このところ早朝6:30にバイクの音で目が覚める。

 通勤にバイクを使い始めたのだろう。下のガレージから軽やかなセルモーターの音が立ち昇ってくる。

朝日を受けて下のガレージから2人乗りで出発するバイク。(南のベランダから撮影)

 我が家は日本式に言えば4階だが、裏側は5階の高さがある。玄関横から急勾配の坂道を下れば裏手には棟割り10軒のガレージがある。その内の一軒の持ち主が最近バイクを購入したのだろう。クルマからバイクに乗り換えたのか、或いはクルマは路上に駐車してガレージはバイク用に使い始めたのかもしれない。

 スマホの目覚ましが鳴る前にバイクの音で目が覚める。いや、以前から目覚ましが鳴る前にメルローの歌声で目が覚めていたのだが、バイクの音がそれに加わった。

 決して騒音という訳ではなく心地よいセルモーター音だ。

 休日には後ろに奥さんを乗せて出かける。いや、知らないが、たぶん奥さんだろう。

 隣の棟の玄関先にも3台ものバイクが駐車されている。これも最近だ。

隣棟の玄関先に駐車してある2台のバイク(北のベランダから撮影)

 そういえばポルトガルではこのところバイクが増えているような気がする。それも大型の高級車ばかりが目立つ。

 国道10号線を走っていても多くのバイクが追い越してゆく。

 自転車も増えているのだが、バイクも増えている。

 自転車は僕の方が追い越すのだがバイクは僕を追い越してゆく。

 先日はポルトガルテレビで北のシャーベスから南のアルガルヴェまで数百台ものバイクが何かを訴えながら走破するニュースがあった。その肝心の訴えは何かを忘れてしまった。

 毎年、アルガルヴェには全国から或いはスペインやドイツあたりからも数千台のバイクが集結して話題になる。

 クリスマス時期にはサンタクロースの衣装を着たバイク数百台が我が家の下のノッサ・セニョーラ・ド・カルモ通りにも姿を見せる。

 昨日も隣のホテルから9台のバイクが出発していた。何処から来たのか、どこまで行くのかは知らないが本格的ないでたちで、その内の3台は2人乗りであった。

朝日を背にホテルを出発する4台のバイク(2023年7月1日8:30北のベランダから撮影)

 僕も若い頃はバイクに乗っていた。

 友人から貰った50ccのスポーツカブを暫く乗った後、大阪から東京まで走破し、返しに行ったこともあった。

 西岡たかしさんからホンダCD250を練習用にお借りし、かなりの期間乗っていた。

 西岡さんはその後、ハーレーマニアになっておられた。

 ハーレーもいいが、僕には似合わない。どちらかと言えばヨーロッパ車のトライアンフなどが好みだ。

 『大脱走』でスティーヴ・マックイーンがバイクで逃走する姿は憧れの的だ。ピーター・フォンダの『イージー・ライダー』もあった。

 いや、最近の映画でも多くの俳優のバイクシーンがある。『ターミネーター』の中でのアーノルド・シュワルツェネッガーはハーレーが似合うし、『エリン・ブロコヴィッチ』の中でのアーロン・エッカートのハーレーもいい。映画『ボディ・ターゲット』でジャン・クロード・ヴァン・ダムが古いトライアンフを自分でオーバーホールして乗る姿は良かった。オルガ・キュリレンコ『ザ・クーリエ』のバイクテクニックには驚かされるが、多分、スタントの姿なのだろう。ヘルメットを被れば誰だかわからない。メグ・ライアンの『恋におぼれて』のバイク姿もいい。

 僕はかつてサイドカー付きに乗りたかったのだが、運転が難しいと言われたので、悩んだ挙句ホンダの単車CB750にした。いわゆるナナハンである。

 それで九州中を走り回ったし、宮崎から四国の足摺岬、室戸岬を回って大阪のグループ展の出品に行ったこともあった。今はそんな体力は到底ないし、もう随分とバイクには乗っていない。

 だいいち、今年の帰国時に大型自動二輪免許は返上してしまった。

 大型自動二輪免許だけではなく、大型車(トラック、バスなど)、牽引(トレーラーなど)、大型特殊(ブルドーザー、ショベルカーなど)、など2種免許以外は全ての免許も持っていたのだが、普通車以外はすべて返上してしまった。

 免許試験場の試験官氏は「勿体ないな~」と言われたが、普通車以外は乗らないのだから無駄だと思ったのだ。

 でもやはり勿体なかったかな。取得する時には何日も試験場に通い、何度も不合格になりで結構苦労もしたし、持っているだけでいつでも乗れるという豊かな気分になれるのだから。 

 そしてバイクに追い越される度に、その後姿を羨望の目で見送っている。武本比登志

 

 

 

 赤い鉄瓶を買った。黒いのと二つ並んでいたが黒いのはひと回り小さく、同じ価格なので赤い方を買った。それでも600cc入りと小さい。鉄瓶というより急須程度のサイズだ。でも2人家族なのでこれで丁度良い。

 老人になるとカルシュームやビタミン、鉄分などいろいろと不足気味になる。鉄瓶でお湯を沸かせば少しは鉄分の補給になるのかも知れないと思い、鉄瓶を買った。

 実は以前にセトゥーバル郊外のアトランティックシティ内のインテリアショップで鉄瓶を見ていた。西洋梨をもっと押し潰した様な可愛い形で粉を拭いた緑青色をしていた。1種類だけだが幾つかの在庫があった。店員に値段を聞いてみると20ユーロだという。安いと思ったがその時は買わなかった。

 それから数年が経っているが、未だあるかも知れないと思いたち行ってみた。丹念に探したがその店に鉄瓶はなかった。仏像の頭部や造花の盆栽はあったが、鉄瓶はなかった。

 同じアトランティックシティ内にもう1軒インテリアショップがある。以前は『ボーラ』という名前だったが『フォーマ』と名前が代わっていた。『ボーラ』の時にはキッチンタイマーなど幾つかを買ったことがある。

 名前は『フォーマ』に代わっても店内はほとんど同じでインテリア用品、寝室用具、バスルーム用品、キッチン用品、それにガーデン用品などが迷路のような配置になっている。

 キッチン用品のコーナーでは丹念に目を凝らして探した。キッチン用品の棚の下段に小さい黒い鉄瓶を見つけた。執念で見つけたのだ。赤いのと2種類があった。同じデザインだが、赤い方が一回り大きい。鉄瓶はやはり黒がいい。黒がいいが、同じ値段ならと、かなり考えた挙句、ひと回り大きい赤いのを買った。以前に見ていた20ユーロより更に安い17,99ユーロだった。

 日本でも鉄瓶など滅多に見かけない。それに南部鉄瓶など結構な値段がする筈だ。

 ずっしりと重いのを、持って帰って見てみると日本製でもなく中国製でもなく何とフランス製だ。そういえばフランスを旅行中にショーウインドウで何度か鉄瓶をみた。てっきり日本の南部鉄瓶を輸入したのだと思っていたが、南部鉄瓶を真似たフランス製だったのかもしれない。

 さっそくお湯を沸かしてみた。沸騰させても取っ手も蓋の摘みも熱くならないので使い勝手が良い。なかなか良い買い物をしたものだと満足してぐっすり眠った。

 翌朝、再びお湯を沸かした。よく見てみるとほんの少し縦に亀裂が走っている様だ。外側に1センチ程だが内側には2センチ程が入っていた。これは取り替えてもらう必要がある。

 午後からアトランティックシティに出かけた。『フォーマ』に入り、レジのところで「昨日これを買いましたが、少し亀裂が入っている様なので取り替えて下さい。」と言ってみた。店員は愛想よくその鉄瓶がある場所まで道案内し「箱から出して別のを自由にお選びください」と言った。店内は迷路のように複雑に入り込んでいて、店員は近道を案内してくれたのだ。そして新しい同じ型の鉄瓶を選び持って帰った。

 お湯を沸かすのにも珈琲を淹れるのにも使うことにした。

 赤ではどうかな?と思ったが見れば見るほど気に入り始めている。

 大昔の話だ。1971年。ストックホルムで赤と白のツートンカラーのフォルクスワーゲンマイクロバスを買った。思いっきり古い中古車だった。住んでいた家の近くの路上に『売ります』の張り紙があるクルマであった。売主に電話を掛け中も見せてもらった。「運転してみなさい」というので、助手席に売主を乗せ少し走ってみた。売主はお世辞に「運転が巧いね」と言った。人の良さそうな売主は「私はイタリア人の血も入っているスウェーデン人だが、このクルマには愛着もある。日本車も素晴らしいが、このドイツ車は格別だよ。エンジンも載せ替えたばかりだしね。日本人に買ってもらえるのならこれ以上の幸せはないよ。」とも言った。

これは玩具のミニカーだが、こんな感じ。

 それ以上は深くは考えずに理想のクルマだと飛びついて買った。中にベッドと台所用品を吊り下げる棚を作った。カーテンも付けた。クルマが赤なので棚もカーテンも折り畳み椅子もテーブルも赤にコーディネイトした。

 実はそのクルマに寝泊まりしながらヨーロッパを南下し中東を経由しインドまで行くつもりであった。ソ連がアフガニスタンに侵攻する以前の話だ。イスタンブールでは「一緒にキャラバンを組んでインドまで行かないか」とイギリス人から誘われたこともあった。

 それがヨーロッパももっと見ておきたいという思いからストックホルムに舞い戻ったのだ。

 ストックホルムに住みながら夏休みや冬休みなど、それでヨーロッパ中を4年間で5万キロを走った。

 クルマを買って最初の旅の1972年の春であった。パリのオートキャンピング場に住み、アリアンスフランセーズに通い、毎日帰りには何処かここかの美術館見学をしていた。蚤の市にもよく行った。毎週日曜日に出るヴァンヴの蚤の市は好きな場所であった。そこで赤い珈琲挽きを見つけて買った。赤い車によく似あった。何処にでも駐車し、テーブルと椅子を出し、珈琲挽きでがりがりと珈琲豆を挽きキャンピングガスでお湯を沸かし珈琲を淹れ飲んだ。

