TKC COIN COLLECTION

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古代ローマ・地中海世界のコインを中心に、個人コレクションの記録と公開を行っています。
本ブログでは、日本ではまだ馴染みの薄い古代ローマのデナリウスを含め、小さな銀貨に刻まれた歴史や思想の背景を紹介しています。

コンスタンティヌス2世は316年、コンスタンティヌス大帝とファウスタの間に生まれた。

翌317年、まだ1歳ほどだった彼は副帝カエサルに任命される。
もちろん、この年齢で政治や軍事を行えるはずはない。
その称号が示していたのは、父コンスタンティヌスが自らの血統によって帝国を受け継がせようとしていたことである。
コンスタンティヌス2世は幼い頃から、父の名だけでなく、その帝国を受け継ぐ皇子として育てられた。
337年、コンスタンティヌス大帝が死去する。
その直後、皇族の男性たちの多くが粛清され、父が後継者候補としていた甥ダルマティウスらも命を落とした。
誰がどこまでこの粛清を主導したのか、真相は分かっていない。
しかし結果として、大帝の帝国を受け継いだのは三人の息子だった。
コンスタンティヌス2世。
コンスタンティウス2世。
そしてコンスタンス。
三兄弟はそろって正帝アウグストゥスとなった。
長男コンスタンティヌス2世はガリア、ブリタンニア、ヒスパニアなど西方を支配し、コンスタンティウス2世は東方、末弟コンスタンスはイタリア、アフリカなどを統治した。
一人の大帝によって統一されていたローマ帝国は、再び複数の皇帝によって統治されることになったのである。
しかしコンスタンティヌス2世は、自分を単なる三人の皇帝の一人とは考えていなかったのかもしれない。
彼は長男であり、三兄弟の中で最も早くカエサルとなり、何より父コンスタンティヌスの名をそのまま受け継いでいた。
実際、彼の行動には兄弟の中で自らが上位にあると考えていたようにも見える部分がある。
その一つが、キリスト教をめぐる問題だった。
父コンスタンティヌス大帝は325年、ニカイア公会議を招集し、アリウスの教説を退けた。
しかし、それで論争が終わったわけではなかった。
晩年の大帝は教会の統一を重視する中でアリウスとの和解を模索するようになり、反対にアリウスと激しく対立していたアレクサンドリア司教アタナシウスを335年にガリアのトリーアへ追放していた。
ところが父が死ぬと、コンスタンティヌス2世はアタナシウスのアレクサンドリア帰還を認める。
彼自身がアレクサンドリアの人々へ送った書簡では、父も本来はアタナシウスを復帰させるつもりであり、その意思を自分が受け継いだのだと説明している。
つまり彼にとってこれは父への反逆ではなく、むしろ自分こそが父の本来の意思を実行する行為だった。
興味深いのは、アレクサンドリアが彼自身の西方領ではなく、弟コンスタンティウス2世の支配する東方にあったことである。
それでもコンスタンティヌス2世は、この重要な教会問題に自ら介入した。
ここにも、彼が自分を単なる西方の皇帝ではなく、大帝の意思を継承する長兄として考えていた可能性を見ることができる。
彼の短い統治は宗教問題だけではなかった。
父から受け継いだガリアやブリタンニアの防衛を担い、ライン方面の国境を維持することも彼の重要な仕事だった。
つまりコンスタンティヌス2世は、父の名前だけで皇帝になった若者ではない。
わずかな治世ではあったが、西方の軍事と行政を実際に担う皇帝として活動していたのである。
しかし最大の問題は、弟コンスタンスとの関係だった。
コンスタンスは三兄弟の中で最も若かった。
当初、コンスタンティヌス2世が若い弟に対して一定の優越的な立場を持っていたとも考えられている。
だがコンスタンスもまた正帝アウグストゥスである。
成長するにつれて自らの意思で統治するようになれば、いつまでも兄の指図を受け入れる理由はなかった。
二人の間では領土や権限をめぐる対立が深まっていった。
コンスタンティヌス2世は、自分こそ長兄としてより大きな権限を持つべきだと考えていたのかもしれない。
一方のコンスタンスにしてみれば、自分も父から正当に帝国を受け継いだアウグストゥスである。
兄弟であっても、そこに明確な上下関係はなかった。
父コンスタンティヌスは三人の息子に帝国を残した。
しかし、誰がその頂点に立つのかまでは明確に残していなかったのである。
そして340年、その対立はついに戦争へと発展する。
コンスタンティヌス2世は軍を率いて弟の支配するイタリアへ進軍した。
ただし、彼が最初からコンスタンスを殺し、その帝国すべてを奪おうとしていたのかは分からない。
さらに東方のコンスタンティウス2世まで倒し、父のような単独皇帝になるつもりだったという証拠もない。
残された史料には、コンスタンティヌス2世を野心に駆られた侵略者として描くものがある一方、コンスタンス側をより攻撃的に描く異なる伝承も残されている。
確かなのは、兄弟の間にあった権限と領土をめぐる問題を、もはや話し合いでは解決できなくなったということである。
父の死から、まだ三年しか経っていなかった。
コンスタンティヌス2世は軍を率いてアルプスを越え、北イタリアへ入った。
この時、コンスタンス本人はイタリアにはいなかった。
しかし弟の軍はすでに動いていた。
コンスタンティヌス2世はアクイレイア方面へ進んでいく。
そこで待っていたのは、正面からの決戦ではなかった。
コンスタンス側の部隊は彼の進路を読み、その通り道に兵を潜ませていた。
コンスタンティヌス2世は、その待ち伏せにかかった。
戦闘が始まる。
不意を突かれた軍は混乱し、若き皇帝自身も戦いの中へ巻き込まれた。
そしてコンスタンティヌス2世は、アクイレイア近郊で命を落とした。
まだ23歳か24歳ほどだった。
父の死後、皇帝として帝国を統治できたのは、わずか三年ほどだった。
偉大な父の名前を受け継ぎ、幼い頃から皇帝となることを約束されていた男の生涯は、弟の領域へ向かう進軍の途中で突然終わったのである。
彼の死後、西方の領土はコンスタンスの支配下へ入った。
三兄弟による共同統治は、わずか三年で崩れた。

■TKC087 RIC VII 200

ヌムムス / ビロン貨(青銅貨)
皇帝:コンスタンティヌス2世(Caesar, AD 317–337)
発行年:AD 336–337年、ニコメディア造幣所
重量:1.77 g
サイズ:16 mm
ダイ軸(Die Axis):12h
状態:aMS
表銘文
CONSTANTINVS IVN NOB C「コンスタンティヌス・ユニオル(子)、ノビリッシムス・カエサル」
図像(表)
月桂冠を戴き、胸甲を着けたコンスタンティヌス2世の胸像、右向き。→ 皇帝コンスタンティヌス大帝の子としての正統な後継者を示す。
裏銘文
GLORIA EXERCITVS「軍隊の栄光」
図像(裏)
二人の兵士が互いに向き合って立ち、それぞれ槍を持ち盾に寄りかかる。中央に軍旗(ラバルム)。エクスルグに「SMNS」。→ 帝国を支える軍団の力と忠誠を象徴。統一と軍事的安定を訴えるプロパガンダ的意匠。



大帝の名をそのまま受け継いだコンスタンティヌス2世。
その名にふさわしい立場を求めたのか、彼は弟の領域へ軍を進め、若くして命を落とした。
そして帝国には、コンスタンスとコンスタンティウス2世という二人の兄弟が残されたのである。