少し前に、スペルト小麦のシュトレンを作っているパン屋さんを発見して早速手に入れました。
粉砂糖がまぶしてあるドイツのシュトレンとは違う、修道院でならこういうシュトレンを作るのではいかというような、素朴で甘さ控えめのシュトレンでした。
少し前に、スペルト小麦のシュトレンを作っているパン屋さんを発見して早速手に入れました。
粉砂糖がまぶしてあるドイツのシュトレンとは違う、修道院でならこういうシュトレンを作るのではいかというような、素朴で甘さ控えめのシュトレンでした。
ヒルデガルトの巡礼路の第3区間、キルンからザンクト・ヨハニスベルク/スカイウォーク、ブルンケンシュタイン遺跡、ダウン城、シンマータール、ヴァイラー、モンジンゲンまでの18.2㎞には、ヒルデガルトの書簡について述べられている案内板が、シンマータールに設置されています。
16世紀より以前に歴史上に名を遺した女性の中で、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンほど膨大な書簡が残されている女性は他にいないそうです。
「この著名な女子修道院長は、30年以上にわたる彼女の書簡を後世に残すために自ら編集を行ったようだ。なぜなら、当時、手紙は最も重要な通信媒体であり、著名人の手紙は説教のように公の場で読み上げられたからである。」
ヒルデガルトの手紙は390通余りが現存しており、それらの手紙から、ヒルデガルトが教皇、司教、修道院長、高位聖職者、司祭、修道士や修道女だけでなく、平信徒、特に女性の平信徒など、あらゆる社会階級の人々と手紙のやりとりをしていたことがわかっているそうです。
ヒルデガルトは、スキウィアスの執筆について助言を求めるために初めて送ったクレルヴォーのベルナールへの手紙の冒頭では、自らを「取るに足らない小女」と呼んでいたのに対し、後年に人々に書き送った手紙では、いつも「生ける光」の名においてと力強く語っていたそうです。
「だからヒルデガルトは、当時の教会や社会の状況を鋭く非難することができた。ルペルツベルク修道院に保護憲章を与えた皇帝フレデリック・バルバロッサを、彼女はあえて「盲目」と非難することもあった。このことは、彼女自身だけでなく、同時代の人々も、神が彼女を通して語っていると信じていたことを示している。人々は彼女の言葉、つまり神のラッパの言葉を聞きたかったのだ。」
「葡萄の木には燃えるような熱と湿がある。その熱は、葡萄の樹液を他の木やハーブにはない味に変えるほど強い。」 ヒルデガルト・フォン・ビンゲン『フィジカ』III.54
「ヒルデガルトの巡礼路」の本には、ライン川やモーゼル川の河岸、そしてプファルツ地方では、ローマ時代から葡萄が栽培されていたけれど、ローマ帝国の崩壊後ワイン文化は失われてしまった。ワイン文化が復活するのは、ワイン法(Captulare de villis)を制定したカール大帝の下のフランク族の時代になってからであると書かれています。ワイン文化復活後のブドウ畑は、貴族、教会、修道院が所有し、12世紀のヒルデガルトの時代には、ブドウ栽培が広く行われるようになっていたそうです。
ヒルデガルトの修道院でも葡萄の栽培が行われており、それら葡萄からワインを醸造していたのではないでしょうか。
映画「ヴィジョン」で、しばしばヒルデガルトが体の不調を訴えて、仕えの修道女にワインを持って来るよう求めるシーンがしばしば見られました。彼女にとってワインは非常に馴染みのある重要なレメディだったことがうかがえます。
ヒルデガルトは病気治療でのワインやワインのエリキシルなどの昔からの使用法について調べ、新たな使用法などについて研究していたそうです。
「ヒルデガルトはワインは病気を引き起こすことのない飲み物であり、食物を保存するのにも優れ、特に薬草から植物のエキスを抽出するための溶媒として最適であることを知っていた。」
ワインが飲みたくなってしまいました。