 ストックホルムの自宅でも珈琲挽きは活躍した。

 ストックホルムからニューヨークに移住する時に大阪の実家に他の荷物と纏めて珈琲挽きも送った。6年後に実家に帰って見ると母はその珈琲挽きを上手に丁寧に使ってくれていた。

 今は宮崎の自宅にあり、今回の帰国時にも使った。日本で売られている珈琲は粗挽き過ぎてもう少し細かく挽いた方が好みに合う。

 既に50年以上も手元にある赤い珈琲挽きだが、今回、偶然に買った赤い鉄瓶と何だか一緒に使ってみたい気分にもなってきた。でも残念ながら置き場所は、日本の宮崎とポルトガルのセトゥーバルでは遠く離れすぎている。    武本比登志

 

 

 

 

 

 

明けましておめでとうございます。

 パリで道に迷っている夢を見た。

 どこか目的地があってそこに行こうとしているのだが目的地もはっきりとしないし、現在地もはっきりとしない。そして誰かを道案内しようとしている様なのだがその誰かもはっきりとしない。

武本比登志油彩作品F100

 目が覚めてから考えるとパリでは見たことがない場所ばかりで夢の中だけのパリで現実とは違うパリなのだ。

 夢の中では疑いようのないパリなのだが、複雑に入り込んで地図では表すことが出来ない四次元の町並の様だ。デジタル技術で作られたSF映画的なパリと言えるかもしれない。くだらない映画の観すぎなのだろうか。

 やたら幅の広い黒々とした石畳の坂道と、急こう配で滑り落ちそうな階段道だけ。それが縦と横に複雑に絡み合って重くのしかかる。

 そして目覚めるとぐったりと疲れている。そんな同じような夢をこのところ時々見る。

 花の都『パリの空の下』でエディット・ピアフは『ばら色の人生』を歌ったけれど僕の夢のパリには1輪のバラも1片の花びらさえも出てこない。

 でもエディット・ピアフの歌声も決して明るくはない。暗く重い。

 僕の夢のパリは更に暗くさらに重い。

 現実のパリに最初に行ったのは1968年の夏。エディット・ピアフが亡くなってから5年後、ジョルジュ・ルオーが亡くなって10年後、パブロ・ピカソはコート・ダ・ジュールで未だ精力的に制作に励んでいた1968年。大学から美術研修という名目で2週間のヨーロッパ旅行だった。誰もが行くべきところにしか行かない団体旅行なので道に迷いようがない。

 その次は1972年の1月から3月までの3か月間をパリのオートキャンプ場で過ごした。

 ストックホルムでおんぼろのフォルクスワーゲンマイクロバスを買い、何処でも寝られるように簡単な料理も出来る様にと自分で改造をした。

 1971年11月、小雪の舞い始めたストックホルムを出発し凍える冬に、スウェーデン、デンマーク、ドイツ北部、オランダ、ベルギーを網の目の如く、全ての美術館を見逃すことなく2か月をかけてフランスに入った。

 パリで春が来るまで少し落ち着きたいと思ったがパリの住宅事情はそれほど甘くはない。結局、オートキャンプ場でクルマの中での生活を続けざるを得なかった。

 オートキャンプ場からアリアンス・フランセーズ(フランス語学校)にメトロで通った。オートキャンプ場のクルマの中、蠟燭の明かりの下で宿題などもしたが、全く身につかなかった。でもその後の旅では数字だけでも理解できるようになったからか少しは便利になった様な気もする。

 アリアンスの授業が終わってからの帰りには何処かここかの美術館に寄って帰るのを日課としていた。毎日必ず1軒の美術館。パリには大小の美術館は多い。1972年だからポンピドゥーセンター(1977年開館))もオルセー美術館(1986年開館)も未だ誕生していない時代であったが、その頃にも美術館は多くあった。パリ中をカタツムリの如く良く歩いた。よく歩いたがパリで道に迷ったという記憶はない。

 確かにパリの道は日本の碁盤の目の様な町並ではなく放射状になっているから一つ間違えばとんでもないところに行ってしまう。それでも道に迷ったという記憶はない。

 メトロを上がったところのブーランジェリー(パン屋)で1本のパリジャン(フランスパン)を買い、キャンプ場までの道すがらちぎっては口にした。夕食用に買ったパリジャンがオートキャンプ場に着くころには殆ど食べてしまっていた。旨かったのだ。

 その当時、オートキャンプ場はブローニュの森とヴァンサンヌの森にあった。最初はブローニュの森のオートキャンプ場だったのがお正月に1週間閉鎖をすると言うのでヴァンサンヌに移った。それからはずっとヴァンサンヌで過ごした。そこにはロマの人たちも定住していたし、管理人は何と日本人男性で犬とキャンピングカーで暮らしておられた。

 どちらのオートキャンプ場もシャワーなどもありトークン(専用コイン)を入れるとお湯が出てくる仕組みだが水離れした程度のぬるいお湯しか出なくて温まることは出来なかった。キャンプ場には雪も積もった。それでも今から考えると若かったからか苦にはならなかった。

 その当時パリに住む先輩、今、エディット・ピアフを歌っておられるアータンご夫妻からアラジンの石油ストーブをお借りし、クルマの中で炊いた。あれは有り難かった。

 先日、カタールではサッカーワ-ルドカップが行われ、決勝戦はフランス対アルゼンチンであったのは記憶に新しい。アルゼンチンが先行したがぎりぎりでフランスが追いつき3対3のままPK戦にまでもつれ込み、結局アルゼンチンが優勝を飾ったが決勝戦に相応しい見応えのある良い試合であった。マクロン大統領の興奮気味の応援も印象的であったが、その決勝戦の頃からパリでは暴動が起こっていた。

 クルド人コミュニティを標的とした銃撃事件で3人死亡3人が負傷。それに対する抗議行動が暴動にエスカレートしたものだが、これは夢ではなく現実のパリだ。人種差別か宗教対立かは知らないけれど、そういったことは1970年代よりも今の方が世界中で不穏になっている様に思う。

 1972年頃は人種差別や宗教対立よりも、政治に対する抗議行動で、日本でも学生運動が盛んになり校内にバリケードなどが築かれ休講の日が続いた。その頃のパリも同様で、アリアンスの帰りに、ある美術館に行くのに近道をと思って出た所が機動隊と投石用の石を持った学生たちがにらみ合いをしているちょうど真ん中に出てしまったことがある。慌てて後ずさりしたが、あれもパリであった。

 春になり旅を再開した。ロワールの古城めぐりをし、モンサンミッシェルへも行きフランスを順調に南下する筈であった。モンサンミッシェルを堪能した後田舎道で自炊をした。何かの食材にあたったのかMUZが体調を崩した。田舎町の医者は往診中で留守であった。医者の娘が「アンジェまで行けば大学病院があります」と教えてくれた。必死でクルマを走らせ、アンジェの大学病院に緊急入院した。体調は直ぐに回復したものの、検査で1週間の入院を余儀なくされた。

 アンジェにもオートキャンプ場がある筈だと、看護婦さんに尋ねると「病院の庭に泊ればいいんじゃない。」と言われたのでそのまま病院の庭でクルマの中で寝た。看護婦さんはMUZの入院食を2人前持って来てくれたりもした。入院食と言へど立派なフランス料理であった。その時のカリフラワー入りのクリームシチューの味は今でも忘れられない美味しさだった。

 毎日大勢のインターン生を引き連れて教授の回診があった。その内の1人のインターン医学生とも仲良くなった。楽しい思い出だ。

 その後は、スペインの国境を越えフランコ独裁政権下のスペインを旅した。同じ独裁政権下でスペインよりも更に厳しいと言われていたポルトガルには入国せず、ジブラルタル海峡をフェリーに揺られモロッコまでもクルマで旅した。そして再びストックホルムに舞い戻ったのだ。そんな思い出は1972年の話である。

 更に月日は流れ、1990年からはポルトガルに住んで絵を描いている。そして毎年パリのサロン・ドートンヌとル・サロンに出品して来た。幸いなことに落選をした経験はない。100号の出品作を携えて飛行機でパリに行く。作品を預け、展覧会が始まるまでの1週間を何処かここかフランスの地方を旅し、パリに戻って来てヴェルニサージュ(オープニング)に展覧会場に行き自分の出品作を確認してからポルトガルに戻ると言うサイクルで1991年から2010年までの20年を毎年やってきた。

 地方と言ってもフランス全国でノルマンディであったり、ブルターニュであったり、ロレーヌであったり、ブルゴーニュであったり、イル・ド・フランスであったり、プロヴァンスやコート・ダ・ジュールまでにもたびたび足を延ばした。主に画家たちの足跡を辿る旅とした。それはそれぞれの旅日記として書いたが充実した旅でもあった。(下段にもくじ)

 地方に行けばパリは少しだがやはりパリが拠点となり前後最低2泊はパリのホテルに泊まり、その都度パリの美術館にも必ず行く。ホテルもノードやリオン駅周辺であったり、サン・ミッシェルであったりと様々であったが、数えきれない程パリのホテルには泊まった。

 地方には行かないでパリだけの時もあった。そしてパリはよく歩いた。メトロにも市バスにもRERにも乗ったが、よく歩いた。その頃もパリで道に迷ったと言う記憶はない。

 コロナ禍以来、暫くは帰国をしていないのだが、それまでは毎年日本に帰国し、個展やグループ展に出品してきた。最近ではフランクフルト経由やロンドン経由が多いのだが、以前は必ずパリ経由にし、パリのサロンに出品した作品を預かって頂いていたのだがそれを受け取って帰国するようにしていた。その時にもパリは歩いた。

