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TKCコイン

古代ローマ・地中海世界のコインを中心に、個人コレクションの記録と公開を行っています。
本ブログでは、日本ではまだ馴染みの薄い古代ローマのデナリウスを含め、小さな銀貨に刻まれた歴史や思想の背景を紹介しています。

カリグラは、突然狂った皇帝ではない。
彼は、狂わざるを得ない人生を生き延びた男だった。
彼の本名はガイウス。
父はローマ史上屈指の人気を誇った将軍、ゲルマニクス。
兵士に愛され、民衆に慕われ、「次のローマを託すにふさわしい男」とまで言われた存在だ。
幼いガイウスは父の軍営で育ち、小さな軍靴(caliga)を履かされて可愛がられた。
それが「カリグラ」という愛称の始まりだった。
この時代、彼はローマで最も幸福な子供の一人だった。
だが、その幸福はあまりにも短い。
ゲルマニクスは急死する。
毒殺説が流れ、真相は闇に消えた。
そして事態は、静かに、しかし確実に悪化していく。
ティベリウス帝の治世下で、カリグラの兄弟たちは次々に告発され、追放され、処刑されていった。
・母アグリッピナは流刑
・兄ネロ、兄ドルススは獄死
・親族は「危険な血統」として排除される
少年ガイウスは学ぶ。
感情を見せる者は死ぬ。
正しさを語る者は消される。
生き残るには、沈黙し、笑い、従うしかない。
彼はティベリウスの宮廷で生き延びた。
それ自体が、異常な才能だった。
そして紀元37年。
ティベリウスが死に、カリグラは皇帝となる。25歳。
即位直後、ローマは歓喜した。
それも当然だ。
恐怖政治は終わり、若く、血統正しく、民衆に愛された皇帝が誕生したのだから。
実際、最初の数か月、彼は理想的だった。
恩赦、減税、祭典、処刑の停止。
人々は確信した。
「この皇帝は違う」と。
だが、彼は病に倒れる。
高熱にうなされ、生死の境を彷徨った後、彼は変わった。
いや、変わったのではない。
抑えていたものが、噴き出したのだ。
疑念、怒り、恐怖、そして試す衝動。
「自分はどこまで許されるのか?」
「人は、自分をどこまで恐れるのか?」
彼は、皇帝という存在の“限界”を試し始める。
神殿に入り、自分を神として扱わせる。
元老院を嘲弄し、形式を破壊する。
逸話は誇張されているだろう。
だが重要なのは、それが信じられたことだ。
人々は思った。
「皇帝なら、やりかねない」
これは狂気ではない。
信頼は完全に崩壊していた。
そして終わりは突然だった。
紀元41年、近衛兵によるカリグラ暗殺。
死後、彼に与えられたのは記録抹消刑(damnatio memoriae)だった。
名は削られ、像は壊され、彼の記録は消された。
そして、ここでコインの話になる。
カリグラのデナリウスは、極端に少ない。
これは偶然ではない。
在位が短いことに加え、記録抹消刑によって肖像貨は回収・溶解された可能性が高い。
つまり、彼の顔そのものが消されようとしたのだ。
ローマは彼を忘れようとした。
だが、忘れきれなかった。
なぜならカリグラは、「皇帝とは、善人でなければ危険すぎる存在だ」という事実を、初めて突きつけたからだ。
彼は失敗作ではない。
制度の危険性を暴露した存在だった。
だからこそ、次に選ばれる皇帝はまったく違う人物になる。
■TKC026 RIC I² Caligula 38(売却済)
アス / 銅貨(AE As)
発行者:ガイウス・ユリウス・カエサル・ゲルマニクス(Gaius Julius Caesar Germanicus, Caligula)
鋳造地:ローマ(Rome)
発行年:AD 37–38
重量:10.35 g
サイズ:27 mm
ダイ軸(Die Axis):6h
状態:F
表銘文:C CAESAR AVG GERMANICVS PON M TR POT
「ガイウス・カエサル、アウグストゥス、ゲルマニクスの子、最高神祇官、護民官権を持つ者」
図像(表)
月桂冠を戴いたカリグラの左向き胸像。軍装姿またはトガ姿(年次によって差異あり)。
→ 「GERMANICVS」は、彼の父ゲルマニクスへの敬意を示し、父の名誉を継承する象徴。
若くして皇帝となったカリグラは、祖父アウグストゥス、曾祖父アグリッパ、父ゲルマニクスの正統な血統を強調することで、自らの地位を神聖視された家系の延長に位置づけようとした。
裏銘文:VESTA / S C
「ウェスタ神に捧ぐ/元老院決議により発行」
図像(裏)
ウェスタ女神が玉座に座り、右手に供物皿(パテラ)、左手に槍またはコルヌコピアを持つ。
→ ウェスタはローマ国家と家庭の守護神であり、彼女の穏やかな姿は「秩序と伝統の維持」を象徴する。
しかし実際のカリグラ治世は専制的で、神聖な秩序を乱す行為が多かったことから、この図像は理想と現実の対比を浮かび上がらせる。



カリグラは短く、激しく燃え、消された。
だが彼の残した影は、帝政ローマ全体に、長く伸びていく。
そして、彼のコインがほとんど存在しないという事実そのものが、彼の人生を最も雄弁に物語っている。