも多々触れることにもなり帰国は遠のいた感は否めません。ますますセトゥーバルでの生活が気に入ってしまったのです。
でも今の年齢を考えると、健康に自分の足で歩けるうちに帰国するのなら今しかないとも考え、一念発起して、急遽帰国の道を選びました。この歳になっての帰国(引っ越し)は想像以上に大変なものでした。そしてそれでも何とか帰って来ました。
心残りなのはポルトガルでの油彩は完成には至っていませんし、淡彩スケッチのブログも3403景で中断したままです。
セトゥーバルでの生活と宮崎の生活のあまりにもの違いに戸惑いも感じていますが何とか始動しています。油彩100号も描き始めました。
34年間のセトゥーバルでの生活で溜りに溜まったゴミは殆どを捨てましたが、それでもどうしても捨てきれないゴミは段ボール箱20個分にもなり、仕方なく船便で送りました。それが1月頃には到着する予定です。狭い宮崎の自宅にどのように収納するのかが今からの課題です。
今は時差ボケがそのまま慢性化した如く気分ですが、一刻も早く宮崎の気候、気圧に慣れていきたいと思っています。今後とも変わりませぬよう、お付き合いの程をお願い申し上げます。』
このはがきを郵送してからさらに1か月が過ぎました。宛先不明で戻って来たハガキもありますが、お返事を下さった方もありますし、電話を下さった方も、都城から会いに来てくださった方、そして大阪からわざわざ飛行機に乗って会いに来て下さった方も居て、それぞれ恐縮しています。
暑すぎる秋を過ごし、急に冬がやって来ました。宮崎にずっとお住いの方も戸惑っておられるようですが、我々にとっては尚更です。インターネットも繋がり、昨日は新車が我が家にやって来ました。でもいまだに、どこからどう手を付けて良いのやら、何だか宇宙遊泳をしているが如く、地に足が着いていません。 武本比登志