 夢は何故パリでなければならないのかが判らない。

 ローマでもなく、アテネでもなく、ロンドンでもなく、ストックホルムでもなく、アムステルダムでもなく、ブエノスアイレスでもなく、ニューヨークでもなく、大阪でもない。

 夢の中のパリにはエッフェル塔も凱旋門もオペラ座もサクレクールもグランパレもルーブル宮も出てこないし、セーヌの流れもない。現実のパリではないパリなのだ。夢の中だけで作られたパリ。でも他の都市ではなくはっきりとパリなのだ。それが厄介で疲れる。そして重くのしかかり楽しくはない。

 自分だけなら道に迷おうが何をしようが一向に構わないのだが、案内をしようとしている誰だかわからない人が居られるのでよけい焦り疲れる。

 現実のパリは楽しい筈であった。嫌な思い出などこれっぽっちもない。やはり僕にとっては花の都だ。

 このところサロン・ドートンヌにもル・サロンにも出品していない。長らくパリには行っていない。もう行くことはないのかも知れないが、だからと言って今パリに行きたいと言う願望もそれ程はない。

 僕は大阪で生まれ育ち、大阪以外では東京、ストックホルム、ニューヨーク、宮崎などに住んだ。そして1990年からはセトゥーバルに住んでいる。

 1972年には3か月をパリで過ごしたがオートキャンプ場暮らしだったので、住んだとは言えない。だからと言って今更住んでみたいと言う願望もない。

 2022年最後の夢。『パリで道に迷っている夢』はどう解釈すれば良いのだろうか。

 2023年の初夢は明るい楽しい夢でありますように。宮崎の夢でも良いなと思う。はて、宮崎ならどんな夢になるのだろうか…。

 そして2023年が皆様にとって、私たちにとっても良い年になりますように。

2023年1月1日。武本比登志

 

『ポルトガル発フランスの旅日記もくじ』

オーヴェール・シュル・オワーズ [1992年]

佐伯祐三の足跡を訪ねて [1994年]

ゴッホの足跡をたずねて [1998年]

ゴッホが観た絵 [2000年]

ニース周辺美術館巡り [2002年]

ポンタヴァン旅日記 [2003年]

ナンシー、アールヌーボー紀行 [2004年]

オーヴェル7月最後の20日間 [2004年]

ミレーの生れ故郷・グリュシー村を訪ねて [2005年]

イル・ド・フランス旅日記 [2006年]

ルオー讃歌 -パリ・ランス旅日記- [2008年]

アングルとフォーヴィズム -モントーバン旅日記- [2009年]

ヴァイデンを観るために-パリ、ボーヌ、ディジョン旅日記- [2010年]

 

 

 

 

 

 『11月21日午前9時からガスの点検を行います。』というメールが11月16日に来た。

武本比登志油彩作品F30

 その1か月前の『10月21日19時からマンションの管理組合会合を行います。』というお知らせメールがあり出席した。そのメールと同様の内容が玄関ホールにも張り出されていた。てっきり8軒の全てが出席するものだろうと思って19時ちょうどに玄関ホールに降りて行った。

 1年ほど前から管理組合を任されているガブリエラさんだけが居られ議題となる書類の点検をしておられた。そして挨拶をした。ガブリエラさんはマリアさん宅とマダレナさん宅のベルを押して、出席を促した。マリアさんなどは部屋着のままで顔を覗かせ「ああ、忘れていたわ」などと呑気なことを言いながら出てきた。マダレナさんもすぐに降りてこられた。そしてガブリエラさんは「きょうは3軒だけですよ」と言い、「議題はガスのことでこのマンションでガスを使っているのは3軒だけで他は電気に換えているので関係ありません。」「ガスの定期点検が実施されます。日時はおってお知らせします。」と言う内容であったが、詳しい説明があって30分ほどで終わった。

 そして11月16日の『11月21日午前9時からガスの点検を行います。』というメールである。確か10年ほど前にも一度ガスの定期点検というのがあって、その時はパイプの一部を交換してもらった記憶がある。だから10年に一度くらいの割合でそういった検査があるのだろう。と言う具合に思っていた。

 ポルトガルでは時々『ガス爆発事故』のニュースがある。ニュース映像ではマンションの窓枠が吹き飛びその恐ろしさが想像できる。

 セトゥーバルでもあった。アレンテージョに向かうセトゥーバルの出口辺りの10階建て程の新しいマンションの上階で国道からクルマを走らせながらでもその凄まじさが見られた。

 だから定期的に専門家の検査は有り難いものだ。でもガス器具の周りと湯沸かし器の周りなどくらいは綺麗に掃除をしておかなくてはなどと思っていた。 

 定期検査がある21日月曜日前日の日曜日になってようやく重い腰を上げ掃除に取り掛かった。普段はあまり掃除をしないものだから、と言うよりいい加減な掃除しかしないものだからやり始めるとなかなか大変である。一部が綺麗になるとそれまでは気にならなかったところが目立ってくる。きりがないほど次から次である。そして換気扇の汚れが目立ってしまった。

 換気扇はステンレス製だからすぐに綺麗にはなるがフィルターを取り替えなければならない。納戸を探したが買い置きは切れ端しかない。 

 掃除もひと段落だし気分転換に買い物に出ることにした。でも日曜日である。『アレグレ』などの駐車場はなかなか空いていないかも知れない。『アトランティックシティ』には2軒の家電量販店があるのでそちらに行くことにした。

 その前に『オウシャン』のガソリンスタンドでガソリンを満タンにしておいても良いかなと思った。

 出かけようとしたところクルマの右前タイヤの空気がかなり減っている。これは『オウシャンGS』までもたないかも知れないと思うほどにまで減っていた。直ぐ近くの『レプソールGS』に寄ろうとしたが日曜日で空気入れは使えなくなっていた。仕方がないので『オウシャンGS』まで恐る恐る走った。

 あまり日曜日に出かけることはないのだが何処も人が多い。『オウシャンGS』ではニュースの通りガソリン価格は少し下がっていた。 

 下がっていたと言ってもこのところの高値である。ガソリンが値上がりしてからは何処へも行かれない。近くの買い物にだけクルマを使う。それでも1か月に1度位は満タンにしなければならない。 

 ユーターンして『アトランティックシティ』の駐車場にクルマを停め、家電量販店に行った。どこもクリスマス商戦でイルミネーションなども華々しく賑わっていて、子供連れも多い。

 換気扇売り場にフィルターはなかった。店員に聞いてみても判らなかった。2軒の量販店とも同様で換気扇本体は売られているのだがその交換フィルターまでは置いていない。今時の換気扇はフィルター方式ではないのかもしれない。掃除機もフィルター方式はなくなってどんどん新しい器具が出てきている。 

 仕方なくショッピングモール『アレグレ』に行った。家電売り場で順番札をとり、聞いてみるとそこにはちゃんと売られていた。5,69ユーロである。普段『アレグレ』に行くといつもの『コンチネンテ』や『リドゥル』とは違う物が売られているのでいろいろと見てみるのだが、あまりに人が多かったので家電売り場だけで早々に引き揚げることにした。

 オミクロンもまだまだ予断は許さないし。 

 帰宅して早速換気扇のフィルターを取り替えた。 これでまあまあ、ガス検査の人が来られても大丈夫だろうと思った。

 このマンションでガスを使っているのは3軒だけと言うのには驚いた。他は早々に電磁調理器に切り替えたのだろうか。

 我が家ではカレーの仕込みにガスを使う。米を炊くのにもガスだ。毎晩風呂にも入るがそれもガスだ。コーヒーを点てるのもガスだし、揚げ物なども良くするがやはりガスだ。

 ポルトガルのガスは数年前からはロシアからの天然ガスに切り替えた。と言っていたからこのウクライナ戦争でロシアからは止まっているのだろう。

 先日ヨーロッパ議会はロシアをテロ国家と認定した。

 今カタールではワールドカップサッカーが行われている。カタールでも天然ガスは豊富に採れるそうであるが、ポルトガルまで来るのだろうか?

 そのカタールで人道問題が明るみになっている。サッカー場建設とその周辺整備に40度を超える暑さと過酷な労働で6500人もの人命が失われ、賃金未払も後を絶たないと言う。

 それでも予定通り11月21日にワールドカップサッカーは開幕した。我々も主な試合は欠かさずに観戦している。勿論、選手たちには関係のない話だが、FIFAにしろ、オリンピック委員会にしろ、運営側の経済優先には問題が多い。

 ポルトガルは大航海時代或いはそれ以前のモーロの時代更にローマ時代から風力や波力利用の伝統があり、現代も風力や太陽光、波力の資源化を推し進めている。

 その電力同様、ガスも化石燃料にばかり頼るのではなく、大量に消費する豚や鶏から出る糞尿を利用しメタンガスなどの実用化が進めば良いのにと思う。

 化石燃料は地球温暖化ばかりでなく経済的にも問題が多い。

 そしてサッカーワールドカップカタール大会開幕と同じ21日月曜日のガス検査当日。

 朝食も済ませ、ガス周りのフライパン類や包丁フォルダなどもテーブルに移動させ、万全の状態で9時を待った。

 前日に見た玄関ホールの張り紙には『検査は9:00から13:00』と書いてあった。随分と幅があるが、我が家が一番上階だから多分最初に検査だろう。と思っていた。

 9時に窓から見るとガス会社『ガスカン』のワゴン車が停まっていた。これは直ぐに来るに違いない。と待ち構えていた。階下では話声などが聞こえる。階下のマリアさん宅から始めたのだろうか?それなら最後になるだろうが、3軒だけなのでそれ程時間はかからないだろう、とガスで点てたコーヒーなどを飲みながら待っていた。

 それでもあまりにも遅いので窓の外を見てみると『ガスカン』のクルマは既になかった。我が家の検査はしないで帰ってしまったのだ。或いは何か忘れ物でもして一旦会社に帰ったのだろうか?それなら13:00までには再び来るのだろう。などと考えていた。

 果たして13:00まで待っても我が家に検査は来なかった。次の日にでも来るのなら再びメールか電話でもしてから来るのだろうと思っていたが次の日もその次の日も来る様子はなかった。

 我が家では1年ほど前にガス湯沸かし器を新しいのに買い替えた。その時に検査は行われていて、それで良いと思って今回の検査は無かったのだろうか。などとも考えた。でもそれならそうとー言いってくれれば良かったのに。などとも考えていた。

 その顛末を今月のエッセイにしようと書き始めて、メールを精査してみると、何と今回の検査は「個別検査ではなく全体の検査で9:00から13:00の間にガスの供給が止まることがありますのでご了承ください。」というメールで各戸には立ち寄らないということになっていた。

 何かがないと掃除もろくにしないのにも困ったものだが、早とちりのお陰で台所が少しは綺麗になったかな? VIT

 

 

  

 夜中に目が覚めた。と言っても珍しいことではない。毎晩だ。それも何回も。

 その夜もぐっすり眠ったつもりで手探りにスマホの時計を見ると未だ0時45分。

武本比登志油彩作品F30

 風呂から上がったのが9時45分。それから2本目の映画をベッドに入って観る。終わるのがだいたい23時頃。映画を観ながら半ば眠ってしまったりもする。時々目が覚め途中見逃したことに気が付く。

 映画が終わればパソコンをシャットダウンする。そして電源を切る。テレビも電話も連動しているからそれ以後は繋がらない。朝までぐっすりだ。

 ところがそうはならない。何度も目が覚める。目が覚めると取敢えずおトイレに行く。

 おトイレから直接ベッドに戻るのではなく、アトリエを一周し、暗がりの中で描きかけの油彩を眺めてみる。そして台所なども徘徊する。

 冷蔵庫の扉が開いていないか?ガス湯沸かし器の元火がちゃんと消えているか?などを点検する。尤も1年ほど前にガス湯沸かし器は最新式に買い替えて、元火は自動着火方式になったので、それからはガス湯沸かし器の点検はいらない。

 冷蔵庫の扉がほんの少し開いていて光が漏れている場合は真っ暗な台所なのですぐに判る。光が漏れない程度に開いている時もある。だから冷蔵庫の扉を押してみて確認をする。

 台所が真っ暗と言ってもカーテンは閉めないでいるので、外の明りが台所に入り込む。月の光であったり。街灯であったり。お城のライティングであったり。台所より外の方が明るい。

 0時45分に目が覚めたその夜は冷蔵庫を通り越してその先に真っ赤な明りが目に飛び込んできた。洗濯機だ。洗濯機は台所の窓寄り。台所の窓下に洗濯ロープがあるので、洗濯機の定位置なのだろう。我々が住み始める以前からこの場所にあった。洗濯機は2台目だがよく働く。元からあった洗濯機は2度ほど故障して、それから買い替えた。買い替えたのは2005年。

 パリに住む日本人商社マンの知人が「ヨーロッパの家電(家庭用電気器具)は1年しか保ちませんよ。」と言っていた。それは少々極端だが、確かに日本製に比べて寿命は短いのかもしれない。でも我が家ではそんなことはない。

 洗濯機は買い替えてもう17年も使っていることになる。イタリア製の全自動ドラム式洗濯機だ。全自動と言うだけあって見ていると実に面白い。色んな動きをする。速度を変えて回したり、逆に回ったりは当たり前だが、叩き付けたり、ほぐしたり。そして全自動と言うだけあって、いや、全自動の割には操作が簡単ではない。タイマーもある。温度調節もある。そしてウール洗いなどの素材別洗いなどもある。それに念入り洗い、と手抜き洗い。いや違うな。簡単洗い。我が家はいつも簡単洗いだ。勿論、タイマーなどは使ったことはないし、ウール洗いも使わないし、温度も入れない。水道水のまま常温だ。だからたくさんあるダイヤルやスウィッチなどはいつも同じ。

 洗剤を所定の場所に入れスウィッチを押すだけ。と言っても僕は触ったことがない。どうすれば始動するのかが判らない。MUZの専門得意分野だ。

 絵を描いている合間に、時々は洗濯機が働いているのを眺めていたりする。絵のインスピレーションが沸いたりもするのだ。いや、それは口実でさぼりたいだけだ。

 終われば扉を開けることは僕にも出来る。でもこれも難しい。終わったからと言ってすぐには開けられない。ラーメンではないが、2分程待つのだ。2分ほど経てばコトという小さい音がして小さな赤いランプが点滅に変わる。そうすれば扉は開けられる。そして点滅ランプを押して消す。

 洗濯ロープは手前と向こう側に2本ある。手前はMUZでも干せるが、向こう側は遠くてMUZにはなかなか大変そうだ。だから僕が干す。ポルトガルの洗濯ロープは実に便利に出来ている。日本では何故こういったものが普及しないのか不思議だ。

 その夜中だ。小さいスウィッチのランプではなく。大きなランプが2つ点いていた。真っ暗な中に大きな真っ赤な2つのランプ。これは非常事態かと思った。下手に触れば取り返しがつかない事態にもなりかねない。

 僕は海外に出る前のほんの少しの間、ガソリンスタンドでアルバイトをしていたことがある。そのガソリンスタンドで洗濯機が黒焦げになっていたことがある。店長以下従業員全員が青くなった。

 その前は僕は大学に通いながら音楽プロダクションでアートディレクターをしていた。月刊誌の編集レイアウトが主な仕事だったが、コンサートポスターやチラシのデザインをしたり、レコードジャケットを作ったりもしていた。

 いよいよ海外に出る日程が決まってからプロダクションを止め、昼はガソリンスタンドでアルバイトをし、夜は喫茶店のバーテンダーをして渡航費用を稼いだ。

 海外に出てヨーロッパから中東を経由しインドまでクルマに寝泊まりしながらの冒険旅行を考えていた。

 だからクルマの故障にある程度は強くならなければと最初はJAFの助手として働きたいと申し込みをしたが、JAFでは助手は要らない。と断られた。それでガソリンスタンドと言うことになった。ガソリンスタンドでも故障車がやってくるに違いないと思ったが、僕が居た半年ほどの間に故障車は1件もなかった。ガソリンスタンドではプラグを交換したり、オイルチェンジをしたり、パンク修理は毎日いくつかがあって、僕は率先して皆が嫌がるパンク修理をしたがそれも役にはたたなかった。

 ストックホルムで買ったフォルクスワーゲンマイクロバスはおんぼろすぎて、結局、インドには行かずじまい、東欧とモロッコ、トルコを含めたヨーロッパを5万キロ走破したが故障らしい故障もなかった。

 ある朝、ガソリンスタンドに出勤すると洗濯機がまる焦げになっていた。洗濯機はお客様のクルマを拭いたりする雑巾を纏めて洗うためのもので、洗車機とコンクリート塀の隙間に置いてあったが、洗濯機だけが黒焦げになっていた。ガソリンタンクに引火していたら大惨事だ。古い洗濯機でショートでもしたのか、或いは放火か。それは判らない。謎のままだ。店長は穏便に済ませようと本社にも消防にも、警察にも知らせることはしなかった。1971年の話だ。

 MUZが寝る前に洗濯をしておこうと途中までやりかけて忘れてしまったのかもしれない。と僕は一瞬思った。何しろ真っ赤なランプが無言で2つ点灯して、洗濯機の口は少し開いたままだ。でも今までMUZが寝る前に洗濯などしたことは1度もない。

 ぐっすり寝息をたてていたがMUZを起こすしかない。

 お隣のウクライナ人のご家族はよく夜に洗濯物を干している。でもそれは乾季の夏だ。夜の内に干して水分を切り、朝日に充ててからっとさせる。色褪せはしないし合理的だ。でもいつ降りだすとも知れない今の雨季にはありえない。

 MUZは寝入りばなを起こされたのだろう。時間が掛かってようやく台所にやってきた。

 寝る前に洗濯機は触っていないそうだ。それにその場所のランプは点灯したことがない箇所だ。いつも手抜き洗いなので一番下の1個だけ点く。そして2個の赤いランプの消し方が判らない。

 夜中に取扱説明書を読む余裕はない。第一取扱説明書が何処にあるのかを探すのに朝までかかりそうだ。

 寝ぼけている割にはMUZはいいアイデアを絞り出した。コンセントを抜くのだ。

 裏側にあるコンセントを抜いたらようやく赤いランプは消えた。

 再びコンセントを差し込んだが赤いランプは点かなかった。

 次の朝、あまり洗濯物は溜まっていなかったが洗濯をしてみた。

 通常通りの正常運転だ。

 それから何度かの洗濯も正常通りでイタリア製の洗濯機は何も言わない。

 あの夜中の赤いランプは謎のままだ。

 イタリアからポルトガルの辺境の地セトゥーバル迄はるばるやって来て、訳の分からない日本人夫婦の家庭に入り込み、せっせと働き続けて17年。何か言いたいことでもありそうだ。

VIT

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 いつの間にかショッピングカートにシシトウが入っている。僕がニンジンを選んでいる間にMUZが入れている。MUZはシシトウが目に付けば必ず買う様だ。好きなのか調理が楽だからか?それは判らない。

武本比登志の油彩作品F30

 シシトウと言えば父を思い出す。時々、父とMUZの食べ物の好みが共通しているのを感じることがある。血は繋がってはいないのにも拘わらず。

 僕はほんの小さな子供の頃、よく母に連れられ商店街に買い物に行った。北田辺商店街は今の100倍も賑わっていた。昭和30年頃の話だ。

 先ず駅の手前に『光商店街』と言うのがあった。狭い露地を挟んで20軒ほどの小さなお店が並んでいた。今では駅前マンションに変わっていて光商店街の跡形もない。

 その光商店街の駅通り側の角に豆腐屋があっていつもそこで豆腐を買っていたが、母との買い物の時には買わない。一旦家に帰って、夕方になり父が勤めから帰ってくる前頃に僕が子供自転車を走らせ1丁のキヌコシ豆腐を買うのだ。「おばちゃん、キヌコシ1丁ちょうだい」と言うと、おばちゃんは「はいはい、おおきにありがとね~」などと言いながら薄板の舟に入れてくれる。そして薄揚げを1枚新聞紙に包んでおまけしてくれるのだ。そのおばちゃんは子供好きらしく子供がお使いに来ると薄揚げ1枚のおまけがつく。母はそれを見越して僕にお使いにやらせるのだ。

 父の好みはキヌコシであった。僕は今ではどっしりの田舎豆腐が好みだが、MUZはどちらかと言うとキヌコシ派で、父に似ている。

 光商店街から駅の踏切を渡り、裏通りに入ると北田辺商店街が線路と並行して南北に長く連なっている。今では近鉄は高架になっているが、当時は地上を走っていた。だから踏切を渡る。

 踏切を渡って、南北の道に入らないでもう少し西に行くと公設市場があった。今ではパチンコ屋になっている。いや、僕が高校生の頃には既にパチンコ屋になっていた。

 南北に走る商店街の終わりにも公設市場があって、その公設市場と公設市場の間に個人商店がひしめきあって賑わっていた。200メートル程もあるだろうか。何軒もの八百屋もあれば肉屋、鶏屋、魚屋、乾物屋、味噌屋、荒物屋、惣菜屋、それに回転焼き、たこ焼き、焼き芋屋など何でもが揃っていた。

 南側の公設市場は今では『味道館』と言う名のスーパーになっているが、公設市場の面影を少し残している。南側の公設市場から細い道を渡ったところにも『新道商店街』というのがあったが、そこまで行くことはなかった。その先に中学で同級生になった八木隆雄という番長の自宅があったがその頃はまだ知らなかった。

 八木隆雄のことを少し書こうと思う。喧嘩はめっぽう強かったが、頑丈な体格に運動神経が抜群で運動会ではがぜん張り切り、なにをやらせても1番であった。明るい朗らかな性格でクラスメイトを大切に思い、弱い者いじめは決してしなかった。そして誰からも好かれていた。野球選手にでもなれば清原か江夏くらいになれたかもしれない。と残念に思う。でも八木隆雄は薬物に手を出すような奴でもなかった。

 中学3年の運動会前夜、八木隆雄から誘われた。新道商店街の裏手にあった郵便局の庭に忍び込むのだ。高い塀を乗り越えると大きな柿の木があった。柿が沢山実っていてそれを袋一杯取る。立派な泥棒だ。でも柿は渋柿だ。八木隆雄はそれを知っていて泥棒したのだ。その渋柿を運動会当日、クラスメイトなどに投げてやる。口に含んで渋い顔をするのを見て楽しむと言った子供っぽいところがあった。僕などは何が面白いのだと思ったが、夜に郵便局に忍び込むスリルも楽しかったのだろう。その後の消息は知らない。

 新道商店街に行くその道は今では広い道に付け替えられ、大阪国際女子マラソンのコースにもなっていて、ゴールの長居競技場まであと少し、選手たちにとってはへとへとの頃で、勝負を賭けて1歩飛び出すか、付いて行かれずに置いて行かれるかと言った瀬戸際のところだ。NHK国際放送を観ていた頃にはポルトガルでも何度か観られて懐かしく思っていた。

 その南北に伸びた商店街の中程に比較的大きな八百屋がある。今でもある。買い物客は当時の100分の1になってしまったが、いまでもある。

 そして子供当時の思い出である。

 シシトウが籠に盛られていた。母は「おっちゃん、そのシシトウ辛い?」などと聞く。八百屋の親父さんは「辛ないで~。甘いで~。」と返事をする。「ほな、あかんわ、うちは辛ないとあかんねん。」「え~。それ早よ言いいな~。お姉ちゃんの為に辛いのん、取ったあるで~。」と言いながら台の下から別の籠を取り出し「これ、辛いのんや~」と言う。母は「同んなじに見えるけどな。」と言うと、親父さんはすかさず「お姉ちゃん、外見では判れへんやろ、わしと神さんしか知らんこっちゃ」

 「おっちゃん、さっきからお姉ちゃん、お姉ちゃんて、私、子供連れてるやろ~。お姉ちゃんとちゃうで~。」「ほんまかいな、てっきり弟さんやと思とったわ~。」「賢そうな顔して勉強できるやろ。ぼく。クラスで1番か~。いや、学年で1番やろ。」「あほなこと言わんとって。全然勉強せえへんねん、この子。べったや。」「おかあちゃん、僕べったとちゃうで~。まだ下におるで~。」「べったとおんなじや、いっそのこときれいさっぱりべったの方がかっこええのや。」

 「お兄ちゃんと妹はそこそこ出来るねんけどな。この子はさっぱりや。」「まだ子供さん、居てはりますのんか。お使いには付いて来やはらへんな。」「お兄ちゃんは今頃、ザリガニ取りや。」「妹はバレーにダンスと習い事で忙ししてます。」「え~、将来はタカラジェンヌか?」「いや、なられへん、なられへん。そんなタイプと違うねん。」「この子の妹さんやからそこそこ行けるやろ。」

 「おっちゃん、僕と妹は血繋がってへんねん。僕は阿部野橋で拾われて来た子やねん。そやろ、お母ちゃん。えっ、えっ、えっ、えっ。」「何いうてるねん。こんなとこで泣かんでもええやろ。冗談やがな。汚いな~。鼻垂らして。早よ鼻拭き。そんな、袖で拭いたらあかんがな。おっちゃん、神妙な顔つきになっとるやんか。妹はな~。父親似や。」

 「なんや、冗談かいな。もうちょっとで、もらい泣きするとこや。キューリでも同じ株から真っ直ぐなんと、曲がったんが出来よるけど。曲がったら半額以下や。人間も同じやな。」「家は私と下の女の子以外男はみんな曲がっとるけどな。」「この子は勉強も出来へんし、宿題もせえへんし、泣き虫で、立たされてばっかりや」「学校出たらこの八百屋で丁稚で雇たってくれるか。立つのん慣れとるわ」「そらええな~。この子が店に立ったら、若い女の子わんさか寄ってくるで~。」

 「冗談もそこまで言うとエグイで~。ほな、その辛い方のシシトウとその隣の曲がったキューリひと盛り貰うわ。ぬかづけにするよって。まけとってや。」「まけときまんがな、ヌカヅケ、よろしおまんな~。苦が~いキューリでも苦み抜けまっさかい。」「いや、口が滑ってしもた。曲ってるけど苦ないで。甘いで~。いや、ちごたな。か、か、か、辛いで~。」VIT

適度の辛味と苦味もある不揃いなポルトガルのシシトウ

 

『シシトウ』(Pimentos Padrão Picantes)250g約55本厚紙パック入り=1,99€。

 

『シシトウ』(獅子唐辛子)学名:Capsicum annuum var. grossum。中南米原産。ナス科 Solanaceaeトウガラシ属 Capsicumに属するトウガラシの甘味種。また、その果実。シシトウ、また、甘とうと呼ばれることも多い。 植物学的にはピーマンと同種。ヨーロッパ人のアメリカ大陸発見後、南米からヨーロッパに入り、その後世界に広がった。ビタミンC、カロテン、カリウムなどを多く含む。また、エピネフリンの分泌を増やし脂肪の燃焼を高める働きがある。 (Wikipediaより)

 

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 きょうもホウレン草のカレーだ。

 このところ毎日にようにホウレン草のカレーだがそれは良い。

武本比登志の油彩作品F50

 我が家ではもう随分以前からお昼はカレーと決めている。

 今でも朝食はパン食でお昼はカレー、夕食だけ考えればよい食生活だ。それを何十年も続けている。

 実は未だ学生だった頃。インドで暮らす計画を立てていた。

 インドで暮らすのだから身体をそれに慣らしておく必要があると考え、その頃からお昼はカレーと決めていた。

 2人で必死に渡航費用を貯めた。1ドルが360円の固定レートの時代である。外貨持ち出し制限などもあった。そして渡航費用は現在とは比較にならない程高額であった。

 1971年。新潟港から大荒れの日本海をジェルジンスキー丸という元KGB長官の名前を冠したソ連の小さな船で渡りナホトカ、列車でハバロフスク、モスクワを経由してプロペラ機でストックホルムに入った。ヨーロッパに行く一番安上がりなルートだった。

 40日かけてマルセイユに入る憧れのオランダ郵船はすでに廃船になっていた時代だ。

 ストックホルムからヨーロッパを3か月程かけ南下しながら見て歩き、中東からインドまで行き、『インドで1年程を暮らしてみる』というのが計画であった。

 ソ連がアフガニスタンに侵攻するより以前である。

 僕たちのおんぼろフォルクスワーゲンマイクロバスがイスタンブールに到着した時のことである。イギリス人から一緒にキャラバンを組んでインドまで行こう。と誘われたこともある。でもその時のマイクロバスはヨーロッパの旅行中にも何度もスタートモーターに支障をきたし、あまりにもポンコツ過ぎてインドまでは無理であっただろう。ストックホルムに舞い戻って仕切り直しの必要があった。

 それがストックホルムでの生活は4年余りにも長引き、その後、ニューヨークに1年住み、南米を1年かけて旅し、結局はインドには行かずじまいで一旦は日本に帰国した。

 宮崎で飲食店を引き継ぎ、13年間を過ごした。飲食店はカレー専門店にし、BGMにラビ・シャンカールなどをかけインドへの夢を繋いだ。

 その後、ポルトガルに住みたいと思い、何度か1か月ずつポルトガルの旅をした。1度は福岡空港発の便で便利だと思ってあまり考えずに航空券を買った。先ずは香港経由と言うことまでは知っていたが、迂闊にもムンバイに着くまで南回りだと知らなかったのだ。香港、ムンバイ、ドバイ経由でチューリッヒに到着。それからリスボンに向かった。冬だったので冬の格好で出かけたものだからムンバイでは暑すぎてトランジットの空港でたまらずTシャツを買った。ムンバイ空港内がインドに行った唯一になった。

 そして1990年からポルトガルに暮らして32年が過ぎた。

 お昼はカレーと決めているが、カレーのバリエーションは幾つかあって飽きることはない。

 ベジタブルカレー、シーフードカレー、エッグカレー、米ナスカレー、キノコカレー、カレードリア、カレーオムライス、それにガーリックカレー、ジンジャーカレーなどだ。尤もベーシックのカレーにもたっぷりのガーリックやジンジャーは入れているが、食べる時に更に追加するのだ。

 なかでもガーリックカレーは絶品だ。

 ニューヨークに住んでいる時に日本人の友人が「南米ではコメのことをアロースと言っても通じないよ、アホと言うのだよ。日本人だから長く旅行しているとどうしても米が食べたくなる。米の入ったスープを注文する時にはソッパ・デ・アホだよ」と間違って教えてくれた。僕はメキシコで友人が教えてくれた通り「ソッパ・デ・アホ」と言って注文した。カウンター式の小さな食堂であったが、店じゅうにニンニクを焼く芳ばしい香りが充満し、やがて米入りスープではなくガーリック・スープがカウンターに置かれた。その旨かったことは親父さんの自慢げな顔と共に今でも忘れられない。米は食べられなかったが、それ以上に満足のいく逸品であった。

 そして僕はそれをカレーに応用した。ガーリックをスライスし、たっぷりのバターで香り立つまで炒めそれにカレーを加えるのだ。カレー専門店をした時にはガーリックカレーは一番人気になった。

 カレーを常食していると風邪を引かない。食欲のない時でもカレーなら喉を通る。

 でも最近になって夜にテレビの映画を観ている時、どちらかと言えば観なくても良い様なくだらない映画の時など足がだるく感じることがある。検索してみるとどうやら鉄分不足の様だ。鉄分と言えばホウレン草だ。

 これはカレーにホウレン草を入れるしかない。ホウレン草とカレー。相性はすこぶる良い。ホウレン草カレーはインドでは定番だそうだ。

 近頃は冷凍技術が進みスーパーの冷凍食品の棚に冷凍野菜がいろいろと並んでいて、ホウレン草なども1年中ある。そして使いやすい。1キロ入りの冷凍ホウレン草の袋の中には小さくキューブ状に小分けされたホウレン草がたくさん入っていてそのまま要るだけの量で使えて便利だ。

 僕は子供の頃、ホウレン草も好きな子供であった。母がホウレン草を茹でた時など必ず縁側にすり鉢を持ち出しゴマを切りゴマ醤油を作るのだが僕もよく手伝った。そして僕の大好物であった。

 そういえば小学校の卒業アルバムに家庭科料理実習授業のスナップ写真があり、僕がホウレン草を鍋から引き揚げ纏めている場面が載っている。撮られた時は気付かなかったが出来上がったアルバムを見て母は大笑いしていたのを思い出す。。

 ホウレン草といえばポパイだ。子供の頃にはテレビでポパイをよく観ていた。ポパイは缶詰のホウレン草だ。

 僕はポパイの様に缶詰のホウレン草を食べてみたいと子供ごころに思っていたが恐らく日本には売られていなかったのだと思う。ニューヨークに居た時にも見たことはない。ポルトガルでも見たことはない。冷凍食品が普及し缶詰のホウレン草は需要がなくなっているのかもしれない。

 ポパイと言えば8月11日はロビン・ウイリアムズの命日であったらしく、あるチャンネルでは1日中ロビン・ウイリアムズの映画をやっていた。我が家でもその夜はロビン・ウイリアムズの映画3本を観た。今までも何度も観た映画ばかりだったが、改めて良い俳優だったと思う。その夜には『ポパイ』は観なかったが、『ポパイ』がロビン・ウイリアムズの映画デビュー作らしい。でも『ポパイ』は実写映画よりもやはりアニメの方が僕は良かった様に思う。

 大男ブルートにやられかけたところでポパイは缶詰のホウレン草を口に流し込む。たちまち力がみなぎりブルートをやっつけてしまい、オリーブの祝福を受けめでたしとなる。

 我が家でのサップグリーンのホウレン草カレー。色も味も食感もなかなか気に入っている。そして元気が漲る気がする。VIT

茸ミックスとホウレン草のガーリックカレーライスとコラサォン・キャベツとニンジンのピクルス

 

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 我が家から贅沢にも城が2つ見える。

『パルメラ城』F50

 一つはセトゥーバルのサン・フィリッペ城。ポルトガルがスペインに併合されていた時代(1580-1640)、当時のスペイン王フェリペ2世の命により建てられた。イギリスからの脅威に備えた砦でサド湾を見下ろしている。

我が家のベランダから『夕焼けのサン・フィリッペ城とトロイア半島』F30

 天正時代日本から遣欧少年使節団がリスボンに到着した時1584年には未だサン・フィリッペ城はなかった。或いは丁度工事中だったと思われる。完成は天正遣欧少年使節団が帰国した時と重なり1590年になる。

 サン・フィリッペ城は我が家の南西方向直線距離で1,5キロ、台所の窓からと、居間のベランダから見ることが出来る。スケッチは何枚もしているが、100号と50号など多くの油彩にもなっている。

 そしてもう一つはパルメラ城。我が家の真北にあり、アトリエの窓から直線距離3~4キロだろうか?丘の上に見ることが出来、両方とも夜にはライティングがされていて美しい。

0032. 0042. 0078. 1125.

 パルメラ城はサン・フィリッペ城より遥かに古く、礎石はイスラム時代(711-1139)モーロ人によって建造された。テージョ川とサド川の河口とその間の広大な地域を支配するには戦略的に重要であったのであろう。イスラム教徒とキリスト教徒で激しい戦いが幾度となく繰り返された後、12世紀、レコンキスタ、キリスト教徒の国土回復が達成され、14世紀~18世紀にかけ徐々に整備がすすめられ今の姿となった。

 城の一番高い塔に隣接してサンタ・マリア・ド・カステロ教会などが建てられたが1755年のポルトガル大震災で崩壊したままの形を今に留めている。人類史上最大の被害を出した大震災である。東北地震と同程度のマグニチュード9と言われているが人的被害は最悪であった。リスボンだけで地震による即死者は2万人、洪水でさらわれた人は1万人と言われている。リスボンの洪水は15メーターに達したそうであるが、アルガルベの洪水はそれを遥かに凌ぐ30メーターだと言われている。勿論その間に位置する、セトゥーバル、パルメラの被害は甚大なものであっただろうと想像できる。

1563. 1578. 1713. 1888.

 パルメラ城内に1470年、サンチアゴ修道会本部として建造されたサンチアゴ修道院とサンチアゴ教会は地震には耐えたのであろう。修道院はポウサーダ(国営城ホテル)として現在も使われている。名前の通りサンチアゴの巡礼道にあり、教会入り口にはその目印となるホタテ貝のレリーフが施されている。

 パルメラ市の紋章にもホタテ貝が施されているが紋章で注目をしなければならないのはパルメイラ、ヤシの木である。パルメラ市の名前の由来にもなっているパルメイラが中心に描かれているがそれを手が支えている。でもその意味は判らない。

2039. 2052. 2068. 2089.

 地域のお祭りの時、家の門の両側にまるで日本の門松の様に大きなヤシの葉が左右一本ずつ取り付けられていたりする。宗教的な意味合いがあるのだろうが何か関連がありそうだ。

 以前のスケッチを見てみると役場隣のサン・ペドロ教会の前に3本のヤシの木が植えられていた。カナリーヤシである。でも今はない。側面に枯れた1本の幹が3メーターほどの所で切られ残されていて、ここにヤシの木があったことが判るが、いまは1本もない。今、パルメラの町を歩いてもあまりヤシの木は見当たらない。中心部で3本を見ただけである。それもカナリーヤシではなく、別の種類である。

 実は10年程前になるが、ポルトガル北から南まで植えられていたカナリーヤシの木に害虫でも付いたのだろうか。或いは同時期に寿命を迎えたのだろうか?次から次に枯れてしまったのを目の当たりにした。日本ではフェニックス、不死鳥と呼ばれている大型の丈夫なヤシであるが、それに天敵の害虫が付いたのだろうと思う。他種類のヤシは大丈夫の様だ。

2098. 2442. 2683. 2698.

 ポルトガルに住み始めて1年目、1991年に明治生まれで80歳になったばかりの父がポルトガルの我が家を訪ねてくれた。僕も未だ40歳代の前半であった。その頃は今のマンションではなく下町の古い集合住宅のフラットを間借りしていた。クルマも未だ持ってはいなかったのでどこに行くにも公共交通機関のバスや列車であった。クルマどころか洗濯機も掃除機もなかった。勿論、パソコンもなかった。小さな古い冷蔵庫だけは備えられていて助かったが、冷蔵庫の扉を開けるたびに製氷室の扉もカタっと外れた。テレビもあったが、モノクロテレビで映りはすこぶる悪くて殆ど見なかった。

 父は僕がパリのサロン・ドートンヌに入選した作品を観るためと、ついでにポルトガルでの生活も見てみたかったのだろう。ホテルに泊まるつもりだと言っていたが無理やり同居させ、1か月の滞在であった。でも少し前にバスルームの天井が落ち、大家さんが修繕をしてくれていて、足場が組まれたままで、父は「戦争中を思い出す」などと言っていた。僕たちも住み始めてそれ程は経っていなかったのと、旅行をすれば快適に風呂にも入れると思い、あちこちとスケッチ旅行をした。

2716. 2724. 2736. 2822.

 最初にパルメラにも出掛けた。路線バスである。バスターミナルに着いて早速スケッチを開始した。目の前に良い形のパルメラ城が横たわっている。絶好のスケッチアングルだ。父もスケッチブックを広げているが、ふと見るとあらぬ方向を描いている。「城を描かないのだろうか」と思っていた。後でスケッチブックを見てみるとちゃんと城も描かれていた。僕もスケッチは早い方だが、父のスケッチは僕以上に早く本当にメモ程度なのだ。そういえば戦争中のスケッチも多く、ポストカードサイズの小さいものだが複数のスケッチブックが残されている。今の中国でのスケッチだがよくそんな余裕があったものだと思う。

 父は100歳まで生きた人だ。94歳に病気をした。それまでは毎日絵を描いていた。80歳でポルトガルに1か月来て、日本に帰ってからは主にポルトガルを油彩にしてグループ展などに出品していた様だ。94歳の頃、最後に描いていたのは確かに『パルメラ城』であった。

父と一緒にスケッチし1991年に描いた『パルメラ城』F10の油彩

 父がポルトガルに来た頃にはフェニックスヤシは至る所に植えられていて不死鳥の如く葉を広げていた。

 パルメラ城もサン・フィリッペ城もあまりにも身近にあるので、いつでも描けると思っていたからだろうか?案外と絵にしていない。それがコロナ禍でどこへも行かれない環境が続き「ああ、パルメラ城を描こう」と思い至ったのである。

 セトゥーバルのサン・フィリッペ城は東側にはセトゥーバルの町が広がっているが南側はサド湾、西側にはアラビダ山脈が視界を阻み、描くことが出来るのは東側からと我が家がある北東側のせいぜい100度程だろうか?それも街中に入ると建物に阻まれ城は見えないし、東側にも北側にも丘がありそれを超えるともう城は見えない。

『サン・フィリッペ城とセトゥーバル漁港』F10

 それに対しパルメラ城は小高い丘の上に建っているので360度から描くことが出来る。そして近寄っても、遠ざかっても無限にモチーフを提供してくれる。

 何しろアトリエからも描くことが出来るのだ。そしてスーパーに買い物に行くついでにちょっと寄り道をすればスケッチブックを広げることが出来る。セトゥーバルはスーパーの激戦区なのだろう。食品、商品によって我が家では9軒ものスーパーを使い分けている。その道すがらどこからでもパルメラ城を見ることができる。

 『ポルトガル淡彩スケッチ』も間もなく3000景に達する。その内何枚の『パルメラ城』を絵にしているのだろうと数えてみた。番号の入っている絵は77枚であった。そして未だ番号を入れていない絵が20枚。合計97枚。100景に王手といったところだが、3000景の内たったの100景である。この先、未だまだ描けそうに思う。

2932. 2974. 2981. 2990.

2991. 2992. 2999. 3000.

 

 

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絵の具に関しては節約をしないでたっぷりと使いたい

 コロナ禍以来、そうとうの節約をしている。節約がもう殆ど趣味になりつつある。

 スーパーのチラシなどには必ず目を通す。それぞれのスーパーで何が安くて何が高いかを比較検討する。スーパーでは急いで買い物をしない。じっくりと値段を確かめる。1センチモでも安いものを買う。保存の効くものなどは特売日などに纏め買いをする。スーパーのクーポンなどは最大限に利用する。生鮮食品以外など保存の効くものは10%引きクーポン、15%引きクーポンがある時に纏めて買う。酒肴品、例えば珈琲豆やワインなども少々品質が落ちても一番安い物を買う。慣れればそれでも結構いける。メーカー品は避けスーパーのプライベートブランドがあればそちらを選ぶ。メーカー品と比較しても品質はさほど落ちることもなく、たいてい格安だ。

 そしてグルメなどは禁句だ。

 コロナ禍で出かけられないと言うこともあるが外食は殆どしない。勿論、旅行にも行かない。

 コロナ禍がそろそろ終わるかなと思っていたら、ウクライナ戦争で、蟄居生活がまだ続きそうだ。ウクライナ戦争の影響もあり物価は相当上昇している。ポルトガル政府はインフレスパイラルだけは絶対に避ける。と言っているが、3月は5,3%、4月は7,2%のインフレだったらしい。

 そもそも今までもヒマワリ油は殆どがウクライナからの輸入だったそうで、1,5倍の値上がりでスーパーの棚にヒマワリ油は既にない。それに連れてオリーヴ油も値上がりだ。

 アレンテージョの酪農に使う飼料も殆どがロシアからの輸入だったそうで、当然、食肉の値上がりは必至だ。

 天然ガスもロシアからの輸入なので使えない。電気もガスもガソリンも値上がりで出来るだけ使わない様に努力をしている。

 例えば朝食のトーストを焼くには電気を使う。トーストを止めてサンドイッチにした。サンドイッチにはキュウリとチーズそれにハムを挟む。でも今まで食べていたどっしりパンに比べると食パンは安い。朝食準備は慌ただしいのでサンドイッチは前夜に作ってビニール袋に密閉しておくとパンがしっとりとなじんで旨い。朝食はかえって豪華になった。

 もう随分以前から昼食はカレーと決めている。毎日、カレーを食べていると風邪は引きにくいし、夏バテもしない。元気が出る様に思って続けているが、お昼は何にしようなどと考えないで済む。只、カレーのヴァリエーションは幾つかあるので飽きることはない。

 カレーは10日分ほどを纏めて仕込む。牛のバラ肉か豚の三枚肉などで作ると旨く出来るが、1年ほど前に鶏の砂肝を使うのを思いついた。最寄りのスーパーでは1キロで2ユーロ以下と格安なのだ。フライパンで炒める時に水分が出て少々難儀をするが、最近は巧くいきつつある。鶏肉なら崩れてしまって巧くないが、砂肝は長時間煮ても形が崩れないで食べる時にとろける食感で案外といける。特許ものだ。

 なるべく安価で栄養価の高いものを選ぶ。バナナもリンゴも安くて栄養価が高く欠かしたことがない。それにキャベツやニンジンなども欠かしたことはない。1キロで0,78ユーロと野菜の中ではニンジンが一番安い。時には2キロで0,98ユーロという特売の時もある。そしてベータカロテンやビタミンAなど栄養豊富で、抗発ガン作用や免疫賦活作用で知られている。皮なども出来るだけ工夫して残さず全部を食べる。ミキサーにかけてカレーに入れるのだ。タマネギも欠かしたことがない。血液をサラサラにしてくれるので高血圧や動脈硬化予防にもなる。ニンニクや生姜も欠かしたことがない。いかにも元気が出そうだ。以前には出かける予定がある日などにはニンニクは控えるようにしていた。やはり口臭が気になる。でも今はマスクをしているので気にならない。ニラとイタリアンパセリはベランダで育てている。無料だ。野菜くずも工夫して使う。生塵はできる限り最小限に抑える。

 買い物に行くのにもクルマは使わないで歩いて行かれれば運動にもなり良いのだろうけれど、我が家は丘の上の家で長い坂道はちょっと無理だろう。どうしてもガソリンを使う。でも遠出はしないで近場で済ませる。それにクルマはたまには走らせないとバッテリーが上がってしまう。

 この冬はことのほか寒かったのだが、オイルヒーターを我慢して、あるだけの厚着をし、湯たんぽで通した。さいわい風邪も引かないで良かったと思う。薬も殆ど飲まない。クリニックへも運転免許更新時以外は全く行かない。気が張っているから病気にもならないのだろうか。病気にでもなれば節約など吹っ飛んでしまう。

 その他にも他人には話せない様な節約はいろいろと工夫して、そこまでやるか。と言うところまでしている。

 何故これほどまでにして、節約をしなければならないのだろう。

 コロナ禍以前には毎年1回、2~3か月を日本に帰国していた。2020年の2月29日の帰国便をキャンセルして、2年が過ぎたが、ずっと蟄居生活が続いている。その前の1年を足すともう3年も帰国しないでセトゥーバルの我が家に居る。

 コロナ禍以前に毎年帰国していた折にはその1年間にVISAカードでポルトガルで使う金額程度を日本の銀行の定期預金から普通預金に移してからこちらに戻って来た。それが帰国しないからできないのだ。VISAカード引き落とし口座にはあまり残金は残っていないはずだ。

 コロナ禍以前には、スーパーの買い物も、レストランも、旅行の際のホテル代もガソリンも殆どをVISAカードで支払って日本の預金口座から引き落とされていた。現金は露店市の買い物、メルカドの買い物、カフェくらいだ。

 ポルトガルの銀行にも口座はあるが、電気、ガス、水道などの光熱費はそこから引き落とされる。

 だからコロナ禍以後はVISAカードを使わないで、ポルトガルの銀行に残している光熱費と同じ預金からムルチバンコで全てを使っている。それは節約しているお陰で未だ当分は大丈夫だろうと思うが、蟄居生活がいつまで続くか判らないので、出来るだけ長く使えたらと思って節約を心がけている。

 宮崎の自宅も数年前にリフォームし、そろそろ日本に引き揚げをと考えていた。だからポルトガルに置いてある預金も減らしつつあった。

 そんな矢先のコロナ禍だが、蟄居生活を過ごす内にむしろ蟄居生活の快適さ、何もしない快適さを肌で感じているのかもしれない。マスクをしての外出も案外と快適だ。セトゥーバルでも良いな。もしかしたら日本に引き揚げしないでも良いのでは?などとも思い始めている。

 コロナ禍ではセトゥーバルの人達の親切にも思いもかけず触れることが出来、セトゥーバルで良かったなと何度となく思った。

 宮崎に帰っても自宅からの見晴らしは良くはないし、別に何もすることはないし、と考えてしまう。その点、セトゥーバルの自宅からの眺めは飽きることがない。季節の移ろい、野鳥たちの囀り、人々の動き、それにセトゥーバル港に出入りする貨物船、漁船、観光船やヨット、たまにはカラベラ船やサグレス号もやってくる。きょうも2本マストの大型帆船が入港した。

 4月24日の真夜中、日付が替った0:00に漁港あたりからの豪華な花火が10分間続いた。我が家の寝室のカーテンを開けるだけで真正面の1等席だ。大晦日のカウントダウンの花火は自粛で今年はなかったのだがその分で『革命記念日』に打ち上げたのだろう。

 セトゥーバル港などを歩けば自分自身が住民にも観光客にもなれてしまう。大きすぎず、小さすぎず、ひととおり何でも揃う。労働者の町なので物価も安い。本当にセトゥーバルで良かったな、と今更ながら満足している。

 家にばかり居ても絵を描いたり本を読んだり、パソコンをしたりと1日が瞬く間に過ぎて飽きることがない。そして節約も苦にはならない。いや、節約を楽しんでいる。お金を使わない。

 でもお金は使わないとあの世までは持ってはいけない。自分で稼いだお金は自分で使わないと、とは思っているが、ケチが身についてしまいそうだ。

 だが、ポルトガルに置いている預金には限度がある。出来れば帰国して定期預金を普通預金に移し、VISAカードでたっぷりと使いたい。この生活がいつまで続くのだろうと心細くもある。

 

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 『人物の入った風景画程つまらないものはない』とは司馬遼太郎さんの言葉である。どこかのエッセイで読んだ記憶があるのだが、どこだったかは定かではない。

 実は僕もかねがねそう思っていたし、ポルトガル風景スケッチに人物を入れたことはない。

 でも僕が最も尊敬しているゴッホにも佐伯祐三にも風景画に人物が描かれているものもある。佐伯祐三の風景画の人物は無くても良かったと思うが、ゴッホの風景画の中の人物はそれが物語だ。もはやそれは風景画では括れない絵だと思う。

 それはミレーの絵と同じように農夫の作業の様子だったり、祈りの絵であったりは確かに風景の中に溶け込んではいるが風景画では括れない。

 何故、風景画の中に人物が描かれているとつまらないかを司馬遼太郎さんは書かれている。

 『風景に人物があると物語が出来上がってしまって、もはや風景画ではなくなってしまう。

 風景画は風景画を見ている人が自由に眺めたり、もし道があればそこを歩き回ってみたり、夢の世界に誘ってくれる、見ている人が物語を語ることができる風景画でなくてはならない。』と言った意味を書かれていたように思う。

 人物が入っていたら既に物語が出来上がってしまい、その風景に入り込めないのだ。魅力が半減してしまうというのだ。

 風景画の中の人物はともすれば写真から切り取った様な静止画になってしまう。それは折角の風景の邪魔になってしまうようにも思う。

 風景画といわれるものを最初に描いた画家はヤーコプ・ファン・ロイスダール(1628年頃=1682)だと言われている。17世紀のオランダの画家だ。17世紀はレンブラント(1606-1669)やフェルメール(1632-1675)が活躍した時代でオランダ絵画の黄金時代であった。

 それまでの絵画はイタリア、ルネッサンス期の絵画、例えばダ・ヴィンチ(1452-1519)の『モナリザ』の様に聖人を描くのが絵画であったのだ。でもモナリザの背景には緻密に風景が描かれている。更に遡って15世紀のオランダのロヒール・ファン・デル・ウェイデン(1400-1464)の聖人像の背景にも緻密な風景が描かれている。聖人像と風景は一体となって描かれていたのだ。

 それが17世紀頃からヤーコプ・ファン・ロイスダールなどが風景を独立させて描き始めた。その後の19世紀イギリスの画家ターナー(1775-1851)なども風景画家といえるのかもしれない。コロー(1796-1875)も多くの風景画を描いている。それに続くバルビゾン派などは尚更だ。画家たちは競って戸外で絵を描いた。刻々と変わる光をとらえようとした。そしてそれは印象派へと繋がっている。

 でもバルビゾン派の風景画にはよく人物が描かれている。戸外でダンスに興じている姿や、ピクニックを楽しむ恋人たちだ。それらは風景の中に溶け込むように小さく描かれているものが多いが、もはや風景画ではない様にも思う。物語が出来上がっているのだ。そのスタイルは印象派にも繋がっている様にも思う。

 印象派以降、フォービズムの時代の風景画が僕は好きだ。例えばヴラマンク(1876-1958)。そのスタイルはヴラマンクを通して佐伯祐三(1898-1928)にも受け継がれている。

 僕は絵を描きはじめの頃、天王寺美術館半地下にあった、デッサン研究所に通っていた。通っていたと言っても、行っても行かなくても良い様な場所で、アトリエにイーゼルはたくさん立てかけられていて、描きかけのデッサンも多くあったが、一日を通して描いているのは僕一人だけという日もあった。そこの研究生は天王寺美術館の入場はフリーパスで、デッサンに飽きると美術館内が散歩コースで、たびたび架け替えられる常設展を観て歩くのが楽しみであった。

 そんな中に佐伯祐三の風景画があった。架け替えられ、常に10点ばかりが常設されていた。それ以前から佐伯祐三は僕の最も好きな画家の一人であったので、美術館のフリーパスは有り難かった。

 美術評論家の朝日晃さんの佐伯祐三に関する文章に興味深い一節を見つけた。

 ―『村と丘』の稜線は、『扉』の歩道上の擦り減った部分の表現、墨書の筆致に共通している。実景は何度見てもほぼ水平、佐伯の画の様に稜線が波打ってはいない。モラン河越しのなだらかな丘、佐伯が絵筆を握りしめているあいだ風-で飛んできたものか、一本の折れ釘のような小さな草の枝が中景の屋根に塗りこめられて、稜線の曲線と呼応する。同質の線が、佐伯の足元からゆるい下り勾配になる麦畑の畝、左右に一本、三本と走る。見おろす空間は拡がり、風のリズム—が描出されている。(中略)三十か所ちかいパリと、イル・ド・フランスの佐伯祐三の写生地、に立つとき、私はいつも佐伯の描いた同じ季節を選ぶ。彼の足跡はぬかるみ、氷が張り、重い雲のたれこめた曇り日、みぞれが降り始め、雲が切れても決して陽光は長続きはしない。しかし、靴底から佐伯祐三の視線と体温までがじわじわと伝わってくることだけは確かだ。(『佐伯祐三のパリ』朝日晃より)

 実は僕も佐伯祐三が描いた場所には殆ど立っているし、住んだ場所も確認はしている。僕はサロン・ドートンヌに出品するためパリを訪れ、その合間を利用しての佐伯祐三の足跡を訪ねる旅をしたので、季節もほぼ一致している。『佐伯祐三の足跡を訪ねて

 今では僕は好きな画家は大勢居て、数えきれないがその絵を描きはじめの頃は佐伯祐三とルオーが最も好きであったと思う。そういえばルオーの風景画にも必ず人物が入っている。でもそれももはや風景画とは言えない。ルオーの場合はやはり宗教画なのだろう。

 ルオーと同様フォービズムで好きな画家にスーチン(1893-1943)が居る。教科書などにはスーチンは静物画が良く掲載されているが、南仏セレの美術館でスーチンの風景画40点ほどをまとめて観ることができた。この時の感動は今も忘れられない。スーチンは僕が最も好きな画家の一人だが、スーチンの風景画には必ずと言っていいほど人物が描かれている。これも無かっても良かった人物の様にも思うが、いや、必要だったのだろう。狂気の人物、狂気の風景ではないだろうか。思いっきり歪んでいるのだ。もはや風景画では括ることが出来ない素晴らしい画面だ。スーチン自身の内面が全て画面に叩き込まれていると言った感じだ。

 佐伯祐三とスーチンを同一視は出来ないが、どちらも最も好きな画家である。そして図らずも思いっきり歪んでいるのだ。僕などが歪んだ風景を描いたなら、それはわざとらしくなってしまって、見られたものではない、見るに堪えない。

 同時に風景の中に人物も描かれている。狂気の人物だ。僕などが風景の中に人物を入れたなら、やはり、わざとらしくなってしまって、見られたものではない、見るに堪えない絵になってしまう。

 でも朝日晃さんが書かれている様に、佐伯の絵の如くに『モランの稜線は波打ってはいない。』フランスの風景は殆どまっ平で道も真っ直ぐに延びている。

 でもポルトガルは違う。実に曲線が多い。大地も道もそして建物も。わざとでなくても歪んでいるのだ。性格的にいやという程、几帳面?な僕ですら歪んで描けてしまうのだ。

 風景画にしろ、静物画にしろ、人物画にしろ、勿論、抽象画にしろ、それはモチーフを借りているだけで自己表現に他ならない。それは絵にしろ、彫刻にしろ、音楽にしろ、演劇にしろ、また文章にしろ、全く同じなのだと思う。芸術家だけではない。料理人でも政治家でも同じだと思う。自己表現なのだ。

 印象派の重鎮で誰からも慕われていたカミーユ・ピサロ(1830-1903)に自分の絵を観てもらおうとした画家が謙遜のつもりで言ったのだろう「ほんのアマチュアですから。」それに対しピサロは「絵にアマチュアもプロもない。良い絵があるか、悪い絵があるか、だけだ。」と応えた。

 数年前『『アドルフの画集』(Max)2002年。ハンガリー、カナダ、イギリス合作映画。108分。監督・脚本:メノ・メイエス。主演:ジョン・キューザックノア・テイラー。』という映画を観た。もう一度は観たいと思っているのだがなかなかやらない。『画家を目指していたアドルフ・ヒトラーはなかなか思う様な良い絵が描けない。やがて絵を描くことよりもアジ演説に自身の才能を見いだし、それにのめり込んで行く。民衆の支持を受け、どんどん政治家として頭角を現し、やがて独裁者となってゆく。そして狂気は留まるところがなかった。…』という映画だ。 

 歴史に『もし』はないけれど、もし、アドルフ・ヒトラーがアジ演説に長けてはいなくて、政治には見向きもせず、辛抱して絵を描き続けていたなら、或いはスーチンやムンクのような狂気の画家になれていたのかも知れない。

 ウクライナの民間人集合住宅に毎夜爆撃し、瓦礫と化し、その中に死体の横たわるニュース映像などを見ていると、プーチンは狂っているとしか思えない。

 

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